税金と言うのはどうして取る必要が有るのだろうか?政府はお金が無くては仕事ができないだろうが、そのお金は税金等と言う形で集める必要が有るのだろうか?必要なだけ造幣局で印刷したらどうだろう。
それにしても「税金」の有無に話が及ぶとは実にラディカルな議論で興味がわいてきます。税の存否のお話とは、いわば国家存亡にかかわる政治学的いろはの話だと思った次第です。税金を財政または経済的側面からだけ見るならば、あなたが抱いたような空想も可能かもしれませんが、周知のように「税」こそ、国家存亡の根底的な問題であり、いわば政治的側面があることを見逃すわけにはまいりません。無料会員だけで成り立っている団体は、胡散臭くさえ思えるように、会費のない団体は聞いたこともありません。会費徴収をもって特定個人が認知される。つまり会の所属員としての義務と権利の要諦の契約が合意され、これが記録され自明のものとなる。ただ町内会や老人会などと国家とは、政治学的に違うものがある。町内会では個人の全般に及ぶ存在の保証はできないでしょう。人権は国家に所属することによって始めて実体化してくるわけです。個人は必ずいずれかの国家に所属する。
詰まりは、税金ならずとも国費は人々の血と汗の結晶である事に少しも変りありません。
変わるも変わらないも、自明のことではありませんか。国費と租税は同じものであり、国費は国民の租税によってまかなわれるべきなのです。もしそうでないとするなら、国家はそのていをなさないでしょうと申してきたはずです。租税の範囲内で国費を組み、やりくりするのが政府、政治家、官僚、役人の役目ではないですか。
いずれにせよ【税金を無くす】等と言う大改革を考えるからには・・・・
税金の集め方、また使い方に限って話が出来ると提案したのが私ですが、Dさんの言うように「税金を無くす」大改革というのは、まるで国家など無くなってもよい、というようにも聞こえまするぞ。それでよろしいのですか。
国の生産力の向上に見合う程度のお金の印刷で本当に国費が賄えるのかどうかとか、必要なだけ印刷してなおかつインフレや円の暴落を本当に抑えられるか、社会的格差は拡大しないか、改革に伴って懸念される大問題が沢山有ります。そうした問題を論ずる方が先決でしょう。もちろん懸念ばかりでなく、印刷だけで済ませられたら国債等発行して子孫に借金を残す必要が無くなる等と言う、メリットについても多いに論じたいものです。
なにを馬鹿なことを申されているのやら。国が勝手にお札を印刷して、自分の懐に入れてしまったとするならそれは国家の犯罪ですよ。ホリエモンじゃないが「粉飾決算」の罪で、三日もしないうちに国際社会から見放されるでしょう。国連から追放されますよ。そんなことは経済学、財政学のイロハでしょう。国家の借金は国民の借金ですよ。そうした認識を持てるのも、民主国家である証拠なのです。国債は、国民の借金に他ならない。日本国と地方自治体をあわせて、いまや数百兆円の借財があると聞きますが、これはなにも戦後政治をになってきた政治家や国家、政府だけの責任ではないでしょう。Dさんや私のような戦後世代が、常に満腹していなければ承知しないとばかりに、国と一緒になって飽食してきた結果なのです。将来の子どもたちの分まで、食ってしまった結果なのですよ。この上さらに生産力を上げろとは、あいた口もふさがりません。そろそろ発達史観や進化論はいい加減にしなければ、それこそ地球は掘りつくされて、人類の滅亡が近くなるばかりです。人間は傲慢すぎると私が申したのは、そうした近代の生産至上主義や右肩上がり一辺倒の科学風合理主義に陥っているDさんのような考え方を批判しているのです。
