赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

●左様ならばまた明日

2020年11月16日 | ■文芸的なあまりに文芸的な弁証法

 

<以下、昔の記事より 2008.07.23 記>

 

サヨナラダケガ人生ダ・・・井伏鱒二

わたしの知っている一般向きの挨拶の言葉は四つしかない。おはよう、こんにちは、こんばんは、そして「さようなら」である。四つのうちの前の三つは、毎日何度となく抵抗無しに使うことができているのだが、このうち「さようなら」と人に面と向かって言う機会が、ほとんどなくなっていることに気がついた。自分では、嫌いな言葉ではなく、むしろその音律も、またその言葉から湧き上がる情緒も大好きなはずなのに、なぜか「さようなら」とは、言いづらくて仕方ない。なぜ、そんなふうに思ってしまうのか。まさか公的に禁句になったというわけでもないだろうに、わたしも使わなくなって、久しい感じがするのである。どことなく少女趣味のようでもあり、いわゆる女言葉と言い切っては語弊があるだろうが、おセンチで、自分の柄にはそぐわない気もしないではない。綺麗すぎる言葉のような感じもする。それはともかく、私のまわりからは、すっかり消え去って、一向に耳にすることもなくなってきた。どのような風潮が、この美しい挨拶言葉を日本人から取り上げてしまったのか。不審なこともあるものだ。いまや、「さようなら」は死語となったのか。

 
  さよならと言ったら
  黙ってうつむいてたお下げ髪
 
  さよならと言ったら
  こだまがさようならと呼んでいた

  さよならと言ったら
  涙の瞳でじっと見つめてた

<ラジオ歌謡「白い花の咲く頃」より>




ありがとう・さようなら ともだち
ひとつずつの笑顔 はずむ声
夏の日ざしにも 冬の空の下でも
みんなまぶしく 輝いていた
ありがとう・さようなら ともだち

ありがとう・さようなら 教室
走るように過ぎた 楽しい日
思い出の傷(きず)が 残るあの机に
だれが今度は すわるんだろう
ありがとう・さようなら 教室

ありがとう・さようなら 先生
しかられたことさえ あたたかい
新しい風に 夢の翼(つばさ)ひろげて
ひとりひとりが 飛びたつ時
ありがとう・さようなら 先生

ありがとう・さようなら みんな みんな
ありがとう・さようなら みんな

「ありがとう・さようなら」 井出隆夫作詞

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

▼寄る年波の小説作法

2020年11月16日 | ■文芸的なあまりに文芸的な弁証法

<以下昔の記事より 2008.07.14 記>

 

かもめさんの文章は思いいれと思い込みが強すぎるようです。ノンフィクションには向いていないようと思いますね。そんな調子でいくら書いても「いいかげん、誤認、無知・無理解」と言われたり、時には「うそつき」と呼ばれかねません。心当たりもあるのでは。かもめさんには、ぜったいフィクションが必要です。

こんにちは。おっしゃる通りで図星です。わたしの無学は、自他共に認めていることで、いまさらどうにもなりません。そうですね。確かに「うそつき」呼ばわりされることもしばしばありました。ただ「思い込み」ということについては、言語活動の原理的問題であり、人は思い込んでいることがあるから文章を書くのでしょう。思い込みは自熱をあげる。なんらかの主張があるから、ここ一番で筆をとるのです。熱がなければ、そんなことはできませんよ。逆に言えば、文章を書くということは、気持ちに多少なりとも熱が必要だろうと思っています。もちろん熱も程度問題でしょうがね。いくら熱っぽいのがよいとは言っても、興奮したままでは、筆は取れません。ここが問題なのです。フィクションについては、まったく同感です。自分でそう思ってはいるのですが、なかなかうまくいきません。石川淳が何かに書いていたのですが、誰にとっても文章というものは書いているうちに、おのずとフィクションに向かっていくそうです。ま、わたしの場合、不向きだということですよ。フィクションにしてもノンフィクションにしてもね。文章を書くという、そのことの意味が薄いのかもしれませんね。それに文章のジャンルについては、明確な区別を避けたい気持ちもある。たとえば理系だとか文系だとか、さらに右だとか左だとか。われわれが習い覚えて脳内に刷り込まれている、文芸思潮各種などに見られる既成の枠組みに与(くみ)したくないのです。よって、他人が読んでも、小説だか随筆だか、さっぱりわからない様なもののほうが、自分には合っているような感じもしています。最後の区別は他人に決めてもらえばよいと、そう思っている。最初から、これから小説を書きますと自信たっぷりに動機付けて、断言できる筋合いは、わたしにはまったくと言って皆無なのです。既成の枠組みと言いましたが、実際、かなり失望しているのです。わたしが見たところの範囲で、すなわちわたしが理解している現行のジャーナリズムとか「文学」とかにね。いまや、これといった作家もジャーナリストも、一人たりとていませんね。彼らは、総じて脳のない馬鹿ばかりだ。もちろん私だって似たもの同士ですよ。何にもわかってはいないのです。文章なんぞには、自分の現実的な幸福も不幸も、もとより存在しないのだから、しょうがない。よって自分の書いたものの、分野や形なんぞ、どうでもいいと思い始めている。形をつけることも才能のうちだとは、わかっているのですが、結局、私には、その能がないと断念した。仕方がない。そもそも文章を書かねばならない義務もなければ義理もないのです。さて、わたしもすでに還暦です。人様から恋愛詩や童話を書けといわれても、とうてい無理な話です。昨日また前歯が一本抜けてしまっただ。総入れ歯の算段だ。色恋沙汰は無理難題。涙は枯れた後の祭りよ。よる年波には勝てないものだす。

