私は数年前から自分のホームページに「かもめの絵日記」と題するサイトを作って毎日せっせとデジカメ写真を掲載して鼻高々だった。一昨年の某掲示板が主宰したオフ会の時にも自慢のデジカメを持参したのである。実際にみなさんが楽しく宴に酔っているところやカラオケで熱唱している様子を何枚か撮ったような気もする。
ところが、私の写真にいちゃもんがついたことがある。そのオフ会でのことだった。確かカラオケ屋から出てきたところだったと思う。参加者の一人から、俺のことは写真に撮るなと言われたのである。撮ったなら削除しろと要求された。全員で駅に向かって歩いている路上でのことだった。そこで立ち止まり、その場で、その日撮影したデータをすべて見せてやった。見てみたところ彼が写っている写真は一枚もなかった。あったとするなら彼の要求とおりカメラから削除してやるつもりだった。こうした時にデジカメは便利である。その場で撮影した写真をカメラの裏側にある小さな液晶モニタで再現することができる。それを一緒に確認してみたのだが結局彼が写っているものは一枚もなかったのである。彼もすぐ納得してくれた。私はもし彼の半身でも写っているものがあれば、彼の要望通りに、ただちに削除するつもりだった。このときの私と彼の話は至極穏便にすすんだことを感謝している。オフ会での話はそれだけである。
私はよく街中で人を写真に取る。手当たり次第に撮る。先日もある人から、私の写真について感想をいただいたが、その中で、カメラを向けたときに文句を言われたりしませんかという文言があった。私は一応、その質問に答えたが、我ながらしっくりしない部分が残った。いまでも残っている。その時の回答もいわゆるダブスタだったと思うばかりである。文句が出るということは、冒頭で話したタロー君が言ってきたようなことだろう。また、連想として浮かんできたことだが、よく映画などでやたらにレンズを向けるカメラマンに怒り、カメラを取り上げ中のフィルムを抜き取るという、かなり乱暴な行為の及ぶことがある。よく見る場面だから一種定番化されているのだろう。周知のようにデジカメの場合はフィルムというものはなくカード型の記録メディアが納まっており、撮影した写真データは、そのカードに書き込まれている。だから、フィルム抜き取り事件と同じことが起こったとするなら、カードが抜き取られ、それを投げ捨てられるということだろう。この場合、コストはフィルムどころではない。
フィルムはせいぜい数十枚撮りだが、デジカメのカードはものにもよるが数百枚の写真データが記憶されている。フィルムのように使い捨てではなく、常に、このカードを使っているのである。撮影したデータはコンピュータに転送される。カードのほうのデータは消去され。次の日は、また白紙の状態から使えるわけだ。おっと話がメカニックになってきては、われながら困ってしまう。話したいのは肖像権という問題だった。街中でよく人物なども写真に撮るという話から始まったはずである。撮られた人から、文句がでないのかという質問に一応答えたのはよいが、実は私にもよく分からない部分が多いということである。ほんのまれに文句が出るときもあれば、多くの場合は文句が出ないように撮っているということでもある。また、これまたほんのたまに撮らせてくださいと断ってから、レンズを向ける場合も、あるにはある。きちんと断ってから堂々とレンズを向けるときは、なにか幸せな感じさえするものだ。だが、あらかじめ断ることは滅多にない。スナップ写真に徹する以上、そうした機会は滅多にないし、必要もないとすら思っている。だが本当はスナップであろうとなかろうと、人物も正面から顔の表情なりを撮りたいと痛切に思うこともある。なかなかそれができない。野良猫と人間は違う。人間の場合ネコと同じように遠慮会釈なく、ごくごく接近したところから顔の正面からレンズを向けるという行為は、あまりにも特権的で、ずうずうしく思われ腰が引けてしまう。ついつい遠慮してしまう。そのさいは、やはり断ってからだと思うからである。だから人物の写真といっても私の場合は後姿ばかりだ。人のお尻ばかりをカメラで追いかけているようなやましさもないとは言えない。
