上の言は、まるでスターリンの再来ではないか。口先だけの平等主義者や社会主義者が怖いのは、ここにある。彼らの内実にある思想は人をして「数」としてしか見ないことに所以する。社会的役割区分を各自に頭から振り当て、それらカテゴライズされた一群の人々を束にして「数」として政策的に扱う。老人は役立たずだ。一束にして施設に入れろ。子どもは勉強するのが仕事だ。一匹残らず学校に押し込め。女は家庭にいて子育てに励め。男は会社にご忠勤だ。それ以外のカテゴリーはありえない。そこから外れたものは病者に違いない。収容所入りだ。病院行きだ。これが君の望む「完全なる平等」社会の内実ではないのか。君の言う皇居跡の老人施設とは「収容所」のことに他ならないだろう。だれが、そんな施設に入りたいと思うのか。老人を小馬鹿にするのもいい加減にしたまえ。ガッコ仕込みの初頭算数が自慢で数を当てはめ社会と「平等」を語りたがる偏見饅頭から腐ったアンコがはみ出してくる。もう少しよく考えたまえ。一般に貴公の説は極端だよ。一方では無税がよいといい一方ではハコモノをどんどん作れとは、片腹いたし笑止千万ではないか。国家の予算も限りがある。
それになんでもかんでもハコモノ頼みが、どういう結果になるのかは、周知のことなりや。四半世紀前、PTAが中心になって高校全入運動というものがあった。その結果はともかく、赤信号みんなでわたれば怖くない式の、その根性が小汚いのだ。為政者が迎合肌なら、彼らの言うとおりにもするさ。やれ学校を作りましょう。やれ病院を作りましょう。やれ保育園だ。すべてハコモノではないか。おっつけ行政はパンクするだろう。国家も行政も経営というものがある。会計収支は限定されているのだ。なんでもかんでも、国家と行政がやりくりしてくれて、われわれ個人はこれっぽっちの苦労も知らないとなったら、われわれは、なんのために生きているのかね。それこそ生きる意味がなくなって自殺者だらけになるかもにゃ。
かりにも参政権を持つ市民が、そうも一から十まで、お上だのみの、はちゃめちゃな意見ばかり申していたのでは、子どもには聞かせられない話となるわい。それに皇居という話が出ているので思ったのだが、日本国憲法第一条の「象徴天皇」とは実にうまい規定の仕方だったと思う。つくづくとそう思う。言葉の問題としても舌を巻くほどだ。個人的な感想にすぎないし、また左がかった人たちに対する皮肉であることは承知だが、かりに将来9条が多少改定されたとしても憲法冒頭の天皇規定はまったく改定の必要はないでしょうな。
彼が写真の中に入ってくることは想定外のことで、まったくの偶然だった。こうして見るとハナミズキを写しただけでは、まずこの雰囲気は出せなかったと思う。他者の姿というものが、また別の他者にもたらす意味の大きさを改めて痛感した。なにげない通行人にも大きな意味があり、そこにドラマを予感しているのは彼を見ている私なのかも知れない。かくまでも人間は人恋しいものなのかと思うのである。花や他の動物を描くより、よほど人の姿を写し描きたいと望むのだろう。人は何よりも人を求めているからだ。小説のだいたいは人が主人公となっている。
さて彼はもちろん私には名も知らない通行人だったが道のこちらがわから、私がカメラを向けていることなど知るよしもなかった。そのまま何か考え事でもしていたのか幾分首を前傾させて大またに新橋方向に歩いていった。新橋は私が長年勤めていた会社のあったところで都内のどこよりも親しみ深く懐かしい気分がわいてくる。新橋には新橋の匂いというものがある。それが私の体にも染み付いているようだ。
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そういえば、タローさんが丸山真男の本を出したとか。
そのようですね。ええと。「丸山真男の思想がわかる本」というタイトルでしたか。たいしたものです。タローさんにはお祝いを言っておきます。だがわたしは悪いが、その本に興味がわきません。タイトルがハウツーモノだもな。丸山の思想が分かったからといって、なにがどうなるものではないでしょう。
