赤いハンカチ

てぇへんだ てぇへんだ この秋はスズメがいねぇトンボもいねぇ・・・何か変だよ

▼就学前後の話

2024年05月30日 | ■かもめ文庫

 以下、相変わらず大昔も大昔の話ばかりで申し訳がない。 

 

 先日、母に連れられて幼稚園に行った話しを書いたが、言い直しておく必要があった。私は幼稚園児ではなかった。幼稚園にも保育園にも通った形跡はない。あの日幼稚園に行ったのは、たまたまその日、入園説明会か見学会のような行事があったのだと思う。もちろん、そうした園の行事に私を連れ出したことは、私を幼稚園に入れることも、少しは考慮していたのだろうが当日のわたしの様子をみて、母も入園させることを断念せざるを得なかったのだろう。わたしなりに母の魂胆に察しがついて、これに激しく抵抗してみたのだろう。幼稚園の記憶は、その日だけのことで他には思いつかないし、誰に聞いても私が一時なり幼稚園に通っていたという話は出てこない。それより当時の父母の関係は非常にやっかいなものになっていて、のん気に長男である私を幼稚園に通わせるどころの話ではなかったようだ。

 だから、母も参考までに幼稚園に私を連れて行って見学してきたという程度のことかもしれない。私も就学前のこの時期は、記憶が錯綜している。しばしば北関東の父の実家で暮らしていたこともあった。都営住宅と父の実家とが入り組んで思い出され、この頃の時間の後先がかなり錯綜しているのである。今となっては、詳しい事情を母から聞き出すことも難しくなっている。弟と会って飲んだ折など、よく、この頃のことが話題に出るのだが、それでも、なかなか頭の中で上手に整理ができないのである。なにしろ長男のわたしの記憶が定かではないのだから、どうしようもない。いずれにしても、わたしは都下にあった都営住宅から小学校に入学したのだが、そこにいたのは二学期の終わりまでで、年が明けてすぐ都営住宅を引き払い、二度と、そこに帰ってくることはなかった。私たちの一家は父の実家の世話になることになったのである。父の実家は典型的な農家で父は、その家の次男坊だった。

 父の実家のある村の小学校に転入したのは一年生の三学期の途中からだった。母の手を引かれて戦前は父も通ったというその学校を訪れたのはもう一月半ばかあるいは二月に入ってからだったか。先生は黒板に私の名を大きく書きクラスのみんなに紹介してくれた。この時驚いたのは、辞めてきた学校の先生と今度の先生がそっくり似ていたのだ。女の先生である。もちろん名前は違っていた。私のためにわざわざ向こうの先生がこっちの学校に来てくれていたと自分勝手な妄想に走った。我ながらあまりにばかばかしくて、それは誰にも漏らさなかったが、しばらくの間、密かな愉悦となった。さて、先生は私を紹介するとそのまま教壇に立たせ、靴箱の使い方を説明するからと母だけを導いて教室から出ていってしまったのである。50名近い坊主頭と頬の赤い女の子たちに、一人向き合わされて、わたしはすっかり困ってしまった。先生と母がいなくなり、わずかな沈黙の時があって、突然誰かが私を指さし何事かはやし立て笑い出したのである。するとクラス全員が一斉に唱和してきた。歓迎とも排斥(はいせき)ともつかない実に奇妙な哄笑だった。
 
 私はいわゆる「坊ちゃん刈り」のままだった。それが異様に見えたらしい。たしかに男の子は全員が坊主頭だった。最初私は、彼らが何をおかしがっているのか分からずに困りはて恥じ入るばかりだったが、泣き出した風には覚えていない。むしろ豪快で明るすぎるほどの笑い声に同調させられ照れ笑いぐらいは浮かべていただろう。彼らの笑いに悪い気はしなかったのである。さっそく次の日には母に頼んで頭を丸めて登校した。

 以後、その学校を卒業し町の中学校に自転車で通うようになるまで、祖父やら叔父やらによくいじめられ、ひどい貧乏を強いられたまま矢面に立たされていた母の苦労は並大抵のものではなかったが、私にしてみれば山間の自然に恵まれ友達に恵まれ、おおむね幸せな子ども期を過ごせたと思っている。もし、あのまま東京都下の暮らしをしていたならば、おそらく私は尋常には育たなかったかも知れないと、最近はそんな感じがしているのである。父が病気になり実家に帰っていたのである。私の弟ふたりも父の実家の近くの縁者に預けられていたような状態だった。収入は閉ざされていた。母としては、このまま都下に住んでいても、にっちもさっちも行かない状態が続いていた。おびえたような戦々恐々たる日々が続いていたのである。父の家のものたちは、母を良くは思っていなかった。父が病気にいたった責任の半分ぐらいは妻にもあるだろうというのが彼らの言い分だった。八方塞りになっていた母の心理が、二人暮しをしていた私の性格にたぶんに影響していたように思われるのである。都営住宅での暮らしは、年を追うごとに私を内向的にさせていった。

