赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼わたしはもちろん貧乏だが それが何か?

2022年04月11日 | ■教育年金管理人泥炭氏との対話

以下、当ブログで見かけた昔むかしのコメント欄より


●マルクスは蘇るだろうか (泥炭)・・・2011-10-16 07:28:49

1%の富裕層にお金が吸収され、経済が動かない。
 金は有り余っているから、株式市場は荒れ、貴金属価格は暴騰し、地道な経済活動を破壊する。けれども、飢えたる者は金が無いから、工場は有り余る品物を倉庫に積み上げたまま、休業中。 若者には仕事がない。マルクスの言う、資本主義の成熟の時代に成ったと言う事だろうか。 しかし、彼の理想とした社会は機能しない事が既に実証済みの様な気もする。かもめさんはマルクス理論に造詣が深そうなご様子。 是非、ご意見をお聞かせください。 マルクスは甦るだろうか。


●資本論口座 (かもめ)・・・2011-10-16 09:36:54

泥炭さん、こんにちは。さて、マルクスは甦るだろうかとの、わたくしめへのご質問ですが、はてさて、いかがなものでしょう。だいたい、マルクスの理屈やら、マルクス主義などという洟垂れ小僧を、なぜに現代に甦らせる必要性があるのでしょう。たしかにカール・マルクスは学者として一流だった。だがどれほど彼が、浩瀚な書籍を書き残しても、やはりそれは理屈を並べただけのことです。その理屈が、他の凡百の学者どもが開陳した屁理屈にくらべて多少は説得力があったという話でしょう。マルクスの経済学的屁理屈が、多少は、人々にとって理解しやすかったという程度の問題だと思いますよ。なにしろ、彼は数字を、使って、自分の思い通りに社会を計量したのですから。彼の主著である「資本論」は経済学の本というよりは、よほど数学の本なのだと、わたしは断言します。解答されるべき、答えが最初にあって、そこに向かって数式を、構築してみた。少なからず幸運にも、数式と解答が合致したのです・・・もちろん数値的にです。資本論を誰が検算してみても、正しい解答になるのです。よって、マルクスは決して間違ったことを書いてはいないのです。しごくまっとうな正解書(数式)を書いた。もちろん、正解を得るためには、方程式の変数を、ある程度、前もって用意しておく必要がある。変数だらけの方程式では、誰にも解けません。いうなればモデル化です。悪く言えば、決め付けです。工場というものの規模を決め付け、資本家の儲けも、労働者の賃金も、社会的身分も、最初から、決め付けておく。この場合、商品の価格だけが変数として、数式を作り上げる。またの場合は、商品の価格を決め付けておき、賃金を変数としておく。または資本家の儲けを変数扱いにしておく等々とうとう。これが「資本論」ですよ。数学嫌いのわたしにとって「資本論」は、無味乾燥の実につまらない本ですね。それに、泥炭さんの質問が、まるで頓珍漢です。

>1%の富裕層にお金が吸収され、経済が動かない。

そうなのですか。わたしには、ちっとも「経済が動かない」とは思えません。それに1%の富裕層とは、なんじゃほいさ。彼らだけに「お金が吸収され」ているとは、なんじゃらほいさ。

>金は有り余っているから、株式市場は荒れ、貴金属価格は暴騰し、地道な経済活動を破壊する。

「金が有り余っている」のですか。どこに金が有り余っているのだすか。金が有り余っていると、株式市場は荒れるのだすか。わたしは、株式なんてもんは、多少は荒れたほうが、世のため人のためだと思っている。

>けれども、飢えたる者は金が無いから、工場は有り余る品物を倉庫に積み上げたまま、休業中。

「飢えたる者」って、わたしは見たことがありませんよ。どうして飢える必要があるのですか。飢えるまえに福祉事務所に行けば、なんとかしてくれるのが現代日本の、優しい政治です。ちなみに、生活保護受給者が、200万人を突破したらしいですね。戦後の混乱期以来の出来事らしいですが、行政や政治というものが、まっとうに動いている証拠ですよ。かつて、飢える寸前だからと、福祉事務所に申し込みに行っても、門前払いを食わされたという事件が、多発した。それに比べれば、だいぶ日本の社会はよくなっている。そうは思いませんか。泥炭様。さらに、「工場は有り余る品物を倉庫に積み上げてたまま」と、おっしゃいますが、どこにそんなアホな工場があるのやら。売れもしない品物を、積み上げておくような不良な工場は、さっさとつぶしてしまえば、よいだけの話ではありませんか。あなたや私に、なんの責任があるのやら。

>若者には仕事がない。

見方にもよるでしょうし、それに企業などへの就職が困難になっているとは聞きますが、一般に「仕事がない」、とは思えませんよ。仕事がないなら、無銭旅行でもしてくればよい。大道芸人でも、やればよい。後腐れなく、ひがな一日、歌でも歌って過ごしてみればよい。食いっぱぐれたら、福祉事務所に駆け込めばよい。資本主義風の「仕事」がなくても、楽しい人生はおくれるはずです。金だけが、幸福をもたらすものではない。時には金銭を拒否する知恵だけが、この数字(貨幣)まみれの社会的悪弊を壊していくのです。それはともかく、若者たちには、冒険して欲しい。金を使って遊びほうけるなんてのは冒険でもなんでもないのだし、連日連夜、パソコンやケータイと睨めっこして、欲望を満足させているなんてのは、どれほど人類を貶めているか。人類自滅の方程式が、金とコンピュータに代表されるデジタル思考の中にあることを、知らなければなりません。たしかに冒険は、やりずらい世の中になってきた。だが、誰か(若者たち)が冒険しなければ、人間は、おそらく自滅の方程式を明確に刻んでいくような気がします


●Unknown (泥炭)・・・2011-10-18 00:11:35

たった400人の資産で世界の30億人が救われます。 なんて考えたらいけませんか? 以下のサイトをご参照ください。

【アメリカ大富豪四百人の資産 > 世界の人口の半分の30億人の資産】

URL=http://yui.at/bbs2/sr2_bbss_u.cgi?action=show§ion=2325hamanasu&txtnumber=&mynum=358

 

 
●しっちゃかめっちゃかという健全性 (かもめ)・・・2011-10-18 00:49:30

>たった400人の資産で世界の30億人が救われます。なんて考えたらいけませんか?

その種の言説を、戯言(たわごと)と言うのです。資本論口座と題した上の記事でも、説明申し上げたが、他人が勝手に行った、初等算数の解答集に、騙されるなかれ。カールマルクスは、これをやったのです。マルクスの盟友エンゲルスは大威張り。マルクスの高等数学によって、それまでの「社会学」は「空想から科学へ」と革命的に進化したと。数値をもって説明された途端に、物事が科学的に見えてしまうのは、大昔から続いている人類のあさはかさだと思うばかりにござ候。で、泥炭さん。数少ない資産家の資産を放出すれば、世界の30億人が救われると言いますが、資産や金で、なにが救われるのですか。そこで、あなたには、皮肉にしか聞こえないだろうが、次のような質問を投げかけてみる。

あなた自身は、その世界30億人のなかに、ご自身、数えているのですか。あなたは、それほど資産家の資産が、欲しいのですか。仮に、金の有無(所得・年収)について、世界中の人々が完全に平等になったとして、それで人々は幸福になると、思えますか。それで社会は、平和になると思えますか。わたしは、その手の議論は、あらゆる意味で、子どもじみた空論だと思っている。

体力のある人もいれば、病気がちの人もいる。借金をこさえて、これから事業に挑戦しようとしている人もいる。一方、借金で首がまわらないという人もいる。老人もいれば、子どものいる。男もいれば女もいる。善人もいれば悪人もいる。同じ猫でも、飼い猫もいれば野良猫もいる。これらが一緒くたになって、暮らし向きをやっていくというのが健全な社会だと思っている。


●Unknown (泥炭)・・・2011-10-18 01:43:28

> 他人が勝手に行った、初等算数の解答集に、騙されるなかれ。

私が参照したのは統計だけです。 その統計の著者は勿論、<たった400人の資産で世界の30億人が救われます>なんて事は言っていませんし、意識的にその資産の大小を比較しているわけでもありません。

> マルクスの高等数学

私はマルクスを経済学者の一人としてアダムスミスやマルサスやケインズと同程度に尊敬していますが、マルクスの使った数学そのものについて言うならば、私の知る限り、小学生並の加減乗除の初等数学に過ぎないと理解しています。彼等の仕事を【科学】と言うのも疑問です。 検証の無いままに推論と独断で描いた理想論というべきなのではありませんか。 

> あなた自身は、その世界30億人のなかに、ご自身、数えているのですか。

 この中に私は含まれません。 日本人の少なからぬ部分は寧ろ世界の40%の富を独占する1%の富裕層により近いでしょう。 


●わたしは貧乏だが貧乏人ではない (かもめ)・・・2011-10-18 02:20:24

わたしが言葉の問題または社会学的な問題としてもよいのだが、もっとも心配しているのは、もっぱら知りもしないで、他人を貧乏だとか、病人だとか、救いようがないとか決め付けて、自らの職業でもないのに、口幅ったくも、ネットの使いやすさに乗じて、代行代弁の業に励む偽善者風情の浅薄な馬鹿者の存在である。

貧乏人自身が金が欲しい、食い物を分けて欲しいと訴えるのは分かる話だ。だが、その口上は、美しくはあるまい。重罪人が、命だけは助けてくれというのは分かる話だ。だがこの愁訴にしても、それだけでは美しくもなんともない。冷たいようだが、多くの場合、何度も聞いた風な、当たり前の口上が、まくしたてられるだけだ。

ましてや、実際には、常に、自分は、うまい物を食っていると自慢している他人が、食いっぱぐれた本人に成り代わって、第三者に対して、彼に食い物を分けてやってくれと哀願したとしたら、その口上は、偽善以上の虚偽になるだろう。善行は黙ってやれ、と言う。第三者に訴える前に、どうして、自分の食い扶持を、その貧乏人に分けてやらないのだね。

自分もまた、すっからかんになって初めて、社会に訴える資格が出てくるのだと思っている。自分もまた食い詰めて、はじめて貧乏人を助けてくれと、訴え出る道義が生まれるのである。以上が、わたしの最低限の倫理感である。


●統計と初等算数 (かもめ)・・・2011-10-18 02:50:56

>私が参照したのは統計だけです。

数字に騙されるなとは、そこを言うのです。
統計とは他人が計算し、作った数値の集合
体の、ことでしょう。
あなたは自身は、その「統計」作りに何一
つ参与していないではないですか。

よくも、そんな他人が作った、あいまいな
ものを参照しただけで、いい気になってい
られるものだと思いますよ。


●Unknown (泥炭)・・・2011-10-18 09:56:49

> 代行代弁の業に励む偽善者風情の浅薄な馬鹿者

 それは誤解です。 赤旗配りを、世のため人のためと考えて為さっていたらしき貴方自身についての反省ならさもあらんと思いますが、私の申し上げているのは、世界の半分に達する人々の金融資産に相当するものがたった400人の個人資産として集中して居るようでは世界経済が破綻してしまう。 これを何とかしなければ私達の暮らしが危うくなると言っているのです。 400人の金持ちの中にもそれに気づいて富裕税を取れと提言する人も出てきています。
 私の行動原理は既に掲示板上でも何十回も申し上げているとおり、
 【利己心に立脚し、連帯を求めよ】
という事です。 何よりも大切事は自分が何が欲しいのか理解する事ですが、それを手に入れるには多くの人と連帯して力を合わせる事が大切です。 私の掲示板での書き込みはそのためのものです。

 取分け、宗教や社会に関する理論や人間に対する思想の多くが崩壊してしまった現在では、越し方、行く末を見詰直し、壊れたものを再構築する事が必要です。 そのためには、現在の社会のありよう、進むべき方向についてもう一度、多くの人々と意見を交わしながら、一から考え直してみる事が大切だと考えています。

> 統計とは他人が計算し、作った数値の集合体の、ことでしょう。あなたは自身は、その「統計」作りに何一つ参与していないではないですか。

 統計数字の盲信は危険です。 様々な角度から吟味しながら使用する必要があります。 私の吟味がまだまだ不十分であろう事は重々承知していますので、具体的誤りが有ればご指摘ください。 

 しかし、だからと言って頭からそれを無視してしまうのはもっと危険です。 貴方は科学や数学を敵視するような言動をもて遊びながら、科学の成果そのもののパソコンやカメラやネットが生甲斐の様な生活を送っておられます。 科学や数学を馬鹿にしながらも、その恩恵に浴さなければ貴方は一日も生きられません。カメラやパソコンやネットの製造には少しも関与しておらず、その原理については全く理解していないにもかかわらずです。
 しかし、私はパソコンやカメラも使い方次第だと思います。 決して生来の悪ではありません。
 間違っているのはその恩恵に浴しながら、科学を小馬鹿にする貴方の姿勢です。 
 何事も1か0かでは身動きが取れません。 改善しながら使いこなしてゆく。
それが寛容でしょう。

 
●田吾作一派の人カラ揚げ (かもめ)・・・2011-10-19 19:03:06

拙者がいつ、科学や数学をバカにしましたか?
好きではないが科学や数学、それ自体には、尊敬の念さえ抱いている。わたしが少々、バカにしているのは、人間の面を被った言語能力と哲学の足りない馬鹿者だけだす。この間、とりわけネット上では、何匹とない、その種の馬鹿者を見てきましたよ。彼らを称して、田吾作一派と呼び習わして、こいつらを「一派一カラ揚げ」にして、後々、食卓にのせた後、食っちまおうという算段こそ、拙者のネットにおける「行動原理」なるものなりや?ああ、滅入った滅入った。

さても、あなたは次のようにもおっしゃる。

-----------------------
私の行動原理は既に掲示板上でも何十回も申し上げているとおり、
 【利己心に立脚し、連帯を求めよ】
という事です。 何よりも大切事は自分が何が欲しいのか理解する事ですが、それを手に入れるには多くの人と連帯して力を合わせる事が大切です。 私の掲示板での書き込みはそのためのものです。
-----------------------

あなたの問題提起は、いささか幼稚だと思いますよ。笑ってしまいますよ。大事なのは自分が、欲しいものを見つけることなのですか?何のために、そんな他愛もないことが、人間にとって最も、大切だなどと、取ってつけたようなことを言うのでしょうね。欲望とか欲求と呼ばれている概念以外の他に、なにがあるのですか。分かりきったことじゃありませんか。かくまでも、卑しく、また高貴なる人々個人の内心を、多くの人たちと連帯して話し合ってみなければ、勝ち取れないようなものなのですか?個人的な欲望の発露や欲求不満を解消するためにも、多くの人と連帯しなければ、手に入れることができない・・・というような大それた、その物とは、いったい、それほど大切なモノとは何なのですか。というより泥炭氏のばやい、論理学的におかしいのですよ。話の後先が逆になっている。

泥炭さんの真意は「連帯」が先なんじゃないのですか。目的はともかく「連帯」することが、泥炭さんが、欲している「大切なモノ」のように、うかがわれまするよ。ま、あなたばかりではない。田吾作一派のイデオロギーの洟垂れ小僧には、よくあることです。デモにさえ参加すれば目的なんぞは、後からついてくるとさえ、彼らは言い放つ。機動隊に向かって石を投げつけて、わたすは権力と戦っているなどと法螺を吹く馬鹿とかね。お巡りさんと、口げんかして、いっぱしの革命家になった気分に浸る馬鹿とかね。この手の無知蒙昧の若輩ものが、よくのたまわっている自己満足の論理学的手法ですよ。

それに、わたしは、あなたの「行動原理」なんぞは、これっぽっちも興味がない。いつぞや、あなたは、朝も早よから、老妻のお尻を触ってしまったという話を自慢げにしていたが、こっちのほうが、よっぽど、老いてますます盛んらしい、あなたの「行動原理」のなんたるかを説明してくれているではないですか。「行動原理」なんてもんは、連帯して力を合わせなければならないほどの、ご大層なもんじゃないでしょうや。

それに、行動行動と言うが、ことは掲示板上のことでしょう。掲示板で、いかなる行動ができるのですか。掲示板で儲けたいなら、中古品でも売ればよい。その際ですら、ネットは道具の一つにすぎません。掲示板上で徒党できるか、掲示板で色恋沙汰が可能かどうかは、神のみぞ知る。わたしは、掲示板上での「行動」は、否定したいですね。

泥炭氏のばやい、早い話が、お話相手が欲しい、お友達が欲しいという、それだけのことざんしょ。連帯して力を合わせましょう、なんぞと話を小難しげにして、大げさに言いなさるな。

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▼カラオケ老人の戦争責任

2019年05月08日 | ■教育年金管理人泥炭氏との対話

 

2014.10.12 横浜市

 

以下、教育年金掲示板より

 

●投稿者:炭泥

戦時中に犯した罪については、これを糊塗して開き直って生きるなら、格好のお手本に成りそうな、有名な言葉があります。

「戦争中は日本人なら誰一人として日本の勝利を願わなかったものはいなかった。自分は当然であり、天皇陛下を敬愛すること人一倍であった。しかし、日本は敗れた。しかし、天皇はその責任をとらなかったんだ。だから、私もその責任などとる必要はないんだ」

戦時中腰にサーベルをガチャつかせて音楽界を牛耳り戦意高揚に尽くしたと言う山田耕作の言葉で、これについては、No.518 に再掲した2009年11月6日の投稿【1833 真の戦争責任を不問にふしたまま】に詳しく紹介しています。

私はもっぱらカラオケ喫茶などでは、渡辺はま子の【蘇州夜曲】や【雨のオランダ坂】や【ああモンテンルパの夜は更けて】を歌います。 伊藤久雄の【あざみの歌】や【イヨマンテの夜】、【山のけむり】などもよく歌います。これらの歌が好きだからです。すかし彼等は戦時中歌手として戦意高揚に加担して居ます。許せないやつらです。ですが、戦後の復興の中で彼らが果たした役割を否定するのは、難しいかもしれません。

私にとって上に挙げたような歌を歌わないで過ごすことは少なからず苦痛です。正直に言えば山田耕作の【赤とんぼ】さえ、それにわたすが大好きな軍歌でさえ、わたすはわたすは、しばしば歌いたくなるのです。実際、妻に隠れて、主として便所にはいったときなどに歌っています。

なのに、わたすがよく通っているスナックののカラオケでわたすが根っから大好きな軍歌とか上記の唄をリクエストすると、周りに座っている若者たちやカラオケ上手のおばちゃまたちが、わたすのことを白い目で見るのです。いよいよ前奏がはじまってマイクを握ったはよいのだすが、彼らの視線が気になって、上手に歌えなくなってしまうのだす。ふんで、ネットのの方のカラオケ上手のみなみなさまに問うて見た次第だす。わたすはわたすは、これからは、なんの歌をカラオケすれば、よいのでしょうか。

舟木一夫の「高校三年生」や三田明の「美しい十代」などは、もっ歌い飽きてしまいました。この先、幸せにカラオケするとしたら、わたすはわたすには、どの様が歌姿がお似合いだと言うのでしょうか。それともやっぱカラオケなんぞには年寄りの出る幕もなく死んだほうがましだとでも、おっしゃるのでしょうか。
  

 


●投稿者:馬亀

あいかわらずですね。炭泥さん。作曲家の山田耕作も歌手の渡辺はま子、伊藤久雄も戦時中は戦意高揚に加担した歌を作ったり歌ったりした「許せないやつら」なのですか。にもかかわらず、いまだに彼らの歌が大好きで、ついつい歌ってしまうわたすが馬鹿でした、ということですか。

それで、こんなバカは死んだほうがよいのでしょうか。昔の唄ばっかり大好きな、こんなアホでも生きていっても許されるのでしょうか、どうか、みなさま、ご判断くださいという訳ですか。

どこまで本気で言っているのかは知らないけれど。あまりにも短絡かつ単純な二項対立風のご議論では、ござらんか。まるでガキですよ。そのようなお話のなされ方といい、戦争感覚および歴史感覚といい、泥炭氏の根底にある価値観には、まがまがしく傾いた固定観念があるようですね。誰に、いつ、かようにもガキっぽいイデオロギーを刷り込まれたのですか。

話は飛びますが、太平洋戦争すなわち日米戦争における最大の戦争犯罪は、ヒロシマ長崎に投下された原子爆弾にほかならないと思いますよ。次に来るのが全国の都市という都市を焼け野が原にした空襲です。この二つともども、アメリカの仕業ですよ。

戦争犯罪や戦争責任を、しきりに問うている共産党をはじめとする「戦争反対者」らは、どうして、この大犯罪をなさしめたアメリカさんに対して抗議も、糾弾もしないのですか。ヒロシマの原爆碑には、「あやまちは二度と繰り返しません」と書いてあるらしいが、そのあやまちを犯した大殺人犯である、アメリカのアの字も刻んではありませんよ。どういうことなのですか。それで、よろしいのですか。

どうやら、炭泥さんの戦争観によれば、原爆を落としたのも、東京大空襲をはじめ全国の都市が焼き尽くされたのも、すべてこれ、日本の軍部が悪者だったのだから仕方がないというわけですか。もはや戦う術もなく右往左往している丸腰の民をめがけて根絶やしも同然の虐殺行為におよんだアメリカさんこそ正義の使者だと思っているのですか。

そりゃ、あなた。勝てば官軍ですよ。あなたが言っているのは、ただ、それだけのことじゃないのかね。口を開けば日本悪者論に立って、やれ戦争責任、やれ戦争犯罪とうとうと70年も前のことをして、悪いの正しいの、許すの許せないの、死ぬの生きるのと、バカも休み休み言いたまえ。 

 

  

●投稿者:炭泥

そうですね。まさに馬亀さんのおっしゃる通りだす。最大の戦争犯罪とは、いかなるものかについては、多々意見の分かれるところでしょうが、原爆投下の犯罪性とその責任を追求する事はそれはそれで勿論重要な事だと思います。

それに、先の大戦の戦争責任と言う点で言えば、歴史をさらに遡ってペリー来航のことを論ずるべきでしょう。日本に大砲を向けて開国を迫り不平等条約を押し付けた欧米列強には260年の余も近隣諸国と平和共存を実現して居た日本を狂気に駆り立てた責任は、はなはだしいものでした。この責任の一端は担って貰わねばなりません。その視点なしには現在イラクやシリアで起こっている問題の解決も有りえないとも感じます。

今の中東の混乱の原因を作った張本人であるアメリカ国の大統領であらせらました最たる戦争犯罪人のブッシュは死刑に処してもらわねば、わたすの気持ちは収まりません。彼の弟を次の大統領選に担ぎ出そうとしている勢力が居るようですが、何故その様な事が起り得るのか、私はわたすは、この際、すべての陰謀論を明らかにしなければなりません。 

2016年アメリカ大統領選、ブッシュ弟とヒラリーの一騎打ちか?「父子に続いて兄弟とは…」という英文ニュースを読みました。すかすながら、わたすはわたすは、こんなことばっかり論じていても、それで70年前までの日本の軍部を中心に周辺諸国に対する侵略行為の罪が帳消しになるものではありますまい。やっぱ日本も多少は悪かった。すかすながら民族根絶やしも同然の米軍の非道に比べれば、もちろん罪は過小でしょう。

何より、わたすが怒るのは、外に対する侵略行為は内に帰って少なからぬ日本人の生活を奪いわたすたちの親世代を鉄砲玉に変え、しかるのち海の屍に変えました。「きけ、わだつみのこえ」をご参照願います。また無辜の国民をアメリカ軍の爆撃に晒し焼夷弾に焼かせ原爆の洗礼を浴びさせました。

二度とその様な事を繰り返さないためにも、これらの戦争責任の問題を、わたすはわたすは、この際、米国ののホワイトハウスの前まで、たどり着き、きゃつら鬼畜米英およびヤンキー諸君の大罪を徹底的に追求してみようと思っています。

戦争反対と大きく書いたお立ち台を持ち込みオバマ大統領の目の前で、戦争反対の大演説を、するつもりだす。それまでは大好きなカラオケは絶つ決意のもと人生最後の戦いにのぞむつもりだす。その際、英語で演説するか日本語で演説するかは、当日のわたすの気分次第ということにしておいてください。できれば英語でやっちまったほうが、よいのか納豆。そのためには、多少の日時が必要だと思っています。アメリカの犯した戦争犯罪は、どこまでも徹底的に追及し明らかにしなければ、死んでも死にきれません。

ご安心ください。カラオケ大好きののご同好なる馬亀さん。わたすが妻の目を盗んで通いつめたカラオケスナックのママさんには、わたすの最後の歌声として春日八郎さんの「別れの一本杉」をお聴かせしてきたところだす。ママさんの目からは、あふれる涙。後ろ髪を引かれる思いでしたが、これもあれもアメリカが悪いのであったのだったであり陸軍二等兵として、出征し昭和20年に大陸で戦死した、わたすのおとちゃんには倫理的には、なんも悪いところはないはずであったのであっただった。カラオケののママさんが玄関先で三つ指ついて一言。「泥さまの武勲をお祈りすます」

さあさあ、わたすのおとちゃんのカタキ。世界人民と勤労人民および社会の進歩を念ずる革命的知識人に対する反動の巣窟アメリカ国のワシントンに出かけていって鬼畜米英の一派ときゃつらのボスに天誅を加えてやるつもりです。

 

 

●投稿者:今井政幸
ふむ、確かにカラオケは老人を狂わせる。それにしても泥つぁんは極端だ。なんぼ言い聞かせても聞く耳を持とうとしない。じゃがゼニカネに比べれば懐メロ軍歌以上には出ない老人のカラオケレパートリーなんぞは可愛いものだ。ゼニカネこそ人を半キチガイにさせてしまう。結局わたすは一円の儲けをしつこく追いかけたあまり牛丼の吉野家と三井住友ののねぇちゃんにふりまわされ人生を棒にふってしもうた。先日病院に行ったところ、余命いくばくもないと主治医より宣告されてしもうた。こうすてわたすはゼニというゼニを牛丼大盛りと白物家電に費やしてしまい、気がつけば通帳はスッカラカン。若い頃から自慢であった算段腹も空気が抜けたようにぺっそりとしょぼくれてしもた。だっから、この際せめて台所の引き出しの中に貯めておいた小銭をかき集めて電動式介護ベッドと車椅子だけは町内会長さんが知り合いの介護福祉の店の方では、特別大売出し期間中は月賦でもよいと言ってくれたので購入しておこうと決めたのであった。電動式だよ。泥つぁん。ただのベッドじゃない。電気で動く。貧乏人には決して買えない白物家電の大物だ。二週間後には、わたすのお部屋に搬入される。待ち遠しくてなるません。ああ わたすほど幸せな男はいないだろう。楽しいなったら楽しい納豆。スキップスキップらんらんらん~♪