本というものは、文章の集まりです。文章というものはある個人の精神ですよ。文をなす精神のもとは詩心ですよ。書いた当人の詩心が表現されていなければ、それは週刊誌に右同様です。タローさんの新刊がいかなるものかは知りませんし、知らないままで馬鹿にするわけではないが、他人様を啓蒙しようとか教育しようという魂胆は文学の精神に反します。文学性のない文章は本にする必要なしと、個人的にはそう思っています。わざわざお金を使って買って読むほどのことはない。
もちろん文学のジャンルはなにも詩や小説ではないでしょう。小説だけが文学だなどというおかしな観念は近代の偏見です。科学論文でも哲学論文でも誠心誠意著者の心が入っていれば、それらはみな文学の範疇です。文学には分野における王道というものはない。もちろん川柳であろうと落語であろうと文学の立派なカテゴリーです。 どのような本が良のか、何を読めば教養の肥やしになるのか。
みなさん違ったことを言っていますが、確かなものほど、秘密裏にこっそりと伝わってくるものです。良いものはそうおおっぴらにはなりません。総じて世間から賛辞を受けた作品(芥川賞など)に限って駄作であったと裏切られた思いは誰しも経験のあるところなり。最近はとくにひどい。売れた本はだいたいろくでもない。世間で騒いでいる本のだいたいがクズだと思っておいたほうがよい。
最初に、知ったかぶりしたミーハーが騒ぐ。これが指標になるでしょう。ミーハーが取り上げるものなら、駄本に間違いないと断言できるからです。それに著者本人が、良い本を出したと自らホラを吹いているようなものも、無理して読む必要はないでしょう。 タロー氏にも、その傾向が多々うかがわれるので、今のところ敬遠しているだけにござ候。拙者、タロー氏については毛嫌いしているわけではないが、文句の一つ二つ言っておきたいことがある。
現在は閉じられているようだが、彼が昨年中にはじめたブログに書かれてあったいくつかの論考のタイトルだ。これまでも何度か訂正を申し入れたが聞き入れるそぶりも見せない。やれ「かもめの有罪」やれ「かもめの事情聴取」と来たものだ。拙者にもささやかながらプライドや名誉というものがある。拙者の知識など、タロー氏に比べればゴミみたいなものであることは承知つかまつり候えど、そうした言葉の使い方に、タロー氏の序列化と階位をもって人を見るしかない近代旧体制の偏見饅頭が丸裸になって見えてくるのである。そこでもう一度、タロー氏の文章を丁寧に再読してみて、分かってきたことがある。
要するにタロー氏も、ご立派な学歴が自慢らしく梅坂某君がそうであるように「アメリカ帰りのお富さん」風モコモコなにがしサツの犬に、最終的には頭が上がらなかったと見ているのが拙者だ。モコモコなにがしとアル中無職で威張っている拙者との対決では、誰がみてもそう見えるとは思うが、タロー氏もまた当然アメリカ帰りの知識人に肩入れせざるを得ない心性がある。それが彼が学んできた道そのものだからだ。アカデミズムこそ彼の教祖である。マルクス主義者はみな権威に弱い。千坂君がそうであるように、内実のない名ばかりの識者や指導者、またときには、ミーハーが叫んでいるだけの世論の尻馬に乗せられてコロリとだまされ、後日赤っ恥をかいたことを知り言い逃れに汲々としなければならない羽目を見るのである。
福沢の諭吉以来のインテリ好み知識好みのヒエラルキーと権威主義がタロー氏の思想の根にたっぷりと刷り込まれているのである。これが彼の場合はきわめて強固で結局最後は自己保身と自己正当化に汲々としなければならない落ちを見る。左翼を自慢する主義者たちの多くが、こうした近代の迷妄に頭がやられている。社会の中で、建前としての平等を偉そうに声高に叫ぶものこそ逆に、その心根に明治の立身出世風の古風な特権意識が根を生やしている。タロー氏を見ていると、それがよくわかる。彼にとってはアル中はともかく勤め人や主婦などは、もうその立場だけで無知蒙昧の輩と決め付け歯牙にもかけないようなところがある。
彼に大事なのは、お世間風の学歴と学識と文才、それに情報通というあたりか。そうした現場から遠い立場におかれているいわゆる勤労庶民や家庭で子育てに励む男、女などは見下してかかる偏見と傲慢と独善がある。 丸山真男について他意はないのです。本人や取り巻きやミーハー衆愚の自慢を耳にしたとたんに、ああ、これはたいしたことはない本だと、すぐ分かります。ああ、難儀だ難儀だ。図書館通いのワンカップ。一般に、いまや著者も死にたえ、その人が書いた本や文章が歴史の荒波にもまれながら、かろうじて、ひっそりと残されてきたというものが本物のようなきがします。著者が生きているうちに、文学的評価など定まりません。
作家の多くが死とともに、忘れられていくでしょう。人々もそれほど馬鹿ではない。不明で無駄な本など誰も残しませんよ。片っ端から忘れられていきますよ。人々がこれぞと、言いながら残してきたもの。それらはみな本物です。そこに、真性の人間の声がわたしたちにまで届き、彼の肉声が聞こえてきます。この信憑性こそ、文学というものです。彼の言うことを耳をそばだてて聞くのです。すると、われわれの通ってきた長い長い歴史の駒のひとつふたつが鮮やかに眼前に描出されてきます。リアリズムや社会的事実などというものは、文学とはなんの関係もありませんよ。
私も年とともに偏屈になる。もちろん何を読もうと人様の勝手だが、現代小説の多くが文学とは似て非なるものであるという従来の考えをかえるつもりはありません。世の中というものは、知識よりは人の実際です。思想もそうです。本に書かれたものが思想のすべてではないでしょう。もっとも重要な思想は生活の中にたくさんあります。逆説を弄するつもりはないが、黙っている人たちの中にこそ立派な人がいるのです。本当に立派な人は本を書いたりしないものです。そうした色気は持たない。黙って働いている。黙って人生を楽しんでいる。偉そうな口も不平不満もめったに口にしない。こうした人の多くは手に職を持っている人ですね。しっかりとした能と芸のある人です。こういう人は、男は黙ってワンカップ墓場行きです。これ以上の人生の王道はないでしょう。
<3430字>
そういえば、ずいぶん前のことだが車を運転しているときにラジオで聞いた話を思い出した。ラジオではご本人が自分の体験を直接、話されていたので私にも感銘が深くいまだに覚えているのだろう。その方は、生まれながらに失明を強いられていた。成人になってから新しい医療技術のもとで目の手術をしたところ、これが功を奏して目が見えるようになったのである。手術の直前から、どうしてもこの目で見たいと思ってやみがたいものが二つあったと言う。それは母親の顔と空だった。
母親の顔は言うに及ばすというところか。多くは語られなかったが想像するにあまりある。言葉には尽くせない喜びが母子の間で交歓されただろう。そして青い空を見たときには思わず涙が落ちてきた。「空」とは目が不自由なときから人の口を通して、たびたび耳にしてきた言葉だが茫漠としてとらえがたかった。目が見えるようになったら、いの一番に確かめてみたかったのである。手術後、さっそく目にした空は事前の予想をはるかに超えていた。空がこれほど青く美しいものだとは思いもしなかった。それが頭上全体に広がって深々と自分を包み込みこんでいた。
その方は手術後に起こったこととして、もうひとつ面白いお話を付け加えられていた。毎日食べている米のご飯の形状である。米粒のひとつひとつが何かの虫の卵のように見えてしまい、しばらく口にすることができなかったそうである。
