赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

婿殿のところに帽子を忘れてまた一杯

2005年04月28日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
婿殿のところで、妹の一周忌が挙行されたことは先日のページに記しておいたが、実は、その日、愛用している帽子を置き忘れてきてしまったのである。そこで本日、帽子を取りに婿殿の家を再訪した。ところがまたまた半日酒を酌み交わしつつ、妹の思い出話やその他、あれこれの四方山話に花が咲き、気がついたときには夜も夜中になっていた。あわてで最寄の駅まで行ってみたのだが終電車は、たった今出て行ってしまったところだった。それにしても、あたたかで穏やかな夜だった。そこで意を決し、自宅まで歩いて帰ることにしたのである。おおよそ10キロほどか、近いといえば近いのだが、10キロを歩くというのは少々苦労だ。まもなく夜明けという頃になって無事帰宅した。すっかり酔いもさめ、もちろん足は棒だった。
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妹の一周忌

2005年04月24日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
9歳年下の妹が亡くなって一年が経った。本日、一周忌をやるから来てくれと婿殿から連絡があったのは半月前だった。集まったのは他に彼の義兄弟が二人と私の実弟が二人の計6名だけだった。今日はお日柄もよく、あちこち回らなければならないのでと言いながら定刻より10分程早めに和尚さんが顔を見せた。さっそくお経を上げていただいたのである。は~らみ~た~なんたらかんたらと、念仏の意味はさっぱり聞き取れなかったが、まるでオペラのアリアでも聞いているような、とても良い心持になってしっまった。坊主にしておくのがもったいないほどなのである。バリトン歌手としてメトロポリタン歌劇場でも十分に通用すると確信した。ただ本日の和尚さんは、いささか年がいっていて、これから声楽の修行に入るというのは、他人事とはいえ非常識きわまりない、本人にとっても頭の痛い話であり、オペラの件については、その場で忘れることにし、この件は、和尚さんには黙っていることにしたのである。それにしても、声のよい和尚さんに読経していただき、ことのほか演歌好きだった妹も墓場の影でさぞかし喜んでくれたことと思う。
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▼バスに乗って買い出しに行く

2005年04月21日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
川を越えた向こうの町まで買い出し行く。今日は思わぬ出来事に遭遇し、いつもは歩いて帰ってくる多摩川沿いをバスに乗ってしまった。以下、人目にさらすのは、いささか恥ずかしいのだが、他に話題もない本日のことにて、後学のために買ってきたモノとその値段を一般公開するものである。

玉ネギ-----1袋----¥150
新じゃが----2袋----¥500
きゅうり-----2袋----¥200
グレープフルーツ----3個----¥300
生しょうが----1パック----¥50(特売)
煎茶------200g----¥680
昆布だし汁---500ml----¥298
穀物酢-----1瓶-----¥105(特売)
白菜キムチ----1パック---¥208
パック詰かつおぶし----1袋--¥105(特売)
生わかめ----1袋----¥108(特売)
豚ロース切り身----約700g----¥856
豚細切れ切り落とし----約800g----¥863
若鶏ももにく-----約900g-----¥471(特売)
カップヌードル----5個------¥490(特売)
ワンカップ大関----1瓶-----¥234

合計、約5000円となり、ほぼ予定通りで満足のいく買い出しだったのだが、かえすがえすも「新じゃが」に目がくらんだのが唯一の難点といえようか。たかがジャガイモのために500円の出費は痛かった。これも、衝動買いの一つだったと反省を深めたのである。それに今日は、かさ張るものばかりが多く、それらをレジの横でザックに無理やりに押し込んでいたところ、チャックが壊れてザックがパンクしてしまったのである。苦労に苦労を重ねて、せっかく詰めた中味が飛び出してしまった。仕方なくレジのおねえさんに頭を下げ下げ、ビニール袋をもう一枚余計にいただき、両手に大荷物をぶら下げて帰ってきたのである。今日は、お日柄もよく暑くてまいった。帰ってくるまでには汗まみれになってしまった。夕飯時には、さっそく「新じゃが」とワカメで味噌汁を作ってみたのだが、これは、めずらしく家人一同から好評を博したのである。そして夜も遅くなりネットなどを見やりながら今日の出来事をいろいろと反省しつつ、ワンカップに舌鼓を打っているところである。
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▼水も飲めぬや水道代

2005年04月12日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
午前10時ごろだったか、水道局の人がやってきて滞納している水道料金を催促されたのだが、あいにく現金の持ち合わせがなかったのある。先日も来ていただき、いついつまでに支払うようにいわれていたのだが、ついつい忘れていたのである。その人は、今日中に水道局まで行って、支払ってくださいね。さもなければ止めますよと、腰にぶら下げた、元栓を締め付ける大きな道具にちらちらと目をやりながら、そう言うのである。しかたなく午後から水道局まで支払いに行ったのである。水道局は、5つほど先の駅で降りるのだが、駅から少し歩かなければならない。最寄り駅に降りたら、かなり強く雨が降っていたのである。そこで、駅前のコンビニに飛び込んで、傘を買ったのである。400円の透明ビニール傘でもよかったのだが、そこに並んでいるあれこれの傘を品定めしているうちに、ついつい柄物ジャンプ式の高級傘に手が伸びて、衝動的に買ってしまったのである。今日は思わぬ出費をしてしまった。そこで一句・・・・水も飲めぬや水道代 桜の花も散りぬれろ
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千鳥が淵の桜かな

2005年04月10日 | ■学校的なあまりに学校的な弁証法
昨日、次男の大学入学式が、武道館にて挙行されたのである。武道館と聞いただけで、数千人単位の馬の骨たちが、集いに集い、むせ返っている様が予想され、もうそれだけで行く気がしなくなってしまった。私としては、入学式もさりながら武道館周囲の満開の桜を見に行きたかったのである。桜の名所として名高い千鳥が淵も靖国神社も武道館のすぐそばである。いろいろ迷った挙句の果て私は欠席することにした。そこで妻に、いつも使っている愛用のデジカメを手渡し息子の晴れ姿とともに、あそこらへんの桜を撮ってきてくれとお願いしておいた。二人が帰宅したのは、夕方だった。開口一番、あまりの人出に妻も息子ものぼせ上がってしまったらしく、デジカメの存在を忘れてしまい、結局一枚の写真も撮らなかったと言う。
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▼「小林秀雄論」 宮本顕治

2005年04月06日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

「宮本顕治文藝評論集(Ⅰ)」(新日本出版社)より、『小林秀雄論』(1931年)を読む。

宮本顕治の文章は読む前から予想されていた通りの紋切り型で、何一つ文学的な感興は得られなかったが、こうした評論が横行していた当時の文壇の雰囲気はつかめた

。当時宮本顕治は25歳であり、宮本より4歳年上の小林秀雄は、すでに「地獄の季節」以下、ランボー詩集の翻訳とランボーについての論考の執筆に没頭していた。

今や伝説となった「改造」懸賞論文を二人が争ったのは、昭和4年(1929年)のことである。

以来、文藝評論家として飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍していた小林秀雄を、宮本顕治は相当に意識していたようだ。

まだ文壇にデビューして間もない若い二人の事情をさっぴいても、それは「小林秀雄論」を読んでもよく分かるのだが宮本はほとんど小林秀雄の本質について理解できていなかった。

いや、理解しようとさえしていないのである。

「小林秀雄論」も貧相な一文で、マルクスとレーニンの文章を引っ張り出してきて、小林秀雄は彼等と、違うことを言っていると政治的に断罪しているだけなのである。

比べて小林秀雄にとって宮本のアジテーションなど生涯、眼中にさえなかったようだ。

そもそも宮本顕治の評論も、小林から見れば、とても文学とさえ思えなかったにちがいない。

当時文壇を席巻していたプロレタリア文学については総じて毛嫌いしていた小林秀雄だが、一人中野重治の文学だけは一目おいていたふしがある。

二人は明治35年生まれの同年である。

小林秀雄全集に「中野重治君へ」(昭和11年)という、心のこもった一編がある。

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複製芸術の問題とわれらの態度

2005年04月05日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
おっしゃるとおり録音という技術がなければすでに逝ってから20年以上たつ小林秀雄の肉声に触れることも、後世の人間には、できる話ではありません。私は「肉声」と申しましたが、これも録音されたコピーに過ぎないのであり肉声とは言えないだろうと問われれば、これまた否定はできないのです。かつて実在したかもしれないが、そのもの自体ではないことは自明です。だが、それを言うなら、最初に翁殿が問題提起されていたように、自らは決して筆をとらなかったといわれる、イエスやソクラテスの思想や行状が、弟子たちによって、書き記され、こうして後世のわれわれに届いている幸いです。印刷技術はもとより、「書き記す」ということも「技術」です。当時、イエスやソクラテスに匹敵する思想家は、もしかしたら古代ギリシャ周辺ばかりでなく、全世界にたくさん徘徊していたのかも知れません。当時、わが国がそうであるように世界のほとんどは、文字がいきわたっていなかった。残されていないだけではないのか。残されていないということと、無かったということは別です。彼等に匹敵する思慮深い言葉を発して人々に影響を与えてきた賢人やリーダーがわが国をはじめ、結構、世界のあちこちに居たのではないのかと想像するのです。記録がないかぎり、これは今や誰も証明できません。イエスもソクラテスも、言葉を通して、弟子たちに多大な感動と影響をあたえたことは事実でしょう。さらに、どうしても師匠の功績を書きとどめておきたかった弟子の心証も事実だった。だが、かようなこと一切、弟子たちが書き記した文書が、後世に広く伝播されたきたことも、弟子がたまたま優れていたことも、これらすべてが歴史的偶然のなせる業だと思うわけです。もちろん、これら記録された文書に、多大な共感を持って受け止めてきた・・・最初は、ある小さな地域に暮らしている人々がいた。これが近代に開発されたジャーナリズムの技術によって、全世界的に広まった。イエスにしてもソクラテスにしても、こうして今、われわれの目の前に記録物として現存してくるのです。「源氏物語」なども同じことです。私はそんな風に思うのです。いわばなにもかも偶然の賜物ともいえなくもありません。だが、それが人間の歴史でしょうと思わずにおられません。記録された事物から思考をはずしては、人間やその歴史について説明するに、なに一つましな「言葉」が出てこないのです。科学の問題から、話が外れてしまいますが、わたしが言いたいのは、過去のこと=歴史的にモノを考えたり、言及したりするときは、その根拠の大部分をわれわれは「コピー」に依存しているということです。私は、キリスト教の「聖書」もプラトンも「源氏物語」もまともには読んだことがないのです。ということは、さらなるコピーを前提として、かなりいい加減に話をしているということです。つまり、人々がそれらの記録物について、これまで、ああだぁこうだぁとさんざんに言い挙げてきた、その総体にちゃっかり腰を乗せて、くっちゃべっているだけなのです。このコピーという存在こそ、印刷技術や録音技術とうとうの裏づけを持って情報が伝達される手法(科学)が進展してきた賜物といえるのではないでしょうか。そのことの原義的問題について私は、否定しているわけでも肯定しているわけでもない。もちろん私の本心は、小林秀雄でもドストエフスキーでも誰でもかまいませんが、彼等の現存している姿を見たいものです。だが、考えておかなければならないのは、実際にその姿に実際に触れたからといって、彼等の思想の何が分かるというのでしょう。こればかりは彼等の残した記録をあさってみるしかない。録音があるなら聞いてみればよい。だが、そんなものは聞かなくても、別に暮らしぶりに大差は出てきませんよ。私がイエスのことを知ったかぶりして語ろうと、真面目に聖書を読もうが読むまいが他人には関係がないのと同じです。ほったら悪書を読むぐらいなら、親類の田植えの手伝いに出かけたほうがましだという言い方もあるでしょう。不毛な読書をしているよりは、さっさと田植えの手伝いにでもいったほうが、よほど善行と言うものです。問題は、コピー(科学)に対して、どういう態度で接するか。それは各人の問題なのであり、私が、小林秀雄の本などを読んで分かったことの第一義は、人の書いたものや言っていることを浅はかに読み取って自分の人生を賭したり、妄信してはならない、ということでした。それが「科学」と世間が呼んでいるものについての私なりに作っておいた、私の概念です。科学が、向こうから私の身近に現れて、たまたま使ってみたら便利だったというなら、また使ってみやしゃんせ。四六時中、拙者の目の前でちょろちょろしないでくりゃしゃんせ、という存在。それが拙者にとっての「科学」でござんす。うるさくてしょうがない。おちおち、昼寝もできなくなる。
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