赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼新マルクス主義納税論

2008年11月29日 | ■教育年金管理人泥炭氏との対話
税金と言うのはどうして取る必要が有るのだろうか?政府はお金が無くては仕事ができないだろうが、そのお金は税金等と言う形で集める必要が有るのだろうか?必要なだけ造幣局で印刷したらどうだろう。

それにしても「税金」の有無に話が及ぶとは実にラディカルな議論で興味がわいてきます。税の存否のお話とは、いわば国家存亡にかかわる政治学的いろはの話だと思った次第です。税金を財政または経済的側面からだけ見るならば、あなたが抱いたような空想も可能かもしれませんが、周知のように「税」こそ、国家存亡の根底的な問題であり、いわば政治的側面があることを見逃すわけにはまいりません。無料会員だけで成り立っている団体は、胡散臭くさえ思えるように、会費のない団体は聞いたこともありません。会費徴収をもって特定個人が認知される。つまり会の所属員としての義務と権利の要諦の契約が合意され、これが記録され自明のものとなる。ただ町内会や老人会などと国家とは、政治学的に違うものがある。町内会では個人の全般に及ぶ存在の保証はできないでしょう。人権は国家に所属することによって始めて実体化してくるわけです。個人は必ずいずれかの国家に所属する。

詰まりは、税金ならずとも国費は人々の血と汗の結晶である事に少しも変りありません。

変わるも変わらないも、自明のことではありませんか。国費と租税は同じものであり、国費は国民の租税によってまかなわれるべきなのです。もしそうでないとするなら、国家はそのていをなさないでしょうと申してきたはずです。租税の範囲内で国費を組み、やりくりするのが政府、政治家、官僚、役人の役目ではないですか。
 
いずれにせよ【税金を無くす】等と言う大改革を考えるからには・・・・
 
税金の集め方、また使い方に限って話が出来ると提案したのが私ですが、Dさんの言うように「税金を無くす」大改革というのは、まるで国家など無くなってもよい、というようにも聞こえまするぞ。それでよろしいのですか。
 
国の生産力の向上に見合う程度のお金の印刷で本当に国費が賄えるのかどうかとか、必要なだけ印刷してなおかつインフレや円の暴落を本当に抑えられるか、社会的格差は拡大しないか、改革に伴って懸念される大問題が沢山有ります。そうした問題を論ずる方が先決でしょう。もちろん懸念ばかりでなく、印刷だけで済ませられたら国債等発行して子孫に借金を残す必要が無くなる等と言う、メリットについても多いに論じたいものです。

なにを馬鹿なことを申されているのやら。国が勝手にお札を印刷して、自分の懐に入れてしまったとするならそれは国家の犯罪ですよ。ホリエモンじゃないが「粉飾決算」の罪で、三日もしないうちに国際社会から見放されるでしょう。国連から追放されますよ。そんなことは経済学、財政学のイロハでしょう。国家の借金は国民の借金ですよ。そうした認識を持てるのも、民主国家である証拠なのです。国債は、国民の借金に他ならない。日本国と地方自治体をあわせて、いまや数百兆円の借財があると聞きますが、これはなにも戦後政治をになってきた政治家や国家、政府だけの責任ではないでしょう。Dさんや私のような戦後世代が、常に満腹していなければ承知しないとばかりに、国と一緒になって飽食してきた結果なのです。将来の子どもたちの分まで、食ってしまった結果なのですよ。この上さらに生産力を上げろとは、あいた口もふさがりません。そろそろ発達史観や進化論はいい加減にしなければ、それこそ地球は掘りつくされて、人類の滅亡が近くなるばかりです。人間は傲慢すぎると私が申したのは、そうした近代の生産至上主義や右肩上がり一辺倒の科学風合理主義に陥っているDさんのような考え方を批判しているのです。

良き悪しきの議論は知りませんが、税こそ国家と私人の今日的関係を示しているものはありません。税こそ近代国家の政治的根幹をなしていると思いますね。いずれにしても個人は国家から離れることができないのです。私の「人権」は日本国によって擁護され保障されているのです。仮に私が国外などで行方不明になった場合、日本国はあらゆる努力をして私を救済しなければなりません。これが私と日本国との義務と権利に及ぶ契約なのです。もちろん私のほうからも、国家に対して果たすべき義務がある。義務の一つが納税です。義務教育ということもある。国によっては兵役ということもある。納税、教育、軍隊。それらに付け加えて大小の「議会」でしょうかね。これらのシステムを完備して始めて自他共に「国家」として承認されるというのが今日の政治学的要諦と言えるのではないでしょうか。もし、税の徴収ということが無となったばあい、民主主義は崩壊するでしょう。国家に対してモノをいう権利を失います。これでは個人という概念さえ成り立ちません。国民の全てが広義の意味で生活保護を受けているような状態です。国民は国家に飼育され、末は飼い殺しです。これが個人の思想に及べば一種の独裁政治の始まりと申しても過言ではないでしょう。

私が若い頃はソ連の社会主義が褒め称えられていました。当時ソ連では税はおろか教育、医療、交通なども無料だと耳にして、さすが社会主義国家は理想郷だと信仰心を新たにし、アカハタ配りに熱を上げましたが、これも80年代に入ると徐々にソ連国内の矛盾と惨状が暴露されるに及びました。そして、心底から「タダより怖いものはない」と思ったものです。やはり、われわれも所属する国家の国益や国力、また「国づくり」という指向から離れて政治は語れないものだと思った次第です。税金にしても、どのように集めるのか、また何に使うのかという話に限って議論が出来る、というわきまえをもちたいと思っちょります。大人なのですから。
 