もう一つ問題がある。後姿なら許されるのかという問題だ。ここにもまた二つのカテゴリーがある。写真を撮るということと、その写真を公開するという二つのことである。撮るのはよいが公開はしないでくれ、という人もいるかもしれない。細かく考えればという話だが。こうしたことを深慮しているばかりでは、少なくても人物の写真はいっさい撮れなくなると思っている。だから、あまり考えないようにしている。撮るにしても、それを公開するにしても、そのときに文句がでたら対処すればよいと心得ている。人物といっても何を主眼において撮るのかということも大事だ。私は被写体に悪意だけは、持たないように心がけている。相手が嫌がるような写真は撮らないということだ。できるだけ、被写体にも喜んでいただけるように想定しながら撮るのである。また公開するのである。明らかに被写体が見たら、やめてくれと言いそうな写真は、かたっぱしから削除する。だが、この作業はあくまでも主観の範囲である。液晶モニタのことは前述したが、撮影が終わるたびに確認し、つまらない写真はその場でどんどん記録メディアから削除しておくのである。また自宅のコンピュータに転送するさいにも、いらない写真はどんどん消去する。そうしたものの中から、さらに誰からも文句の出る恐れのなさそうな一枚を選んでHPに公開している。
ただ人の心は、わからないものだ。いろんな人がいて、いろんなことを考えている。オフ会のときの彼のように用心深い人もいる。姿や顔は、確かに個人情報とも言えなくはない。職業や立場に応じてそれぞれ事情があるのである。私との関係ということもある。写されたのが私でなければ黙認されるという場合もあるだろう。私が見ず知らずの通行人をたまたま撮った場合など、またそうした画像を公表したとしても、好意の上で撮ったと了解できるものなら、そうは問題にならないはずである。だがあらかじめ自分の写真は撮らないでほしいと言われれば私はカメラを向けることもないし、また撮ることはかまわないが、撮ったものを無闇に公表しないでくれと言われれば公開しないし、公開した後に差し止め要求でもあれば、さっそくその写真は消去する。それで許してもらうほかもないだろうと思っている。
考えてみれば文章も上記写真にまつわる肖像権に似たような問題があるような気がする。自分のことは書いてくれるなと誰かから文句が出た場合は、写真と同じような対応にせまられるだろう。だからといって別に卑屈になる必要は毛頭ないはずだ。その場その場で誠実に対応すればよいと思う。堂々と書き進め、堂々と写真を撮ってみればよいのである。駄目だといわれても、一文のことであり、一枚の写真のことである。人から文句が出るのは、いわば常態のことだと思えば、それはそれで誠実に個別対応していけばよいのだと思うのである。卑屈さを出すときりがない。今後、いっさい写真は撮るなとか、書くななどという要求を安易に呑んでしまっては、自分で自分の首を絞めることになる。よく考えてみれば、人が言ってくる文句の性質も、多くは、そういうことではないはずだと信じている。
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ところが、私の写真にいちゃもんがついたことがある。そのオフ会でのことだった。確かカラオケ屋から出てきたところだったと思う。参加者の一人から、俺のことは写真に撮るなと言われたのである。撮ったなら削除しろと要求された。全員で駅に向かって歩いている路上でのことだった。そこで立ち止まり、その場で、その日撮影したデータをすべて見せてやった。見てみたところ彼が写っている写真は一枚もなかった。あったとするなら彼の要求とおりカメラから削除してやるつもりだった。こうした時にデジカメは便利である。その場で撮影した写真をカメラの裏側にある小さな液晶モニタで再現することができる。それを一緒に確認してみたのだが結局彼が写っているものは一枚もなかったのである。彼もすぐ納得してくれた。私はもし彼の半身でも写っているものがあれば、彼の要望通りに、ただちに削除するつもりだった。このときの私と彼の話は至極穏便にすすんだことを感謝している。オフ会での話はそれだけである。
私はよく街中で人を写真に取る。手当たり次第に撮る。先日もある人から、私の写真について感想をいただいたが、その中で、カメラを向けたときに文句を言われたりしませんかという文言があった。私は一応、その質問に答えたが、我ながらしっくりしない部分が残った。いまでも残っている。その時の回答もいわゆるダブスタだったと思うばかりである。文句が出るということは、冒頭で話したタロー君が言ってきたようなことだろう。また、連想として浮かんできたことだが、よく映画などでやたらにレンズを向けるカメラマンに怒り、カメラを取り上げ中のフィルムを抜き取るという、かなり乱暴な行為の及ぶことがある。よく見る場面だから一種定番化されているのだろう。周知のようにデジカメの場合はフィルムというものはなくカード型の記録メディアが納まっており、撮影した写真データは、そのカードに書き込まれている。だから、フィルム抜き取り事件と同じことが起こったとするなら、カードが抜き取られ、それを投げ捨てられるということだろう。この場合、コストはフィルムどころではない。