良き悪しきの議論は知りませんが、税こそ国家と私人の今日的関係を示しているものはありません。税こそ近代国家の政治的根幹をなしていると思いますね。いずれにしても個人は国家から離れることができないのです。私の「人権」は日本国によって擁護され保障されているのです。仮に私が国外などで行方不明になった場合、日本国はあらゆる努力をして私を救済しなければなりません。これが私と日本国との義務と権利に及ぶ契約なのです。もちろん私のほうからも、国家に対して果たすべき義務がある。義務の一つが納税です。義務教育ということもある。国によっては兵役ということもある。納税、教育、軍隊。それらに付け加えて大小の「議会」でしょうかね。これらのシステムを完備して始めて自他共に「国家」として承認されるというのが今日の政治学的要諦と言えるのではないでしょうか。もし、税の徴収ということが無となったばあい、民主主義は崩壊するでしょう。国家に対してモノをいう権利を失います。これでは個人という概念さえ成り立ちません。国民の全てが広義の意味で生活保護を受けているような状態です。国民は国家に飼育され、末は飼い殺しです。これが個人の思想に及べば一種の独裁政治の始まりと申しても過言ではないでしょう。
私が若い頃はソ連の社会主義が褒め称えられていました。当時ソ連では税はおろか教育、医療、交通なども無料だと耳にして、さすが社会主義国家は理想郷だと信仰心を新たにし、アカハタ配りに熱を上げましたが、これも80年代に入ると徐々にソ連国内の矛盾と惨状が暴露されるに及びました。そして、心底から「タダより怖いものはない」と思ったものです。やはり、われわれも所属する国家の国益や国力、また「国づくり」という指向から離れて政治は語れないものだと思った次第です。税金にしても、どのように集めるのか、また何に使うのかという話に限って議論が出来る、というわきまえをもちたいと思っちょります。大人なのですから。
失礼蒙御免で申し上げるなら、契約の自由が保証されなければ契約其の物が無効でしょう。
確かに国家と私人の関係には一種の「契約」があるとは申しても、これを命の根源にまでたどって、生命的また生活的現象のすべてに辻褄が合うように立証するのは難儀なことでござるよ。人を殺しても殺人罪になるとは限らない。時と場合(戦時)によっては殺せば殺すほど報奨金が与えられたり英雄として勲章が与えられたりするのだからしての。よほど自国が嫌なら亡命するなり国籍を異動するなりするしかあるまい。「国家は幻想である」と言うなら「私」だって幻想上の存在だ。いわば「契約の自由」はないと言えばないのだし、あると言えばある。こうも言えるだろうか。「契約の自由」はあるのだが、その「自由」は必ずしも国家によって保証されているわけではない。国家国法に反しても、心底から信念に従って生きたいという思いがわきあがった時、どうするかだが、そうした場合は、国法を逸脱しても「私」を生かすように、まかり間違ってそのようなお人に出会ったら勧めるつもりにござ候。手っ取り早く、高飛びまたは、亡命することを勧めるつもりなり。すでになにか犯行をなした後だというなら、もちろん自首することを勧める。警察に出向くのが億劫だというなら、付き添ってやってもよいし、どうしても逃げたいというなら、逃がしたふりをして、ただちに通報するつもりなり。
私を始め愚民の多くは国家を選択して産まれて来 た訳でも無いのに、家畜が増えた如き扱いでの誕生をしただけである。
国家の選択を言うより前に、われわれは親を選択して生まれてきたわけではない、という厳然たる摂理がある。この摂理に対して「国家」という概念はそもそも矛盾しているのである。上に書いた「辻褄あわせ」とは、このことを申す。契約といい、合意といい辻褄あわせ以上のものではないはずだ。いわば国家と私人の共犯関係が幻想されて始めて体制のいかんを問わず近代社会の核心的概念としての国家が成立していると申せよう。こうなれば「国民」なんて存在は統計上のことにすぎない。頭数の問題であり私という性質は誰も問わない。私の私性を問うているのは私だけだ。私が没しても、国家としては屁とも思わない。線香の一本たりとも上げに来ないだろう。契約とは言っても、国家と私人(国民)の関係とはそんなものだよ。
税金無納者が物を言え無い、或いは言わさない、公民権さえ行使させない異常の世界の話は狭小隙間論で汎論的ではないでしょう。
モノを知らないにもほどがある。国民たるもの一人残らず課税されている。これまた厳然たる事実だろう。誰もが日々、納税している。たといホームレスであろうと消費税や酒税は払っているのだ。彼らこそ高額納税者だ。ホームレスや生活保護者を小ばかにすると承知しないぞ。
でっ!ヤッパリ無税は駄目ですか?
