赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼社会と「私」

2007年11月30日 | ■教育年金管理人泥炭氏との対話
かつてマルクスは「人間は社会的な動物である」と喝破した。だが、考えてみれば動物であれ、植物であれまた鉱物であれ、社会的でない存在などというものが、あるだろうか。存在しているということが、そも「社会的」なのではないか。マルクスの言う「社会」とは、いま一つ深い意味があるといったところで、底が割れている。人間はその発祥した時点から言葉を持ち、衣をまとい、恥を知る動物だったのではないか。すなわち人間が発生したときから社会は存在していたのである。すべての生き物と同じようにだ。何も人間だけが社会を構築しているわけではない。社会を言うなら、蜂やアリは、それこそ人間の何倍も高度な「社会」を作っている。固体は、姿かたちまで、社会的役割に準拠されている。働き蜂は、働き蜂であることに、いっさい疑問も持たず、文句をつけない。自己の存在に、疑問を抱かずひたすら働き続け、短い一生を終えていくのだ。これが高度に到達した社会の有様である。完璧に社会化された個体の姿なのである。社会を高位において、人個体を下位に見るだけならば、おそらく人間社会も、早晩、蜂やアリのようになる。もちろん、それは人類の滅亡を示唆していることに他ならない。すでに地球環境は人間自身によって大きく変わりつつあるではないか。人間は自然を変えてしまう。それは、生きやすいという道なのだろうか。人間の都合というよりも、よほど社会の都合で、自然が変容されてきてしまったのである。社会は地球全体をアリの巣に擬して、さらに進んでいくだろう。ここに問題がある。善き社会と、善き人間の存在に、存在論的なギャップがあるとは思わないか。アリの巣の中で、人間たる「私」は生きていけるだろうか。私には現代科学のいっさいが、アリや蜂の巣のようなものを目指しているようにしか思えない。社会科学や現代政治はその急先鋒のイデオロギーである。人間が利口になるということはどういうことか。早い話、一人一人が、社会のための、より効率的な歯車になるということだ。歯車の性能がよければ、さらに善き社会が出現するはずだという俗論である。この俗論こそ、怖いとは思わないのか。それが田吾作のいう「他人との協調」に隠された思想なのである。士農工商は古いなどとは言っていられないのである。名称が変わってきただけだ。いずれにせよ明確な役割分担の構築がせかされているのは、江戸期も現代もまったく同じことなのである。職業とは歯車業界の名称に過ぎない。社会のどこの部位に所属する歯車なのか。公社会からレッテルをいただき、自分が社会の一員であることに確信を得て、はじめて安心できるのだ・・・・とする思想のことである。人として、それだけでよいのだろうか。ルソーの次のような意見がある。わたしは、社会と「私」との関係についてなら、傲慢なマルクスの屁理屈よりは、よほどルソーの孤愁を愛している。

善人とは、けっして他人に害をくわえない者のことである。社会に居る以上、ある者の利益は必然的に他のものの害になる。この原理に立って、社会の真っ只中にいる人間と、孤独な人間とどちらが「善」かを、検討してみるがよい。ある知識人は一人でいるのは悪人だけだと言う。わたしは逆に一人でいるのは善人だけだと断言する・・・ルソー

2007-11-08 03:28:14 記
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▼わたしの革命

2007年11月25日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法
Rさんには年金がないのか。自由だな。年金受給者に比べて、暮らし向きの選択幅が大きい。その分、いつまでも若々しくいられる。いなければならない。わたしは、年金受給者に比べて非受給者を尊敬する。労働者に比べて百姓を尊敬する。指揮官よりは前線に立つ兵士を尊敬する。頭脳労働よりは、よほど手作業者を尊敬している。高学歴者に比べて低学歴者を尊敬する。文字を知っている馬鹿に比べて文盲者を尊敬する。健常者に比べて非健常者を尊敬する。金持ちよりは貧乏人を愛する。生者よりは死者を敬う。男に比べて女を尊敬する。大人に比べて子どもを尊敬している。大国に比べて小国を敬っている。量よりは質を重んじる。齢60にして常識の多くが逆説に基づいていることを知った。いよいよ、神は細部にのみ宿っていることを知った。これはわたしの思想的な革命である。少なくても革命的な喜びである。

-昭和23年生-
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▼祝入選 写真コンテスト

2007年11月12日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
区民写真展のコンテストに作品を応募したことは先日お知らせしたが、昨日、そのうちの一枚が入選したというお知らせが事務局から郵送されてきた。指定写真店に持ち込んださい店主が「いい写真ですね」と言ってくれたその一枚だった。このところ私の身辺には事件らしい事件もないものだから、いささか退屈しているときに、この知らせは朗報である。展覧会までの事務的なことが説明されている「お知らせ」を読んでみた。それによると、このたびのコンテストは応募総数1100点あまりが集まった由。私は見逃していたのだが、入選作品数は200点と当初から決められていたらしい。自分の予断と一桁違っていたのである。それなら大騒ぎするほどのこともなかったと喜びはつかの間だった。考えてみれば、私がそうであったように、ほとんどの応募者は指定限度数の3枚を送っていたに違いない。案の定、応募者数は応募作品数のちょうど3分の1の300名弱である。ということは応募した者のうち半数以上の方が入選を果たされたということである。もちろん中には一人で2点、3点と入選された腕の立つ方もいたには違いないが。ここまで読んできて苦笑を禁じえなかった。そして、さらに次のようにあった。きたる写真展において入選作品を展示するために額縁が必要である。額縁代は入選者に自腹を切ってもらいたい。至急、二千円を同封の払い込み用紙にて送金されたしとあった。金を送らずば入選は取り消される。さてさて、どうしたものか。ここは思案のしどころである。それから小一時間ほど経って気がついたことがあり受話器をとった。作品を持ち込んだ隣町の写真店に、とりあえず合否の報告だけでもしておこうと思って電話を入れたのである。すると、あの時、私の写真を誉めてくれた店主が電話に出てきて、自分のことのように喜んでくれた。店主の声を聞いて考え直した。やはり自分の場合こうしたことは滅多にないことでもあるし、その一枚も展示していただこうと決め、夕方二千円を払い込んできた。

