かつてマルクスは「人間は社会的な動物である」と喝破した。だが、考えてみれば動物であれ、植物であれまた鉱物であれ、社会的でない存在などというものが、あるだろうか。存在しているということが、そも「社会的」なのではないか。マルクスの言う「社会」とは、いま一つ深い意味があるといったところで、底が割れている。人間はその発祥した時点から言葉を持ち、衣をまとい、恥を知る動物だったのではないか。すなわち人間が発生したときから社会は存在していたのである。すべての生き物と同じようにだ。何も人間だけが社会を構築しているわけではない。社会を言うなら、蜂やアリは、それこそ人間の何倍も高度な「社会」を作っている。固体は、姿かたちまで、社会的役割に準拠されている。働き蜂は、働き蜂であることに、いっさい疑問も持たず、文句をつけない。自己の存在に、疑問を抱かずひたすら働き続け、短い一生を終えていくのだ。これが高度に到達した社会の有様である。完璧に社会化された個体の姿なのである。社会を高位において、人個体を下位に見るだけならば、おそらく人間社会も、早晩、蜂やアリのようになる。もちろん、それは人類の滅亡を示唆していることに他ならない。すでに地球環境は人間自身によって大きく変わりつつあるではないか。人間は自然を変えてしまう。それは、生きやすいという道なのだろうか。人間の都合というよりも、よほど社会の都合で、自然が変容されてきてしまったのである。社会は地球全体をアリの巣に擬して、さらに進んでいくだろう。ここに問題がある。善き社会と、善き人間の存在に、存在論的なギャップがあるとは思わないか。アリの巣の中で、人間たる「私」は生きていけるだろうか。私には現代科学のいっさいが、アリや蜂の巣のようなものを目指しているようにしか思えない。社会科学や現代政治はその急先鋒のイデオロギーである。人間が利口になるということはどういうことか。早い話、一人一人が、社会のための、より効率的な歯車になるということだ。歯車の性能がよければ、さらに善き社会が出現するはずだという俗論である。この俗論こそ、怖いとは思わないのか。それが田吾作のいう「他人との協調」に隠された思想なのである。士農工商は古いなどとは言っていられないのである。名称が変わってきただけだ。いずれにせよ明確な役割分担の構築がせかされているのは、江戸期も現代もまったく同じことなのである。職業とは歯車業界の名称に過ぎない。社会のどこの部位に所属する歯車なのか。公社会からレッテルをいただき、自分が社会の一員であることに確信を得て、はじめて安心できるのだ・・・・とする思想のことである。人として、それだけでよいのだろうか。ルソーの次のような意見がある。わたしは、社会と「私」との関係についてなら、傲慢なマルクスの屁理屈よりは、よほどルソーの孤愁を愛している。
善人とは、けっして他人に害をくわえない者のことである。社会に居る以上、ある者の利益は必然的に他のものの害になる。この原理に立って、社会の真っ只中にいる人間と、孤独な人間とどちらが「善」かを、検討してみるがよい。ある知識人は一人でいるのは悪人だけだと言う。わたしは逆に一人でいるのは善人だけだと断言する・・・ルソー
2007-11-08 03:28:14 記
善人とは、けっして他人に害をくわえない者のことである。社会に居る以上、ある者の利益は必然的に他のものの害になる。この原理に立って、社会の真っ只中にいる人間と、孤独な人間とどちらが「善」かを、検討してみるがよい。ある知識人は一人でいるのは悪人だけだと言う。わたしは逆に一人でいるのは善人だけだと断言する・・・ルソー
2007-11-08 03:28:14 記