赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼マルクス主義と教養

2008年08月16日 | ■教育年金管理人泥炭氏との対話
わしは同じ文字の羅列ではあるけれど、製版されたブックとインターネット空間の文章とは明らかに性質が違うと考え始めております。

ネットに対置して「ブック」とは、私にとっても初耳で、実に面白い言い方でしたね。それを言うなら悪名高きジャーナリズムのことなりやと換言してから物事の本質を考えてみるべきだ。図書、雑誌、新聞、同人雑誌以下もろもろの活字文化。近代以降、こうしたジャーナリズム一般がどれほど人々を迷妄に陥れたか。マルクス主義は言うに及ばず、ジャーナリズムによって世界観、価値観の多くが庶民の間に形成されてきたことは近代社会の大特徴なのです。教育もジャーナリズムを主要な教材となっていることは周知のところなり。教科書というものが、そもそもジャーナリズムの化けの皮。子どもたちに「読み書き」能力を与えること、これが近代教育の焦眉の関心事であることは、今や明治も同じことだ。読み書き能力が、ここまで重要視されるのは、やはり社会というものがジャーナリズムに圧倒されているからでしょう。以来、本というものに対する異常な狂信と信奉が生まれてきた。これは、ひとつの宗教であり迷信に他ならない。

私は若い頃、共産党に属して下町で活動しておりましたが、その頃は党首の宮本顕治も元気で何度か彼の講演を聴いたこともありました。彼の話など、ともにかかにく、あれを読め、これを読めとやんやの催促に終始していた。下町活動も、溜まり場に顔を出せば、赤旗に掲載された党首幹部の発言のいちいちを指摘され、読み終わったのか、まだなのかと点検され、○をいただいて褒められる。上部から褒められれば明朝のアカハタ配りの栄養剤にもなるでしょう。こんな調子なら会議などより一人きりで行う早朝のアカハタ配り活動のほうが気が休まり健全なものだった。いずれにしても彼らは、度し難い図書好き読書好きだ。教養好きだ。はたまた科学好きだ。これには驚くばかりでした。私のような高卒無学の田舎者には、とてもじゃないが、ついていけずに早晩こりごりして党を抜け出した次第だす。ああ、面目ない。

だがネットに出会い、これを手ごろな原稿用紙として手中のものとした今日、昔のことを、つらつら思うに。貧乏人の味方を自他ともに認めるマルクス主義というものの教養好みこそ、インテリ運動の最たるものなのであり、既成思想のもてあそびに他ならず。これが庶民から見放された元凶となって、政治の現実感を喪失せしめ、墓穴掘りとなったように思うばかりにござ候。迷妄への道は最初から内包されていた。それがマルクス主義である。近代主義と教養主義に埋没した思想の要には労働者ではない、糞の役にもたたないインテリが椅子にふんぞり返って命令していた運動だったのである。マルクス主義とはインテリや下級役人が、ていよく学説の口車に乗せられて動員させられ、さらに無学の労働者の上に立てる安住の場に他ならなかった。労働者を相手にしているなら、口も達者に動くだろう。良いことを言っていると、労働者をだまくらかせる。衆愚が読者となる。そこそこ本も売れるだろう。こうして反体制風の仮面をかぶった読者層とジャーナリズムの業界が誕生してきた。

わたすの顔をみるたびに幹部が言うのである。やれあの本を読め、やれこの本を読んだかと。とにもかくにも、 おめさんたち賃金労働者は、よく働きアカハタくばりをはじめ、よく活動し日給月給をつぎこんで多喜二百合子顕治から始まる党がお墨付きを与えた、その種の本をたくさん買って党のために尽くしてケロ。読むも読まぬも、おめさん次第。読まねばならない本は、いちいち書名を挙げて、こちらから命令するし点検してやるから、党費をよこせ。読書管理は思想管理だ。党の本は、まずは、買ってもらえばそれでよし。おめたち下っぱは、本を読むより、赤旗販売と営業活動のほうがなんぼか大事だ。賃労働者がインテリになれるわけはない。生まれながらに決まった掟だ。賃金労働者が幹部になれるのは、せめてセンター試験をクリアしてこい、このアホ。とにもかくにも、党の本とアカハタを購入してだ、読むのは、次の次でよい。最低限、購入してけろ。何を読まなければならないのかは、幹部からの指令を待て、この下っぱ労働者。アカハタくばりの合い間を見てだ、時間を作って読んだふりでもしてみろ。新入党の小僧。必読書さえ読めば地獄行きはまぬがれると、カールマルクスと名を変えた現代の閻魔さまの、そのまた手下のミヤケン親分が天国への道を教えてくれると、そそのかされるばかりで、 オラの場合は、好きなカラオケに行く暇もなかったものだ。 若い頃の必読強制読書のお陰で、すっかり頭の回転が鈍くなってしもうたようだ。ああ、苦労だ、苦労だ。 本など読むよりカラオケのほうが、なんぼか楽しみだったっ屁。このインテリ馬鹿が。

さて、話を戻そう教養コンプレックスのインテリ諸君。あなたの言う「製版されたブック」とは、ようするにジャーナリズム一般のことなりや。確かにジャーナリズムとインターネットを比べてみれば一目瞭然、まずは形が違う。一方は紙に印刷されている。一方は回線を通して先方にストックされたデータが、こちらのモニターに写しだされてくる。だが、あなた言うような「文章の性質が違う」が、あるとは私には到底思えません。「違い」とは、どういう現象を指しておられるのでしょうや。私には一向に見えません。たとえば、れんこん大根殿もご存知のように、ネットには「青空文庫」というサイトがある。ここに、没後50年を経たばかりの宮本百合子の作品が大量に掲載され始めてきた。彼女の著作から作品ごとに、何人かの作業者が、これを電子テキストに起こし、起こしあがった順にサイトにアップしているわけですが、日夜、作業が進んでいるようで、今や数編の長編をのぞいて、ほとんど全集に匹敵する作品がもれなく掲載されているようです。これによって、私も百合子については彼女の「ブック」を購入する必要もなく、ネットから直接、それも無料で読めるようになっているのです。この場合、著作とネットと、なんの「文章の性質の違い」があるでしょうや。

読む態度の問題ではなく、文章を書いている、その人間のそのときの態度の問題でしょうか。ブック用に書く場合とネット掲示板などに書く場合は、おのずから、文章に違いが出てくる、ということでしょうか。ブックとネットでは、書くときの態度によって、結果として文章に違いが出てくるのか。同一者でも、そうなのでしょうか。ジャーナリストや作家の方々も自分のホームページやブログに文章を書いている人は多いと耳にしておりまする。彼らの場合も、意識してブックとネットでは文章の性質を違えて書いているのでしょうか。その違いとは、どのような違いなのか興味が持たれるところなり。それとも無意識のうちに、そうなってしまうのでしょうか。

確かに書き上げた文章の性質うんぬんはともかく、文章を書くさいの態度のことを問われればブック用とネット用には文章の違いが結果として全く「ない」とは断言できませんが、それはやはり個人の問題に帰結するのではないでしょうか。ことは著作権やらマナーやらルールの問題ではさらさらないと思うわけです。ブックの文章は硬質であり、ネットの文章は軟弱だなどとは、よく耳にする話ですが、これも一概には申せますまい。やはり個人の文体というものは隠しようもなく、ブックであれネットであれ、書き手の思想と精神は全面的に露呈されてくるに違いないと思うばかりにござ候。いわば書くということの性質はともかく、ブックであれネットであれ、逆に文章を読み取る側の態度こそ、しかと求められているような気がするばかりにござ候。書くという行為の難儀さは、ブックであれネットであれ同じです。電子化されて公開されたテキストデータは、リンク、コピーが実に容易です。むしろ、これが問題なのではないでしょうか。本人は文章を書いているつもりでも、なんのことはない、人様の言葉を貼り付けてきただけだった、というまやかしの言葉が蔓延する。それが問題となっているのではないでしょうか。

なぜ、人は文章を読むのでしょう。ひとつは情報を知りたいという一般化された欲求がある。新聞や教科書などは、そうした便をまかなっている一つの媒体です。だが、忘れてならないのは、言葉によせる人々の第一義的問題は、人の思想や精神に触れたいという、やみがたい欲求がある。その欲求から発して書かれ、読まれる文章こそ、学芸とか文学の本意が表現されているのではないでしょうか。無署名の新聞記事や週刊誌を読んで、そこに「文学」や特定者の精神と思想を感じる人はまずいない。ようするに、ジャーナリズムの多くが、本質上一種の「コピー」に落ちているのであり、どこからか「リンク」されているまがい物だからですよ。私が「文体」と申したのは、かいつまんで言えば「文学」の問題ですよ。言葉の源泉についての話ですよ。源泉をたどれば、すべての言葉は人(特定者)の精神に行き着くはずです。そこをあいまいにしておくから話がおかしくなるのです。私が見るに、あなたにもその傾向が強い。特定者の顔を無視して言説だけが浮かび上がっているかのように、ブックであれネットであれ、良き言葉だけを追い求めているようなところがある。一種のプロパガンダに見えてくる。人(名前)を無視して、どこに良き言葉が存在すると言うのですか。あると思っているのは悪しき唯物論ですよ。幻想ですよ。あなたの考えているリンクやコピーは一種の剽窃ですよ。書いた本人の精神など微塵もない、ということが含意されている。問題は、書いているつもりが無意識にコピーに逃げてしまう、そうした書き手、読み手双方にかかわる言葉というものに対応する本質的態度の問題だと思うのです。

こうなれば、ネットこそ庶民の味方であり庶民の道具です。本質上、民主主義を超えた革命的武器だと思っています。ネットの前では「青白きインテリゲンチャ」を装うエピゴーネン諸氏のコピー言説など、かたっぱしからなぎ倒されていくでしょう。それは「2ちゃんねる」という掲示板が日々実証してくれているところです。アカデミニズムに寄りすがって、自己満足に浸っているインテリ一派郎党は口をそろえて、2ちゃんねるを毛嫌いし敵視しているのがなによりの証拠でしょう。かれらは、美化されたそれらしい言説を、制度や体制の片割れから頂戴してきた権威の傘で守られた縄張りを保全しておきたがっているのである。縄張りとは売文のことに他ならない。せいぜい売文の業界を指す。この業界縄張りを、制度や体制から守られて然るべきだと特権の保全を主張しているのだ。よって自己保身(職業、立場)を計る反動的存在だ。ネットは、名もない個人から発せられ、あくまでも個人的な言辞の集成であり、新しい言葉の運動体である。私の言う「文学」は、そこにある。ネットであれブックであれ、それは外形に過ぎない。手法にすぎない、技術にすぎない。文学とは個人の精神の、そのままの形を指す。ネットやブックの向こうに突っ立っている人間の心の中に存在している。言葉は個人のものである。エピゴーネンの主義者、インテリ衆愚の諸氏は自分たちの言葉と存在価値がネットの前で、見る見る影が薄くなっていくことを怖がっているのである。

既成の言論機関に不満があれば、新しい機関を創る以外にないのではなかろうかと思う。せめてアルジャジーラのようなものを生み出さないと。そういう元気が無いんだな。それこそ一口株主で資金集めて経営を成り立たすようなそういう言論機関が欲しい。わたすを特派員に雇って欲しい。

あなたの主張は、終始人頼みだ。徒党根性が丸出しだ。それは言論とは違う。少なくても文学とは異なる願望だ。失望を禁じえない。似たようなモノの言い方をよく耳にする。たとえば一昨年秋の小泉総選挙で野党は総崩れだったが、この要因をして、ようするに国民の民度が低いせいだとあげつらっている馬鹿。さらに、おそらく不正な投票行為があったに違いないと邪推を働かせて憂さ晴らしをしている馬鹿。さらに小泉劇場を演出し、小泉一色にしてしまったマスメディアの責任だとこく馬鹿。さらに、この愁嘆場において共産党はへこたれて、なんの役にも立たなかった。新しい革命政党が欲しい、等々とうとう。おめさんが政党を作らないで、誰がつくるのだ。おめさんが立候補しないで、誰が立候補するのだ。相変わらず物陰にかくれて、面を出そうとしないで不平不満の大威張りだ。小泉は公認候補者を公募したのだぞ。政治が好きだけじゃ、政治的には、なんの足しにもなりはしないよ。政治とは行動だ。口先だけで不平不満を投げつけているだけの馬鹿は批評家ともいえまい。屁をこいて暇をつぶしている屁評家だ。どこまで行っても論拠は「お上頼み」「法頼み」。政府が悪いから人が悪い。自分が能無しなのは、社会のせいだと、なにもかも社会のせい、政府のせい、リーダーのせいにしてやまない。最初から、そうも敗北主義では何を書いても人様に読んでいただけるような価値が出てくるとは思えない。いい年をして、不平不満を垂れ流しているだけじゃ、しょうがないだろ。何のためにネットをやっているのかね。そうも不満たらたらでは、読みたくもなくなる。読者は逃げていくよ。大笑いネットだ。小ネズミに負けるわけだよ。小ネズミのほうが男として、なんぼかましだろ。

私も昨年秋の総選挙では、小泉氏に乗せられて、生まれて始めて自民党に投票してみたのです。いつかも書きましたように若い頃は下町でアカハタ配りをやっていた党員でした。その後、組織的に党から離れても気持ちはマルクス主義者のつもりでしたから、選挙があれば、必ず共産党の候補者に一票を投じてきたのです。ですから先の総選挙は、私が共産党から自民党に宗旨替えしたと聞いても、別にたいした問題でもなく、どうという話にもならないのですが、60を前にした私にとっては少なからず劇的な事件でもあったのです。一昔前なら、転向・変節したと糾弾されかねません。お話したいのは、選挙後の私の気持ちの変化というものを感じるからです。今回の場合は、自民党に投票したまでであって、一葉には言えないということです。事実、総選挙の投票は、選挙区と比例区と投票用紙が二つあります。人によっては使い分けるということもあるでしょう。選挙区は共産党候補者、比例区は自民党などという風に。私も、使い分けようかとも考えましたが、今回は双方ともに自民党にしたまでです。こうしてみると、選挙民というものは、案外私のように考えて投票行為に及んでいるのではないかと思った次第です。いい加減といえばいい加減ですが、浮動票といわれる多数の人々の気持ちは、そんなものでしょう。支援する政党というものを確固として決めているという国民のほうが圧倒的に少数であるという現実です。

お陰で私もこれまでのマルクス主義の呪縛から解き放たれて、ずいぶん気持ちが楽になり、これでよかったと思うばかりです。庶民の一人になったという実感がやっともてました。次の選挙のときは、またその時に、各党の政策や議論を判断して、候補者を自由に選択してみれば、それでよいだろうと。しきりに政治に関心を持てと説教をたれてくるのは選挙管理委員会は為政者ばかりではなく、マルクス主義もそうですね。これは、しつこいぐらいです。情勢を読め、新聞を読め、ニュースを見ろ、政治に参加しろ等々とうとう。これは、どうかと思います。政治に責任があるのは政治家ですよ。政治家の質が問われるところで、政治に直接参加しているわけでない人々はあまり関係のない世界だろうと、また「党員」のように日常的に政治活動に没頭するのは、そりゃ自分が好きでそうしているのだから、かまいませんが、それほど政治が好きならば、代議士とは言わないまでも地方議員でもなんでも、自ら選挙に立候補するのが有言実行の態度だろうと思いますね。多勢の党員を、日常的にプロパガンダの手段に使いまわしているという左翼政党の従来のやり方は、もはや通用しないようにも思います。共産党はわが党こそ近代的な組織政党であり、他党をとりわけ自民党などは派閥政党、議員政党だと批難がましく言いますが、派閥なども考えようによっては、良し悪しです。

一元主義の民主集中制の政党のほうが近代的だとは、一概には言えません。派閥が成り立つのも民主主義が生きている証拠です。つまり共産党の独特なところも、自画自賛では、通用しませんよ。彼らのプロパガンダが効いていたのか、そういうことが多すぎた。多喜二、百合子の文学にしても、よく検分してみれば、褒められる点ばかりではない。この二人の書いたものにも、いろんな古い思想が混在しています。欠点の多い文学なのです。ネットの世の中になりました。歴史の大義の影に隠されてきた、あらゆる問題が露呈されてくると思っています。これは共産党に限らない。歴史とはそういうものです。とっさに野合して作られた新党に歴史はありませんし、誇ることもできないですが、共産党自ら長い歴史を自画自賛するだけなら、そういうわけには行かないだろうと思うのです。光があれば必ず影があるものです。誰しもの人生がそうであるように、よいことばかりではないように思います。

先日、散歩中にとある古本屋の前を通りかかり、店頭のゾッキ本をのぞいていた。古い岩波新書が本棚一杯に並んでいたのです。すべて一冊100円。見ればだいたい70年代に出されたものでした。保存状態がよいのか年代のわりには、赤茶けていない。そこでタイトルだけで選び出した10冊ばかりを購入してきたのですが、苦笑を禁じえなかったのは、帰宅して、ざっと前書きなどを開いて見ていれば、10冊のすべてが、多かれ少なかれマルクス主義風だったのです。いわば史的唯物論を前提にして書きあらわされている。無学な私にも、これぐらいは分かります。今日から見れば、ほとんど通用しない学説に満ちている。内容が古いのです。あきらかに学芸の柱が、偏向していた時代だったということでしょう。もちろん著者、学者たちばかりに、その責任を負わせるには酷でしょうが、隔世の感を抱きました。70年代は、左翼がもっとも勢力を伸ばした記念すべき時代と言えるでしょう。ああした政治状況は、二度とやってこないと思いますし、それでよいのだと思います。もう革命はない。政策論争だけでよいのです。

マスメディアといい、ネットといい、生活の隅々まで普及され情報が、包み隠さず、これだけ行きわたってきたのは事実でしょう。革命するにもっとも必要なものは、たまりにたまった人々の権力に対する怨念ですよ。この怨念を貯める装置がないのです。情報が行きわたると、革命的装置が不要になるのでしょうか。そのように思いますね。イデオロギー風言説は、もはや誰も聞き入れない。扇動者より労働者のほうが利口になってしまったのですから、人々も扇動者の口車にのるほど単純ではなくなったということでしょう。だからよかれ悪しかれと言いたいのです。これもマスコミ、またインターネットなどが、それ自身を革命してきてしまったとすら言えそうです。われわれが現在、目の当たりにしているものこそ、すでに革命が終わった後の祭りなのかも知れませんね。

<2006.11.06 記>
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