赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

白菜とベーコンのスープを食する

2003年05月23日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
八百屋さんで、まるまると肥え太った白菜を手に入れた。葉の巻きもしっかりしているようで重量もそうとうなものだった。片手ではとても持ち上がらず、両手でかかえるほどの大きさだった。

これで230円である。野菜に掘り出し物はないだろうが、思わず売場の棚の前で感嘆の声を上げたほどだった。

今夜は「白菜とベーコンのスープ」にしよう。

八百屋さんからの帰り、畑のわきに設置されてある無人販売小屋がある。見ればキャベツが二つほど売れ残っていた。手で触ってみると、見かけに反して、これまた葉の巻き具合がしっかりしているようで以外に手にずしりときたのである。もちろん二つを丹念に持ち比べて、重いほうを選んだ。

箱のわきに「お金はここに」と書かれた貯金箱のようなものがあって、そこに150円を投下し、白菜の入った袋に入れたのだが、帰宅するまでに、ぶら下げている手がしびれるほどだった。安かったということもあるが、今日の重さはいささか嬉しかったわけである。

さて、白菜とベーコン・スープはいつもに比べても完璧に近く、日頃は口うるさい家人にも好評をもって迎え入れられたことは言うまでもない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

▼自立と介護と福祉と教育

2003年05月22日 | ■風評加害の露店犯

支え合うのも人間社会のええところだべ。電動車イスもええ、だが人に押してもらう車イスもええものだべ。こっちのほうがええというのは個々人の判断だ。だからと言って片方は自分にとっては用なしだからと排斥するのは大人のやることではあるまい。相手を認めることを「受容」とか「理解」というのじゃないのか。

それも能力のうちだというなら、理解の程度は相手を思いやる想像力が試される。排斥の方向ではなく寛容な態度を保つ心を持たねばにゃ。子どもに向かって「人に優しくしろ」とよく言える。大人たちのやっていることをみろ。その有様では、いつまでたっても世の中はよくならないぞ。

つい先だってなんぞ、若さを誇るご隠居はんの自分でしならない健忘症をわざわざ指摘診断してやったところ、えらく感謝されちまったところでごわす。なにせ年寄りは大事にせねばのぉ。

それにしてもさすがmtはんだすな。ほれ「受容」というキーワードの料理法のことさ。もう少しご高説をお聞かせ願いたい。ただ、素人のオレがおもうに、言説だけでは間に合わないよな。行き着く先を「方法論」求めだけにしてしまったんでは、誤るのでなかんべか。

「受け入れる」にしても「突き放す」とか「自立」にしても、根は同じことのように思うぜ。瞬時に相手の出方によって、感受するこちら側の対応も変化させていく・・・というのがコミュニケーションあらかると。そうそうどっちかに決めつければええつうものではあるまい。

とりわけ我が子の障害がとても重度であるというような場合。これはもっと深部に及んで、出方論を使い分けていかねばならないのだろうね。それについてはオレも、保護者のみなみなさまには頭が下がるよ。深い感性を鍛えておかねば、受容と言っても自立と言っても混濁するばかりで、明晰な意味は失せていく。ガッコの集うバカ親たちが、子どもを誉めるのがよいか叱るのがよいか、なんてバカ話に花を咲かせていた馬鹿な80年代後半があったぜ。

それよりいっそ、保護者の目の黒いうちは、ずっと我が子の世話をしていくということもあり得る話だよ。我が子次第ではね。それに、おおざっぱな言い方でわりいがよ。
 
基本はそこだろ。障害の有無にかかわらず、オラはそう思っているだよ。そのうち自立っぽいことをやる、または親に見切りをつけて、家出していっちまっただ、なんて現象をして「自立」ということなんだから。別にご立派なことではないよ。自立とかカッコつきの教育なんてね。

この世話をしなければならない部分が、技術や専門家や施設や、介護システムなどによって、多少肩代わりできているちゅうことだろうがね。もちろん進展することを望まないわけではないんが、我が子とはいえ一人の人間だ。すべての局面を全面的に他者に依存したがる心性のほうこそ、問題があるんじゃなかろうか。

極論めくが、全面的に依存するということは、恐ろしい話だよ。話が、こうした社会化の方向に行く傾向こそ、気をつけたいと思ったまでのこと。親が支え合うという言葉が聞こえはよいし、美談だが、一方、そうしたことが苦労だと言ってだ。たしかに、それは苦労だが、我が子の世話を他力に依存してしまうということは、親子の関係が薄くなることは確かだ。つっぴな言葉を入れてわりいが、社会が病院化されるということだよ。

高齢者は、家族から引き離されてホームなりに入る・・・現代は、その傾向がある。これは老人だけでない。インフラの整備というかけ声でハコモノが作られる。これは何を意味するか・・・家族がバラバラにされていくことじゃないのか。それでよいのか、という心配がつきないわけさ。

