赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

世間というしがらみ

2002年08月28日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
上の息子が使っている自転車のサドルに「迷惑駐輪!管理組合」とマジックで書かれた紙がご丁寧にも2本のガムテープでべったり貼り付けてあった。自転車は、毎日指定された通りに置いてある。後輪の泥よけには年次の始めに管理組合から配布された登録ラベルもきちんと貼ってある。嫌がらせとしか思えない。確かに上の息子は品行方正とは言い難し。マナー一般をこまかく指摘されたひには言い返せないこともあるだろう。それにしても、自転車がちょっとずれたところにあったとしても、同じ屋根の下に暮らしている者が所有していることだけは確かだろう。そのためのラベルも貼ってある。気がついた人間が動かして脇に寄せておけばよいではないか。実は一週間前にも同じことがあった。息子がアルバイトに出かけようと駐輪場に来てみたら、張り紙はもとよりわざわざ自転車が通路の真ん中に持ち出され、さらし者にされていたのである。自転車がマークされているのか、私が誰やらにうらみを買っているのか。町会とか地域PTAなど一時の私にとっては目の上のたんこぶだった。市民生活を営む上でのガンだとすら思ったときもある。集合住宅管理組合も同様である。彼らが役目に応じて一所懸命に活動するのはかまわないが、どういうわけか「みんな仲良く楽しく」という方向ではなく警察署か交番の替わりでもするつもりなのか、いっせいに鵜の目鷹の目で、人をして「取り締まる」ことばっかり考えるようになるはどうしてなのか。目くじらたてることが善行だとでも思っているのか。こうなると、地域全体がまるで「警察学校」みたいになっちまう。人一人、とりわけお年寄りや子どもなど出来がたい部分をもつ人たちに寛容ではなくなり、実に冷たい地域社会が構築されてしまう。ここはひとつ集合住宅を上げての「大問題」にして見ようと思っている。さっそく管理組合会長宅に怒鳴り込んできたところである。会長はこの張り紙をした人間は「ここの人ではないのではないか」などと、さっそくの弁明を計っていたが、そうであるなら、それでよい。同じ屋根の下にいるなら、ちょっと許せないという気持ちだ。罵倒の一つもくれてやりたい。おめぇさんも、職を変えて警察官にでもなったほうが似合っているど。ま、張り紙して歩いて喜んでいるようでは警察でもお断りだろう。こんなケツの穴の小さなヤツがお巡りさんになったりしたら、地域住民は自転車の事ばかりが気になって夜もおちおち眠ることができなくなる。ちなみに、この集合住宅に住むようになって10年がたつ。ちょうどバブルのはじける頃で、今から思えば先行きの見通しもつかないままに、よくぞこったらウナギの寝床を購入したものかと、我がアホさ加減を嘆く。大枚の借金も当時はなんの後ろめたさも感じなかった。傲慢だったのだろう。住めば都と言うのだし、まわりも取り立てて悪い人ばかりが揃っているわけではないのだが、どうにもコセコソしたヤツばかりが目立ってしかたない。それになんと言っても借金返済はほど遠い。時価は半値以下にも下がっているらしいし、今や越すに越せない大井川。死ぬまでここで飼い殺しにされるはめを余儀なくされているようで息苦しくさえなってくる。
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上野動物園

2002年08月27日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
今日も暑かった。さて、拙者の絵日記にある写真も、毎度毎度野良猫ばかりでは、あまりに芸がなさすぎると自らを省みて今日は一念発起のもとノラ以外の動物の写真も撮りたいものだと上野動物園にはせ参じたのである。ところが案の定というべきだった。大型の動物はどいつもこいつも暑さにまいって金網のずっと奥の方に寝転がっているだけで、がんとして顔も向けてくれないのである。ズームも望遠機能もない固定焦点が売りの旧型カメラなので畜生ばかりに文句を言う筋合いはないのだが、どいつもこいつもシャッターを押すには遠すぎた。そこで園内に入ってまもなく、被写体については動物をあきらめて子どもを写すにかぎると方針を変えてしまったのである。動物園でもっとも面白い動物と言ってはなんだが、写り映えのする生き物がこれほど集まっている場所もない。お陰でこの日、たくさんの子どもの写真を撮ってこれた。どこの動物園でも一番の人気はサルのようで、この日もサル山の前には人だかりがしていたが、歩き始めたり、おしゃべりが始まる2歳から4歳のヒト種の子どもほど見ていてあきのこないものもない。彼らの挙動は、サルなど見ているよりなんぼか面白い。スナップ写真は子どもに限ると言っても年齢が大きすぎても小さすぎてもいけない。子どもが傍若無人に全身全霊で遊びだし、これぞ子ども性といえるものを最大限発揮するのは、せいぜい13才ぐらいまでだろう。ほんの10年しかない。
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教育について語ろう掲示板オフ会

