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赤いハンカチ

言葉は論理を進める道具ではない・・批評家だって詩人と同じ態度で、言葉を扱わなければならぬと信じています・・・小林秀雄

▼がんばれ日本 花咲ける十九世紀

2025年08月01日 | ■歴史的なあまりに歴史的な弁証法

我がブログ内にあった大昔の記事なれど、再掲するに甘んずる。以下・・・

 

 今朝ほどのTVの報道によれば富岡製糸場がユネスコ認定の世界遺産に登録まじかだとのこと。うれしく思った。そこで少々調べてみたことを記しておく。

 さても富岡製糸場は、明治5年竣工とのこと。明治5年とは西暦に直せば1872年である。わたしが直感したのは、まず1872年当時、「資本論」著者カールマルクスも、「罪と罰」の著者ドストエフスキーも健在であった。わが国では福沢諭吉やら、その他大勢が、われこそは、われこそはとその知見と実力を争っていた。なにしろ戊辰戦争が終わったのは前年のことであり。これから五年後には国内最大の内戦だと言われて久しい西南戦争が勃発するという有様である。近代とは、かくのごとき戦争と戦争の合間を見透かして現出してきたような感すらするところなり。

 

朝日新聞オンラインより (写真借用御免) 富岡製糸場

 

 

富岡市ホームページより (写真借用御免)

 

 竣工が明治5年、すなわち西暦1872年というならば、すくなくても5、6年は前から計画はできており、工事の着工ぐらいは始まっていたに違いない。6年前ともなれば大政奉還以前の慶応期のことではないか。とにもかくにも、絹を糸へと量産するために国家プロジェクトとして群馬県は富岡の地に、現代の金銭価値におきなおせば33億円ほどが投資されて一大工事が始まった。フランス人の技師が招請され、またフランス人なる婦人の幾人かが、ここで働く女工たちの訓練にあたったとのことなり。約400名の女工たちが集められた。全国からというが、それはどうかと思う。だが、その多くは士族の娘たちだったという。読み書きソロバンはもとより一定程度の教養のある娘たちが募集された。寮は完備され日日の労働は8時間。もちろん日曜日は休み。娘たちは最新の機械の前で、実に生き生きと効率的に働いた。
 一年もしないうちに世界絹糸選手権で銀メダルをとったほどにまで成り立ちそうろう。ここで作られた絹糸はわが国の輸出貿易の目玉商品となったのである。工場の動力は蒸気でまかなっていたらしい。この工場が電化されるのは昭和も終戦まじかのことだった。
 さて冒頭に弁じたように、わたしが、この件で、感銘を深めるのは当時の激動する世界の中での、はてさてまたまた激動していた列島のなかの現実を、今日の、わたしらが、いかに想像できるか、いなかということだ。カールマルクスもドストエフスキーもトルストイも健在だった。パリコミューンの騒ぎは富岡製糸場竣工前年のことである。すでにロンドンでは、この10年前から地下鉄が走っていた。こうした、いろいろのことを思い巡らすと花咲ける19世紀と言う俗諺がますますわが身にしみてくる。

 

 

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▼火事と喧嘩は江戸の華

2025年07月06日 | ■歴史的なあまりに歴史的な弁証法

 以下は、大昔の記事なれど、いささか修正したき存念ありて、とりあえず巻頭記事として持ち出した次第なり。予想されるところでは、今日から数日のあまり、改定して改定して、余りあってめちゃくちゃになるやも知れぬ所存なり。許せよ諸君。

 

