赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼筆ペン習字帳より

2013年07月29日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

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▼とある夏日の脇道散歩

2013年07月25日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

2013.07.25 横浜市

  

 

 

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▼つわものどもが夢のあと・・・

2013年07月21日 | ■今丼政幸君との対話

 

本日は参議院選挙の投票日であった。

いつのころから拙者のばやい、投票会場にまかり出て後、目の前の候補者名簿一式を、しげしげと眺めながら、さてはて誰の名を書くか、どの政党の名を記すのかと逡巡するのが、楽しみの一つとなっている。

その場そのときの、気持ち次第で投票するに別に大きな間違いはないだろうと確信している。

 

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▼ペン習字帳より

2013年07月20日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

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▼「百合子めぐり」 中村智子

2013年07月17日 | ■軍事を知らずに平和を語る資格なし

一年ほど前にネットで知った某古書店から購入し届けていただいた「百合子めぐり」(1998年 未来社)という本の見返しに著者直筆の署名があって少々嬉しかった。古本屋などを巡っていると著者サイン入りの本も、まれに出くわすことがあるが、私はその方面のことは興味も無く、もちろんマニアでもないので一般にはまったく気にはしていない。サインがあろうとなかろうと、美本であろうと汚れていようと、また初版本であろうと重版本であろうと復刻版であろうと文章が同じなら同じ本だと思っている。

さて、「百合子めぐり」の百合子とはもちろん宮本百合子のことだが、中村智子さんは、ずっと以前、「宮本百合子」(1973年刊 筑摩書房)を書いており、これは百合子についての評論、評伝数ある中で抜きん出た一冊だと私は思っている。いまや中村氏の、この労作をぬきに宮本百合子は語れまい。上記の「百合子めぐり」は、「宮本百合子」出版以後に百合子について、改めて気がついたことなどを折に触れて書いてきたいくつかのエッセイをまとめたものである。

「宮本百合子」刊行後、中村氏は共産党の新聞「赤旗」紙上で例によって大々的に批判された。ささいなことを大げさに難癖をつけられてだいぶ閉口したらしい。因縁付けの一つが百合子の戦前入党説の真贋があった。百合子は戦前中から正規の共産党員だったのか否かという問題である。中村氏は、百合子の場合、いくら調べても入党していた形跡はまったく見られない。ようするに戦後になるまで共産党員ではなかったのではないかと疑問を呈していた。この部分に党の方から、あの百合子が共産党員でないはずがないではないかと、いちゃもんがついた。いずれにしても記録が無い以上、これは、なんとも言えない問題である。戦前における入党の実情とは、厳正な審査を経て入党するというにはほど遠く、実際には既党員とのいわゆる「口約束」のようなものだった。

本人でも、自分が党員であるのか、ないのかの確たるところは知らないのである。官憲につかまり、官憲から知らされて、初めて知るというような陳腐な逆さ現象が横行していた。もちろん特高、官憲以下、あらゆる主義者の組織解体を狙う権力機構から、組織を防衛する上で名簿などはいっさい残せなかったという事情があった。組織防衛上、秘密主義が徹底された。結局、誰が党員であるのかないのかは、「党」自身にも分からなかったのではないか。治安維持法によって非合法化された党組織は限りなく小さく分断されていた。誰が党員かそうでないかは皆目見当もつかなかっただろう。彼らにとって重要なのは、誰それの名をもった人間の存在ではない。

「共産党」とは科学的社会主義という理論の実在化であり、いわば概念である。主義者にとっては、共産党という名前といくつかの教義があれば、それで活動に邁進できる。具体的な人間の誰がいようといまいと、それは原則関係がない。党は抽象的であればあるほど現実の誤謬から免れるだろう。マルクス主義は誰がなんと言っても絶対に正しいのであればヒトの存在は問題外となる。活動家とは、絶対正義たる科学的概念としてのマルクス主義布教の弟子、または信者であれば、それ以上の肉体的具体性を持たないままでも、よいのである。限りなく抽象化された教義こそ美化されやすい。人民は党の姿(教義)にあこがれるだろう。人民各位の犠牲的精神の発露も促せるに違いない。よって活動家個々はむしろ「名無し」でよいのだ。地下活動とは名を隠し、身を隠し、仮面をかぶって活動することだ。自分たちを「名無し」にさせたのは非道な権力であるという言い訳も立つ。

