赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼わたすのデジカメ信仰

2006年03月06日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

期限が過ぎていた本を返しに地域図書館に行く。地下の食堂でホットドッグを注文した。半分食べたところで、写真を取っておこうと思いつきカメラを構えた。私は、ほとんど被写体に意味は求めない。目にした対象物 に、ほんの少しのオリジナリティと存在感があればそれでよい。より取り見どりにレンズを向けてシャッターを切る。写真を撮るという行為は、私が何かを見たという行為にともなう結果以外のなにものでもない。私は物体と写真の間を仲介しているにすぎない。これが高じてくると眼にするものすべてが、なんらかの 存在的根拠を持っているように映ってくる。それは意味ではない。結局、どんな事物 でも見れば見るほど、向こうから確かな存在を主張してくるのである。いわば私が見るか見ないかにかかっている。ときどき光景を玩弄しているような不実な思いにとらわれてたじろぐことがあるが、それは己惚れなのかもしれない。たいした写真を撮っているわけではない。二束三文の素人写真だ。私の写真 に意味があるとすれば、たまたまモノがそこにあって、それを私が見たということを証明するだけの意味しかない。すべてが偶然の産物である。 見たままの有様である。私の写真はそれでよいと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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