2002年08月08日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
昨夜は某掲示板のオフ会だった。午後6時、有楽町、朝日新聞社マリオン前に集ったのは中年(壮年)オヤジが5人。話しても話しても話がつきない楽しい夜を過ごした。午後11時新橋にてオフ会のみなさんと別れた。もう少し飲もうと思いつき、かつて新橋に私の職場があった当時、よく入った店の前まで行ってみた。11時だから閉店していてもおかしくない時間だった。看板に明かりがついていた。ガラス戸越しに中の様子を見れば懐かしい男が一人っきりでビールを傾けていたのである。彼は新橋の印刷会社に勤めていた当時の業者仲間。私が会社を辞めていらい会ったことがなかったから7年ぶりということになる。勇んで戸を開け店に入っていった。約30分、話と言っても深い話もなく、互いの肩をたたきながら息災を祝した。11時30分、彼と女将に別れを告げて駅にむかった。

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父の終戦

2002年08月05日 | ■歴史的なあまりに歴史的な弁証法
父が亡くなって6年がたつ。父は半生を病院で暮らしたほどで、家族以外のつき合いは皆無。葬儀も実にこぢんまりと済ますことができた。父の兄弟は5名。10年程前に亡くなっているすぐ下の弟である叔父と長兄をのぞいてみな通夜から次の日に野辺送りするまでずっと私と一緒に過ごしてくれた。次男であった父より5歳上の長兄は、その頃体の調子を崩していて、私より4歳ほど年長の従兄弟のT君が叔父に替わって列席してくれたのである。T君は叔父から「別れの辞」とでもいうべき墨字による手紙を託されていた。

今日はお前との一生のお別れのはずなのに逢えなくて心残りです。本当に疲れ果てた一生でしたね。人生のほとんどを病気と闘いながらよく頑張ってくれました。安らかな眠りについて下さい。まだ十二、三歳の頃だったと思います。小学校を終えて上京する時、カスリの着物の裾(すそ)を引きづり、ゴム長靴だけはやっと父母に新調してもらって、家を振り返り振り返り、姿の見えなくなるのを見送ったものでした。あの時のお前の姿が目に焼き付いてはなれません

父が生まれたのは大正14年。昭和の年次と父の履歴年齢が同じなので、思い出すにはなにかと便利なのである。父は尋常高等小学校を終えたと聞いていた。当時の学制を調べてみると、尋常小学校が6年間。その上に二年間の高等小学校というものがあったらしい。すると学校を終えて12,3歳という叔父の覚えは間違っているのではないだろうか。14歳になっていたはずである。14歳であったとしても、と思うのだ。着物の裾を引きずるように、本人からすれば納得ずくで上京するという事情ではなかったはずだ。父母から引き離される寂しさはいかばかりであっただろう。二年後はいよいよ真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争の勃発ということになる。汽車に乗って連れていかれた先は東京蒲田にあったという大きな軍需工場だった。同じ村の幾人かの同級生と一緒であった。戦後高度経済成長の象徴である集団就職の先駆けとも言える。それにしても、まだまだ幼い。父母恋しさに堪えられなくて、つぎつぎと帰省してしまったという。最後まで東京に留まったのは父だけだった。昭和19年には東京は空襲によって大変なことになっていたと聞くから同じ工場にずっといたのかどうかは知らないが田舎には帰らなかった。

私の祖父は、ごうつくばりの一辺倒で死ぬまで自分の思い通りに家を支配した人だった。したがって終戦の年(または前年)まで東京にいたことは必ずしも父の独立心が強かったということを説明しているわけではないと思う。むしろ帰りたくても親が許してくれなかった。父親が怖くて帰れなかったと私は読んでいる。さて、二十歳になった(なる前?)父は徴兵検査のために帰省した。そのまま上京することなく、そこで終戦を迎え同じ村に疎開していた母と知り合った。私が生まれたのが昭和23年。父が23歳のときだった。父が発病したのは私が小学校に入る直前だったと覚えている。以後、母の苦労は並大抵のものではなかった。
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