赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼デジカメと肖像権の話

2006年05月22日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
私は数年前から自分のホームページに「かもめの絵日記」と題するサイトを作って毎日せっせとデジカメ写真を掲載して鼻高々だった。一昨年の某掲示板が主宰したオフ会の時にも自慢のデジカメを持参したのである。実際にみなさんが楽しく宴に酔っているところやカラオケで熱唱している様子を何枚か撮ったような気もする。

ところが、私の写真にいちゃもんがついたことがある。そのオフ会でのことだった。確かカラオケ屋から出てきたところだったと思う。参加者の一人から、俺のことは写真に撮るなと言われたのである。撮ったなら削除しろと要求された。全員で駅に向かって歩いている路上でのことだった。そこで立ち止まり、その場で、その日撮影したデータをすべて見せてやった。見てみたところ彼が写っている写真は一枚もなかった。あったとするなら彼の要求とおりカメラから削除してやるつもりだった。こうした時にデジカメは便利である。その場で撮影した写真をカメラの裏側にある小さな液晶モニタで再現することができる。それを一緒に確認してみたのだが結局彼が写っているものは一枚もなかったのである。彼もすぐ納得してくれた。私はもし彼の半身でも写っているものがあれば、彼の要望通りに、ただちに削除するつもりだった。このときの私と彼の話は至極穏便にすすんだことを感謝している。オフ会での話はそれだけである。

私はよく街中で人を写真に取る。手当たり次第に撮る。先日もある人から、私の写真について感想をいただいたが、その中で、カメラを向けたときに文句を言われたりしませんかという文言があった。私は一応、その質問に答えたが、我ながらしっくりしない部分が残った。いまでも残っている。その時の回答もいわゆるダブスタだったと思うばかりである。文句が出るということは、冒頭で話したタロー君が言ってきたようなことだろう。また、連想として浮かんできたことだが、よく映画などでやたらにレンズを向けるカメラマンに怒り、カメラを取り上げ中のフィルムを抜き取るという、かなり乱暴な行為の及ぶことがある。よく見る場面だから一種定番化されているのだろう。周知のようにデジカメの場合はフィルムというものはなくカード型の記録メディアが納まっており、撮影した写真データは、そのカードに書き込まれている。だから、フィルム抜き取り事件と同じことが起こったとするなら、カードが抜き取られ、それを投げ捨てられるということだろう。この場合、コストはフィルムどころではない。

フィルムはせいぜい数十枚撮りだが、デジカメのカードはものにもよるが数百枚の写真データが記憶されている。フィルムのように使い捨てではなく、常に、このカードを使っているのである。撮影したデータはコンピュータに転送される。カードのほうのデータは消去され。次の日は、また白紙の状態から使えるわけだ。おっと話がメカニックになってきては、われながら困ってしまう。話したいのは肖像権という問題だった。街中でよく人物なども写真に撮るという話から始まったはずである。撮られた人から、文句がでないのかという質問に一応答えたのはよいが、実は私にもよく分からない部分が多いということである。ほんのまれに文句が出るときもあれば、多くの場合は文句が出ないように撮っているということでもある。また、これまたほんのたまに撮らせてくださいと断ってから、レンズを向ける場合も、あるにはある。きちんと断ってから堂々とレンズを向けるときは、なにか幸せな感じさえするものだ。だが、あらかじめ断ることは滅多にない。スナップ写真に徹する以上、そうした機会は滅多にないし、必要もないとすら思っている。だが本当はスナップであろうとなかろうと、人物も正面から顔の表情なりを撮りたいと痛切に思うこともある。なかなかそれができない。野良猫と人間は違う。人間の場合ネコと同じように遠慮会釈なく、ごくごく接近したところから顔の正面からレンズを向けるという行為は、あまりにも特権的で、ずうずうしく思われ腰が引けてしまう。ついつい遠慮してしまう。そのさいは、やはり断ってからだと思うからである。だから人物の写真といっても私の場合は後姿ばかりだ。人のお尻ばかりをカメラで追いかけているようなやましさもないとは言えない。