実際、党活動に協力してくれる者が居さえすれば、彼が党員であろうとなかろうと関係ない。むしろ官憲に引っ張られた時など党員であることを威張ってみたり、ほのめかしたりしたのでは小林多喜二のように殺されるはめを見る。同じ党活動家ではあっても非党員のままのほうが、よほど安全だった。

小林多喜二にしても党員だったのか、単なる協力者だったのかは分かったものではない。彼はさんざんに官憲に拷問され殺される直前に「共産党、万歳」と何度か叫んでいたというが、これも非党員であるがゆえに入党への憧れが強く、そんなことを叫ばせたとも思えなくも無い。ゼロ戦に乗った特攻隊が敵艦隊につっこんでいく最後の最後の時に、「天皇陛下、万歳」と叫ばしめた心証に、なんの変わりがあるだろう。そんな調子なら最終的には牢にぶちこまれた時点で、自分が党員であるか否かを官憲に決めていただいたとも言えるのである。築地署の特高は、あきらかに多喜二を党員だと見なした。

だが記録が無い以上、本人の自白に頼る以外にはないわけで、多喜二が党員だったのかどうかの確かなことは、結局特高にも、分からなかったのではないのだろうか。自白させるための拷問である。暗殺するのが目的なら、やることは簡単だ。共産党員なのか、否かを白状させるための拷問だった。多喜二は、この質問には答えなかった。答えられなかった。敵前で自分が党員であるかなしかを明言したら最後、それは思想的転落を意味する。党に対する背信である。権力に屈服し党を捨て転向することを意味している。特高は、なんとしても自白させようと拷問を続けた。やがて致命的な暴行に及んだ。こうして多喜二は、逮捕されたその晩のうちに絶命した。

比べて百合子の場合、中村氏が言うに、二度三度と官憲に引っ張られ留置されたことはあるにしても、その扱いは多喜二の場合とは、だいぶ異なっていたようで、少なくても官憲側としては、百合子は党員ではなく一協力者に過ぎないと見ていた形跡もあり中村氏としても調べに調べた結果、そのように思うと推論しているのである。

2007-03-22 01:18:00記

 

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▼暑中見舞い

2013年07月12日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

 

今日も暑かった。2013年7月12日。

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▼炎天下に聞く黒猫のタンゴ

2013年07月11日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

自室内の窓際に掛けてある温度計を見れば昼ごろには、すでに40度をさしていた。

2013.07.11 横浜市

 

 

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▼つゆ草の詩

2013年07月11日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

2013.07.11 横浜市

 

 

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▼つゆ草の詩

2013年07月05日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

2013.06.30 横浜市

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▼小林秀雄と宮本顕治

2013年07月01日 | ■軍事を知らずに平和を語る資格なし

小林秀雄が亡くなったのは昭和58年の三月だった。私が35歳のときだった。それまでも、それからも文士としての小林秀雄の大きさは、なんとなく耳にして無視できない存在で、彼の本なども何冊か本棚に置かれてはいたのだが、まじめに読んでみることはなかった。いや、何度か読もうとしてみたし、読んでみて感銘を受けた文章のいくつかもあって、「志賀直哉論」などは、そのひとつである。

その他のもの、とりわけ彼のデビュー作たる「様々なる意匠」などは、まったくちんぷんかんぷんで手に負えなかった。何度読もうとしても、最初の数行で本を閉じた。だが、やはり小林秀雄は気になる文士だったから、逝去された直後に刊行された「文学界」と「新潮」の追悼特集号だけは、買い求めておいた。四年ほど前か、急に小林秀雄に興味を持ち、本棚の奥の方に赤茶けて収まっていた、この二冊の雑誌を、引っ張り出して、隅から隅まで読み上げた。若い頃は、ほんんど理解不能だった、小林の文章が、少しずつ分かり始めてきた。

若い頃からずっと、わたしは小林より、むしろ宮本顕治の「敗北の文学」に心底から影響されていた。冒頭にも書いたが、小林の文章はほとんど理解できなかったのだ。比べて「敗北の文学」のなんと、分かりやすかったことか。宮本の文章は、若者の革命的ロマンチシズムが満載されていた。革命青年にとって、自殺した芥川龍之介とは、また格好のセンチメンタリズムを満たす材料たりえたということだ。

宮本の「敗北の文学」ばかりは、文学論を読んだというよりは、どうみても勇ましい革命歌でも聴かされていたという気がする。宮本の声は、蛮声ではなかった、知性すら感じさせてくる文体だった。今になって思えば、わたしの場合も、宮本の文体からかもし出される美声に酔わされていたと思うしかないのである。