駄目でしょうね。そもそも税が無くては国家という概念が成り立たちません。役人も警察もいない社会というものを想像できますか。誰が彼らを食わせていくのですか。若い頃、レーニンの「国家と革命」という本を読んで感銘を受けた。ロシア革命のずっと以前、若かりしレーニンの著書であるが後年にいたってレーニン自身が、その本の中で述べているあまりに野放図な理想主義を否定していると何か別の本で読んだことがある。若きレーニンが「国家と革命」で訴えているのは、ようするに資本主義の終焉以後の社会の様相のことであり、もちろん労働者階級をはじめいっさいの階級が消滅することである。さらに推し進めれば国家は必然的に死滅すると明記されていた。国家の死滅とは権力機構が消滅することである。ここにいたって人類みな兄弟となる夢物語である。どういう社会になるかと、以下のごとく具体的に書かれてあった。
国家がなくなれば戦争はなくなる。軍隊の存在理由が消える。また私的関係でのいざこざなども各人が徹底的に民主的文化的に教育された暁には人をだましたり、暴力をふるうような人間は皆無となる。地域ごとの住民自治が完璧となれば役人もいらなくなる。必要な公的事務は民間人が交替でやりくりできるようになるともあった。まれに住人同士にいざこざが起こったとしても、これらすべて当事者同士が話し合って解決できるようになると書かれてあった。警察も役人も原則必要がなくなると言うのである。マルクスは共産主義社会の展望を具体的に開陳することに慎重だったがレーニンは「国家と革命」の中でかなり具体的に展望していて、若かりし私は夢中になった。
それから数十年がたっている。私も少しは大人になった気がする。今にいたって再考するにレーニンの空想は、どこから考えても無理な話なのである。人間からいっさいの暴力を取ったら、もうそれは生き物ではなくなってしまう。「私」性を剥奪されるということだ。レーニンが願望している社会に生存しているのは、人間ではない。不平不満を持たずに黙々と働き、決して正道から外れることの無い、ようするにある種のロボットのことなのである。されば警察が不要になるもの理の当然であり、またロボットから税を取る非道はないはずだ。ロボットがいくら働いても、彼らの給料のすべてが搾取の対象であり、いわば「税」そのものなのだから。かように、税の無い国家というものは想像上のことであり、実現したとするなら、そこには概念上国家に対峙するべきヒトたる「私」は一匹も存在しないということなのである。
今でも、なくなったわけではないと思うが、たとえば「ショバ代」というものがある。神社の祭りかなにかで、境内には、夜店露店がずらっと並ぶよ。昔は、組のもんが仕切っていろいろやっていたというが、現代でもそう変わりないんじゃなかろうか。誰か仕切る人間がいなくては、祭りの前から場所取りをめぐって境内のあちこちで、夜店経営者同士の大ケンカが始まるに決まっている。これが「税」と「役人」が生まれる原型のようなものだと思うね。多数の人間の言い分なり持分を按配よく、仕切る人間、これが役人の原型だ。そうした仕事を生業としている彼らに対する謝礼、報酬、俗に言うショバ代というものが今日に言う「税」というものではないだろうか。いちいちケンカしないで、やりくりしていくためには、どうしても彼らの存在が必要となるのだよ。国家とか社会とか言えば話が大きくなって、ややこしくなるばかりだが、村祭りの境内の有様こそ、少なくても活性的な「社会」の構造的原型をとどめているように思った次第にござ候。われわれが分かっておきたいことは、お祭り等においても多くの場合、これらの構造(政治的経済的人間関係)はめったに表には出てこないということだ。焼きそば、おでんの値札は張り出すが、ショバ代がいくらだったのかを客にもよく見えるように札を張り出している夜店はないものだ。
だが、税は違う、私が知らぬ処で陰謀を廻らされ、あれよあれよと言う間も無く、法として決定されて愚民から収奪する。此れは御貴殿のような> 賢者でない愚民には実に屈辱的で感情が激発するもんですよ!煙草税なんか北朝鮮の密輸品で済ませて、絶対に払ってやるもんかとさえ思って居る。