かもめさんには、最低限、調べる作業が欠けています。

これも、おっしゃる通りだと思います。仮に文章を書こうとする場合は、むしろ、そんな調子で行くしかないとすら思っているところです。作業を欠かす、調べない、構築しない、専門家の意見を無視し、知識を無視し、心理描写を無視する。なにもしないで、残ったものがあるとするなら、それが私の文章を書くという行為です。逆説どころか反逆していると思われるかも知れないが、こうした気持ちは、かなり確信に近くなっています。そうですね。歌物語のようなものでしょうか。俳句は、よく分からないのですが、和歌のひとつでもいいでしょう。最終的に、世間に提出できるものは。それがわたしの狙っている私の文学だと思っているところなり。極言にしか聞こえないかもしれないが、他からはなにも学ぶつもりもありません。学べないでしょうね。感じることだけです。それが自分の心にとどまるならば、少々は良きものに、影響されているということもあるでしょう。それが生活ですよ。作家や知識人や図書なんかには、金輪際影響されたくないですね。日々の報道なども、現在はほとんど気にならなくなりました。新聞も雑誌も見ていませんよ。ま、ネットの報道は見るけれどね。ネットで読むものと言えば、スポーツ記事ばかり。それと知り合い各位の意見、主張など。枕元には、相変わらず、小林秀雄関係の本が山積みされている。それだけですよ。歌物語とは言っても、これまた私の実力では、到底及ばないとは思っていますね。気持ちは、そうだというほどのことです。歌なら、いくらでも作ってみたいとは念じるが、比喩的に言うなら、今後自分の書く文章は、たとえ散文でも、歌にしたい。歌うように書きたいという願望です。歌心も文章にしなければ、どうにも伝わらないことは分かっている。文章を書くという行為で果たされる幸いは、歌うことですよ。文章の底には、詩があるのです。なければならないと、そんなことを思っている。書いたものが意外に、小説風になる場合もあるかもしれない。何々風だというのは、人が決めること。それでよいだろうと思っている。

パウロなど、ローマ語に通じている人材が出てきたからこそキリスト教はローマ国教、ひいては世界宗教になりえたのです。

これは、まったくその通りでしょうね。ですから、イエス後に書き記された聖書とされる弟子たちの記した福音や手紙なども、本当のところイエスが生きていれば、どう思うかは、わからないのですよね。イエスやソクラテスが著作を残さなかったということは、確かに時代の制約ということもあったでしょう。でもわかることは、さほど著作、すなわち文字や記録にこだわっていないということだけは、わかるのです。だが、歴史は、当人の思いとは、若干違った風に進む。卑近な例として、子どもの詩の場合を述べてみたわけです。子どもは別に詩作しているつもりはない。通常通りにおしゃべりしている。だが、それを聞きつけた大人が、詩であると認識したからこそ、公表されるのでしょう。善悪の問題ではぜんぜんない。実に不可逆的な、不可抗力のようなものが働いて歴史が進んでいる。有名なマルクスの話がありますね。晩年のことですが、「自分はマルクス主義者ではない」と断言している。マルクスが生きて発言できるとすれば、スターリンは言うに及ばずレーニンでさえも、自分の弟子だとは到底認めなかったかも知れませんね。こういうことがあるというよりも、こういうことだらけですよ。歴史ってもんは。あらゆる現象が偶然の賜物であり、誤解の産物ですよ。正論は隠されている。隠されたまま歴史はどんどん進んでいってしまう。むしろ必然性なんか、なにもないと言っても過言ではない。仮説のまっただなかで、われわれは生き死にしている。そう思えば、なんぼか気持ちも楽になる。偶然性こそ、自由の源ですよ。何ひとつ決まっちゃいませんよ。

