赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼秋深しのぞき見ている野良の朝

2023年09月26日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

2011.11.09 川崎市

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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▼秋深し野菊の如き缶詰酒場

2023年09月11日 | ■かもめ文庫

以下もまた、昔の記事で悪いが、もう一度、その酒場に行ってみたいとは思いつつも、
さて、その店が何処にあったのかを、今となってはすっかり忘れている。

 

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2014.10.07 横浜市

 

 

 

 

 

 

 

環状なんとかという街道を一時間ほど歩いていくと、昭和の面影のある酒場があった。入ってみると、当店はすべてセルフサービスだから、なにもかも自分でやれと云う。つまみは缶詰のみ。四方の棚に何十種類という缶詰が並んでいた。飲んだもの食ったものは正直に、ここに書いておけと紙とペンを渡された。とりあえず、昔から大好きだったイカの缶詰を開けて、駆け付け三杯。おお、五臓六腑にしみわたる。

 

 

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▼言葉とネットの相関図

2023年09月11日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 むかし、当ブログに、以下のような雑文をさらしたが基本の考えは今もおなじだ。当時はまだ昨今流行の動画でしゃべくりまくる個人サイトは皆無であったはずだ。ところがいまやネットでは、動く絵(動画)による個人的主張が全盛となっている。これは別に、悪いことだとは思わない。実際、わたしも新聞を読んだり本を読んだりする時間よりは、よほどおおくの時間を動画見物に費やしている。
 それでもなお、わたしの場合は、実際、古いヒト科で、ネットにせよ何にせよ、自分が発する主張があるなら、それは文字による表現(発信)しか、できないだけなのである。これ以上のことは技術的にも到底無理だし、活字信仰と言われようが、旧いと言われようが、当ブログを根城となして、このままの調子で最後まで行こうと思っている。

 

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 <以下 2009.11.22 記>

 先日、久しぶりに当ブログ「新平家物語」(現在は赤いハンカチ)にお顔を見せてくれた小林さんのブログの記事の中に、次のような、お話が書かれてあった。

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○○さんという人が興味深い話をしているので紹介してみます・・・○○さんの指摘によれば、ネットの時代とは「空前の<自己テキストの時代>」が始まった時代だという。リアルなコミュニケーション、ネットワークでは表現できないテキストを、自己テキストとして表現し得ることの可能性を述べているのだろう。おいらがかねてより、ネットの達人(かもめさん達)に対してかんじていた、考えていたキーワードを表しているとも見えた。そこには「日常からの解離」もまた存在し、ネットコミュニケーションを面白くさせている。ネットもまだまだ捨てたものではないのである。
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 結論からすれば、小林さんの考えの方向性と、文中○○さんのネットに対する考え方に、わたしもまったく同感したところである。わたしは文学通ではないが文学好みであるとは思っている。「活字好き」という言葉があったが、それとは、少々違う方向で、やはり文学好きであり、ようするに新しい言葉を読みたい書きたいという欲求は隠せない日々を送っている。だからネットを金のかからない手ごろなひとつの道具と心得て、安直に使いまわしているだけだ。書籍は見ないとは言えないが、図書というものは、金がかかるし、読了するには骨を折る。ネットは安直で手ごろなのである。いまのところ、わたしのネット感は、それ以上でも以下でもない。だが文学という概念にかかわるのかどうかは知らないが、文字や言葉に対する欲求は、さらに、新しい言葉による新しい事柄を、自分の手で、なさしめてみたいという思いばかりが募りに募る。
 やはり内心からの欲求として、新しい言葉を読みたい書いてみたいのは山々で、だが、そうは言っても、それが簡単に入手できないもどかしさを感じている毎日でもあって、それがまた面白いと言えるのではないかと、できないことを言い訳じみて、逆説をもてあそぶ日々なのではあるが、こればっかしは結局、人々の歴史、文化の総体がかかっているようなので、非才なわたしにどうにも、どうにも、しようのないことなのかもしれないと思って、またまた言い訳じみてくるばかりなのである。それにしても、なぜ、言葉が面白いのであろう。それこそ問題だと思っている。
 小林さんもそうなのだろうが、われらには言葉(活字)なしには、一日たりとて過ごせない。不遇にも、そうなってしまったのである。そうして、この先もえんえんと、くだらないのかどうなのかは知らないが、あいかわらず安直に、歴史が作ってきてくれた言葉を弄していくのであろうと予想ぐらいは立てられる。ここで、ひとつだけ、ネットと言葉に対する、わたしの覚悟といったものを披瀝しておきたい。別に小難しいことではないのだが、これらは、まさにネットで学んだという確信があるから述べるのである。
 一口で言えば、言葉は私語につきるということである。私語以外の言葉などは、捨てておこうという、よいか悪いかは知らないが、わたしの個人的な覚悟ができたということである。これが当面、文字を読み書くという行為を意味づける、わたしの方向性となるはずだ。法律も理論もそうだし、新聞、雑誌、図書の多くがそうなのだ。文学史や哲学史などという、それらしく、まとめられた文言の多くが、わたしの欲する「言葉」とはほど遠いものかということが、つい最近分かってきたのである。いささか傲慢に聞こえるだろうが、ネットを通じて思想化された方向性として、わたしは、いまや人々個々が発っしてきた、または発しつつある私語以外の美辞麗句は眼中におかないようにしている。

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▼夕焼けを追いかけて 三題

2023年09月10日 | ■かもめ文庫

 十年前の今時、連日写真を撮りまくっていて、もしかしたらオレは生まれながらのカメラマンで隠れたる天才ではないのかと内心鼻高々だったのだった。

 

2013.09.17 川崎市

 

    それからさらに十年前だから都合二十年前のことだが、次のようなささやかな事件があった。

 夕方から息子に同行して学校へ行く。息子は某都立高校定時制の2年生である。今日は、呼び出された時間が決まっているのだから私は別の場所で時間をつぶしてから、息子と学校で落ち合えばよいだろうと提案すると息子はそれでは意味がないという。今日の場合は、家を出るときから親子一緒に連れだって行くことが教師から期待されていることなのだからと、心憎いほどの正論をはく。図体もかなりでかくなった息子と連れだって、どこかにいくということ一般を嫌い始めているわけではないのだが。どうも今日ばかりは親子そろって足並みそろえて出向いてこい、という他人からの指図に多少は抵抗しておきたい気持ちがあった。

 昨夜、次男の担任から家に電話があった。電話には次男が出た。息子が言うには、先日クラスメイトの幾人かと店で飲酒をしたことが発覚したのらしい。親を伴って明日、早めに学校まで「出頭」されたし、という連絡だった。まずは、現在通っている夜の学校は、息子が自分で選びとどこおりなく一年間通い続けてきたのである。親としても教師への不要な非礼は避けておきたい。今日のところはおとなしく息子の言うとおりにした。構内に入ると担任が出迎えてくれて、さっそく校長室へ。すると廊下途中の職員室から示し合わせていたように教頭以下、知らない教師が3人、4人と出てきて私たち親子を取り囲むように先導する、ものものしさ。テーブルのこちら側に私と息子。あちら側に校長を始め計5名の教師たちが居並ぶ。

「二度と」とか「自重するように」とか「分かりましたか」とか校長から念を押されるたびに、上手に言葉を選んで神妙に答えている我が子に感心する親バカだった。それにしてもなんだかあまりに形式ばっているので吹き出しそうになってしまった。ここで笑っては、せっかくの厳粛な雰囲気=教育がぶちこわしだし、何度も頭をさげては下を向いてこらえていた。

 さて、今日の判決(記録)は「三日間の校内謹慎に処す」ということであった。「お父さん、なにかご感想は」ぐらい、あってしかるべきところじゃないか。せっかく出てきたのだから。ちょっと不満が残ったが、ようはこれも儀式。こっちには一言もしゃべらせない。ようするに、お宅のお子さまの「学籍簿」にはそのように「記録」いたしますが、この件は確かに保護者にも申し渡しましたよ、と終始、一方的だった。だが先生方を批判しているつもりはない。今では、それでよいのだと思っている。学校とか公教育というものは、たぶんにそうした人の心を無視したような冷たい側面が伴わざるを得ないものだと心得ている。

 公社会、またはお上に求められているものは、たとい子ども相手とは言え、なにより「記録」を正確に付けていくことこそ秩序の要となる。ここに彼らの「労働」の質量がかかっている。儀式は10分もかからなかった。終わると校長も担任も人が変わったように、にこやかになって「ちょっとお話しましょうか」ときた。待ってました。私としては、先生方と話がしたくてここに来たのだ。まったく対話する可能性もなく、一方的に叱られて、ハイさよならでは、いくらのんきな父さんでものこのこやってきはしない。

 さっそくテーブルから離れ部屋の中ほどにあるソファに座り込み、校長を相手にひとしきり教育的私見を述べ始めたのだ。ところが今日は、繁盛している結婚式場よろしく後ろがつかえていた。すでに次なる「謹慎」親子が廊下でまっていた。先生方は私との雑談などもとより予定には入れていなかったらしい。「では、そういうことでまた機会があったらいろいろお話いたしましょう」と早々に追い払われた。午後6時前、校長室から解放されて息子はそのまま教室に、用済みの私は校門を出た。

 せっかく都心に来たのだから神保町まで足をのばして夕方の古本屋街を少し歩き、その後おいしそうなラーメン屋でも見つけようと、今夜これからの行動を立ててみた。地下鉄神保町駅から階段をあがって見れば頭の上に「平塚らいてう」のでっかい看板。話題の記録映画『平塚らいてうの生涯』がかかっていた。映画館はこのビルの10階にある。若き「らいてう」のまなざしに射すくめられてしまったか。今夜を逃すと二度と会えないような気がした。開演のベルにせかされて大わらわでチケットを買いもとめ十階行きのエレベータに駆け込んだ。

 

 そしてさらに、今や三十年前になるが、次のような短文を当時所属していた読書サークルの会報に掲げた。

 先日ある同人会の集まりで私の前に座っていたA氏が「君はいくつになった」と聞くので「四十五だ」と答えると、「三島が死んだ年だが、その事をどう思うかね」とさらに尋ねてきた。胸を突かれたような痛みを感じて言いよどんだ。六十歳に間近となったA氏の真意を図りかねつつも、その場では「高校生のころはよく読んだ」と投げやりに答えた。忘れられた棘がコンプレックス痛点に刺さっていたようだ。棘はいつからそこにあったのか。

 三島由紀夫が没して、はや四半世紀がたつ。1970年11月25日、45歳の三島由紀夫は自衛隊市ヶ谷総監部に押し入り、バルコニーから自衛隊員に決起を呼びかけた後、持参した日本刀で割腹自殺を遂げた。この時私はようやく二十を超えた頃で左翼イデオロギーを体中に塗りたくり東京の下町を得意げに歩いていた。すでに三島の作品の虚飾が鼻についていたので、いかにも芝居じみたこの事件はヒトが騒いでいるほどにはショックは受けなかった。

 田舎の高校生だったある日、わが家の引っ越しがあった。町の南はずれから西はずれのアパートまで、近くの農家から大きなリヤカーを借りることができれば一度で運べると母親が太鼓判を押すのだ。貧相な家具やら布団などを満載したリヤカーを駅前で賑わう商店街にさらしたまま通過することはさけられなかった。

「学校から早く帰ってきて手伝ってくれ」と母親から言い渡されてはいたのだが、リヤカーを引く自分の惨めな姿が目に浮かび生返事をしたままだった。その日の午後、私は学校の校舎からは別棟にある図書館にしけ込んだまま時間をつぶした。リヤカーを引くには中学生になる弟もいるし、いっそ母が自分で引けばよいと無責任にも荷物の搬入が終わった頃、新しいアパートに帰ればいいと決め込んでいた。

 図書館では司書が入り口近くの小部屋で事務をとっている他には誰もいなかった。よく磨かれた窓ガラスから差し込む西日を浴びながら書架の前をうろうろし校庭の方から聞こえてくる野球部員の気合入れの大声がうるさく耳についてきた。そこへ「古典」担当の教師が入ってきて「おう」と声をかけてきた。続けて「お前の好きな作家は誰だ」といきなり聞いてきた。

 間髪を入れずに「三島由紀夫です」と即答してしまった。「そうか、まあここも間もなく閉まるから早く帰れや」と言いながら彼は書架から厚での一冊を抜き取るとスリッパの音を残して出ていった。いくつかの短い物しか読んでいないはずなのに、なぜ「三島」などと言ってしまったのか。三島の作品及び写真などで見る彼自身の華やかさと自分を取り巻くあれこれの醜く貧しい現実との落差が私を刺した。この落差から来る一瞬の羞恥を古典教師に悟られたに違いなかった。

 校門を出るとすっかり暗くなっていた。さして親しくもない教師への不要な告白を悔い母親への言い訳を探しながら工場裏の傾きかけたコンクリート塀が長々と続く新しい家路をたどった。

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