 

 

<2014,10,12 記>

 

 

 

 

 

 

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▼老人と鉄砲

2018年06月27日 | ■教育年金管理人泥炭氏との対話

 

2915.02.20 川崎市

 

 

●以下、教育年金掲示板より

「老人の教養と教育」 

だじゃれに過ぎないのだが、下のような言い回しをラジオで耳にして感心した。

今日用がある。今日行くところがある。

六十歳代も後半にさしかかった私も、日々自覚的に用をつくり、無理にでも行くところをつくりつつまずは肉体的に活き活きと過ごしたい。一つの用もなくなり、別にどこにも行くところが思いつかないとなったら生き物としての終焉が近いに違いない。

 

 

 

 

 

さて時間が余ってしまい、昨日の泥炭さんの記事を下のように書き換えてみました。いつものことで深い意味はありません。遊びの一種です。

教育を語ろうと言いながら戦争記事が多すぎます。教育について語らずに戦争のことばかりの記事の投稿は少し控えてくだい。原稿を書いてから、ご自身の中で一日ぐらい「休戦協定」を確約されて、すこし「戦争」はひかえてみたらいかがでしょうか。「戦争」の話ばかりでは命がいくつあっても物足りない。

いや、いいんではないですか、戦争大好き老人で。拙者のばやいも年をとったせいか、からっきし教育なんてものには興味が失せた。教育よりは、よほど「戦争論」のほうが面白い。だから、言うのです。「教育について語ろう」なんぞという看板は看板違いじゃござせんかと。

教育について語ろうは、もう二十年も三十年も昔の中流を目指すPTA諸君にとっては、たしかに焦眉の議題だったことは確かだが今や中流もへったくれもなくなった。時給がなんぼで、幸不幸が計られている。

計量こそすべて、これぞ科学次術の世界ではないのか。次なるは、分給なんてのも、出てくるぞ。分刻みで給料が算定されかねない。勤労者は株価以下の価値しかない。

景気の棒グラフで共産主義であろうと資本主義であろうと有無を言わせぬ時給的情報社会と相成り候。

こんな人間世界はぶち壊してやりたい・・・と思う青少年の幾多が出てきても不思議でもなんでもない。よって戦争は、いつまでたっても避けられないようにおもわれますよ。

憎しみとか憎悪をなくせという人たちの意見もありますが、わたしは、人に暴力があるかぎり戦争はやまないと思いますよ。武器があるかぎり人間は殺されるでしょう。生きつつある生き物の、生きる道徳のなかにそも人と人とが戦わはなければならない原理があるのだと思っています。

せめて、わが家族、わが親類、またわが市町村の国民と同類らは暴力や武器や戦争から逃げるすべなりを学んで欲しいとぞ思うなりけり。そのための憲法であり、安全保障とかいう問題なのでしょう。そのために自衛隊が、日々訓練しているのではありませんか。暴力からわが親類と国民を守るために。いざとなったら国家を作っている以上、政府としても売られたケンカは買わなければ、そりゃ仕方のない話なのです。

そして、あなたの場合も、これだけは分かっておいたほうがよいと指摘しておくのですが、戦い終わったはてに、戦争はいやだとか戦わないほうがよかったと言い募って感傷に浸っているのは、いつの場合も敗れた方だけだという真実です。勝てば官軍とは、よく言ったものですね。勝った方は、100年たっても、千年たっても、子孫永遠に、勝どきを上げながら先の戦争は実によい戦争だったと言っているではありませんか。

むかしベトナム戦争という戦争がありました。この戦争の場合、珍しく米軍が負けたのです。そこで御存知のようにベトナム戦争は「悪」だったと言っているのは敗けた方の米国だけであり、ベトナム国民は実に英雄的な立派な独立戦争だったと言っているはずですよ。そのように自国内の子どもたちには教育しているはずです。あなたはどう思いますか。ベトナム戦争も無い方がよかったのですか。そんなことを申しては、ベトナム人から袋叩きにあいますよ。

誰が戦争一般を心から否定しているのですか。ようするに敗者だけではないですか。「非戦論」なんぞは敗けたことのうらみつらみを、愚痴っているだけにしか聞こえませんね。戦争は悪だ、平和こそ理想だというのは、どう見ても口先だけのことですね。

 

 

 

ですから、言うのですよ。なんでもかんでも教育すれば解決可能だというならば、よほど老人のための老人教育を実践されたら、いかがかなと。いっそ老人にも軍事教練でも参加させ、鉄砲の打ち方を教育せよと。

クソの役にも立たなくなった老人は、特攻隊風の教育をなさしめて覚悟をもたせ憎き敵陣に向かって、老人の一匹づつに爆弾をかかえさせ、つっこませたほうが、なんぼかお国のためになる。

最近の老人は税は払いたくない、もっと年金をよこせ、老人なのだから遊んで暮らさせよ等々と口ばっかり達者になって国費を浪費する以外には何一つ役立たずの、それこそ「くたばれぞこない」なのだから。 

ですから、地球が死ぬのも人類が死滅するもの想定内のことであり、実に近似的なことなのではないですか。それは明日かもしれませんよ。生き物であるかぎりいずれ地球上のすべての命が地球自身が死ぬ前に絶えて滅亡することは常識的かつ科学的な理屈です。生けるものすべて死す、または、形あるものすべて壊れるという神学と哲学をあなたは勉強したことはなかったのですか。われわれは生きているとか生きているから真実なのだと放弁放題も宇宙的に言えば、瞬時のことにすぎないと頭のよい科学者のだれそれから聞きましたよ。

あくまでも仮の話ですがね。泥炭さん。仮にですよ、地球滅亡の危機を人間どもが察知しているという想定での空想的物語です。よく耳にしたところですが、大きなロケットに、人々を積んで地球によく似た宇宙体に逃れようとする。これまた、そのような宇宙体が事前に見つかっているという場合ですがね。あまりに遠くては、意味はない。到達するのに、何十年もかかるというのでは、ロケット内の人間は死に絶えてしまいますからね。

問題は、移住対象とされた宇宙体に先住している生き物が存在している場合です。彼らは、おそらく地球人らが、やってくることに反対するでしょう。ロケットの着陸を拒否するでしょう。

さあ、どうしますか。そうそうは、地球に似て、人間たちが安堵できる宇宙体なんて、ありませんよ。ここしか。ここに着陸できなければ、地球人は、もはや全滅するのみです。ロケットには武器は積んでこなかったのですか。おそらく小銃の何丁かぐらいは所持してきているはずですね。さあさあさあ。泥炭さんなら、どうしますか。

わたしなら、強引にいくしかないと思いますよ。生きようと思うなら。相手がなんと云おうと、まずは、ロケットに着陸する体勢を取らせる。そして乗員乗客に銃を持たせる。彼らが、われわれを拒否するというのなら、さらに力を持ってわれわれを追い払おうとするなら、侵略者だと言われようと、軍国主義者だと言われようと、なんと言われようと、彼らと戦争する以外には、彼らの宇宙体を乗っ取る以外には、わたしたちの生きる道はないのです。

考えておくべきは、上の場合の逆もあり得るということです。すなわち地球上に宇宙人がやってきた場合にどうするかというSFです。これまたさんざんに語られてきたような気がしますが、まずは火星人がやってきた場合。それに未確認飛行物体が、これみよがしに飛び交ってきた場合等々。

おそらく、地球恋しき、われわれは彼らを容認することはないだろう。まずは排斥行動に出るだろう。二度と来るなと、彼らが何者であれ、一匹残らず撲滅しようとするに違いありません。こうした時の政治的狂気こそ、そも戦争状態だと、言うのかも知れませんね。

さて、異物としてのゴジラは海に帰っていきました・・・・・めでたしめでたしという按配です。ゴジラの気持ちもわからなくはないです。しかしながら、わたしたちヒト科が、ゴジラと一緒に同じ屋根の下で、それも仲良く暮らそうなどということは、どう考えても無理難題だったのです。

 

 

 

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▼野蛮な大陸と幸運な島国ジパング

2017年07月22日 | ■教育年金管理人泥炭氏との対話

 

以下、教育年金掲示板より

 

泥炭さん。EU(ヨーロッパ統合)とか申す仮の談合を、そこまで持ち上げるのは、いかがなものかと思いまするよ。ネットサーフィンもよいのだが、も少し学問的かつ現実的に、お調べなされませ。なにしろ、6年前のことなれば米国大統領選挙において、初の黒人オバマが当選したと単にそれだけのことを持って、世界はこれで平和になると大騒ぎしていたのは誰ですか。

バカはバカでも政治的馬鹿というものは、なんぼ文明が進歩して情報が多々流されても一向に駆逐されないものですね。次から次へと馬鹿ばっかりが雨後のタケノコのように生まれてくる。これもまたヒト科というものが、そもそもアホであったという次第なり。ああ 難儀だ 難儀だ。

懸命に富国強兵にひた走った日本。 弱肉強食の熾烈な西欧の覇権争いを知って民族生き残りを掛けた決勝戦に勝ち残るべくひたすらに走り続けあえなく粉砕された歴史。

「粉砕された歴史」?

太平洋戦争における敗戦は、たしかに日本という国に大きな痛手をもたらした。だがなにも歴史が「粉砕」されたわけではないと思いますね。とにもかくにも日本と日本人は、いろいろとありながら、かくのごとく生き延びて現代に至っている。ぜんたい、日本びいきのわたしがみるに、世界に冠たる実に立派な「お国柄」だったと思いますよ。

外国のだれかれに、何一つとして、後ろ指をさされる覚えはないはずです。もちろん東アジアというものが欧州などの理屈をもってすれば文明的に遅れていることは言うまでもない。そのとおりだとは思いますね。この遅れに遅れた東アジアの中で日本の場合だけは突出していたのです。江戸期より平等史観、および科学技術においても、すでに先端文明を享受していた。

欧州各国に比しても近代化を成し遂げた先端的国家だったと思いますよ。決して日本は遅れていたのではありません。日本の、近隣、すなわち東アジアが西欧に比して極端に、遅れていたのです。いまだにそうですね。突出した文明とひどい野蛮が、隣り合って存在しているのです。これが東アジアの政治的現状でしょう。

ここに、日本の地政学的な幸も不幸もあった。繰り返しますが徳川の鎖国政策は見方によれば、実に先進的だった。この島国を覇権を競って内紛ばかり生じている東アジアの無力にして野蛮な諸地域から文明的に隔絶させていたのです。

島国だったという幸い。鎖国という幸い。これを見て見ぬふりしているだけでは歴史を語る資格はないと申せましょう。繰り返しておきますが日本の近代化は西欧に比しても決して遅れてはいない。世界史年表を見ればわかるでしょう。当時の西洋文明がどれほど混乱していたか。先進各国がどれほど紛糾していたか。日本は、かの時代、世界に先駆けて国家統一および近代化を成し遂げたまれにみる優秀な「お国柄」だったのです。鉄道敷設はくまなく全国に及んだ。20世紀に入ったばかりの当時、このように立ち進んだ国は世界ひろしといえど英国を除いては、ただ一つもありませんでした。

日清、日露戦争を勝ち切り、その後富国強兵を弁ずるあまり野蛮地域の野蛮人を制するとの大義名分を詐称して大東亜共栄圏などとぶちかましたのは、いささか、うぬぼれもはなはだしいとは、反省するだけなら猿にもできるという調子で、今になって、やっと分かってきたことなのです。

野蛮とは、すなわち政治的には無力ということだ。アジア大陸に東側に西洋文明の実際すなわち西洋の武力が、押し寄せてきたのは19世紀の初頭。中華は、あえなく破られた。中華は西欧列強に、それこそ、アフリカ同然に食いちぎられるままだった。奴隷化されたのである。英国をはじめとする西洋列強の女郎と化した。アヘン戦争の惨憺たる有様。香港は100年間の期限付き英国領とあいなった。このような様だけは逃れたいと我が国島国、すなわち江戸期幕末の知的青年らは思い募っていた。吉田松陰こそ、その先駆けだった。

未開の大陸は脆弱だった。国というものが、いまだ出来上がっていなかったのである。そこで、いともたやすく西欧の列強にやられてしまった。我が国ばかりは、なんとしても守ってみせる。こうした気概が松陰以下、日本人にあったればこそ、今日の日本という国を作っているのでござるとぞ思うなり。

問題は、いまだに、こうした東アジアの構造は、当時から、あまり変わっていないという現実だ。大陸は、あいかわらず野蛮なままだ。いまや13億の人口をかかえてすったもんだしている。

選挙一つ挙行することができないままで、13億人が有象無象のゴミと化しカスと化している。夜郎自大の言い方で申し訳もないが、いずれ今日の中華は滅びざるをえまい。四分五裂とは、あまりよい言い方ではないが、中華に限っては、四分五裂してみて、はじめて彼らの未来の幸いの国というものが、立ち上がってくるのである。

ロシア革命と、その結果を見るが良い。マルクス、レーニンの開闢以来、共産主義にとってヒトとはただの数字でしかない。ひからびた数字を何万何億積み上げてもましな国家が形成された試しがないのは古今東西、自明のことにてござ候。


 <2014.11.09 記>

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▼亡国の親方日の丸孫七人

2017年07月18日 | ■教育年金管理人泥炭氏との対話

 

以下、教育年金掲示板より

 