建前と本音ちゅうことがある。また公私の使い分けということも知恵の一つじゃからしての。時と場合ということもある。そうも厳格になにもかも、お上の言うとおりに出来るはずもない。拙者なども毎日、道路交通法違反を犯している。確信犯じゃよ。散歩している途上のことなれば、よほどの大通りでもなければ、信号など赤でも青でもお構いなしじゃ。信号など気にもならない。車が来るかどうかぐらい信号なんぞ見なくても自分の目で確かめられるからにゃ。
税にしても似たようなものでござるよ。拙者のデスクの上には督促状が積みあがっている。どうしても払えとお上から脅されて、始めて仕方なく遅滞金を含めて払っているようなものでごじゃるよ。威張れたものではござらんばい。拙者が税の問題を通して言いたいことがあったとすれば、おのおの方それぞれが、自分にとっての「祖国」ちゅうものの正体をなんと心得ているのかという疑問じゃよ。おぬしの場合など、いかがなものでござろうや。祖国なんぞ貴公にしてみれば、あってもなくてもいいのかね。愛国心 や国家への忠誠心を明らかにせよ、とまでは言わないが母国または祖国ちゅうものに対して、そうも一から十まで悪意を持ってしか臨めないというのは不幸なことじゃないのだろうか。そんな調子では一向に気持ちが安定しないのじゃなかろうかと、こちとらが心配になっちまう。
同じことは、わが親に対しても言えるだろう。親孝行の方法は人それぞれだろうが親の恩というものは、「私」の精神の根源、すなわち思想の存立にかかわることだよ。最近、改めて気がついたことだが、拙者に最初に日本語という言語を与えてくれたのは親以外の何者でもないと痛感した次第にござる。これは誰でもそうだろう。親は飯を食わせてくれた、という、それだけの存在ではないよ。多かれ少なかれ「私」に最初の教育を与えてくれた、それが親というものだよ。そうした問題を、少しも考えようとせず思考停止したまま尊大な言動に及び勇んで見せているばかりで、なにが子どもの教育だと思いまするぞ。
<2006.3.6記>
それにしても「税金」の有無に話が及ぶとは実にラディカルな議論で興味がわいてきます。税の存否のお話とは、いわば国家存亡にかかわる政治学的いろはの話だと思った次第です。税金を財政または経済的側面からだけ見るならば、あなたが抱いたような空想も可能かもしれませんが、周知のように「税」こそ、国家存亡の根底的な問題であり、いわば政治的側面があることを見逃すわけにはまいりません。無料会員だけで成り立っている団体は、胡散臭くさえ思えるように、会費のない団体は聞いたこともありません。会費徴収をもって特定個人が認知される。つまり会の所属員としての義務と権利の要諦の契約が合意され、これが記録され自明のものとなる。ただ町内会や老人会などと国家とは、政治学的に違うものがある。町内会では個人の全般に及ぶ存在の保証はできないでしょう。人権は国家に所属することによって始めて実体化してくるわけです。個人は必ずいずれかの国家に所属する。
詰まりは、税金ならずとも国費は人々の血と汗の結晶である事に少しも変りありません。
変わるも変わらないも、自明のことではありませんか。国費と租税は同じものであり、国費は国民の租税によってまかなわれるべきなのです。もしそうでないとするなら、国家はそのていをなさないでしょうと申してきたはずです。租税の範囲内で国費を組み、やりくりするのが政府、政治家、官僚、役人の役目ではないですか。
いずれにせよ【税金を無くす】等と言う大改革を考えるからには・・・・
税金の集め方、また使い方に限って話が出来ると提案したのが私ですが、Dさんの言うように「税金を無くす」大改革というのは、まるで国家など無くなってもよい、というようにも聞こえまするぞ。それでよろしいのですか。
国の生産力の向上に見合う程度のお金の印刷で本当に国費が賄えるのかどうかとか、必要なだけ印刷してなおかつインフレや円の暴落を本当に抑えられるか、社会的格差は拡大しないか、改革に伴って懸念される大問題が沢山有ります。そうした問題を論ずる方が先決でしょう。もちろん懸念ばかりでなく、印刷だけで済ませられたら国債等発行して子孫に借金を残す必要が無くなる等と言う、メリットについても多いに論じたいものです。