歴史を見れば高度化した文字は特権階級の独占物だったという事実にぶち当たります。どこの国でも王族や僧侶階級が文字を独占し、自分たちの「歴史・真理」を管理していたわけです。そうすると、「著作する」ことは在野の聖人たちにとっては必ずしも有利ではなく、彼らの目的と合致しなくても不思議ではないかもしれません。ほかにもいろいろ「理由」が考えられます。

著作の有無は、政治的に有利不利の問題ではないでしょう。在野の聖人だから、というくくりつけも、論外ですよ。言葉とは、当初、どういうものだったのか、これをよくよく考えておかなかければならないのです。少なくてもわが国で、言葉が文字によって記されたのは、「古事記」が最初の事件だった。古事記以前に、筆記すべき日本語というものは、なかった。すべて口承によって交換されていたのです。話し言葉だけの世界だったのです。当時、世界は、そういうものだった。漢字という中国語の到来してきた。漢字を、あるルールを作りつつ、日本語に当てはめていったのです。万葉仮名と言われるものを見ればわかるが、最初は当て字だらけだった。意味を採用したり、音だけを採用したり、しつつ漢字を、日本語に置き換えて、書き言葉としての「日本語」が出来上がってきたのです。模倣ですよ。模倣が蔓延して、民族に特有の言語が生まれることもあるでしょう。

歴史は支配者の軌跡だと、よく言われるが、確かに歴史の前面に写されているのは、支配者による政治的経済的覇権争いと支配者たる地位と生活を謳歌している有様ばかりだが、それはテキストの表面上のことです。物語の底に人々の確たる歴史が垣間見えてくるのです。では人々の歴史とはなにか。一言のもとに言ってしまえば、衆愚の歴史といえないこともない。文字に書き付けられた意味に惑わされ、実に簡単に教祖の言辞を頭から信奉してしまう。そしてまた共同体の中に、異論者が出てくる。意見違いから四分五裂し、セクトが生まれる。セクト間で、喧嘩が始まる。戦争にも及ぶ。キリスト教にしても、仏教にしても、いまや何通りのセクトに分かれているか、数え切れないほどです。これが衆愚というものの有様で、まさにセクトの発生と、戦争こそ歴史の醍醐味という様相を呈している。セクトを、すこし今日風に平和的に換言するなら、いわゆる「業界」のことですよ。衆愚の集う「業界」は、どうしても「悪貨は良貨を駆逐して」いかざるを得ない。悪貨が制覇する過程、これが人の歴史の王道ですよ。

文学や芸術に歴史はない。もちろん過程もない。わたしはそう言いたいほどだ。進んでいるのか、退歩しているのか一向に判別できない。それが「私」の文学です。はっきりしているのは、年老いていくことだけだ。それが「私」の人生です。ではなぜ、衆愚はいさかいを起こすのか、なぜ論争したり議論したりするのか。おそらく心の底に、やみがたい不平不満があるからでしょう。自己を主張しなければならないからでしょう。食い扶持をめぐって、言い分をめぐって、どうしても主張しなければ生活が成り立たないという現場の問題がある。あっちの教祖の言っているように、生活したり物を考えていたんでは、自分の不利になるばかり。こうして「私」は集団をつくり徒党する。歴史とは集団の歴史となる。社会は、いつだって質よりは量をもって、良しとするのです。私より集団を重んじるからです。こうして、歴史は破竹の勢いで良貨をつぶしていく。価値が平等化される。均質化される。これも歴史だ。これはいずれも社会原理と言っても良い。社会とは集団のことですよ。「私」の原理ではない。集団化された私は衆愚となる。集団から文学が生まれるわけがないでしょう。集団が作る文章は、せいぜいスローガンか、まれに法律文ぐらいなものです。こんなものは、ただの記録にしか過ぎない。文学的には二束三文ですよ。

文学といえる言葉は、あくまでも「私」です。「私」以外のところから、文章が生まれるわけがない、その覚悟を決めることこそ困難なのです。ところで、心がゆすぶられる子どもの詩は、学校などで机に向かって、さあ「詩を書きましょう」といって書かれたものではない。そのときも指摘しておきましたが、多くの場合、お母さんなりと対話しているときのおしゃべりですよ。本人は、詩を作っているとは、毛頭考えていない。そういう場合が多い。では、そのときの子どもさんのおしゃべりが、詩であると認識したのは、誰でしょう。少なくても本人ではないのです。子どもの詩がステキなのは、まだ衆愚にはなりきっていないからでしょう。言葉と肉体が同一化されている。痛いときは、率直に全身で、痛いと伝えてくる。言葉を発するに、どのように受け止められるかという、他人に対する疑いを持っていないのです。だから、子どもの言葉は大文学なのです。これに比べれば、小説家でござい、ジャーナリストでございなんて威張っているのは、馬鹿もいいところではござんせんか、と申しているのです。

こうしてみると、かもめさんが力説する「ソクラテス、イエス、孔子、釈迦の4大聖人たちは文章を書かなかった」というテーゼもかなり一面的だと考えられるでしょう。

大昔は、今日のようには文字による記録、すなわち図書やジャーナリズムは重んじてはいなかったと思われるのです。イエスといい孔子といい、本人の気持ちとしては、自分が吐く言葉は、言いっぱなしのようなものだったのではないでしょうか。彼らにとっては、それでよかったのです。言葉とはそういう次元の問題だった。図書にする必要も記録する必要もなかったと思われるのです。これは、記録と文字優先の現代社会では、とうてい想像もできない、古代人の持っていた独特な感覚だっただろうと思うのです。驚くべきことですよ。キリスト教を世界宗教にしようなどとは、イエスは、これぽっちも思っていなかった。イエスの言葉を、世界に普遍的なものにしようと、たくらんだのは、弟子たちの悪徳にほかなりません。悪徳といっては語弊があるが、言葉というものも、また、最初の聖人の精神など、おかまいなしに良いも悪いも含有させて、有無をいわせずに広がっていく悪弊があるのです。

たとえばアメリカ先住民は部族ごとに言語は違いますが、かなり高度な手話を持っていました。手話が共通言語の役割を果たし、広いアメリカ大陸に多数の部族があったにもかかわらず、お互いに意思の疎通が計れていました。これは先住民同士で合議して共通手話を開発した、というのではなく、むしろ先に身体言語としての手話があって、それが共通しているので意思が通じ、あとからそれぞれの部族言語が成立したと考えるのが妥当でしょう。こうして見ると、「文字に対する言葉の優先性」というテーゼは、言語というツールを狭い範囲に置いてしまっていることが分かります。事実としては「文字も言葉も人間のコミュニケーション・ツールとして同時に、あるいは交互に発達した」のではないかと思います。

確かに文字は記号です。おそらくわれわれが知る以上に、古い時代から存在していたのでしょう。絵文字なり、その他もろもろの、多少なりとも部族内で共有化できていた記号があったはずです。しかし、それを言うなら、やはり世界の言語に共通しているものをはずしては話になりません。共通しているもの、それはなんでしょう。人の肉体の喉を通して発せられた音声ですよ。文字も記号なら、音声も記号ですよ。文字のない言語や言葉は多数ありました。近代以前の言語体系は、地球上に6000ほどあったと言われている。その多くが文字を持たない音声だけの言葉でした。アイヌをはじめ、むしろ文字を持たない言語のほうが、かつて日本語がそうであったように、多かった。そうした中にも、文学はあった。むしろ文字がないからこそ、人々の話は、文学に満ちていたとさえ想像できるのです。人々は声を交わして歌や詩を読んでいたのです。それも日常的に。誰しもが、普段に。万葉集や梁塵秘抄などから、そうしたことがうかがわれます。図書や知識にこだわるのは、われわれが囚われている近代の迷妄にすぎないのです。

かもめさんの文章から気がついたのですが受け売り・引用ならともかく、オリジナルな哲学論理を書く場合はやっぱり大変です。その点、かもめさんの場合も、小説なら思いついたらすぐ書けるので楽ですよ。