 人間の本能と言っても、昔から大きく変わってきたとは思えないが、その実際を言葉で現すには、実にピンからキリで、あきれるばかりの差がある。一概に言えるものではない。本能には、多かれ少なかれ痛さや辛さというものをさけ、できるかぎり心地よさを求める指向性がある。本能から発する欲望は限りない。心地よさに安住するなら、こちらから苦労を買ってでて自分の手を汚すばかりがのうではない。心地よさの中には、相手をやっつけて溜飲を下げるという心理もあれば、野次馬根性や尻馬根性も見逃せない本音だ。しりきに付和雷同するお祭り男。日がな一日、井戸端会議に明け暮れてそれとなくデマを流したり、他人をそそのかしたりしては喜んでいる世話焼きのおばちゃんもいる。
   町内をさんざんにかく乱しておいて、せんべぇでもかじりながら、ちゃっかり自分は高みの見物に打ち興じているというようなこともありえない話ではない。他人の不幸を喜ぶ習性は、なにも百姓や町人上がりの無知蒙昧の輩ばかりとは限らない。火事と喧嘩は江戸の華と言うが、大江戸100万都市は数年に一度のわりで大火に見舞われた。だが、これもある江戸研究者によれば 大火も江戸っ子には予定のうちに入ってきたらしい。逃げ足も速くなる。人命さえ助かれば長屋暮らしのその他おおぜいにとっては勿怪の幸いとまでは言わないまでも、火事を聞きつけて埼玉千葉神奈川の在から大工やら物売りやらが江戸市中になだれ込み、半月もしないうちに江戸は、大火などどこ吹く風で元通りになってしまったというのだから驚く。
 焼け出されても布団一枚あれば、たまにはテント暮らしもいいもんだというあたりだろうか。だいたい長屋というものからして、畳にしろ羽目板、屋根などのいっさいがきっちり寸法が統一された規格品から出来ていた。木材その他長屋一軒分の材料が、おおよそ馬車一台分だったらしい。郊外には これらの規格品が、うずたかく積まれて常に出番を待っていた。火事ともなれば、すわっとばかりに、これらが、いっせいに市中に運び込まれてくる。家財といっても、ナベ釜以上に大切なもの など思いも着かない。なにがなくても家族一同、命あってのものだねだった。結局、大家はともかく長屋住まいの店子たちには、さほどの損害はなかったと言うのである。
 江戸という町の構造と人々の意識に、明日の風は明日吹くという、済んだことは気にしない耐性があった 。だれもがモノにはあまりこだわることなく「いき」に暮らしていたのである。もちろん相互扶助や助け合いの精神も現代のわれわれ都市生活者のすれっからしとは比べようもなかった。町内を上げて子どもたちは大切にされていた。大火がくれば大工の仕事は増えるは八百屋が繁盛するは、使いっぱしりが尻をはしょって市中を走りまわっている。このように町は活気にあふれ庶民にとっては悪いことばかりではなかったと言う。
 火事にしろ戦争にしろ、まだその気配もしないうちから勝手に先読みしては噂におびえ戦々恐々としてピーピーピーピー泣いている風情に情緒や知性を感じたり杞憂を膨らませ 、それらしく屁理屈を立てて公言してはばからない逆さ理論が流行してきたのは情報が大量に独り歩きしはじめた近代社会の特徴である。 だが私には読み書きができ国際交流がさかんになり、誰しもが教養豊かな情報通になってしまった現代人の泣きの涙のセンチメンタルなどよりは「宵 越しの銭は持たない」と言ってのける江戸庶民たちの 、おおらかな楽天性によほど好感を持つのである。

<2005/11/15 記>

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▼「日本人とキリスト教」 遠藤周作

2025年06月24日 | ■歴史的なあまりに歴史的な弁証法

相変わらず昔の記事で悪いが・・・以下  <2007.01.03 記>

 

 先日、遠藤周作氏のカセットを聞いた。遠藤氏には「沈黙」という隠れキリシタンのことを書いた作品がある。カセットはいつぞや出版社が主催した講演会での肉声が録音されている。カセットのタイトルは「日本人とキリスト教」とあって「沈黙」を書くさいに、いろいろと調べたことをもとに話をされていた。

 長崎、五島列島あたりに「隠れキリシタン」という人たちがいた。ご存知のように徳川家光の時代に禁教令というものが発布されキリシタンは弾圧された。このとき、「島原の乱」といわれる大きな抵抗戦争があった。結局、キリスト教は根絶やしにされ、しばらくあそこらでは、正月になると村人たちが名主の屋敷に集められ一人づつ「踏み絵」を踏まされたそうです。明治になり、250年前の禁教令が解かれた。それで、また新しい宣教師などが長崎入りしてきたときに、五島を中心に、いまだに「隠れキリシタン」といわれる人々が存在していたことが発覚した。カクレキリシタンとは棄教した人々である。踏み絵をふんで、生き延びた人たちだ。それでもなお、信仰を捨てなかった。この矛盾の中で生き続けてきた。表立っては仏教に準じていた。そうせざるをえなかった。そこで仏教の観音像をマリア像に見立てて拝んでいたと言う。教会もない。神父も司祭も指導者らしき人は誰もいない。互いに接触することも、集会を開くこともできない。

 こうして、隠れキリシタンの場合は、明治のころには、ほとんどキリスト教とは言えないような別の宗教になっていたと遠藤氏は語っている。それはマリア像に象徴されるような母性信仰として実に日本らしい、教義に変遷を遂げていた。父性文化という面の強い西洋の厳罰、原理主義的なキリスト教とはちがってカクレキリシタンに見られるのは、何事も許される大きな慈愛につつまれた、むしろ母性をあがめる教義にすっかり変わっていた。それもひっそりと、家系を通じて親から子へと、何代ものを経て伝えられてきたと。その後、近畿にも、新潟などにも彼らが文字通り隠れるようにして住み暮らしていた村があったということである。
 
 どんなに弾圧されも日本の場合は地勢上、海に閉ざされているという事情からか亡命はしない。いじめられても牢獄に入ることが分かっていても、最後の最後まで、決して「国」から逃げ出さない。また逃げ出せない。これは幸福なことだったのだろうか、不幸なことだったのだろうか。それはわからないが私に分かることは、インターナショナルなんて心証は、決して信用できないと確信めいたものが沸いてきた。わたしも案外「カクレキリシタン」なのかもしれない。彼らのようにして生きていけばよいと思った。生きるということは、そういうことだとさえ思った。旗色鮮明なスローガンを叫んでいるなんていうのは、だいぶ素朴な話ではないか。「日本人」という概念は誤解を招きやすいが、「国家」というものは、せせこましい民族概念を超えている。私の「国家」は死んでも否定はできない。たいした話ではない。私には「日本」以外にどこにも、私の国家はあり得ないという、この年になってやっと分かってきた確信を自慢してみたばかりにござる。

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▼十年前の報道写真

2021年03月11日 | ■歴史的なあまりに歴史的な弁証法

 

以下は十年前の新聞に掲載されていた印象深い写真の何枚かだが、今でも大切に自室の棚の中ほどにしまってある。死ぬまで保管しておくつもりなり。そして時々広げ眺めては、この国と、この国の中で過ごしてきた自分の来し方のあれこれなどを回顧するつもりなり。

 


2011.04.04 産経新聞・・・集団避難する南三陸町の住民を乗せたバスを見送るお年寄り=4月3日午後 宮城県南三陸町志津川地区 

 

 

 

2016.03.06 産経新聞より

 

  

法被(はっぴ)で忘れられないのは次の写真だ。

2011.03.19 産経新聞より <3月12日 岩手県宮古市にて>

 

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▼戦後日本の俗物二匹

2016年11月03日 | ■歴史的なあまりに歴史的な弁証法

 

そういえば70年代だったと思う。「教師聖職論」というものが共産党から提起されたのは。当時の日教組は、共産党と社会党が指導権を争って、二分されていた。ことごとく労組の方針をめぐって喧嘩していた。社会党は、むしろ教師をして「教育労働者」であるという認識だったと覚えている。当時は、教師もたまにストライキを行ったりして、国民の反感を買っていた。

そこで共産党は教師は一般労働者などとは違った「聖職者」であり、ストライキなどすべきではないという理屈を持ち出したのである。これがしばらく教育界に賛否両論の物議をよんだ。教師は聖職なのだろうか。考えてみれば、なんとなくそれらしく思えるときもあって面白い議論ではあるが、いかにもインテリ好み、生産力好み、知識、科学好み、おまけに役人好み、ようは階位性というものから逃れられない共産党らしい屁理屈であった。当時の共産党の中央幹部の数十名は委員長の宮本顕治をはじめ、ものの見事に東大卒がずらりと並んでいて、そのインテリぶりは壮観なもので他党を圧倒していた。

見方を変えればお笑い草だ。主義者の思想と本音が、これほど見事に露呈されていた事実もない。宮本は論文を書ける人間から優先して幹部に重用していたらしい。人を見る彼の基準はガッコ教育の延長なのである。政府官僚の仕組みや大手企業になんの変わりがある。これで、よくも働くモノの味方だとか、労働者の政党だとか革命政党だと言えたものである。現在の共産党委員長志位氏も東大卒だが、彼などは当時、宮本顕治が雇った私的な家庭教師である。教師聖職論も宮本が言い出したことである。さもありなんと思うばかりにござ候。

宮本たるや戦後日本が産み出した稀代の俗物である。池田なにがしという宮本に似た俗物がもう一匹いた。ともに組織をそのまま集金マシンと化し、さらにこれを私物化し、自分は椅子にふんぞり返っていただけだ。腹のふくれたブタだ。この大物両人に比べれば先日、死刑を言い渡された麻原なにがしとかいうまた素性の違う俗物は、だいぶ小粒である。

さて「教師聖職論」とは職業に貴賎なしの建前から言えば、誰も文句は付けられません。大工であれ百姓であれ、政党の親分から君たちの仕事は「聖職」だと褒められれば、そりゃ喜びますよ。さらに一般的に「教育者聖職論」などと言うならば、これはもう大昔から良いことを教えてくれる先達を「先生」と呼ばれてきたごとく、まったく理にかなったことなのであり物議を呼ぶこともなかったでしょう。70年代なかばに、共産党の提案した「教師聖職論」で言う「教師」とは、世に教育者は数多かれば、そのうち、どの種の「教師」を指して「聖職」と褒め称えたかが問題だったように思う。ストライキ無用論として提案されてきた以上、これは明らかに当時の日本教職員組合、すなわち日教組に所属する教師たちのことであり公務員をさす。

教員であるとともに彼らは役人である。私学教師は含まれない。日教組の教師たちをして、その仕事を「聖職」とみなした。私はこうした理屈の中に、いかにも共産党の思想たるものを見るのです。社会主義を背景に出てきた役人主義または官僚主義。さらに文化における「教養主義」、その内実はインテリ好み、作文好み。異常にプロパガンダに固執する政治活動上の特性がある。

当時の共産党の党首宮本は、若い頃文芸評論を書いたことが唯一自慢の俗物である。人々を衆愚扱いして党首や幹部の本をやたらに売りつける。早い話ガッコ大好きの「結果の平等論」などなどの、臭い旧態思想が露骨に描出されていることを難じてみたまでにござ候。事実、この党の現在の階層構成を推測してみれば、教員や公務員が党員のあらかたを占めているらし。一般の労働者や勤労者は、いたって少なくなっちまったと、つい最近、今でも活動している知り合いの党員が70年代とは隔世の感があると嘆いていたのを耳にした。さもありなん。日本共産党は労働者の政党というよりは、インテリと役人の政党なのである。

よって、誰かさんが申していた「日共下部党員諸君と創価学会員とは何か似ている」にははまったく同感です。共産党にしても創価学会にしても、イデオロギーなどを別にして暮らし向きのことを言えば、生活圏内における信仰心を共鳴させて安住する共同生活社会をつくっているわけですが。70年代は、双方、下町では拮抗していたが、いまや完全に創価学会のほうが庶民的であることが証明され、理屈っぺの共産党は追いやられたということでしょうマルクスの階級論も、地に落ちたといわざるを得ません。つまり、私もそうですが最下層と言われていた労働者諸君は、社会主義(共産主義)を見限ったということですね。いうなれば、そもそもインテリ好みアカデミック好みの共産党自身が、そもそも最下層の人々などには目もくれなかったようなところがあったのです。思想的に。ミヤケンの言動などをつぶさに調べてみれば、よく分かりますよ。その通りになってきたということでしょう。日本の庶民はマルクスより日蓮のほうが思想的指導者としても、親しみがあったということでしょうか。これまた当然至極のことだと思いますね。

ま、私の場合は、創価学会であれなんであれ新興宗教団体というものにアレルギーを持っていますから、どうも好きにはなれませんが。同時に、年をとるとともに、若い頃はあれほど心酔していたマルクス主義や社会主義思想というものも、いかに眉唾ものであったかという感想を深めるばかりにございます。いまさらと言うなかれ。やはり思想とか理屈が先にあるものではないということでしょうね。現実社会のさまざまな位相が、真実を教えてくれるのです。イデオロギーなんてものは、すべてこれ、お先走りのようなものですよ。マルクスにしてもミヤケンにしても、彼らの理屈は、株の予想屋に大差はないように思いましたね。社会がどうなるか。人類の将来はどうなるかなど、どんな偉い思想家にも、こればかりは分かりませんよ。マルクスとミヤケンが違っているのは、マルクスには哲学があった。ミヤケンには哲学といえるようなものは何一つない。好意的に見ても、ただの政治屋、または経営者というところである。この二束三文の柔道二段、老いては猟犬をともなって「鉄砲ぶち」に行くことが唯一の趣味だったらしい。

宮本が本部に出てくるのは、週のうちせいぜい半分である。あとは自宅にこもり、用事があれば幹部であろうと誰彼と無く電話一本で呼びつける。都下多摩市にある彼の自宅には、別棟の防衛が住む三軒の家があるが、そこには自宅に呼びつけた幹部たちと討議を交わすための会議室が用意されている・・・この三軒の家にしても、純粋に防衛の任にあたる党員のために使用されているわけではない。宮本の趣味はピンポンと将棋だが、この三軒のうちの真ん中にある家にはピンポン台がセットされていた・・・代々木の本部における宮本の生活も、贅沢そのものである。彼の執務室が本部の六階にあるが、そこに行くためには、まず防衛たちがたむろする五階の関門を通らなければならない。ここには電動式の防弾ガラス張りの扉があり、あらかじめ用件を告げてOKが出ない限り誰も中に入ることはできない・・・執務室は三つの部屋からなり、すべて部屋の窓は防弾ガラス張りになっている。まず手前が応接室、真ん中の部屋が執務のためのもの。奥の部屋は「委員長用休憩室」でベッドが置いてある。そしてこの部屋には十年来身の回りの世話をさせているお気に入りの看護婦意外には寄せ付けない。だから内部がどうなっているのか、何のために使用されているのか、私ですら今日に至るもわからない。執務室や応接室の内部はまるで大企業の社長室のようなものだ。床は部厚いフェルトを敷き詰め、その上に毛足の長い絨毯が敷いてある。調度品も豪華なものばかりである。一般の党員が、この有様を見たら、なんと思うであろうか。全国の党員が、楽ではない生活の中で宮本の号令一下、日夜「赤旗」の拡大に走り回って紙代の回収に腐心している。集金が思うようにいかない場合は、乏しい給料を割いて上納している。そうした血のでるような貴重な金で、宮本は個人的な贅沢をほしいままにしているのだ。代々木の本部の近くには、地方の党員が上京した場合に利用する「千駄ヶ谷寮」と呼ぶ鉄筋四階建ての宿泊施設があるのだが、その四階全フロアを宮本は「委員長用」に確保して誰にも使わせない。部屋の入り口は鋼鉄の扉で、窓も防弾ガラス。内部に入るのは、例の看護婦か防衛ぐらいなもので、これまた何のために必要なのか、誰しもいぶかるところである・・・「昨日の同志宮本顕治」袴田里見著より

創価学会元会長の池田大作はなぜに頭を丸めて出家しないのだ。彼の場合もミヤケンに、なにひとつ変わりはない。死ぬまで世俗的欲望にまみれていたいのである。インドにおけるガンジーを見ろ。金と欲にまみれた、この二匹の豚に、静かに糸車をまわすガンジーの痩身と哲学および信仰は見えるはずもない。大笑いの似たもの同士が下っ腹をふくらませては大威張りで演壇に立ち、衆愚庶民を相手に「2×2=4」だと、分かりきった理屈を材に説教をたれてきただけのことである。これらの現象も戦後日本の思潮における歴史的な「負」の軌跡を示しているに違いないのだ。

(2006.10.20記)

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▼きれいは弱い 汚いは強い

2016年09月24日 | ■歴史的なあまりに歴史的な弁証法

 

今月号の『文藝春秋』を読んだ。芥川賞の受賞作が掲載されていたので、さっそく買い求めたのだが、最近は毎度のことながら、やはり今回も失望を禁じえなかった。

本誌中、何より興味を引いたのは、『ローマ人の物語』を完結させて今や推しも推されもしない歴史小説の大家、塩野七生(しおのななえ)さんの連載物だった。タイトルは『日本人へ 百六十 ローマ帝国も絶望した「難問」』とある。塩野さんは書いている。

歴史に親しむ歳月が重なるにつれて確信するようになったのは、人間の文明度を計る規準は二つあり、それは人命の犠牲に対する敏感度と、衛生に対する敏感度、であるということだ。と同時にわかったのは、この敏感度が低い個人や民族や国民のほうが強く、負けるのは文明度の高い側で、勝つのは常に低い側、ということである。

これは驚きだった。一般にわれわれが学校などで教わり、また信じてきたいわゆる発達史観では文明国こそ世界を支配してきたのであって、野蛮な民族や国家に負けるはずはないと、一般にはそのように思われきたのではないか。現在でも、わたしなどは単純に、そのように信じている。

そこで、もう一度、塩野さんの上の文章を噛み砕くようにして読んでみた。

二つの問題があって、ひとつは「人命の犠牲に対する敏感度」と塩野さんは言う。たしかにそうだ。今昔では、死についてばかりは大きな考えかたの差があるようだ。70年前までは、お国のためとか親方様のためなら死んでもよいとおおぴらに高言でき、またそうした死を許容する思想上の環境があった。大東亜戦争だけのことではない。近代戦争以前となれば武士には切腹という美学もあったし、敵(あだ)討ちなどという公認殺人すら日常茶飯事だった。

ほんの七十年前からなのだ。「人の命は地球より重し」などというおかしな世迷言が流行したのは。つまり、昔は人命に対しては、現代ほど生きるか死ぬかについて、いちいち全国ニュースで取りざたされるほど、やかましくはなかったのである。たとえは良くないが、ようするに昔は、それも昔にさかのぼればのぼるほど、人というものは、子どもでも大人でも老人でも、男も女も、実に見事に、ばったばったと片っ端から死んでいったのである。よしあしは、別にしても現代を敏感というなら昔はたしかに鈍感だった。そして塩野さんは鈍感のほうが強く、敏感のほうが弱いとおっしゃる。そういわれてみれば、徐々にだが、だんだんと分かってきたような気がする。

もうひとつは「衛生に対する敏感度」があると言う。わたしは戦後まもなく、農村で育ったものだから、あの不衛生な便所の汚らしさたるや恐るべきものだった。やがて水洗便所というものが現れて、使用できるようになり、生きていてよかったと思ったほどだ。かように便所の進歩と変遷については身をもって経験してきた。便所についていえば、かなりのところまで進歩してきたことは間違いない。これも塩野さんは、衛生のほうが弱く、不衛生のほうが強いのだとおっしゃる。わたしも、もはや昔のボットン便所には便秘を我慢してでも入りたくない。入れないように生理が漂白されてしまっているのだ。

