さっそく片足をつっこんでみれば、まるで私の足のために作られ、私が来るのを待っていたかと思うほど、ピタリとあうのである。
即座に千円!と店主に申し出る。店主、少し首をひねりながらも、数秒とたたないうちに観念したかのように首をたてにふった。さっそく履いてきた重い登山靴と履き替えてみれば、身も心も身軽になり、意気軒昂に大森まで、さらにとってかえし大井町まで歩く。
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NHK・TVで「左手だけのピアニスト」という館野泉さんの近況を伝えるドキュメンタリーを観て感銘を受けた。
フィンランドに在住して40年近くになるピアニストの館野さんは二年前、演奏中に脳出血で倒れられ右手に麻痺が残った。
当然のことながら、ピアニストとして復帰できるかどうかは右手の回復次第だと思っておられたらしい。
右手が麻痺したままではとてもピアノの演奏はできないという固定観念があったのである。
直後より息子さんなどの協力を得て、左手だけで演奏できるピアノ曲の楽譜も思った以上にあることを発見した。
以後、左手だけで演奏活動を再開しているとのことだった。
館野さんは言う。「以前より音楽の一音一音がいとおしくなった。それが嬉しい」と。
館野さんの弾くシベリウスをはじめ北欧作曲家のピアノ曲は絶品である。
もちろん、それは倒れる前の録音であるが。
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最近では、新刊の本を買うことはめったにない。それを三日で読み通したのも珍しいことだった。三日前のことだった。町に出てみたのだが、気分がどうも退屈でならなくなり本でも読んで時間をつぶそうと書店に飛び込んだ。読みたい本はたくさんあるが、私に買えるのは文庫本だけだ。そこで目の前の文庫棚から、一番分厚い本を手に取った。名前だけは頭の隅にある著者だった。見かけが厚ければ、それだけ読みやすい本だという固定観念がある。約1千ページあった。値段が約1千円だから1ページ1円のコストパフォーマンスである。それだけに中身については、あまり期待していなかった。ところが読みはじめるやいなや一気に読み上げた。これまた、私にとっては珍しいことだった。著者は間違いなく、言うべきことを言っていると思った。少し引用しておく。
三浦事件に対して示された日本人一般の反応は、次の言葉で集約される。「一犬、影に吠えれば、百犬声に吠ゆ」
週刊文春は少なくとも犯罪の影を認めて吠えたが、後続の者たちは、ただバスに乗り遅れじと吠え、もっと後の者は、耳を聾(ろう)するほどになった周囲の大合唱にただ気を失い、憂さ晴らしの私刑(リンチ)が始まっているらしいという判断によって、理由も解らず吠えていた。
何の誇張もなく、当時の喧騒(けんそう)は列島を揺さぶった。この力学的エネルギーだけで「三浦事件」は昭和史に記録される資格を持つ。現場に居合わせた者としての感想を述べさせてもらえば、日本人のほぼ全員が吠えていたように見えた。ほぼ全員とは、一般以上に知性を有する日本人をも含んでいたということである。
昭和の末、何故にこういうことが、とりたてて日本民族に起こり得たのか、こんな分析の要はないと断言する日本人は、有罪自覚者以外にはいないはずだ。一番の問題は、当時の日本人の誰も騒ぎを不当とは感じていず、当然至極の正義の糾弾と信じていたことである。
近くの空き地でタンポポが群生していた。白い坊主頭が陽光に輝く。風に揺れているさまは、今ではめったに見られなくなった子どもたちが群れて遊ぶ姿だ。
川上徹氏の「査問」を読む。帯には「日本共産党のなかで起きた衝撃的事件」とある。著者は、現在「同時代社」という小さな出版社を商っている。私より8歳年上のかつては「全学連委員長」であり共産党の活動家であった。事件は1972年に起きた。
党の本部より14日間にわたる外部接触を禁じられ、完全に閉じこめられた中で、事情聴取が行われた。「査問」とは党の上級組織が党員個別を一方的に事情聴取することである。娑婆のことなら警察に逮捕されたという有様に似ている。それも当人の気持ちや思想内容、各種イデオロギーが党中枢の思惑に一致しているか外れているかを調査されるために監禁される・・・というあたりが左翼政党がシステムとして保全してきた「戦時体制」または「臨戦体制」の組織論とも言えるだろう。だから、査問にかけられた時を持って、すでに断罪されてもいると言えるのだ。同党の歴史をみれば、査問にかけられた党員がその後、党活動に邁進するという事例は数えるほどしかない。
多くの場合、その後すぐさま除名されるか除籍されるか、いずれにしても組織の教義から「考えている」ことが違うと言って、はじき出されてしまうのである。だが考えていることを線引きするのは、実に難しいことである。だから当事件の場合も「反党活動」、または「分派活動」が証明されなければならないわけだ。だが、何日缶詰にして取り調べても、気配すら見あたらない。当たり前だよ。閉じこめた時点では、幹部に対して不平不満とか、理屈や路線など、そのあり方について文句を言っているという、だいたいその程度のことなのだから。
議論が開かれていないということもあるだろうね。上意下達でなにごともうまく行かせようとする期待。まるでガッコ教師の心得みたいじゃないか。そういうわけに行くかいな。そりゃ「民主主義」とは言えない。さて、当然ながら著者もまた数年後、党から排斥されてしまう。そのいきさつを綴った手記とでもいうべき本だった。中味についてはたいして書いていないのに、ここまで書いただけで徒労感におそわれる。
書評についてはまた後日ということにしておきたい。一気に読ませてくれたにしては、実に疲れる本だった。だが後日と言ってもいつになるか分からない。そこでもう少し読後感を記すのだが、セクト内のことであれ、セクト間のことであれ、またセクト内外についての関係のことであれ、政治というものは食べる論理からくる闘争であり、これが極まればただちに戦争となる・・・ということだ。
経済もそうだろう。総じて闘争しつづけることなのである。ならば生きるちゅう理屈に、そもそも戦争への道が隠されているということか。弱者をしてわが兵隊にさせたがる手法が「教育」と呼ばれている概念の総称だろう。してみれば組織成員の考え方まで逐一同じにしておかねば承知できない日本共産党の組織とは、実に今日の公教育観、または「ガッコ」を理想論で語ったその先に出てくる組織みたいだね。「私」性を排除するというのは、貧しいのだ。想像力的じゃない。まあ、現行の他政党も内情はどっこいどっこいだろうけどね。個人より組織にこそ価値を認めるというのは、いずれにしてもマンパワーという点では実に乏しいわけよ。人間についての視点において、大事ななにかが欠けているんだよ。欠けているところからケンカも起こり戦争も起こるわけだから・・・。
隠されていた暴力が容易に引き出されてくる。言ってみれば闘争するのは、有史以来変わらぬ「人」の姿だろうし「社会」の姿だろう。誰しも逃れることはできないものさ。イデオロギーは総じて自己正当化の理屈のことだから、上級機関にしても著者にしても、なんとでも論理構築が可能となる。第三者の理解はそうそうに期待はできないはずである。この見極めを著者がどこまで出来ているのか、そこに問題の核心があっただろうと思うのである。