失礼蒙御免で申し上げるなら、契約の自由が保証されなければ契約其の物が無効でしょう。
 
確かに国家と私人の関係には一種の「契約」があるとは申しても、これを命の根源にまでたどって、生命的また生活的現象のすべてに辻褄が合うように立証するのは難儀なことでござるよ。人を殺しても殺人罪になるとは限らない。時と場合(戦時)によっては殺せば殺すほど報奨金が与えられたり英雄として勲章が与えられたりするのだからしての。よほど自国が嫌なら亡命するなり国籍を異動するなりするしかあるまい。「国家は幻想である」と言うなら「私」だって幻想上の存在だ。いわば「契約の自由」はないと言えばないのだし、あると言えばある。こうも言えるだろうか。「契約の自由」はあるのだが、その「自由」は必ずしも国家によって保証されているわけではない。国家国法に反しても、心底から信念に従って生きたいという思いがわきあがった時、どうするかだが、そうした場合は、国法を逸脱しても「私」を生かすように、まかり間違ってそのようなお人に出会ったら勧めるつもりにござ候。手っ取り早く、高飛びまたは、亡命することを勧めるつもりなり。すでになにか犯行をなした後だというなら、もちろん自首することを勧める。警察に出向くのが億劫だというなら、付き添ってやってもよいし、どうしても逃げたいというなら、逃がしたふりをして、ただちに通報するつもりなり。
 
私を始め愚民の多くは国家を選択して産まれて来 た訳でも無いのに、家畜が増えた如き扱いでの誕生をしただけである。
 
国家の選択を言うより前に、われわれは親を選択して生まれてきたわけではない、という厳然たる摂理がある。この摂理に対して「国家」という概念はそもそも矛盾しているのである。上に書いた「辻褄あわせ」とは、このことを申す。契約といい、合意といい辻褄あわせ以上のものではないはずだ。いわば国家と私人の共犯関係が幻想されて始めて体制のいかんを問わず近代社会の核心的概念としての国家が成立していると申せよう。こうなれば「国民」なんて存在は統計上のことにすぎない。頭数の問題であり私という性質は誰も問わない。私の私性を問うているのは私だけだ。私が没しても、国家としては屁とも思わない。線香の一本たりとも上げに来ないだろう。契約とは言っても、国家と私人(国民)の関係とはそんなものだよ。
 
税金無納者が物を言え無い、或いは言わさない、公民権さえ行使させない異常の世界の話は狭小隙間論で汎論的ではないでしょう。
 
モノを知らないにもほどがある。国民たるもの一人残らず課税されている。これまた厳然たる事実だろう。誰もが日々、納税している。たといホームレスであろうと消費税や酒税は払っているのだ。彼らこそ高額納税者だ。ホームレスや生活保護者を小ばかにすると承知しないぞ。

でっ!ヤッパリ無税は駄目ですか?
 
駄目でしょうね。そもそも税が無くては国家という概念が成り立たちません。役人も警察もいない社会というものを想像できますか。誰が彼らを食わせていくのですか。若い頃、レーニンの「国家と革命」という本を読んで感銘を受けた。ロシア革命のずっと以前、若かりしレーニンの著書であるが後年にいたってレーニン自身が、その本の中で述べているあまりに野放図な理想主義を否定していると何か別の本で読んだことがある。若きレーニンが「国家と革命」で訴えているのは、ようするに資本主義の終焉以後の社会の様相のことであり、もちろん労働者階級をはじめいっさいの階級が消滅することである。さらに推し進めれば国家は必然的に死滅すると明記されていた。国家の死滅とは権力機構が消滅することである。ここにいたって人類みな兄弟となる夢物語である。どういう社会になるかと、以下のごとく具体的に書かれてあった。

国家がなくなれば戦争はなくなる。軍隊の存在理由が消える。また私的関係でのいざこざなども各人が徹底的に民主的文化的に教育された暁には人をだましたり、暴力をふるうような人間は皆無となる。地域ごとの住民自治が完璧となれば役人もいらなくなる。必要な公的事務は民間人が交替でやりくりできるようになるともあった。まれに住人同士にいざこざが起こったとしても、これらすべて当事者同士が話し合って解決できるようになると書かれてあった。警察も役人も原則必要がなくなると言うのである。マルクスは共産主義社会の展望を具体的に開陳することに慎重だったがレーニンは「国家と革命」の中でかなり具体的に展望していて、若かりし私は夢中になった。

それから数十年がたっている。私も少しは大人になった気がする。今にいたって再考するにレーニンの空想は、どこから考えても無理な話なのである。人間からいっさいの暴力を取ったら、もうそれは生き物ではなくなってしまう。「私」性を剥奪されるということだ。レーニンが願望している社会に生存しているのは、人間ではない。不平不満を持たずに黙々と働き、決して正道から外れることの無い、ようするにある種のロボットのことなのである。されば警察が不要になるもの理の当然であり、またロボットから税を取る非道はないはずだ。ロボットがいくら働いても、彼らの給料のすべてが搾取の対象であり、いわば「税」そのものなのだから。かように、税の無い国家というものは想像上のことであり、実現したとするなら、そこには概念上国家に対峙するべきヒトたる「私」は一匹も存在しないということなのである。

今でも、なくなったわけではないと思うが、たとえば「ショバ代」というものがある。神社の祭りかなにかで、境内には、夜店露店がずらっと並ぶよ。昔は、組のもんが仕切っていろいろやっていたというが、現代でもそう変わりないんじゃなかろうか。誰か仕切る人間がいなくては、祭りの前から場所取りをめぐって境内のあちこちで、夜店経営者同士の大ケンカが始まるに決まっている。これが「税」と「役人」が生まれる原型のようなものだと思うね。多数の人間の言い分なり持分を按配よく、仕切る人間、これが役人の原型だ。そうした仕事を生業としている彼らに対する謝礼、報酬、俗に言うショバ代というものが今日に言う「税」というものではないだろうか。いちいちケンカしないで、やりくりしていくためには、どうしても彼らの存在が必要となるのだよ。国家とか社会とか言えば話が大きくなって、ややこしくなるばかりだが、村祭りの境内の有様こそ、少なくても活性的な「社会」の構造的原型をとどめているように思った次第にござ候。われわれが分かっておきたいことは、お祭り等においても多くの場合、これらの構造(政治的経済的人間関係)はめったに表には出てこないということだ。焼きそば、おでんの値札は張り出すが、ショバ代がいくらだったのかを客にもよく見えるように札を張り出している夜店はないものだ。