フィルムはせいぜい数十枚撮りだが、デジカメのカードはものにもよるが数百枚の写真データが記憶されている。フィルムのように使い捨てではなく、常に、このカードを使っているのである。撮影したデータはコンピュータに転送される。カードのほうのデータは消去され。次の日は、また白紙の状態から使えるわけだ。おっと話がメカニックになってきては、われながら困ってしまう。話したいのは肖像権という問題だった。街中でよく人物なども写真に撮るという話から始まったはずである。撮られた人から、文句がでないのかという質問に一応答えたのはよいが、実は私にもよく分からない部分が多いということである。ほんのまれに文句が出るときもあれば、多くの場合は文句が出ないように撮っているということでもある。また、これまたほんのたまに撮らせてくださいと断ってから、レンズを向ける場合も、あるにはある。きちんと断ってから堂々とレンズを向けるときは、なにか幸せな感じさえするものだ。だが、あらかじめ断ることは滅多にない。スナップ写真に徹する以上、そうした機会は滅多にないし、必要もないとすら思っている。だが本当はスナップであろうとなかろうと、人物も正面から顔の表情なりを撮りたいと痛切に思うこともある。なかなかそれができない。野良猫と人間は違う。人間の場合ネコと同じように遠慮会釈なく、ごくごく接近したところから顔の正面からレンズを向けるという行為は、あまりにも特権的で、ずうずうしく思われ腰が引けてしまう。ついつい遠慮してしまう。そのさいは、やはり断ってからだと思うからである。だから人物の写真といっても私の場合は後姿ばかりだ。人のお尻ばかりをカメラで追いかけているようなやましさもないとは言えない。
もう一つ問題がある。後姿なら許されるのかという問題だ。ここにもまた二つのカテゴリーがある。写真を撮るということと、その写真を公開するという二つのことである。撮るのはよいが公開はしないでくれ、という人もいるかもしれない。細かく考えればという話だが。こうしたことを深慮しているばかりでは、少なくても人物の写真はいっさい撮れなくなると思っている。だから、あまり考えないようにしている。撮るにしても、それを公開するにしても、そのときに文句がでたら対処すればよいと心得ている。人物といっても何を主眼において撮るのかということも大事だ。私は被写体に悪意だけは、持たないように心がけている。相手が嫌がるような写真は撮らないということだ。できるだけ、被写体にも喜んでいただけるように想定しながら撮るのである。また公開するのである。明らかに被写体が見たら、やめてくれと言いそうな写真は、かたっぱしから削除する。だが、この作業はあくまでも主観の範囲である。液晶モニタのことは前述したが、撮影が終わるたびに確認し、つまらない写真はその場でどんどん記録メディアから削除しておくのである。また自宅のコンピュータに転送するさいにも、いらない写真はどんどん消去する。そうしたものの中から、さらに誰からも文句の出る恐れのなさそうな一枚を選んでHPに公開している。
ただ人の心は、わからないものだ。いろんな人がいて、いろんなことを考えている。オフ会のときの彼のように用心深い人もいる。姿や顔は、確かに個人情報とも言えなくはない。職業や立場に応じてそれぞれ事情があるのである。私との関係ということもある。写されたのが私でなければ黙認されるという場合もあるだろう。私が見ず知らずの通行人をたまたま撮った場合など、またそうした画像を公表したとしても、好意の上で撮ったと了解できるものなら、そうは問題にならないはずである。だがあらかじめ自分の写真は撮らないでほしいと言われれば私はカメラを向けることもないし、また撮ることはかまわないが、撮ったものを無闇に公表しないでくれと言われれば公開しないし、公開した後に差し止め要求でもあれば、さっそくその写真は消去する。それで許してもらうほかもないだろうと思っている。
考えてみれば文章も上記写真にまつわる肖像権に似たような問題があるような気がする。自分のことは書いてくれるなと誰かから文句が出た場合は、写真と同じような対応にせまられるだろう。だからといって別に卑屈になる必要は毛頭ないはずだ。その場その場で誠実に対応すればよいと思う。堂々と書き進め、堂々と写真を撮ってみればよいのである。駄目だといわれても、一文のことであり、一枚の写真のことである。人から文句が出るのは、いわば常態のことだと思えば、それはそれで誠実に個別対応していけばよいのだと思うのである。卑屈さを出すときりがない。今後、いっさい写真は撮るなとか、書くななどという要求を安易に呑んでしまっては、自分で自分の首を絞めることになる。よく考えてみれば、人が言ってくる文句の性質も、多くは、そういうことではないはずだと信じている。
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