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赤いハンカチ

ものを書く前に、計画的に考えてみるということを私は、殆どしたことがない・・・小林秀雄

▼年金で並木通りのカラオケや

2025年07月20日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

十年ほど前の記事なれど、その後の日常は、変わったことはこれと言ってなし。相変わらず懐メロ専門のカラオケ好みにござる。

 

 

2016.11.22 横浜市

 

 

南京ハゼ

 

 

 

 

 

本日、わたすがカラオケで歌ってきた日本の歌は以下のように多岐にわたった。
 

名月赤城山

勘太郎月夜唄

潮来笠

雨のオランダ坂

高原の駅よさようなら

上海帰りのリル

赤いランプの終列車

お富さん

哀愁列車

月よりの使者

緑の地平線

涙の渡り鳥

サーカスの唄

東京の灯よいつまでも

ああ上野駅

夢淡き東京

東京ラプソディ

東京の花売り娘

東京だよお母っさん

鳳仙花

津軽のふるさと

越後獅子の唄

ラバウル小唄

若鷲の歌

雨のブルース

別れのブルース

カスバの女

人の気も知らないで

 

などなど・・・・

 

上記のように私の場合は相変わらず懐かしのメロデー専門ですがわたしが心地よく歌える一番新しい歌としても戦後まもなく流行した「お富さん」とか「潮来笠」ぐらいなもので、だいたいが戦前から戦後も1960年ぐらいまでに作られた歌なのです。わたしが小学生の頃といえば、なんといっても文化全般がテレビに占領される前のことでしたのでラジオを中心にたくさんの歌謡曲が生まれてきたのです。巷では都会でも田舎でも大人から子どもまでそれこそ全国民がいつでもどこでも、なんらかの歌を口ずさんでいたのです。現代人には信じられないでしょうが当時の人々は、それこそ一日中自転車に乗っていても歩いていてもまた家事をしながらでもはなはだしきは便所からさえ歌声が聞こえてきました。民謡あり軍歌あり童謡あり、もちろん流行歌あり老若男女の誰も彼もがそれこそ四六時中なにがしかの歌を口ずさんでいた時代でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

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▼ヴォーカル大好き <ヨイトマケの唄>

2025年06月24日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 

以下、これまた昔々の記事にて、ご容赦願うばかりなり・・・

 

 昼前までに要請されていた仕事をおえて、メールでデータを依頼主に送った後は、暇をもてあましてしまった。午後からは、美輪明宏殿のCDを聴きながら夜まで過ごした。「美輪明宏の世界」というタイトルだが、念のために収録曲を並べてみるが、みな懐かしい歌ばかりである。

 サンジャンの恋人、恋はコメディー、想い出のサントロペ、初日の夜、人生は過ぎ行く、不倫、暗い日曜日、愛する権利、人生の大根役者、ラ・ボエーム、喫茶店の片隅で、アカシアの雨がやむとき、長崎育ち、ヨイトマケの唄

「ヨイトマケの唄」を久しぶりに聴きたかったがゆえに、思い立って一昨日に町まで行ってCDを買ってきた。

「ヨイトマケの唄」には次のような歌詞があって、美輪殿の歌声を耳にして泣いて見たかった。私が当年とって80歳あまりになる「かあちゃん」の所在を確認し、われら母子が経てきた月日に載せて記憶に残るあれこれの来し方を思い出しながら、たまには陶酔してみたかったと、こういうわけである。

あれから何年 たった事だろ
高校も出たし 大学も出た
今じゃ機械の 世の中で
おまけに僕は エンジニア
苦労苦労で 死んでった
母ちゃん見てくれ この姿
母ちゃん見てくれ この姿

何度か僕も グレかけたけど
やくざな道は ふまずにすんだ
どんなきれいな 唄よりも
どんなきれいな 声よりも
僕をはげまし 慰めた
母ちゃんの唄こそ 世界一
母ちゃんの唄こそ 世界一

<2005.01.21>

 

 以下、相変わらず次から次へと大昔の話ばかりで申し訳がない。 

 さても七十数年前になるか、母に連れられて幼稚園に行った話しを書いたが、言い直しておく必要があった。私は幼稚園児ではなかった。幼稚園にも保育園にも通った形跡はない。あの日幼稚園に行ったのは、たまたまその日、入園説明会か見学会のような行事があったのだと思う。もちろん、そうした園の行事に私を連れ出したことは、私を幼稚園に入れることも、少しは考慮していたのだろうが当日のわたしの様子をみて、母も入園させることを断念せざるを得なかったのだろう。わたしなりに母の魂胆に察しがついて、これに激しく抵抗してみたのだろう。幼稚園の記憶は、その日だけのことで他には思いつかないし、誰に聞いても私が一時なり幼稚園に通っていたという話は出てこない。それより当時の父母の関係は非常にやっかいなものになっていて、のん気に長男である私を幼稚園に通わせるどころの話ではなかったようだ。