なにを馬鹿なことを申されているのやら。国が勝手にお札を印刷して、自分の懐に入れてしまったとするならそれは国家の犯罪ですよ。ホリエモンじゃないが「粉飾決算」の罪で、三日もしないうちに国際社会から見放されるでしょう。国連から追放されますよ。そんなことは経済学、財政学のイロハでしょう。国家の借金は国民の借金ですよ。そうした認識を持てるのも、民主国家である証拠なのです。国債は、国民の借金に他ならない。日本国と地方自治体をあわせて、いまや数百兆円の借財があると聞きますが、これはなにも戦後政治をになってきた政治家や国家、政府だけの責任ではないでしょう。Dさんや私のような戦後世代が、常に満腹していなければ承知しないとばかりに、国と一緒になって飽食してきた結果なのです。将来の子どもたちの分まで、食ってしまった結果なのですよ。この上さらに生産力を上げろとは、あいた口もふさがりません。そろそろ発達史観や進化論はいい加減にしなければ、それこそ地球は掘りつくされて、人類の滅亡が近くなるばかりです。人間は傲慢すぎると私が申したのは、そうした近代の生産至上主義や右肩上がり一辺倒の科学風合理主義に陥っているDさんのような考え方を批判しているのです。
良き悪しきの議論は知りませんが、税こそ国家と私人の今日的関係を示しているものはありません。税こそ近代国家の政治的根幹をなしていると思いますね。いずれにしても個人は国家から離れることができないのです。私の「人権」は日本国によって擁護され保障されているのです。仮に私が国外などで行方不明になった場合、日本国はあらゆる努力をして私を救済しなければなりません。これが私と日本国との義務と権利に及ぶ契約なのです。もちろん私のほうからも、国家に対して果たすべき義務がある。義務の一つが納税です。義務教育ということもある。国によっては兵役ということもある。納税、教育、軍隊。それらに付け加えて大小の「議会」でしょうかね。これらのシステムを完備して始めて自他共に「国家」として承認されるというのが今日の政治学的要諦と言えるのではないでしょうか。もし、税の徴収ということが無となったばあい、民主主義は崩壊するでしょう。国家に対してモノをいう権利を失います。これでは個人という概念さえ成り立ちません。国民の全てが広義の意味で生活保護を受けているような状態です。国民は国家に飼育され、末は飼い殺しです。これが個人の思想に及べば一種の独裁政治の始まりと申しても過言ではないでしょう。
私が若い頃はソ連の社会主義が褒め称えられていました。当時ソ連では税はおろか教育、医療、交通なども無料だと耳にして、さすが社会主義国家は理想郷だと信仰心を新たにし、アカハタ配りに熱を上げましたが、これも80年代に入ると徐々にソ連国内の矛盾と惨状が暴露されるに及びました。そして、心底から「タダより怖いものはない」と思ったものです。やはり、われわれも所属する国家の国益や国力、また「国づくり」という指向から離れて政治は語れないものだと思った次第です。税金にしても、どのように集めるのか、また何に使うのかという話に限って議論が出来る、というわきまえをもちたいと思っちょります。大人なのですから。
失礼蒙御免で申し上げるなら、契約の自由が保証されなければ契約其の物が無効でしょう。
確かに国家と私人の関係には一種の「契約」があるとは申しても、これを命の根源にまでたどって、生命的また生活的現象のすべてに辻褄が合うように立証するのは難儀なことでござるよ。人を殺しても殺人罪になるとは限らない。時と場合(戦時)によっては殺せば殺すほど報奨金が与えられたり英雄として勲章が与えられたりするのだからしての。よほど自国が嫌なら亡命するなり国籍を異動するなりするしかあるまい。「国家は幻想である」と言うなら「私」だって幻想上の存在だ。いわば「契約の自由」はないと言えばないのだし、あると言えばある。こうも言えるだろうか。