区民写真展 2008年1月4日~1月13日 10時~18時 世田谷美術館にて

<942字>
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▼農業の神様

2007年11月09日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
>来春にも新規就農(できれば専業)を目論む長男とそれに全面協力したいと考えている私たち夫婦

がんばってくだされ。おっちゃんと息子さん。頭が下がる。何事も、成功不成功は時の運もあるからね。大リーグのマウンドに立つ松坂や岡島の気持ちも同じだ。打たれるかも知れないと、ひやひやしながらマウンドに登っていくのでしょう。挑戦者というものは、みな何かを賭けていますよね。集団組んで賃上げ闘争なんてのは、なんの自慢にもなりやせぬ。やるなとは言わないが、ありゃ、そうとう精神が腐れるだろうね。人を相手の物取り合戦だ。争議なんてもんは、人間の精神をだめにするよ。運を天にまかすという境地にならなければ、ましなことは何ひとつできませんよ。昨今、農業は大変だという宣伝ばかりがこれ見よがしに流れているが、そりゃ大変は大変なのでしょう。だが、耕地さえあれば草木は生える。手入れを怠らずば実がなるだろう。それは食えるだろう。なら農業はこの世でもっとも安全な職業だと言えるのだ。さまざまな現代的諸条件を加えてしまうから、それが、なかなか難しいという話になる。話の上だけじゃないか。身を挺さずに収穫はできない。都会人は口ばっかりだからね。彼らの言うことを聞く必要はない。統計や数値を頭で追いかけているだけで、農業ができるかってんだ。農業は自分を自然の中に投入するのだ。身も心も自然になるのだ。誰がよく働いているか、お天道様と土地の神様はきちんと見ていてくれますよ。

先日、稲作がいよいよ立ち行かなくなるというテレビの番組を見ました。コシヒカリなども、いまや中国、米国でほとんど味もひけをとらないものが生産されているといいます。今年はさらに国内米価が下落しているという。こうして米は、いくら生産しても農家の暮らしがおっつかないということらしいです。番組では日本の農業は壊滅的であると放送されていました。一昔前に比べると、日本人が米を食わなくなって、国内消費は半減された。追い討ちをかけるように、世界中で米が安く生産されるようになった。この二つが、日本の米作農家を直撃しているということです。

さびしい話ですが、さても、どうなることやら。私は米は大好きだから、もう少し値が上がっても買うだろうと思うぐらいで、同じ国民として、他には何一つましなことはできません。今後、日本の米作農家は離農撤退を余儀なくされるでしょう。他人行儀な話ですが、水田のある農村風景だけは、わたしも子ども時代は農村育ちですから懐かしいものがあり、あれだけは、後世に残せるものなら残してもらいたいと思います。
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たぶん「都会に出て働く!」という田舎の若者に対しても、彼らはそっくり同じ悲壮感に満ちた言葉を並べ立てて、「やめたほうがいい」とのたまうことでしょう。彼らにとっては、田舎であれ都会であれこの国の若者に希望などあってはならないのです。
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わかります。わたしの息子たちも、ようするにニートのようなものですから。でも彼らには彼らの満腔の思いがありますよ。これが左右の近代合理主義者には見えないのでしょう。学校をとどこおりなく通過し、そのまま資本制生産体制に組みこまれる。それ以外の若者の希望なんてどうであろうと、見て見ぬふりをしているか過激な合理主義者になると若者の放埓な夢を許してはならないとさえ思っているかのようです。こればかりは明治以来、あまり変わっていないようですね。いずれにしても、了見の狭い話です。

<1477字>
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▼トン汁を食する

2007年11月01日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
夕飯にトン汁を作った。材料がなにもなかったので商店街で買出してきた。トン汁は簡単である。基本の材料は豚肉と根菜類である。今日は、以下の材料を一口大以下に切り刻み、大鍋にて一気に煮込むだ。出汁はほんの少々でよい。出汁を入れすぎないことが味噌である。材料が煮えたところで味噌を加える。味噌も味をみながら二三度に分けて入れるのがコツである。さて、下は一応、4人分だが、一人あたまドンブリで二杯づつは十分に食せる分量である。なお金額はおおよそである。

水・・・・・・約3リットル
豚ばら肉・・・300g・・・¥400
大根・・・・4分の1本・・・¥50
にんじん・・・1本・・・¥55
ごぼう・・・・1本・・・¥85
里芋・・・・4個・・・¥80
いんげん・・・10本・・・¥110
豆腐・・・・一丁・・・¥95
こんにゃく・・・一丁・・・¥85
味噌、シマダヤの出汁の素・・・少々

計・・・・¥855なり
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