赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼がんばれ日本 花咲ける十九世紀

2014年04月27日 | ■歴史的なあまりに歴史的な弁証法

 

今朝ほどの報道によれば富岡製糸場がユネスコ認定の世界遺産に登録まじかだとのこと。うれしく思った。そこで少々調べてみたことを記しておく。

富岡製糸場は、明治5年竣工とのこと。明治5年とは西暦に直せば1872年である。わたしが直感したのはまず、1872年当時、「資本論」著者カールマルクスも、「罪と罰」の著者ドストエフスキーも健在であったに違いない。わが国では福沢諭吉やら、その他大勢が、われこそは、われこそはとその知見と実力を争っていた。なにしろ戊辰戦争が終わったのは前年のことであり。これから五年後には国内最大の内戦だと言われて久しい西南戦争が勃発するという有様である。近代とは、かくのごとき戦争と戦争の合間を見透かして現出してきたような感すらする、わたしなりの妄想に他ならない。

 

朝日新聞オンラインより (写真借用御免) 富岡製糸場全貌 

 

 

富岡市ホームページより (写真借用御免)

 

竣工が明治5年、すなわち西暦1872年というならば、すくなくても5、6年は前から計画はできており、工事の着工ぐらいは始まっていたに違いない。6年前ともなれば大政奉還以前の慶応期のことではないか。とにもかくにも、絹を糸へと量産するために国家プロジェクトとして群馬県は富岡の地に、現代の金銭価値におきなおせば33億円ほどが投資されて一大工事が始まった。フランス人の技師が招請され、またフランス人なる婦人の幾人かが、ここで働く女工たちの訓練にあたったとのことなり。約400名の女工たちが集められた。全国からというが、それはどうかと思う。だが、その多くは士族の娘たちだったという。読み書きソロバンはもとより一定程度の教養のある娘たちが募集された。寮は完備され日日の労働は8時間。もちろん日曜日は休み。娘たちは最新の機械の前で、実に生き生きと効率的に働いた。

一年もしないうちに世界絹糸選手権で銀メダルをとったほどにまで成り立ちそうろう。ここで作られた絹糸はわが国の輸出貿易の目玉商品となったのである。工場の動力は蒸気でまかなっていたらしい。この工場が電化されるのは昭和も終戦まじかのことだった。

さて冒頭に弁じたように、わたしが、この件で、感銘を深めるのは当時の激動する世界の中での、はてさてまたまた激動していた列島のなかの現実を、今日の、わたしらが、いかに想像できるか、いなかということだ。カールマルクスもドストエフスキーもトルストイも健在だった。パリコミューンの騒ぎは富岡製糸場竣工前年のことである。すでにロンドンでは、この10年前から地下鉄が走っていた。こうした、いろいろのことを思い巡らすと花咲ける19世紀と言う俗諺がますますわが身にしみてくる。

 

 

 

 

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▼アゲハに出会う

2014年04月26日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

 

 

2014.04.26 横浜市

 

 

 

ツマグロヒョウモン♂

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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▼カフェの帰り道

2014年04月26日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

 

2014.04.26 横浜市

 

 

 

 

 

ハルジオン

 

 

 

 

 

 女郎花(おみなえし)咲く野に生ふる白つつじ・・・万葉集

 

 

 

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▼良書紹介「風の男 白洲次郎」

2014年04月25日 | ■歴史的なあまりに歴史的な弁証法

以前、NHK・TVの「その時歴史は動いた」という番組で吉田茂が特集されていたが歴史について物の知らないわたしは目からうろこが落ちる思いだった。そもそも戦中の吉田は「ヨ・ハンセン(反戦)」と自ら揶揄してはばからなかった自由主義者であったという。

新憲法の最終案がGHQから問答無用で提示され、これを白州次郎ら3名の吉田のブレーンが三日三晩、夜を徹して翻訳したものだったという。それが現在の日本国憲法である。白州は伝説中の男である。小林秀雄と同年生まれで、戦後交際が生まれ小林からしきりに、次郎だけが知っている憲法翻訳夜話のようなものを書けと言われていたが、白洲は、ついにそれを書かずに、晩年は町田市郊外の山奥に引っ込んで農作業に明け暮れていた。

サンフランシスコ講和条約締結のさいにも吉田茂に乞われて随行した。締結成就の有名な吉田演説の草稿が前夜のうちに別の随行員によって英語で書かれ、吉田も英語で演説するつもりだったらしいが、これに白州が横槍を入れ日本語に書き直させたという逸話がある。このときも徹夜の作業だったそうだ。巻紙に逆翻訳するように日本語を書き取っていった。巨大な巻紙が出来上がった。

次の日、演壇にたった吉田が、これを両手でくるくると巻き取りながら演説している様子は、なんども放映されている名場面である。白州次郎は条約締結は双方、対等な立場であるべきで、日本人が日本語で演説できないではしょうがない。戦勝国に精神まで屈服してはならないと言いたかったに違いない。単独講和については、その後、左翼が保守派を攻撃する最大の眼目となったが、吉田としては米軍の占領下にあった日本の独立を勝ち取るためのタイミングを見ていたのだという。

GHQ作成の憲法案を呑んだのは占領をやめさせ日本の政治的独立を勝ち取るための第一段階だったのではないだろうか。 戦争放棄、軍備放棄を宣言している9条は、当時から問題だった。最左翼の共産党自身、軍備放棄の9条は古今東西聞いたことない机上の空論めいて到底認められないとして反対していたときく。だがGHQにさからっては、いつまでたっても主権回復が見えてこない。吉田の政治的センスが働いていた。

さらにいつまでもソ連、中国の意向を気にしていては、これまた独立はいつまでたっても不可能となる。とりあえず米国、米軍を納得させ、彼らと妥結することだけが、当時焦眉となっていた政治課題だったのである。吉田茂は名宰相である。吉田のブーレンとして働いた白州次郎の名を忘れてはならない。



以上 2006.12.30 記

 

さて問題は日本国憲法の、それも絶対平和を奉じる例の9条が詠う戦争放棄 武力放棄という夢物語の条項が、なぜに、どのようして、どこから生み出されてきたのかという疑問である。この問題の解明に向かってこそ大いに論じるべきだろう。日本人ならば。 

 

 

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▼がんばれ福島ゴジラ

2014年04月23日 | ■軍事を知らずに平和を語る資格なし

 

日曜の夜のNHKテレビで「原発廃炉への40年」という番組を見て、ほんのわずかの希望と光が見えたように感じることがあったので、そのことを書いておく。

確かに廃炉を完遂するまでは、これから何十年とかかることは耳にたこができるほど聞かされている。廃炉のための作業とは、ほとんど過去に前例がない中で、関係者の苦しい暗中模索が続くであろうことは素人のわたしにも良くわかる。たまる一方の汚染水をどうするのかという問題もある。

福島第一原発が立地する自治体は大熊町である。画面では町長さんが町の復興計画を説明されていた。大熊町も、最近になってやっと避難勧告がとかれ戻りたい町民は故郷に戻ってくることができるようになった。さて、その計画案だが。原発から6キロほど離れた比較的平坦な土地を整地し、ここに3000人規模の町を作るとのこと。映像でも写されていたのだがすでに工事が始まっていた。だが、これだけの話なら面白くもおかしくもない。

すなからず驚いたのは3000人のうち2000人は廃炉事業に携わっている原発作業員に住んでもらい。残り1000名が3年にわたって避難していたそれぞれの場所から帰ってきた大熊町民だとのことだった。感情的な原発憎しのままでは、こうした計画は立てようが無い。苦渋の選択というには、また一味ちがった計画らしい。なにかと白い目で見られがちな作業員たちも町民とともに町で暮らせるとなれば心身ともに、どれほど助かることか。国や県の意向もあったとはおもうが大熊町の英断に拍手を送りたい。

もう一つの光は、実際の廃炉作業にあたって、次々と新しい道具が開発されていることである。原子炉の中の状況を調べるために直径10センチの管を伝って原子炉内にカメラを持って入り込めるような蛇型ロボットが開発されたのだという。映像からは、生き生きと働く大手メーカーの技術者たちが知恵を絞りあい原発という難敵に向かって格闘している姿に希望の光を見た。