ようするに免疫力のようなことなのか。少々汚くても臭くても、目的さえ達せれば、細かいことは、こだわらないとなれば、言うまでもなく、不衛生でも、かまわないというほうが生き物としては強いに決まっている。どうやら塩野さんは、このようなことに警鐘を鳴らしているのである。

地球温暖化とは、よく耳にする話だが人間それ自体が、昔に比べれば生き物として、むしろ退化しているとなれば、こちらのほうがよほどヒト科にとっては根源的な存亡の危機たる問題なのである。

塩野さんは、さらに言う。ようするに古代ローマ帝国が滅亡したのも、ローマに比べれば、よほど非文明であったゲルマンの蛮族に侵入を許すがままだった。

子どもがドナウ河の波に呑まれようと、女が何人死のうと、いさいかまわずに河を渡って押し寄せてくる蛮族の数の前に圧倒されてしまった。

カエサルが作った国境線を、次々と越えてくる蛮族の力を目の当たりにしてドナウ河のこちら側で砦を守っていたローマ兵たちは、もはやなすすべもなく、ここに帝国の滅亡を予感し「絶望」していただけではなかったのかと。

 

 

 

 

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▼紫陽花の古道具屋の古雑誌

2016年09月07日 | ■歴史的なあまりに歴史的な弁証法

 

2011.06.11 川崎市


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


散歩道上の骨董屋で古雑誌を広げてみる。昭和33年七月号「文学界」である、当時、わたし
は小学生であり、目次に明記されている作家各氏の年齢はそれぞれ、昭和元年生まれの
三島由紀夫は33歳。高見順や正宗白鳥は50代、臼井吉美や中村光夫、山本健吉、福田
恒存などは40代。城山三郎も石原慎太郎も有吉佐和子も、まだ20代ではなかったかと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<2011.06.11 記>

 

 

 

 

 

 

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▼良書紹介 『エンゲルス』 

2016年09月02日 | ■歴史的なあまりに歴史的な弁証法

 

2016.08.31 自室にて

 

だいぶ夜も更けてきて朝から読んできた『エンゲルス』をたった今読み終えたところだった。本を閉じながら感極まり、ため息まじりに目を上げた。すると窓ガラスの向こう側にいつの間にか珍客が訪れていた。

 

 『エンゲルス』 トリストラム・ハント著 東郷えりか訳  筑摩書房 2016.03.25刊

 

 

 

 

 

 

 

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▼義民六人衆

2016年01月23日 | ■歴史的なあまりに歴史的な弁証法

 

今日は池上通りを、大井町駅から蒲田駅まで歩く。大森駅をすぎてすぐのところに善慶寺がある。ここに、以前より何度か話を聞いていた「義民六人衆」の墓がある。今日は、義民六人衆の墓参りが目的で、ここまで歩いてきたわけではなかったのだが、時間もあったことで念入りに線香をあげてきた。境内に東京都教育委員会が建てた案内看板があって、そこに次のように書かれてあった。



江戸時代の荏原郡新井宿(えばらぐんあらいじゅく)村は幕末にいたるまで旗本木原氏の知行地であった。延宝元年(1673年)の旱魃(かんばつ)、翌年の多摩川の氾濫(はんらん)による洪水や長雨などの天災で農民の困窮ははなはだしく、過酷な年貢収奪に耐えかねた村民は、十九ヶ条の訴状を提出して年貢の免除を願い出た。この訴えは黙殺されたため、主だった百姓六人が将軍家継に起訴(おっき)しようとした。だが、決行直前に捕らえられ処刑された。

<2008.06.02  記>

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▼合衆国水師提督伯理上陸

2015年05月02日 | ■歴史的なあまりに歴史的な弁証法

 

2015.05.02 横須賀市久里浜 ペリー公園

 

泰平の眠りを覚ます蒸気船たった四杯で夜も眠れず 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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▼良書紹介「風の男 白洲次郎」