だが、税は違う、私が知らぬ処で陰謀を廻らされ、あれよあれよと言う間も無く、法として決定されて愚民から収奪する。此れは御貴殿のような> 賢者でない愚民には実に屈辱的で感情が激発するもんですよ!煙草税なんか北朝鮮の密輸品で済ませて、絶対に払ってやるもんかとさえ思って居る。

建前と本音ちゅうことがある。また公私の使い分けということも知恵の一つじゃからしての。時と場合ということもある。そうも厳格になにもかも、お上の言うとおりに出来るはずもない。拙者なども毎日、道路交通法違反を犯している。確信犯じゃよ。散歩している途上のことなれば、よほどの大通りでもなければ、信号など赤でも青でもお構いなしじゃ。信号など気にもならない。車が来るかどうかぐらい信号なんぞ見なくても自分の目で確かめられるからにゃ。
 
税にしても似たようなものでござるよ。拙者のデスクの上には督促状が積みあがっている。どうしても払えとお上から脅されて、始めて仕方なく遅滞金を含めて払っているようなものでごじゃるよ。威張れたものではござらんばい。拙者が税の問題を通して言いたいことがあったとすれば、おのおの方それぞれが、自分にとっての「祖国」ちゅうものの正体をなんと心得ているのかという疑問じゃよ。おぬしの場合など、いかがなものでござろうや。祖国なんぞ貴公にしてみれば、あってもなくてもいいのかね。愛国心 や国家への忠誠心を明らかにせよ、とまでは言わないが母国または祖国ちゅうものに対して、そうも一から十まで悪意を持ってしか臨めないというのは不幸なことじゃないのだろうか。そんな調子では一向に気持ちが安定しないのじゃなかろうかと、こちとらが心配になっちまう。
 
同じことは、わが親に対しても言えるだろう。親孝行の方法は人それぞれだろうが親の恩というものは、「私」の精神の根源、すなわち思想の存立にかかわることだよ。最近、改めて気がついたことだが、拙者に最初に日本語という言語を与えてくれたのは親以外の何者でもないと痛感した次第にござる。これは誰でもそうだろう。親は飯を食わせてくれた、という、それだけの存在ではないよ。多かれ少なかれ「私」に最初の教育を与えてくれた、それが親というものだよ。そうした問題を、少しも考えようとせず思考停止したまま尊大な言動に及び勇んで見せているばかりで、なにが子どもの教育だと思いまするぞ。

<2006.3.6記>
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▼システム対言葉

2008年11月29日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
どんどん書く。書いては書いては書き捨てる。それが個人メディアとしてのインターネットだ。ここに他人は居ない。消えても、改竄されても、それはそれで構わない。

これについては、完全に同意しますね。私なりに考えている「新しい文学」という路線に、自分の文章の性質を乗せていくために、どうしても避けられない道行きのことです。他人は居ないと言い切るには、私はまだまだ自信はありませんが、ダンテが言ったように、私の文章がごとき、他人にはなんとでも言わせておけばよいのです。気にするなということでしょう。文章の上で刃傷沙汰が起こるはずもない。はずもない物事を誇大に取り上げて事実化しいちいち興奮しては、やれああ言われたこう言われた、やれ削除だ、やれアク禁だ。誹謗だ、中小だ。名誉毀損だ。警察沙汰だ、訴訟沙汰等々と、どうしても「公的」に勝ち負けの決着をつけてもらわねば気持ちが収まらないとする舎弟連中のほうがよほど浅薄ですよ。

意外なことに、この手の馬鹿は普段から文章を書いたり読んだりしているはずのインテリ諸君に多いのです。これが近代の大問題なのです。根の深いところで文学の傾向などを左右している思想的問題だとも言えるでしょう。彼ら黒白漫才師らにドストエフスキーの切実な文学性など分かってたまりませんよ。革命政権の茶坊主たるショーロホフの成り上がり百姓の大冒険物語、またイデオロギーの使いっぱしりプロパガンダの丁稚小僧たる小林多喜二の「ハウスキパー隠れ家物語」などを読んでは、さも新しい革命的文学的教養を得たと自己満足し布団の中で屁をひって眠るぐらいが関の山です。

文体に人頼みは通用しない。コピーはコピーですよ。みんな仲良くいたしましょう方式の文体は、ほとんどコピーを使いまわしている。仲良くいたしましょう文体は、すべてプロパガンダです。文学とは違う。私は「みんな」という言葉がこれほど見苦しいものだったのかを、ネットにおいて痛感しましたね。よって強情に見えるかもしれないが、最後まで一人でいることのすがすがしさを学んだ。そこからしか真性の言葉は生まれません。

ネットで問われる道義はなにもメカニズムやシステムのことではない。おのおのの私性にもとづく言葉に他ならないでしょう。自分の「言葉」が試されているのです。それを知らない人間が人のせいにしたりシステムのせいにして自己正当化を図っているだけのことですよ。残りはすべてホラか自慢話ですよ。他愛もないことです。せいぜい人のためだ、仲良くしましょうに集約されるプロパガンダです。

現代社会も、これで、なかなかの迷信社会です。誰しも大きな迷信におかされている。いや、迷信に守られていると言ったほうが正確かもしれませんね。迷信と迷信が個人の口を借りて、ぶつかり合っているのです。ネットではそれらの様が実によく見える。見えすぎるほどよく見える。こうした様を指して激論に及んでいるとか、ましな議論をしていると思ってしまうのも浅はかな次第です。

理解という言葉があるが、理解という概念にしても迷信といえば言えるのです。われわれの話や書いていることなんぞ、すべてこれ迷信であり迷妄の産物ですよ。そのように思っていたほうが気持ちが楽になる。憲法にしても教育基本法にしても迷信の産物でしょう。国家だって迷信から始まっている。迷信がなかったら国は成り立つまい。そんなものさ。

<2006.12.31記>
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▼渡辺さんとの倫理的対話(コメント欄より)