それでもなお、私達は許しあい、頼りあい、協力し合って生きてゆく道を見出さねばなりません。どうやって……。その事をお尋ねしているのです。

上のように問い返してきた泥炭さんに対する拙者からの反問とは泥炭さんご自身の思想と道徳の中身をこそ再三再四お聞きしているのでござる。あなたの言い方は思考停止の類型ではござらんか。問題があっても、さらにこれが、こじれても喧嘩するなの掛け声のもと、みんな仲良くご議論いたしましょうと強要する。

許し合い頼り合い協力しあって生きてゆく道の、その中にこそ騙し騙され喧嘩あり、小競り合いが高じて戦争あり、その果てたる独立あり報復あり支配被支配等々と、いろいろとあるものだと、わたしはそう思いますよ。何一つ固定されてなんぞはいないのです。

国境線は多くの場合、武力によって固守されていない限り国境線とは言えないのです。力を誇示しておかない限り、たちどころにして破られ元の木阿弥です。意味のない野原か海原と化すばかり。国境は死んでも守る。それらの意思もまた「人権」と同じです。自分の人権は自分で守られてはじめて、いっぱしの人権を持ったヒトとなれるのです。この戦い一切が政治現象と呼べるものなのです。

現代に自覚したヒト科個々から「政治」だけは逃れられません。投票行為だけが政治だと思っていたら大間違いでしょう。色恋沙汰すら実に政治的なこととして解釈しておかねばなりません。簡単にいえば、やはり生き物には、何事も「戦う」ということだけは含意されているのです。それら一切合切がヒト科の歴史というものを作っているのだと思いまするよ。

父を南海に駆り出され戦死させられた私からすると、逃げようとすればそのチャンスもあったはずの一般の戦没者と同列の扱いと言うのにはちょっと抵抗を感じたりもするんですが。

ここなのですよ。泥炭さん。おっしゃる通りではありませんか。その前に泥炭さんのお父上は、大陸で戦死されたとお聞きしたように覚えていたのは拙者の聞き間違いでしたね。失礼千万。そうでしたか南海のことでしたか。差し支えなければ、どのように召集されたのか、また南海とは言っても、いささか広い。そこら辺の事情を、も少し詳しくお聞きしたいが、時期尚早なれば、それも詮方なし。インドシナ半島といえば相手は英軍だったのですし。フィリッピンの場合は、大岡昇平の「レイテ戦記」にあるように、それはそれは惨憺たるものでした。南方各地で生き残り捕虜となっても、なかなか帰国することができなかった。モンテンルパの歌にあるように、捕虜のまま、かの地で戦犯として裁かれてしまうという事態も起こった。

さて本題ですが、お国のために戦死された兵隊さんと、空襲などで死傷された市民とは、同じ戦争で没したとは言っても、国家からの扱いは、違っていて当然なのです。兵隊さんとは、いわば国家公務員であり、彼らの戦死は殉職されたということですよ。戦死された兵隊さんは国家として特別に祀るための事業や、その場所があって当然ではありませんか。残された遺族には、戦後遺族年金が賜われたということも、これまた当然のことであり。泥炭さんなども、多少は、こうした国家の恩恵にあずかって、今日に至る人生上の、ご成功があると見受けられますが、いかがなものでしょう。

それに、東条英機以下A級戦犯の合祀だぁ分祀だぁとは申しても名目上のことでしょう。なにも靖国に戦死された将兵が埋葬されているとか、遺骨が収められているという問題ではないのです。お名前が祀られているのです。彼らの名前が靖国神社に祀られて英霊と呼ばれているのです。

もちろん、いまだ遺骨の見つからない将兵も靖国に祀られているはずですね。靖国問題とは直接関係がありませんが、ここから現在にも残されている、もうひとつの実際的な戦争責任というものが見えてきます。

それは遺骨収集の問題です。泥炭さんの父上は、どのようなお姿で、帰国されたのかは、いざ知らず。ご遺骨なりが見つかったのでしょうか。さればもっけの幸いと申せましょう。いまだ何万という遺骨が南方各地、および大陸や朝鮮半島の地に埋まったまま放置されているのです。

このことをわれわれは、もう少し真剣に考えなければならないでしょう。この問題こそ70年たっても、日本人を自覚する以上逃れられない「戦争責任」だと思いますね。この問題について泥炭さんのご所存なりお聞かせ願えればありがたい。

ちなみに遺骨が見つかったとは言っても誰のものかは、いまや判断できませんから。この場合は、千鳥が淵の戦没者墓地に無名戦士として埋葬されているようですね。一方遺骨がなくても、戦死されたことが、ほぼ判明できている将兵の御魂(名前)は当然靖国神社に祀られているということでしょう。それが靖国神社の重要な役割ではないのかと、わたしは考えておりまする。

それに靖国神社は、誰が見てもわかるとおり宗教上は神道という形をとっている。神道の信者でもない戦死者やその肉親が、かの神社と関わりをもつのは精神的に耐え難いと訴えて、祀られるこをを拒否したり靖国神社には決してお参りしたくもない、などという泥炭さんのような、ご意見を持つお人も少数ながら存在しているとは、かねてより耳にしているところなり。

たしかに彼らの気持ちは、少々ならばわからなくはないけれど、ささいな不平不満というべきではないでしょうか。いずれの方々の口ぶりも、なにか別種の思想的問題からくる口実のようにしか、わたしには感じられません。泥炭さんが言うに、神道は国民を戦争に駆り立てる扇動的宗教だと断定されているが、これにしても根拠は薄弱です。そんなことはないでしょう。はっきり申して、それは戦前来、天皇制と神道にムキになって反対してきた共産主義者や、これに付和雷同する左巻連中が性懲りもなく流しているデマに過ぎないと思いますね。

この様な時代に造られ、その国家神道の中核を成した靖国神社が戦争犠牲者の追悼の場として相応しいか否か、考えてみる必要があろうかと思います。

人に尋ねる前に、あなたはどうなのですか。あなたは、この70年間、どのように靖国神社に対して、そこに祀られている、あなたの南方で戦死されたと言うあなたの父上の英霊に対して、どのように、振る舞ってこられたのか。そこを話さずに、人の意見ばかりを切り貼りしてきても、なんのご議論になりそうわらず。おそらく、泥炭氏は靖国神社にはお参りしたこともないのでしょうね。

いいんじゃござんせんか。お参りしようとしまいと、別に税金が控除されるわけではありませんものね。誰も、泥炭さんの冷淡さんに文句を言っているわけでもない。よかったですね。泥炭さん。我が国には思想信条および宗教の自由があって。

しかしながら全体あなたの話は矛盾だらけだ。詭弁に満ちている。靖国神社を国家管理の下に置き、A級戦犯を分祀するべきだとおっしゃる。政教分離の原則は、靖国神社にかぎっては無視なされるおつもりか。さらに言う。「靖国神社は戦前軍国主義の象徴」的存在であると。よって、そもそもの存在からして「悪者」だと決めつけているのではありませんか。

A級戦犯らを靖国から排除しさえすれば、神社から、いまわしい過去の軍国主義の「象徴」とする意味は消され逆に、平和の象徴の靖国神社として生まれ変わるとでも言うのですか。ずいぶん自分勝手な都合のよい話ですね。

さらに何度も言うように泥炭氏におかれては、極東裁判においてA級戦犯と判決された方々をして「悪の権化」のように、決めつけておられるが、それもいかがなものかと思われますよ。おそらく占領軍史観とでもいうべき、きわめて偏向した一方的な理屈だと思いますね。A級の場合は極悪人で、B級C級戦争犯罪者らは、善人であるかのように言い募る。そのような単純な黒白漫才で、事が済むなら、歴史など知る必要も学ぶ必要もなくなるでしょうね。

そこで口直しのため昨日仕入れた受け売り話をお聞きください。仕入れ先は、『ぶらり日本史散歩』半藤一利著。かのマッカーサー元帥にまつわるお話です。それも神社の話。マ元帥は1945年、我が国を降伏させ連合国軍総司令官として以後6年数ヶ月にわたって、日本をして占領し統治した。ところが1951年、米国政府により、突然に、その職を解任されたのです。彼は、しぶしぶと帰国の途についた。日本国民は、やんやのさわぎ。マ元帥こそ日本の夜明けだと万歳三唱の日々を送っていたのは、なにも吉田茂以下政府高官ばかりではない。それこそ共産党などの、左巻連中のほうがよほどマ元帥には感謝の念。

なにしろ武力放棄による永久平和のスローガンを与えてくれたのがマ元帥だ。共産党綱領もマ元帥からいただいたようなものだと喝破する、いまや世捨て人同然の暮らしを余儀なくされている党から除名されて久しい古参ボリシェビキもいる。このマ元帥をして神のごときに奉りたいと念願するご意見多数。そこで政財界をあげてマッカーサー神社を建立しようということにあいなった。だが計画途中のある日、マ元帥は米国議会に呼び出され、戦争の経緯なりについて証言することとあいなり候。そこで彼は日本人というものはと、次のように語り始めた。

日本人は12歳の少年だ。同じ敗戦国ではありながらドイツはさすがにアングロサクソンの民族だ。ドイツはまさに大人の悪人だが、彼らに比べれば日本人は、まだなにも知らない少年だ。

これが日本に伝わりマ元帥の人気は一気に暴落。もちろんマッカーサー神社の話も雲散霧消。そこで思うにマッカーサー神社が完成されていたら、わが国に神社の名は数多かれど靖国神社に並び称される一流の神社として称賛されたと思うのですが泥炭さんのご所見なりや、いかがかな。今頃、「幻のマッカーサー神社」の屋根の上には日米の両国旗および国連旗などが、せわしなく秋の風に吹かれていたことでしょうね。 

 


2015.05.02 足立区


それにしてもなんだか泥炭氏の昨今の尖閣諸島をめぐるあれこれのものの言い方によれば、いよいよ日中戦争が避けられない羽目になっているようですが、それほどまでに大げさに言って恥も知らないのは、わたしの知る限り小説家の大江健三郎さんぐらいですね。泥炭さんの妄想話は、大江氏がどこかで書いている想像に、そっくりですよ。来る日中戦争が始まれば、おそらく中国から核爆弾が飛んでくる。よって、これを避けるために、中国を刺激してはならない。靖国神社には行くな。尖閣諸島は中国に差し上げろ。米軍は日本から出て行ってもらわねば等々と。中国政府が要求していることを、すべてこれ日本側がのみさえすれば、予定されている日中戦争は回避されるにちがいないと。まるで中国のスパイのようなことを言う。

いっそどうですか、朝晩に日本国民全員が海の向こうの西南の大陸の方に向かって土下座しながら懺悔するのです。この先何年でも、中国様のお許しがあるまで続けなければなりません。先の戦争で、わたしどもの親世代が、あなた様のお国を侵略してしまいました。中国様、許してください、許してくださいと、文字通りの「一億国民総懺悔」。もちろん、懺悔する以上、リッチなものを身にまとっていたりしては、中国様は、お許しになりませんから、やはりここは「ふんどし一丁」になって土下座してはじめて、なんらかの誠意が中国の方にも伝わろうというものです。もちろん自衛隊なんぞの危険物はさっさと解散させておかなければ、なんぼ国民一同が泣訴しても中国様は許してくれません。

これに味をしめた中国様はカサにかかって、いっそ沖縄も寄こせと言ってくるでしょう。そうしたときもやはり一億国民の総意としての「土下座」して乗り切るほかにはありませんね。すでに米軍も自衛隊も解散させた後の祭りですですから。

そこで提案ですが、泥炭さん、あなたが率先して日本国民に「ふんどし一丁」で土下座する姿を手本として見せてやったらどうですか。現代人は懺悔のやり方も土下座の方法も知らない人のほうが多いでしょうから。おお、そうだ。当「ふんどし土下座」練習会には是非とも小説家の大江健三郎さんをお誘いしてみたらどうですか。彼のことです。なによりの憲法第九条の実践だと話に乗ってくるかもしれません。その際は、こそこそと隠れてやるのではなく公明正大に大々的に挙行するのが、よろしいかと。

しかし、それで日本の周辺諸国に対する侵略行為の罪が帳消しになるものではありますまい。

さて国境線を超えて武力で押し入る、という現象を侵略と呼ぶのは右同意する。だが国境線というものが、現在のように詳細に出来上がったのは、ついぞ近年のことである。上の記事で申したように、欧州はともかくアジアアフリカにいたっては、国家というものが、そもそも確立途上のことだった。多くの国が、第二次大戦後に成立した。いうまでもなく国家が成立して後、国境線が成立する。軍国主義と呼ばれている戦前日本体制の肩を持つわけではないのだが中国をはじめ東南方向の島嶼およびインドシナ半島などへの兵力をもって進出した経緯には、それらの地域を、いっぱしの国家だとは認めていなかったという事情もあったのだろうと思われる。多くは英米の植民地であった。

考えなければならないのは、侵略は悪だという道徳は、これまたついぞ近年に生まれた若い思想のことだ。上記したように、第二次大戦後世界が国家というもので細分された結果だと思う。列強が跋扈していた戦前当時には自国からはずれた他地域への軍事力によって押し入ることを今日行きわたってきた道徳上の「悪」だという思想はなかったように思われる。文明という点においてなら、すくなからず古代より強国が辺境地域に押し入った結果広がってきたという事実は否定のしようがない。

