赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼優勝おめでとう 作新学院

2016年08月21日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

 

2016.08.21

 

これが喜ばれずにおられるか。

何を隠そう、わたすも栃木県出身だ。

 

 

作新の風 吹きおこる

れらが愛の学院に

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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▼カフェにて

2016年08月19日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

 

2016.08.19 横浜市

 

 

 

 

 

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▼良書紹介 「自叙伝」 河上肇

2016年08月17日 | ■軍事を知らずに平和を語る資格なし

年末に地元の図書館から借りていた本と音楽CDを返却してきた。本が4冊、CDは3枚である。いつものことだが、一度に何冊借りてきても、一冊読めるかどうかで他の本は、ざっと頁をひっくり返しただけで、そのまま返してしまう場合が多いのである。わかっていながらいつも欲張って借りてきてしまう。今回も、まともに読んだのは「富永太郎詩集」(思潮社)の一冊だけだった。富永は24歳で夭折した詩人だから生前に残された作品もほんのわずかである。薄い詩集がそのまま彼の全集というべきもので日記や書簡なども残されたものは、ほとんどこの中に所収されているらしい。

返却日が近づいて、あわてて読み始めた一冊があった。河上肇の「自叙伝(上)」(岩波書店)である。これは面白そうで続けて読もうと思い期間延長を申し出て再度借りなおしてきた。河上肇は明治末期から昭和の始めにかけて活躍したマルクス主義経済学者だったが、ご多分にもれず治安維持法にひっかかり投獄された。獄中5年。いわゆる転向して出獄してきたときは齢60近かった。

転向とは権力に屈服したことであり、自他共に褒められた話ではない。以後、河上は故郷に帰り、戦争が終わるまでもっぱら当の自伝執筆に没頭していた。ふたたび共産党の活動に戻りたいと折々もらしていたこともあったらしいが、戦争が終わってまもなく亡くなった。河上肇の場合、転向する経緯がとても独特だった。思想を捨てろと迫る官憲との対決もムキになって抵抗する若い革命家の面影はない。たとえば小林多喜二などは最後の晩に「日本共産党万歳」と何度も叫んでいたというし宮本顕治の場合は何を聞かれても黙秘を通した。

河上肇の場合は、いささか様子が違っていたようだ。どんな場面にいたっても無益な意地を通したり「革命的」大言壮語をわめくような気配はまったくない。のらりくらりと言い逃れて官憲を煙にまき妥協するところは妥協して結局、牢から出てきてしまったように思われる。白か黒かと即断できないまま、ついつい年月を重ねてしまうというのも人生の実際だろう。紆余曲折に満ちた心理的経緯こそ自叙伝の核心である。河上は自分について、謙遜しぼやくことおびただしい。これが隠し味となって彼の思想と文章に深みをあたえ、ひょうひょうとして老成を遂げた人柄に隠された学問への情熱と、昔ながらの人情こそが偲ばれる。



・中学校でも高等学校でも大学でも、私は嘗て首席をしめたことのない人間である

・私はもちろん駿馬というには縁遠い人間である

・鈍根である私の身にとって、いかにも相応しいものに思われる

・なるほど私はむらの多い人間であろう

等々とうとう、人間的弱さを自覚した、その正直さから見えてくる彼の魅力は尽きることはない。

 

<2007.01.18 記>

 

 

 

 

 

 

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▼「反科学論」 柴谷篤弘

2016年08月16日 | ■学校的なあまりに学校的な弁証法

 

『反科学論』を著した柴谷篤弘氏は健在だろうか。1920年生まれだから90歳に近い。柴谷氏は生物学者だが、現代に生物学ほど変容を遂げた学問もないだろう。限りなく細分化されてきた一方、化学や物理学と隣接し重なってきた。私は門外漢だから、いまやなにが生物学なのかさっぱりわからない。

柴谷氏の一冊の著書を読んだ程度で生物学のなんたるかも分かったと自慢するつもりは毛頭ないのである。 その一冊には「反科学論」という奇妙な題名がつけられていた。出版されたのは70年代のことで、科学者にあるまじき自己否定にもつながる、そのタイトルが物議を呼んだ。

当時、柴谷氏は東大の教官だった。周知のように大学紛争のまっただなかである。柴谷氏は、彼ら学生の言い分と付き合っているうちに、科学に対して根源的な疑問を抱いた。柴谷氏に、そうした原理的な問いかけをもたらしたのは、全共闘の諸君だったと、柴谷氏みずから同書に記している。全共闘とは、左翼主流派すなわち共産党とは袂をわかつ急進派の集まりだった。

わたしは当時から下町で赤旗配りをやっていた若き党員だったから全共闘をはじめ各種セクトの言うことや彼らの主張には、否定的だったどころではない。連日、赤旗新聞では、彼らの横暴を糾弾していた。まさに「反社会的分子」であり犯罪者に同然の暴力的なチンピラとみなして侮蔑し敵視していた。

その彼らの言っていることの一つに、「大学解体」というものがあった。大学は特権階級の温床となっており、その存在からして人民に敵対している権力装置のひとつであると言っていた。 こうした急進的かつ原理的な理屈に、共産党は反感をいだいき、彼らの存在と主張を封殺するために「学問の砦」たる「大学」を守るために、彼らと似たような「部隊」をつくった。その現場指揮官の一人が数年前から話題を呼んでいる宮崎学氏である。

話を柴谷氏に戻そう。私が彼の「反科学論」に触れたのは、だいぶ後年になってからである。共産党もやめていた。今になって思うに、全共闘の「大学解体」という主張は、間違っていないと思う。だがこれを実行に移すことは社会をめちゃめちゃにすることでもある。 大学解体どころではなく、まずは社会が解体されなければならない。

方法論上の理屈としては正しくても代替案が、なければ人々のコンセンサスは得られまい。彼らは決して代替案は、出せなかった。ここに人々が生きている事実と観念に直結している重大な問題がある。社会的に生きるということは、いやおうなく政治を行っている。人付き合いは政治の始まりだろう。また社会には、多かれ少なかれ歴史というものがある。それは闇雲に否定できないものなのである。よって彼らの主張も、代替案がなければ、もとより政策的には一歩たりとも、その実現は不可能だったのである。

結局全共闘運動は内ゲバ闘争に埋没し体制内社会からは完全に孤立し、そして収束していった。だが、理論的には彼らの主張はある真理を示していた。彼らの言い分に、当時から柴谷氏は思想的に共感していたらしい。だが、それは同時に自らの生業ともいえる「科学」を自己否定しなければならない、つらい作業だった。柴谷氏は、科学の社会的な原理を疑ってみたのである。自然科学を哲学の遡上にのせたといっても過言ではない。それが「反科学論」である。科学書というよりは思想書である。柴谷氏は主張する。

学問は科学に税金をつぎ込むべきだという話は、学問や科学の進歩、発展が絶対的に善であるという特定のイデオロギーの下でしか成立しない幻想である。

また次のようにも。

科学・技術による人類福祉の増大というのは、あからさまな、まやかしである。それは科学・技術の系統的な創出の時期から、その発展の頂上をきわめるまで、つねに地球上の一部の人々による他の人々の支配によって成立し、またそのために奉仕するようになっている。そして実は民主主義といった、今日一応最高の価値として考えられている概念すらが、このような支配機構のゆえになんとか存在できるものというように見えてくるのである。

科学・技術と民主主義によってより多くの自由を享受する人々のある反面、相対的に以前より自由を失っている人々がたえず存在し、しかもこのような不平等を消失させたうえで、なおかつ科学・技術文明を維持していくことができるかどうかは、まだ人類にとっては未知の課題なのである。とすれば、科学というものは、はなはだ信用のおけない危険な存在ということになる。

1969年、機動隊と学生による「島原の乱」もどきの東大時計台の攻防戦の直後のことである。この攻防戦を、すぐそばで直視していなければならなかった柴谷氏にある啓示が訪れた。

わたしは粛然として机に向かい、それまでの私の学問に対する態度が何であったのかを考えた。それを紙に書き記した。私の信じた科学とはなんであったのか。そうして、とうとう科学は悪であると認めざるを得ないような気持ちになった。そこで、そのように紙に書いた。激情がわたしを貫き、涙があふれた。わたしが、もしいささかでも変わり得たとするば、そのときに変わったのである。

・・・・齢50近く、ようやくにして眼からおおいが剥がれ落ち、急に今まで分からなかったことがわかるようになった。 そのときの体験は、ある種の宗教的体験に近いのかもしれない。わたしは科学にこだわっていたのであった。なにも、その瞬間から、わたしは科学をやめたわけではない。依然として科学は好きだった。しかし、机の前でひとりで泣いていたそのときから、必要とあらば、科学をやめてもいいという覚悟はできたと思っている。

 


 

<2007.01.19 記>

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▼少年から言葉を奪わん 弁護士某の運動

2016年08月15日 | ■風評加害の露店犯

 

<2005.07.15 記>

 

FCは、介護者の「こっくりさん」であり、本人の表現法ではない。まして、読み書き能力を開発するメッソトではありえない。

滝本太郎弁護士には何度も言ってきたことだけんど決めつけなんだよね。あなたの場合もR少年と同じ様な障害をお持ちの方だというから、実際にどれぐらいFCについて知っているのか、または経験しているのか。その結果として「こっくり」さんだという結論に至ったのか。それを聞きたかったのですがね。ところがあなたの話はなぁんだということになる。素人のわての認識とほとんど大差はない。

TVを見ただけなんでしょ。それならわても見たよ。本人たちは確かに子どもが言葉を出していると確信している。わてもそう思いましたよ。あの番組から「こっくり」さんだというのは、わてなどより、よほど裏付けがあるのかと思ってね。お聞きしたまでだす。ところで、ひとつお聞きしたい。R少年の言葉を全面的に否定するなら、R少年の今後の読み書きを中心とする教育ということでは、いかように考えますか。

どのようなリハビリその他に励めば、誰からも認められるようなコミニュケーション手段。または言語活動というものが可能となるでしょう。それを示さずしてて今少年が使っている手法を否定するのは、あまりにむごいことだと思うわけよ。人でなしだよね。代替法が想定されるから、あなたも全面否定しているのじゃないの。それとも、R少年のような場合(?)は言葉を使わないほうがよいとでも言うのかな。それをいっちゃおしめえよ。だからね。わてもT弁護士などに言ってきたのよ。先生は「少年から言葉を奪う」運動をしているのだよとね。いかがぞな。

少年から言葉を奪う運動ではないです。残念だけれど、自信を持って。その母から、「少年の言葉と思い他に対しては発言する習慣を奪う」ということでの問題は感じていますが。大切なことなので、偶に、かもめさん相手だが、レスしちゃいました。たまに相手をしただけのことで、引き続いて、アラシさんに相手をする義理もなし

どもっ。大切なことなので、偶に、かもめさん相手だが、レスしちゃいました。
>その母から、「少年の言葉と思い他に対しては発言する習慣を奪う」ということでの問題は感じていますが。

あなたもう少しまともな日本語使えないのかね。何を言いたいのかね。何を言っているのかね。オラ、さっぱり意味がつかめねど。オラも相当のテイノウ痔だからな。あなたの責任ばかりではないのかもしれないが、少しは共通語のなんたるかを分かって書いて欲しいものだ。ようするに何が言いたいんだべか。なんとなく重要な事に触れているような気もすっと。もう一度、かみ砕いて説明してちょうだいね、弁護士さん。そんな文章しか書けなくて、滝本はん、仕事になってんのけ。あきれっと。念を押すが、再度レスちょうだいね。弁護士先生。

子供って社会の中で育つ訳でしょ?自分の子供だけ可愛がったり特別にしても何も解決とかになんないと思うんだよね。

実は、君の上の文章がずっと気になっていたんだわ。オラ、異論があるだよ。「子どもって社会の中で育つ」・・・そりゃそうだ。「育つ」という語彙にそもそも「社会化」されていくという本意が含まれているわけだしな。だがよ。オラが言いたいのは、この場合の社会というものをどう保護者なり教師なりが捉えておくかだわ。ここが大事だでや。よく話を聞いてみるとよ。一人一人大きく違っているようだんべや。自分が抱いている社会のイメージを一般化することも、他人に押しつけることなどなおさらできないものさ。

社会とはこういうものであるなどと、決めつけることはできないものだんべな。ねっ。オラげの息子は不登校だったんべな。毎日毎日家に引っ込んでいたと言っても、また違うんだなや。これが兄弟つーてもよ。性格が違うつーう面白れこともある。上の息子は出歩くのが好き。下の息子はそれこそ一人でいるなら何週間でも、なんちゃってなや。いずれにしても、どこかに書いたが、ガッコいかねんならば、オラがセンセ替わりになってやっか?と覚悟を決めたんべば。ほしたら、その家庭内勉強が面白れこと、面白れこと。ムキになる必要はない。幸いにして大きな障害がなかったからだとも言えるけど。楽しい会話ができればよ。おめ、読み書きは別にしてもよ。言語教育なんつーのは、この楽しい会話から始まってっぺな。これも出来なくて、なにが読み書きベンキョになるってんだんべなや。

話が面白くなると、子どももこっちの指図をある程度は受け入れてくれるように納豆。だからよ。オラ毎日、新聞を読んでやったり、本を読んでやったりしたもんだべさ。これがえかったなや。最高の気分だったなや。なにが、どうえがったのけ、なんて混ぜっかえされると、答えに詰まるんだがよ。受験の勉強ではないのだしな。役立たずと言われれば、その通りかも知れねけんどよ。強いていえば、オラと息子との信頼つーうところからよ。さらに確信を持てるのは、これから互いに元気なうちは、なんのかんの言ってもよ。一緒に学びあう、共に楽しく支え合う、そうした共生感覚じゃよ。それも依存じゃないんだよ。

それぞれ実に自立心旺盛だんべな。互いの先行きに指図はしない。自分の先行きは自分の眼だけで見る。そこに家族とはいえ他人のまなざしを考慮しては大きな間違いを犯す。そういうことだんべな。親とはいっても金もない。出きることも出来ないこともある。だからと言って何か文句たれることはなかんべよ。子どもが喜ぶなら、財産なげうっても子どものためにやってやったらよかんべ。見上げた親心。誰が文句言えるか。オラ、根っからビンボだったがよ。この思いは金持ちにひけはとらないぜ。有り金すべて子どもにつぎ込んでやれるものなら、それはそれで立派な親心と言えるだろう。

ただよ。親だったて飯だけは食わなくてはならんばい。子どもが腹一杯だと言っているのに、もっと食えとか言う親がいるらしいが、こういうヤツだなバカ親つーうのはよ。有り金叩いて有名学校入れたのだから、ベンキョせいベンキョせいと無闇に背中押したりな。ま、程度問題だんべけどよ。中には、有名ガッコいれたのに、オラげの息子がなんで出来が悪いのかとガッコに文句つけるバカ親もいる。どうしょうもないわな。こういう精神におけるビンボ人はよ。長くなったのでやめっぺ。オラが言いたいのはよ。意識するにせよしないにせよ言葉というならよ。いわば言語教育というならよ。90%ぐらいは親が伝えているんとちゃうやろか?どんなご立派なガッコにへぇったからって、そうは変わるものでないよ。

確かに新しい知識、資格などが欲しければガッコいくのが一番だんべな。それを否定はしなかんべ。だけんどよ。おおもとの根っこのところの「教育」つーうならよ。意外なことに親なり保護者なりがやってしまっている、つーうことだんべ。それが分かるとよ。不登校なんて屁でもなくなるな。面白れぞ。親が教師がわりしてやるとよ。何やったってよかんべ。英語が面倒ならば中国語、イタリアンなんちゅーてよ。散歩するのも野外学習。なんとでもなっぺな。子どもと料理作ったりしたのも今や楽しい思いで話。こうしてよ。育っていくのとちゃうけ。これがオラが思う「社会化」ちゅーうことだんべな

あの少年。こんな形での意思表出の可能性を、そこまで行かなくても少しづつの意思表示の可能性を、あのドーマン法と、FCが奪っているのではないか、と心配です。

単なる「心配」だけで団扇配ったり国会質問させたのか。半年前から言っているだろう。見てこい。会ってこいと。それをやるのが滝本さんに与えられた役目だったと思うよ。会ってきもしない、よく知りもしないうちに糾弾本出版。あきらかに少年と家族をいじめるための運動だった。いまさら「心配です」もないものだ。この先まだまだ家族に圧力をかけたいのか。それほどいじめたいのか。

ああ、いろんな車椅子ができてきているのだから、まずそれを習得することが本人の喜びになるはずであり、なんで直立歩行のあのキツイ訓練を延々とさせるのか。

車椅子を使おうと自力で歩けるための訓練に時間をつぶそうと、その人の自由、勝手の範囲ではないのですか。あなたに指図できるなんの権利資格があるのですか。あきれるほどの人権意識欠乏症。それでよく仕事が続けられる。

私は何度も言うようにドーマンについてもFCについてもよく知りません。R少年のTV放送を見て、その番組を批判するために出版された「異議あり」(同時代社)という本を読んだ程度です。でもわかることはあるのです。それは、他人が人の暮らしぶり話しぶりなどを偏見からくる予断のもとに全面的に否定をしてはいけないということです。自分個人としては拒否することはできる。だが社会的に抹殺し亡き者にしてしまう権利は誰にもありません。もしFCによってなんらかの被害を被ったというなら、それは個々の問題として処理すればよいのであって、その人が個別的に訴えるなり賠償を勝ち取るなりする以外にはないと思っています。

例えば日本の義務教育学校はほとんどダメになったという話は、あなたもよく聞くでしょう。だからといって学校を全面否定できますか。学校をつぶしてしまえという話につなげてしまうのは、あまりと言えばあまりな話。過激どころの話ではないでしょう。学校が嫌いだから、嫌いな者が集まり徒党を組んでつぶしてしまえというような運動に加わる正当性ってあり得ますか。義務学校とは言っても個人的になら拒否することはできる。これを不登校と言うのですよね。最近では最初から子どもを学校には行かせないで、親が責任持って教育的メニューを考え出して、自分が教師替わりになって子どもと日がな一日一緒に過ごすという方も増えてきているようですよ。こうした学びの方法をホームスクーリングと言ってアメリカなどでは就学児童の約1割が選択していると聞いています。

さてあなたは、以前お子さんのためにドーマン法を実践されていたことがあるとお聞きしましたがFCでどういう被害をうけたのですか。被害の実態があるなら堂々と相手先を訴えて賠償金でも勝ち取るというのが一市民としての真っ当な行動というものだと思いますよ。または身近に、そのような方がいる場合は支援していくということもある。繰り返しますが、あなたに被害があったとしても、相手はリハビリ方法の一つというなら、やはり全面的否定に及ぶ理屈はそれだけでは無理というもの。R少年の場合ばかりでなく、成功事例があるわけですものね。もちろん、私も一見してR少年がTVで実演していた文字盤(FC)は見たことがないだけに独特な手法と道具だとは思いましたよ。独特であるからこそ、人からなかなか理解されないということがあるのでしょうね。聴覚が不自由等の理由から発語できない人たちが手話を交わして会話しますが、この場合の手話にとても似ているとも思いました。

手話というものを見たことも聞いたこともない人は、ああして言葉を交わしているとはとても理解できないのではないでしょうか。声を出してしゃべるということを空気のように機能させて無自覚に暮らしている者は、発声できない人がいる事実さえ教えてもらわなければ分からないものです。見たことも教えてもらったこともなければ手話を見ただけでは、あれで会話しているとは思いもつかないのではないでしょうか。このように、上手に発声できな人たちがいる事実を深く理解していなければ、彼らに対する偏見は蔓延してしまいます。中には、しゃべれないということを持って即座に言葉がない、または言語能力がないとまで断定してしまう。これは外見からしか人を見ることができないからでしょう。無知からくる差別が起こります。この場合など、こうした人の存在をよく知らないままでいる「健常」な人たちのほうこそ罪があるように思いますよ。

> FCは、障害のある人たちが用いている単独のコミュニケーション
> 手段とはまったく別のものです。このことは、R君と同じように
> ドーマン法の訓練を通して、FCを取り入れた友人本人が
> いっていますので、私的には明らかに検証された事実です。
> どういうものかというと、本人に触れただけで言いたいことが
> 全部母親に伝わるのです。だから、文字盤を母親が動かしながら
> R君は全く文字盤を見なくても母親のコントロールで
> 文字がさしていけるのです。

「単独のコミニュケーション手段」とは一人っきりで話せる手段ということなのでしょうが、言葉のもつ性質や原理から言えば、一人きりということで成り立つ部分は少ないように思います。発語する最初の部分からして、単独性はそうそう大切なことではないような気がします。声にしても手にしても道具であると理解しておいて始めて言葉が他人に伝わる形になってくるのではないでしょうか。

どのように豊かな脳が存在していても、手だてがなければ決して言葉は外には出てこないものです。脳波を読みとるだけで明確な文章というものが構築できる可能性があるのかどうかなど、現在の研究がどこまで進んでいるのかは知りませんが、私の実感から申せば言葉とは、むしろ道具に付随して、たゆみ無く連続的に生み出されてくるような気もするのです。私の場合など、パソコンといつも使っている仕様の入力装置(キーボード、モニター等)がなければ、おそらく一頁たりともまともな文章は書けないと思いますよ。筆記道具があるなら、ある程度は可能ですが、もう10年来、文章を書くと言えばパソコンでしたから鉛筆をわたされて、さあ書けと言われてもノートや原稿用紙に向かったまま頭をかかえているに違いありません。筆記道具らしきものが一切ない場合。頭の中だけで人は文章を書けるでしょうか。一行づつなんとか思い描きつつ辻褄をあわせながらも次の文章を書いているうちに前に書いた文章はどんどん忘却していくでしょう。

道具がなければ、よほど特殊な能力のある人でなければ、一頁たりともまともな文章は構築できないと思います。このことをR少年にあてはめていけば、放送で見られたように少年の場合は、まぎれもなく文字盤と母親がセットになって言葉を繰り出す道具となっているのでしょう。もちろん、訓練次第で、どちらも代替は可能でしょうがね。私にしても鉛筆で書くしかなくなれば、難渋することは分かっていても、徐々にまた慣れてくるでしょう。いずれにしても、脳の存在をもってしても道具(喉、声なども道具)がなければ、たいした言葉は生成されていないと思われるのです。

ここで私が言いたいことは、その人が普段つかっている道具を取りあげたり、変えたりしてから、その人の言語能力を計ることはできないということです。出来たとしても能力の一面が結果として出てきているにすぎないということです。私の祖母は無筆の人でしたが、非常におしゃべりが好きで、また上手で興に乗れば、それこそ落語家のように1時間でも話をしてくれました。それも起承転結のけじめのある一編の物語りのようにです。この祖母に筆記試験を与えてみて彼女の言語能力のなにが分かるでしょう。答案は白紙のまま提出されるでしょう。おそらく祖母は、言語能力ゼロと「烙印」を押されて世間に広言されるのが落ちなのです。

> (FCは)普通のコミュニケーション手段でないことを聞いています。

誰だって喉の調子がよければ、発声してしゃべってもみたいでしょう。当たり前ですよね。聴覚が不自由で日本語等の言語体系を音声からは習得出来なかった人、またなんらかの事情により発声ができない人など、聴覚をもってコミニュケーションが出来ないから手話等を使うわけですよね。視覚の不自由な人には点字というものもありますね。先にも言いましたが健常者の場合は二つの感覚機能を上手に使い分けている。だからと言って、これが「普通」のものだと一般化して誰しもに押しつけることはできない話だろうと、私は主張しているのです。しゃべることの困難な人。書くことの困難な人。いろいろいるのです。別の方法をなんとかして編み出したのではありませんか。手話は「普通のコミニュケーション手段」ではないとでもお考えですか。通訳はどうです。点字はどうです。アイヌ語はいかがです。既存の言語体系に正しく従うことよりも、今の気持ちを必要な人に、身振り手振りをふくめてなんとしても伝えることのほうが人にとっては大事なことではないでしょうか。その身振りが見たこともないとか、マナーに反するということで禁止してしまったり、無視したり、一切読みとろうとこちら側の努力を放棄していたのでは、どういうことになるでしょう。コミニュケーションは不全です。いつまでたっても。障害者とのコミニュケーションに困難が出てくるのは、障害者のせいばかりではないのです。彼らの固有なコミニュケーション手法を読みとろうという努力が、われわれに足りない場合が多いような気がしますよ。明瞭に話ができなければ聞く耳持たないというのでは、永遠にコミニュケーションは成立しません。

以前、私の祖母のことを少しお話しました。彼女は無筆であるかわりにおしゃべりが上手で得意だったと。でも、朝から晩まで四六時中くっちゃべって暮らしているわけでは、もちろんありませんでした。気持ちが乗っているとき、それに周囲に気に入った人がほんの二三人いるときに限られていましたね。話が上手だからといって、本格的に講壇に座らせ、さあ時間はたっぷりあるから好きなことをしゃべれなどと言われては、かえって一言もしゃべれずに泣き出してしまうのではないでしょうか。こうした様を見ただけでは、彼女の中には優れた言語能力があるなどと誰が分かるでしょう。そして、こんなことばかり続けていたら、祖母はいっさいしゃべることをやめてしまうかもしれません。まっとうに言葉を使うということと、自分のしゃべくりに格差を感じるからです。しゃべることに罪を感じてしまうのです。ましてや北関東のべぇべぇ言葉。共通語でなければ誰も振りむきもしない、誰も祖母の話など面白く思わない、ということが祖母に伝われば、祖母の言葉は死ぬでしょう。いたって簡単なことです。二度と発信されてこなくなる。

言葉には、こうした側面があるということです。祖母の場合など、聞き手でさえ補佐役なのです。言葉がコミニュケーション手段であればあるほど、言葉は人を選んで、時には寡黙になり、時にはとうとうとあふれるように出てくるのです。ひとえにこちらの発する言葉がよく受け止められ、容認され、喜ばれる予感のもとに、質量豊かなことばが発信されてくるように思われます。いつかTVで見たのですが、30歳になる自閉症の息子さんの様子が写されておりました。視聴者のわれわれには息子さんの言葉の意味がほとんど分からないのです。極端な言い方ですが、ただ、わめいているようにしか聞こえない。でも30年間連れ添って、愛情をかけて育ててきたお父さんとお母さんにだけは、彼の発語の逐一が明瞭に伝わっているようでした。こうしたお父さん、お母さんにこそ私はいろいろな意味から自然と頭が下がるのです。

548 名前:takitaro2000投稿日:02/06/19 19:28
目的は、NHKのまともな検証番組と、流奈君の本の全ての絶版。
見込みはわからんけれど、するしかないっと。
それから、本(「異義あり 奇跡の詩人」)は、「流奈君と一家の叩き」
では決してないです。たぶん、温かい本にできたと思う。


そこまで分かっているなら、もう少しきちんと認識したらどうだ。少年は言葉を発しているんだろ。最初から、そのようにすんなりと納得しておけば、すべて辻褄があってもくるのだ。君の邪推も解決するんじゃないのか。少年から言葉が出ているはずがないというのは、感情論からくる抗弁、詭弁に過ぎないよ。少年の問題ではない、君の言語をつかさどる君自身の脳内問題なのだ。有るものを無いと証明するには、君のように詭弁弁証法が用いられる。有るものを無いと抗弁するには、困難だ。説得力が出てくるはずもない。私も、少年の言語活動を疑問に思う君の気持ちも、多少ならば分からないではない。だが、そうなると現実に写された事象の、なにもかもを否定しなければならなくなる。このたびの運動は、君のような邪推から発せられた感情が組織され運動としてZNHKの番組否定として始まったわけだ。見てごらん、彼らは半年経っても理屈も論理も一歩たりとも進まない。現実と自分の脳内邪推の辻褄があわないからさ。事実としてすでに有るものを無にはできないからさ。こうして君の主張も底が割れてきたじゃないか。

君の結論は強引すぎる。事実として現出してきたものを否定にかかるというのは論理的に言っても容易なことではない。いずれにしても「言葉」というなら、本人の自己申告を容認する以外に科学的検証などという方法はないのだから。こっちが読みとれるかどうかにかかっているようにおもうのさ。言葉は記号だよ。子どもにとっては泣いたり笑ったりすることでさえ、最初の言葉だとは思わないのかい。今回の少年についてオラが最も懸念をしていたのは、例えば国をあげて少年の言葉は少年のものではないと、事実などどうあれ政治的に決着してしまう・・・・ようなことがあれば、それはそうなってしまうのさ。今まで言葉を出していた少年が、二度と言葉を出すことができなくなる、ということはあり得る話なんだぜ。それを政治というんだろう。こうしたセンスに欠けていたのが滝本弁護士だ。想像力が欠如している。自分たちの運動が大きくなってやがて多数派となる夢を見ているだけなのさ。先日国会で某議員から政府NHKに質問が出されたが、あれが運動一派のねらいさ。まかり間違って、国会でなにか決議されたりしたとしたらだよ。少年はどういうことになるのかね。少しはこうしたことを想像してみればよい。

さてかように、事柄を政治的に見るなら、一人の子どもの「言葉」など吹けば飛ぶようなものなのさ。言葉ばかりではない子どもの命がそうであるように、子どもの言葉も社会の庇護のもとにあるとオレは思っている。公社会もそうだが、直接的には親なり保護者なりの力によってかろうじて明日の命が保障されているのが「子ども」というものだ。誰かが守っておかなければ「子ども」は世に出てこないばかりでなく、ときには完全に海の底か社会の底に押し込められてしまうのだ。


 

 

 

 

 

 

 

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▼がんばれ日本 夕焼けタンメン

2016年08月08日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

 

2016.08.08 横浜市

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2016.08.09

 

そうですか。

わたしはとりあえず摂政でも立てて日常の激務から開放されたしと思ったのですが、

貴方様は、それでは天皇の職を全うしたことにはならないとおっしゃるのですね。

そこで早々に天皇職を譲位したいとおっしゃるのですね。

よく分かります。

わたしも日本人ですから。

日本を愛する日本国籍者の一人ですから。

 

 

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▼がんばれ日本 沖縄尖閣

2016年08月07日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

 

2016.08.07 産経新聞

 

 

 

 

 

 

 

 

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▼良書紹介 『小林秀雄』 

2016年08月05日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

前田英樹という人が書いた「小林秀雄」という本を図書館で借りて読んでみた。奥付を見ると、著者は50歳台半ばの方で、現在は、どこかの大学文学部の教授をなされているとあった。すでに自著も何冊も出されているらしく文章は手馴れたものである。小林秀雄論としても、新しい切り口からの鋭い批評もあって、彼が提出してくる理論や説得力をうべなう論理には十分に感心したし、納得もできたのである。本に対して私の方からの異論などは全然思いも浮かばなかった。全体、小林秀雄を絶賛している論評に満ちているのだが、われながら腑に落ちない感触が残った。そこで考えてみたところ、なによりも、前田氏の文章は、理屈っぽくてならない。学者の文章なのである。

小林の批評が取り出して見せる質の差異は、分割される作品=回答に対して潜在的なものであるが、この潜在的な何ものかは、作品をその決定的な回答たらしめている実在する問いの力によって、小林が行う質的分割のなかにはっきりと顕れてくる。このような分割をとおして示される質の差異は、分割される以前には、決して誰も直面することのないもの、経験することのできないものである。

かような文体というものは、最近の流行なのか。前田氏の本ばかりではなく、よく目にするところである。たとえば柄谷行人氏の著書などもその類だ。まるで実験の成功を伝える物理学の論文のようではないか。もちろん荒唐無稽と言っては、叱られるだろうし、無学なわたしでも前段から丹念に読んでくれば、上記の文意も、理解できなくはないのである。私が言いたいのは、理解の有無の問題ではない。単純に分かりやすい文章を書けと言ったところで、読んでしまってからでは文句もつけられまい。

大きなことを言うようだが、私が言いたいのは簡単なことだ。著者の思考と、その現われとしての文章が、そもそも「文学」として成立しているかのどうかという問題である。もちろん、読者の好悪に属する感情的問題かも知れない。いや・・・それでよいのだ。感情を抜きに文学は語れまい。前田氏の感覚と感情が、理屈の後ろに隠れてしまっていることを案じているのである。前田氏の方法は、理屈を掲げ、理論を第一義のものとして、小林秀雄の文学的業績に賛辞を連ねている。

もちろん、評論文など誰がどのように書こうと書くまいと、知ったことではないのだが、そうした書き様は、皮肉なことに、ほかならぬ小林秀雄こそ最も嫌った類の文章だった。理屈や概念は分析的思考からおのずと生まれる。分析は常に人の認識を刺激する方法論上の常套だが、分析によって得た概念をそのまま文章に起こしても、それを持って文学とはいい得ない。理屈と文芸は、似て非なるものである。わたしはそれが言いたいのだ。

<2008.09.08 記>

 

 

 

 

 

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▼ヴォーカル大好き<エリザベート・シュワルツコップ>

2016年08月04日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 

60年代から70年代にかけて活躍していたドイツのソプラノ歌手エリザベート・シュワルツコップの歌声がTVから流れていた。ピアノ伴奏をしているのは、これまた歌曲伴奏者として名をはせたジュラルド・ムーアである。ご両人とも健在だとは思うが、今はもちろん現役を退いて久しい。いつも私の話は回顧的になってしまい読者には申し訳ないが、やはり今日も同じだ。

私が高校を卒業したのが35年前の1967年。卒業はしたものの働きに出るのが嫌で就職口を決めようとしなかった。卒業式の次の日から完全に家に閉じこもっていた私は毎日なにをしていたのだろうか。

思い出すことと言えば、親をはじめ人様からいつもせっつかれているような胸騒ぎを、オペラや声楽のレコードを聞いて慰めていた。母親に無理を言って買ってもらった小さなレコードプレーヤーを枕元におき、昼間から布団に入ったまま幾枚もないレコードを繰り返し聞いていたのである。片面の演奏が終わると手を伸ばしてレコードをひっくり返し、また針をのせた。

そうした中の一枚にシュワルツコップの歌うシューベルトの歌曲集があった。透き通るような歌声もさることながら、レコードケースに印刷された彼女の気品に満ちた姿が美しかった。そして、布団から手を伸ばすたびに触れてくるひんやりとした外気に世間をこわがる自分の弱さを思い知った。この先、なにをなすべきか。いかように生きるのか。それがさっぱり分からなかった。

 

<2002.03.25 記>

 

 

 

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▼合成写真による名残りの夏の都知事選

2016年08月03日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法

以下、赤っ恥掲示板より

鳥越俊太郎氏を推しているのが日本共産党、民進党、社民党、生太たちでしたっけ?ドロドロと液状化を起こしているのですがー。


「生太たち」とは何んのことか分からなかった。どこぞ田舎の与太助けぇ~(尻あがり)とか。何度か思考してみて、やっと分かって大笑い。素敵な略語です。これからは拙者もまた、その略語をお借りして、彼らをして、そのように呼ぶことにいたしましょう。

それにしても実に気風がいいですね。

おい 生太!

じつに小気味良い響きです。それに粋ですね。

おい 生太!

 

そこで以下感極まりて、はやり歌の一句二句をば

 

生太たちは夏休み

町内会はポケモン中

共産党は野合中

民進党は党首の首のすげ替え中

社民党は解体中

公明党は朝の勤行で念仏中

自民党はドブ板作戦ゴルフ中

しばき隊はパチンコ中

お百合さんは演説中

 

 

 

 

ところで元はといえば生太一派の茶坊主の一員であったところの、おい ヨシフ!が、昨日次のようにつぶやいていた。 

有田芳生・・・共産党の宮本徹衆院議員から連絡をいただいた。野党共闘で鳥越俊太郎候補を勝利させるため、一緒の街宣車で訴えようという。快諾。すでに行われていることだけれど、それぞれの党派と市民の力を集めて、網の目のように、あちこちで行動することだと思う。組織動員も必要だが、もっと「外」に向かおう。


いまさら間に合わんよ。いっそ生太たちを鳥越宣伝カーの屋根に上らせてしゃべらせてみたらどうだ。そうさなぁ、生太たちが参列した街宣ならば、これはもう一回あたり十万票が逃げていくこと請合ってあまりある。さて次なるは共産党の弁護士さんのつぶやき。

弁護士神原元 ?@kambara7・・・・10年以上も前だけと、「共産党は栄光ある孤立路線を貫け」と言う人と激論になったことがある。国民の願いと違うだろうと、俺は、今の日本共産党の「野党共闘路線」を心から支持するよ。間違いない。

社民党との共食い合戦を制したのが今日の共産党だぜ。70年代にもさかのぼる。30年~40年を費やして、ついに共産党に骨の髄まで食われてしまった社民党は今日、絶滅危惧種になりはてた。パイの原理だ。つぎなる共食い合戦の食卓を民進党と見定めた。どこまで民進党を食い荒らして党勢拡大をもくろめるかの勝負だ。この共闘自体は共産党の魂胆に有利に働くことは間違いない。

共食いならばせめても片方だけは生き残るわけだが、まま今般都知事選のように共倒れする心配も大なるところだ。ただし共食いしようと共倒れしようと、少しの反省もしない強い強い独善性が、この党の持ち味だったし、生き延びる伝手だった。

問題は、そのためには、同党のもつ根っからの二枚舌とダブルスタンダードが赤裸々になる過程を経ねばならない。さらにまた生きるためには、とどまるところを知らない右傾化への道だ。さあさあさあ、どうするい党のお弁護ちゃんよ。

 

> ウツケンさんの出馬断念は残念でした。

そうですね。立候補できるのは大きな基本的人権ですよ。いくら野党共闘が大事だからといって、まるで引きずり降ろすというのは口封じであり人権侵害なのです。候補者と政党は別物です。本人が納得したからよかったようなものの、ご本人および党内の双方にしこりは残るでしょう。実際党内意見は割れているようですね。一枚岩が自慢であった共産党などは未曾有の出来事と申しても過言ではござりませんよ今般のことは。

 >トリシュンは当選しても任期体力が持たないでしょう

そうですね。ま、名をとったのでしょう。勝馬に乗りたかったのでしょうね。が、いざ馬小屋から連れ出して選挙カーに乗せてみると使い物にならない年寄りの駄馬だったということですね。

 
そこで思案だが、先日、森進一さんが駄馬の選挙カーにひっついて歩き、話をすることが苦手な候補者からたって請われて持ち歌である「襟裳岬」を、それもほんのさわりだけ歌ってみせたそうだ。いっそ、どうだい。大々的にだ。選挙カーの上で小沢一郎先生に「お富さん」でも歌ってもらうのさ。

さあ、行くぞ。ちゃちゃんがちゃんちゃん、ちゃちゃんがちゃんっと。


粋な黒塀見越しの松の

あだな姿の洗い髪

死んだはずだよ お富さん

生きていたとはお釈迦さまでも知らぬ仏のお富さん

エエッサオー 源冶店(げんやだな)

 

ああぁ 粋だね~。

選挙はこうでなくっちゃいけねぇ。

 

世に倦む日日・・・しばき隊が、鳥越さんはこんなこと言ってる、あんなこと言ってる、保育はこうで、介護はこうで、防災はこうで、とても具体的で完璧だと、本人の代わりに鳥越俊太郎の「政策論」を宣伝、絶賛している。それって、共産党の政策論だろう。それじゃ有権者の心に響かないんだよ。自分の言葉で挑戦しろって。


無理を言うなって。なんぼケツにムチを当てても走ろうとしない。年寄りの駄馬を、そうもいじめるなって。自分の言葉?そんなものがどこにある。野合共闘だ。野合どもそれぞれのご意向を図っていたんでは一向に自分の言葉なんぞは出てくる隙間がありゃしない。それにしても、あんな使い物にならない駄馬なんぞ引っ張り出してくるより、よほど、ヨニウムつぁんのほうが政策通に見えるぞ。どして、おめさんが、立候補しなかったんだぁ~。あ~ん あ~ん。代行大便は臭いばかりだぞ。それもヨニウムつぁんの選挙っ屁は、いつものことだがヒステリじみている。

 

共産党支持者3割が小池百合子支持の衝撃<ニュースソクラ 7月22日(金)12時20分配信

 東京都知事選挙、宇都宮降ろしに反発も。小池百合子、鳥越俊太郎、増田氏の三つ巴となっている31日投開票の都知事選。今週に入って報道各社の序盤情勢分析によると、小池氏が優勢、あるいは小池、鳥越の競り合いとなっている。

なぜ、組織の支援が得られなかった小池氏がリードできたのか。保守層をうまく取り込んでいることに加え、野党支持者が、野党統一候補の鳥越氏ではなく、小池氏支持に回っているからだ。たとえば、産経新聞の7月18日の序盤情勢調査では、民進党支持者の2割、共産党支持者の3割もが小池氏支持と回答している。

 各陣営の分析によると、最大の要因は、宇都宮健二氏に立候補取り下げさせたこと。前回の都知事選では共産党は宇都宮氏を支持していただけに、告示直前での野党内で候補一本化への反発がでているという。「小池さんの思い切りがいいし、宇都宮さんを強引
におろしたのが頂けない」という声が小池氏を支持する革新系支持者から聞こえてくる。


しめしめ おもしろくなってきたぞ これは。これで共産党は戦後70年、かつてなかった未曾有の内部地震を経験することになる。さてはて、どこまで党内議論が深まるか。ま、内外を通して口封じを常套手段として、ここまでやってきた主義者どもの集まりが同党だ。その証拠が、同党には選挙がないということだ。委員長も中央委員も地区委員も、すべての幹部が、選挙なしで格上げされる。または格下げされたり除名されたりしてきた。この党ばかりは安易なそれも民主主義的観念に基づく希望はめったに通用しない。常識では測れないのが同党の世界なのである。ようするに彼らが、なにかと言えば口をそろえて叫びたててくるイデオロギー上の「民主主義」とか「民主化」というものは、われら衆人らがガッコで教わった民主主義とは、似て非なるものであるらしい。到底、理解不能だ。

一言のもとに断ずるなら同党の綱領も規約もすべてこれ二枚舌の打算によって成り立っている。一枚目の舌さきでは政治的な言辞をのたまい。舌の根も乾かないうちに二枚目の舌さきを使い。できもしないし、ありもしない理念をのたまうて人々をだまくらかしている。すなわち共産党とは政治的に粉飾された宗教団体に他ならず、彼らのすべてが「カルト」の論理と道徳観によって成り立っている集団なのである。議論なんぞは、内部では何一つない。あるのは教条という念仏だけだ。党員らが、集い合っては日がな一日、念仏を唱えて恍惚感を抱き合う。その様は、たとえば「南無妙法蓮華経」やら「南無阿弥陀仏」と別になんら変わるところはない。

 

世に倦む日日・・・鳥越俊太郎。終盤の情勢報道がマスコミから出る前に、主導権を握り返す逆転の一弾を放たないといけない。ということは、今日か明日かだ。週明け(7/25)には終盤情勢が出る。本人も選対もよく分かっていると思うけれど、何か準備はしているのかな。このままだと醜聞騒ぎだけで終わる選挙戦になる。


それでいいのだ。おめさんも使い物にならない駄馬なんぞには、いい加減に見切りをつけてお百合さんに一票を投じたまえ。そこで、都知事選から降りた宇都宮健児さんに一言。どうか、最後の最後まで、決して駄馬の応援に出てくるような愚挙はなさらないでくださいね。一度でも野合共闘の駄馬の応援をなさったりしたら、あなたも終わりです。次回都知事選でもいい。次の総選挙でもよいのです。出馬してきてください。そんときは宇都宮健児さん、あなたを出来る限り応援いたしまするよ。おそらく、あなたなら当選間違いないでしょう。あなたの誠実さこそ今般の都知事選の中では馬やらなにやらの怪物どもが喧騒にわめきたてている中でひときわ静かに心地よく目を引きました。繰り返します、決して共産党から頼まれても民進党から打診があっても駄馬の応援だけはしないでいただきたい。文字通り共倒れしてしますよ。あなたの名前に傷がつきます。そこで一つだけ注文があります。次回、出馬する際は無所属でお願いしますね。なにしろ共産党公認とか野合共闘とかの一行をみただけで嫌気がさしてしまうのです。

 

東京都知事選 鳥越俊太郎氏支援、野党4党幹部そろいぶみ 「何とか勝って」

 産経新聞 7月22日(金)21時32分配信

民進党の枝野幸男幹事長ら野党4党幹部は22日、東京都知事選(31日投開票)に出馬したジャーナリストの鳥越俊太郎氏(76)の応援演説にそろって参加した。鳥越氏の街頭演説に党首を含めた野党幹部がそろうのは初めて。民進党はこれまで無党派層への浸透を狙い、4党が前面に出ることに慎重な姿勢を示していたが、野党丸抱えの実相が浮き彫りになった形だ。東京・有楽町で行われた応援演説には、枝野氏のほかに共産党の志位和夫委員長、生活の党と山本太郎となかまたちの小沢一郎代表、社民党の又市征治幹事長らが参加した。


いよいよ生太たちが面を出してきましたね。都民有権者は応援者や、飾り物に囲まれているだけの駄馬には愛想をつかして、この日だけで十万票が逃げていったに違いありません。

 


 

恐るべきプラカードの大量生産は共産党某地区委員会または共産党東京都委員会のパソコンプリンターが昨夜一晩中稼動していた成果であろう。すべて同一のA4サイズだ。これを日中、集まってきた信者らに無料で配る。それにしてもなんと言うことであろうか。党組織から動員されてきた群集のノロマ面から想像されてくる教祖と党の淫行と二枚舌。このような光景だけは目にしたくない。拒否したい。民主主義に名を借りたヒトラーの再来か。悪い夢でも見ているようだ。この見事なる同一性、均一性、平等性の体現を見ていると何かおぞましい悪寒が走って背筋を凍らせる。

 

 

有田芳生・・・たまたま桜井誠候補の演説を聴いていたら「反対側で聴いているアリタ先生ー」と叫んでいます。

そこで一句

 

先生と呼ばれて喜ぶアホもいる

 

ところで、今般都知事選に出馬した各氏の街頭演説の動画を見比べてみたところ、桜井誠さんの絵が、一番いいですね。絵というよりは、やはり演説に訴求力があるのです。先般終了した参院選挙における青山繁晴さんの絵がよかったのは街宣車の回りに、あつまってきた聴衆に心から、じかに話しかけていたからです。青山繁晴さんの街頭演説は選挙カーの屋根には、ご本人が、たったお一人マイクを持って最後まで自己主張を貫き通した。政治演説とは、こうでなくっちゃいけませんよ。 

比して野党共闘で出馬した例の駄馬の有様を見て御覧なさい。やれ応援演説に大物の誰それが来てくれました、やれ野合した野党すべての党首が一同に介しました、やれ共産党都委員会が昨夜急造してきたスローガンとプラカードが駄馬の回りに、林立していている有様。一人佇立して訴える自信がない証拠です。なにか、へらへらしていますね。この候補者は。 

鳥越 俊太郎(東京都知事候補)・・・・私が都知事になったら東京から250km圏内の原発の停止、廃炉を申し入れます。

と、昨日、共産党が用意した個人演説会で上のようにしゃべっている写真を見ますと、鳥越氏のすぐ後ろに共産党書記局長小池晃さんが座って拍手を送っております。原発問題に触れるのは公示後、はじめてのことだと思われますが明らかに共産党から授かった「入れ知恵=公約」のようですね。こうして老人は、ますます共産党の操り人形となってまいりました。

反原発の本性を顕わしたことにより、これではい、十万票が逃げていきましたね。投票日も間近となるこの週末には、おそらく支援者らのプラカードは「憲法を守れ」の一色になるはずです。または「ヘイトスピーチ反対」か。これで最終的に、はい十万票が逃げていくという按配です。 

さて、念を推しておくのですが民進・共産の野合は共産党だけに利があるのであり、民進党としては党勢力が、一方的に食われるばかりなのです。ただいま選挙中の、鳥越候補者の公約、政策、スローガンは上の写真のように、すべてこれ共産党からの入れ知恵であり、街宣等における物心両面における動員活動も、ほとんど共産党だけでやりくりしていることは周知の事実。結局、こうして共産党の共闘相手は役立たずと指弾されることになり心身ともに最終的にはボロボロになってしまいます。それでよろしいのですか。民進党の諸君。まごまごしていると絶滅危惧種と成り果てた社民党の二の舞を踏むことになるのですよ。君たちは(笑)。

 

まるで共産党独自候補者だ!・・・・産経新聞(2016.07.28)

なにしろカールマルクス以来、レーニン、毛沢東、宮本顕治等々自己正当化と二枚舌の権化ですからね。言い逃れの天才と申しても過言ではござりません。これが怖いのです。共産党という名の念仏好みのオカルト集団は。

 

香山リカ・・・今朝、共産党の宣伝カー(候補者なし)が「都知事は鳥越俊太郎に」と言いながら走り去ったのを見て、ファッショナブルな女性ふたりが「共産党が鳥越俊太郎、だって!」と驚いてた。

どうやら、共産党は、都知事選において自分たちから発した野合共闘が壊れたら共産党の世界観が壊れること必定だ。それで候補者たる鳥越老人をして残り数日、投票日まで党が用意した宣伝カーに閉じ込め、それこそ拉致し首に縄つけて、都内各地を引っ張りまわしているところなり(笑)。残り数日、党の老人の健康が心配だ。さても、数日と相成り大勢は決した観がある。

 

産経新聞より・・・小池氏「見返してやりましょう」石原氏発言に不快感。東京都知事選(31日投開票)に立候補している小池百合子氏(64)に対し、石原慎太郎元都知事(83)が26日の党会合で、「厚化粧で大年増の女に任せるわけにはいかない」などと発言したことについて、小池氏は同日夜、JR十条駅前での街頭演説で、「むちゃくちゃな、ひどいことを言われるのは、しょっちゅうだ。慣れている」と主張しながらも、不快感を示した。「私をぶっちぎりで勝たせてほしい。ぜひ見返してやりましょう」と、呼び掛けた。

慎太郎も老いましたね。それにしても黒か白かが万民にも即座にわかるような子どもじみた誹謗はすぐさま逆効果となって表現されてしまうのが健全なる社会の証拠です。一連の
慎太郎発言で返って小池候補に十万票が上積みされることでしょう。上積みできるなら同情票でもなんでもいいのです。お百合さんのぶっちぎりの金メダル獲得と、初の女性都知事誕生を喜びましょう。

 

 

2016.07.30 中央区

本日は暑い中、恒例によって半年に一度の社を上げてのアルバイト講習会であった。八丁堀の親分の館にて、清掃アルバイトの大勢が参堂せり。拙者としても、いろいろと、ためになるお話各種、及び新しい清掃器具と新種溶剤の導入に当たって現場での使い方などをいろいろと身につけてきたところなり。

 

 

 

 

 

研修が終わって、ただちに山の手線を半周して池袋駅にもうでたり。都知事選に出馬している小池百合子さんの最終演説が午後七時半より池袋駅西口にて挙行されると耳にした。これをもって選挙戦は終了となり、明日の投票日をまつだけとなる。

 

早く来過ぎて時間があまったので飲み屋に入れり。小腹が空いたのでメニューから焼きソバを所望。見たところなんの変哲もないソース焼きそばが出てきたのだが、これが絶品だった。

 

 

 

 

 さあ、おユリさんの登場。自然に、ゆ り こ ゆ り こ の大合唱が湧き上がる。わたしは、ちょっと恥ずかしく、唱和することはしなかった。

 

 

以下 2016.08.01 各紙

 

 

 

 

開票結果(上位三名)

小池百合子 291万票
増田ひろや 179万票
鳥越俊太郎 134万票

 

 

 ↓ 大本営発表(笑)

 

世に倦む日日・・・参院選1人区。11勝21敗という結果はダブルスコアじゃないか。ダブルスコアで完敗しながら、善戦だの、一定の成果だの、自画自賛ばかり。1人区でダブルスコアで負けたから改憲3分の2も取られたわけだ。中野晃一と山口二郎はどう責任をとるのか。敗北責任について言葉が欲しいね。

まったくです。まさに典型的二枚舌ですよね。負けても勝ったと宣伝する。さんざんに負けても、いや善戦したから、これでええんだと開き直る。大本営と共産党の情宣は、以外にその手法は似ているのです。いずれ理屈も屁ったくれもありませんよ。オカルト政党の彼らには。

 

ウキペッペより「大本営発表」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9C%AC%E5%96%B6%E7%99%BA%E8%A1%A8

 

かくして熱い熱い首都の七月が終わった。 

 

 


2016.08.11 自室にて

 

 

 

 

 

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