しかしながら今後とも、こうした私の「やり方」は変わらないと思う。素人じみた方法だが、つまり最初から公開して、公開しつつ訂正を加えていくという、この「やり方」が私の性格にあっているのだろう。杜撰な性格は自ら自覚するところなり。おそらく性格上、公開、未公開の道義的区別がつかないのかもしれない。それから当ブログの制限文字数は1万字とのことだが、400字詰め原稿用紙なら25枚ほどになる。まさか25枚を一気に書いてしまうことはできないが、言いたいことのおおよそならば、わたしはだいたい一気に書いてしまう。言い切ってしまえば論旨としての続きは無い。続きのある話は、別途の編集能力が必要なのだろう。少なくても機能の有無の問題ではない。長い文章を書くことは、私にはまだまだ経験のないことだ。だが「続き」を上手に使わなければ長い原稿は書けたものでもないことはよく分かっている。こうした事も、ともかく書いて見なければ話にならない。あっちとこっちの文章をつぎはぎしてみれば一群の物語というものが、それなりに出来てくるような気もしている。今後の楽しみということにしておこう。ちなみに私の場合、一つの記事を何度ほど書き直しているのか、今日の記事について、その頻度を数えておくことにする。
(第一回)書き上げたと同時にアップ 17:20
(第二回)さっそくタイトルの誤字をみつけた。「文集」を「文章」に訂正する 17:25
(第三回)あれあれ、訂正しないまま、アップしてしまった。そこで実際に訂正する 17:27
(第四回)全文を見直し校正、編集する 17:35
(第五回)同上 17:48
(第六回)今日撮ってきた写真を添付する 17:55
(第七回)テンプレートを変えてみた 19:40
(第八回)テンプレートを元にもどす 21:10
(第九回)添付写真を入れ替える。二箇所訂正 翌日 12:00
(第十回)一箇所訂正 翌日 13:00
(第11回)さらに一箇所訂正 〃 13:10
(第12回)一行書き足す 二箇所訂正 〃 13:15
(第13回)以下の最後の一行「現在、ここまで書いてみたが、いっさい見直していない」は蛇足だと気がつき削除する。 〃 16:15
(第14回)冒頭部分を書き直す 〃 17:00
(第15回)一行削除 〃 20:00
(第16回) 訂正 〃 20:05
(第17回)訂正 翌々日 12:40
「ねえや」というのは裕福な家にやとわれて家事の手伝いをしたり、子守りをする女とよく書かれているが、これは事実ではない。
おおげさに「事実ではない」などと否定する必要はないと思う。当時は現代のような「核家族」という概念がなかった。実の父母のもとから幼くして、他家のために「供出」されることは、よくあることだった。「口べらし」という意識もなかったとは言えないだろう。一般には貧しい家の女の子が豊かな家の「ねえや」となる。養子、女中、それも住み込み、通い、その形態はいろいろだった。中にはまるで、その家の娘として育てられる場合もあっただろう。こうしたことは一般的なことだった。持ちつ持たれつということか。農家でも商家でも官吏の家でも、摘出子以外の女の子が、同じ屋根の下で暮らしていた。豊かな家ほど、そうだった。極貧の家ほど、核家族だったのである。
他家で暮らす女の子の暮らしぶりだが、これはもう、家ごとに違っていたようだ。他家から学校に通わされているばあいもあれば、下働きでこき使われているような場合も多かった。そこそこ大きくなれば、給金をもらっているばあいもあっただろう。昔は、「お手伝いさん」という職は一般的だった。特別に豊かとはいえないような都会のサラリーマンの家にさえ、お手伝いさんがいたものである。だから貧しい家から豊かな家に労働力として供出されたと言っては、一面の説明にしかならないかもしれない。言えることは、生まれた当家で学校にもかよい、長じるまでずっと父母のもとで大切に育てられたという女の子は相当に豊かな家だけだったと思われる。周知のように、男の子のばあいは、そうした扱いは受けなかったが、極貧の場合は、やはりもらわれていったり、幼少の頃より丁稚奉公にやられたり親類縁者のもとで育てられたりしたものである。
いささかマルクス主義風で鼻につく説明だが、かつては「家」というのは、それが一つの企業であり労働現場だった。商家でも農家でも同じだった。労働の規模の比較的大きな「家」に子どもも含めて労働力が集められてきた。逆に貧しい家は、子どもの「口べらし」を考えたのである。