 だから、母も参考までに幼稚園に私を連れて行って見学してきたという程度のことかもしれない。私も就学前のこの時期は、記憶が錯綜している。しばしば北関東の父の実家で暮らしていたこともあった。都営住宅と父の実家とが入り組んで思い出され、この頃の時間の後先がかなり錯綜しているのである。今となっては、詳しい事情を母から聞き出すことも難しくなっている。弟と会って飲んだ折など、よく、この頃のことが話題に出るのだが、それでも、なかなか頭の中で上手に整理ができないのである。なにしろ長男のわたしの記憶が定かではないのだから、どうしようもない。いずれにしても、わたしは都下にあった都営住宅から小学校に入学したのだが、そこにいたのは二学期の終わりまでで、年が明けてすぐ都営住宅を引き払い、二度と、そこに帰ってくることはなかった。私たちの一家は父の実家の世話になることになったのである。父の実家は典型的な農家で父は、その家の次男坊だった。

 父の実家のある村の小学校に転入したのは一年生の三学期の途中からだった。母の手を引かれて戦前は父も通ったというその学校を訪れたのはもう一月半ばかあるいは二月に入ってからだったか。先生は黒板に私の名を大きく書きクラスのみんなに紹介してくれた。この時驚いたのは、辞めてきた学校の先生と今度の先生がそっくり似ていたのだ。女の先生である。もちろん名前は違っていた。私のためにわざわざ向こうの先生がこっちの学校に来てくれていたと自分勝手な妄想に走った。我ながらあまりにばかばかしくて、それは誰にも漏らさなかったが、しばらくの間、密かな愉悦となった。さて、先生は私を紹介するとそのまま教壇に立たせ、靴箱の使い方を説明するからと母だけを導いて教室から出ていってしまったのである。50名近い坊主頭と頬の赤い女の子たちに、一人向き合わされて、わたしはすっかり困ってしまった。先生と母がいなくなり、わずかな沈黙の時があって、突然誰かが私を指さし何事かはやし立て笑い出したのである。するとクラス全員が一斉に唱和してきた。歓迎とも排斥(はいせき)ともつかない実に奇妙な哄笑だった。
 
 私はいわゆる「坊ちゃん刈り」のままだった。それが異様に見えたらしい。たしかに男の子は全員が坊主頭だった。最初私は、彼らが何をおかしがっているのか分からずに困りはて恥じ入るばかりだったが、泣き出した風には覚えていない。むしろ豪快で明るすぎるほどの笑い声に同調させられ照れ笑いぐらいは浮かべていただろう。彼らの笑いに悪い気はしなかったのである。さっそく次の日には母に頼んで頭を丸めて登校した。

 以後、その学校を卒業し町の中学校に自転車で通うようになるまで、祖父やら叔父やらによくいじめられ、ひどい貧乏を強いられたまま矢面に立たされていた母の苦労は並大抵のものではなかったが、私にしてみれば山間の自然に恵まれ友達に恵まれ、おおむね幸せな子ども期を過ごせたと思っている。もし、あのまま東京都下の暮らしをしていたならば、おそらく私は尋常には育たなかったかも知れないと、最近はそんな感じがしているのである。父が病気になり実家に帰っていたのである。私の弟ふたりも父の実家の近くの縁者に預けられていたような状態だった。収入は閉ざされていた。母としては、このまま都下に住んでいても、にっちもさっちも行かない状態が続いていた。おびえたような戦々恐々たる日々が続いていたのである。父の家のものたちは、母を良くは思っていなかった。父が病気にいたった責任の半分ぐらいは妻にもあるだろうというのが彼らの言い分だった。八方塞りになっていた母の心理が、二人暮しをしていた私の性格にたぶんに影響していたように思われるのである。都営住宅での暮らしは、年を追うごとに私を内向的にさせていった。

 父は療養と称して一足先に実家に舞い戻っていてわたしが小学校に入った時には都営住宅には影も形も見えなかった。父は母と結婚前から自分の縁者ばかりに左右されていたようなところがある。それがいつも母をないがしろにする結果となった。病気と言えば仕方はないが、気持ちの上で妻子を見捨てていたようなところがあった。この時期のわずか2年ほどの間に父の失職とか発病とかいろんなことがあった。母としては、次から次へと父によって引き起こされてくる心痛に絶えながら自活の道を探っていた。離婚することも考えていたらしい。必死に職を探していたようだが、子どもたちのことが気になってまともな仕事は見つからなかった。それでもときどきはパートタイマーのようなことをしていたようだ。家計はいよいよ逼迫(ひっぱく)していた。母と二人きりの食事もおかずが一つもなく、ご飯に醤油(しょうゆ)をまぶしながら食べたこともあった。とりわけ昼下がりのわびしい食事を覚えているのは、私が登校していなかった時期で、家で母と二人きりだったからか。醤油ご飯も子どもにはさほどの苦ではなかったし、どんなものでもまずい感じはしなかった。大人の気持ちは子どもとは違う。同じ事でも大人には耐えられないということもある。だが、親の心理はそっくり子どもにも伝わってしまうだろう。母と私は、完全に孤立していたのである。

 当時4歳と2歳になる弟がいたはずだが、家の中にその姿が見えないのは、二人ともすでに父の実家に移されていたのだろう。ある日母が町に働きにでも出ていて留守にしていた昼下がり、弟たちと庭先で遊んでいると、母の姉がやってきて下の弟だけを連れていこうとするのである。もちろん母と叔母との示し合わせがあった上のことだったに違いない。弟があまりに激しく泣くので、隣の家の母親がパンを持ってきて弟に持たせた。パンをしゃぶっている弟を叔母が抱きあげ連れていった。別離にともなう寂しい実感はないのだが、衝撃は大きかった。泣きながら連れられていく2歳の弟よりもそれを見ているすでに物心つき始めている兄のほうがうける痛手は大きい。しばらくすると今度は母が上の弟をともなって父の田舎に行き、帰ってきたときには弟の姿が見えなかった。

 話は戻るが都下の小学校に上がった当時のことで鮮明に記憶している場面がある。それがずっと気になっていた。前後に関連のない独立した一こまの残像だが、幼稚園の時のように学校に行きたくないという強烈な感覚がはり付いている。その感覚がどこから来ているのか。長い間、我ながらさっぱり説明できないままだった。自分の傾向を振り返ってみれば、学校嫌いはいくらでも証明できるのだが、その場面と前後の生活的事実が必ずしもつながってこない。どうしてあの場面だけに学校が嫌だという強い感じが貼り付いているのだろうか。

 その日学校を休んだことは確かに覚えている。だが実際は、傘を捨てた日以前から私はほとんど登校しなくなっていたらしい。とすれば年を越えて3学期より田舎の学校に転入するまでの結構長い期間、私は学校を休み続けたということになる。四月に入学してからまともに登校したのは夏休みまでの三ヶ月だけならば、最初の学校のことが記憶にないのも当然だった。台風でも来ていたのか激しい風雨の朝だった。雨をついて私は学校に向かっている。林を抜けたところに小川があり橋が架かっている。そこをわたりながら下を見ると、いつもの優しい流れとはうって変わって、この日は橋もろとも足下がすくい取られるほどまでに増水していた。視点を固定して水面を見ていると吸い込まれそうだった。

 私はしばらくはそこに佇み、いつもに違う暴力的な流れを驚嘆して見ていた。そして何を思ったのか、さしている傘を閉じ川の中に放りこんだ。コウモリ傘は濁流に飲み込まれ、見る見る流れ去った。買ったばかりの傘なのに、という母の難詰が待っている。だがこの朝ばかりは登校するよりは母の小言の方がよほど心地よいように思えた。傘がない以上、この雨の中をこれ以上進むことはできない。今になって弁明するわけではないのだが、登校しない理屈を作るために傘を捨てたというよりは、傘を捨ててから理屈が思いついたように覚えている。真新しい傘を川に投げ捨てる。その犯罪的快挙を成し遂げる自分の力を確認したかったのか。正直なところ、行為にいたる最初の動機はこれ以外に考えられない。

 5年ほど前に母から聞いたところによると、先の都下の小学校では二学期の途中から、私はすでに登校しなくなっていたという。自分のことながら初耳だった。記憶の彼方にうっすらとそんな感触がないではなかった。そう言われてみれば、覚えているあの一こまに説明がついてきたのである。母親から引き離される不安に怯え、捨てられる夢にうなされた。私の場合は不安だけですんだのだが、この時期、弟たちは父の実家の祖母とか、叔母のもとで育てられていた。母が都会での生活を断念して田舎行きを決めざるを得なかった大きな理由がここにもあった。家計は最終的に破綻を迎えていた。こうして間もなく都営住宅を引き払い、田舎に身を寄せることに決めたらしい。夜逃げ同然だった。「父さんさえ、まともだったら」という嘆きは以後母が昔のことを話すさいの枕言葉になってしまった。

 その日、もちろん家に引き返してきた。登校できない理由を傘のせいにすることだけは分かっていたが、母には傘をなくした状況の説明が必要だった。あれこれ考えながら家の玄関にたどり着いたときには、もうすっかりずぶぬれだった。傘が途中で風に飛ばされてしまったので、登校できないと、言い訳したのだと思う。子どものウソはすぐ見抜けたはずだ。だが、この時母から叱責された覚えはない。彼女は「ああ、そんなんじゃ風邪を引くよ」と言いながら、あわただしく体中をタオルで拭いてくれた。やっとのことで学校に向かわせた息子が間もなくずぶぬれで引き返してきたのでは、母もさぞかしがっかりしたことだろう。だが帰ってきてしまった子どもにそれ以上何を言っても無駄だった。

 雨の中を再度子どもの手をつかんでまで強行には出なかった。それが登校しなくなる最初の日だったのか、それとも事前から休みがちだったのか。後者だったとすると、前日のうちに台風襲来(しゅうらい)を聞きつけて、新しい傘で私の機嫌をとり登校させようとしてみたのか。多分そんなところだろう。子どもは親の本意などだいたい察知してしまうものだ。学校に行きたくなかった私を無理矢理追い出した母の下心の形象が、玄関を出たとたんにコウモリ傘に乗り移った。だから私はその傘を川の中に投棄したのだ。しのつく雨に打たれながら仁王立ちしている。そんな傲慢な姿が浮かんでくるのだ。

<2007.01.30 記>

 

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▼「あけびの花」中野重治

2025年06月07日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 またまた昔の記事をば上げ立てまつる次第にて・・・

 以前、中野重治のことを書いたが、彼が、若いころに読み知った詩人の名前が語呂並べのように出されてくる中野の文体の魅力を指摘し、同じように木の名前がずらずらと並べられた同人の文章を読んだことがあると記しておいた。その文章の在り処を忘れていたのだが、ついさきほど、本棚に見つけたのでご報告させていただく。

 それは『あけびの花』(講談社学芸文庫)というエッセイ集に収められた「木の名、鳥の名」と題された文章だった。鳥の名はさほど知らないが、木の名前ならたくさん知っているとあって、以下のように、たくさんの樹木の名前がずらずらと並べたてられている。

 松の木、杉の木、欅(けやき)の木、桜の木、柳の木、桃の木、李(すもも)の木、梨の木、栗の木、桐の木、青桐、枇杷(びわ)、柊(ひいらぎ)、あすなろ、たぶの木、栂(つが)の木、ぐみの木、高野槙(こうやまき)、榎(えのき)、楓(かえで)、ざくろの木、ひゃくじつこう、桑の木、ねぶの木、棕櫚(しゅろ)の木、つつじの木、椿の木、椎(しい)の木、かやの木、榛(はん)の木、さんちん、うめもどき、もくせい、柿の木、檜(ひのき)、くじゃく杉、らかんじゅ、はいびゃく、ひもろの木、樫(かし)の木、これに牡丹の木、藤、だんちくまで入れるとずいぶんたくさん知っている。

 数えてみると43あった。これだけ数えられるのは中野重治が作家だったからとか学歴のある知識人だったからと云ふような問題ではなく、昔の日本人はだいたい、これぐらいなら、ほとんどの大人が知っていたのではなかろうか。ちなみに拙者の場合、それらの半分も知っていない。

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▼「女の気持ち」より

2024年11月28日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 毎度昔の記事で悪いのだが・・・上は「女の気持ち」と題された昨日の毎日新聞の投稿欄である。一読して、掌編小説の佳品でも読まされたような心持がした。文芸的感動を得たに違いなかった。この場合は、匿名希望という、そのことが逆に筆者の良心と苦悩のリアリティが一直線に、わたしの胸にも確かに届いてきたのである。

そこにゐて死ぬまでわれをかばへよとある夜は夫をさいなみており・・・久我田鶴子

 

<2009、02,10 記>

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▼ヴォーカル大好き<ダンスパーティーの夜>

2024年07月16日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

本日は朝から雨も上がっていたので「ダンスパーティーの夜」を口ずさみながら半日を町内散歩に興じた。

赤いドレスがよく似合う
君と初めてあったのは
ダンスパーティーの夜だった
踊りつかれて ふたりで
ビルのテラスに出てみたら
星がきれいな夜だった

(昭和25年)
作詞:和田隆夫
作曲:林伊佐緒
唄:  〃

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▼ヴォーカル大好き<カチューシャの唄>

2024年02月29日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

以下、むかし書いた記事で悪いが・・・

 

あたしは徒刑囚あいての淫売女
ところがあんたは紳士で公爵様ときたもんだ
なにもあたし風情にかかわりあって身を汚すことはなぃんじゃぁないのかい
さっさと仲間の公爵令嬢とかなんとかのところに行くがいいんだ
あたしの値段は赤札一枚(十ルーブル紙幣)でことたりるんだからね

  ・・・トルストイの「復活」より

 

↓ 倍賞千恵子が歌う、「カチューシャの唄」

Bing 動画

 

<2017.11.18 記>

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▼言葉とネットの相関図

2023年09月11日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 むかし、当ブログに、以下のような雑文をさらしたが基本の考えは今もおなじだ。当時はまだ昨今流行の動画でしゃべくりまくる個人サイトは皆無であったはずだ。ところがいまやネットでは、動く絵(動画)による個人的主張が全盛となっている。これは別に、悪いことだとは思わない。実際、わたしも新聞を読んだり本を読んだりする時間よりは、よほどおおくの時間を動画見物に費やしている。
 それでもなお、わたしの場合は、実際、古いヒト科で、ネットにせよ何にせよ、自分が発する主張があるなら、それは文字による表現(発信)しか、できないだけなのである。これ以上のことは技術的にも到底無理だし、活字信仰と言われようが、旧いと言われようが、当ブログを根城となして、このままの調子で最後まで行こうと思っている。

 

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 <以下 2009.11.22 記>

 先日、久しぶりに当ブログ「新平家物語」(現在は赤いハンカチ)にお顔を見せてくれた小林さんのブログの記事の中に、次のような、お話が書かれてあった。

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○○さんという人が興味深い話をしているので紹介してみます・・・○○さんの指摘によれば、ネットの時代とは「空前の<自己テキストの時代>」が始まった時代だという。リアルなコミュニケーション、ネットワークでは表現できないテキストを、自己テキストとして表現し得ることの可能性を述べているのだろう。おいらがかねてより、ネットの達人(かもめさん達)に対してかんじていた、考えていたキーワードを表しているとも見えた。そこには「日常からの解離」もまた存在し、ネットコミュニケーションを面白くさせている。ネットもまだまだ捨てたものではないのである。
-----------------

 結論からすれば、小林さんの考えの方向性と、文中○○さんのネットに対する考え方に、わたしもまったく同感したところである。わたしは文学通ではないが文学好みであるとは思っている。「活字好き」という言葉があったが、それとは、少々違う方向で、やはり文学好きであり、ようするに新しい言葉を読みたい書きたいという欲求は隠せない日々を送っている。だからネットを金のかからない手ごろなひとつの道具と心得て、安直に使いまわしているだけだ。書籍は見ないとは言えないが、図書というものは、金がかかるし、読了するには骨を折る。ネットは安直で手ごろなのである。いまのところ、わたしのネット感は、それ以上でも以下でもない。だが文学という概念にかかわるのかどうかは知らないが、文字や言葉に対する欲求は、さらに、新しい言葉による新しい事柄を、自分の手で、なさしめてみたいという思いばかりが募りに募る。
 やはり内心からの欲求として、新しい言葉を読みたい書いてみたいのは山々で、だが、そうは言っても、それが簡単に入手できないもどかしさを感じている毎日でもあって、それがまた面白いと言えるのではないかと、できないことを言い訳じみて、逆説をもてあそぶ日々なのではあるが、こればっかしは結局、人々の歴史、文化の総体がかかっているようなので、非才なわたしにどうにも、どうにも、しようのないことなのかもしれないと思って、またまた言い訳じみてくるばかりなのである。それにしても、なぜ、言葉が面白いのであろう。それこそ問題だと思っている。
 小林さんもそうなのだろうが、われらには言葉(活字)なしには、一日たりとて過ごせない。不遇にも、そうなってしまったのである。そうして、この先もえんえんと、くだらないのかどうなのかは知らないが、あいかわらず安直に、歴史が作ってきてくれた言葉を弄していくのであろうと予想ぐらいは立てられる。ここで、ひとつだけ、ネットと言葉に対する、わたしの覚悟といったものを披瀝しておきたい。別に小難しいことではないのだが、これらは、まさにネットで学んだという確信があるから述べるのである。
 一口で言えば、言葉は私語につきるということである。私語以外の言葉などは、捨てておこうという、よいか悪いかは知らないが、わたしの個人的な覚悟ができたということである。これが当面、文字を読み書くという行為を意味づける、わたしの方向性となるはずだ。法律も理論もそうだし、新聞、雑誌、図書の多くがそうなのだ。文学史や哲学史などという、それらしく、まとめられた文言の多くが、わたしの欲する「言葉」とはほど遠いものかということが、つい最近分かってきたのである。いささか傲慢に聞こえるだろうが、ネットを通じて思想化された方向性として、わたしは、いまや人々個々が発っしてきた、または発しつつある私語以外の美辞麗句は眼中におかないようにしている。

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▼さようなら シドニー・ポワチエ

2022年01月08日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

さきほどニュースで訃報を知った。
彼(1927年生)の主演した映画はどれもこれも印象深く覚えている。
カッコよかった。本当に彼はカッコよかった。



1955年 暴力教室

1958年 手錠のままの脱獄

1963年 野のユリ

1967年 夜の大捜査線

  〃   招かざる客

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▼ヴォーカル大好き<コロラドの月>

2021年12月16日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

ただいま、たまたまネットで知った歌

アメリカ歌曲「コロラドの月」

明日にでも、この歌ぞ、とある近場のカラオケ屋に行きし歌って歌って歌詞を空で覚えたい。メニューにあればだが・・・

 
 
詞:ビリー・モール
曲:ロバート・A・キング
日本語詞:近藤玲二
 
コロラドの月の夜
ひとり岸辺に
想い出を運びくる
はるかなる流れよ
若き日今は去りて
君はいずこに
コロラドの月の夜
はかなく夢は去る
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▼「本居宣長」より

2021年12月12日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

以下は昔書いた記事なれど、ほじくり返してみたのには実に私的な、それも今日的な意味と訳が自分なりに再生してきたからこそであるに違いないのだが、そのあたりの内情については、また後程。

 

小林秀雄の「本居宣長」で、次のような文章を見た。とりあえず、ここに引いておく。

何も音声の文(アヤ)だけには限らない、眼の表情であれ、身振りであれ、態度であれ、内の心の動きを外に現はそうとする身体の事(ワザ)の、多かれ少なかれ意識的に制御された文(アヤ)は、すべて広い意味での言語と呼べる事を思ふなら、初めに文(アヤ)があったのであり、初めに意味があったのではないといふ言い方も、無理なくできるわけであり、少なくても、まず意味を合点してからしゃべりだすといふ事は、非常に考えにくくなるだろう。例えば、「お早う」とか「今日は」といふ言葉を、先づその意味を知ってから、使ふやうになったなどと言ふ日本人は、一人もいないだろう。意味の知らぬ事をしゃべる子供、とよく大人は言ふが、口真似が言葉のやりとりに習熟する、自分もやってきた、たった一つの道であったことは、忘れがちだ。そればかりではない、大人になったからと言って、日に新たな、生きた言語の活動のうちに身を置いている以上、この、言語を学ぶ基本的態度を変更するわけにはいかないのである。

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▼ヴォーカル大好き<トロイカ>

2020年02月18日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

●今井政幸
YouTubeにアップすれば、アクセス数が伸びて、広告がつくから、儲かるよ。  これからは、YouTubeで金儲けする時代だ。


●かもめ
そこで、ものは相談だがにゃ。今井殿。わたすの歌姿を録画録音する気はないかね。 よもや不世出とおぼしきロシアのバリトン歌手ホロスフトフスキー亡き後、その志こそ意気に感じいりて後われながらロシア民謡はおろか世界の軍歌をはじめとして、さらに「荒城の月」から端を発して「ああ上野駅」に至る日本歌曲を柱となす全曲集にとりくんでいる最中なれば、こうした、集団就職あがりであってなおかつ、その後の精進が実りに実ってハゲ頭は旧来より、もってその通りなのだが、そこはそれ新しいバリトン歌手の誕生を祝う、わたすの三年間に及ぶ苦労に苦労を重ねた声楽的鍛錬の仔細は最寄のカラオケ屋の亭主がなにもかも知っている。そこで、今井殿に提案するものなりけり。まずは、わたすが歌うロシア民謡の「トロイカ」を撮ってみたらいかがでござろう。

雪の白樺並木夕日が映える 走れトロイカほがらかに鈴の音たかく

響け若人のうた高鳴れバイヤン 走れトロイカかろやかに粉雪けって

黒い瞳がまつよあの森こせば 走れトロイカ今宵は楽しいうたげ

 

●今井政幸
わたすは、頭の悪いばかもめの為にも、誰もが、会社勤めなどしなくてもカネを儲ける算段を解りやすく説明しておる。
ばかもめは、わたすが買ったように、2699円の中国製のマイクを買って、カメラに取り付けて、カメラを三脚で固定して、いつものカラオケでトロイカを歌い、歌うばかもめの姿を自撮りすれば良いのだ。
 細かいことをいうと、動画をアップするには、自撮りの歌う姿を編集する作業やら、YouTubeにアップするやり方とか、逐一作業手順がひつようだ。
なので、ばかもめが、その企画を丸投げでわたすにくれるなら、わたすのYouTube赤煉瓦で全て請け負って、わたすのYouTubeにアップするぞ。
みな、普通に、カラオケの歌はYouTubeにアップしておる。
ばかもめのネット環境がWi-Fiなら、今からでも遅くはないかから、YouTubeを見ることを勧める。
これからは会社勤めなどせず、自宅でカネを稼ぐ時代だ。
 何日か前に、引きこもりで勤めにもいかない鬱の子を抱えた親がなす術もなく困り果てていたのをテレビでやっていたが、自宅に閉じこもることは罪ではない。
イジメから身を守る防御本能だ。
 親を責める気は無いが、閉じこもってもカネを稼ぐ算段を教えてあげれば、子は、稼ぎまくる。
 日本は、頭脳を使って稼ぐ算段を本気で考えるべきだ。

 


●かもめ
「ばかもめが、その企画を丸投げでわたすにくれるなら、わたすのYouTube赤煉瓦で全て請け負って、わたすのYouTubeにアップするぞ。」
それでよしとする。善は急げだ。7月の5,6,7日なら体が空いている。保土ヶ谷駅近くのカラオケ屋でも予約しておきたまえ。予約が決まったらお知らせねがう。その際、何度も言ってきたところだが、できるだけ広い部屋を所望。できれば二三十人所用のパーティールームがよい。日時がきまれば拙者としても喉の調子を整えておかねばなるまいに。そこで、もひとつ、ものは相談だが当日のプログラムおよび当人のレパートリーについては問答無用となされるがよし。時間内に何をどう歌うかは、著作権上、舞台の主役たる歌い手の専権事項にござる由。