 父は療養と称して一足先に実家に舞い戻っていてわたしが小学校に入った時には都営住宅には影も形も見えなかった。父は母と結婚前から自分の縁者ばかりに左右されていたようなところがある。それがいつも母をないがしろにする結果となった。病気と言えば仕方はないが、気持ちの上で妻子を見捨てていたようなところがあった。この時期のわずか2年ほどの間に父の失職とか発病とかいろんなことがあった。母としては、次から次へと父によって引き起こされてくる心痛に絶えながら自活の道を探っていた。離婚することも考えていたらしい。必死に職を探していたようだが、子どもたちのことが気になってまともな仕事は見つからなかった。それでもときどきはパートタイマーのようなことをしていたようだ。家計はいよいよ逼迫(ひっぱく)していた。母と二人きりの食事もおかずが一つもなく、ご飯に醤油(しょうゆ)をまぶしながら食べたこともあった。とりわけ昼下がりのわびしい食事を覚えているのは、私が登校していなかった時期で、家で母と二人きりだったからか。醤油ご飯も子どもにはさほどの苦ではなかったし、どんなものでもまずい感じはしなかった。大人の気持ちは子どもとは違う。同じ事でも大人には耐えられないということもある。だが、親の心理はそっくり子どもにも伝わってしまうだろう。母と私は、完全に孤立していたのである。

 当時4歳と2歳になる弟がいたはずだが、家の中にその姿が見えないのは、二人ともすでに父の実家に移されていたのだろう。ある日母が町に働きにでも出ていて留守にしていた昼下がり、弟たちと庭先で遊んでいると、母の姉がやってきて下の弟だけを連れていこうとするのである。もちろん母と叔母との示し合わせがあった上のことだったに違いない。弟があまりに激しく泣くので、隣の家の母親がパンを持ってきて弟に持たせた。パンをしゃぶっている弟を叔母が抱きあげ連れていった。別離にともなう寂しい実感はないのだが、衝撃は大きかった。泣きながら連れられていく2歳の弟よりもそれを見ているすでに物心つき始めている兄のほうがうける痛手は大きい。しばらくすると今度は母が上の弟をともなって父の田舎に行き、帰ってきたときには弟の姿が見えなかった。

 話は戻るが都下の小学校に上がった当時のことで鮮明に記憶している場面がある。それがずっと気になっていた。前後に関連のない独立した一こまの残像だが、幼稚園の時のように学校に行きたくないという強烈な感覚がはり付いている。その感覚がどこから来ているのか。長い間、我ながらさっぱり説明できないままだった。自分の傾向を振り返ってみれば、学校嫌いはいくらでも証明できるのだが、その場面と前後の生活的事実が必ずしもつながってこない。どうしてあの場面だけに学校が嫌だという強い感じが貼り付いているのだろうか。

 その日学校を休んだことは確かに覚えている。だが実際は、傘を捨てた日以前から私はほとんど登校しなくなっていたらしい。とすれば年を越えて3学期より田舎の学校に転入するまでの結構長い期間、私は学校を休み続けたということになる。四月に入学してからまともに登校したのは夏休みまでの三ヶ月だけならば、最初の学校のことが記憶にないのも当然だった。台風でも来ていたのか激しい風雨の朝だった。雨をついて私は学校に向かっている。林を抜けたところに小川があり橋が架かっている。そこをわたりながら下を見ると、いつもの優しい流れとはうって変わって、この日は橋もろとも足下がすくい取られるほどまでに増水していた。視点を固定して水面を見ていると吸い込まれそうだった。

 私はしばらくはそこに佇み、いつもに違う暴力的な流れを驚嘆して見ていた。そして何を思ったのか、さしている傘を閉じ川の中に放りこんだ。コウモリ傘は濁流に飲み込まれ、見る見る流れ去った。買ったばかりの傘なのに、という母の難詰が待っている。だがこの朝ばかりは登校するよりは母の小言の方がよほど心地よいように思えた。傘がない以上、この雨の中をこれ以上進むことはできない。今になって弁明するわけではないのだが、登校しない理屈を作るために傘を捨てたというよりは、傘を捨ててから理屈が思いついたように覚えている。真新しい傘を川に投げ捨てる。その犯罪的快挙を成し遂げる自分の力を確認したかったのか。正直なところ、行為にいたる最初の動機はこれ以外に考えられない。

 5年ほど前に母から聞いたところによると、先の都下の小学校では二学期の途中から、私はすでに登校しなくなっていたという。自分のことながら初耳だった。記憶の彼方にうっすらとそんな感触がないではなかった。そう言われてみれば、覚えているあの一こまに説明がついてきたのである。母親から引き離される不安に怯え、捨てられる夢にうなされた。私の場合は不安だけですんだのだが、この時期、弟たちは父の実家の祖母とか、叔母のもとで育てられていた。母が都会での生活を断念して田舎行きを決めざるを得なかった大きな理由がここにもあった。家計は最終的に破綻を迎えていた。こうして間もなく都営住宅を引き払い、田舎に身を寄せることに決めたらしい。夜逃げ同然だった。「父さんさえ、まともだったら」という嘆きは以後母が昔のことを話すさいの枕言葉になってしまった。

 その日、もちろん家に引き返してきた。登校できない理由を傘のせいにすることだけは分かっていたが、母には傘をなくした状況の説明が必要だった。あれこれ考えながら家の玄関にたどり着いたときには、もうすっかりずぶぬれだった。傘が途中で風に飛ばされてしまったので、登校できないと、言い訳したのだと思う。子どものウソはすぐ見抜けたはずだ。だが、この時母から叱責された覚えはない。彼女は「ああ、そんなんじゃ風邪を引くよ」と言いながら、あわただしく体中をタオルで拭いてくれた。やっとのことで学校に向かわせた息子が間もなくずぶぬれで引き返してきたのでは、母もさぞかしがっかりしたことだろう。だが帰ってきてしまった子どもにそれ以上何を言っても無駄だった。