2008年11月25日 | ■小沢一派とその仲間たち
●↑素敵な写真だと思います (渡辺 喜久雄) 2008-06-07 22:01:02

>すでに何年も前から、拙者は隠居しているつもりなのである。隠居爺さんで何が悪い。身も心ものんべんだらりんを決め込んで、この先も、やることと言ったら散歩するだけだ。拙者にとっては文章も写真も余技だ。一日、一日を真面目に生きていくことだけだ。

定年ちょっと前にリストラされやがてその会社も倒産というような按配の私にとって「隠居しているつもり」などと明言できるのはやはりスゴイことですよ。「一日、一日を真面目に生きていくこと」って意外と難しいですね。つい状況に流されてしまったり、楽な方へ楽な方へとズルズルっと滑ってしまいますので・・・。ただですね、地震や災害などのニュースに触れると「もう少し何とかならないのか」なんてモゴモゴ喋ってしまったり、霞ヶ関高級官僚(キャリア)の「居酒屋タクシー騒動」とかを耳にすると「まったくどうしようもない連中だな」ってひとり声をあげてしまうのです。自分の力では現状を変えることも出来ない癖にこうして俗世の出来事にウジウジし、またずっぽりはまっているのですから我ながら厄介というものです。かもめさんからは、ある種の達観というか諦観というか、そんなことを感じますね。かもめさんほどではないにしても私もわが子の「子育て」で得た体験というのは強烈でした。そこで学べたものは一般的な考え方や常識とは一線を隔した世界でした。正しいとか正しくないというような物差しでは計れない、同じことより異なっていることの方が多い、子ども時代を子どもなりに生きているなどなど私は自分の子どもからたくさんのことを吸収し学んでこれたのはとてもラッキーなことでした。


●渡辺さん (かもめ) 2008-06-07 23:18:51
なにか渡辺さんから、誉められているようで痛み入ります。そこでもう一度、自分の文章を点検してみれば、私の上の文章にはいくつかの矛盾もありそうですね。渡辺さんもご指摘のように、「日々を真面目に生きる」ということが、いかに難儀なものかという点。それに一方で「のんべんだらりんを決め込む」所存ならば、それと真面目に日々を送ることとがどう結びつくのかという言葉の上の矛盾です。一言で表すならば、私の場合、清貧に甘んじるというばかりでなく、モノを欲しがらず、社会や他人に何も望まずに、現象に対しては、できることとできないことを見極めて、いちいち興奮したりせず、また不毛な感傷にふけったり、言葉を使って、もっぱら不平不満を演じたり、弄したりは、しないでおこうという覚悟のようなものだったのです。だいたいのモノは、わたしには、足りているのですもの。最近分かってきたことですが、なによりも私には健康がある。見てくれは、悪いが、親から貰った丈夫な体があるのですもの。あとは、何も必要ありませんよ。わたしは、できることとできないことを見極めて、弱き人たちに尽くすだけです。手助けできることがあれば、手助けしてやるだけですよ。そのような機会が目の前に出現したらという話ですがね。幸い、わたしの妻子は、私同様に健康に恵まれ、多くの部分で自立して、暮らしていけているのです。できるだけ干渉はしないように、心がけているつもりです。それでよいでしょう。それ以上の幸いの何を望めますか。わたしの体や暮らしぶりが困難になったら、正々堂々と、妻子に助けを求めます。こうこうこうした部分について手助けしてくれと。手を貸してくれと。それは妻子ばかりではない。世間に対しても、恥ずかしがることなく、助けてほしいと言ってみればよい。きっと、世間は助けてくれますよ。何度も言いますが、いまのところは健康ですから、わたしは手助けしてやるほうの立場です。ですが、四六時中、そんなことばかり考えているわけではない。自分のことがなにより大事。酒を食らって、良い気分になるのも、自分可愛がりです。できもしないことに手を出しても、なんの助けにもならないでしょう。街にでたときなど、目の前に、難儀しているひとがあれば、わたしが、なにをやってあげれば、助けることになるのか、即座に分かる場合は、問答無用で、手を出しますよ。手を貸してやれるように、やっと、なってきたのです。行為です。口や言葉なんかでは、なんの助けにもなりゃしない。弱い人に、むかって何の言葉がありますか。説教しても始まりますまい。世の知識人というものの、多くが、後者に成り果てているのです。自分の手を汚さずに、悪いことはすべて社会のせいにしたり政府の施策のせいにする。これは自分を棚にあげていることですよ。彼らが発する言辞の大部分が、自己保身、自己弁解、自己美化になってしまうのは、こうした思想的背景があるのです。行為ではない、言葉だけの上で、なにか正義が実現できるかのごとく錯覚している。わたしは、こうした逆転現象を糾弾しているのです。真に正しい人は、黙って行為しているのです。黙って自分の手を汚しているのです。


●潔い覚悟 (渡辺 喜久雄) 2008-06-08 17:23:38
私は20数年前頃からでしょうか、それまでの西洋的な考え方(西洋医療など)に疑問を感じ、まぁカタログ程度の知識ですが、東洋医学のようなものに触れました。食養生(日々の食生活こそ健康の源)が大切なことを知り、そしてヨガ・瞑想・気功なども体験しました。そうした経験から私は「精神世界」に関心を持つようになりました。元々私は愚かというかバカですから実際にいろいろ体験してみて気がついたような次第です。ここで言う「精神世界」とかは特定の宗教とか思想とかではなく、「こころとからだ」は密接不可分に深くつながっている、つまり「物質と精神」とは重なり合って存在し、相互に影響を与え合うというような考え方を言いたい訳です。で、かもめさんの根本思想と申しますか生き方の指針のような考え方に私は深く共感しました。そのような考え方に至ったかもめさんの凄さにあらためて感激しました。私のように、いちいちヨガだの瞑想だの気功だのなんてそんなチンケな例を持ち出さなくても、まったくストレートに自然にコトバで表現されている態度がすでに素晴らしい。また考えようによっては、その高潔な人間性を表しているようにも思えます。と申しますのも私には「精神世界」の多くのひとが上記のような考え方を目指しているのにもかかわらず、実際には意外と悪戦苦闘している仲間が多いというのが現実じゃないかと思えるからなのです。
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▼政治と生活