もう一つ問題がある。後姿なら許されるのかという問題だ。ここにもまた二つのカテゴリーがある。写真を撮るということと、その写真を公開するという二つのことである。撮るのはよいが公開はしないでくれ、という人もいるかもしれない。細かく考えればという話だが。こうしたことを深慮しているばかりでは、少なくても人物の写真はいっさい撮れなくなると思っている。だから、あまり考えないようにしている。撮るにしても、それを公開するにしても、そのときに文句がでたら対処すればよいと心得ている。人物といっても何を主眼において撮るのかということも大事だ。私は被写体に悪意だけは、持たないように心がけている。相手が嫌がるような写真は撮らないということだ。できるだけ、被写体にも喜んでいただけるように想定しながら撮るのである。また公開するのである。明らかに被写体が見たら、やめてくれと言いそうな写真は、かたっぱしから削除する。だが、この作業はあくまでも主観の範囲である。液晶モニタのことは前述したが、撮影が終わるたびに確認し、つまらない写真はその場でどんどん記録メディアから削除しておくのである。また自宅のコンピュータに転送するさいにも、いらない写真はどんどん消去する。そうしたものの中から、さらに誰からも文句の出る恐れのなさそうな一枚を選んでHPに公開している。

ただ人の心は、わからないものだ。いろんな人がいて、いろんなことを考えている。オフ会のときの彼のように用心深い人もいる。姿や顔は、確かに個人情報とも言えなくはない。職業や立場に応じてそれぞれ事情があるのである。私との関係ということもある。写されたのが私でなければ黙認されるという場合もあるだろう。私が見ず知らずの通行人をたまたま撮った場合など、またそうした画像を公表したとしても、好意の上で撮ったと了解できるものなら、そうは問題にならないはずである。だがあらかじめ自分の写真は撮らないでほしいと言われれば私はカメラを向けることもないし、また撮ることはかまわないが、撮ったものを無闇に公表しないでくれと言われれば公開しないし、公開した後に差し止め要求でもあれば、さっそくその写真は消去する。それで許してもらうほかもないだろうと思っている。

考えてみれば文章も上記写真にまつわる肖像権に似たような問題があるような気がする。自分のことは書いてくれるなと誰かから文句が出た場合は、写真と同じような対応にせまられるだろう。だからといって別に卑屈になる必要は毛頭ないはずだ。その場その場で誠実に対応すればよいと思う。堂々と書き進め、堂々と写真を撮ってみればよいのである。駄目だといわれても、一文のことであり、一枚の写真のことである。人から文句が出るのは、いわば常態のことだと思えば、それはそれで誠実に個別対応していけばよいのだと思うのである。卑屈さを出すときりがない。今後、いっさい写真は撮るなとか、書くななどという要求を安易に呑んでしまっては、自分で自分の首を絞めることになる。よく考えてみれば、人が言ってくる文句の性質も、多くは、そういうことではないはずだと信じている。

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▼雨の中の父と娘

2006年05月19日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
沖縄の梅雨入り宣言をニ三日前に聞いたが当方も梅雨のような毎日が続いている。さて、数年前から「奇跡の詩人」問題をめぐって私の格好の論敵となってくれている例のSさんからメールが届いて、どうしても一週間ほど前にわたしが「絵日記」に載せておいた、あの写真をもう一度見せてくれと懇願された。私も、あの日はいい場面に恵まれたと思っている。5月7日だった。雨の日でバスに乗って買い物から帰ってくる途中、車窓からガラスごしに撮った光景だった。父と娘という感じの二人が手をつないで多摩川の土手を歩いていた。野球帽をかぶった父風の男と、幼い娘はピンク色のレインコートを着ていた。それにしても雨の中、あの方向に歩いていっても駅までは相当にある。雨の中を散歩を楽しんでいるようにも見えず不思議な光景だった。橋脚に書かれた「DUST」という落書きも、なにか不安な感じを抱かせた。
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▼政治とは妥協の産物

2006年05月03日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法
http://otd4.jbbs.livedoor.jp/409952/bbs_plain

日本という国は、救いようのないところまで堕ちてしまった。卑怯者が権力の座に居座る間、まだまだ堕落していくなと諦めました。

パブロフさん、こんにちは。上の言だが、なんと申しましょうか。わたしが思うに、いつだって、どんな時代だって、抑圧され迫害されつつある少数意見者から見れば、時の国体を語るに「救いようがない」としか言いようもないざんしょうね。さらに加えて度し難い理想主義者、狂信家、原理的革命家なども、同じように言うでありましょうや。

彼らの政治的嘆息は、拙者にはガキのたわ言ぐらいにしか聞こえませんね。生きるということは、そうは理想的にはいきませんよ。頭に抱いた「理想」のほうが、おかしいとも言える。世にはいつだって、空想じみた教条、念仏、スローガンの類が蔓延し、愚民に夢を与えている・・・という面もあるが、また衆愚らをだまくらかしているという面もある。何度も言うが、食っていくということは、戦っていくことじゃよ。

生き物を打ち殺して止めを刺して、その体と命を、わが腹にしまって、やっと生きていけるのじゃよ。生きていくことが、悪行じゃよ。自分は決して、悪事に手を染めたくない、というなら、食わなければよい。政治をしなければよい。言葉を発しなければよい。後は墓場に行くばかりなり。多かれ少なかれ生きるちゅうことは妥協の産物にござ候や。左翼も右翼も関係あるかい。

赤軍派をみろ。オウム真理教をみろ。彼らはなんと言っていたのか。決して世迷言とは申せまい。だが妥協することを「悪」だとみなした彼らの政治的念仏の、その先は「死」しかないよ。 彼らの言葉が「どんづまり」だったのですよ。狂信といわずして、何といいますか。ガキのたわ言に他ならないでしょう。

妥協して話し合う姿勢のない現在の政権リーダーは、本来戦争の罪で裁かれるべき一族の末裔ではないですか。

上の言などは、単純なデマでしょう。反体制ぶっているだけのように見えますね。あなたの言うようなことが実際ならば、選挙が成り立ちますか。彼らは選挙を妨害してきますか。彼らとて選挙で負ければ退陣すると思いますよ。自公政権も、暴力団とは違うでしょう。あなたのような性質の言を耳にすると、むしろ、あなたのほうが、よほど、いざとなったら民主主義など放り投げるという憶測すら出てきます。

たとえば共産党などが退潮著しいのは、人々から信用されていないのではないでしょうかね。いざとなったら、民主主義のルールを踏みにじっても、己の主張を通そうとする独善的体質がある・・・ように思われている。過去がそうであったように、いざとなったら暴力に訴えかねないと。

もちろん、どのような政党でも、多かれ少なかれ党利党略や、暴力性というものはないとは言えない。それは権力や、政権党だけの話ではないと思いますね。政治というものが、本来かかえている暴力性ですよ。

それから権力という問題ですが。これも国の大小を問わず、社会というものが構成されているかぎり、その存在は、どうしょうもない。国家があるなら国家権力が用意されるでしょう。ポリスのいない国なんて、想像できますか。国とは権力装置そのものであるというのは、なにもマルクス主義が発見したわけでもないでしょう。大昔から、そういうものだった。

三人寄れば文殊の知恵といいますが、意外にその場合の「知恵」も権力の創生を待望しているとは言えないでしょうか。少なくてもリーダーは創出されるでしょう。また一定数のポリス集団も構築されるでしょう。そうであるなら軍隊はすぐ目の前に出現するでしょう。あなたはしきりに武力を否定なされるが、ポリス員らを、裸で交番の前に立たせるわけにはいきませんよ。

ポリスのなり手がいなくなる。彼らには、どうしても帯剣させるか、槍を持たせるか、はたまた銃を所持させておかなければ、権力装置として役に立たないのは道理でしょう。武装した彼らを千人ほど並べて御覧なさい。たちどころに軍隊になるでしょう。そのどこに、明確な普遍的な区別ができますか。

権力といい、権力の座といい、必ずしも人民に対する悪意をもって、そこに座っているわけではないでしょう。チームを作った以上、有能無能はいざ知らず、監督やキャプテンという役割が、必要なのです。誰かが政治をしなければならないのです。国境があるかぎり、国境線を監視したり守ったりしなければならないのです。誰かが前線に立って国土を守っていかなければならないのです。それが国家というものでしょう。それが嫌だというなら、どこか強国の属国になるより他に手立てはない。