わたしは、「オリジナルな哲学理論」を書いているつもりも述べているつもりもないのです。オリジナルか、受け売りか、また哲学なのか文学なのか、邪道なのか、それらすべて他人が考えればよいと、以前にも言ったことがあるが、そんな風に思っています。それに、哲学論理は大変で小説は楽だという、あなたの主張も私には初耳ですね。初耳というより、それらしい言葉は何度か聴いたような気もするが、そうもはっきり聞こえたのは、初めてのような気がします。先日も、あなたから言われました。無学なものが、なにか文章を書こうとするなら、ノンフィクションよりフィクションを書けと。ま、どうせ調べもせずに書く「かもめ」の場合はと言いたいのが主旨のようで、それは、ひとえに好意的に受け止めておきますがね。しかし、そうでしょうかね。哲学論文であれ科学論文であれ、なんでもいいが、その種の論文などを書くことより小説は楽でしょうか。私はぜんぜん、そうは思わないですね。また、思いつきで哲学論文を書くのは不可能で、その点「小説」は思いつきでやっていけるような言い方ですが、それもどうかと思いますよ。文学にジャンルというものはないと、前にも書いておきましたが、あなたの俗論を拝見してますます自説を崩す必要はないと心得ました。科学論文も哲学論文も文学ですよ。話されたこと、書かれたこと、すべて文学の種ですよ。後世の人々が、決めるのです。パスカルの「パンセ」は十分に文学ですよ。プラトンの全著作は、むしろ哲学というよりは、劇作のようなものですよ。少なくてもプラトンは、そう思って文章を書いていた。内村鑑三の「余は如何にして基督教徒となりしか」は、文学ですよ。福澤諭吉の「学問のすすめ」も文学です。それぞれの出版社が「日本文学全集」なりを編集するときは、まず第一巻の筆頭に掲げておくべき、近代文学の重要な作品です。彼らは、小説なんて、これっぽっちも書こうとは思っていなかったはずです。成功しようとも、思っていなかった。後世の文学全集の巻頭を飾るべき作品を書こうなんて、これぽっちも思っていなかった。こうした事情は「源氏物語」にしても然りでしょう。結局、どういう書き物が文学として成立可能か、という大問題は、多くの場合、書いた当人には、あずかり知らないことなのです。今日でさえ書いたものではなく、話したことが、第三者によって伝えられたり、また筆記されたりすることはよくあることですが、これらが文学にはなり得ないとは、断言できません。かように何が文学かとは、歴史的なことなのです。われわれ主体者は、いずれにせよ書き、話をしながら、生活しているという、ただそれだけのことですよ。書いた物が哲学論文か、小説かなどという判断もまた最終的には本人にはできないような気がしますね。もちろん文章を書いた本人様が、自分の書いた文章こそ小説なりや、文学なりや、哲学なりやと、うぬぼれるのは勝手です。私は知ったこっちゃない。

ある人に言わせれば私たちは「草野球」だそうですが、かもめさんは、ふみの会の会員であるにもかかわらず、その草野球にも入らず、グランドの外で酒を飲みながらあらぬ方向へ野次っている存在にしか見えません。

私は「ふみの会」を「草野球」だとは思いませんよ。そもそも文学に「草」も「プロ」もないですよ。また、職業作家(売文稼業)などから見れば同人誌がごとき、草野球とみなされても、よくある話で、いちいち反発するほうがどうかしているのです。文学なんぞ、誰も理解してくれてはいませんよ。少数の人間が、たまたま面白がって読んでくれるという程度ですよ。理解よりは誤解のほうが、圧倒的に蔓延しているのです。これは悲観して言っているのではない。大昔から、事の真相や正論というものは、孤立していたのです。一般大衆の誰からも理解されるなんて現象は、決してほめられたことではないのです。草野球でいいじゃないですか。野球さえできるなら。

クレーマーでも社会評論家でもなく、俗流哲学者でもなく落書き魔でもなく、ブンガクするかもめさんが見たい。

ま、あなたが私に対して言いたいことは、せめて「ふみの会ニュース」に文章を投稿したらどうだ、というあたりだとは思っています。そうした善意からの助言については感謝にたえない。だが、どうも自分の気持ちを見透かしてみるに、ますます雑誌や活字媒体というものと自分の文章との距離が開いてきてしまったようです。いつかも言いましたが、活字や雑誌というものが胡散臭くてならないのです。出版物の言辞言説が、ネットなどに比べて、まどろっこしく感じられてならない。そうした態度は、ブンガクをやっていることにならないと、人様から非難されても反論する気持ちにもなれません。知人友人から、私が、そのようにしか見ていただけないなら、そりゃしょうがない。見てくれたままでよいですよ。私の方からは、どう見てほしいなどと望むべきもないことだ。どのように見られようと評価されようと、勝手です。私について、なんと言われようと、ちょっとやそっとじゃ、これまでの私のモードは変わらないと思いますね。自分で良いと思っているのだから詮方なし。これは確信です。なんと言われようと、あたしゃワンカップ片手に、目の黒いうちは、こんな調子でまずはネットに書いていきますよ。それぐらいの自由はある。飯が食えて、屋根の下に眠れ、あとはパソコン一台あればよい。他には何ひとつ、ほしくはないですね。たまに自分の内心に向かって、法螺をふいたりする。自分は、幸せ者だ。それが証拠に、四六時中、ブンガクをやっていると。


●やく 平原愛弓(東京都 小1年)

おかあさん
べつにげきを
しているわけじゃないんだから
あゆみがちらかしやくとか
おかあさんがかたづけやくだねとか
いわなくてもいいじゃん


「子どもの詩」(1995年 花神社)より

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

▼新訳『カラマーゾフの兄弟』より

2020年11月14日 | ■文芸的なあまりに文芸的な弁証法

<以下、むかし書いた雑文につき恐縮だが・・・2008.09.08 記>

 

こんにちは。芸術とイデオロギーの摺り合わせに関する論理的倫理的問題にいたれば申し分なし。実に私好みの話題で興味津々という感じだったのです。さてあなた次のように書きました。

座談も小説も超一流に面白いという人はあまりいず、私の知る限りでは中里喜昭ぐらいです。芸術は本人のイデオロギー的な限界を超えるのです。

その際あなたのおっしゃる「芸術」とは何か、という問題です。芸術の概念と申してもよい。結局、芸術というものは、人それぞれに都合よく、勝手に解釈しているようにさえ、感じられる今日この頃です。思うに、芸術という言葉(概念)は近代にいたって急造された概念であることは間違いないでしょうね。概念とは観念的な世界に生息しているだけの、他愛ないものです。よって、「芸術」という概念もまた、案外に近代以降にとってつけられたような他愛ないイデオロギーの一種だと、いえないこともないのではないでしょうか。私はそんな風に思うのです。われわれが、芸術と呼ぶ、その実態の多くは、実は人びとの暮らし向きや生活そのものかも知れません。空理空論に陥りやすい願いや祈りや、はたまたよきにせよ悪しきにせよ周囲の現実を、あれこれと解釈しつつ、それらの狭間を縫うように生きている人生そのもだとさえ言えるでしょう。芸術は、決して良いものではない。少なくても良いものばかりではない。多分に悪も含まれているのです。善行ばかりではない。さらに「私」には、理解不能なものもあるでしょう。この世には「私」には、決して見えないもの、聞こえないもの、近づけないものもあるはずです。イデオロギーなんてもんは、豆腐の角に頭をぶつけて、出来たコブのようなものですよ。時間がたてばひっこんでしまうものですよ。そんなもんに、私の言動が左右されているなんてのは、これぽっちも誉められたことではないでしょう。さて芸術とは、何でしょう。たとえば私は、こんなふうに比較する。小林多喜二の小説と、多喜二でなくても、かまいませんが、たとえば、畳や納豆や味噌汁やご飯という古来から伝わってきて、わたしたちの生命を楽しませてくれている。それらの卑近な現実物のほうが、よほど芸術作品であるらしいと、思えてきてしかたがないのです。多喜二の小説など、あってもなくてもよい。読んでも読まなくても、思想に何のかかわりがある。そんな抽象物より、よほど、あったかいご飯の上に納豆を載せて食える食える、実感的幸福を断言するほうが、よほど私にとっては作品化された、わたしの言動であり、それをもって私の思想といわずに、なにがどうした・・・と。

ゲイジュツというのは日常の食品ではなく、栄養的には不必要な余計な嗜好品です。いわば、日常を離脱させてくれる酒・麻薬の類です。

ですから、芸術という概念が、日常を超越したものであると理解されているかぎり、イデオロギーの一種に過ぎないものだと、申しているのです。麻薬や酒には、それなりの魅力はあるでしょうが、それにしても納豆や味噌汁の日常的な、うまさにかなうわけがないのです。酒や麻薬は、隠れて嗜好するぐらいが関の山でしょう。ほったらものの、どこが誉められますか。あってもなくてもよいでしょう。われわれに、なくてはならないのは、やはりご飯に納豆ではありませんか。ご飯や納豆の美を感知する、そうした芸術観を養いたまえと主張しているのです。知識人の文学なんて、屁のごとし。中里喜昭氏にしても同人誌「葦牙」に集う諸君しても、あいかわらず二流どころに甘んじているのは、思想の問題として「知識人」論やイデオロギーにたぶらかされているからだと思いますね。

資本主義社会の中では商品化をまぬがれず、意図した方向にはいけないということです。時代を超越した超イデオロギーというものは存在しない、というのが歴史の教訓のようですよ。

わたしは「芸」の商品化なんぞは、まったくもって、意図したことはありませんよ・・・と断言してしまえばウソになるかも知れません。言えることは、わたしにとって良き物、好きな物が、必ずしも商品化とは反対の存在物であるという事実を、しっかと見極めているという、少々の覚悟はあるということですね。「貧すれば鈍する」というのは、よくある定型の精神の様ですが、これは衆愚、愚民の有様ですよ。どんな時代でもそうだったのです。死を覚悟できていないからです。貧することにおびえているのです。貧した途端に、精神も捨て去って、わずかな俸給を求めて、奴隷になる。奴隷根性とは、ここから発するのです。いわば商品化とは奴隷根性の発露のことではないですか。 書きさえすれば、なにか仕事を成し遂げたような気がする。あまつさえ事前からの論戦に勝ったような気がする御仁もいるほどです。作文以上に出ない文章も、まかり間違って本に仕立て上げでもされれば、作家の一員になり上がったかのような気がするだけだ。誉められると、たちまち天狗になって、自分の書いたものこそ「大文学」に違いないという傲慢な錯角に頭がやられる。そんな屁でもないことを繰り返して、死んでいくというのが二流文学の総現象なりけりや。 大文学は、もっと謙虚ですよ。当の作家が死んでからでなくては、それらの作品が文学かどうかさえ、わかったものではござりません。文学作品として充足しているかどうかは、常に後世の歴史と後代の人々が決めるのです。多くの文章は、そこまで残されてもいないでしょう。であるとすれば、現在、実存しているわれわれに、当否についての、何が言えるのでしょう。わたしは、こうした説のほうが、よほど文学だと思うばかりにござ候や。そして改めて文学は偉大だと思うのでござります。自分はちっぽけでいいと納得できるのです。さらに、わたしの幸不幸を埋め尽くして形象してくれている言語たる「日本語」はすばらしいと思うのでござります。

自分の持っているイデオロギーなんていうものは厳密には自分で自覚できないと思います。自分の思うままに書くしかないですね

心底そのように思います。ところで、わたしは「カラマーゾフの兄弟」をまた、読み始めたところです。昨年、久しぶりに翻訳が新しくなって刊行されたとのこと。それがなんと昨年一年で40万部も売れたとのことです。ドストエフスキーの小説がですよ。それも一般に難解であると周知されている大長編の「カラマーゾフの兄弟」がですよ。訳者は新進気鋭のロシア文学者である亀山郁夫という方。彼は1949年生まれです。わたしより一歳年下です。まだ読み始めたばかりですが、売れた理由が分かります。とてもこなれた日本語になっているのです。文意が、非常に分かりやすく、なによりも読みやすいのです。カラマーゾフの読書は三度目です。この調子なら最後まで読み通すことができそうです。数年前は、死ぬまでには、もう一度だけでも読みたいと心に決めてはいたのですが、本当に読めるかどうかは、われながら半信半疑だったのです。でも、亀山氏のおかげで、こうして、またドストエフスキーにまみれることが出来ました。わたしがごときが、こうした幸運に恵まれるのもまた「日本語」の広さ大きさだと思うのです。「読書の喜び」などという言葉では形容できない、もっと違うものを感じるのです。そこにもまた文学の奥義というものがあるに違いありません。それは、ドストエフスキーを読み解く、言語の伝統が私にまで伝わっていて、それが文学的幸いを私にもたらしてくれているという実感です。万葉集とドストエフスキーは見事に、私の中で繋がっているのです。 

以下「カラマーゾフの兄弟」亀山郁夫訳より

民衆には無言の、忍耐づよい悲しみがある。その悲しみは、心の中に入り込んだままひっそりと口をつぐんでしまう。しかし他方に、外に破れでてくる悲しみもある。その悲しみはひとたび涙となってほとばしでると、その時から「泣きくどき」に変わるのだ。これは、ことに女性に多く見られる。だが、その悲しみは、無言の悲しみより楽なわけではない。「泣きくどき」で癒されるには、まさに、さらなる苦しみを受け、胸が張り裂けることによるほかにはない。このような悲しみは、もはや慰めを望まず、癒されないという思いを糧にしている。「泣きくどき」はひとえに、おのれの傷をたえず刺激したいという欲求なのである。
「町人階級のお方ですか?」とさぐるような目で女の顔を見つめながらゾシマ長老がたずねた。
「町の者でございます。長老さま。町の者でございます。出は農民ですが、町の者でございます。町に暮らしております。長老さま。あなたにお目にかかるためにまいりました。あなたのお噂をうかがったのでございます。長老さま。小さかった息子の葬式を済ませ、巡礼にまいったのでございます。三つの修道院を回り、こう指図されました。ナスターシャよ、こちらにお寄りなさい、と。つまり、こちらの長老さま。あなたのところへ行きなさいと。昨晩はこちらの宿泊所にお世話になり、今日、こうしてまいりました」
「どうして泣いていらっしゃるのですか?」
「長老さま、死んだあの子がかわいそうでならないのです。三つでした。あと三ヶ月で三つになるところでした。あの子を思うとつらいのです。長老さま。あの子のことが。たった一人、生き残った子です。わたしとニキータとのあいだには子どもが四人おりましたが、みな立って歩けるまでには育ちませんでした。長老さま。育たなかったのでございます。最初の三人の葬式を済ませたとき、わたしはそれほどかわいそうだとは思わなかったのに、最後の子を葬ってからは、どうしても忘れることができないのです。まるであの子が目の前に立っているみたいで、消えていこうとしないのです。わたしの心はもう、すっかりひからびてしまいました。あの子の肌着は、シャツや、長靴を見ていると、ついつい泣けてくるのです。あの子の形見をひとつひとつ並べ、眺めてはまた泣き暮れるありさまです。夫のニキータにもいいました。ねえあんた、わたしを巡礼にだしとくれ、と。夫は辻馬車の御者をしておりますから、長老さま、けっして貧乏じゃありません。辻馬車は自営でやっておりますし、馬も馬車もぜんぶ自前です。でも、今となっては財産が何だというのでしょう。わたしがいなければ夫のニキータは酒を飲みだします。以前もそうでしたから、きっと飲むにちがいありません。わたしが目を離せば、あの人はすぐにでもがたがくるでしょう。でもあの人のことなんて、もうどうでもいいのです。家出して巡礼に出てから、もう三月目になるのです。わたしは忘れました。何もかも忘れてしまい、思い出したくもありません。それに今さら、あの人と暮らしてどうなるというのでしょう。あの人とは終わりました。何もかも終わりにしたいのです。今となっては、自分の家も財産も二度と見たくもありません、なにも見る気になれないのです!」
「ですから母さんや、わかってください。あなたのお子さんは、今ごろはおそらく神の前に立って、喜び、楽しみ、あなたのことを神に祈ってくれているということを。あなたは泣くがいい。でもそれは喜びなのですよ。」
女は、片方の頬に手をあて目を伏せたまま、長老の話を聞いていた。それから深くため息をついて言った。
「せめて一度でいいから、あの子を見たいのです。たった一度でいいから、もう一度あの子に会いたいのです。あの子のそばに近づきもしません。何かを言ったりもしません。物陰に身をひそめてでもいい。せめて一分でも、あの子が中庭で遊んでいる姿を見たい、声が聞きたい。あの子は、わたしのそばに寄ってきては、かわいい声でこう叫んだのです。お母ちゃんは、どこ?と。一度でいいから、あの子が子ども部屋をちっちゃな足でこつこつと歩きまわる音に、そっと耳をそばだてていたいのです。たった一度でいい。思い出すんです。あの子はしょっちゅう、わたしのところに駆け寄ってきて、大声で叫んだり笑ったりしたことを。ああ、せめて一度だけでも、あの子の足音が聞けたら、あの子の足音だとわかったら!でも長老さま、あの子はいません、いないんです。けっしてあの子の声は聞けないのです。ほら、これがあの子の帯です。でもあの子はもういないのです。わたしは、もう二度とあの子に会うことも、あの子の声を聞くこともできないのです!」
女は懐からモールのふち飾りを施した息子の小さな帯を抜き取ったが、それを一目見るなり、指で目をおおい、身を震わせて号泣しはじめた。指のあいだからは、涙が小川のようにあふれ出てきた。
「それはですね」と長老が言った。「慰めを得たいなどと思ってはいけません。慰めを得てはならないのです。慰めを得ようとせずに泣きなさい。ただし泣くときは、そのたびごとにたえず思い出すんです。おなたのお子さんは、神の天使の一人だということを。お子さんはあなたのほうを見て姿をみとめ、あなたの涙を喜び、それを神さまに指で教えているのです。これからまだしばらく、母としてのあなたの大きな嘆きは消えないでしょうが、最後にはしずかな歓びに変わり、苦い涙はしずかな感動と罪から心を救う浄化の涙となるでしょう。今からあなたのお子さんの安息をお祈りしてあげましょう。なんという名前でしたか」
「アレクセイといいます。長老さま」
「かわいらしいお名前ですね。神の人アレクセイにあやかったのですか?」
「はい、神の人アレクセイにあやかりました。長老さま」
「なんて賢い子だろう。お祈りをしてあげましょう。母さんや。お祈りでは、あなたのご主人の健康も祈ってさしあげましょう。ただ、ご主人をひとりぽっちにしておくのは、罪ですよ。ご主人のもとに帰り、彼を大事にしてあげなさい。あなたが父親を捨ててしまったことを、お子さんがあの世から見たら、あなたがたのことを思って泣き出すでしょう。どうしてお子さんがあの世の幸せを壊そうとなさるんです。お子さんは目には見えない姿で、あなたたちのそばにいるのです。あなたがたご両親が一緒でないことを知ったら、お子さんは誰のところに戻ればよいのですか。母さんや、ご主人のもとにお帰りなさい。今日にも帰っておあげなさい」
「帰ります。長老さま。あなたのお言葉にしたがって帰ります。わたしのニキータ、あんたはわたしを待っているんだね」

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする