赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

雪の朝

2005年02月25日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
朝、起きたら雪がつもっていた。

散歩のつもりで商店街まで出かけていき

中ほどにある喫茶店でレモンティーを所望。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

▼界隈文体論

2005年02月22日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
タロー氏は、古くされた検非違使がたむろする旧六波羅(問答野暮用)掲示板にて、「かもめ脅迫事件の事実を知らない水原は・・・」などとさっそく拙者を重大な被害者として仕立て上げ事件化してしまうがにゃ。つい先日はまじめ一方が唯一の取り柄で半生をすごしてきた拙者をして真っ向から犯人よばわりだ。昨日は犯人で、今日は被害者では柄にもないぞ。拙者は、あれこれの役柄を瞬時に演じ分けられるほど達者な役者ではないわいな。言って置くが脅迫事件などというものは、どこにもない。擬似犯人の拙者が言うのだから間違いない。人の事だと思って、大げさに事件化したりささいなことを法律用語に置き換えるなよ。

「ピージーエム訴訟事件」と言い「エッチな弁護士事件」といい、どこが事件なのさ。タロー氏の場合、同じような語法を誇大に使い界隈に誤解をふりまくこと数知れず。よくない傾向だ。だから司法落第生はクソの役にも立たないなどといわれるのだ。なんであれ拙者が法的手段に持ち込んで、始めて事件らしくなるというものだ。拙者の意思をのけ者にして拙者に関する事件など、どこにもない。あったとすればサツの思い上がりによる冤罪事件ぐらいなものだろう。ったくタロー氏の論考も、せっかくの文才ながら、こうなるとほとんど読むに堪えられなくなってしまう。読者を大事にしてケロや。いっそ水原とかチンポコリンなどという頭の中に水掛け論しか浮かんでこないような、死んでも直らないガキはほっとけ。君まで馬鹿が乗り移っては吉田山にも恥ずかしくて、登るに上れなくなる。やめとけ、やめとけ。

さて拙者は、どうしてもネットに表れる人の文章も「文学」という側面から見る傾向がある。かならずしも他の学問(社会科学・心理学等)に比べて、文学的に読み取るのが優れているとか有利だと主張しているわけではない。私が知った範囲で思うに文学には意味の異化作用ということがある。これを意識的に用いると、同じ攻撃的意図を持つ罵倒文体でも、いくぶんは角がとれて、読者も喜んでくれるという効果がある。どうも拙者の場合は、ワンカップの飲みすぎが悪影響を及ぼしているらしい。いい気になって「異化」するあまり、攻撃的文章であれなんであれ漫才文体になっちまうのは、拙者の文才がそこまでだという限界を示しているのだろう。馬鹿とハサミは使いようだ。タロー氏も心して自分の書き言葉を「異化」してみると面白い結果が得られると思う。

ようは言葉の「意味」を、意図的に少しだけ脇にずらしてみる、ということだ。または言葉の意味に許される範囲での多義性を与えておくということだ。「異化」は、論点ずらしとか、ほのめかし、または隠蔽などとは、まったく違う手法のことである。異化作用も多彩な手法があって、そもそも小説などというものはまさに異化の結果としての文体を用いないかぎり、成立しないともいえる。小説はフィクションとも呼ばれるが、その通りで、芝居の要素がたぶんにはいっている。演劇的なのだ。さて拙者の文体は何ひとつ自慢できるようなものはないが、われながら多少、心に覚えがあるのは拙者の場合の「異化」は、できるだけ芝居っ気たっぷりに読者にとっても当方と論敵との関係性が公平に伝わるように叙述することだ。多少の遊び心がなければできる話ではない。この際の公平もまた当方の主観の範囲にしておけばよいのだから。すなわち異化も生きる術たる戦略戦術ということならば、大切な人生論上の「手法」とさえ言えるのだ。

さらに大切なのは、言葉を書き記すことが、いかにも楽しくてしかたないというように、自らを、だましだまし振舞って文章を書いてみるということだ。読者にウソをつくのではなく、まずは自分に対してウソをつくのだ。こうして、小説的な第二の人生とその物語が始まっていく。誰にとっても文章を書き記すということは、ネットであれ同人雑誌やジャーナリズムであれ自己にとっての第二の人生の門出たる祝祭的価値を内包しているのだ。以上あまりに簡単で、われながら開いた口もふさがらないが、これぞ拙者が長年かけて知りえた漫才風文学論のすべてである。まれに功を奏することもある。言っておかねばならないのは、いい気になってワンカップを飲みすぎると、論敵に足元をすくわれ、これが命取りになることもある。気をつけたまえ、わっはっはっ。