だから、受容とか自立というのは、方法論だけの問題じゃないよ。方法論ばかり求めていると、赤信号みんなで渡れば恐くないの、人でなしになっちまうような気がしてならないわけさ。もちろん自助努力だけでやりくりしろなどと言っているつもりはないのだがね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春爛漫の息子なれ

2003年05月10日 | ■学校的なあまりに学校的な弁証法
次男は数え二十歳の男前。お上のお達しによれば数年後には廃校になることが決まっている夜のガッコの3年生。年度末に作られる文集に次なる文章が載せられていた。親バカちゃんりん再掲許せ。

「モンティバイソン」と言うイギリスのコメディ番組がある。この番組の「ギャグ」は、はっきり言って自分にはまったく笑えない。アメリカのホームドラマなどによくあるが、番組中に笑う場面が出るとドラマとは関係なく笑い声が聞こえるが、視聴者側の笑いをさそっているのだろう。「モンティパイソン」にも同じシチュエーションがある。だから自分がこの番組をみていた時は、テレビだけが笑っていた。やはり異国の番組だけにそのギャグセンスと呼ばれるものが理解できないほどクセの強い物となっているのだろうか。かならずしもイングリッシュコメディーが日本人の体質に合わないわけではないらしい。

同国には「ミスター・ビーン」と呼ばれるコメディーがある。こっちはとても受け入れられいるし、ロワード・アトキンソン(主演・ビーン役)のファンも少なくない。2つの番組を比較すると、次のような違いを見つける事ができた。ミスター・ビーンの中では、主人公であるビーンが非常識な行動をとり周りの人とのギャップの違いをあからさまにし、そこから笑いを作りだす。この番組内の関係が日本の漫才のボケとツッコミの聞係にてらし合わせられる。つまり非常識なビーンがボケ役であり周りのおそらくは常識人がツッコミ役である。

モンティパイソンの場合を漫才で説明すれば、出てくる人間の全てがポケ役にあたるのだろう。そう考えるとかなり型やぶりなギャグだ。自分は好きではないが、「モンティパイソン」の大好きな友達が一人いる。仮りにm君とする。m君は録画した「モンティパイソン」のビデオを持っている。一本に6時間近く入っている超大作であった。そのm君に「奇人達の晩餐会」というフレンチコメディー映画を見てもらった事がある。この映画もポケとツッコミの役がらがはっきりと別れている。

自分は、この作品がけっこう気に入っていたが、m君には気にいらなかったらしい。感想に一言「スゲーおもしろい」と皮肉まじりに言った。どうやら途中までしか見なかったようだった。ギャグセンスの違いだろうか。それともギャグに関しては目の肥えたm君にとっては型やぷりな「モンティパイソン」の方が新鮮でおもしろ味を感じるのかもしれない。ギャグにもそれぞれのスタイルがある。だから「モンティパイソン」や「ミスター・ビーン」などの一個人に関して笑える物と笑えない物が出てくるんだと思う。

「ミスター・ビーン」役のロワード・アトキンソンは、番組内のビーンからは想像もできないほどまじめな感じのする男性である。その人の素顔を見たときはどちらがどちらを演じているのかと思うほどである。自分はその人の演技力に驚きを覚えずにはいられなかった。またその番組の構成のしかたも一年に何本しかできないというスローペースであり関係者が総動員で練り上げていく。「モンティパイソン」にいたっても同じ事だと思う。そうした中でそれぞれの「ギャグ」のスタイルが長い時間の内に、いくつも組みたてられてゆく。

最後にチャプリンの事を少しだけ書く。チャップリンは子どもの頃から舞台に立っていた。よく独特のアドリブでお客を笑わす。人を笑わす事が好きでなければそんな事は思いつかないと思う。そんなチャップリンの芸風にロワード・アトキンソンのスタイルが似ている。余談・テレビタレントのえなりかずきさんは、チャップリンを最も尊敬しているらしい。また映画評論家の淀川長治さんがチャップリンの熱狂的な大ファンであったことは有名である。さらに余談だが、この作文の題名に意味は特にない。ただ人の感性が五つにかぎったものでないと思ってつけてみた。ギャグセンスなども五つだけではないと思った。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世田谷区議 上川さん

2003年05月03日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法
最近は、どの選挙もそうだが先日行われた区議会議員選挙も、あまり興味がわかなかった。

どういう人が立候補しているかも調べもしなかったものだから深く考えもせず前回と同じ候補者に投票してきた。

上川(かみかわ)あやさんのことは後日知った。

彼(彼女?)が世田谷区議初当選の朗報は次の日の新聞で知ったのだと思う。

この人に投票しておけばよかったと思った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする