栃東は、好きな力士の一人で相撲に取り組む真摯な姿に好感が持てる。栃東ばかりではない。相撲ばかりではない。どういうわけか、スポーツ選手に嫌いな人は一人としていない。全員が全員、私は大好きなのである。栃東も、無理して現役にこだわることはない。人生は長い。本人が一番よく分かっている。おっしゃる通りだ。これからのことは、「じっくりと」楽しみながら、考えてみればよいと思う。
さて、スポーツは春爛漫の様相を呈してきた。プロ野球が開幕した。相撲、選抜高校野球、フィギュアスケート、水泳、カーリングと連日、私はTVでスポーツを楽しんでいる。まもなく大リーグも開幕だ。
最近、改めてその人柄を知って私がファンになったのが巨人から大リーグに移籍してがんばっている桑田投手であり、同じく巨人から横浜に移籍した工藤投手である。桑田は38歳、工藤は43歳である。二人とも、今シーズンが現役、最後になるかも知れないのである。にもかかわらず、そうした不安は、おくびにも出さない。前へ前へと自分を鍛え続ける。嘆いたりしない。涙を見せない。ひたすら練習に打ち込んでいる。その正直でひたむきな精神が、われわれを励ましてくる。
自分に厳しく他人には優しく、などという標語があるが、われわれには、口では易いが実践するのはとても困難なことである。口ばっかり達者になって、自己正当化と自己擁護、自己の合理化のためのみに屁理屈をこねているだけだ。スポーツ選手は、口を開く前に黙って実践している。他人は関係ない。自分に厳しくしなければ、決して才能は発芽しないことをよく知っている。すべての時間を自己を鍛えるために使っている。新しい技の修得に賭けている。何一つ他人のせいにはできないことを心底から知っている。その覚悟のほどに惚れ惚れしてしまう。
なんと言っても感じるのは、もうこの先は自分はさほど頑張れないし、頑張る必要もないと痛感したのだ。がむしゃらに何事か学びたいとか、女の尻を追いかけるとか、金儲けに汗水流すとか、体を鍛えるとか、友達の輪を広げるとか、こうしたことは、やりたくない。
いろんな方がたの挑戦をひたすら傍観していたいのだ。高みの見物といわれても反論はできないが、高みの見物と、大所高所からモノを言うことは違うだろう。そのぐらいはわかっている。言葉を発することも、十分に責任の問われる行為のひとつであることは、よく分かっている。いずれにしても自他ともに失敗を恐れず、他人からの批判を恐れず、自分の信念や確信に基づいて、行為、行動、発言する人々に共感をもって、付き合っていきたい。
共感があるから批判もできる議論もできる。かといって考えの似たような人たちと徒党する必要も、そのつもりも毛頭ない。どこまでも個性的な世界にたった一つの精神の個別性を、それこそ誰の了解を得ることもなく自分の判断だけで通せるのがネットの最大の持ち味だ。それだけに既得権や特権にすがりつく制度馬鹿が領分が侵犯されたと思うのか、あっちでもこっちでも泣き言をたれておびえている。彼らは異口同音に規制を強化しろと言い出している。
ある程度は彼らの言い分も承知しておかねばならない。馬鹿にも発言権がある。いずれ、どうしても言いたいことがあるなら権力さえも恐れずに言ってみればよいだけのことだ。回線がつながっていさえいれば条件はすべて整っている。ネットに参加している以上、自分が書けない理由を他のせいにはできない。
わたしは、墓場に入るその日までネットと文体にしがみついているつもりだ。雑誌、新聞は、いまや不要のものとなった。電話とテレビはなくてはこまるが、雑誌、新聞、図書などの紙と活字による媒体は第一義の存在とはいえなくなった。原則、不要である。新聞、雑誌は古くされたインテリがなんの確信も信念もないまま、文を記すに乗じて観念の遊び事をなさしめているだけにしか思えない。古典を除けば、活字は死んだも同然の生ける屍である。
ネットには、生きて暮らして傷ついている人々が発する新鮮な言葉が、常に更新されている。生きた言葉に満ちている。彼らの肉声を読まないで、他に読むべき何がある。彼らの質問に答えずに、何の文章を書く必要がある。わたしは同時代に感動している。ネットがなかったら、いまごろ墓場にはいって、やることもなく昼寝していれば、それでもよいのだ。
