新橋に向かう。駅前では恒例の古本市が開かれていた。いつものことだが買いたい本はたくさんある。断念するか勇んで購入するかの判断はひとえに財布の中味を点検してからということになる。
また本とは、あれでなかなか重いものだから、持ち帰るときの苦労を推し量っておく必要もある。幸い、今日は小林秀雄の『本居宣長』を1冊入れただけのぺしゃんこになったリュックザック姿だった。文庫本なら数十冊は入る。かと言って財布の問題が解決しているわけでもなかった。そこで上限を決めた。3000円以下と厳しく自分に言い聞かせつつ、売場を見て歩いたのである。
同じ店の台に筑摩書房日本古典文学全集(現代語訳)が並べられていたので、「古今和歌集・新古今和歌集」「本居宣長集」など5冊を抜き出した。1冊500円の値がついていたのだが、ここは店主に対して強気に出る。
「頼む!2000円!ねっ ねっ」と千円札二枚を店主の目の前に置いて、後は拝み倒した。店主は苦り切った顔をしていたが、こちらの強引さに気圧されたように、しぶしぶと「もってけっ!」と言ってくれたのだった。500円の差は大きい。
別の店で、かねてより欲しかった文庫本を手に入れた。金田一京助の『石川啄木』(角川文庫)である。家のどこかに1冊あるはずなのだが行方知れず。二十歳の頃に一度読んで、啄木という一人の男を素通りしていった痛切なリアリズムに打たれた。
本を読んでもその内容は端から忘れていくのが最近の私だが、30年前に読んで忘れがたいこの本の内容は啄木や文学のことを思うたびに五感を通して吹き上がってくる。いわば私にとっては原点とも言えるだろう。こうした読書体験というものは、めったにないことは一向に鳴かず飛ばずで過ごしている私のその後がなにより証明してくれている。
人と本とは、出会い頭に衝突してしまった事故のようなものだ。だから一般に、何々の本はこれこれの感動があるという「教育」は成り立たつものではない。あくまで、ある本にたまたまある時、激しくぶつかってしまった経験を持つ人間が一人いたという小さな出来事に過ぎないのである。
その他、外来語(カタカナ語)辞書と丸山真男の『戦中と戦後の間』(みすず書房)など入手。結局予算は300円オーバーした。リュックも目一杯になってしまい、それ以上は一冊も入らなかった。