古代ローマ帝国の闘将カエサルはフランスを征服し海を渡ってイギリスをも攻め滅ぼした。カエサルの欧州統一から2000年近くが経ち、ナチスを打ち破ったチャーチルは言った。イギリスが今日あるのはカエサルのおかげだと。イギリスに文明をもたらしたのはカエサルその人だと。いずれにしても泥炭さん。どうも、あなたは歴史というものをおセンチメンタルにしか考えないようですね。次のようにも言う。

「明治維新から第二次大戦までも悲しい歴史を思い出す」

言い方の問題なのか。あなたに独特のイデオロギーなのか。会津藩の悲劇というものは、多少は私も知っていますよ。だが明治維新を総じて悲しい歴史だったとは全然思えませんね。第二次大戦然りです。思うにヒトの世から、未来永劫、悲しい事件や「悲しい歴史」を根絶することはできないと思いますよ。たびたびの自然災害もある。こないだのように山が突然噴火する。また子どもをさらって殺してしまうような半キチガイの存在も文明がさらに進歩しさえすれば完全にいなくなるとは断言できないのです。いや、反対に世の中が進めば進むほど増えてくるように思われてなりません。自殺もそうですね。自殺は一種の文明病ですから。文明が進めば自殺も増えるでしょう。「戦争」も同じです。残念ながら、ヒト科の歴史から殺し合いが絶えることはないと思います。

泥炭氏の頭にある「戦争」概念は、どうも「飲まず食わずの日も三日」などと『麦と兵隊』(昭和13年:火野葦平による戦記小説)に描かれた握り飯と鉄砲だけを担いで大陸の奥地にむかって行軍行軍また行軍という姿以上にはからっきし進歩していないようですね。武器もだいぶ進化しているようですよ。とくに我が旧陸軍などの戦法だった前線に兵隊の数ばかりを投入する、ようするに人海戦術と肉弾戦などという戦い方は現代ではほとんど通用しないでしょう。

そんな戦争は、いまやあり得ませんよ。もちろん特攻隊のような戦法も有り得ないでしょう。文明は戦争も武器もヒトの心も進化させているのです。同じように、先日来話題となっている集団的自衛権の容認問題で、徴兵制が敷かれてしまうのではないかという懸念も、杞憂にすぎません。

徴兵制で召集された兵隊さんに現代の武器は一寸たりとも動かすことはできないでしょう。一人前の兵隊になるためには長い訓練期間を要するようですよ。徴兵制は人海戦術が主たる戦法であった昔の兵法に過ぎません。だからといって現代のわれわれが徴兵制を用いていた昔の体制を、これみよがしに愚弄したとて始まりますまい。世界の列強がみなそうだったのですから。ジェット戦闘機もミサイルもなかった時代の「戦さ」というものの生の姿だったのですから。

あなたは、つい先日の記事で、太平洋戦争当時、東アジアにおける戦没者は、数千万に昇ると言い募る。それも、その数字すべてが日本軍が殺しつくした結果だと言わんがばかり。

そんなことはありますまい。当時東アジアにおいて米軍が殺した死者数と日本軍が殺した死者数とを比べて、さてはてどちらの数字がまさっているとお思いか。わたしは米軍のほうが、はるかにまさっているような気がしておりますよ。問題は、やはりあなたの発想にあるように思われまするよ。 ま、そんな70年も前のことについての死者数比べをしても、せんもないこととは分かっているのですが、少々、気になって第二次大戦における各国別の死者数を調べてみました。主要な国だけを上げたてまつれば以下の如し。なお、数字は兵士と民間人の合計です。右端は人口比です。

日本   300万人 2,0%
中国 1千万~2千万 2~4%
(なにしろ白髪三千丈のホラがまかり通っているお国柄ですので、いまだまともな統計は出ていないようです)

フィリピン 70万人 5,0%
インド  200万人 0,5%
米国    42万人 0,3%

英国    45万人 1.0%
フランス  55万人 1,4%

イタリア  45万人 1,0%
ソ連  2500万人 13%

ドイツ  800万人 10% 

(以上、ウキペッペの「第二次大戦の犠牲者」より)

国別死者数は、これぐらいで良いでしょう。呆れ果てて開いた口もふさがりません。人の命をなんとおもっているのか・・・と誰に抗議してみれば良いのでしょう。

いずれにせよ。第二次大戦における犠牲者は、日本と中国などの東アジアにおいて悲惨であったことは言うまでもないのですが、欧州戦線において苛烈であったソ連、ドイツにおいてはダントツなのです。このあたりでは人口の一割が犠牲となっている。かたやヒトラー、こなたスターリン。この両者には、人でなしも同然の野蛮の血が脈々とながれていたことは今日では定説となっています。この両者は、一年前にはポーランドを半分づつ、せしめようなどという密約を交わしていた悪党仲間なのです。極悪人と半キチガイのヒステリが、なにがあったのか国境をはさんで、あいまみれた。てめぇだけの陣地を守るため、いってみればてめぇの沽券と面子を守るため砲弾の嵐の中に、これでもかというほどまでに自国の青年諸君を狩りだし無闇矢鱈に投入した結果です。欧州全体で言うなら、おおよそ5千万人を数えるでしょう。

さて、上記の数字の中には、もちろんナチスの殺戮対象となったユダヤ人も含まれています。欧州各国で暮らしていたユダヤ人の戦前人口はおおよそ900万人と言われていますが、このうち当大戦で犠牲となった数は500万人から600万人でした。実に半分が犠牲となってしまったのです。ユダヤ人迫害は、ヒトラーだけの専売特許ではなかった。ヒトラーにまけずおとらず社会主義ソ連においても凄まじかったと聞きます。それに加えてソ連には政治的な問題から粛清され処刑された何十万何百万という犠牲者がいる。それらの方々も上記の数のうちに入っているのでしょう。思うに、この半キチガイの両者も、彼らなりに革命的情熱に溢れていたのです。両者ともに純粋な国家を求めていたのです。かたやヒトラー様におかれてはアングロサクソンの純粋性を奉じる。こなたスターリン様におかれては階級的純粋性を求めていた。

よって民族の敵、階級の敵は一匹残らず殲滅することこそ、この双子の悪党なりが、思い込んだ正義の思想のようでした。もちろん、こんなことは、てめぇだけが飽食するための一種の口実にすぎません。この口実に乗せられてくる何億という衆愚らがいたという事実こそ恐ろしいのです。

さても、かような結果から見るに、戦争はしてはならないとは大戦後の世界の誰にとっても耳にタコなのです。だが一方、自分の命を守るには、確固たる国家と権力と、それ相応の武力がどうしても必要であることもまた自明のことなのです。大戦後、ユダヤ人たちがイスラエル建国に向かった情熱も理の当然でしょう。戦争を避けるためにも平和を維持するためにも、人々にとって、まずは強い国家権力と軍備を構築する以外の抑止力はないのです。もちろん軍備は、国際社会において適当なバランスを取っておかなくてはなりません。民主主義が根付いていない野蛮な「お国柄」におかれては、「軍」が議会などを無視してまま暴走することがあるからです。そのためにこそ外交と国家内部における徹底した議論や公平な選挙が前提となるのは言うまでもありません。

話はかわりますが、終戦直前にヒロシマ長崎への原爆投下ということがあった。数十万の民間人が殺傷された。いまでも当地におかれて毎年夏に原水爆禁止運動の大会が催されている。石碑には、「あやまちは二度と繰り返しません」という有名な自虐的文言が刻まれている。大会は大々的に挙行され、市長のお言葉なりがラジオで全国放送されるが、いまだ、誰ひとり、この非道なる米国の戦争責任を糾弾するものも、問うものもいないのは、どういうことなのですか。

米国および連合国の批判は、いっさい許さないとする占領軍による言論封殺、箝口令が、いまでも日本人の中に、脈々と引き継がれている証左といえるのではないですか。大江健三郎には「ヒロシマノート」という著作があるが、米軍批判は、一行たりとも見当たりませんね。共産党などの左翼も右同じです。大江や共産党こそ、日米安保のさきがけと申しても過言ではないでしょう。安保条約締結以前からアンポンタン状態だったのです。米国正義、戦前日本悪者論の原理に立ってしか、モノが見えていないのです。ようするに、この原理こそ占領軍が、徹底的に戦後の日本人に与えた刷り込み思想ですよ。

原爆投下後ただちに、米軍関係者および学者らの一群がヒロシマに入り綿密に被害の状況および原爆の武器としての効果を調べるに及んだ。とある学者による報告書が残されているらしい。彼によれば、思ったほど大したことはなかったという。原子爆弾ともいえど皆殺しにしてしまうような決定的な武器ではない。えがったえがった。これぐらいの被害なら今後とも、限定的に使用して可能だろうと結論づけているとのことなり。

さてもう一つヒロシマの話。ヒロシマ原爆投下は昭和20年8月六日。十五日には事実上の終戦となる。巷ではピカドンにやられたヒロシマには、これから数十年というもの草木の一本たりとも生えてこないだろうと、まことしやかにささやかれていた。ところが、次の年の春ともなれば、雑草はおろか見事な夾竹桃が咲きみだれたと聞きしにまさる自然の力。なぁんだ、それほどのことはなかったという実際にふれて、大江の健さんやら、その他戦後のデマゴギストやイデオロギーの連中は複雑な思いに浸ったはずだ。

日本国憲法、それも童話じみた前文そして交戦権を否定し武力を放棄させた第九条は、おっつけ国民自身が改訂するだろうと、日本側に草案を押し付けてきたGHQ自身、予測していたという話もあります。彼らによれば半世紀を超えて、米軍仕様の憲法が一行も改訂されることなくいまに至って生き残っていることは奇跡に近い出来事だと言っているのです。早い話が笑われているのですよ。

「九条を守れ」などと、同じことをさも勝ち誇ったかのように言っている共産党をはじめとする一群の左翼運動家らの教条的平和論によるならば、おっつけ他国からの干渉をどこまでも許してしまう結果になるでしょう。かれらのスローガンは国家滅亡論と称しても過言とは申せません。占領が終わり帰国したマッカーサーが言ったという「日本人は少年だ」という辛辣な証言も今にいたれば、まさにその通りであるとしか言いようもないでしょう。一向に、自分のことを自分で守ろうとしない「お国柄」なのです。それで、よろしいのですか。そこが問われているのだと思いまするよ。

それに、あなたは無関係なヒトの死ですら、わけもなくやたらに悲しんでいるようですが、それは実に卑しいことですよ。歴史を見る目が曇ります。それとも悲しんでいるフリだけなのですか。わたしは後者だと思っていますよ。語り口の相違なのです。歴史のあれこれを、できるだけ悲しく描く。そして衆愚らに危機感を抱かせ、世直しを扇動する。これが近代以降ジャーナリズムの便宜性をわきまえた運動家たちのやり方でしたよね。とくに徒党根性まるだしの左巻連中の言動は扇動根性につきている。こうして、意味もない風評をたれ流しては政争の具たらしめる。原発問題しかり、尖閣問題しかり。開いた口がふさがりませんね。

上で明治維新当時の会津藩の悲劇と書きましたが、これにしても歴史が進めば、悲劇の一色ではなかったことが、いろいろとわかってくるものです。たくましく生きてきた人々が数多くいたことが。太平洋戦争でもそうですよ。神風特攻隊というものがあった。若い命が多々散っていった。突っ込んでくる特攻機を迎え撃つ艦船上にいる米兵は驚嘆していた。特攻兵の覚悟に尊崇の念すら覚えたと回顧している元米兵もたくさんいるのです。さて、戦争には負けたが外交では勝ったという戦後の宰相吉田茂の名言がありますが、わたしなりに言い換えると、こうなります。戦争には負けたが戦後は勝った、と。 

馬亀さんが反省すべきは、今もって日本人の手で戦争責任の所在を明確にしていない事です。

かつて大昔に挙行された「戦争」という事実の仔細について、誰それに責任があるとかないとかいう議論を持ち出されても、戦後生まれのわたしには、皆目見当もつきません。すくなからず政治的には解決している問題だと安堵しているところなり。それでは、まずいと泥炭氏はおっしゃる。では、お聞きしますが、あなたの思うところ、今日、問われなければならない70年前の「太平洋戦争」における「戦争責任の所在の明確化」は、どこまで、あなたご自身の中で進んでいるのですか。あなた自身のお考えこそお聞きしたい。

わたしが知るところ極東裁判の結果、旧軍部を中心に戦争犯罪人が指定されA,B,Cとランクされた。東条英機をはじめ十名近く名指しされたA級戦犯は死刑に処せられましたね。泥炭氏によれば、それ以外にも現代の日本人にも、さらに自覚しなけれならない戦争責任があると言う。それはいったい何事ですか。天皇をして、どのように処罰されれば真っ当だったと言うのですか。

内心の問題だけのように見受けられますよ。今日でもなお、日本人でありながら日本が嫌いだと主張する鼻垂れ小僧のような左巻連中の扇動に、いい年をしたあなたのような御仁が、たぶらかされているようでは、なんと申しましょうぞや。どうかと思いますよ。あなたの願望とおりの日本国と日本人にするのでしたら、冒頭で冗談半分に申し上げておいたように、もはや、日本人たるもの領土といい資産といい、すべて中国に差し出して命だけはお助けくださいとフンドシ一丁で土下座する以外に方法はないのではありませんか。だが、そこまで卑屈になる必要がありますか。わたしは、まったく、そのようには考えておりませんよ。もはや大昔の戦争についてのあれこれは政治的にも内心的にも、すべて解決しているはずです。