 雨の中を再度子どもの手をつかんでまで強行には出なかった。それが登校しなくなる最初の日だったのか、それとも事前から休みがちだったのか。後者だったとすると、前日のうちに台風襲来(しゅうらい)を聞きつけて、新しい傘で私の機嫌をとり登校させようとしてみたのか。多分そんなところだろう。子どもは親の本意などだいたい察知してしまうものだ。学校に行きたくなかった私を無理矢理追い出した母の下心の形象が、玄関を出たとたんにコウモリ傘に乗り移った。だから私はその傘を川の中に投棄したのだ。しのつく雨に打たれながら仁王立ちしている。そんな傲慢な姿が浮かんでくるのだ。

<2007.01.30 記>

 

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▼平和憲法と女郎思想

2024年05月29日 | ■かもめ文庫

以下、十年ほど前に書いた記事で悪いが・・・

2012.11.30 朝日新聞投稿欄より

 

 今日の朝日新聞の投稿欄で上のような文章を読んだので、一言感想をば。投稿者は二十歳の大学生香取さんという方なりき。まずは、きちんとした立派な文章を読ませていただき感謝感激の念やみがたし。タイトルのように「集団的自衛権」は「参戦権」にほかならないとは、誠をもって、そのとおりだと思うのである。香取くんは続けていう。参戦権を放棄してしまっている日本は、誰が考えても「普通の国」とは言えないと。だが、その普通でないところが日本の誇りではないのかと。

 わたしは、それは違うと思う。端的に言って、日本もやはり「普通の国」として、必要とあれば武力を行使できえる「参戦権」を当然の権利として自覚的に所持し、いっそ憲法なりに明文化し、それだけにまた責任があるのだが、いわば独立国ならば一様に帯びなければならない責任を痛感し国際政治の中でも、とりわけ平和のために尽力していくべきだと思う。

 わたしは平和のための戦争も否定すべきではないと思っている。かの米国大統領オバマ氏でさえ明言せざるを得ないようにである。仮に、専守防衛だけに限っても、槍や鉄砲だけでは、なにほどの目的も達せられないのは、日を見るよりも明らかだ。軍事もまた大いに文明論に関わってくるのである。悲しいことだがモータリゼーションや原子力というものが、そうであるように議会制民主主義に代表される政治的手法もまた悪しき文明の一つにほかならない。だが問題は、ヒト科の誰に文明を否定できようぞ。

 文明を否定しても、個人としてなら生きていくことだけなら可能だろう。だがそれは乞食根性、奴隷根性を満載して、言いたいことも言えずに、口にチャックをしめたまま生涯を送っていくことではないのか。威張れた話では毛頭あるまい。あらゆる意味で自己に一定の文明に基づく政治的強度がなければ他者への優しさは実現不可能なのである。そのひとつが、軍事であることは言うまでもない。口先だけで、「平和、平和」と何万回連呼しても、真の平和がやってくるはずはない。

 力の発露は、自己中心的だとか、第三者は、いろいろと言うだろう。だが、平和のための戦争もありえるという逆説の要諦は、強いものが、弱いものを助けるという、実に単純な道徳の発露にすぎまい。ヒト科が、大昔から育て上げてきた、この普遍的な道徳を、せいぜい一国内の「平和」の美名のもとに、誰が貶めることができようか。文明を否定することは、社会を否定することだ。国家を否定することだ。

 いっさいの武力を否定する憲法9条が存在する限り、日本国は真の意味で文明的であるとも、ましてや独立国家だとは言えないのである。とある左翼政党(日本共産党)の綱領で正しく指摘されているとおり日本国は半植民地のままなのだ。いつまでたっても他国に守っていただいている従属国家または擬似国家のままなのだ。

 青年よ。日本という国は、まるで子どものようにイノセントで優しさに満ちた、それだけに弱々しい、いざとなったら何の力も出せない、隣国の温情だけにすがりついて、やりくりする以外にない、ひたすら衰退していくだけの、そんな国のままで、それで良いのかね。

 もっぱら「癒し」とか「優しさ」「弱さ」という心性を、メルヘンチックに飾り立て売文稼業を持って、喧伝させ自慢してきたのが大江健三郎氏に代表される戦後民主主義者らの「平和思想」と呼ばれている代物だが、私に言わせれば、彼らの考えは卑劣な亡国論であり愚劣な終末思想だ。単純な話だ。つまるところ彼らは、「政治の現場」から逃げたがっているだけなのである。同じことは同氏らが叫んでいる「原発反対」のスローガンについても言えるのだ。つまるところ、これらのスローガンも「文明の現場」から逃亡したがっている敗北主義者の戯言(たわごと)に過ぎないのである。

 まさに憲法9条はセンチメンタルにしてメルヘンチックな性根だけが取り柄といえば取り柄の彼らにとっては実に居心地のよい「子ども部屋」か、または隠れ家としてはもってこいの「癒し、かつ憩いの場」であり、なによりの「避難場所」となっている。当「子ども部屋」は、一般に行為することを気嫌い、体を使って働くことを蔑視する心根優しき近代に特徴的な知的おっさんおばさんらのために米国政府と日本政府が、割り勘して分担し、心根優しき彼らに無償で提供してくれているのである。