2008年11月24日 | ■教育年金管理人泥炭氏との対話
行為とはなにかを考えてみた。いえる事は、行為においてこそ「私」が試されるということはあるだろう。行為は政治であり、生活だ。その人だけの自由に基づく行動いっさいのことである。行為によって歴史は作られる。くだらない「知識」や「言説」によって歴史が進むなどと思っているのは愚の骨頂だ。問題は、行為とは誰からも指図されない、私だけが責任をとれる私の行為のことである。

先般、都知事選挙があったが、石原に投票するのも自由な行為。反石原に投票するのも自由な行為だ。誰にも善悪は計れないだろう。ブッシュにしてもしかり。どこぞの戦争にしてもしかり。どこの馬の骨がくたばろうと、おっちんでしまおうと、原則、その馬鹿の自由だろう。

無関係の拙者には、なんとも、言葉の出しようがないではないか。言及のしようがないではないか。言及する必要が無いではないか。こっちだって、のんきに生きているわけじゃないのだ。これで、食うために一所懸命だ。だったら、言葉とは何かね。いっさいが無駄なことだろう・・・・とも言えるだろう。まずは、そこに気がつくことが健全思考というものだ。

黙っている人間のほうが、よほど利口だということに、日がな一日、くっちゃべっているその種インテリ馬鹿どもが、早く気がつくことだ。

百姓は馬鹿じゃないぞ。近代の馬鹿集団は、よほどインテリ風のその日暮らしだ。分かったような面をかまえて、口を出す、しゃしゃり出てくる。ただいま次善策を協議しているところだす、などと、言い逃れ、ほざきまくって稼いでいる、くたばりぞこないの小市民だよ。

都知事選ともなれば、黙って反石原に投票してくればいいじゃないか。黙って駅頭ビラまきでもしていればいいじゃないか。誰もやるなとは、申しておるまい。なにを、議論することがあるのかね。黙って戦争反対の宣伝活動にまい進してみればいいじゃないのか。黙ってやるんですよ。政治なんてもんは。

一方的な意見表明の駅頭のビラ配りより、掲示板での意見交換のほうがはるかに意義のある行為だと管理人は確信しています。

もちろん、それは貴殿の自由だ。わたしは、そうした政治的思惑という種類の願望は、ひたすら黙って行動するのみだと思っています。相手から話を、ふっかけられたときに、自己を弁明する機会を得る。言葉が出てくるのは、そうした場合だけで、よいと思っています。あとはひたすら黙って行動するのみ。

演説でもビラ配りでも、言葉は道具として利便に供されるが、人個人としての本音(哲学的問題)は黙っていたほうが、むしろ黙っていなければ、行動に意味がなくなります。本音を発したりすれば、その言葉は、すべてが誤解のもとになる。政治的な言葉とは、多かれ少なかれ党派根性から発せられた「お世辞」にすぎない。議論とは言っても、相手を打ち負かすことが目的でしょう。議論して、相手の心の機微にまで到達しますか。理解しあえますか。

核心問題について話が、できないとなれば、それらの議論とは一種の戦争ではないですか。言い分(持分、既得権、食い扶持)をめぐる攻撃と防御のたくらみがあるだけでしょう。議論をしたとて、人の心の、なんの核心を得ることができるのでしょう。人が暮らしてきた歴史の、なんの核心に触れるのかと聞いているのだ。

政治とは、核心を求めているのではない。せいぜい、利便であり。自己と共同体の保身、合理化、くさいものにいかにフタをするか。または誰の首に鈴をつけるか、という結論があるだけでしょう。最後は多数決というルールをもちいて、一見平和裏に終わらせてしまうという、それだけの意味しかないでしょう。ま、少数意見者として敗北を喫してはみたものの、命あっての物種とわきまえるのが利口者だ。

一応ルールに従っている風を決め込み、その実、裏に回って、くだくだくだくだと不平不満のデマゴギーを並べて、自己満足している。わたしから見るに、あなたも、そのようにしか見えません。どぶさらい型インテリ馬鹿の典型ですよ。

先の二度に渡る警告にも関わらず、不規則発言が続いています。かもめさんのこの投稿は削除する事を検討中です。ご異議のある方は申し出てください。 

異議なし!これまた貴殿における「行為」というものだ。立派な政治的行為にござ候。

議論は相手を打ち負かすことだと言うのは、兎角嵌まり込みがちな陥穽ですが、そういう事に成らないようにしたいものだと私は思って居ます。

泥炭さん一流のおべんちゃら言辞だとしかおもえないが、ま、額面とおりに受け取っておきましょうね。それについては、否定はしませんよ。そんな具合に進めていけばよろしいのではないですか。

掲示板の議論で相手を打ち負かして何か利益がありますか?

さあ、どうでしょう。議論というなら大体、そのようになるのではないですか。政治的議論なら、かならず最後はどちらの意見を採用するか、多数決で決めるでしょう。裁判も最後は判決をくださなければならないでしょう。双方の意見を取り入れるという、中間はないのです。イエスかノーか。

それが政治的議論だと申している。ま、あなたの場合は議論以前ということもありますね。たとえばイラク戦争。ブッシュは悪者に、最初から決まっているのですものね。それから自公政権、これも悪者ですよね。その固定観念のようなものを党派根性による「お世辞」だと言うのです。そうした決まり文句をぶら下げて、議論に望むなら、どういう結果になるかは日を見るよりも明らかでしょう。そうは思いませんか。

あなたは反対意見者を掲示板の上で、あぶりだして、彼に反撃を加えようと、最初からたくらんでいるだけではありませんか。二三度、応酬したとおもったら、もう、やれ削除するぞ。やれアクセス禁止だぞーと来たものだ。だが、それも議論でしょうと申すのですよ。なぜなら、政治をやっているからです。政治的な議論こそ、戦いでしょうと申すのです。もっとも議論として面白い。勝敗がかかっているからです。引くに引けない、双方の面子があるからですよ。その面子を党派根性だと申すのです。面白くみえるが、またその内実たるや、実に、つまらないことです。

例えば貴方と今井さんの掲示板における議論の勝敗をお二人以外の誰かが気に留めているとお感じに成りますか?