人間、無前提に助け合うことはできませんよ。共倒れになる。一方が一方を支配する。それが助け合うということの内実です。必要とあらば、当方に敵対してくる相手と、いつだって対等に議論、交渉(喧嘩)もできるというほうが、よほど立派だとは思いませんか。

ただし独立、自立という言葉は美しく写るばかりだが、その政治的実際たるや、口でいうほど単純なものではないでしょう。なかなか難儀なことにござ候や。政治というものは度し難いものだということですよ。ああいえばこういう。政治的言説というものは、いつまでたっても、この論理的ドツボから這い上がることはできません。

わざわざ国家権力に忠誠を誓うようなものに書き換える必要があるのかね。

憲法改正の政治的動向についての話のようですが、誰も、権力に忠誠を誓うためなどとは、申していないはずですよ。忠誠もなにも、わが国の権力の性質についてならば、十分に平和的かつ民主的だと思いますよ。それに権力といえば聞こえは悪いが、下でも申したように、必ずしも人民に敵対している存在だとは申せますまい。

権力機構を具体的に説明すれば、為政者をはじめ軍隊、官僚、司直、役人などによって構築された機構のことだが、実に民主的に選出、選抜されて構築されていることは否定はできないでしょう。国民が権力機構に、十分に参画していますよ。一部の階層者だけが、牛耳っているとは申せますまい。

われわれは参政権もある。金持ちも貧乏人も一票は一票だ。基本的人権も、なに不自由なく行使しているではござりませんか。成績さえよければ東大には入れるざんしょ。弁護士にも、政治家にも成ろうと思えば誰でもなれる。自衛隊にも資格さえ満たしていれば、誰でも入れる。立身出世の機会は均等ですよ。制度としてはね。後は個人が努力するばかりなり。

かように、制度的に申すなら、日本という国は実に成熟しておるようにござります。何の不満がござ候。それほど政治がやりたいなら、選挙に出馬すればよいだけの話でござる。自分と意見を同じくする候補者を、とことん応援してやればよいではないですか。だが、負ける場合もある。応援していた者が落選し、別の候補者が当選したからといって、大きく変わるようなことが何かあるのですか。

もう少し現実的に見てほしいものですね。仮に共産党などが組みする政権が生まれたとして、わたしは、野党に甘んじている現状の彼らが言っているほどの変革はできないと思いますよ。日米関係を壊すわけにはいかないでしょう。安保条約を廃棄できますか。靖国問題にしても、何年も何年もかかって議論していくよりしょうがない。共産党は、警察官から拳銃を取り上げられますか。意に反して警察官を増強したりしてね。理念やスローガンは通用しませんよ。

平和を守るということは、隣国をはじめ他国との、それこそ綱わたりのような、または贈与関係のような、泥臭い交渉事の積み重ねなのです。日常的なことなのです。礼を尽くして、裏取引や物のやり取りなどを含めた、妥協に妥協を重ねた結果なのです。それが政治という行為が持つ独特の現場の有様とは言えないでしょうか。それを実践的に行動できる人が一国のリーダーであり、政治家というものでしょう。

政治が選挙という民主主義的ゲームで実現されると言うならば、憲法を遵守して一人一人の国民が平等な権利、同じ条件下において参政権を持たなければならない。

現行の政権政党などは、おっしゃるとおりにやっちょるぞ。どこが憲法違反かね。憲法改正についても、憲法自身で、その手続きについて国民投票以下、国会議員の3分の2以上の・・・等々と、きちん歌っておるじゃろうよ。その手順に従って議論をいやしましょうというのが、現在の動向じゃ。このどこが憲法違反かにゃんこ。それからにゃんこ。国民一人一人が同じ条件下ということが平等社会の前提だとの考え方は、いささか世間を見る目が閉じくら饅頭。

人っ子一人、同じ条件で生まれてくるなんて現象があるわけなかん便所。ロボットじゃあるまい。性差、貧富の差、みなそれぞれ違っている。それがええんじゃ。そうでなかったら、なんのための頑張るんじゃほいさっさ。

ただし、ルールは一つだ。一つのジャンルに一つづつ。たとえば野球というゲームがある。大リーグではイチローが活躍している。まかり間違って、ホームベースから一塁までの塁間距離が、仮に50cm短かったら、どうなると思う。逆に50cm長かったらどうなると思う。どちらにしても、イチローは野球では芽が出ずに、いまごろ名古屋かどこかで、板前でもやっているだろうよ。それでいいじゃないか。

天才?成功者?すべて偶然の賜物さ。多くの人々が名もなく、くたばっていく。それでいいじゃねぇか。そこそこ幸せならば。そこそこの幸せさえも、つかめないとは、それは本人の心がけの問題だ。不平不満の泣きっ面のまま、死んでいくのか。それは実にちんけなイデオロギーだ。できもしない夢ばっかり見ているから、実質人生を棒にふるのだよ。ものは考えようだ。分をわきまえ、足りているjことを知らねばならないよ。

イチローにしても、たまたま塁間の距離が、現行ルールであったがために走力と打力がマッチして、安打を生ませているに過ぎまい。現在の政治に向いているものが、政治家になれば、それでよいのじゃ。ロシア革命時期には、髭もじゃのロマンチストが政治を引っ張っていた。現在は、そういうわけにはいかんばい。

それでいいじゃねぇか。飯が食えて雨露をしのげる屋根に下で眠ることができるなら、それ以上のなにが欲しいのだ。自分で勝ち取ってみるよりしょうがねぇだろ。どんなに出来た政府でも、お上は、なんにもしてくれねぇよ。

それほど政治が不安なら、君は、どうして出馬しないのだ。選挙の他に、どこで政治ができるのだ。暴力革命でも考えているのか。高層ビルにヘリコプターで突っ込んでみるか。

徒党を集めて、デモってみて何かが変わると思っているなら、さっさと、デモってくればよいだろう。何もしねぇんじゃ。それは政治とは言えないよ。たんなる不平不満の泣きっ面にハチだ。己の信条たるや、情けないとは思わないのかね。政治とは言葉じゃないぞ。政治とは行動だ。ビラの一つもまいてこい。駅頭にたって、辻説法でもやってみろ。

2007-04-28 18:58:03 記

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▼「資本論」の仮説性について

2006年05月03日 | ■学校的なあまりに学校的な弁証法
わたしが若い頃(70年代)は、まだまだマルクス主義全盛時代で、マルクスの評伝などが幾種類も書店に並んでいた。多くはソ連で書かれたものの翻訳本だった。その種の本の中に見た一文が忘れられない。それによるとマルクスは資本論の執筆に疲れると頭を休めるために高等数学の難問を解いていたというのである。似たような作家の話が頭にあった。それは流行作家の松本清張のことだった。彼はものすごい量の原稿を書いていることは、当時からよく知られていた。松本清張は、頭を休めるためになにをやったか。パチンコに行くのだそうだ。パチンコ台の前で着物姿にマフラーを首にまき、タバコをくわえた彼の写真を見たような気がする。そこにいくと、さすがにマルクスは頭の出来が違うと、ますます傾倒していった。

最近は、マルクスの本など、ほとんど手にすることはないが、若い頃に傾倒した思想やイデオロギーというものは、そうはやすやすとは頭を離れないものである。わたしが参加しているネット掲示板などにもマルクスの名や彼の主著たる「資本論」のことがしばしば話題に上ってくる。最近、ふと考えたのだが、マルクスは資本論執筆中、頭を休めるために高等数学をやっていたわけではないのではないかということだ。資本論は「数理」に満ちている。ページを開いてみれば分かるが、まぎれもなく立派な数式があちこちに散見できるのである。こうして「数理」を当てはめた結果、有名な剰余価値論、搾取、本源的蓄積、労働力、そして資本論冒頭の抽象的産物である商品の分類と分析が可能だった。資本論の論理はたしかにヘーゲル譲りの進化論風弁証法だが、モノそれ自体の質量を語るとき、数理こそ論理を確たるものにするだろう。目の前で数を数えられては、落語の「時そば」よろしく、労働者は納得してしまうものである。かりに労働を「1」とし、商品を「1」とし、資本家を「2」として、計算が始まってしまったのである。

マルクス主義の理論的主柱である社会主義論、革命論、生産力の限りなき発展論等々とうとう。19世紀半ばから後半にかけて欧州を席巻した、まさに文明と産業が花開いていた、その世の有様に、さすがのマルクスもかなり扇動されていたという面もある。歴史は進みに進む。人類の進化も加速度的に発展している。ま、そのような感触はなにも資本家だけのものではなかった。資本家を憎むマルクスにしてからに、同じような発展的進化論に埋没していたに違いない。マルクスが後半生を過ごしたロンドンではマルクス生前中に地下鉄が開通していた。

資本家の儲けも仮説の範疇なら、マルクスの革命論も仮説に過ぎなかった。仮説という範疇の中では、マルクスも共産主義も間違ってはいないのである。未来のことだ。株屋の予想ではないが計算の仕方でなんとでも描ける。マルクスは経済社会に数式を当てはめた。ある典型的な資本制社会をモデルとして自分で構築し、それを数学で検算してみた。モデルが先にあるということは結論が先にあったということだろう。結論から始めて最初の出来事に向かって逆算してみたという感じもする。それがマルクスの数学利用法だったのではないか。見つけ出した理屈のいくつかにエンゲルスともども喜悦した。エンゲルスはこれをもって社会主義は「空想から科学へ」移行したと宣言した。だがこれでさえ仮説である。科学は仮説そのものである。仮説ごときをを威張れるだろうか。威張れば、それは実践的にも学問的にも独善となる。

だれしも100円の仕入れ価格どうりに100円で売るバカはいないのである。古代から、それはそういうものだ。仕入れるにも労力が必要だからだ。その差額をもって商売というのだろう。差額をいくらにするか。ここが企業秘密といえば秘密の部分であった。顧客にいちいち仕入れ価格を公表している、店は見たことがない。この秘密の部分にマルクスは数学をつかって迫ったのである。出てくる出てくる。やれ搾取だ。剰余価値だ。本源的蓄積だと、言うわけである。マルクスが概念を与えた、名義を与えた。この功績は大きいだろう。数値をあたえられ、それを搾取と名づけられれば、だれも否定できない。だが、言い方を変えれば、それは単なる必要経費であり、仕入れのための交通費だとも言えるのである。こうして社会は科学的に分析された。数値を与えられたのである。それが科学だ。科学とは数理で説明する学問である。

100円ショップである。なにもかも透明のセロファン袋につっこんで陳列しておけば、それで商品になる。すべての商品がレジでは「1」と数えられる。食品も老眼鏡も箒も、「1」として積算していけば、集計はじつに簡単で事務員をおく手間もはぶける。マルクスは、「資本論」でこれをやった。数学を介入させて、経済を説明したのである。もはや誰にも否定はできなかった。経済は2+2=4であると説明されては、もはや誰一人とて異論を出せる余地はない。マルクスの「資本論」は、むしろ経営学というものかもしれない。「資本論」を現代の資本家がきちんと勉強すれば、あれほど儲け仕事に知恵を授けてくれるものもない。資本論をよく学べば鬼に金棒となるだろう。「資本論」は、よほど資本家のための教科書であると言っては皮肉が過ぎるだろうか。

2007-01-13 22:08:03 記

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▼世襲と革命

2006年05月02日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法
歴史的に古くから続いている制度や慣習が今に至るも残されて、それが生きているということは決して悪いことではないと思っている。古いものがたくさんある、ということは共同体が豊かであった証左ではないのか。王権というものはどこの国でもそうだが世襲があって始めてその存在の永続性が担保される。古来から伝わる伝統や文化というものは世襲があって始めて守られてきた。「家元」制度などは、これをわが国風に世俗的に換言したものだろう。紅衛兵やタリバンは伝統を敵視し、文化財をかたっぱしから打ち壊してしまった。いわば暴力革命というものの実態が、ここにある。フランス革命もロシア革命も王の首を討ち取って自己満足はしたが、人々に真の幸福はもたらされただろうか。願望と生活は逆になることがある。古いモノなど、いらないと言う。古いモノなど、あきらかに邪魔だと感じる時と場合も、あるにはあるだろう。その気持ちはよく分かる。だが、それらは一様に歴史というものを狭隘にしか捉えていないように思われる。われわれは日本人である。

暴力の前では歴史など他愛もなく毀れていくものだ。文化財や世襲など一日で、爆破されてしまう、それで歴史は終わりになる。それは人間の他愛なさを反映している。仮に古いモノがいっさい、なくなったとしても人々の生活は続くだろう。だが、古いモノがなにもない中で人間の精神は安定するだろうか。そこには、荒涼たる砂漠しか見えてこない。なんという貧しさだろう。国が滅びるとは、その風景のことではないのか。誰が、そのような空虚で貧弱な国民の精神が欲しいのだろう。人々は歴史的にして伝統に裏付けられた共同体の歴史を五感の全体で感じて始めて安定的に生活に望めるのではないのか。もちろん、歴史などあろうとなかろうと、パンさえあれば生きられる。それでよいというおなら、教育はおろか天下国家、また人々の意識、思想の傾向など語る必要も金輪際なくなるというものだ。精神の難民状態だ。語ることのできる材料がたくさんある、ということが精神のの豊かさを示している。言葉こそ歴史の総体を現す。歴史が見えるということこそ豊かさの証左でなくてなんだ。あらゆる意味で一見いさましい革命的言説(好戦的政治的言説)は「子供だまし」にすぎない。

さて世襲という概念を、もう少し広義に解釈しておこう。すると必ずしも「人物本位」に対立する概念ではないということが分かる。王権といい、家元制度といい、跡目襲名なんて言い方もあるが、やはり人物本位という選抜作業は行われてきた。これらに加えて今日のわれわれにとってはなくてはならない民主制とか選挙という手法もあるが、若く近しい人物に、家やら領地、また公的立場など、それまで自分が所有してきた物心を若く親しい人物に譲るという行為のことなのだから形は違ってみえるが、本質的にはたいして違っているわけではないように思う。なにがなんでも我が子に、という気持ちも親心だろう。できることとできないことがある。私が言いたいのは、文化なり民族的な意識なり、ようするに自己というものを存立させている認識は、こうして伝わってきたのではないのかと再確認することも必要だろうと申したかったまでにござる。世襲というものは、古い制度だから、これを廃棄して、あらゆる面に民主制や選挙制度を導入すれば何かが良くなるなどと思うのは、反対概念に期待する幻想にすぎないだろう。たとえばわが国の国技と言われている「相撲」というスポーツがある。職業的に興行している一団を「大相撲」という。大相撲の全体を仕切っているのは相撲協会と現代風に呼ばれた幹部集団だが、大相撲には部屋というものがある。

部屋には親方がいて競技者としての力士は、必ずいずれかの部屋に所属し、親方と師弟関係を結びます。他の職業スポーツのように力士が部屋の所属を変える決してない。こうした制度が崩れたら、どうなるでしょうか。相撲という競技は残るかもしれないが、「大相撲」は成り立たないでしょう。私は相撲大好きです。私自身は、力士に知り合いもいませんし、どこの部屋とも親方とも関係がありませんが、長く後世に残していただきたいと切にお願いするものです。歌舞伎などもそうですね。こうしたものは日本国民が、大事にしなければ廃れます。なくなってしまいます。こうした私の気持ちと、実際に誰が某部屋の親方になるか、また親方はどういう人がよいのか、さらに親方の選出方法はいかに等々の問題は、無関係者である私はまったく気になりません。世襲であれ、跡目襲名であれ、人物を無視して直系世襲にこだわるほど、関係者は馬鹿でもないと、信じておりまする。いずれにしても、それらいっさいが内部関係者の問題であり、なんとかうまく乗り切ってほしいと思うばかりにござ候。天皇といい、王権といい、問題の本質はまったく同じことだと思うのである。よほど不出来な王様では民が泣かされる。その時は革命騒ぎを起こすのも一興でしょう。いざとなったら呼んでください。老骨にムチ打って竹槍でもかついてかけつけまする。

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