そこで、まずはロシア民謡「トロイカ」ははずせまい。次はシャンソンといこうではないか。「人の気も知らないで」「暗い日曜日」その他いろいろ。その次は、なんといっても軍歌だ。「麦と兵隊」「戦友」「同期の桜」などなど名曲の数々。それから戦前戦後の童謡唱歌にも、いい歌がたくさんある。「赤い靴」「雨降りおつきさん」「十五夜おつきさん」「月の沙漠」などなど。涙なしには歌うに歌えない。ああ~考えただけで、わくわくする。

 

それからやや日がたって・・・・


●かもめ
先日今井殿による拙者の歌声を元となすカラオケ収録を終えて、さて夕飯にしようと入った中華屋にて、おしゃべりに花が咲き、その際、拙者が先日見たネット上での好みの楽曲を今井殿に紹介してみた。器楽曲のことで歌詞がない。それで、ら~ら~らとうなってみたのであったのだった。向こうのほうで、ラーメンをすすっていた青年が、うるさいぞと言わんばかりに、拙者のほうに白い目をむけた。 それはともかく、かの動画を思い浮かべつつ・・・その様を今井殿に伝えたら。やはり今井殿は、映画通であったことがわかった。その映画の監督はビスコンティだろうと、答えてきたのであったのだった。そうだイタリアン映画の傑作「山猫」であって、バート・ランカンテーと踊っている娘役の女優の名が出てこなかったのであったのだった。本日になって、思い出した次第にて、ここにご報告する。彼女の名はクラウディア・カルディナーデ。名画『ブーベの恋人』の主演女優なり。おお~懐かしや懐かしや。

 

●今井政幸
中華を食べたいという。普通の値段もはらない一般食堂で良いというから、いついっても閑散としててお喋りが出来そうた西口地下街の中華に入って、麻婆豆腐、青椒肉絲、エビチリを食べてたら、ビールだけなのに、興に乗ったのか、かもめ氏がバリトンでショスタコーヴィッチのセカンドワルツを歌い出した。私たちが狭い店に入店した時は客が一人しか居なかったのに、話に花が咲いた時には、満席となってた。いつも人が入らないとこなのに。映画「山猫」に使われてる曲がショスタコーヴィッチのと知らないわたすにもどかしくなってかもめ氏がいきなり歌い出したから焦った焦った。かもめ氏は、女優の名が出て来なかったことに気づかってのフォローだが、その会話の中でのわたすの一番の興味は、公爵と踊っているクラウディア・カルディナーレをアラン・ドロンがギラギラした目で見てると、表現してくれた事だった。映画はカメラワークで心理表現する芸術だから、映画鑑賞のツボを押さえたかもめ氏の映画の見方が面白かったよ。

浅田真央のセカンドワルツ   https://youtu.be/jBb149Re1Ic

 

●かもめ
そうですか。浅田真央さんがこの曲を使っていたのですか。されば真央さんの絶頂期に相違なく、その動画、すばらしい演技ではござらんか。ただし、ただしですぞ。今井殿。わたすが、かの中華屋にてハミングした楽曲は、たしかに映画『山猫』で流されていたそれだと確信にいたった心意気とは申せ、それはそれ数日前にネットの動画でみた印象なのであり、実際のところ映画『山猫』にショスタコビッチの「セカンドワルツ」が、使われているかどうかの真偽は定かにはあらず。動画投稿者が『山猫』中の舞踏会のシーンに別途録音した「セカンドワルツ」を合体させて投稿しているのかもしれやせぬ。画と音は別物でござるからね。

 

●今井政幸
なるほど。じゃ、映画「山猫」のもとの?ワルツは正しくは誰の曲なのだと疑問した時、現代ではネットを検索すれば、すぐに答えが返ってくる。ヴェルディの遺作をニーノ・ロータが編曲したものだそうだ。

 

●かもめ
今井殿と横浜駅構内で別れたのが午後六時前だった。東横線の改札口方向を今井殿に示されて歩き出したのだが、あまりのヒトの多さに気圧されたのか、ともかく外の空気がすいたかった。そうだ、東横線沿いに伸びているはずの綱島街道を歩いてみようと心したのであったのだった。外はまだ明るかった。横浜駅東口に出ると目の前は国道一号線なり。一キロほど歩いて六角橋方向の道標を見て左折した。しばらくいくと、東横線では、横浜から一つ目の駅である反町駅に到着。さらに歩いて、東白楽駅を過ぎ白楽駅に到着。しばし駅前商店街を彷徨。古本屋があり、ここで『裏切られたベトナム革命』中公文庫(友田錫 著)なる古い文庫本を購入。となりのコンビニで「白角水割り」の缶をもとめ、これを呑みながらさらに旧綱島街道を北上し、妙蓮寺駅を過ぎ、結局、菊名駅までやってきた。少々疲れ渋谷行きの電車に乗る。だが、なんだかまた歩きたくなって元住吉駅で下車し、南武線の武蔵新城駅、または武蔵中原駅をめざした。たどり着きさえすれば、どちらの駅でもよいだろうとたかを踏んでいたからだ。で、中原駅の手前、中原街道に出たところ、ちょうど向こうから東急田園都市線鷺沼駅行きのバスがやってきたので、これに乗って帰宅した次第。時すでに午後十時をすぎていた。

 

●今井政幸
え?あれから歩いたのか。すごいな。わたすは、今日はガストデーで、またガストでミックスグリルを食べてきた。これからずっと家だから、1日のどこかでせめて散歩は組み込んでおこっと。昨日から始めたPHPやWordpressが、そもそものダウンロードがうまくいかない。いや、カネをケチろうと、最初の勉強は、自分のノートパソコンをサーバーに仕立てて自分ちの中で勉強しようと、ローカルサーバー、8888の設定のはずが、やはりダウンロードしたさくらエディターで作った簡単なホームページがブラウザで表示されない。何でや?で致命的なことに、わたすのけちってかった80,000円のノートパソコンが遅い!イライラが募る。なので、標準のみんな使ってるマックを買おうかと。200,000円が軽く吹っ飛ぶけど、業務を考えたらしゃーないか。時間的には、受験生ペースで勉強しないとタイムテーブルに追いつかない。あー、これじゃみんなやらないね。しめしめ、誰もが遣り切れないのを仕事にして、儲けよ。今日から、夜中まで毎晩勉強だ。

 

 

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▼ヴォーカル大好き<島倉千代子>

2020年01月24日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

今日もカラオケ三昧に明け暮れる。今日は、お千代さんこと島倉千代子さんの持ち歌ばかりを歌ってきた。

この世の花

東京だよ お母っさん

鳳仙花

涙の谷間に太陽を

島倉千代子さんがなくなられて早三年が経つ。わたしが物心ついたときにはすでにラジオから連日、お千代さんの歌声が流れていた。それから幾星霜の六十年。現在にいたるまでお千代さんの歌声が心の奥底にしみついてしまっているようで忘れがたい。いつかテレビで見たのだが、作詞家の星野哲郎さんが、お千代さんの歌声というものは、日本語の、その言葉のひとつひとつが、きわめて明瞭正確で、それに清涼にして哀愁に満たされている・・・と述べられていたが同感だ。まさに、ここにこそ、島倉千代子独自の天性があったような気がする。

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▼ヴォーカル大好き<冬の星座>

2019年01月15日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

「冬の星座」は、先日来カラオケ屋に参じては好んで歌っている曲なのだが調べてみると1947年の中学生用音楽の教科書に「文部省唱歌」として載せられたのが最初だったとのこと。なにか讃美歌でも歌っているような荘厳なおもむきさえあって子どものころから大好きな歌だった。いちいちの文語体が新鮮だった。さゆる空、地上にふりしく、奇(くす)しき光、ものみないこえる、しじま、オリオン、スバル、そしてなにより二番の歌詞にある「無窮をゆびさす」の無窮という言葉が忘れられなかった。

 

詞:堀内敬三
曲:ウィリアム・ヘイス(米 1871)

こがらしとだえて さゆる空より
地上にふりしく 奇(くす)しき光よ
ものみないこえる しじまの中に
きらめき揺れつつ 星座はめぐる

ほのぼの明りて 流るる銀河
オリオン舞いたち スバルはさざめく
無窮をゆびさす 北斗の針と
きらめき揺れつつ 星座はめぐる

 

 

 

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▼ヴォーカル大好き<赤い靴>

2018年12月21日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法


「美しい日本の歌」 のばら社

 

今日もカラオケ屋にはせ参じ「赤い靴」を歌ってきた。

作詞:野口雨情 作曲:本居長世 大正11年(1922年)

歌詞もよいし曲もよい。

繰り返し何度も歌ってきた。

 

 

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▼ヴォーカル大好き<池田理代子さん>

2018年11月14日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 

池田さんは昭和23年生まれで、わたしに同年であるからして、昔っから、かねがね気になっていた。上の本を読んだのは十年ほどまえのこと。もう一度読んでみたいと押入れの中を探ってみたのだが、いっこうに出てこなかった。上の写真はネットからのコピーである。そこで、うろ覚えなのだが文中、今でも覚えている至言をふたつだけ掲げておこう。

 

●わたし(池田)は、幼い頃より、歩いているときも、勉強しているときも、それこそ、なにをやっているときも歌を歌っていた。

●老いて目が悪くなっても耳が遠くなっても、喉だけは、ただ一つ歌を歌うための喉だけは生理的に老いることがないのは不思議だ。

 

以上、わたしの自己満足をさらにうべなってくれていると喜ぶ内心。

池田さんは、当時すでに「ベルサイユのばら」という長編漫画で一世を風靡していた。ようするに押しも押されもせぬ漫画家であったのだったが47歳にして仕事を捨てて、幼い頃より夢見ていた音楽のそれも声楽の道に入ろうと志した。たしか東京音楽大学声楽科に入学を果たしたのだった。 その間の自伝的物語が上の本である。

 

 

 

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