ま、田吾作とわたしの物々交換上の誤解から始まった言い争いごときを、注視してくださっていたとは笑ってしまいます。百姓あがりの下っ腹の突っ張りあいが関の山のアンポンタンなど無視しておく知恵を持ちなさい。なにか議論がしたいというなら、出てこなければかないますまい。当掲示板に出てこられますか。田吾は。自分の掲示板からは、わたしを出入り禁止にしておいて、ずっと奥のほうにすっこんだまま、陰口悪口をささやいているだけの二束三文ですよ。相手にしなさんな。

あの議論から貴方は軽蔑以外に何か得たものが有りますか?

さて、どうでしょう。わたしが聞きたいほどです。だが、わたしは、わたしと田吾作との話に、何の結論めいたものは求めておりませんよ。ま、あんな馬鹿を相手でも、すこしは面白い話の種が、見つかるだろうかと思って、書いてみた一群の文章ということです。あなたが見たものはね。わたしの文章なんぞ、その程度ですよ。自分で言うのだから間違いない。

あなたも、面白半分に書いた文章がごときに、惑わされることなかれ。軽蔑って、どういうことですか。わたしが、詐欺窃盗の田吾作を軽蔑しているかどうか、ということですか。さてさて、いかがなものでしょう。ま、私が大事にしていた品物を強奪していったぐらいの、馬鹿ですから、軽蔑のひとつふたつは、覚悟の上でしょう。馬鹿ばっかり言っているのが見えませんか。田吾作に議論などという高級なまねができるわけがないのだす。

掲示板における議論において大切な事は共感者を得たり、良い助言を得る事だったりするのではないのですか?

ま、あまり期待しないほうがよいと思いますよ。面白半分ぐらいでちょうどよい。あまり生真面目にやると、傷つくこともある。言い負かされることもある。負ければ誰でも悔しいものです。助言を得ると言っても、それはなお困難なことだと思いますね。よほど相手さまが人格者でないと、助言などと言っている間に、屁謗中傷デマ漫才か、罵倒合戦になってしまうのが、一般的です。

勿論鋭い反対意見は、当を得た暖かい親切な助言と同様にしばしば私にとっては思考を深める上で糧になります。これもまた掲示板に参加する上での棄て難い魅力と言わねばなりません。

そりゃそうでしょう。まれに多少は、そういう気持ちになりうる期待があるからこそ、掲示板を運営されているのでしょう。連日連夜興奮さめやらずで、喧嘩ばっかりやっていたんじゃ、第一からだが持ちません。馬鹿馬鹿しくなるだけですよ。ネットなんぞに面を出さずに、黙っていたほうが、よほど健全にして賢明です。発言とか参加するという概念には裏腹になった非常に奥深い人間的真実が隠されているようです。

謙虚でなければ、だめですよ。人間というものは。素直、素朴、奥ゆかしさ、そういう性質こそ、人間的だと思いますね。だが、なかなか難しい。人は見栄をはりたがる。知ったぶりをしたがるものだ。法螺をふく。自己を美化したり、合理化したり、保身を計る。論者によっては、これの本性が丸出しになって見えてくることもあります。お互い、気をつけましょうね。愛すべき泥炭さん。

<2007.06.05記>
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▼歴史認識について

2008年11月22日 | ■歴史的なあまりに歴史的な弁証法
私は子ども頃、自分が抱いていた迷信や迷妄の類のいくつかを、思い出すたびに、なにか不思議な感覚におそわれる。善悪では計れない、人間の認識パターンがもつ、独特な性質のようなものを力を感じる。こればかりは、低学歴で浅学非才は誰にも負けないと空威張りしている私だけではないと思う。誰にも経験のあったことではないだろうか。

すでにどこかで、お話してきたかも知れないが、ひとつは小学生の頃、「米国」という文字を教科書なりで見つけ。以後長い間、文字と実態の矛盾が解明できず、小さな胸をときめかして、悩み続けていた。米国とはアメリカのことだとは教師から教わったのである。それはわかっていた。だからこそ、矛盾は深まっていった。わたしはアメリカの人々は、われわれ日本人のようにあけてもくれても米を食っているのではなく、パンを常食としていると教わった。ならばなぜ、その国をして「こめの国」と称するのか。これがわからなかった。私なりの納得の仕方は、おそらく「米国」という名前で使われている「米」と、私たちが食べている穀物種を表す「米」とは、非常によく似ているが、必ず、どこかに違いがあるはずだと。知らないのは私だけだと、そう納得させて、ある晩などは、小一時間、「米国」の「米」と、「米食」などと書かれている「米」の漢字を、見比べて、その違いを今夜こそ、見つけなければ学校で恥をかくとまで思い込んだほどだった。どちらかの「米」には、私には見えないほどの点があるのかもしれない。または書き順でも違うのか、いつまで眺めていても、その違いが見出せず。見つけることのできない自分の非才を、嘆いたものである。

それから、「サムライ」の実在ということがあった。私の子どものころは、まだテレビもなく、一時たりとも、家の中で、じっとしていることはなかった。学校が終われば、子供たちは、日が暮れるまで、屋外で遊ぶまわっていた。男の子はちゃんばらが大好きだった。義経、信長、秀吉、家康のことは、誰でもよく知っていた。映画も時代劇全盛だった。サムライになったつもりで、思い思いの棒っきれを振り回していた。

だが、過去同じ領土に「サムライ」というものが実在していたなどとは、露ほども信じられなかったのである。刀もサムライもちょんまげも、すべてお芝居上の道具だと思っていた。固く固く、そう思っていた。義経も秀吉も、すべて芝居の上の登場人物以上のものではなかったのである。

わたしの歴史は、それ以上のものでもなかった。おそらく学校の教師が、サムライが跋扈していた古い時代の話を、いくらまじめにしてくれても、やはり、芝居の話を前提に、話している以上には、真実味は伝わらなかった。話が、真剣であればあるほど、ますます芝居じみてきたのである。