民衆が新しい明日の芸術を創造する。これは、事実上芥川氏自身が自らに向けた否定の刃(やいば)ではないか。あらゆる天才も時代を超えることはできないとは、氏のたびたび繰り返したヒステリックな凱歌であった。こうした絶望そのものが、「自我」を社会に対立させるブルジョア的な苦悶でなければならない。

この作家の中をかけめぐった末期の嵐の中に、自分の古傷の呻きを聞く故に、それ故にこそ一層、氏を再批判する必要があるだろう。いつの間にか、日本のパルナッスの山頂で、世紀末的な偶像に化しつつある氏の文学に向かって、ツルハシを打ちおろさなければならない。

「敗北の文学」より


こうして「改造」が募集した懸賞論文は、宮本の「敗北の文学」のほうが第一席を得て、小林のものは二席となった。昭和4年のことである。考えてみるまでもなく、これは当時のプロレタリア文学全盛時代の風潮にすぎず、誰がみても小林の「様々なる意匠」の方に軍配を上げるのが当然だろうとは、今になって言えることなのである。

むしろ、端的にはなにを言っているのか分からないという風評だった小林の論文が次席とはいえ入選したことのほうが不思議なくらいだ。右か左か、革命か反動か、はたまた戦争か平和かの二項対立的思考が大手を振って文壇や論壇を席捲していたあの時代に、小林の文章を多少なりとも読み解く人間がいたという事実のほうに驚くのである。

優れた芸術は、常にある人の眼差しが心を貫くがごとき現実性を持っている。人間を現実への情熱に導かないあらゆる表象の建築は便覧(マニュアル)にすぎない。人は便覧をもって右に曲がれば街へ出ると教える事は出来る。しかし、座った人間を立たせることはできない。人は便覧によって動きはしない、事件によって動かされるのだ。強力な観念学は事件である。強力な芸術もまた事件である。

「様々なる意匠」より


小林は「様々なる意匠」を懸賞金ほしさに書いたらしい。原稿は、当時「改造」の社員だった友人の深田久弥(「日本百名山」の著者)に託した。本人は一席当選間違いなしと自信たっぷりで、懸賞金を担保に前借し、友達を呼び集め大盤振る舞いに及んだらしい。小林らしい。結果は、二席ということで、ずいぶん落胆したと聞く。

二年ほど前、とある古書店で「レクイエム 小林秀雄」(講談社 吉田熈生:編)という本を見つけた。この本の中に、小林の訃報に接した時の新聞社の取材に答えた宮本顕治の短い談話があった。

朝日新聞昭和58年3月1日(夕刊)「別々の道でも相交わる一点」 宮本顕治氏(75歳)の話

「改造」の懸賞論文に二人が入選したことなどから、何かにつけて並べて語られるが、小林氏と直接の面識はない。それというのも当時の入選者には、今日のような授賞式めいたものはなく、私は一人で出向き小さな応接室で懸賞金をもらったからだ。文学的デビューで私は社会主義の立場から、彼は近代個人主義の立場からの批評であって、文学的にも社会的にも別々の道を半世紀にわたって歩いたわけだ。戦後、鎌倉の今はなき正木千冬さんが革新市長に立候補したとき、共産党も推したが小林氏らも正木氏の後援会の一員として推していることが分かり、双方の人生に珍しく相交わる一点を感じて感慨があった。いずれにしても、因縁のある同時代人の訃報に接し、さびしい。


昭和58年といえば、宮本も共産党の最高指導者として磐石の地位を築いた頃である。上の談話も、若い頃の原理主義的戦闘的リゴリズムはすっかり影をひそめ、後々、取りざたされないように慎重に言葉が選ばれている。そらぞらしいほどだ。それはよいとしても、自分が書いた「敗北の文学」は社会主義的立場からのものであり、小林の「様々なる意匠」は近代個人主義の立場から書かれたものだとする相変わらずの短絡的決め付け風思想腑分け作業による概括は、これを聞きつけた小林が草葉の陰で笑らっているに違いない。ましてや選挙の話など、語るに落ちる。

僕が反対してきたのは、論理を装ったセンチメンタリズム、或いは進歩啓蒙の仮面をかぶったロマンチストだけである・・・「中野重治君へ」小林秀雄

<2007.08.25 記>

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▼水不足 雨が恋しい梅雨さなか

2013年07月01日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

2013.07.01 横浜市

 

 

 

 

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