掲示板のひとつやふたつ、つぶれようが生まれようが、また管理人がどこの馬の骨であろうと大勢に影響なしとはネットに参ずる幸福に同義の実感なり。<1307字>
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「子らにメッセージを伝えたい」 乙武さん、小学教壇に(朝日新聞) - goo ニュース
乙武さんの上の本を読んで感銘を受けたのは、ずいぶん昔のことのように思われる。以後、彼もマスコミの寵児となって久しいが、ごたぶんにもれず、メディアの取り上げ方というものは、いつも一面的だから世間から誤解を受けることも多く、いろいろと苦労が絶えなかったという話しも聞いた。
まだ30歳ということだから、なにもかもこれからだ。教師受難時代といわれる昨今、教壇に立つということは戦場におもむく感もあり乙武さんの武運を祈ると言うしか無いのだが、乙武さんの言葉は子どもたちの心にきっと届くに違いない。届いてほしいと思っている。
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E・ヘフリガー氏死去 スイスのテノール歌手(共同通信) - goo ニュース
今日はこれから上のCDを聞きながらエルンスト・ヘフリガー氏を偲ぶことにする。
「日本人より日本人らしい」などという、わけの分からない言い方があるけれど、確かにヘフリガー氏がドイツ語で歌う山田耕作の歌曲を聞いていると「日本語よりも日本語らしく」聞こえてくる時があるから不思議なのである。
わが国におけるセックスレスの問題は高齢化や少子化現象、また非婚主義の増加などに同根であると、まずは申しておきたい。上記記事の最後で研究班の責任者が「男女間におけるコミュニケーションの不足」を指摘しているが、そんな生易しいものではないと思われる。
もっと深いところで人をして、価値観や人付き合いの全般を方向付けている文化の問題が隠されている。文化は自然をも変えてしまう。人間という生き物は、自然界の異物のような存在になってきた。
コミュニケーションとは仲良くなることばかりが能ではない。傷つけあうこともまたコミュニケーションであることを知らねばらない。子どもたちや若者たちに教えなければならない。傷つけ合うことが怖いならコミュニケーション能力は、いつまでたっても不全のままだ。
外の世界が怖いなら、生涯、部屋の閉じこもっていればよいのである。セックス、結婚などもってのほかだ。不幸になるに決まっている。閉じこもったまま何の不自由もなく暮らせるのなら、それに越したことはないだろう。たまに働いて金が出来た頃を見計らい、欲望は風俗にでも出かけて満足させれば、いっそ安上がりというものだ。第一、いろいろな面倒がいっさいはぶける。
愛は憎さと紙一重の感情である。セックスには、なにがしかの暴力的側面がつきまとう。通念ではオスがメスの肉体に接触することから始まるわけだが、こうも、やれ暴力反対、いじめ反対、セクハラ反対の掛け声だらけになってしまっては、だれも怖くて、メスに接触できないのである。
接触を、メスから拒否されては、オスたるものの、沽券にかかわる。セックスにも対象者への、正当なアポイントメントなり契約なり、それ相応の報酬なりが必要とされてくるようになってきた。セックスに恋情などという精神作用は不要のものとなる。
肉体の動きだけではコミュニケーションは不全となった。いつの頃からか、そのよう内なるルールが決められたのか。肉体そのもの、本能そのものはタブーとされているのである。
それが現代社会だ。記録されるべき言葉こそ王者である。できれば正統な書き言葉がよい。記録されたものが勝利する。人間の価値は頭のよさであり、本人の言葉使いに収斂される。肉体の動きだけで用が足りるのは、いまやスポーツだけだ。
言葉がなくては伝わることはなにもない。行為のすべてが、前もって言葉によって、責任能力や、記録の有無が問われる。それが平和な現代社会の秩序である。
なんとまあお上品なことか。そうした面倒な手続きをとらなければ、セックスひとつ堂々となせなくなってきた。いっさいの暴力を禁じてきたのは誰だ。彼らの望むとおりの社会になってきたではないか。