現在、世界には何基ほどの発電用原子炉があるのだろうか。おそらく500基は下るまい。誰しもに死がおとづれるように原子炉も廃炉されるときがくる。自動車ならぺちゃんこにつぶして廃車となるが原発の場合はそうはいかない。だが希望はある。福島第一原発廃炉工程で培われたわが国の技術と、それをささえた技術者が、やがて世界中から三顧の礼をとって招請される日がくるだろう。日本のメーカーが作った原子炉は間違いなく優秀だが廃炉工程においても日本の技術が世界一だと、そう言われたいではないか。

 

 

 

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▼町内散歩の帰り道

2014年04月23日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

 

2014.04.23 横浜市

 

 

 

 

 

 

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▼カフェの帰り道

2014年04月22日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

 

2014.04.22 横浜市

 

 

 

 

 

 

 

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▼都県境を歩く

2014年04月19日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

 

2014.04.19 丸子橋

 

 

 

 

多摩川

 

 

ハナミズキ

 

 

 

 

 

 

 

 

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▼カフェの帰り道

2014年04月18日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

 

 

2014.04.18 横浜市

 

 

 

 

 

 

モクレン

 

 

 

ハナミズキ

 

 

 

 

 

 

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▼桜散りハナミズキ咲く

2014年04月14日 | ■今丼政幸君との対話

 

 

 

2014.04.14 横浜市

 

 

 

 

●以下、ウキぺっぺより

北アメリカ原産。日本における植栽は、1912年に当時の東京市長であった尾崎行雄が、アメリカ合衆国ワシントンD.C.へサクラ(ソメイヨシノ)を贈った際、1915年にその返礼として贈られたのが始まり。この話は、1981年改訂版の日本の中学生向け教科書『NEW PRINCE』中3版でもエピソード的に取り上げられた。なお、2012年にサクラの寄贈100周年を記念して、再びハナミズキを日本に送る計画が持ち上がっている。

 

 

 

 

 

 

 

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▼夜勤明けの東京散歩

2014年04月13日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

 

 

2014.04.13 足立区

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

 

 

渋谷区

 

 

 

 

 

ハナミズキ

 

 

 

 

 

 

 

 東大駒場キャンパス

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

  東大に白きタンポポ咲きにけり

 

 

 

 

 

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▼うららかな大山街道を下る

2014年04月11日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

 

 

2014.04.11 川崎市

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

   

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

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▼古道具屋の帰り道

2014年04月10日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

 

2014.04.10 川崎市

 

 

 

 

 

  

 

  

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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▼街道に咲くすみれやすみれ

2014年04月07日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

 

 

2014.04.07 川崎市 中原街道

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 矢尽き刀折れ兜も曲がる

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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▼良書紹介「河北新報のいちばん長い日」

2014年04月06日 | ■今丼政幸君との対話

 

読書人を自負する人の中には毎日のように書店に足を運んでは、なにか一冊でも買わずには一日が終わった気がしないなどと自慢する猛者をよく見かける。問題は読んだか読まないかであり、本を購入するだけなら、金さえあれば誰でもできる。中には隅からすみまで読みましたとネット上などで豪語するお人もいるが、さらに問題はどこまで著者に寄り添って読めたかどうかの話であり、読んだ当人が一向に半可通のままでは本に笑われてしまう。

さて恥ずかしながら拙者の場合も今日は、散歩のついでに、ついつい書店に入ってしまい三冊もの本を購入してしまった。これまでの経験から本の購入にあたっては、だいたいが一時間もしないうちに後悔するのが落ちとなる。とくに新刊の場合はそうである。家まで持ち帰ってから、こんな本は買わなければよかったと泣きの涙だ。

だが、本日入手したものについては、いまのところ後悔の念は沸いてこない。多少は面白そうな本ではあるし、財布と相談しつつ、よくよく選らんだという確信もある。明日からでも、なんとか表紙を開いて読んでみたいと心しているところなり。

それにしても読書とはなんと面倒な作業であることよ。ああ考えるだけで、めんどうくさい。手に持つ本が重い。目が疲れる。そのうち頭がぼんやりしてきて眠くなる。そうすると、いっそ本に馬鹿にされているように自分が惨めになってきてしまう。そんな嫌な思いに浸るぐらいなら、さっさっと寝たほうが身のためだという調子である。

ああめんどうだ、めんどうだ。

 

 

2014.05.04 読売新聞書評欄より

 

 

 

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