都心に出た帰りに戸越銀座で途中下車して、夕方の商店街を歩く。戸越銀座は、わたしにとって第二の故郷である。わたしが18で最初に就業した町工場がこの商店街の奥にあった。その工場も数年前に閉鎖され、今は無い。
今日は暖かく、半袖で遊んでいる子どもがいた。午後から蒲田に出る。茶店に入ってバルザックの『農民』でも読みはじめようと、本を開いたのだが、どうも話の出だしが唐突で面食らった。表紙を見てみると上下二巻の文庫本のうちの「下」の方だけをバッグに入れてきてしまったのだ。装丁が同じなのである。「下」から先に読んではならないという法もないのだし、気持ちを強くして行を追うのだが、やはり、自分の行為がどこかいかがわしく、バルザックにも申し訳ないような気になってくる。それより、ぼんやりしていた自分に嫌気がさしてきてならないのだ。こうなると、もういくら読んでも頭に入らなくなってくる。そこで本をバッグにしまいこみ、なすこともなくしばらく窓外の年末であわただしい商店街の様子などをぼんやり眺めていた。
新橋に出たついでに夕方の芝公園を散策する。御成門側の公園入り口に一つの石碑があって、次のような碑文が刻まれていた。
開拓使仮学校跡
北海道大学の前身である開拓使仮学校は、北海道開拓の人材を養成するために増上寺の方丈の25棟を購入して、明治5年3月(陰暦)この地に開設されたもので、札幌に移して規模も大きくする計画であったから仮学校とよばれた。生徒は、官費生、私費生各60名で、14歳以上20歳未満のものを普通学初級に、20歳以上25歳未満のものを普通学2級に入れ、さらに専門の科に進ませた。明治5年9月、官費生50名の女学校を併設し、卒業後は北海道在籍の人と結婚することを誓わせた。仮学校は明治8年7月(陰暦)札幌学校と改称、8月には女学校とともに札幌に移転し、明治9年8月14日には札幌農学校となった。
ちなみに内村鑑三が二期生としてこの学校に入ったのは次の明治10年のことである。鑑三は17歳だった。新渡戸稲造、宮部金吾らと同級だった。