中国などが我が国に対して要求していることは、すべてこれ自国の領土国益拡張のために作り出されてきた口実ですよ。無人の島なのだから、まあよいだろうなどと尖閣諸島を召し出したとたんに、次は沖縄を寄こせさらに九州を寄こせと、次から次へと要求がましくなるばかりでしょう。なにしろ乞食根性まるだしでやりくりしている野蛮な共匪が取り仕切っているお国ですからね。彼らに対しては断固として一歩も譲らないという姿勢をしめしておくことが大事なのだと思っておりますよ。 

70年前の戦争については、相手(中国、朝鮮)が『もういいでしょう』と言うまで(日本は)謝るしかない」と、村上春樹という小説家が主張しているとのことですが、わたしには彼の主張は愚かだと思いますね。彼は歴史も文化も知らない現代に蒙昧する自虐的史観に陥った一種の馬鹿だと思いますね。村上に似た者同士で先輩格の大江健三郎という大馬鹿者がいる。

中国、朝鮮などの主張は、単なる道義上のことではないことは自明です。彼らが、望んでいるのは日本国によるさらなる賠償である。土下座して謝れば、それで済む話ではないのです。土下座した途端に、されば、さらなる賠償金および領土をよこせと言ってきますよ。事実、中国は尖閣諸島を狙っているし、韓国は竹島を軍事力を持って占領しているではありませんか。まずは、これらを正当化してきます。国際的に、合法的に、彼らの領土として、認めなければなりませんね。

だがこれは最初の一歩にすぎません。まだまだ謝罪がたりないと言ってくるでしょう。沖縄を寄こせ、九州をよこせと居丈高になるばかり。そのうち露助まで出てきて、北海道を寄こせなんて言ってきますよ。さて、泥炭氏は次のように言う。

日本が本気で過去の誤りを反省すればそれが通じないわけがない。

この70年間、日本はどういう歴史を刻んできたと思っているのですか。自他ともに「平和」ひと筋で歩んできたのはご存知のはず。これ以上の、なにをどうせよと、あなたは日本国に望んでいるのですか。あなたの論は、ひたすら日本国を貶めるだけのようですよ。亡国論にほかならないようにおもわれますよ。それほど日本が嫌いなのですか。あなたのばやい。まさか中国のスパイではあるまいに。さらに泥炭氏の意味不明な言辞はつづく。

日本はまだ第二次世界大戦を遂行した責任者の洗い出しを行って居ない。

70年たってもまだまだとはなぇ。難儀なことですねぇ。それで、あなたの場合は、その戦争遂行責任者は、どこの誰べぇだと、思っているのですか。当てぐらいはあるから、そうも言えるのでしょう。そういえば、思い出しました。あなたはいつぞやほかならぬ当掲示板に書いていた。それは昭和天皇であると断言していたではありゃしませんか。戦争遂行責任者としての昭和天皇を日本人は許してしまった。天皇は日本人によって断罪されていない。これこそ今に至る大問題なのだと。天皇には、大元帥として軍部を形式上統括していたのですから、確かに、そのような一面もたしかにあったでしょう。だが公平に見て、昭和天皇は戦争について真意から反省し、誰よりも国民と隣国諸氏らに対して心から謝罪していたと思っていますよ。代がわりして平成天皇となりましたが、さきの戦争に対する態度は、先の天皇に変わりありません。生涯を通して、頭を下げ続けていくご覚悟のようです。で、泥炭氏におかれては、天皇について、どうすれば、よいと言うのですか。

東京裁判でそれは終わって居る様に勘違いしている傾向が感じられるけれど、あれは、戦勝国が行ったもので日本人が行ったものでは無い。日本の戦争被害者の視点や日本人の自己批判が欠けている。

わたしには、相変わらず意味不明ですが、そこまで言うなら、あなたご自身は、いかように、なされるおつもりか。今後の態度として。戦争について、あなたは自己批判したことがあるのかね。まずは、あなたの、自己批判なりお聞きしたい。良き自己批判なれば、拙者としても、それを手本といたしたい。他人のことばかり言っていないで、まずは、あなたご自身から、当掲示板なりに、自己批判書を掲載してみなされ。

日本の被害者の視点から戦争責任が徹底的に明らかにされ、日本人の1人1人が今後主権者としての責任を全うする自覚をものした時。 その時にこそ、初めて二度と同じことを繰り返さないような法的整備が可能に成り、精神的にも脱皮できる。

これまた、あなたご自身どうなのかと、お聞きしたい。戦争責任が徹底的に明らかにされれば・・・日本人は・・・精神的に脱皮できるとな。いったいぜんたいなんじゃね。その精神的脱皮とやらは。おまはんは、多少は脱皮しているから、そうも猛々しくも言えるのだろう。どれ、みせてみい。おまはんの脱皮の調子具合を、いい年をこいているのだろう。だいぶお勉強してきたようだ。遠慮するな。みせてみろ。ご老体の脱皮状況を。痛くも痒くもない脱皮なら、なんぼでも、やってみたい。ご老体の脱皮方法を、拙者の手本にいたそう。

全体、これっぽっちの目新しい主張も思想もないのが、泥炭氏の書き込みだ。神はいるのかいないのかに代表される神学論争の典型例だ。誰それに戦争責任があるというなら、徹底的に洗い出し見ればよい。それはおまさんの仕事だ。自己批判しなければというなら、まずは、てめぇ自身から自己批判しなくてどうする。おまはんのおとちゃんは、陸軍二等兵として戦死なされたと聞く。おまさんが、土下座しなくて誰がする。

それほど先の戦争で、日本人が悪いことをなしたと言い募るなら、北京でも上海でも、どこでもよいが、さっそく土下座行脚の旅に出よ。わたしはゴメンだ。ようするにだ。泥炭氏の記事を、もう少し斟酌してみればという話だが。泥炭氏の父上様は兵隊として徴集され、南方戦線において戦死なされた。終戦直前のことであったのだろう。多くの日本兵が戦死した。当の父上もまた泥炭氏によれば「加害者」では毛頭なく、むしろ「戦争被害者」なのだという主張なのだが、わたしには、黒を白と言っているようにしか聞こえない。よくある極めて単純な功利的逆説だ。早い話が詭弁にすぎまい。加害者が被害者の仮面をかぶってモノを言い出すことは、よくあることだ。

さても昨日、ご老体は次のように法螺をふく。

国籍を忘れて被害者同士の団結はできないのか。国籍を忘れて一緒に戦争の原因を見つけ出そう、韓国の人たちと一緒に闘おうと言ったら、虫が良すぎるのだろうか。私も被害者

仮にも自分の国籍を忘れた「ふり」ができるのは、国際テロリストか、はたまた根っからの共産主義者ぐらいなものでしょう。それは親の顔を忘れた「ふり」をすることであり、ただいま使用している母国語を忘れた「ふり」をして、母国語を使いながら母国語と「祖国」を侮辱していることに等しいことだと思いますよ。自己が存在していることに対する大いなる矛盾論だと思いますよ。好意的に見ても感傷のたぐいでしょう。

あなたのことは、実際にあったこともなく、仔細には知るところもないのですが、いくつかの書き込みでおおよその外貌を知りましたが、あなたの場合は、誰にもまして足の先から頭のてっぺんまで日本国民そのもの、なのではありませんか。あなたの父上は終戦直前に日本兵として、出征し、台湾沖で戦死なされた。そのとき、あなたは生後五ヶ月だったとのこと。戦後70年の日本の歴史の、なにもかもがあなたの人生そのままです。父上様の顔を見ることもなかったが、賢明な母上さまのおかげで、あなたは、それなりの学歴を積まれ、先年、退職なされ、いまや悠々自適の年金生活。お孫さんが七人もいらっしゃるとのこと。まれに見る成功者といえるでしょう。

日本国籍のあなたに同年代の方々の多くが、今現在、どれほどの生活的困難の中にあるか。あなたは分かっておられまするか。もちろん彼らのことのなにもかもが、あなたのせいではない。

あなたの場合は幼少のころより、母上さまの言うことをよく聴き、お勉強に励み、自助努力をなさった。その暁としての今日の老後的幸福があるのでしょう。どこが被害者なのですか。口先だけで被害者面をしているだけだと思いますよ。思い出してごらんなさい。あなたの小中学校は、遺族年金でまかなわれていたことは否定できないでしょう。高校以後は奨学金でまかなった。大学を卒業して公務員として定年まで勤められた。おそらくどこか公立機関の研究職かなんかだったのでしょう。それを言うのです、わたしなどとは違って、あなたの場合は足の先から頭のてっぺんまで、日本国によって賄われてきた人生ではなかったのか。こうして死ぬまで日本国政府のお世話様だ。骨の髄まで、親方日の丸で、ここまでやってきたあなたが、国籍がどうのこうのと、いまさら言える資格があるのか。

どこが被害者なのですか。いい年をして、心にもない虚偽発言はいい加減にしたらどうですか。靖国神社に鎮座まします、あなたの父上様が、いまごろ泣き笑っているだろう。これ亡国の馬鹿息子よ、と。

以上、ご老体。あなたの真意を汲み取ろうとも思ってみても、どれも思いつきによる口先だけのようにしか聞こえませんよ。少なくとも、わたしが自分の国籍にこだわるのは、基本的に日本が好きで、自分の国としては、日本国以外には想像することもできないという狭量かもしれませんが、そうした事情があるからです。生まれたときから、この国の中で暮らしてきたのです。それで、まんべんなくなにもかも幸福かと聞かれれば、それはいろいろあるでしょうが、おおむね幸福だと思っていますよ。日本という国に満足しています。わたしでさえそう思っているぐらいなのですから、あなたのように、それこそ「ゆりかごから墓場」まで、なにもかも親方日の丸でやってきた人が、国籍なんぞ、どうでもよいというような乱暴な発言を、どうして、なさるのか疑問がわいたのです。

いつぞや、あなたは次のように掲示板に書いていた。「国際問題を考える上でもはや国籍に拘って居る時代ではない」と。だがそれは少なくとも「政治」という側面においては逆だと思いますね。自分が所属(国籍)している国が、少しでも平和な、よい国になって欲しいとは思いませんか。世界のどの国よりもです。スポーツにおいても、文化や学芸においても、経済においても世界一立派な国になって欲しいとは思いませんか。あなたのお孫さんのためにも。

70年前に、台湾沖で米軍に船が撃沈され戦死なされたあなたのお父上様も、同じようなことを思っていたのではないでしょうか。なにも無理やり徴兵されて、のこのこと出かけていった挙句の果てに、語弊があるかもしれないが「犬死」したわけでは全然ないと思いますね。まずは家族の安泰を願い日本という国が、さらによい国となり世界が平和になることを胸いっぱいに信じて出征していったに違いないのです。

 

 

 <2014.11.03 記>

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▼向ヶ丘のラーメン屋

2015年11月08日 | ■教育年金管理人泥炭氏との対話

 

以下、教育年金掲示板より 


こんばんは。まずは終戦直前の米軍による日本人皆殺し作戦ともいうべき<原爆と大空襲>は、あなたの言うような深い意味はないように思われますよ。

単純な欧米人らに根深く宿っていたアジア人蔑視から発せられた、人を人とも思わない蛮行だったのです。太平洋戦争中に行われた蛮行の中でも、問われなければならない最大の戦争責任だと、わたしは思っていますよ。だからといって、いまさら公に米国に対して、この問題で議論しようとか、問い詰めるようなこともアホなことだとも思っていますがね。

70年も経ったのですから。ましてやわたしは戦後生まれ。憎しみもなにも、戦争についての感情的問題はどこを探しても出てきません。もちろん、あなたの言うように日中間の、友好的な民間交流が多々あることは否定しませんし、これらの現象は褒められこそすれけなされるいわれもないと思っていますよ。それはちょうど、たくさんの中国方面からの観光客が、日本製品を「爆買い」して行ってくれるとういう現象に似ています。大歓迎です。

おっしゃるとおり中国の人たちは、わたしが知る限りではいい人ばかりですよ。以前にもお話しましたが。わたしが居住する沿線には、各駅まえに各種ラーメン店があります。

この三年ほどの間に四、五軒の好みの店を見出しました。おいしいから通っている、ただそれだけなのです。かわりばんこに通いつめているのです。それらはラーメン店は、みな中国の人が経営しており調理しております。今日食べにいった向ヶ丘のラーメン店では料理中であれ、客が居ようといまいとおかまいなしに、家族同士で大声で中国語でやりとりしていますよ。活発にね。まるで喧嘩でもしているように。これが、田舎育ちのわたしには、なにか懐かしい感じがして、心が洗われるのです。

マナーがどうしたこうしたと気にしてばかりいる現代の日本人は彼らに比べれば、なにかこまっしゃくれた小人のように感じてしまいますね。

話は変わりますが、さきほどまでTVで浅田真央さんのフィギュアスケートの大会を見ていました。中国で開催されていた国際大会の中継だったのです。真央さんが優勝されました。二位がまた日本の本郷さんという19歳の方。両名の演技に対する観客の反応が、まるで国内大会をみているように盛大でしたよ。それにリンクを囲っているフェンスの広告が、意外でした。日本の企業の広告が圧倒しているようでしたが、カタカナ、ひらがなで企業名、製品名が大きく書かれていたのです。

観客の多くは中国の方々。どうして広告まで、こうまでも日本がのさばっているのかと、悲喜こもごも。まっ、これまた悪いことではありません。素直にめでたいことなのだと思うようにしておりまする。ただね。民間交流の深浅と、外交や政治は、また別問題だという面も、わきまえておく必要がありますね。

歴史を見る目はいろいろあるが、議論するなら、やはりここは、政治学的に見るほかは、ありますまい。脳が温暖化した齢七十二なる泥炭殿よ。

日米戦争のときもそうでした。当時は日本からの移民移住が盛んだったのです。たくさんの日本人が南米ブラジルをはじめハワイやカルフォルニアにも移住していました。日米戦争が勃発して、さて、どっちの味方をすればよいのやらと一番難儀したのは彼らだったのです。カリフォルニアでは収容所に入れられた。ハワイではスパイ扱いされて白い目で見られた。汚名挽回とばかりに二世の息子たちが武勲を立てんと米軍に参加して日本の敗戦時には、通訳その他。大きな役割を果たしたことは知る人ぞ知る物語でしたね。

 

 

2015.11.04 小田急 向ヶ丘遊園駅

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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▼題して「相続と世襲」 または貧しい富裕層の税金対策

2013年01月24日 | ■教育年金管理人泥炭氏との対話

以下、教育年金掲示板より

 

●投稿者:泥炭

今回の相続税の引き上げは2方面から行われます。累進率の引き上げと基礎控除の見直しです。親の家で共に暮らしながら、親の看病をしていた富裕層が親の死後、遺産相続税を払うためにその家を売らなければならなくなる等と言う悲劇も起きそうな気がします。 これは、富裕層に対する極端な増税と言うべきもので、一般富裕層増税と呼ぶのは正しくないし、この様な貧しい富裕層に対して増税を行うのは良くないと思った次第だす。少なくとも富裕層増税と宣伝しながら、貧しい富裕層を狙い撃ちするかのごとく相続税を増税するのは詐欺と言うべきです。今回の富裕層増税案から、特に貧しい富裕層に対する増税だけは是非とも削りとってもらいたいものです。 

 

●投稿者:かもめ
  
相続税が高すぎるという不満の出所は、拙者には富裕層の自己弁護のようにしか聞こえませんぞ。もそも相続というもんが実に、遺憾だと思っているのが拙者の極言です。
世襲に反対しておいて、なにが相続だ。相続するから世襲も生まれるのだろう。相続は、いっさいがっさい、やめるべきだ。
親の残した土地建物は、すべて国家なり地方自治体が接収するって、新方針は、いかがかな。さすれば、この先二三十年後には、すべての土地建物が国家または、地方自治体のものとなる。農地は国から借り受けて、農作業を営む。のんべぇで、ちっとも農作業にはげまい農民各種からは、さっさと土地を取り上げて、以後、貸し出さない。別途、有能な農民に貸し出す。
住宅もすべて私有は許さず、地方自治体の所有物となし、低価格で住民に、貸し出す。まるで社会主義のようだが、いたしかたもなし。
人間は、土地や建物を私有するから、諍いを起こし、頭が、馬鹿になるという定説がある。
拙者を見ろ。拙者のおとちゃんが死して後に、残したものは、下着類などが入った手荷物一つだった。拙者のおかちゃんは入院中だが、青息吐息だ。やはり、おかちゃんが残していくものも、手荷物一つだ。
拙者自身も、おとちゃんはおかちゃんに見習って、かくのごとくに死ねればと思っているところなり。
この世には、何も残さないで天国に行く。もちろん、誰に対しても貸し借り無しだ。
これほど、すがすがしい人生行路というものがあるだろうか。
泥炭さん、あなたも、相続から開放されなければ、人生は浮かばれないと思いますよ。相続を拒否できるか、田舎や。
すくなくても民主主義国家は、それを狙って、やけに相続税を上げてくるのでしょう。相続したいなら税を払え、そして、おまはんも、すっからかんになれと。それは正論でしょうな。
相続税を払うのが嫌なら、相続しなければよいだけのことなりや。

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▼題して「尖閣型老人性戦争反対耳鳴り症候群」

2013年01月18日 | ■教育年金管理人泥炭氏との対話

以下、教育年金掲示板より

 ●投稿者:泥炭

戦争の近づいて来る足音が聞こえてきます。最近の中国側の言動は、日本の動向に対する反応としては、いささか度を過ごした反応の様にも感じられなくもないが、彼の国は7、80年程前に日本から暴虐の限りを尽くす大変な被害を蒙った被害者である。日本に対する経験に基づいた恐怖心を持っているだろう。中国が日本の言動に、過敏に反応するのも仕方がない。しかし、このようにして緊張は高まり、戦争は始まる。これまでの戦争の多くがそうだった。
すかすながら、指摘したいのは開戦必至だと言うのではない。軍国主義を賛美したり軍事対立を扇動するような発言は厳に慎むべき時だと言いたいのである。それは只、相手国側の反日感情を高め、反日勢力を勢いづかせる事しか結果しない。それに、今はこんな火遊びをしている時ではない。地球温暖化に対して全人類が一丸となって協力し知恵を出し合わねば遠からず大変な事に成る。そこを指摘したいのである。


●投稿者:かもめ

ようするに、泥炭氏は、中国には中国の考えや立場があることは一顧だにしないようですね。中国という国は、はまるで、石原氏のような好戦的な日本人の発言によって、右にも行き左にも行くのですか。
石原氏のような発言さえなければ、日中関係は、すべてこれ平和裏にことが運ぶのですか。
中国という国は、そんな単細胞な国なのですか。
逆に、日本という国は、中国を戦争に引きずり込んだり、引きずり込まなかったりできるほど、そこまで強大な影響力を持っているのですか。
日本次第で、中国の国策は右にいったり左に行ったりするのかね。
あなたこそ、中国を見下しているような感じがしてなりませんよ。
いくらなんでも、10億の民が集う中国とは、泥炭氏が捉えているほど日本次第で、どうにでもなるほどの無方針な弱小国家ではないと思いますよ。

さて、以下は一般論として述べておくに過ぎないのだが、昨年末の総選挙の際の、社民党党首の福島瑞穂さんの次のようなコメントを覚えている。彼女は言う、憲法を改正しようと自民党はたくらんでいるが、憲法が改正されたら、日本は「戦争のできる国になってしまう」。ここはなんとしても自民党に勝たせてはなりません・・・と。
とういうことは、現在、日本は憲法が、それも9条が盾となって、「戦争のできない国」であるようだ。少なくても福島さんの認識では、そうなのであろう。
わたしに言わせれば、戦争のできない国とは、ようするに主権のない国のことである。独立していない国のことに相違ない。それは決して福島さんが考えているように、「平和」なことでも、幸福なことでもない。むしろ逆に、不幸なことであると思う。
ご存知のように、日本は自衛隊という規定上、半分だけ軍隊のようなものを持っている。事実上は、軍隊と言って間違いない。一昨年の東日本大震災の折、彼らの活躍は目覚しかった。全国の部隊から10万自衛官が、津波にのまれた東北の海岸に向かって、一斉に出動し、その後数ヶ月にわたって救援活動にあたった。日本に駐留している米軍も総軍を挙げて「ともだち作戦」と称して、応援してくれたのである。
福島さんがなんと言おうと、すでに日本は、実際のところ「戦争のできる立派な国」として成立していることは間違いない。問題は、非現実的な理想を歌う、憲法の条文の存在であるが、これはまた国会なりで議論を盛り上げていけばよい。
問題は、「戦争」という概念を、嫌悪するにせよ否定するにせよ。あまりに誇大に振り回さないほうが、多少は教育的だろうとは、思っている。もちろん、他国のことだ。ミサイルをぶっぱなしてくるのやら、刀を振り回してくるのやら、皆目わからない。前者と後者では、同じ戦争とは、いっても、その実態たるや、雲泥の差があるのである。もちろん、どんな場合にも、毅然として対処しなければならないことは、現代の自衛隊なら、そのいずれの戦争にも応戦する技術も誠意もあるだろうと信じている。
そのような場に備えるために、彼らが日夜奮闘してくれているのである。これは政治家も同じだ。できるだけミサイルなどは使わせず済ますのもまた、政治と軍事の役割だ。刀を振り回す程度の小競り合いで、ことを収めることができるなら、これ幸いの平和の世の中が、続いていく保障が生まれる。そのために尽力しているのだと、思いますよ。あなたの嫌いな、自民党も自衛隊も。それに石原氏もだ。
ただし誤解なきように申しておくのだが、日本の場合も、自衛隊ががんばってくれているおかげで、すでに、立派に「戦争のできる国」だという認識はあるものの、だからといって、さっそくその実力を試すがごとくに実戦してみればよいとは、これっぽっちも思ってはいない。これは中国サイドも同じことなのである。一発の銃声の持つ政治的意味が、昔と今では、天と地ほどの違いがあるのだ。どちらが先に手を出したかは言うに及ばず、その一発の銃声で、どちらかの国が悪にもなり、善にもなってしまうからだ。悪だと決め付けられた日には、これによって世界の世論から見捨てられ、孤立させられてしまう。おのずと慎重にならざるを得ないだろう。こうした意図に基づく戦略戦術に収斂される、大小さまざまな情報が、海峡の水面下でめまぐるしく交錯し流されているのである。これまた政治というものだ。われわれ市井の人間になど、その幾分たりとも知れることはないままにだ。政治家でもなし、自衛官でもない拙者は、別に知ろうとも思わないがね。
ところで、あなたは何か働いてますか。日本の平和のために。世界の平和のために。何もしていないというなら、この際、自衛隊宛てに、平和のためにがんばれと寄せ書きするなり、または小額でよいのだから、寄付でもしてみたらどうですか。
さすれば、いっそ気が晴れて、あなたの若い頃からの持病である「戦争反対耳鳴り症候群」も、多少はよくなること、うけあいますよ。

 

●投稿者:泥炭

「武力衝突は時間の問題」と英BBC放送が懸念を示すております。みなさん。いよいよ日本と中国のの、戦争が始まりそうですよ。 
不吉な予言だが英BBC放送が17日、日本と中国が沖縄県・尖閣諸島の領有をめぐり対立を激化させているとし、武力衝突は時間の問題だとする見方を伝えたと、複数の韓国メディアが報じたと言う。 
英メディア、日中対立に懸念「武力衝突は時間の問題」=韓国
同放送は英経済誌エコノミスト最新号を引用する形で、日本は保守系の安倍晋三内閣が発足してから対中強硬路線をとり、一方中国はこれに真っ向から反発するなど対立は深まっているとした。
同じ日、米高官の懸念としてこんなニュースも伝えられている。
偶発的な日中衝突の危険性…尖閣で米高官懸念
さらに、日中の対立を日本の大陸侵略に対する深い後悔の欠落にあるとするこんな見方も流布されている。
すかす不思議な事に日本のTVは昨日は阪神大震災から18年目の記念日と言う事でその関連の話題ばかり流していたし、今日は朝からアルジェの人質事件に掛かりっきりだ。 中国との開戦が迫っていると言う緊迫した雰囲気は感じられない。 あろう事か、東南海地震の食料などの中国や韓国からの食糧の緊急輸入の必要性が語られていた。 また、今日18日の読売新聞社説では中国の大気汚染問題を取り上げ、中国大気汚染 成長至上主義の限界露呈したなどとのニュースを流すばかり。
この記事の結びとして < 日本は中国に対し、環境問題の重要性を粘り強く訴え、中国が日本の公害対策のノウハウを活用するよう働きかける必要がある。> と結んでいる。 もっともな意見ではあるけれども、中国側が尖閣問題で戦争も辞さじと沸き立っている中での議論としてはなんだか的外れな気がしないでもない。中国との戦争問題を採り上げても石原慎太郎氏の様な扇動家を調子づかせるだけとの配慮からだろうか。しかし、真に平和的事態解決を望むならば、ほかに何かやる事があるんじゃないか。大新聞にできぬなら私達が考えなければならない。
ああ、戦争はどうなっているのだ。開戦するのかしないのか。日本と中国とは戦争するのか、しないのか。早いところテレビでニュースを流してほしい。ああ、明日のテレビを見るのが楽しみだ。テレビはなにをやっているのだ。この大事な時期に、お笑い番組なんぞ、流しているのは、ごまかしているからだろう。テレビは恥を知れ。ったく。バラエティーなんぞ、やっている暇があるのか。そこで、誤解なきように言っておくのだすが、わたすはわたすは戦争反対だす。わたしほど心の底から戦争を憎んでいるものは、この日本には、いないと思っています。だからこそ、戦争だけは、しないように日本と中国が仲良く手をつなぐ場面を、早くテレビに映ってほしいと願っているのだす。ああ、それにしてもしんぺぇで、しんぺぇで、明日のテレビがどうなっているのか、待ち遠しくてなるません。

 

●投稿者:かもめ

あなたもだいぶ単細胞のようですね。武力衝突とは言っても、銃声一発の小競り合いから、ミサイル発射までの幾層にも分かたれる段階があるものですよ。戦争は一語だが、その実態は、一様ではありませんよ。あなたの戦争概念は、太平洋戦争及び日本の中国侵略ぐらいしか、頭に浮かんでこないようだが、それは無知というものです。今と昔は大違いだ。まずは情報合戦がある。戦闘機を相手国内の、どこまで飛ばすのか等々さえも計算ずくなのですよ。警告のために射撃するとはいっても、玉の方向、玉の性質は、何段階にも別れている。最初は、相手機と並走しつつ、正面方向に、なにか光る玉を打って相手に警告を与えるそうだ。これを打つか打たないかも、大きな政治判断が必要とされるのです。昨年のことだが、海上保安庁の艦船と台湾のそれとの間で、水のぶっかけっこをしていましたね。あれも、一種の戦争といえば言えるだろう。いずれにしても最初は、そんなものなのだから、びくびくしなさんな。

2013.01.25 産経新聞

 

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▼とある60年代安保青年との対話

2013年01月11日 | ■教育年金管理人泥炭氏との対話

以下、教育年金掲示板より

さて泥炭氏は次のように書いている。

>再生エネルギーでの展望が開けるまでは、選択肢としての原子炉とその技術の維持を計らねばならない。 取り分け技術の維持・発展は脱原発をやり抜くためにも必要だ。 

まったくもって正論です。脱原発屋さんたちが、間違っているのは、スローガンを美化するあまり、実際の現実に目をやることができなくなっていたのです。脱原発をわめいていれば、票が集まると・・・・思い込んでいた。ところが有権者は、泥炭氏のような慎重性を、心の中で、すでに携えていた。脱原発の、恐ろしさ。稚拙な単純さ。こうしたことを、わかっていたのですよ。ところが、上の一文に続く下の文章は、たんなる誹謗抽象に堕ちてしまう。こうした有様に、泥炭氏の政治的センスというものが、いかに皮相なそれにしか過ぎないことが見えてきてしまうのである。

> しかし、石原氏の台頭は原子炉の危険性や地球温暖化問題に劣らぬ危険性を孕んでいる。 彼は平地に乱を求める戦争屋だ。 

石原慎太郎氏のことであるらしいが、石原氏が選挙で勝ったりすると「原子炉」が危険になり、地球温暖化が進むのだすか。それ以上の危険性さえあるとは、なんのこっちゃ。彼は戦争屋ですか。どこから、そういう形容が、あなたの頭の中に、沸いてくるのでしょね。

はてまた泥炭氏は次のように書いている。

> 勿論、共産党一党支配や軍政に郷愁を捨て切れぬ守旧派は存在する。 しかし、保守を克服しなければならないのは日本も同じ。 歴史認識については侵略の過去を持つだけに日本に辛い仕事に成るが、大東亜共栄圏の実現のためには必要な事だ。

冒頭の一文は、まるで白を黒と言いくるめているかのようですね。中国におかれましては、「一党支配や軍政に郷愁を捨てきれない守旧派」とは、いったい中国指導層の中の、誰のことかね。郷愁などとごまかすのではありゃしませんぜ。ちっとも郷愁なんかでは、ありゃしませんぜ。そりゃ国民の中には、いろいろと意見もあるだろう。じゃが、今後とも、ますます一党支配を強め、世界第一の軍事国家を、いままさに目指しているのが、中国の政策的第一の柱ではないのかね。中国軍は、いまや300万とも400万とも言われている。あなたは、何を考えておるのかね。国防費は毎年10%の勢いで伸びている。

どうやら、あなたの大好きな「歴史認識」なんてものは、現代の中国人にとっては屁のごときものなのではありませんか。中国は、いまや世界のガンですよ。世界の悪徳の象徴だ。世界平和をおびやかす、最大の脅威的国家ですよ。

さてさて、泥炭氏は次のように訴える。

>私達は何故、「日本は欧米に比べて平等な国」と言う誇りを持てなくなったのでしょうか。 その事を問わねばなりません。

早い話が、拙者には泥炭氏の言っていることが、なにがなにやらさっぱり分からないのである。「日本は欧米に比べて平等な国」という言説が、どこにあったのか。かつてどこの誰が、そんな無意味なことを述べていたのだろうか。日本は欧米に比べて発展しているとか遅れているという話なら、明治以来何度も話されてきた。戦後にいたってさえも、よくその手の話は耳にした。この場合、発展とか進歩とかを見る指標としては、政治的に、または経済的にということだろう。さらに学校教育という面からも、よく比較の対象にされてきた。欧米の学校に比べて日本の場合は、等々とうとう。いずれの場合も、ようするに追いつけ追い越せという卑近な感情に訴えかける、国策として喧伝されてきたように思うのである。もっと言うならば、日本は一等国か、それとも極東の島国は、相変わらず二等国のままなのか、というような子供だましの論法が、まかり通ってきたのである。社会福祉というような場合も、此れはいまだにそうだが、やはり北欧を見ろ、スウェーデンを見習え、などと言う。ある面、確かに有効なのであろう。良いものは手本にすればよい。

だが、平等という価値が、日本と欧米とで、比較されたという話は聞いたことがない。どのように、比較すればよいのか。平等において、日本が欧米に誇れるものが、かつてあったのだろうか。または反対に、卑下するようなことが、あったのだろうか。いったい、泥炭氏は、なにを考えているのであろうか。こうした泥炭氏の、問題提起の仕方が馬鹿げているとは前言した。

よって、またかと、思うのである。自分では何一つ、親身には、感じていないところから、あたかも知ったかぶりして、問題を持ち出すのが泥炭氏の常套手段だ。さて、笑ってよいやら、泣いてよいやら。

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▼新しい田吾作呼ばわりの発見と創造

2012年09月06日 | ■教育年金管理人泥炭氏との対話

以下、フクスマ教育年金掲示板より

>日頃から、誰彼かまわず無前提に人様を田吾作呼ばわりし、然るべき理由も指摘せぬまま誹謗中傷して止まない、そんな貴方が・・・

田吾作呼ばわりは、ひとつの拙者なりのユーモアだと心得よ。ふんで、いまのところ、拙者が田吾作呼ばわりしている御仁は以下の三匹のアンポンタン。

小沢田吾作、有田田吾作、今井田吾作

こうしてみると、この三名の能無し連中は、いまや、いかにも役不足となりにけり。誰か新しい御仁をして田吾作呼ばわりせにゃなるまい。誰か、新しい田吾作を補充せにゃ、ネットのためにも「ご議論」も、おもしろくもおかしくもない。

そこで泥炭さんにお聞きするのだが、あなたは、どうですか。

新しい田吾作呼ばわりの仲間として昇格させるのも、やぶさかでないだすよ。あなたさえ、良いのならいつからでも、田吾作呼ばわりして、しんぜましょうぞ。

ああ、早いところ誰か、新しい田吾作呼ばわりを、発見創造したい。

仮に泥炭氏が新しい田吾作としてネット風芸能界にデビューするにしても、泥炭田吾作では、いかにも語呂がよくない。

その他、田吾作泥炭?田吾作ドロドロ?田吾作泥つぁん?こんなんじゃ、パチンコ通いのババア連中から、足元を見られてしまう。

その他、誰かそれらしい田吾作呼ばわりに満足できるアンポンタンが、ネット上で、ふらついていたりしないのか。もちろん、間髪を入れずに見つけ次第、田吾作呼ばわりだ。

それにしても泥炭さんは、わたしの中で田吾作呼ばわりの第四、第五の候補となって久しい。十年越しだ。問題は、泥炭という、その名前がよくない。発展性連関性が感じられない。田吾作よわばりを、「泥炭」の前につけても後ろにつけても、語呂がよくない。

泥炭氏をして、なんと田吾作呼ばわりすれば、誰もが納得できるのだろう。

ああ、難儀だ。難儀だ。

だが考えてみれば、こんなばからしいことに、うつつを抜かしておられるのも平和な証拠となりけり。秋の夜長のワンカップ。

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▼天皇の戦争責任と戦争のメカニズム?

2012年09月06日 | ■教育年金管理人泥炭氏との対話

以下、教育年金掲示板より・・・泥炭氏との対話・・・

>私自身は自然科学の学徒として学んだ科学的叙述方法にできうる限り忠実にと心がけているつもりなんですよ。ときおり、詩人を気取ってみる悪癖が捨てきれないんですけどね。

その手のおっさんをして「口舌の徒」と呼び習わされ、世間からは、掲示板もろとも馬鹿にされる一方だ。
 
>私は子供たちや孫たちを先の大戦の様な悲劇に巻き込ませない事こそ私達の成すべき最優先課題であると考えるからです。

これはまた、ごたいそうな努力目標をおったてたものですが、それだけでは、なにやら胡散臭くもあり、朝から晩まで回顧的なことばかりに精神を集中しているときた日には、だいぶ偏屈なじいさんばあさんの老後の生活のように見受けられますよ。

>そのために過去の歴史に学び、如何に生きるべきかを私たち自身が追及し続ける事こそが教育の枢要であると思います。

なるほど。たいしたものだ。

>そのためには先の戦争を生み出したメカニズムを明らかにしなければならず、その作業の中では天皇の果たした役割の追及もないがしろにすることはできません。
  
戦争を生み出したメカニズムですか。たしかに戦争にいたった現象に、理由も原因も、何もなかったとは言えますまい。わたしが知っている中から、少々のことを申せば、当時は、世界中の先進国を奉じる、ほとんどの国が、一種の軍国主義だったとは申せましょう。政治と軍事が一体だったのです。あらゆる国と国とが、一触即発だった。それが当時の世界政治だったのです。侵略するか、されるかの瀬戸際だった。国というなら、どこの国でも、攻撃するか、さもなければ、されるかの瀬戸際だったと思いますよ。喰うか喰われるか、やるか、やられるか。かつての、わが国の中世期の「戦国時代」のようにです。ペリー来航以来、近代世界に突入したわが国にとっては、否応もなく、そういう局面に立たされ、それが二十世紀中盤まで、すなわち戦争に負けるまで、ずっと続いていたのです。日清日露に勝ったゆえ、これに乗じて政府や軍部に、今から思えば大笑いじみた、過信があった。あまりにも軍事が国家の力量に比して肥大しすぎていた・・・等々とうとう、反省点なら、なんぼでも出てくるし、反省するだけなら、サルにも出来る。

だが根本的に戦争責任を問うならば、すべての国に、その責任が問われるべきだと思いますよ。過去の歴史に対して、今日の人間が、その責任や罪を問えますか。問うたとして、そこに何の意味がありますか。織田信長の戦争責任を、今日、生真面目に、それも一方的に問う馬鹿もおるまい。

太平洋戦争の場合も、米国は、わざと日本に真珠湾を先制攻撃させたという説があるぐらいです。全面戦争に持込み日本を徹底的に敗北させるためにです。実際、軍部にしても米国に勝てるという確信などは、誰にもなかったし、全面戦争にいたるとは誰も考えていなかった。竹やりで本土決戦だとか、最後の最後まで戦い抜くなどという精神論は、国民や兵隊向けの情報宣伝にしか過ぎなかったようですよ。

当初は、米軍を、ちょと叩いて、外交を有利に進めようという腹だった。真珠湾攻撃も、その例にもれず。連合艦隊司令官の山本五十六などは、真珠湾攻撃の直後に、必ずや米国をして講和にもちこみ休戦できると踏んでいたらしい。

アジア侵略ということについても、そりゃ、悪かったとしか言いようがないが。たとえば、ドイツを打ち破った暁の英国のチャーチル首相が言うに・・・イギリスが今日あるは、古代ローマ帝国のカエサル(シーザー)によって文明がもたらされた結果だと、実際は島国イギリスの最初の侵略者であったカエサルに、賛辞を送っているほどです。チャーチルの発言など、歴史が進めば、話は逆転してしまう好例です。黒が白になり、悪が善になる。処変われば品変わる。

>(天皇の戦争責任についての)これらの投稿はまだ天皇の戦争責任を論ずるための序論、前提、下調べに過ぎず、責任の有無については今後も多角的に掘り下げ究明して行きたいと思っています。

どうぞ、ご遠慮なく。なにしろ、ここはあなたのホームページだ。その際、明確にしておきたいのは、あなたが指す「天皇」とは昭和天皇個人のことですか?それとも、古代より続いてきた、「天皇家」のことですか。それだけは、はっきりさせてから、腐っても鯛だと、強弁してほしい。はてさて、またまた腐った資料のコピペッペにまみれるのかと思うと、恐怖のあまり眠るに眠れない、秋の夜長のワンカップ。ああ滅入った滅入った、戦争反対フクスマ県人会のの教育年金掲示板。

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▼大杉栄を読む

2010年08月14日 | ■教育年金管理人泥炭氏との対話
労働者街に住みたい。そしてなるべく長屋生活のお仲間入りをしたい。これはずいぶん前からの僕の願いであった・・・従来、僕は小官吏や小番頭なぞという中流階級の逃げ場所である静かな郊外で隠遁者のような生活ばかり送ってきた。そして、そこから、時々われわれ平民階級は、なぞという、あくびのような声を世間に向かって吐いていた・・・元来、僕はなまじっかな社会学から、虐げるものと虐げられる者との階級を、単純に決め付けていただけなのだ・・・僕ばかりではない・・・社会主義者とか、無政府主義者だとかいって大きな面をしている奴らの多くは皆それだ。あいつらが自分自身を平民労働者と一つのもののように言うのは皆な嘘っぱちだ。あいつらは皆な、ただ頭の中に作られた概念の上だけで平民労働者と自分が同じだと思い込んでいるだけだ・・・「小紳士感情」(1918年)大杉栄
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▼題して「ところ変われば品変わる」(フランス高校生事情)

2009年10月15日 | ■教育年金管理人泥炭氏との対話
<朝日新聞 2009.10.15>
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▼正論は現場から<24>

2009年10月10日 | ■教育年金管理人泥炭氏との対話
<朝日新聞 2009.10.08>
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▼正論は現場から<23>

2009年10月10日 | ■教育年金管理人泥炭氏との対話
<朝日新聞 2009.10.10>
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