2014年04月25日 | ■歴史的なあまりに歴史的な弁証法

以前、NHK・TVの「その時歴史は動いた」という番組で吉田茂が特集されていたが歴史について物の知らないわたしは目からうろこが落ちる思いだった。そもそも戦中の吉田は「ヨ・ハンセン(反戦)」と自ら揶揄してはばからなかった自由主義者であったという。

新憲法の最終案がGHQから問答無用で提示され、これを白州次郎ら3名の吉田のブレーンが三日三晩、夜を徹して翻訳したものだったという。それが現在の日本国憲法である。白州は伝説中の男である。小林秀雄と同年生まれで、戦後交際が生まれ小林からしきりに、次郎だけが知っている憲法翻訳夜話のようなものを書けと言われていたが、白洲は、ついにそれを書かずに、晩年は町田市郊外の山奥に引っ込んで農作業に明け暮れていた。

サンフランシスコ講和条約締結のさいにも吉田茂に乞われて随行した。締結成就の有名な吉田演説の草稿が前夜のうちに別の随行員によって英語で書かれ、吉田も英語で演説するつもりだったらしいが、これに白州が横槍を入れ日本語に書き直させたという逸話がある。このときも徹夜の作業だったそうだ。巻紙に逆翻訳するように日本語を書き取っていった。巨大な巻紙が出来上がった。

次の日、演壇にたった吉田が、これを両手でくるくると巻き取りながら演説している様子は、なんども放映されている名場面である。白州次郎は条約締結は双方、対等な立場であるべきで、日本人が日本語で演説できないではしょうがない。戦勝国に精神まで屈服してはならないと言いたかったに違いない。単独講和については、その後、左翼が保守派を攻撃する最大の眼目となったが、吉田としては米軍の占領下にあった日本の独立を勝ち取るためのタイミングを見ていたのだという。

GHQ作成の憲法案を呑んだのは占領をやめさせ日本の政治的独立を勝ち取るための第一段階だったのではないだろうか。 戦争放棄、軍備放棄を宣言している9条は、当時から問題だった。最左翼の共産党自身、軍備放棄の9条は古今東西聞いたことない机上の空論めいて到底認められないとして反対していたときく。だがGHQにさからっては、いつまでたっても主権回復が見えてこない。吉田の政治的センスが働いていた。

さらにいつまでもソ連、中国の意向を気にしていては、これまた独立はいつまでたっても不可能となる。とりあえず米国、米軍を納得させ、彼らと妥結することだけが、当時焦眉となっていた政治課題だったのである。吉田茂は名宰相である。吉田のブーレンとして働いた白州次郎の名を忘れてはならない。



以上 2006.12.30 記

 

さて問題は日本国憲法の、それも絶対平和を奉じる例の9条が詠う戦争放棄 武力放棄という夢物語の条項が、なぜに、どのようして、どこから生み出されてきたのかという疑問である。この問題の解明に向かってこそ大いに論じるべきだろう。日本人ならば。 

 

 

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▼「その夜の侍」

2013年04月12日 | ■歴史的なあまりに歴史的な弁証法


日本童謡集(岩波文庫)より

吹雪の夜、傷を負い、お祖父さんの家に逃げ込んできた、その「若いお侍」とは、薩長に破れ北に向かって敗走中の会津藩の侍ではなかっただろうか。

いずれにしても、このときの「鳥羽伏見の戦い」によって戊辰戦争の火蓋が切っておとされた。京都守護職にして東北の雄、会津藩は、いつの間にか、王政復古及び倒幕スローガンのもと、東征してきた薩長軍の格好の標的にされてしまった。

実に明治維新とは会津藩の壊滅をもって事実上完了したと言っても過言ではないだろう。

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▼わたすも「近代」「現代」というものを疑問に思う

2010年07月03日 | ■歴史的なあまりに歴史的な弁証法
<2010.07.01 産経新聞>
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▼江戸城散歩<9>

2010年05月24日 | ■歴史的なあまりに歴史的な弁証法
<2010.05.22 田安門>
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▼江戸城散歩<8>

2010年05月24日 | ■歴史的なあまりに歴史的な弁証法
<2010.05.22 田安門>
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