自分の書き記した文体をいかように意識的に「異化」しておくかについては、自覚的な書き手もいるし無自覚な書き手もいる。異化作用は文才の程度とは、また違う根底がある。で、実にたくみに異化を使っているのが・・・ここで彼らの名を上げるのはいささか心苦しいが、話題のモコモコ氏と多馬鹿氏だ。それもモコモコ氏の場合はかなり意図的であり、多馬鹿氏の場合は根にスルメっ気があるのか、書けば自然にその文体はイカされる。ただしモコモコ氏についても、人の誤字脱字などの揚げ足取りに喜びを見出しているようでは異化作用について多少は知っていたとしても、それだけでは文学と意識的に対峙しているとは言えまい。彼にかけているのは精神だ。どちらがどうと言うつもりはない。

少なくても煮ても焼いても食えないような文体よりは、多少は異化された文章のほうが、逆に真実が伝わりやすいということだ。虚偽を排除し真実のみを叙述しようという気負いは、結果自らの筆に規制をかけてしまっている。こういう人間からは、四角四面のクソ面白くもない役所文体しか出てこない。異化を使っている書き手としてモコモコ氏と多馬鹿氏の名をあげたが、それを言うなら第一人者の名を忘れるわけにはいくまい。他でもない、いかちゃんである。またフルハラ氏も先祖代々、文体における異化作用を家伝となしてきたその種のお人だが、彼の場合は、世襲にこだわるあまり、あけてもくれてもイカづくしで、イカの食いすぎで腹を壊し、腹が古くなったと嘆いていた。何事も腹八分目がよい。文体もおなじことにござ候。

<2005.02.22記>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

▼アジア的自己愛について

2005年02月13日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
タロー君の『自己愛についての若干の考察』を読ませていただいた。論考の最後は次のように拙者について書かれているが、司法落第生というものは、世のため人のためには相変わらずクソの役にもたたないものだとの昔からよく言われていることが、まさにその通りであるとの感を強めた。そこでタロー君に二、三文句をつけておく。

かもめは要するに愛する自己の部分も小さいし、自己を愛する執着や欲望の部分も小さいのである。両方が小さい。よく「自分がわからない」というのは、かもめの事例のことだろう。昔の社会科学の言葉でいえばアジア的奴隷的人格。こうしていつもコケティッシュな例示にかもめを使って申し訳ないが、かもめの課題は、すなわちこの自己愛の矢印をこそ強く太くすることなのだ。

「かもめ」に自己愛が薄いのは、今日では定説である。かもめ=拙者を所管とする国家も行政自治体も、また所轄の警察もよく分かってくれている、この幸いよ。いわば自己にこだわらない境地こそ、私自身が求めてきたところだからだ。さて愛すべき「自己」とはなにか。おそらく「能力」のことだろう。能力には二つの側面がある。言い分や持分を主張し対国家であれ対世間であれ自己を、もっぱら自己のみに所在する経済的政治的に保障された基本的人権と、その他の既得権を保身し合理化し、正当性を弁明しておく能力である。一口にいえば、言語力そのものである。もうひとつは茫洋としているのだが、なんらかの方法をつかって自己と妻子を養う能力、一般には労働の能力である。どこまで語っても「自己」という概念は、その二つの側面から外に出ることはない。

後者については、黙って働いていればよいのであり、前者については、漫才でもおこなって人を喜ばす以外に、なんの為になるのか。よほど自分の立場がおとしめられ、自己の権利が侵害されているときに、全力をつかって言語力を発揮して、自己を弁明すればよいのであり、これまた普段は、沈黙はチン玉である。へらへらと言葉を衆愚の前にさらすものではない。眠られない夜に、なにか言いたいことが湧き上がってきて、やむにやまれず、誰に見せるつもりもなく枕もとにおいておいた自分のためのノートに、それを記して見る。それが文学の源だ。働くということについても、いよいよ男は黙って札幌ビールだ。不毛に言葉を浪費しているのは、民放TVやその他のマスコミだけにしておいてケロ。いまやタロー君も民放なみだな。官学がなくぞ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「考えるヒント」 小林秀雄

2005年02月12日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
目黒通りを新橋まで歩く。三田にさしかかる手前の長松寺に荻生徂徠の墓があることは、以前より道路わきに立っている碑を目にして知っていた。今日は寺の境内に入っていき襟をただして徂徠の墓前に詣でてみたのである。寺の入り口に、次のように記された看板があった。

荻生徂徠(おぎゅうそらい)の墓

江戸時代中期の儒学者。徂徠は号である。寛文六年(1666)館林藩邸に生まれた。十四歳から二十三年間、父の方庵(ほうあん)に従って、上総国長柄群本納村に流寓の生活を送り、独学自習、将来の学問の基礎を築いた。元禄三年(1690)江戸に戻り、柳沢吉保(よしやす)に用いられ、将軍綱吉にもしばしば儒学を講義するようになった。綱吉没後、日本橋茅場町(かやばちょう)に家塾を開いた。宋学を重んじ、伊藤仁斎の復古学を批判し、古文辞学を大成した。その学問は経学のみでなく江戸後期の政治、経済、文学等に大きな影響を与えた。数多くの著書がある。将軍吉宗の諮問に応えて享保七年(1722)「政談」を幕府に献上した。享保十三年(1728)一月十九日63歳で死去した。

・・・・文化財を大切に・・・・
平成十三年設置 東京都教育委員会


家に帰ってから小林秀雄の『考えるヒント』(文春文庫)に所収されていた「徂徠」(文藝春秋 昭和38年8月)という文章を読んでみた。

徂徠は「理ハ定準無キモノ」だということをしきりに言う。理は、おおよそ事物に自然にあるものだが、この事物の条理を推度(すいたく)するのは心である。だが、人々の心は、その面の殊なるがごとく、殊なるのであるから、物の理を説いても実は各人が、自分に見えるところを見えると言い、見えないところを見えないと言っているに過ぎないのである。つまり定準がない。だから定準を得ようとして、理学者になり、窮理に赴くのだが、天下の理を究めることは誰にもできまい・・・徂徠は、懐疑派でも非合理主義者でもない。事物に自然にある理を否定するのではない。理を探る心というものを思うのである。心の適くところ、いたるところに理に出会うのはいいが、世界は理だとか、理のうちに世界があると言い出すなら、理という言葉に酔っているだけなのである・・・徂徠たちの学問に、厳密な方法がなかったということは、裏返していえば、何のことはない。今日の学問よりはるかに生活常識に即していたということなのである。

小林秀雄のライフワークは晩年に十数年を費やした「本居宣長」に尽きているだろう。同書こそ小林秀雄の最高傑作である。宣長の師は万葉集を最初に読み解いた賀茂真渕であることは周知の事実だが、宣長にとって、さらに深く尊敬し私淑した儒者といえば荻生徂徠だったそうだ。徂徠が残した文書の多くは難解な漢文で書かれている。比して宣長の残した文書の多くは仮名まじり文章だった。小林にとって、宣長の学問を解くためには徂徠の文章を読む必要があった。そこで小林は一字一字漢和辞典を引きながら徂徠を読んできた。徂徠の文章を読むことは、非常に孤独な作業を強いられたが、これぞ、本居宣長を書き進めた十数年を振り返ってみるに、もっとも楽しい時間であったと、どこかに書いている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ネットカフェから朝帰り

2005年02月10日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
電車から降りて自宅に向かったのが朝の6時だった。
都心近くのネットカフェで夜を徹して仕事をしてきた。
ネットカフェも店にもよるだろうが仕事をするにはよい環境だ。
夜間料金はタクシーとは逆に割安になる。
夜11時から朝も5時まで個室(?)と高性能のパソコンを与え
られて1200円なり。
受付カウンターには歯ブラシセット、アイマスクなどが常時並べ
られている。東の空が明るくなってきた。
月はまだ中空に煌々(こうこう)と照っていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ネットカフェにて

2005年02月07日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
午後6時ごろ家を出て、今日こそはと大井町までの完歩を目指して歩きに歩いた。おおよそ10キロはあるだろう。午後9時半無事大井町に到着。途中、荏原町付近で、焼き芋を買って、かぶりつきながら歩いた。翌朝までネットカフェにこもって仕事をするつもりだった。こうして覚悟を決めて、こもったにはこもったのだが結局仕事にはならずに焼き芋の残りを食いながら、DVDの長編映画を観て、朝を迎えてしまったと、かようなわけだった。今日の不始末は、焼き芋がうますぎたとしか言いようもないのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする