赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼小林秀雄と私<宮沢喜一>

2007年06月30日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
宮沢喜一元首相が死去(朝日新聞) - goo ニュース

以下、「新潮」(昭和58年4月)小林秀雄追悼記念号より

追想 宮沢喜一(衆議院議員 63歳)

拙い一文を捧げて永い間の御厚誼に対するお礼に代えます。学生時代からの憧れであった小林さんにお目にかかれるようになったのは昭和30年代のはじめで、永野成夫さんのおかげでした。

フランス文学の方々のお集まりの末席に私も加えていただいたのです・・・昼のゴルフも夜のお座敷も大変にぎやかで、夜などはもう少しで喧嘩になるかと思ったことも何度かありました・・・雑誌などに頼まれて私が書くものを時々見ていて下さったようで、「君の文章は、考えがあっちへ行ったりこっちへ行ったりしていて、結局何を言いたいのか、読んでも分からない。

それは君自身が考え詰めていないからだ。頭でボンヤリ考えるのではなく、紙に字を書いてそれを削って行くとはじめて自分の考えが整理される」と、何度も言われました。小林さんのお書きになったものは、いわば出来上がった仏像をみるようなもので、大きな木材から余分なものが全部削り落とされた後の残りだけを読者は読むわけですから、そこへ来るまでになにがあったのか、なぜそこへ到着したのかが、なかなか分かりません。

小林さんも別段意地悪で分かりにくくしておられるわけではなく、出来上がりの姿としてはこれしかない、そこへ来るまでの道筋は自分と同じ苦労をした人には分かるはずだ、ということなのだろうと思います。ですから私は以前には小林さんの講演や座談会のナマの速記をこっそり見せてもらい、流石の巨匠もこれだと世間並みにムダが残っていて、考えておられることのだいたいの見当がつくのです。

本居宣長とその補記を頂戴しましたが、わざわざ私の名前をお書きくださったカードが挿まれていまして、光栄なことだと思いました。最近はお目にかかる機会もありませんでしたが、ご動静は白州(正子)さんや吉井さんからよく伺っておりました。ご容態がお悪いと聞いた最後の数日は落ち着かない気持ちでおりました。一期一会と申しますが、謦咳に接することができたことを仕合せだったと思っております。
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▼急に涙が流れ落ちたり

2007年06月29日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

以下、コメント欄より・・・・ 

先日、本を二冊買いました。その中にこんな詩がありました。

    ママ
        田中大輔

 あのねママ ボクどうして生まれてきたのかしっている?
 ボクね ママにあいたくて
  うまれてきたんだよ

大輔君の詩に感動しました。まいったよ。大輔君にかないません。
あなたは、どうして生まれてきましたか?と問われればうーんと考
え込んでしまいますね。言葉が出て来ません。大輔君ははっきりと
言っている。なんの迷いもなく、ボクね ママにあいたくて 
うまれてきたんだよ 
大輔君にはかなわないと思いました。


こんにちは。ほんまに子どもは詩人だと思いますね。田中大輔君の詩といい、どうして、子どもは、こんなにいい言葉が口をついて出てくるのでしょうね。感服します。わたしも子どもの言葉と申しましょうか、詩といいましょうか、いくつか常に頭に入っている句があります。その中で一番好きな句が下のものです。

おかあさん、ぼくの机の引き出しの中にできた湖をのぞかないでください。

「日本一短い母への手紙」(1994年)


作ったのは福井県丸岡町の11歳の男の子さん。この句ばかりは忘れられません。93年に丸岡町で募集した「一筆啓上賞」で一等賞となった句です。丸岡町は例の「一筆啓上 お仙泣かすな 馬肥やせ」で有名な処。それにあやかり、町おこしの一環として「日本一短い母への手紙」を募集したと聞きます。後日、優秀作をまとめて一冊にされました。私は、その本で読んだのです。

思うに、子どもたちが言葉を発するときは、かならず聞き手がいるということです。当然、文字に書かれたというよりは、会話の中で発見される。大輔君も、丸岡町の少年も、はっきりとお母さんに対面して、お母さん個人と話をしている。その場面が目に浮かびます。

これは意地悪で云うのではないのですが、おそらくお子様のある日のおしゃべりを母親なりが覚えていたか、または筆記しておいたかしたものを募集元に届けたのではないでしょうか。

田中大輔君の「あのねママ」という詩にも同じような背景がしのばれるのです。子どもさんが、直に文字で書いておいたものではない。おかあさんに向かって、そのようにしゃべった。そのときのお子さんの言葉が感銘深く、忘れられずにお母さんが頭の中で覚えていた。または筆記しておいた。

子どもは詩人だといいます。でも、その作品なりを世に出すためには、まず文字化しておかねばなりません。さらに版元なりに送らなければならない。ここに大人が、重要な役割を持たされていると思うわけです。

親であれ、教師であれ、誰でもよいですが、まるで聞き取り者か、翻訳者のように、その子の詩心に満ちた、ある日の驚嘆すべき言葉を、広く、われわれまで伝えてくれている、そうした役目を持っている大人たちの存在です。子どもさんのおしゃべりを、感銘深く、大切に聞き取った大人が存在していなければ、上の句なども私の目には触れることもなかったでしょう。

最初に、その子の言葉を耳にした大人が、子どもの、そのときの言葉をとどめておかなければ、また発表しなければ、広く知られることは、まずありません。

子どもは通常、なにも詩を作ろうとして話しているわけではない。子どもの詩の多くは、たまたま口をついて出てくるのです。機嫌よく遊んでいる子どものおしゃべりを聞いていると、本当に楽しいものです。

しょっちゅう「詩」らしきものが発せられている。どんな子でもそうです。こうした現象も面白いことだと思います。

そう云えば和歌集などには、本歌を説明する「詞書(ことばがき)」というものがありますね。短い解説文です。この詞書(ことばがき)によって、歌の本体の意味や状況が理解できるということがある。歌によっては詞書がないと、何を歌っているのかさっぱり理解できないものも多い。いつ、どういう状況で読まれたのか、数行の説明があって、歌人がおかれている環境や歌の本懐が、はじめて読者に伝わってくる。

これを広義に解釈すると、文学にとって翻訳者、仲介者、編集者という役割の重要性という問題が浮かんできます。音楽でいえば演奏者の存在であり、さらに楽器の存在ともいえるでしょうか。

子どもの詩などを発表するにいたる、この過程における、例えばおかあさんなり大人たちが果たすべき役割に文化的文学的に大切な意味があると思いました。

もちろん、子どものおしゃべりをいちいち書き取っておき、発表しなければならないという義務も仕事もないわけで、問題は、どんな子どもでも日々、発しているであろう詩心に満ちた言葉を、お子さんと、対面している大人が、たっぷりとした幸福な感覚で聞き届けることができるかどうかだと思うわけです。

急に涙が流れ落ちたり母上に裾からそっと蒲団をたたかれ・・・北原白秋

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▼都市に従事する貧民階級の群れ

2007年06月28日 | ■教育年金管理人泥炭氏との対話


 世界人口の約半数が、いまや都市に住むようになったのだそうだ。とりわけアジアではその傾向が顕著だと聞く。さもありなんと思う。

ま、人のことは言えない。私にしてからが40年前、田舎を捨てて東京に来た。理由は簡単だ。田舎に比べれば都会のほうが暮らしやすいのである。暮らしやすいというのは、便利だということだ。それだけだ。

便利だということは安んじて日々を送れるということであり、他には田舎に比べて都会のほうが暮らしやすいという理由はたいして思いもつかない。田舎にいればどうしても避けられないもろもろの苦労も都会で暮らしていれば避けられるのである。それが現実だし実際だ。都会に居れば総じて楽なのである。

ここで考えてみたいことは、暮らしが楽なら人生も楽になるものなのかということだ。そうかもしれない。だが、人生はパンのみにあらず、という言葉もある。苦労は買ってでもしろ、という言葉もあった。

第一、苦労知らずに楽々と過ごしてきた人生など誰にとっても言及する価値もないだろう。少なくても都会暮らしを自慢したり、人間関係などを含む生活一般を、自分の場合は楽々とこなしています、などと豪語する馬鹿に私はこれっぽっちの用もない。

つれづれといふ言葉いまは忘れられ競技のごとく今日も走りぬ・・・・片山広子

 


 

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▼紫陽花

2007年06月21日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
昨日は婿殿と一緒に近くの公園で紫陽花を見てきた。晴天の暑い一日の午後だったので花はいささかくたびれていたようだ。

あじさいにバイロン卿の目の色の宿りはじめる季節と呼ばむ・・・大滝和子
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▼「週刊文春」 有田芳生

2007年06月12日 | ■小沢一派とその仲間たち
4年も前の話になるが、「奇跡の詩人」問題で、主として「2ちゃんねる」掲示板に私が論陣を張っていた当時、気がついたことがあって、冗談交じりに、当時は論敵であった「名無し」諸君に向かってホラをふいたことがある。それは時間とともに議論も深まれば、多勢ではあっても「名無し」軍団よりは、少数派のコテハン(固定ハンドル)者のほうが、議論の勝ちに恵まれると。