その社会では、個人の精神は不要だ。社会化された個人、すなわち限りなく矮小になったヒト科という人間が一定数の頭数さえ、見えていれば、それでよい。それが平和で豊かな社会というものだ。だが、社会と個人の区別もつけられないとは、まるでアリか蜂のようだが、それで良いのか。
ちなみに多摩川の鯉の7割が、メスになってしまったと耳にしたのは、数年前のことである。セックスレスは、人間もまたメス化していることを示しているのだ。
話が飛ぶが、科学技術が進歩すればするほど、人間は知識の仕入れに追われ、肉体を忘れてしまうのかもしれない。また平和や安泰、息災を必要以上に欲するとメス化するのかもしれない。
メス化とは、言うなればプラトニックな人間同士の付き合いのことであり、ある種どこまでも平準化されてきた彼らの思想および文化に及んでいることは間違いない。<1718字>
今朝も寒かった。たった今、上のニュースを見て納得した。東京のどこかで降雪が見られたのだそうだ。
今年は、観測史上初の無降雪のまま春を迎えるのかと思いきや、結局降ってしまった。
降るかもしれないという昨日の予報を聞いていたので、朝起きたと同時に窓の外を見たのだが降ってもいなかったし積もってもいなかった。ちらついた程度なのだろう。
それにしても寒い。こうも寒いのは、懐具合が寂しいせいか、体調でも崩したか。少し頭がぼんやりするのは、いつものことか。
そこで、当ブログも毎月200円の課金を払えば記事テキストのバックアップが随時取れるというので、さっそく申し込み、ファイルをダウンロードしてみた。文字数を勘定してみたら70万字近くになっていた。
400字詰め原稿用紙で1200枚ほどになるか。くだらない記事ばかりであることは、もとより承知だが量だけのことなら、すこしは自己満足してもよいだろう。
掲示板とは違って、原則ここは私一人が書き手であり、人頼みにできることは何一つない。
当Webサイトの命運は、自分が書くか書かないかにかかっている。孤独といえば孤独な作業だが、狭いながらも楽しい我が家と言う。住めば都とも言う。
せいぜい元気なうちは、ここを原稿用紙とも自著とも見立てて書きまくっていきたいものである。
読者のみなさんはカテゴリー別に、記事を並べて読んでいただければ幸いである。
(07.03.25→344件)
(07.03.31→350件)
(07.04.12→358件)
都知事選のことだが、他人事ではござらんばい。拙者も都民の一人につき選択権(投票権)がある。そこで候補者の面構えなりを比べて見て、今後の推移を予想してみるに、吉田、黒川の両氏は泡沫である。浅野殿が出馬すれば石原氏の3分の1程度の票は取れるであろう。拙者なにも、石原氏の肩を持つつもりはないが、現在の石原氏に勝てそうな日本人といえば・・・そうさなぁ・・・前総理小泉純一郎殿または芸人みのもんた氏と、この両名しかいないと断言しておく。タモリという声も聞こえるが、タモリでは明らかに力不足が否めない。それに今回の都知事選に限っては、公認非公認をはじめ政党の言動は最初から、まったく関係がなくなってしまった。これも最初に石原氏が敷いたレールであったわけで、ようするに今回の選挙も石原氏があらかじめ作った土俵の上で各政党および各候補者がフンドシ一本で踊りおどってみるだけのことである。
選挙は、すでに石原氏の独壇場と化している。そこで拙者の選択権行使の件だが、誰に一票を投じてよいやら、迷いに迷っている。はっきりしていることは、戦前から、これだけ一方的な勝利が予想される石原氏に我が一票を与えるのもしゃくである。彼を毛嫌いしているわけではないが、結果が分かっている選挙戦も少しは面白しろくしていおいたほうが、なんぼか民主主義の学習と言えるだろう。そこで悩みに悩んだ末に選択の一つとして共産党が浮かんだ。共産党とは昔ながらのよしみがある。吉田候補に死票を投ずるのも一興なりや冥土の土産だワンカップ。
演歌界なんか、とっととつぶれちまえばいいんです。その手の候補が乱立(なんとかヒデヨシとか)によって・・・大体ですね、SFすら書けない想像力皆無の似非作家(この国は私小説に権威もたせすぎ)の石原は埋没すると、いうわけです。
私小説がはばを利かせているのが、わが国の文書文言好悪の感であることは確かでしょうが、演歌も同じですよ。日本語が消えないかぎり私小説も、演歌も消えることはないでしょう。文学は言語と歴史に準ずるものです。もともとわが国の文学は歌(和歌)が柱なのです。私小説とは和歌に毛の生えた程度の代物でしょう。西洋仕込みのノベルやフィクションはお門違いだったのかもしれません。それに慎太郎氏は、小説家ではありゃしませんぜ。彼は根っからの政治家なのでがす。政治家になるために、若い頃、人気取りのために小説を書いてみたというあたりでしょう。それが功を奏したわけですたね。都政はシンタロガリにまかせておけばよいのだす。あれで、けっこう国を相手にケンカしてますぜ。他の誰にできましょう。
仮に、言語レベルに還元出来る「文化」はその通りだとしても。すでに私達は西洋にファックされている。もうナショナルな主義には逃避できません。何故そうなのか。それは西洋がそれまで未知だった快楽を刺激からでしょう。日本語の言語レベルでは還元出来ないビートで勝手にケツが振り振りし、グルーブする事を知ってしまえば、後戻りなど出来ない・・・もう欲情に身を任せるしかないのだ。
あなたが端的に「西洋にファックされた」と断言されているのは、拙者にもよく分かる話でござる。結局、この問題は明治以来、東洋人なら誰しもが苦悩させられてきた問題なのだと思っている。今日に至っても、なお一世紀前の福沢諭吉や内村鑑三その他当時の識者が悩んでいた問題を、われわれは解決していないのでごじゃる。これは文学や言語、演歌の問題に矮小化できない、精神や生活全般に及ぶ問題に他ならない。数千年の歴史とホラをふく中国のことはいざ知らず、東洋の中で、まっさきに西洋に向かって、尻を突き出し、挙句の果ては西洋に強姦されて喜悦した日本は、いまだに日常的に被強姦者である運命の下にあるのかもしれない。
黒船来航は、被強姦の嚆矢となった。以来、このときに植えつけられたトラウマから、われわれは自由になっていないのである。自立に向かって、よりすがるべき信仰の先行きもわからない。黒船に色目を使って生き延びようとした、われわれの先祖は、その時点までに、先行してきた自前の文化は、意識的に捨ててきてしまった。ここに豊かな伝統は途絶えた。以後、全土を対象にむやみに英語化したりキリスト教化する俗論が何度と無く飛び出してきたが、これらすべてが無理難題であることが、ここにきてようやく分かってきたのである。
分かっていない一群の馬鹿がいる。教条左翼である。かれらは西洋をモデルとする近代主義の尖兵の役割を果たしてきた。福沢の悩みも内村の悩みも、彼らは頓着しなかった。資本論さえ、読めれば夢を見続けられると豪語してきた。本さえあればよいというのが、彼ら教条主義者の元祖である。ここにも西洋にファックされてよしとする思想が満載されている。彼らは歴史を顧みることをいっさいしない。前方しか見ることはできない生産力至上主義であり、その内実たるや資本主義の走狗と化していたのだ。
いずれにしても人類の前にあるのは、近代の終焉を用意する墓場である。社会が進展していくことは、おのずと墓場に向かわざるをえない道理が隠されている。近代こそ人類の最後である。近代が終われば人類は死に絶える。マルクス主義は、この事実から目をそらし近代初頭に植えつけられた「人類こそ世界の覇者である」とする独善的かつ進化論的体系運動に、いまだに何の疑問も抱いていない。唯物論とはよく言ったものだ。だが、どんなに唯物論が流行っても、人間から精神を抜き去ることはできまい。人間、知れば知るほど何が分かるのか。慧眼は何を見せてくれるのか。誰にも、将来のことは見えないのだ。過去の歴史こそ見えてくるのである。知恵の源泉は過去にしかないと断言しておく。
われわれの過去は、われわれだけのものだ。日本の歴史は、日本人のものだ。歴史の中にこそ価値あるものが豊穣に隠されている。未来は貧しいのである。貧しくなる一方なのだ。社会は人を貧しくする。人っ子一人一匹残らず、矮小にしてしまう。大なり小なり「社会」というものを構成してしまった人間の原罪が、ここにある。人間がみな、子どもであった昔、さらに大昔・・・それをよみがえらせろ。われわれが豊かな生き物であった事実を思い知るに違いない。
過去には帰れません。それとも、また鎖国しようとでも?
鎖国もよいと心から思っています。だが、生活が成り立たないでしょうね。物資的計量的な生活水準を下げることだけは、誰しもが嫌がりますからね。一度達成された欲望の数値を下げることは、できないものです。賃金が下げることは市民が許さないでしょう。彼らは総じて生産力至上主義ですから。生めよ増やせよの思想は左翼の唯物論ですが、いまや唯物論は世間に蔓延しています。科学とか技術という美名がそれにあたるでしょう。みんさん、科学好きで、知識好きではありませんか。なんとか教養を高めたいと生涯学習に励んでいる。これも欲望が、そうさせているのです。これら欲望発散システムも、ひとたび勝ち取った水準から、一歩たりとも退いては沽券にかかわるとでも思っている。労働者も市民も、右翼も左翼も、資本家と同じですよ。だから鎖国はできません。経済活動ができなくなる。食いたいものが食えなくなる。鎖国するのは私だけでよいです。
温故知新というが、それぐらいでは間に合わないのだと思います。かのマルクスも、普段に歴史が前に前にと進むことに不安を残していた。なぜ、芸術というものは、経済や新しい生産体制、教育体制にともなって前進しないのだろうと。次のように・・・。
わわれわれは、力学などにおいては古代人よりもずっと進んでいるのに、なぜ叙事詩の一つもつくることができないのであろうか。<「剰余価値学説史」>
困難は、ギリシャの芸術や叙事詩が、ある種の社会の発展形態とむすびついていたことを理解する点にあるのではない。困難は、それらが今もなおわれわれに対して芸術的享楽を与え、ある点では、規範として、及びがたい規範として通用するということにある。<「経済学批判序説」>
いまや有名なマルクスの逡巡だが、自明といえば自明といえることだが、マルクスの良心が、これを指摘させておいたのだろう。経済学も自然科学も計測可能な真理としての社会革命を予測させてくるが、芸術だけは、そうではないのはどうしたわけだろう。芸術だけは、革命や社会の発展など、なんの関係も無い。むしろ古い作品こそ、見事な人間規範が表現されている。進化論に則っていない。あらゆる認識事項が、進化するのが近代の理屈だ。その先駆けとして、自分は経済学批判をなした。それなのに、なぜ芸術だけは「進化」しないのか。これがマルクスには不思議だった。
だが、それを言うなら、芸術というよりは人間自身のことではないのか。人間は進化しないのではないのか。むしろ時代が進めば人間は馬鹿になるのではないのか。昔の人間のほうが利口だったのではないのか。経済も社会も、科学も進化発展していくとは、一種の詐称ではないのか。単純な逆説ではないのか。実際に、進化を拒むモノ(芸術)があることを自著に書き記しておいた。ここに私は、マルクスの良心を感じるのだ。
さらに、端的に言うなら、人間は退化しているのではないのか。社会が整備されればされるほど、人間は退化する。私はそう思っている。社会が完全に整備された暁には、人間は不要となる。芸術どころではない、人の知恵も精神も必要がなくなるからだ。小説も音楽も工場で生産される。歌う人間もいなくなる。すべての歌はスピーカーから聞こえてくるだけだ。苦労して文章など書く必要がなくなる。完全な平等社会になれば戦争も無くなるだろう。格差も階級も無い。人間は生まれながらのゆりかごから墓場まで、食い扶持は社会が与え、あらゆる人権を保護してくれる。
人間は生まれながらに成功者である。寝ているだけでよい。凡百の教条左翼が目指している社会主義とは終末のことである。墓場世界のことなのだ。誰も苦労はしたくない。ひたすら寝て暮らしていればよい、そういう社会だ。すなわち、ここにおいて人類は自滅するのである。われわれが古代社会の芸術にあこがれるのは、古代の人間に憧れるからに他ならない。古代は人類の揺籃期である。ヘーゲルに言わせれば人類が子どもであった時代だ。最後は死する運命にあるのは、どの子も同じだ。種も、いつかは絶滅するのである。古代から残された芸術作品にわれわれが憧れるのは、われわれが大人になってしまった心持から来ている。
昔の物語に憧れるのは、大昔の人間のほうが、人間として豊かで、大きな存在であったことを示している。周知のように大昔は誰しもが英雄だった。誰しもが芸人だった。社会が進めば進むほど人間はこまっしゃくれてくる。矮小化してくるのだ。これは避けられない。イエスもソクラテスも、さらに目新しいところでは、ベートーベンもドストエフスキーも二度と人間界には出現してこないだろう。人類は、すべてがこまっしゃくれた馬鹿者ばかりでおおわれる。こうして間違いなく「芸術」は死滅していく。
人間の存在証明は肉体だけでよい。健全なのは精神ではない、健康な肉体と長生きすることだ。誰しもが年齢と名前だけを後生大事に小脇に抱えて一生を終えていく。精神はからっぽでよい。心など、からっぽのほうがよほど社会からは、喜ばれる。肉体と実名だけあれば、なに不自由なく絶大な力を誇る社会が一生面倒を見てくれる。整備された社会にとって個別精神は邪魔になるだけだ。こうして精神は廃れていく。不要のものとなる。
マルクス自身は気がつかないままであったようだが近代思想の柱である進化論、さらにそれらを計算し抽象化されたところに生まれたマルクスの理論と思想こそ、逆に人類の終末を見事に説明しているのである。