赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼文学と暴力

2008年10月11日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
大相撲をTVで見ていると、立会いと同時にはり手をくらわす力士が以外に多いのに気がつく。相手の横っ面を手のひらではたくわけだが、これも立派な技のひとつらしいが、いわゆるキレイな技とは言いかねるようだ。もちろん通常世間においては人の横っ面を張るなどということは一種の暴力行為に他ならないわけで、昔のようには、めったに見られない光景となった。

学校などでも体罰は禁止されて久しい。昔はよく、なにかあると教師が生徒の横っ面をはっていたし、家では親父の鉄拳が子どもの頭に飛んできた。昔の作家連中にまつわる方面でも、その種の挿話がことかかないのには驚くばかりである。作家やジャーナリストのインテリ面々も決して品行方正なばかりではなかったのである。

湯浅芳子というロシア文学者がいた。宮本百合子とともに、昭和初期の3年間モスクワに留学した。レーニン亡き後のスターリン時代である。トロツキーが反革命の咎をうけ、国外追放を命じられた、ちょうどその頃のことである。

ある日、芳子と百合子が買い出しに市場に出かけた。値段の交渉はいつも芳子であったらしい。良家の出である百合子は、こうした世俗のことは概して苦手であったという。お上品なのである。で、そのとき、芳子は値段の折り合いがつかなかったのか。変なことを言われたのか、いきなり太っちょのロシア女の横っ面を張り倒したそうだ。百合子は、あわてて芳子の腕をとり雑踏の中に逃れたという。芳子の面目躍如なのである。芳子は男っぽい性格だったらしい。口も荒かった。それはそれはちゃきちゃき娘という感じであったらしい。決して女言葉は使わなかった。意外なことに、山の手風の女言葉を上手に使っていたのが、百合子である。それは彼女の書簡を読めばよくわかる。

さて二人が鳴り物入りでロシアから帰ってきたのが1930年。世田谷のはずれのほうで二人の共同生活は続いていたが百合子はすっかりロシアの社会主義に洗脳されて、プロレタリア派の作家同盟に近づき入会する。そこに宮本顕治がいた。半年もしないうちに結婚したのである。湯浅と暮らしていた家から家出同然で顕治の下宿に転がり込んできたそうだ。芳子の嫉妬はかなり激しいものだったらしい。百合子の履物を隠して外出できないようにしていたこともあったとか。同時期、小林秀雄や中原中也の「文学界」などが、向こうをはってプロレタリア文学に対抗していた。 こちらのほうは、横っ面を張る話は枚挙にいとまがない。

中也といい秀雄といい毎夜毎夜、酒を飲んでは誰かが誰かと喧嘩していたし、誰かが誰かの横っ面を張り倒しては、友情や文学的志を確かめあっていたのである。中でも中原中也の狼藉はすさまじかった。中原の次が小林秀雄だった。ともかく手が早い。ものも言わずにびんたが飛んでくるらしい。いずれにしても若い頃のこうした狼藉三昧が生涯にわたって小林秀雄が誤解されている要因のひとつであることは間違いないようだ。だが、モノもいわずに横っ面を張るとは、実に小気味よいではないか。憂さも晴れるだろう。

逆に小林秀雄が横っ面を張られた話がある。相手は中野重治である。戦後すぐ、中野重治は共産党から参議院議員に当選した。その頃の話である。作家連中が集まる銀座のバーで小林秀雄が取り巻き連中と飲んでいた。ややあって店内に中野重治が現れた。小林が中野に何か言った。おそらく代議士になった重治を、いくぶんからかいぎみに揶揄したのではなかったか。いきなり中野重治の手が小林の頬を撃った。で、小林の取り巻きがびっくりして、天下の小林秀雄に何をするのだぁといきり立った。小林は彼を制止し改めて中野重治にさきほどの失言を謝りつつ、片手で頬をおさえながら真意を語ったのだそうだ。

「君は詩人だ。詩人が国会議員になって政治に首をつっこんでは、せっかくの詩心が死んでしまうと心配しているのだ」と。すると今度は中野重治が涙しながら、小林よ、小林よ、おれのことを心配してくれたのか、おまえはいい奴だと逆に頭を下げて、むやみに横っ面をはったことを謝っていたとのことである。

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コメント (11)
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