赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼秋葉原の二枚目

2006年07月29日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

秋葉原に行ってきた。格好のよいチンドン屋さんが人でごった返している電気街を太鼓や笛を鳴らして悠々と練り歩いていた。見事な役者ぶりであった。

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カラスに馬鹿にされるの巻

2006年07月27日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
路上にカラスの羽根が落ちていた。そう言えば二ヶ月ほどまえになるだろうか。カラスに襲われたことがある。木立の多い坂道を降りてくる途中のことだった。私の頭上すれすれに、大きなカラスが背後から飛びかかってきたのだ。威嚇してきた。突如、耳元に大きな羽音が響き、びっくりしたのである。私は黒っぽい帽子をかぶっていたので、これが標的になっているのかと、あわてて帽子を取りながら、その場に身をかがめた。ふたたび襲ってきたら、手にした帽子を振り回して抵抗するつもりだった。私を襲ってきたカラスは、すぐ頭上の電線にとまってしきりに鳴き叫んでいた。私は彼の様子をうかがいながら無用にカラスを刺激しないようにゆっくりと身を起こして、また歩き始めた。ところが、再度襲われたのである。今度のカラスは明らかに別のカラスだった。さきほどと同じように背後から頭上すれすれに飛んでき た。二羽のカラスによる見事な連携プレーだった。夫婦だろうか。

こうして百メートルほど歩くうちに、計二回づつ四回の波状攻撃を受けた。二羽のカラスは私の姿を見逃すことのないようにと、話を交わし連絡をとりあっているようだった。ちょんちょんと電線を伝い前後から私を挟み込むような絶好の位置取りをしてきた。一羽は背後にいて、もう一羽はからなず私の行く手をはばむように、先にたって前方の電線に飛び移ってきた。これが怖かったのである。明らかに標的にされ狙いをつけられていると思った私は、すっかり恐ろしくなってしまい、早足で坂道を下り、とりあえず彼らから姿を隠すために、坂道をおりきったところにあるマンションの中庭に逃げ込んだ。マンションの生垣のすき間からさきほど下りてきた坂道の電線を見やると、二羽のカラスは適当に離れた位置にとまっていて相変わらず大きな鳴き声で呼応しながら、それぞれが四方に首をめぐらしてきょろきょろと私を探しているようだった。しばらくは、そこから動くこともできなかったのである。思えば坂道にさしかかるとき、カラスの写真を撮ろうとして、木立の上にとまっていた彼にレンズを向けたのがいけなかったのかもしれない。最初の攻撃はその直後だった。それから坂道を下りきるまでずっと追跡されていたようだ。
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時計草

2006年07月05日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
今日は一日雨。九州では大雨だそうだ。近所にトケイソウが咲いていた。

さて、ネットについてだが、もちろん私がごときメカオンチが偉そうに言えないが、また誰にとってもそうだと思うが、あくまでも自分の使い勝手に応じてネットに対峙する態度を決めればよいと思っている。いっそ態度なんぞ問題ではないのかもしれない。インターネットは情報を受信するばかりでなく発信できるという、これまでにない利便があり、これが最大の魅力であった。ブログがそうであるように、まるで自分自身で本なりを出版しているような気分を味わうこと も可能である。だがさらに、満足させられるたくさんの価値があるかのように過信することは断じて禁物である。世間で言われているほどのものではないというのが、今の私の率直な感想である。

文字を読むというだけのことなら、やはりモニター上で読むよりも紙媒体のほうが目にも優しい。本はどこにでも持ち運びもできる。私は寝転がって読む場合が多いが、電力等、他のエネルギーも不要である。やはり活字は活字、本は本の良さがあり、活字や紙媒体の利便性をすべてネットで代替できるものではないようだ。

それにしても、ネットにおける主として掲示板に毎日書き込みしているお陰で、すっかり横書きになれてしまい。たまに手紙などを書く際も、いまは横書きである。それも毛筆に似た筆ペンを使う際にも横書きで書いてしまうのだから、自分でもあきれるのだが、今や縦書きは無理難題だ。こればかりは勘弁していただくほかもない。ご先祖さまに申し訳ない思いだ。

そのかわり、作文というものに少しは慣れてきたような感じがする。だがこれもよく考えてみれば、決して良いことばかりでもない。文章を書きなれる、などということは決して自慢にはならないものだ。文学的な価値に反逆している意味すらある。書き慣れるということは読者にとって文章が読みやすくなるということである。ここに自ずと生じてくる新しい難問がある。読みやすいということは他人に迎合することに他ならず、かならず自己省察がおろそかになってしまうものである。褒められて天狗になるのが怖いのは、ここにある。文章が上手だなどといわれ始めたら、自分の精神的貧困を疑ってかかったほうがよい。文章の形に見える整合性と、思想や精神のありようはまた、別個のものだと信じている。