先のアメリカの話も同様だった。国名ばかりのことではなく、そもそも太平洋の荒波超えた果ての果てに、そんな大きな国があるはずがないと、そう思い込んでいたのである。あれはニュース用の、または新聞などの業界が、文字や話を続けるために物語る上で、でっちあげられた「国」であるとさえ。そんなことを考えていた。私の家はまずしかったから、伝統もへったれくもなかった。葬式も、不思議なセレモニーだった、大人が酒を飲んで酔っ払うもの、おかしな現象だった。おおくの事象は、私にとって、嘘っぱちだったのである。滅多に口にできないご馳走が、子供にも回ってくるというそれだけの理由で、また親類のどこかの家で葬式が出されることを願っていた。

自分のつながる、えんえんとした歴史が実在のものとして、まるで目に見えるように、目の前に現れてきだしたのは、そう昔のことではない。年をとればとるほど、昔のことが頭の中で、現実味をおびてくる。昔に帰るというけれど、昔のことをしるにつけ、自分を幸福にさせてくるのは、なぜだろう。2400年前も昔にソクラテスという老人がいた。さらに中国には孔子がいた。仏陀がいた。イエスがいた。彼らは書物など、一顧だにしなかった。後世に世界の四大賢人と誉めそやされる彼らは一様に、文章など一行も書いていない。偉人だとか、とりわけ天才で頭がよいと言えるような、根拠や証拠など何もないのである。

だが、私は信じている。以後、彼らを歌うために語り継がれ、多くの書物が書かれてきたが、それは間違っていないと思う。彼らは間違いなく、私たちの祖先だったのだ。

問題は、彼らが開発した知性、理性は、また人のあるべき姿は、そのものとして私たちに受け継がれているか、どうかだけが問題なのだ。宗教や学問という形だけとどまらせているのは、われわれが彼らに比べれば、実にこまっしゃくれた矮小な人間になってしまっているからだとは言えないだろうか。

科学も教育も、歴史的にはさびしいことなのである。歴史を知るなどとは、まだろっこしい。歴史は感じるものだ。先祖の姿や、人間を実在させせることである。ソクラテスを、自分の目の前に突っ立たせて、彼と対話することである。そこに歴史というものの幸福がある。昔は、さらに大昔は、自然界における人間は、真の王者だったとそんなことが、プラトンや古事記から、垣間見ることができる。年をとってみて、そうしたことが、だんだんとわかってくる。伝統や歴史がなかったら、人間は動物以下だ。

<2007.10.01記>
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▼数値を美化する現代バカ

2008年11月22日 | ■教育年金管理人泥炭氏との対話
>かもめさんの議論の立て方がいかに乱暴かは一目瞭然でしょう。

そのことは謝っておきますね。たしかに言い方は頭ごなしだったようです。私が言いたかったことは、あなたが持ち出す数字、統計、それがあなたの問題提起または、論を立てるに、あなたの都合で恣意的に一面的に使われているということです。私が批判した上の記事では、泥炭さんは、まるで年間3万人の自殺者がすべて学校教育と関係のある、子ども達だと、いわんばかりに数字を持ち出してくる。そうした泥炭さん特有の論調を非難したまでにござる。

あなたの論によれば、わが国は自殺が多いという。だが、そこからなんの問題がわかるのですか。自殺は悪ですか。自殺の善悪を論じるのは、宗教上の問題でしょう。社会的にも政治的にも教育的にも語りようがない、と私は思いますよ。それにしても、なぜに、そこまで数値が大好きなのでしょうね。数値がごときに、いちいちと刺激されてしまうのでしょうね。あなたは。『ウィキペディア(Wikipedia)』なんてものを鵜呑みにして喜んでいるとは愚の骨頂だ。あなたの記事は、単に数値や統計を自慢しているようにしか見えないのです。単に、数値という表現、記号、その価値を無前提に美化しているようにしか見えない。だからお聞きしているのです。数字って、それほどのありがたいものですか。わたしには数値とはすなわち屁のごとく無体なものにござ候。極端に言えば、数字に社会的歴史的人間的、意味なんかなにもない。政治的、教育的なプロパガンダの材料にされているだけだ。一昔前によく新聞の字面で見た、あれだ。

「本日の反対集会は、主催者発表5万人、警察発表1万5千人でした」ってやつ。

数字というものは、いつだって、このようにきわめて恣意的に、すなわち政治的に利用されているだけなのだ。それにしてもあなたの場合は、相変わらずつまらないことばかりを書いてくる。だいたい、あなたの言う「私達は子供達に真実を伝える事ができるだろうか?」という一文の真意を、あなた自身がどう考えているのかと、こちらが問いたくなりますよ。この場合ばかりではない。三日にあけず、あなたがわめいている「真実」とは一体、何のことなのでしょうねわたしには、さっぱり分からない真実のようですが、思うに真実という理念を願望し言葉の余韻に酔っているだけではないのでしょうか。仮に、真実らしきものをあなた自身はよく実感していたとしても、具体的に伝えてこなければ、なにが真実かわかりませんよ。真実の中身がなにも伝わってこない以上、何をそうもムキになって伝えなければならないのかと思いますね。真実なんて、あるのかないのか、私にはさっぱり分かりませんし、あなたも全然、中身については説明してこないのですから、ますますあなたの言がウソっぽく伝わるばかりです。想像するにあなたの言う「真実」とは「戦争責任」につきるようだとは、以前にも似たようなことを言ったかと思いますが。今回も同じです。そうなのでしょうか。だが、戦争責任についても諸説あるのが、民主主義ってものでしょう。まずは、あなた自身が感じる戦争責任を、聞かせてもらわなければ責任の所在も何一つ伝わってまいりません。あなたの話は、私も若い頃は下町の共産党員としてアカハタ配りに精を出していたのですから、うんざりするほど聞き飽きました。それで、どうなのかという、現在のあなた個人の所信こそ、話してもらわなければ、なにが言論の自由ですか。ネットもマスコミも、二番煎じ三番煎じの、垢にまみれたコピーコピーの言説ばかりじゃ、やってられませんよ。ネットやらマスコミ、また右左そろいもそろった公党、それに明けても暮れても行政風の国家のプロパガンダなんぞ、どうでもよい。ジャーナリズムの9割がたがコピペッペでしょう。私があなたの投稿から読みたいのは、あなたの倫理です。あなたの肉声です。せっかくのネット掲示板ではないですか。どうして戦後60年、さんざんにああでもない、こうでもないと一億郎党の馬鹿たちが繰り返してきた言説を、さらに繰り返すしか能がないのですか。こちらの問題のほうが、よほど問題だと思いますよ。せっかくの投稿欄でしょう。何を書くのか何を訴えるのかが問題です。あなたの主張は耳にたこです。大人なら、誰しも聞き飽きているのです。どうして肉声をぶつけてこないのでしょうねぇ。見るところ、あなたは小金もためられて恵まれた老後の生活を享受されているようで、よかったですね。わたしは、それどころではござりません。今後とも、一億郎党を相手に何を、どうぶちかましてやるか。見てろ。革命老人ここにありってな調子で暮らしているところです。私の老後の魂胆に比べれば、天皇がどうであろうと、戦争責任がどうであろうと、それら一様に他人事にしか聞こえません。実に小さな小さな問題だ。当掲示板は教育を語るのがメインです。そこで、ここでわたしがあなたに言いたいのは、やはり、何を子供達に伝えるかということに尽きるのです。よって戦争責任であれ、真実が何かであれ、どのように語るかが問題です。あなた、ご自身の問題なのです。あなたがどのように子どもたち、または私のような無学なものでもよいが、何を伝えたいのか、それがはっきりしなければ、それは言葉遊びの類に過ぎません。失礼を省みず言わせていただけば、あなたの言う「真実」とは、戦後60年さんざんに使いまわされてきたスローガンを並べているようにしか思えません。それは「真実」とは、ほど遠いものです。真実とは、そんな安っぽいものではないでしょう。もっと迫力のある。もっと根性の入った言葉を発することができないままで、なにが真実ですか。

