目黒通りから、外苑西通りに入る。
広尾を過ぎ青山墓地の入り口にさしかかったので、写真を撮りながら墓地を縦断した。
まるで墓守でもしているように、あちこちの墓石の前でネコが昼寝をしていた。
墓地を抜けると神宮球場である。六大学野球が行われていてスタンドから上がる歓声を耳にしながら、球場のわきを抜けてきた。
明治公園のフリーマーケットは店じまいの時間だった。
腹がすいたので、出店のたこ焼きを買い、それをほう張りながら慶応病院を抜け、四ツ谷に至った。
二時間半を歩いたことになる。
婿殿から突然の電話があったのは昨日だった。今日になって病室を訪ねると、電話で聞かされた通り妹は「骨と皮」になっていた。外に出たいと言うので車イスを押して中庭に出た。頬にあたるそよ風が気持ち良いと言う。何枚も写真を撮った。カメラを持ってきてよかったと思った。妹の笑顔は、やはり天下一品だった。私に9年遅れてこの世に誕生してきた。46歳になる。理由は聞いていないが妹夫婦は子どもは作らなかった。レンズを向けると、すかさずメガネをはずした。これは昔からそうだった。
帰宅して一人になりデジカメに撮ってきた写真を念入りにモニターの上に転写しながら、結局朝まで、涙が止まらなかった。すっかりやつれたとは言え、カメラの前で懸命に笑みを作ってくれたわが妹は、若く美しかった。それが嬉しくもあり、また悲しく胸を打つ。子どもの頃から、私にとっては天使のような存在だった。このことだけは間違いない。来週早々には、4度目になる手術を受けるのだと言う。
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近隣掲示板での「資本論」をめぐるあれこれの話題に刺激されて、やっと重い腰を上げ、ついさきほど本棚の奥のほうで埃(ほこり)をかぶっていた「資本論」(国民文庫 大月書店)を何冊か引っぱり出してきたのである。さっそく第一分冊の、それもほんの最初の部分だけを、ざっと読み直してみた。まともにページを開くのは30年ぶりのことだ。奥付を見ると1971年発行とあった。マルクスの文体は一種独特の熱情と香気があり、それは訳文を通してもよく伝わってくる。「学問には平坦な大道はない」も有名な箇所で、その部分の文意だけは、うろ覚えながらずっと頭の片隅に残っていた。さらに第一版序文の末尾にある次のような箇所も印象深い。本書に対する・・・「科学的批判による判断ならば、すべて私は歓迎する。私がかつて譲歩したことのない世論と称するものの先入見にたいしては、あの偉大なフィレンツェ人の標語が、つねに変わることなく私のそれである。汝(なんじ)の道をゆけ、人にはその言うがままにまかせよ!」。「汝の道を・・・」はダンテの「神曲」にある一文らしいが、マルクスは実に巧みに持説を補強するために古今の書物から適当な言葉を導き出してくる引用の名手であった。
世界中の若い人たちが、マルクスの著作のいたるところに散りばめられた熱く語りかける箴言(しんげん)に酔い、率先して革命運動に参画しそして傷ついた。時の為政者や政治体制に抵抗の限りをつくし、どこの国の近現代史にも、良かれ悪しかれ多大な影響を及ぼしたのである。これもひとえにマルクスの文体から立ちのぼってくる彼その人のパッションが、著作を通じて世界の若者たちの心を揺り動かさずにはおかなかったからだろう。マルクスの歌っていた歌が、そのまま直接読者に届き、それが各人の胸中に聞こえてくるのである。
運動は、理念と組織のたまものだが、一人一人に確固たる思想がなければどのような立派な革命党派でも烏合の衆の集まりに過ぎない。そしてこの思想たるや、別に理屈だけで説明できるようなものではない。マルクスの文体はマルクスの精神そのもので、読者には彼の編み出した論理や理論よりはむしろ一編の「物語」中の主人公のようにマルクスという男の生々しい像が、心の深い部分に刻み込まれてしまうのだ。思想とは上手にできあがった一つの「物語」であると、久しぶりに「資本論」を手にし改めてそう思った。さて、「資本論」の本文は次のような言葉で始まっている。この冒頭の一文で商品、貨幣、資本そして労働などと名付けられた登場人物たちが、それぞれの自己を主張して大暴れする長いながい「物語」の門出が誓言されている。
第一編 商品と貨幣
第一章 商品
第一節 商品の二つの要因
使用価値と価値 資本主義的生産様式が支配的におこなわれている社会の富は、一つの「巨大な商品集合」として現れ、個々の商品は、その富の元素形態として現れる。それゆえ、われわれの研究は商品の分析から始まる。
<2004.04.18 記>