思想や精神は、本来、荒々しいものだと思っている。その荒々しさが、率直に文面の上に表現できれば、しめたものだが、読者にはさらに齟齬をはらませるに決まっている。文学とは、どこまで行っても難儀なものなのである。一筋縄では、いかないものなのだ。表現は簡潔を目指すが、人に宿る精神は複雑になるばかりである。自分で言うのもおこがましいので、一般論として言うのだが、こうした苦汁をなめるような隠れた困難性こそ、そこはかとない文章の魅力となって匂ってくるようになれば見っけものとなる。文章の魅力とはいっても最後は人柄の魅力、精神の魅力に行き着くだろう。いわゆる詩心などと威張ってみても、自分の心のありようを叙述するしか他に手はないのだから。

それに文章とは言葉が集まっている形態のことだが誰でも知っているように、また別に面白い言い方がある。「ことばの文(あや)」と言う。まさに文(ぶん)とは人固体の感情や思想の断片を、再構築する上で表現されてきた一まとまりの所感を文(あや)どって、はじめて、そこに実体として現出してくるものである。それが文章であり言葉が活用される際の根源的所在である。他人にも知ってほしいのは、わが感情である。これが文(あや)どられ他人の眼前に表出されてくる。それを私たちは見たり読んだり、または耳にして納得したふりをしている。
 
よく耳にすることだが、人の言説に望む「普遍的価値」等々に対置して、昨日どなたかが言ってきた文章における「皮膚感覚」とは、文(あや)のことに他ならないだろう。人の言葉には文(あや)などという、あいまいかつ私的なものよりも、もっと普遍的社会的に、その価値を公認でき得る、なにかがあるはずだと主張してはばからない御仁もたくさんいる。結果論なのか方向付けなのかは知らないが、言ってみれば科学時代の今日、文などよりはやはり文意こそ一義であり、ようするに「客観的事実」とか「科学的真実」の裏づけこそ大事だろうという主張である。だが、文章に所在すると思われがちな、それらの事実とは何か。これは私には、一見わかりそうで、よく考えれば考えるほど、分からないのである。
 
言葉から離れた「客観的事実」とは何のことか。言葉の外部にあるらしい「科学的真実」とは何か。それらを概念を、いかにして言葉で説明できるのであろう。いずれにしてもそれらの事実や真実に近づくためにも、われわれにもたらされた道具は言葉であり、せいぜい記号である。または専門家は実験なりをするだろう。実験もまた、その成果なりを記録し一般化するためには文章や記号が必要である。だがその文章や記録そのものと科学的真実は雲泥の差があるだろう。言葉はあくまで音や文字だ。事実と文字が、同一物とはとても思えない。よって、それそのものとして言葉と真実はまったく別個のものなのだと私は確信する。
 
文(あや)とは個別人間の思想と感情である。比して「真実」ばかり重んじる主張は、まるで言葉を人間の肉体から離せと強制されているようにしか聞こえない。文(あや)などより、まだ見ぬ真実を歌えと言うのである。真実と聞かされれば、宝物のように輝いているらしいことは想像するに易いが、いかんせんまだ見たこともない物体を、いかに歌えばよいであろう。歌ってみても文意のない、つまり文(あや)どられていない鼻歌ぐらいにしか人の耳には届かないのではないか。ならば大道芸人の浪花節でも聞いていたほうが、よほど教養のためかもしれない。もちろん時には鼻歌もよい。よく耳をすませればあれで鼻歌にも、なかなかの文(あや)というものが含まれている。人の声こそ、言葉の最初であるならば、文(あや)とは、意味よりはよほど音のことであり、それは声の抑揚のことだという説さえある。
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▼話すことと書くことと

2006年07月04日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
書ける以上に難しいこと考えるな!

同感!これ以上に何一つ付け加えることなし。逆に「話す以上に難しいことを考えるな!」とも言えましょう。つまり、話すという安易さに比べて書くということは難儀なものだなどというこだわりは感傷に過ぎません。ないものねだりなんですよ。まるで、「書き手」という階層があるかのごときに、書くという行為を話すことなどに比べて権威があり、彼らに特権を与えるべきだと聞こえてくる。そうではないと思う。書くということは話すことと本質的には何の変わりもござんせん。もちろん技術的な差異はある。話は聴覚に訴え、文字は視覚を通して訴える。だがそれは道具の違いです。根は同じ言葉(国語)を使っているのです。違っていると思うのは、見え方の違いに他なりません。違っているように見えているだけのこと。受信装置が違うとは言える。文字は視覚だ。おしゃべりは聴覚だ。このの違いだけです。ならばそれは表向きのことですよ。確かにしゃべるということは全身を使った一種のパフォーマンスでもあり、同じ言葉でも倍して伝わりやすいということはあるでしょう。

たしかにしゃべっている時は推敲は出来にくい。推敲するということは、言葉を慎重に出し入れするということだ。文章を練るということだ。かたっぱしから話していたんじゃ推敲はできないのは理の当然のである。だが、同じしゃべるにしても演説ともなれば、かなり言葉を慎重に選びつつ、つまり推敲しつつ話しているのである。かようにしゃべることと書くことは、どこに本質的な違いがござ候や。違っているというのはなにか抗弁をしたがっているようにしか見えない。どちらかに虚偽があるとでも言うのだろか。序列があるのか。記録性についても、同じことですよ。必ずしも書かれた文章だけに記録性があるともいえますまい。録音という手もある。
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