繰り返すが昔は町でも村でも貧しい家には姉以外の「ねえや」はいなかった。極貧ならば、その家に女の子は影も形もなかったに違いない。「おしん」というTVドラマがあった。おしんは山形の極貧農家の娘で、とおい町の大きな商家に「奉公」に出された。もう少し大きくなれば、その商家の子どもたちからは「ねえや」と呼ばれていたに違いない。これは町でも同じことだったのである。他家から来ている「ねえや」がいるのは、そこそこ豊かな家だった。「ねえや」を他家に出すのは貧しい家である。
もちろん実際の姉も「ねえや」と呼ばれてなんの差しさわりがあるだろう。自分の身近な年上の女は、すべて「ねえや」と呼ばれた。区別はなかった。ちなみに、拙者の地方では「ねえや」とは言わなかった。「ねえや」と呼ぶのは西の地方だろう。わたしの田舎では、すべて「ねえちゃん」だった。自分から見た、自分との関係で「ねえちゃん」なのであり、これは「とうちゃん」「かあちゃん」が双方の年齢には関係なく、死ぬまでそう呼ばれることに同義である。自分にとっての「ねえや」「ねえちゃん」は、相手が死ぬまで「ねえや」であり「ねえちゃん」なのである。幸か不幸か、わたしの兄弟は男ばかりで、それに家は貧しかったから、「ねえちゃん」と親しく呼べる存在はなかった。だが、とうちゃんは10年ほど前に没したが、かあちゃんはなんとか生きている。今や老して話もできないのだが、こちらの言っていることは分かっているようだ。会うたびに手をさすりながら、「かあちゃん」「かあちゃん」と連呼してみる。そのうち顔がほころんでくる。
「ねえや」といい、ねえちゃん、かあちゃんといい、いい言葉だ。これ以上の言葉はない。「かあちゃん」と呼んでいる自分の声を自分で聞く。この声だけあれば、そのときは、もうそれでよいと思う。しゃべる必要も、書く必要もない。ましてや、ネションベン臭い説明をする必要など毛頭ないのだ。
「赤とんぼの歌」は三木露風が一人で作ったものではない。露風以上に曲をつけた山田耕作の存在を忘れるわけにはいかないだろう。山田耕作が曲をつけて、はじめて「赤とんぼ」という造形が人々の胸中に届いた。これ以上の事実はない。
長崎、五島列島あたりに「隠れキリシタン」という人たちがいた。ご存知のように徳川家光の時代に禁教令というものが発布されキリシタンは弾圧された。このとき、「島原の乱」といわれる大きな抵抗戦争があった。結局、キリスト教は根絶やしにされ、しばらくあそこらでは、正月になると村人たちが名主の屋敷に集められ一人づつ「踏み絵」を踏まされたそうです。明治になり、250年前の禁教令が解かれた。それで、また新しい宣教師などが長崎入りしてきたときに、五島を中心に、いまだに「隠れキリシタン」といわれる人々が存在していたことが発覚した。カクレキリシタンとは棄教した人々である。踏み絵をふんで、生き延びた人たちだ。それでもなお、信仰を捨てなかった。この矛盾の中で生き続けてきた。表立っては仏教に準じていた。そうせざるをえなかった。そこで仏教の観音像をマリア像に見立てて拝んでいたと言う。教会もない。司祭も指導者もいない。互いに接触することも、集会を開くこともできない。
こうして、隠れキリシタンの場合は、明治のころには、ほとんどキリスト教とは言えないような別の宗教になっていたと遠藤氏は語っている。それはマリア像に象徴されるような母性信仰として実に日本らしい、教義に変遷を遂げていた。父性文化という面の強い西洋の厳罰、原理主義的なキリスト教とはちがってカクレキリシタンに見られるのは、何事も許される大きな慈愛につつまれた、むしろ母性をあがめる教義にすっかり変わっていた。それもひっそりと、家系を通じて親から子へと、何代ものを経て伝えられてきたと。その後、近畿にも、新潟などにも彼らが文字通り隠れるようにして住み暮らしていた村があったということである。