「契約の自由」はあるのだが、その「自由」は必ずしも国家によって保証されているわけではない。国家国法に反しても、心底から信念に従って生きたいという思いがわきあがった時、どうするかだが、そうした場合は、国法を逸脱しても「私」を生かすように、まかり間違ってそのようなお人に出会ったら勧めるつもりにござ候。手っ取り早く、高飛びまたは、亡命することを勧めるつもりなり。すでになにか犯行をなした後だというなら、もちろん自首することを勧める。警察に出向くのが億劫だというなら、付き添ってやってもよいし、どうしても逃げたいというなら、逃がしたふりをして、ただちに通報するつもりなり。
私を始め愚民の多くは国家を選択して産まれて来 た訳でも無いのに、家畜が増えた如き扱いでの誕生をしただけである。
国家の選択を言うより前に、われわれは親を選択して生まれてきたわけではない、という厳然たる摂理がある。この摂理に対して「国家」という概念はそもそも矛盾しているのである。上に書いた「辻褄あわせ」とは、このことを申す。契約といい、合意といい辻褄あわせ以上のものではないはずだ。いわば国家と私人の共犯関係が幻想されて始めて体制のいかんを問わず近代社会の核心的概念としての国家が成立していると申せよう。こうなれば「国民」なんて存在は統計上のことにすぎない。頭数の問題であり私という性質は誰も問わない。私の私性を問うているのは私だけだ。私が没しても、国家としては屁とも思わない。線香の一本たりとも上げに来ないだろう。契約とは言っても、国家と私人(国民)の関係とはそんなものだよ。
税金無納者が物を言え無い、或いは言わさない、公民権さえ行使させない異常の世界の話は狭小隙間論で汎論的ではないでしょう。
モノを知らないにもほどがある。国民たるもの一人残らず課税されている。これまた厳然たる事実だろう。誰もが日々、納税している。たといホームレスであろうと消費税や酒税は払っているのだ。彼らこそ高額納税者だ。ホームレスや生活保護者を小ばかにすると承知しないぞ。
でっ!ヤッパリ無税は駄目ですか?
駄目でしょうね。そもそも税が無くては国家という概念が成り立たちません。役人も警察もいない社会というものを想像できますか。誰が彼らを食わせていくのですか。若い頃、レーニンの「国家と革命」という本を読んで感銘を受けた。ロシア革命のずっと以前、若かりしレーニンの著書であるが後年にいたってレーニン自身が、その本の中で述べているあまりに野放図な理想主義を否定していると何か別の本で読んだことがある。若きレーニンが「国家と革命」で訴えているのは、ようするに資本主義の終焉以後の社会の様相のことであり、もちろん労働者階級をはじめいっさいの階級が消滅することである。さらに推し進めれば国家は必然的に死滅すると明記されていた。国家の死滅とは権力機構が消滅することである。ここにいたって人類みな兄弟となる夢物語である。どういう社会になるかと、以下のごとく具体的に書かれてあった。
国家がなくなれば戦争はなくなる。軍隊の存在理由が消える。また私的関係でのいざこざなども各人が徹底的に民主的文化的に教育された暁には人をだましたり、暴力をふるうような人間は皆無となる。地域ごとの住民自治が完璧となれば役人もいらなくなる。必要な公的事務は民間人が交替でやりくりできるようになるともあった。まれに住人同士にいざこざが起こったとしても、これらすべて当事者同士が話し合って解決できるようになると書かれてあった。警察も役人も原則必要がなくなると言うのである。マルクスは共産主義社会の展望を具体的に開陳することに慎重だったがレーニンは「国家と革命」の中でかなり具体的に展望していて、若かりし私は夢中になった。
それから数十年がたっている。私も少しは大人になった気がする。今にいたって再考するにレーニンの空想は、どこから考えても無理な話なのである。人間からいっさいの暴力を取ったら、もうそれは生き物ではなくなってしまう。「私」性を剥奪されるということだ。レーニンが願望している社会に生存しているのは、人間ではない。不平不満を持たずに黙々と働き、決して正道から外れることの無い、ようするにある種のロボットのことなのである。されば警察が不要になるもの理の当然であり、またロボットから税を取る非道はないはずだ。ロボットがいくら働いても、彼らの給料のすべてが搾取の対象であり、いわば「税」そのものなのだから。かように、税の無い国家というものは想像上のことであり、実現したとするなら、そこには概念上国家に対峙するべきヒトたる「私」は一匹も存在しないということなのである。
