赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼親こそ最良の教師なり

2002年11月14日 | ■風評加害の露店犯

アタシには、辛いリハビリを強いられている彼の目が、悲鳴を上げているように見えてならなかった。

クラスちゃんこんばんは。上のことだけどね。あなたがここに情報板からわての記事を無断コピペしてきた中に書いておいたんだけどねぇ。コピペしてきた当人が読んでいないんじゃしょうがないわよねぇ。もちろん、あなたのお気持ちは重々わかるのよ。でもね。なにかに夢中になっていたり、明確な目標に向かって打ち込んでいたりするときって、子どもだって、それこそ目をむいてがんばるものだと思うのよ。そういう子どもを他人が見ると、おうおうにしてクラスちゃんみたいな感想が漏れたりするけどさ。そこはこらえなければね。もちろん滅多に見られないことで、それが現代の子どもたちの不幸とも言えるわね。

義務学校の授業などで、こうした有様を期待することは絶望的だわよ。嫌いだ嫌いだと言いながらも、やらなければしょうがないということが勉強一般になってしまっているものね。もちろん学校によって、教師によって、また子どもによっては全部が全部そうだとは言えないけれどね。ここがまた大事なところよね。ほとんどの子どもが辛い苦しいことだと思っている教科の勉強なども、外れたところに活路を見いだしているというような子どもも結構いるわけよ。私の息子などそのよい例を見せてくれたわよ。不登校のことは何度もお話したけれど、中学校当時など学校にいかずに家で、ものすごい勉強していたのよ。誰に言っても信じてもらえないのよね。こういうことって。じゃ、どうしてましな高校に入らなかったとすぐ言われるわけよ。

今は18歳にして定時制高校に通っているのね。何を一人で勉強してきたか。いくつかあるけどね。言えることは受験勉強ではなかったようよ。そのやり方でどんなに面白く飲めり込むように勉強しても、高校受験には一切役には立たないというような事だったと思うのよ。そういうところに結構、子どもって目の色を変えて本気になってがんばってしまう、ひとつの鍵がある。それを親なら親が許せるかということもあるでしょう。私の場合は、不安だったけれどね。そりゃ、私だって役にたたないようなことに頭つっこんでいるとなれば、不安がつのるばかりだものね。

でもね。それを取りあげたら、彼の場合は学校にもいっていないのだし、もう死ねと言われるようなことではないかしら。許してやらなければいけないと思ったわよ。すると見る見るその方面(大したことではないけどね)での才能を伸ばしていったわねぇ。嬉しかったわね。私も当時から会社をやめて家でお仕事するようになったから、息子と二人でずっと毎日そばにいることができて、滅多にない幸福を感じちゃったわよ。今は夕方から通学しているけれどね。その勉強はね。今でも続けているよ。その集中力たるや、すごいよ。ただ私の場合は、子どもが障害児ではないのでね。少し話をずらせて聞いてほしいのだけれど。似ているような気がするのよね。教育の本質はね。だから少しなら参考になるかと思ってね。長々と申し訳ないけど、耳を貸してちょうだいね。

さて、それとは別に一緒に毎日の時にね。私は本を読んであげたのよ。二年間つづいたわ。そうね毎日2時間から3時間。かかさずだったから、その本が今でも彼の部屋に胸の高さまで届くほどに積み上がっているのよ。息子と私の勲章ね。彼には黙って読了した書名、頁数などの記録をパソコンに打ち込むのが私の楽しみ。本の形はいろいろだけど、百冊まではいかなったけど80冊ぐらいだったかな。計2万頁を数えたわよ。それも息子には、黙って私の前に座っていてもらうだけでよいとしてね。何の課題も与えなかったの。ひたすら私の朗読を聞いてもらうだけだったわ。

読み書き能力のなんたるかは、私もよく分からなかったけどね。今になって息子にとってよ。それが何の役にたっているのかも明確ではないけれど。大きくて確かなものが息子の心に醸成されていたことだけは、分かったわよ。喜びだったわよ。上の子のときにも、こうしてやればよかったとつくづく思っちゃったわ。上の子もやはり同じように学校には行き渋っていたけれど、やはり一日でも多く学校に行かせることばかり考えていたからね。出来なかったわけよ。休むことが本心からは許せなかったのよね。ま、上の子も悪くはならずにね。良い青年に育ってくれたのは、なにより彼自身が克服してきたものが大きかったということなのよね。親にはできることできないことがある。気がついていること、知らないこと、いろいろあるもの。それは仕方ないことよね。他の方でどんなに良い学校とかプログラムがあっても、それに乗っかるかどうかは、また子ども個々ですものね。だからと言って幸いだったかどうかも、いわば死ぬときにならなければ誰も何も言えないような気がするわ。

ムキになってもね。さんざんにお金を使ってもね。子どもが今元気に生きていることに比べたら、何の価値があるでしょう。私は、生涯子どもと支え合って生きていこうと思っているし、子どももそう思ってくれているようでね。ま、良かったと思っているのよ。子どもに関しては、何の不足もないのよ。二人とも私と同じで実質中卒よぉ。大学行かせればよかったとか、全然思わないもの。良い教育を与えることができたと、そう思っているのよ。まあ、こうしたことも、他の人にはよく理解できないようね。だからと言って他の家の子どもに学校には行かないほうがよいとは、言えないし、言う必要もないでしょう。また進学しないほうがよいとかね。そんなバカなことは言わないし、言えないし、私だって隣のお子さまが入学試験合格なんて耳にしたら、お祝いしちゃうのよ。いいでしょう。人それぞれ、その人と家族が喜んでいることなら、誰が余計なお節介できるでしょう。ほらよくおばあさんやおじいさんが、若夫婦の子育て教育に口をだすってあるでしょう。まさに老婆心って言うものだわよね。これはやめなければいけないわよね。ああ長くなってしまったわ。私ももう寝なければ、若くはないのだし。じゃあ、クラスちゃんお休みなさい。

以上2002.11.10 記

 

以下2005.10.10 記

さて、「奇跡の詩人」が放送されてから3年が経ちましたが早いものです。あの番組の主人公日木流奈さんも今年は15歳になられた。その後も執筆活動を続けていることと思います。いい本を書き続けてほしいと思いますね。

書くということを行為的に理解するための第一義には、世間でよく言うような才能という問題ではないと思っています。むしろ流奈さんに限っては、すでに何冊も自著を出されているのですから、これはもう彼の場合は職業と申してもよいように思います。

年少の子どもが、あのような言葉は使えるはずもないとか、あのような本を書けるはずもないという、二束三文の馬鹿者どもの的外れな言動がありましたが、そんなことはいくらでもあるのです。

私の経験ですが、次のようなことがありました。小学生の頃だった。夏のある日、町の広場にやぐらじたての舞台がし立てられ演芸大会のようなものがありました。当時はまだカラオケというもののない時代でしたが、さすがにマイクやスピーカーはありました。私は舞台からだいぶ離れた駄菓子屋さんの店頭で友達などとたむろしていた、そのときスピーカーから色っぽい失恋の演歌が聞こえてきたのです。

とても上手に歌っていました。それで、どこのあねさんが歌っているかと舞台近くまで行ってみると、なんと同級生のK子ちゃんでした。不思議な感慨に打たれたものです。私に同年の子どもが、思い入れたっぷりに恋の歌を歌っているのが、不思議でならなかったのです。それにK子ちゃんは、普段は実におとなしい目立たない子でしたから。

歌詞の意味する実態については無経験でありながら、歌詞の意味が、これ以上ないほどに、よく伝わってきてしまうのです。言葉のもつ魔力といいましょうか。さらに言葉に音楽がつくと、とても強烈ななにものになるのです。それは書き言葉、それ自体にも内在されているものではないでしょうか。

歌い手が歌詞の意味をよく知らなくても、ひとたび「歌」という形式に載せて表現してみると、大人の歌い手以上にその意味内容が美化されて誇大に観衆に届いてしまうのです。こればかりは、善悪の問題では計り難いところでしょう。少なくても私には、驚嘆すべき奇跡的な出来事でした。

さて、ネットなどを見ると、いまだに、02/04/28に放送された「奇跡の詩人」という番組は「異常に見えた」とか「いかさま」だと言っている人がいますが、私は素朴に感動を覚えました。

お涙頂戴とも根性物語とも違う、いたってさわやかな感動です。それはまるで大リーグに移籍して活躍しているイチローとか松井選手に代表されるスポーツ選手が一人もくもくと練習に励んでいる姿を見て感動を覚えるのによく似た感覚でした。

最近のその種の番組は、わきでナレーターが、どんどん物語を作ってしまうのではなく、できだけ主人公に話をさせるような傾向にあるようで、これはよいことだと思います。

インタビューに徹する。力士などもそうですね。マイクを向ければ、みんさん、率直によく話をしてくれるようになったからでもあるでしょう。イチローにはイチローからしか、聞けないような話をしてくれる。

これが感動を呼ぶのでしょう。私はスポーツは何もやりませんが、TVで見るのは大好きです。嫌いな種目はありません。見るだけなら、すべて好きです。

すっかりドラマが低調になってきましたから、TVも見てみたいものがないのです。どういうわけか活躍されている選手のみなさんには、知性的な感じがするものです。

昔からスポーツ選手は、ひとかどの話を持っていたのでしょう。自分だけの練習方法を編み出すなり、必ず誰と違った手法のようなものを持っている。そうした自分だけに特化した手法、または考え方を見つけた選手だけが成功していくような気がします。

これはスポーツ選手だけではなく、職業というものすべてに言えることのように思います。誰かが教えてくれるものではない、それだけではおっつかないという場面に立ち入ったとき、別途自分で何かを発見することが、最上の喜びなのです。

自信をもって大人になり、一市民になっていくような気がします。

「奇跡の詩人」の日木流奈さんの話に戻しますと、私はあの番組から、スポーツ選手の隠れた苦労話を聞いたり見たりしているときに感じるものとなんら変わらない感動を覚えたということです。

あの番組について私は予備知識のようなものは全くありませんでした。日曜の夜だったでしょう。

大河ドラマが終わって、すぐ後の番組だったと思います。そのままぼんやりと画面を見ていたら「奇跡の詩人」という番組が始まり。最後まで食い入るようにして見終わったのです。

たいした子どもがいるなぁと思いました。同時に確信をもって親御さん自らの体で、子どもとじかにふれあい、子育てと教育を行っている。一日中ですよ。頭が下がりました。

なぜ、そのように思ったのかというと私の場合は息子がいわゆる不登校で、その番組の放送される二年前までは、数年間にわたって滅多に外に出ることもなく、ずっと家にいたのです。

いろいろと迷いました。それでよいのだろうか。親の務めが果たせたと言えるだろうかと自分の責任を問う毎日でした。でも息子は、学校らしきものには、絶対に通いたくないとガンとして言うことをききません。途中から私の意識と考えが徐々に変わってきました。

ついには、息子の場合は、家にいたほうが、よく育つ。それが息子の場合の教育なのだと思えるようになったのです。

そう思えば、いろいろとやれることもある。無理して外に連れ出さなくてもよいのです。

以後、私が家にいるときは、本を読んで聞かせました。私が朗読し、彼は目の前に座っていてくれればよいという設定です。黙って私の朗読を聞いていてくれればよい。彼も私の朗読が好きになり、続きを読んでくれとせがんでくるようにさえなったのです。さあ、本を読もうかと問うて、一度も嫌がったそぶりをみせたことはありませんでした。

これが二年半に及びました。毎日毎日、2時間から3時間は読みました。約百冊、計2万ページ。終わりにしたのは、息子が定時制高校に入学したときだったと思います。

読み聞かせとか、対面朗読という言葉を後に知りましたが、その言葉だけでは満たされない何かがあった。私は昔から読書はまあ好きでしたが、声を出して読むということは、滅多にやったことはない。

これほど日常的に声を出して本を読むということは、誰しもないことでしょう。これがどれほど、言葉や文学という概念を私の中で新しくしてしまったか。

いまだに明言することはできていないのですが、文学や言葉というものに対する私の意識を根底から変革させてしまったことは、間違いありません。私の中で何かが大きく変わったことは確かです。

「理解」ということで、面白い経験をしました。不登校している息子と対面朗読の話を、友人たちや、同じような不登校の問題を抱える親御さんの集まりなどで、お話しすると、私の意に反して、多くの人が理解できないようでした。そんなことは教育的ではなく、やめるべきだという人もいたほどです。

つまり彼らが言うところをかいつまんで解釈すれば、中学生にもなって親から本を読み聞かせられて喜んでいるようでは成長が遅すぎる。まずは学校に通わせるべきだろうという意見です。私は、もう彼らに理解を求めることをやめました。

これは私たち親子だけが発見した教育方法にしておけば、それでよいと心した次第です。確かに自慢できるようなことはなにもない。無理に理解してもらう必要はさらさらないと得心しました。それにしても、私のほうがよほど楽しかった。

短編をいくつも読むというのは、どうも骨が折れるものです。なるべく長い物語を何日もかけて読むようにしたのです。新田次郎の「孤高の人」、新田氏の夫人である藤原ていさんの「流れる星は生きている」もこのとき読みました。

読んだ本の中でも「レミゼラブル」などは長い物語でしたが、長い物語だからこそ、その後の印象も深く強烈に残り、思い出も長く続きます。

レミゼラブルを全巻を読了したときは親子して、なにか大きな仕事をやり遂げたかのような満足感にひたりました。以後しばらくは、われら親子の会話は、いつもジャンバルジャンの行く末が心配になったり物語中の挿話を引き出しては、何度も語り合ったものです。中学校は卒業式にも出ずに卒業し、どこぞの通信制高校に入りましたが、半年でやめました。

次の年、入学した都立の定時制高校が望外なことに彼の気持ちにぴったりあっていたのでしょう。それに、その学校には小学校以来の地域の友達も通っていまして、実は入学するにあたって彼の強力な後押しあったのです。

入学試験には彼が父兄役で、息子をたたき起こし、連れて行ってくれました。親たる私はなにもしなかった。ノンキなものです。息子にしてみれば、喜んで入学したというわけでもなかったのでしょう。わけもわからず旧友に勧められるままに入学してみたというあたりです。だが、入ってみれば、それはそれは彼の気持ちにマッチした学校だったということのようです。

こうして4年間ほとんど欠席することもなく一昨年に卒業し今は私大に通っています。最終学年には先生方のおぼえめでたく生徒会長を務めたほどです。小学校の4年生から中学校の3年間、計7年間も家に閉じこもっていた子が・・・ですよ。立派なものです。親ばかちゃんりん。

以上の時のことが私には学校とか教育についての考えを血肉化されて規定しているようです。必ずしも学校に行かなくても教育はできるのだという自信がついたと申しましょうか。最後のころになると私は、息子と一緒に家にいることが喜びにさえなってきました。

自分が本を読んでやる。読み終わるとひとしきり本の話を材にした会話ができます。驚いたのは、子どもは記憶力がよいと言いますが、ストーリーの細かなところも、登場人物もすべてフルネームで暗誦できてる。実にきちんと頭に入っているのです。こうして家庭教育というものも隅におけないものだという確信を得ました。奇跡の詩人の流奈少年も学校には行かずに親御さんが、ずっと育て教育していらっしゃる。

そのことにまず、私の場合と似たような環境に共感を覚えたわけでした。子どもの良く見れば一人一人実に個性的なものです。学校に行かないというのも、なにかのきっかけがあってそうせざるを得なくなったのだとは思いますが、それならそれでよいと腹をくくれるまでには、なかなか行きません。

本音はやはり学校に行かないと心配でならない。学校で駄目なら、学校らしきものでもよいとか、弁解しながら探して歩く。とりあえずは、そうしたことはいっさい必要がないと決心しました。家にいて元気にして入ればそれでよいだろうと納得したのです。まだまだ10数歳の子どもです。二十歳に近くなれば、子どもの考えも変わるでしょう。いずれにしても正規の学校に通う、または入学する、卒業するとうとうの形式はできるだけ押し付けないように心がけて、様子を見ていたというのが真相です。

このように取り立てて障害らしきものもない子どもでも、ずいぶん違っているものです。ましてや心身に障害を抱えた子どもとなれば、肉体的な見てくれからしても、さまざまな個性というものが自ずと、他人や親御さんの目にも触れているわけです。これをどう理解するかという問題があるように思います。

われわれ個人に与えられた「私」性などというものは本当に狭い視野しか持っておりません。自己正当化や保身が強ければ視野はますます狭くなります。

だが、実際の世の中は、これまで逢ったこともないような新しい才能や見たこともない諸相をしめす人たちが、どんどん登場してくるのです。古風な固定観念に囚われているわれわれが新しき人間的諸相を、受け入れることができずに反発しているだけなのです。

 

 

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▼親子の縁

2002年11月12日 | ■学校的なあまりに学校的な弁証法

 息子たちも私も風邪を引いてしまった。居間のゴミ箱はハナをかんだテッシュペーパーの山。寝たり起きたり体温を計ったり、朝からずっと3人して鼻水すする音が絶え間ない。昼過ぎに3人が集まっていたので、オイ、左手をテーブルに出して比べてみようぜと呼びかけた。そこでシャッターを切った。写真上が長男24歳の手。下左が数え55の私。下右は次男18歳。さすが親子である。骨格がよく似ているように思えた。

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「たんのわ、あさくさにいるのか」

2002年11月06日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
散歩の途中で見たのだが、30メートルほど続く塀があって落書きに汚されていた。塀の持ち主は困っているのか、もしや一年近くもこうしてさらしたままなのだから、楽しんでいるのかもしれない。最高傑作は写真の文面である。

「たんのわ、あさくさにいるんだろ 殺すぞ ハゲ」。

「殺すぞ」は恐ろしげだが、最近の落書きの枕言葉のようなもので気にすることはない。「わ」は「は」の間違いだろうし、あさくさが浅草のことなら、同じ都内とはいえ、ここからは随分遠い。「たんの」は友だちの名だろうか。なにか事情があって会うことができなくなっているらしい。好きだった女の子の名前かもしれない。

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岡本民家園

2002年11月04日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
今日もまたお天気が良くて、ふと思い立ち、写真を撮ってこようと自転車で30分ほど行ったところにある「岡本民家園」に行ってきた。ここにある藁葺き屋根の民家や蔵は江戸後期に建てられたものだそうだ。すでに200年が経っている。今から20年ほど前に近くの農家が家を新築する際に「区」が買い取り、ここに移築してきたと聞く。民家園には、区の職員が常駐していて管理にあたっている。囲炉裏では薪がくべられ鉄瓶のフタがちんちんと音をたてていた。暖かな囲炉裏端に座っていると、いい気分になり眠くなってきたので、そこを離れ庭に出てみた。蔵の南側の白壁に写って揺れている木立の陰を見ていたら頭の中でシューベルトの「冬の旅」が鳴り出した。
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