どんなに弾圧されも日本の場合は地勢上、海に閉ざされているという事情からか亡命はしない。いじめられても牢獄に入ることが分かっていても、最後の最後まで、決して「国」から逃げ出さない。また逃げ出せない。これは幸福なことだったのだろうか、不幸なことだったのだろうか。それはわからないが私に分かることは、インターナショナルなんて心証は、決して信用できないと確信めいたものが沸いてきた。わたしも案外「カクレキリシタン」なのかもしれない。彼らのようにして生きていけばよいと思った。生きるということは、そういうことだとさえ思った。旗色鮮明なスローガンを叫んでいるなんていうのは、だいぶ素朴な話ではないか。「日本人」という概念は誤解を招きやすいが、「国家」というものは、せせこましい民族概念を超えている。私の「国家」は死んでも否定はできない。たいした話ではない。私には「日本」以外にどこにも、私の国家はあり得ないという、この年になってやっと分かってきた確信を自慢してみたばかりにござる。
昔は「数え年」という年齢の数え方があって、生まれた時点で1歳、お正月が来ると年が増えるという具合だった。もちろん学校や戸籍などは満年齢が記録されていたのだが、慣習として、数え年という数え方があったのである。わたしは12月生まれだから、数えで言うと、生まれて一月もしないうちに2歳になってしまうのである。子ども心にも、数え年というものは、自分にとっては、どうも不利だと気がついていた。当時は旧正月を祝うという慣習もまだ残っていた。旧暦による元旦は、だいたい2月の初旬ぐらいにやってきて二三日前から村のあちこちで餅をつく音が聞こえ始めた。
1月1日は学校は冬休み中だが子どもたちは嬉しそうに風呂敷をもって登校していった。蜜柑がいただけるのである。わたしが暮らしていたところは北関東だから蜜柑の産地からは遠く、お正月でもなければ存分には食べられなかった。さむざむとした校庭に並ばされ、校長先生の年始にあたっての訓示のようなものを聞かされるのだが、これが終われば蜜柑が配られると思えば寒いなかでの退屈な話も我慢して聞いていたのである。教室に入るとさっそく蜜柑が配られた。
一人当たり、10数個ほどあったのではないだろうか。これが元旦の何よりの楽しみだった。当時はどの家も兄弟が多く同じ小学校に二人三人と通っているのが普通だった。兄弟が三人もいれば学校からいただいてきた分だけで家族一同の正月用の蜜柑が間に合うほどだった。だが、それも、わたしが6年生になるころは取りやめになったはずである。
昨日、長男の小学校以来の友達であるS君から電話があり、これから新しいバイクを持っていくからご覧くださいと言ってきた。昨年、秋口からドライビングスクールに通い、11月の半ばに、晴れてオートバイの中型免許を取得したのである。同じ町内で、小学校のころから三日にあけず遊びに来てくれるので、実に気安い関係にある。長男がいようといまいと、関係ない。昨日も私への電話だった。それで数分たたずに玄関口までやってくるだろうと、さっそく外の道路まで出て待っていた。もちろんデジカメはかかせない。来る方向がわかっていたから、あらかじめ露出の具合など頭に入れておいたのである。するとやってきた。ドッドッドッドとえらい吹かし音を町内中にひびかせてバイクにまたがったS君が現れた。おお、例のアメリカのハーレーなんとかじゃないか。と、バイクから降りてくるS君に問うと、ハーレーではなく国産のバイクとのことだった。おじさん、ハーレーはもっとでかいですよ。これはたかだか400ccです。そのうち大型バイクの免許も取るつもりだと言っていた。この間にもシャッターを何度も押す。もう一度、疾走しているところを撮りたいと頼むと、快くバイクにまたがり、えらい吹かし音を残して、あちらの方にさっていき、しばらくすると反対側から勇姿が現れてきた。その様を撮る。こうしてS君を自宅に導きいれ、さっそく、たった今、撮ったばかりの写真をプリントしてあげたのである。今度、俺のことを乗せてくれと頼むと、それはできないと断られた。免許を取って一年以上経たないと二人乗りは禁止されているのだという。