今でも、なくなったわけではないと思うが、たとえば「ショバ代」というものがある。神社の祭りかなにかで、境内には、夜店露店がずらっと並ぶよ。昔は、組のもんが仕切っていろいろやっていたというが、現代でもそう変わりないんじゃなかろうか。誰か仕切る人間がいなくては、祭りの前から場所取りをめぐって境内のあちこちで、夜店経営者同士の大ケンカが始まるに決まっている。これが「税」と「役人」が生まれる原型のようなものだと思うね。多数の人間の言い分なり持分を按配よく、仕切る人間、これが役人の原型だ。そうした仕事を生業としている彼らに対する謝礼、報酬、俗に言うショバ代というものが今日に言う「税」というものではないだろうか。いちいちケンカしないで、やりくりしていくためには、どうしても彼らの存在が必要となるのだよ。国家とか社会とか言えば話が大きくなって、ややこしくなるばかりだが、村祭りの境内の有様こそ、少なくても活性的な「社会」の構造的原型をとどめているように思った次第にござ候。われわれが分かっておきたいことは、お祭り等においても多くの場合、これらの構造(政治的経済的人間関係)はめったに表には出てこないということだ。焼きそば、おでんの値札は張り出すが、ショバ代がいくらだったのかを客にもよく見えるように札を張り出している夜店はないものだ。
だが、税は違う、私が知らぬ処で陰謀を廻らされ、あれよあれよと言う間も無く、法として決定されて愚民から収奪する。此れは御貴殿のような> 賢者でない愚民には実に屈辱的で感情が激発するもんですよ!煙草税なんか北朝鮮の密輸品で済ませて、絶対に払ってやるもんかとさえ思って居る。
建前と本音ちゅうことがある。また公私の使い分けということも知恵の一つじゃからしての。時と場合ということもある。そうも厳格になにもかも、お上の言うとおりに出来るはずもない。拙者なども毎日、道路交通法違反を犯している。確信犯じゃよ。散歩している途上のことなれば、よほどの大通りでもなければ、信号など赤でも青でもお構いなしじゃ。信号など気にもならない。車が来るかどうかぐらい信号なんぞ見なくても自分の目で確かめられるからにゃ。
税にしても似たようなものでござるよ。拙者のデスクの上には督促状が積みあがっている。どうしても払えとお上から脅されて、始めて仕方なく遅滞金を含めて払っているようなものでごじゃるよ。威張れたものではござらんばい。拙者が税の問題を通して言いたいことがあったとすれば、おのおの方それぞれが、自分にとっての「祖国」ちゅうものの正体をなんと心得ているのかという疑問じゃよ。おぬしの場合など、いかがなものでござろうや。祖国なんぞ貴公にしてみれば、あってもなくてもいいのかね。愛国心 や国家への忠誠心を明らかにせよ、とまでは言わないが母国または祖国ちゅうものに対して、そうも一から十まで悪意を持ってしか臨めないというのは不幸なことじゃないのだろうか。そんな調子では一向に気持ちが安定しないのじゃなかろうかと、こちとらが心配になっちまう。
同じことは、わが親に対しても言えるだろう。親孝行の方法は人それぞれだろうが親の恩というものは、「私」の精神の根源、すなわち思想の存立にかかわることだよ。最近、改めて気がついたことだが、拙者に最初に日本語という言語を与えてくれたのは親以外の何者でもないと痛感した次第にござる。これは誰でもそうだろう。親は飯を食わせてくれた、という、それだけの存在ではないよ。多かれ少なかれ「私」に最初の教育を与えてくれた、それが親というものだよ。そうした問題を、少しも考えようとせず思考停止したまま尊大な言動に及び勇んで見せているばかりで、なにが子どもの教育だと思いまするぞ。
<2006.3.6記>