<2007.10.05記>
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▼憲法その他

2008年11月22日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法
泥炭さん、私のサイトを読んでいただき感謝です。ご指摘の「焼け跡からうまれた憲法草案」の記事は、なにしろ不勉強なわたしが知らなかったことを発見した個人的感想の範囲を出るものではありません。このテレビ番組を見るまでは新憲法(日本国憲法)はGHQから押し付けられたものだと思っていましたし、実際のところ、かなりの部分、それはそうであろうとも思いますよ。そのような認識も、間違ってはいないと思います。だが、あえて私が言いたかったのは、GHQの存在というものがあったにしても、鈴木安蔵以下、憲法制定委員会に集った人々ばかりではなく、共産党も含めた各政党および、政治家、また各種団体、個人が、平和国家を目指すうねりのような熱情の中で生まれたものであったという事実を見ることができて、同じ日本人として幸福を感じたのです。番組では鈴木安蔵が明治の民権論者植木枝盛が書き残していたものにに学ぶところが多かったことも紹介されていますが、それはそれ。だからといって、植木案が、鈴木を経由して戦後新憲法にそのまま採用されたということはなかったはずです。主権在民の思想やデモクラシーの記述について、思想的に学ぶところがあったという範囲ではないでしょうか。鈴木安蔵の場合はそうだったということでしょう。当時、鈴木ら憲法制定委員会提出の草案ばかりでなく、各政党からも草案は出されてきました。共産党案もあれば社会党案もあった。また政府案も出てきました。これらを加味して、GHQがまとめた英語版、すなわちGHQ案が、最終的なたたき台として採用されたということでしょう。この際、わたしがいいたいのは、終戦直後より、昭和天皇の言動の性質です。それもまた新憲法制定にむかって大きな働きをしたはずだと直感し感銘を深めました。新憲法が制定された昭和22年、昭和天皇は次のような歌を詠んでいます。

うれしくも国の掟のさだまりて あけゆく空のごとくもあるかな

それに憲法改正が騒がしいですが、誤解されてもつまらないので、私の真意を申し上げておくのですが、わたしは改憲論者ではありませんよ。だが、非改憲論者でもありません。現代日本の政治と政治家、また政府を信用しております。仮に憲法が改定されたとはいっても、現憲法の柱たる主権在民や平和志向を決定的に代えてしまうような、馬鹿なことはしないだろうと、信じております。以前にも申したことがありましたが、平和というのは、現実政治によって守られているものだと思います。憲法の条項に平和が歌われているから、平和な社会が存在するというのは、教条主義もはなはだしい観念論です。他国との交渉、妥協、一定の抑止力等々を否定するほど原理主義的、絶対平和主義者ではありません。

泥炭さんは、米国のひどい銃社会を何度か懸念されていましたが、たしかに日本の場合は厳しい規制があって、世界でもまれにみる銃不所持社会が成り立っている。よって銃による犯罪や事故は非常にすくない。その代わりともうしてはなんですが、日本の場合、人を殺傷したりするときは、凶器に包丁がよく使われるのですよね。包丁を規制できますか。行政的なテクニックだけで取締りがうまくいくことと、そうでないことがある。取り締まるのはかまわないが、そした表面的な効率を探し出そうとする議論は、つまらないものです。いくら民主主義とは誰しもが参加して成り立つというご託宣もあるが、多くの問題は、専門集団が存在するのですから、警察や政治家に任せておけばよいといいたい。

論者が無責任になるばかりです。論者のほうこそ、よほど狂信的な感じがいたします。武力も同じことがいえるでしょう。原理的に否定することはできない。海上保安庁でさえも結構な武装をしておかなければ、海の上の国境線を守ることはできないでしょう。数年前に無国籍の密漁していた武装漁船を発砲しながら追いかけていた映像が報道に流れていました。これも平和が守られている日々の現実的姿と申せましょう。われわれは、とりあえず、わが国の平和のことしか語れないのですから。それも、剛直に、自分の国ばかり、平和を守ろうとすれば、他国からは誤解されるという逆説もなきにしもあらずです。政治とは妥協の産物です。押したり引いたり、裏取引があったり、時と場合には、武力を誇示してまもられる平和もあるのでしょう。

<2007.10.10記>
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