実際、そうした予感はあったし、そうであるに違いないという確信がある。早い話、「正直に勝るものはない」というそのことだ。最近はさっぱり「2ちゃんねる」にお邪魔する機会も恵まれないが、当時から、基本的に私の場合は「かもめ」一本で通してきたという自負がある。同じようなことは3年前の「週刊文春」(03/06/12号)の『標的にされた有名人』と題された例の記事にも言えるのではないだろうか。

「週刊文春」の記事は、もちろん有田芳生氏(TVコメンテーター・ジャーナリスト)自身が書いた記事ではないのだが、有田氏の主張はよく表されている記事だと、今はそう思っている。記事の論調は、有田氏を標的にして攻撃していると見られる3名、すなわちMOKUMOKU氏、鈍角氏、桜坂氏とは、ネットの上でも、たいした深い つき合いもなかったし、いずれにしても彼らは「匿名者」に過ぎないと・・・少なくても有田氏はそう言っていると、すげなく一蹴されたわけで3名としては、まるで無視されたようで不満が残るのはよくわかる。

だが、記事以後もこの3名のいずれもが、具体的に週刊誌記事の文意を批判したことは一度たりともないのである。この二年半というもの、話題がその問題に触れるたびに、細切れの不平不満を垂れ流してきただけだった。なぜ、そうなってしまったのかを考えておく必要がある。議論上の戦術の誤りがあったとか、マスコミの体質などに矮小化することは無益なことだ。

私も当記事を執筆したと思われる河崎記者から事前(5月末)にメールで取材を受けたが、彼の態度がいささか不信で、次の日に河崎氏に直接電話をして真意をたしかめた。河崎氏が、有田氏の肩を持っているのは明らかであり、あまり一面的な記事が出来上がっても困ると思ったからだ。筆の勢いを少しは牽制しておきたかった。電話で私は彼に要求した。「私=かもめについて記事にするようなことがあるなら、そのときは必ず私の本名も記して欲しい」とメールにも書いたが電話で改めて同じ事を確約させたのである。河崎氏は「分かりました。あなたのことを記事にする際は、実名を載せましょう」と了解してくれた。

このときの、上記の3名と私が取った態度には決定的な違いがあった。よく言われているように、マスコミ週刊誌というものは、まかり間違うと自分についてのよくないことが一方的に書かれたり、プライバシーが暴かれたりしないでもない。こうしたことがジャーナリズムやマスメディアの構造的問題であることは、かねてより知っていた。彼らと接するときは、まず、自分で自分を守らなければならない。私があえて実名を伝えておいたのは、一方的に悪口などを書かれた場合は、相手が週刊誌であれ、記者であれ徹底的に抗戦するつもりがあったからだ。記事が書かれる前に、河崎氏に闘う姿勢を見せておくことが、記事内容に対する牽制になると思ったからだ。

ところが、上記3名はどうだっただろう。相変わらず自分の個人情報を守るに徹し、過去の言動を取りざたされたり、それが公開されたりすることに怯え、汲々としている有様だった。はたから見れば逃げ回っているだけだったのである。

今にいたっても上記3名は不満分子に甘んじる卑屈な姿勢を崩さない。周知のとおり「有田芳生」とは実名である。これは有名人であろうとなかろうと関係ない。実名を持って言論の場に臨んで、なんらやましさのない者と、終始自分の顔をかくして穴に隠れながら矢を射っている匿名者との戦いでは、畢竟、どちらが勝つかは日を見るより明らかだ。ひとたび週刊誌に取り上げられたというなら、これを好機として、ネットでもジャーナリズムでも使えるものはなんでも使って、やれるところまではやってみればよいだけの話だ。できないと泣き言をたれるのは、議論における敗北を認めたことだろう。

匿名が役に立たないなら、実名を用いて議論してみればよいではないか。相手は実名だ。匿名にこだわっていること自体に正当性は生まれない。こうして今や手も足も出せなくなってしまったのである。彼ら3名は、自分たちを批判するものや異論を持つものに、真正面から反論するのではなく、その口を根から封ずることに精を出してきた。週刊文春問題といい、対有田芳生氏の問題といい、勧善懲悪の断定と決着に持ち込む以外の論点は見出すことができなかった。ひたすら自分の正当性を保身すること、それが彼らのネットにおける言論のすべてだった。最初から守勢に回わざるを得なかったのである。論拠におけるアドバンテージは有田氏にあった。

どのようなことでも三年たてば、だいたいのことは明らかになる。いつまでも隠しおおせるものではない。仮に「週刊文春」誌上に反論する場が上記3名に与えられたとしても、匿名のままでは、どの面さげて何を書けるというのか。勝負は最初から決まっていたのだ。やましいのは有田氏ではなく自分たちの内心にあることを、彼らも十分に知っていたのである。

<2250字>
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