赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼叔母に電話する

2006年04月21日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
U市に在する叔母に電話を入れてみた。叔母は当年73になる。二年前に亡くなった私の妹の誕生当時のことで、少々聞きたいことがあって電話を入れてみたのである。妹が生まれたのは、昭和32年で私は小学3年生だった。当時、叔母は結婚してU市に出てきていたか、それとも結婚前で、まだ家にいたのか、そこが判然としなかった。結婚前で実家にいれば妹の誕生時のことなども、よく知っているに違いないと思ったのである。私たちの一家は、父の実家のほんの近くで暮らしを立てていた。今でもこの叔母の嫁入りの日を鮮明に覚えている。農家のことで、それはそれは盛大な結婚式だった。人形のように着飾ったこの日の叔母は、子どもの目には、まるで天から降りてきた女人のようにまぶしかった。学校の入る前の私をよく可愛がってくれたから、今日を最後に知らないどこかに行ってしまうと思えば一抹の寂しさも感じていた。雨の日だった。雨上がりの泥道を大通りに待たせてあった自動車のところまで、叔母はリヤカーに載せられていった。さて、今日の電話でとりあえず分かったことは、叔母が結婚したのは妹の誕生から一年前のことで、妹が生まれた年には叔母もまた、嫁ぎ先で長男を産み当時はまだまだ元気だった祖母が、その年だけで二人の孫に恵まれたと喜んでいたという。
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▼婿殿と語る

2006年04月20日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
先日、ひさしぶりに婿殿の家に出向き雑談をしてきた。前回はごちそうになるばかりだったから今回は私が一升ぶらさげていった。午後4時から夜も夜中の1時すぎまで、二人きりでぶっ続けで話し込んだのである。もとより議題らしきものが用意されていたわけではないのだが、いつものように話はどうしても二年前に亡くなった妹のことになる。話しても話しても話がつきないのである。妹が亡くなったのは5月20日だった。以来、婿殿は一人暮らしである。命日の近づくこの時期になると、昨年もそうだったが妹のことで頭がいっぱいになり、どうしても閉じこもりがちになってしまうという。

婿殿は幼少時から足が不自由で車椅子生活者である。25年前、妹は彼のプロポーズを受諾するとき、自分の体のことが気になっていた彼が最終的に念を押してみると、妹は「わたしはあなたの体のことは目に入りません」と答えてくれたと聞く。結婚25周年を目の前にして婿殿を一人残して逝ってしまった。子どもは作らなかった。以来、婿さんは一人暮らし。小学校も中学校も出ていない。わたしが息子の話などするときに、不登校などという言葉を使うと「君の息子が不登校なら、一日足りとも学校などに通ったことの無い俺のことは、なんと呼ぶのだ」といって怒り出す。婿殿は、10年ほど前にまだ妹が元気だったころ自分の半生を書いて一冊にまとめた。このことを誰よりも喜んでくれたのが妹だった。その続きの自伝を、ただいま執筆中なり。週二回ヘルパーが掃除や洗濯に来てくれている。

この日、印象深かった婿殿の話はいくつもあるが、中でも忘れられないのが余命いくばくもない病床で妹が、婿殿にそっと耳打ちするように言ったことがあるという。妹は婿殿に、今回、私に何かあったとしても50になったら、きっとあなたのところにもう一度姿を現すと。わたしは重篤の人間がそんなことを言うのだろうかと、いぶかしく思ったが婿殿は真剣だった。妹が50歳になるのはあと二年である。その時婿殿は65歳になっている。彼は、それまでに自著をまとめて会いにきてくれた妹に見せたいのだと言う。別れ際に「君も書かなければ駄目だ。競争しよう」と私のほうが発破をかけられた。
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