2012.10.31 東京新聞投稿欄より
本日の東京新聞に採用された君嶋さんの記事を見た。君嶋さんは62歳と言うならば、わたしの同類の団塊世代である。どうやら若い頃よりイデオロギーのコピッペ饅頭を表現手段として、早30年というやりくり饅頭という価値観が、見透かされてくる。左翼政党なり、センチメンタル知識人各位が発するスローガンに自己の価値観を同一して、納得する信仰状態に頭がやられている、わが国特有の、衆愚頭の持ち主なのである。おそらく若い頃は、わたしに同類の共産党の手下か、はたまた新左翼の一員であったのだろう。君嶋さんの文章では、一向に形而上学的にも、同義的にも、行き着かないのである。
団塊世代というものは、この手のスローガン求めのアホ状態に陥ったまま、安住している馬鹿が数割がたは存在している。
この手の教条を、教科書を見比べて、いくら正確に、ならべたとしても、そうそうには、人々の耳をそら立ててみるだけの能も才もない。
この際、君嶋なにがしなる、おばさん投稿を採用する田吾作新聞の見識を疑ってみるのも、週刊小僧の政治的手法と言えば言えるのだろうが、今日のところは、つい先ほど見た下の記事をさらしておくことで、拙者なりの政治学的自己満足だ。
許せよ。これ元「民青」現「九条の会」の団塊おばば。
都政13年半 石原知事の涙…震災とともに始まった4期目・・・産経新聞オンライン 10月31日(水)10時1分配信
「ああ、もう言葉にできません。本当にありがとうございました」
東京電力福島第1原発の建屋が崩壊し、使用済み燃料の再臨界が懸念された昨年3月。命を賭して、放水任務をこなした東京消防庁のハイパーレスキュー隊員に石原慎太郎(80)は深々と頭を下げた。「みなさんの家族や奥さんに、すまない」。頬を涙がつたった。
隊員を“死地”へと送り込む決断。当時の消防総監、新井雄治(62)は昨年3月17日午後9時半ごろ、石原からの電話を受けた。「『あの知事が』と意外かもしれませんが、知事は決して『やれ』とは命令しなかった。『本当に大丈夫か、できるならやってくれ。頼む』と。最後まで隊員の身を気遣う気持ちを感じた」と新井は振り返る。
それは「とにかく早くやれ」「指示に従わないなら処分する」とまくし立てた官邸サイドとはまったく違っていた。
「あのときの苦悩は一生忘れられない。それは知事も同じだろう。ただ、やらなければ東京を、日本を守れなかったことは確かだった」と新井は証言する。
▼「黙れ」と言えばいい
被災地支援にかける石原の思い。石原が都議会で4選出馬を表明したのは昨年3月11日。その約25分後、都庁舎も東日本大震災の揺れに襲われた。4期目は震災とともに始まった。
「『黙れ』と言えばいい」
石原が会見でこう声を荒らげたことがある。都が昨年11月、東北以外の自治体で初めて、岩手県宮古市からがれきを受け入れて処理を開始したことに、都民から反対の声が上がったときのことだ。
受け入れを決めた9月末から約1カ月間で都に寄せられた3300件余りの意見のうち、8割以上が反対や苦情だった。
「みんな自分のことばかり考えている。日本人が駄目になった証拠だ」。発言の矛先は首相やほかの自治体のトップにも向かった。
「なぜ、広域処理のために総司令官の総理大臣が強い号令をかけないのか。最終処分場があるのに、受け入れないなら、首長の尻をけっ飛ばせばいい」
よく言えば、強烈なリーダーシップ、悪く言えば有権者をも巻き込む“暴言”。ある県でがれき問題を担当していた職員は「石原さんだからできる。逆に言えば、石原さんにしかできない」と話す。
▼都職員「ぶれない」
都が岩手県に続き、宮城県女川町のがれき受け入れを発表した昨年11月。宮城県震災廃棄物対策課長の笹出陽康(ささで・はるやす)(52)は都庁を訪れた。笹出は振り返る。
「当時、広域処理は画期的だった。震災当時、死者の火葬受け入れで都の世話になっていたのに、がれきまで受け入れてもらえた。心からありがたかった」
そして、こう続けた。「東京都が広域処理に先鞭(せんべん)をつけた。都民の反発もあったと思うが、『知事の責任でやる』という石原知事の受け入れ表明は頼もしかった。そして、『石原知事があれだけの思いを込めた。私たちはぶれない』と語った都職員の言葉が印象に残っている」
石原は議会に諮ることもなく、ただ自治体のトップとしてがれき受け入れを決断した。「被災地支援は続けてほしい。だれが知事になったとしても、突然受け入れをやめるなんてことはないと信じている。心配はしていないし、石原知事の辞職に不安や不満はないが…」と話す笹出。
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毎日新聞 10月31日(水)14時8分配信
東京都議会で辞任の臨時議会を終え一礼する石原慎太郎知事=同議会議事堂で2012年10月31日午後1時9分、山本晋撮影