今朝ほどの報道によれば富岡製糸場がユネスコ認定の世界遺産に登録まじかだとのこと。うれしく思った。そこで少々調べてみたことを記しておく。
富岡製糸場は、明治5年竣工とのこと。明治5年とは西暦に直せば1872年である。わたしが直感したのはまず、1872年当時、「資本論」著者カールマルクスも、「罪と罰」の著者ドストエフスキーも健在であったに違いない。わが国では福沢諭吉やら、その他大勢が、われこそは、われこそはとその知見と実力を争っていた。なにしろ戊辰戦争が終わったのは前年のことであり。これから五年後には国内最大の内戦だと言われて久しい西南戦争が勃発するという有様である。近代とは、かくのごとき戦争と戦争の合間を見透かして現出してきたような感すらする、わたしなりの妄想に他ならない。
朝日新聞オンラインより (写真借用御免) 富岡製糸場全貌
富岡市ホームページより (写真借用御免)
竣工が明治5年、すなわち西暦1872年というならば、すくなくても5、6年は前から計画はできており、工事の着工ぐらいは始まっていたに違いない。6年前ともなれば大政奉還以前の慶応期のことではないか。とにもかくにも、絹を糸へと量産するために国家プロジェクトとして群馬県は富岡の地に、現代の金銭価値におきなおせば33億円ほどが投資されて一大工事が始まった。フランス人の技師が招請され、またフランス人なる婦人の幾人かが、ここで働く女工たちの訓練にあたったとのことなり。約400名の女工たちが集められた。全国からというが、それはどうかと思う。だが、その多くは士族の娘たちだったという。読み書きソロバンはもとより一定程度の教養のある娘たちが募集された。寮は完備され日日の労働は8時間。もちろん日曜日は休み。娘たちは最新の機械の前で、実に生き生きと効率的に働いた。
一年もしないうちに世界絹糸選手権で銀メダルをとったほどにまで成り立ちそうろう。ここで作られた絹糸はわが国の輸出貿易の目玉商品となったのである。工場の動力は蒸気でまかなっていたらしい。この工場が電化されるのは昭和も終戦まじかのことだった。
さて冒頭に弁じたように、わたしが、この件で、感銘を深めるのは当時の激動する世界の中での、はてさてまたまた激動していた列島のなかの現実を、今日の、わたしらが、いかに想像できるか、いなかということだ。カールマルクスもドストエフスキーもトルストイも健在だった。パリコミューンの騒ぎは富岡製糸場竣工前年のことである。すでにロンドンでは、この10年前から地下鉄が走っていた。こうした、いろいろのことを思い巡らすと花咲ける19世紀と言う俗諺がますますわが身にしみてくる。