 なかには70、80にもなっても、いまだ「子ども部屋」の「ぬるま湯」から脱出できない半人前の小説家などがいて近隣諸国から失笑を買うばかりなのである。 

 さて、2014年7月8日付東京の田吾作新聞紙上に、次なる鎌田なにがし氏の、やはり憲法9条を問題にしているコラムがあったので一言感想をば。

 鎌田なにがしが言う「憲法が殺された七月一日」とは、いわゆる集団的自衛権なるものの行使容認が閣議決定されたことをさしているのだが、憲法が殺されたなどとは、いかにも大げさだ。己の歴史的政治的無知蒙昧をさらしているだけだ。何度、同じようなことを言ってきたのかね。1952年、米国との安保条約締結のさいに言わなかったか。憲法が殺されたと。戦争になると。

 つづいて1960年、安保改定においても、同じことを言わなかったか。憲法が殺されたと、戦争がはじまると。さらに続けて1970年、10年ごとに見直すとある安保がまた改定時を迎えていた、そのとき、鎌田なにがしは、憲法が殺されたと言わなかったか。で、どうだったのかね。戦争になったのかい。

 それにしても何度殺されたら気が済むのかね。あ~ん。鎌田のなにがしよ。口先男よ。オオカミが来る男よ。君は一顧だにしていないが憲法が殺されたと君が言う、その7月一日は、奇遇なことだが、われら自衛隊の創設60年にあたっていたそうだ。今から60年前、晴れて日本に自衛隊が組織された。当初の兵員は10万人ほどで、装備もきわめて貧弱なものであったらしい。だが、軍隊には違いなかった。武力を否定した憲法のもとで軍隊が創設されたのだ。

 君の言い方に倣うなら、このときこそ憲法が殺された日とよばずになんとする。この歴史的事実に比べれば自衛権がどうたらこうたらなどという話は、いかにも瑣末な話だ。60年前、すでに9条はすっかり骨が抜かれていた。憲法制定後10年もたっていなかったのである。骨の抜かれた憲法を後生大事に、ありがたがって念仏がわりに「憲法を守れ」とさわいでいる馬鹿な連中こそ、よほど偽善者ではないのか。繰り返す戦後政治史を額面とおりに読めば残念ながら日本国憲法の第九条にかぎっては、すでに空文と化して久しいのだ。

 問題はだ。突きつけられてくる現実を無視し、または現実におびえて、現実には目を配ることもせず、部屋に閉じこもっては念仏化したお題目を唱えていることに、なんの意味があるのかということだ。誰が考えてもわかりそうなものだ。なにかね、鎌田のなにがし君のばやいは、現実がどうあれ、念仏を唱えていたほうが幸福だとでもいうのかね。そりゃ、一種のカルトじゃないのかね。

「わたすたちのいのちである九条の輝き」?

 馬鹿を言うなよ、これカルトっ屁のなにがし君よ。もはや何一つ中身のない空文が、いかに輝いているというのかね。詐称詭弁もいい加減にしたまえ。それほどカルトがすきなら、この際だ、拙者が君たちに新しい教団名を授けてやろう。その名もオオエ真理教。どうかね気に入ってくれたかね。そうかい、そりゃよかった。世界のどこにだしても恥ずかしくない立派な教団名だ。教祖様も老いぼれたとはいえ、かつては一流の小説家だったと聞く。

「平和憲法がひっくり返された」?

 君たちが言う平和憲法とは、そもそもの始めは誰の創作だったのかね。何度もいうが、今から70年前の話だ。連合国司令官マッカーサー元帥に他なるまい。戦争放棄、交戦権放棄、武力放棄とうとうを詠っている第九条において日本国は手足をもぎとられ刀狩りされ、思想的に女郎化された。だが数年後、たちまちにして、この童話は崩れかけた。

 大陸では蒋介石は台湾に追い飛ばされ共産革命が成立した。目と鼻のさきの朝鮮半島で戦争が勃発した。現実の前には、理念なんぞは、なんの役にもたたずじまい。忸怩たる思いに浸ったマッカーサーは考えに考えた。日本政府に対して頼むから憲法をいじらずに適当な軍隊を作ってくれまいかと要請してきたのである。もちろん実際は命令だった。てめが作った平和憲法をひっくり返したのは他ならぬマッカーサーではなかったのかね。60年、70年前の話だ。なにがし君も、も一度よく戦後史なりを勉強してみたまえ。文句があるなら、今はなきマッカーサーの墓前にて雄たけびをあげながら積年の憂さ晴らしをしてくればよい。

 さりながら70年を費やしてきた戦後日本の来し方の全貌を端的にまとめてしまえば、これ以上は望めもしないほど平和であったことは間違いない。だからと言って、カルトっ屁の諸君が言うように平和憲法が存在していたからだなどとは、これぽっちも思わない。むしろ平和憲法が早々と内実のところ「ひっくり返って」いたからではなかったのか。上で記したように、憲法制定後、十年もしないうちに自衛隊が創設されたのだ。平和を言うなら、自衛隊の諸君こそ、わが国を守ってきたのではないのか。もちろん日米安保条約によっても、多々守られてきたのだ。アメリカさんによって日本は守られてきたのではなかったのか。

 左巻きのカルトっ屁の諸君らは、おそらく、これらの真実は口が屁曲がっても認めたがらないだろう。だが、大現実たる現状を認めねば近将来にわたる政治的実際の話には一向に戻ることはできやしない。書斎の穴蔵にふんぞりかえったままで自分の手だけは汚すまいと戦争はいやだ戦争は悪だと口先ばかりで架空の平和を求めるのが、なにがし君のような左巻きの連中がとりことなっている女郎思想の特徴である。

 ゆりかごから墓場まで、とにもかくにも守っていただかねば生きた心地もしないというのだから開いた口もふさがらない。戦後七十年、あきもせずに同じことを口走ってきた。妄想大国か、または信仰上の空想的教条の傘の下で、てめたちだけはちゃっかり安逸と平和が楽しめますよと、プロパガンダに励むがなんほだ。これが彼ら左巻きカルトっ屁連中の卑猥な本音と綱領に他なるまい。これぞ女郎思想と呼ばずになんという。

 

 

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▼とある候補者の落選日記

2024年05月20日 | ■売名坊主の日記より

 またしても昔の記事で悪いが・・・

 自称ジャーナリスト有田芳生氏の個人サイトにあるブログを読んでみた。彼は、この数年来、すっかり選挙ずいている。惜しいことには、先にも落選したし、このたびの総選挙においても今一歩というところで当選には及ばなかった。だが、わたしが彼に興味をもつのは、選挙のことではない。
 例によって例の如し、ブログそのものことであり、言ってみれば彼の文体そのものである。文章に刻印されるべきその精神の深浅の問題だ。だが、有田氏の日記の中で、これといって彼の思想らしきものは、どこにもない。無残なものだ。探しても探しても見当たらない。
 だが、生活はある。書名と人名の固有名詞だけが、文中で踊っている。昔から、彼の文章の特徴が、これだった。読んだ読んだと、書名を挙げておきさえすれば、多少は知的な男に見えるだろうという期待があるのか。いささか矮小な教養主義だ。またしきりに誰に会った、彼に会ったと、いちいち人名を挙げては、知己の広さを自慢する。これまた矮小な徒党根性の表れに他ならない。
 田舎から出てきた成り上がりおやじの言辞が、まさに、こんな調子だ。俺は有名なだれそれのことを知っている。だれそれと友達だ。最後のせりふは決まっている。「俺を誰だと思っている」。笑うのである。彼の文体は、むかしから、こればっかりなのである。そこに彼の精神の性質がある。それにしても、このたびの落選は惜しかったが、次なる選挙に臨むのだろう。国政選挙か首長選挙かは知らないが、当選しようと落選しようと、その人の精神の構造は、変わりない。
 多く当選すれば、事前の俗物度がさらに増長するだけだ。考えてみれば、今回も有田氏に限っては、全党を仕切って民主党を大勝利に導き株をあげ男を挙げた選挙対策委員長、その名も自民以上の自民党であると噂もたかい天下の小沢一郎様に雌伏して、彼から正式な子分格、すなわち小沢チルドレンとして公認をいただいておけば、よかった。
 小沢一味として当初より早々と表明しておけば、有田氏も、いまごろ落選の感傷にふけっている暇はなかっただろう。

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▼意外に短気な老小児科医

2024年05月17日 | ■売名坊主の日記より

  

以下、2002年当時の某掲示板より

 

●スギ券
僕ちゃんのの掲示板の読者ののみなさま。あけますておめでとさんだす。ご挨拶が遅れました。遅れた理由はたいしたことではないのですが、年末の父母の田舎スティ・年越し外泊のつきあい等々。うるさくてやりきれません。ふんで、まさに「当直明け」状態で、寝正月でした。
実は母の方が年末に「入院」と言われ、「それはないやろう」と、こどもの立場でストップかけました。GHには訪問診療のドクターが最低月二回診察し、主治医としての判断がありました。
でも今回は年末ゆえ、そして発熱していましたので、「なにかあったらたいへん」ということで「主治医判断」で保佐の息子にも了解なく、入院に連れて行って、というのです。「おかしいやないか」、といえるのは介護保険証をもつ息子医者だからでしょう。
・・・ということで息子が父母の主治医になりました。いっぱいいいたいことや書きたいことがあって、これらの制度矛盾を自らの体験として持っていますが、暴露的なものになりますのでやめます。
そんなこんなで年賀状は一切だしません(だせません)でした。年賀の挨拶ができませんでしたことを、古腹様とてるさん、どうかお許し下さい。ふんで、日本小児神経学会の理事・評議員が定年になります。これを皮切りに全国区の仕事から手をひこうと考えています。


●古腹
テルテルさんをはじめスギ券先生のファンのみなみなさま。あけましておめでとうございます。さて、わたすはわたすは新年そうそう、またまた例の「奇跡の詩人」のビデオをみて感動を深めたところです。

 

●スギ券
さて古腹さん。常に冷静ですじみちを大切にしてきた古腹さん。僕ちゃまは昔っから、あなたの大ファンだす。ふんで今回のかきこみの主旨や想いもよく理解できます。でもやっぱ、僕ちゃまは奇跡の問題についてばかりはテルテルさんの論理に賛成します。そすて「奇跡であるかないかは、テレビののNHKをみただけで一目瞭然だったのだった」というテルテルさんの一語が、強烈ですた。僕ちゃまとしても、「奇跡の詩人」のうそを追及したころは僕もまだ若さがあったのでしょうか絶対に許せない、と思いました。今回は「語り」のなりゆきを後ろの方から見物している自分の姿をみました。ああ、児玉ドクターも滝本弁護士も、そして僕ちゃまも老いたのでしょうか・・・・・

 

●古腹
スギ券さん、こんにちは。お元気そうでなにより。それで、さっそくですが、上の記事で、あなたは次のようにおっしゃる。
-------------------
「奇跡の詩人」のうそを追及したころは僕もまだ若さがあったのでしょうか
絶対に許せない、と思いました。
-------------------
「奇跡の詩人」と銘打ったテレビ番組がNHKで放送されたのは、いまや約十年前のことなりき。十年がたった。当の番組の主人公、日木流奈さんも、いまや22歳の好青年。スギ券さんは、「うそ」だと追及したのだという。なにが、ウソだったのですか。わたしはあなたの当時の脳内妄想こそ、多大なる「うそ」だったと思うのですよ。やはり、いまだに「絶対許せません」か。よく考えて御覧なさい。己の当時の脳内妄想を、はてまた若気の至りといえば、許されようが、その独特の進歩主義的イデオロギーを。わたしがおもうに、なにもかもが、あなたの「うぬぼれ」だったと思いますね。自分は医師資格者だという。なんですって、文章もかけるのですって。そりゃ傲慢でしたね。いかに自分が権威を鼻にかけて、偏見にみちた差別をしているか。してきたか等々は、案外に、老いても、老いても、自分では気がつかないものですよね。ま、それが老いた証拠だといわれれば二言もなしでしょう。考えてもごらんなさい。当時スギ券さんが頭ごなしに、「うそ」だと糾弾した、日木流奈さんは12歳でしたよ。その流奈さんが書いた本がありましたね。「人が否定されないルール」日木流奈著(2002.05.07刊 講談社)でした。スギ券さんも、一度、お読みになってみたらどうですか。

 

●スギ券
意見を書くのはよしとしよう。どんなレベルののでも納豆。ただし、小児科医資格者としての、わたすに対すてのの、汚い言葉やいいかげんな呼び名で記載するのはやめることだな。老いたりとは言えども、わたすも、これでも国家公認の小児科医資格者だっつーの。わたすをして券吉呼ばわりでは、せっかく当掲示板にアクセスしてくださるわたすのファンの皆様が「不快」になる。
もし、わたくすこと、杉本のの券吉を攻撃するのが目的に、当掲示板に、かきこみされるのであれば、わたすのことをへいへいと、券吉さん呼ばわりして、反省もなきような、イデオロギーの半キチガイにも等しい以下のお人のカキコはすべて消す。以上、わたくしこと、杉本券吉が、万感のお思いを込めて、宣言たてまつる最初で最後の管理者としての注意である。 ふんで、上の古腹さんのの記事は削除すますたよっと。
よって、わたくしこと小児科医杉本券吉ファンのみなさまにおかれましては、これからも、どんぞ、安心して当掲示板に、お書き込みくだされませ。ああ、今日は、さんざんな一日だった。ふんで、わたくすこと、小児科医のの券吉様をして、攻撃してくる、同年代のの、これ、古腹よ。いざとなったら、おめさんを営業妨害で訴えてやるつもりだから、そのつもりでいろっつーのよね。あせ あせ さって寝よ。

 

●テルテル
「奇跡の詩人」といっても、今となっては、知らない人も多いと思うので、一応、関連のサイトをリンクしておきます。

トピック21
NHKスペシャル「奇跡の詩人」パート2  ~日木流奈くんについて~
http://hp1.cyberstation.ne.jp/negi/DEMO/topic/t021.htm

奇跡の詩人 FAQ
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kbys_ysm/kiseki_faq/

 

●スギ券
ああ、テルテルさん、ありがとう。過去ログを公開してくれたおかげで、多少はわたすの正当性も、ファンの皆様には分かってもらえたと、思っています。久しぶりの古腹様が、わたすのの掲示板に書き込みされたお正月。一時はどうなることかとひやひやすますた。
いい年こいてアルバイトをやっている古腹君ごときにわたすのわたすの医師としての人格まで否定されてしまっては、元も子もあるません。あのね。てるてるさん。だっから、わたすはわたすは最初っからネットなんか、やりたくはなかったのだった。
わたすの本音を言えば、当初から掲示板なんかやりたくは、なかったのだった。どこで、どう道を誤ったのか。「奇跡の詩人」問題を論ずる第一発見者として、ネットに面を出してみたところ、まんずまんずの調子であったのだった。ところが、あにはからんや。古腹様によってわたすの掲示板への営業妨害じみた書き込みが始まったのだった。
それよりもなによりも、奇跡の詩人がウソをこいたことが悪かったのだった。「奇跡の詩人」問題以来、わたすはわたすは医師としての、信用をすっかり失ってしまっただす。
京都のの祇園付近では、すっかり、わたすはヤブだとか間抜けだとかの噂が立っているという噂を耳にしたところだす。それが証拠に、わたすのクリニックのの方には、さっぱり患者様が、来てくれません。日に一人か二人あるかないかの状態だす。そこで、これ息子よ、おめさんは、なぁーにをやっているのだね。小児クリニックとネットのの掲示板と、どっちが大事なのだ。あ~ん、とただいま入院中の老母から意見されてしまったところだす。
それに、わたすは、若い頃から臨床よりも研究のほうが魅力的であったのだった。それも医療と社会のすり合わせ。もっと言えば医学と政治のすり合わせこそ、現代における最大の問題だったのであったのだった。理論的に、そこを解明することこそ、わたすの研究と言えば研究課題なのであったのだった。
だが、この世は衆愚に満ちている。よするに医者以外のすべての人間は病人なのである。なんらかの病気を患っている。よって医師こそ、彼ら患者どもの全面的な教師にならねば、おっつかないのである。都市はすべてこれ、医療都市として再構築することが必要だ。先端的国家を標榜するならば、都市の施設という施設は、すべてこれ医療を優先しなければ、話にならないのであったのだった。
町を病院だらけにしていいのかという批判は甘んじて受けようが、現代社会というものは、極言すれば、患者と医者しかいないのである。今日のように、医者の権威が失墜しては、医療技術が遅れるばかりで、日本もやがて野蛮国になってしまうのだ。患者は医者を信用せずに、医者の言うことを聴かなくなる。そのような世の中になって、いいのか。こうした反進歩の思想は着々と進んでいるのだ。
繰り返す、医者の権威をとりもどし、病人やら障害者は片っ端から必要な施設に収容して、必要な治療を受けさせることが肝要である。
これらの実際を社会的理論的に解明するのが若い頃からの私の夢なのであったのだった。じゃが、わたすの本当の気持ちなど誰も分かってくれやせぬ。このままでは世界は障碍者と病人だらけになる。それで良いのか。そこが問われているのであったのであった。あせ あせ さって寝よ。

 

●テルテル
今回の件は、長年興味を持って見続けてきた分野だけに、ちょっと待って下さいという意味で書き込みをしました。この件で古腹さんと議論をするつもりはありませんので悪しからず。すかす疑問があるなら、なんぼでもお答えしますよ。第一、テレビののを一目見ればわかるでしょう。老いたりとはいえど、もともと頭のよい小児科医ののスギ券先生なら10秒以内に頭のてっぺんから湯気が出でしまいます。奇跡の詩人一家はどのように微妙な動きを感じ取って通訳しているのでしょうか。手が離れた間はどう感じとっているのでしょうか。空気の微妙な振動でしょうか。微妙な動きは音波となって空中を飛ぶのでしょうか。・・・そんなことは起こり得ないのは自明のことだす。私は文字盤でコミュニケーションが取れる人を何人か知っています。しかし、その方法は奇跡の詩人の方法と完全に異なります。家族しかサインを理解できない場合もありますが、慣れてくればヘルパーでも会話できる場合もあります。また、ことばの変換速度は非常に遅いです。当人以外の誰も真似できていないし、その原理も明らかにされていない事実があることを認識する必要があります。本当であれば堂々とその成果を論文にし、テレビにも出ればいいと思います。自分だけの技にせずに皆に広めればいいでしょう。「奇跡の詩人」を否定することが、なぜ幼い少年の表現する権利を奪うことになるのか私には理解できません。当時多くの人が批判したのは、その手法がでたらめであることを科学的な視点を含めて述べたにすぎません。何も障害児が考えていないとか、ことばを発することができないとか言ったわけではありません。ましてや障害者が表現する権利を奪ったものでもありません。なぜなら、NHKの映像をみれば一目瞭然だからです。どうか皆様、古腹さんの議論にかかわるのはバカらしいと言わずに彼の考えに異議ありをご表明願います。

 

●古腹
テルテルさん、こんにちは。さて、あなたは次のようにのたまえり。

>なぜなら、映像をみれば一目瞭然だからです。

ここが問題なのですよ。テレビの映像を見ただけで、そこに写されている人の脳内の状況の神経細胞の動きが、どうなっているかなど、分かったものではないと思いますよ。言葉の発生の最初は、脳内のことですからね。人様の脳内状況は、どのような専門家でも、外見をみただけでは、仔細には分からないものではないのでしょうか。もちろん、医者にも。

わたしに言わせれば、あなたが「映像を見れば一目瞭然」だと断言されてしまう、そのことの意味を、よくよく考えなければなりませんよ。医者が、患者を映像を見ただけで、病名を断言することができますか。大真面目に、また大威張りで病名を当てたと、法螺を吹く馬鹿な医者がいますか。わたしが心配なのは、映像に写された少年のことではないのです。あなたの脳内の状態こそ、そもそも大いなる先入見と「ウソ」が含まれているような気がするのですよ。

映像を見ただけで一目瞭然だとは、それこそまるで、奇跡の世界ではありませんか。テルテルさんは、どこかの手品師か、教祖様みたいですね。あなたの偏見と差別根性が、表現され、力説したがっているだけだと思いますよ。

一般に、われわれの先入見の多くが、他者に対する偏見と差別に満ちていることは、あなたも知っているでしょう。誰しものことですが、よくよく己の古層にある偏見と差別根性だけは、見据えておくべきですよ。 たとえば、当時、2002年5月当時のことでしたが「異議あり 奇跡の詩人」なる本の出版に際して、おれにまかせろとしゃしゃり出てきた有田芳生氏(現参議院議員)の次のような書き込みありましたね。

「私は断言する。12歳の脳障害児がこのような大人言葉の本を書けるはずがない」

だが、彼の書いた日記等を調べてみると、当の少年の書いた本も読んだ形跡なし。書店で表紙だけは、見たらしいのですよ。当のテレビ番組も、滝本弁護士から教えられ、半月遅れの録画ビデオで見た程度だったのですよ。上の断言は、ビデオを見る前のことなのです。笑ってしまうではありませんか。

当時この手の思想薄弱なる薄っぺらい各界ブタ饅頭が寄り集まって徒党し偏見差別運動に与したものです。なにをして彼らは、これぞ攻撃対象だと思ったのでしょうね。じつに、おかしな現象でしたよ。やれ医者だ、やれ弁護士だ、やれ大学教授だと自称する皮を被って言葉を発する、きゃつらの脳内古層にある古くされた偏見意識が恥も外聞もなく丸出しにされてきたのです。

 

●今井幸政
おいスギ券。おめぇが病人を作り出しているんじゃねぇのか。国民はすべて病人であるってか。医者は社会の指導者だってのか。自分以外の衆愚はすべてこれ患者だってのか。冠者はすべからく収容するとな。それじゃ、病院列島になっちまうよっつーの。病院どころか収容所列島だ。おめぇはとんでもないヤロだ納豆。

ふんで、よするにだ。スギ券が、言ってることも、てるてるさんが言っていることも間違いじゃないけど、双方ともに、微妙な問題に対して言葉が足らないのだわさ。だからフルつぁんと口論となる。で、てめたちが負けが込んできて、世間に誤解がはびこる。だっから、まんず奇跡なんて、当時は当たり前の出来事だったから、奇跡を始めた御仁は、当時としては、全然間違いではない。結果として、奇跡に、してやられたから、奇跡的に国策を誤り、なのであったのだった。ベトナム戦争に負けたアメリカは、この、国策を誤りの反省がないから、いつまでも、テロの対象にされる。結果、日本は負けたのだから、当時の政治家の罪は重い。いまの政治家は、負けない政策を持つべきだ。政策がダメで選挙に負けたとしても、ダメな政策を実行した政治家の罪は重い。

奇跡に乗じているだけの国政議員連中が、この反日のの罪の重さを理解してるとは思えないから、少し議員は熟考した方が良いのであったのだった。だっから、奇跡問題と、歴史問題とののは、学者にまかせて、政治家は政治を語れば良いのに、不毛な歴史問題に足を掬われてるから、つくづく今の政治家は、バカだと思うよ。いまは、とりあえず、景気浮揚だけに専念すれば、奇跡もへったくれもないのであるのだし、皆、真っ青になるだべし。だっから政治家とか医者とかののは、ちゃんと、税金を貰った分だけ、働けっつーの。口ばっかり達者になりおってからに。医者は医療、政治家は政治。それだけで評価されるわさ。おのおのがたはなぁーにやってんだか。

 

●スギ券
あれっ。誰だ。今井とかいう、お人は。この手の匿名者は、こりごりだったのだった。ふんで、テルテルさん、テルテルさん。上の記事をのっけてきた、今井とかいう、お人は、いったいぜんたい誰なのでしょうや。なにか、正論じみた、ご意見をのたまえり。あせ あせ。
テルテルさん、テルテルさん、今井なにがしについて、知っていることがあれば、教えてくだされ。世の中には面白い人がいるものだすね。テルテルさん、テルテルさん。こんな人が、わたすのの掲示場に初登場したとあっては、わたすはわたすは、もっ眠るに眠れなくなるのだす。



●テルテル

ああ、あの今井君ですか。あの人のことは別に小児科医のスギ券が気にすることもありません。約十年前に古腹様の掲示板で二三度やりとりをすますたが、ようするに見ての通りのただの馬鹿です。当年とって齢62歳になりますた。耳にしたところによれば十年ほど勤めていた倉庫会社を会社規定により二年前に首になった次第だす。幸政の親戚の伯母から泣きつかれて会社としても仕方なく現在嘱託アルバイトとして使っているらしいのです。この役立たずを再雇用するについて給料は以前の半分ということで政幸の叔母と倉庫のの方の社長との間でめでたく妥結いたした次第だす。以後、当人としては、なんとか生きていこうと無我夢中。老後の蓄えを気にするあまり半キチガイになって株式取引に退職金のすべてをつぎこんでしまい、三井住友とかヤマト証券会社では、飛んで火に入る三段腹がやってきたって調子で、ようするに資本主義的カモとなっている次第だす。大日本帝国バンクの小口株主全集によれば、現在のところ今井政幸様におかれましては、含み益は110万。含み損は、400万という統計が出ています。なにしろ、この今井政幸という馬鹿は生涯、異性には指一本ふれたことがないというのが彼の自慢の元となっておるのだす。一円でも儲かればネットで自慢できる。この男にとっては、これだけだけが生きがいのようだすよ。この馬鹿は。だっから小児科医資格者ののトロント留学経験者のスギ券が、この手のアホを相手にびくびくしてては世も末だと思うばかりの今日のよき日のワンカップ。

 

●今井幸政
このバカたれ掲示板が!箸にも棒にも屁かっかるまい。この腐れ外道の連中が!もっスギ券にもテルテルさんにも芋は送ってやらねぇよっと。

今日のお昼は、わたすは、大好きな吉野家で、実は、この一週間だけの特別メニューののちらし寿司を食べたのだった。ご飯少なめバージョンなんだけど、それでもご飯が多いんだよね。うれしくなっちゃうよな。やっぱ、都内の、どこの吉野家に入っていっても、わたすの面を一目みるなり、わたすが、他ならない吉野家の株主であることを、アルバイトの皆が、知っているのであったのだった。ま、吉野家のちらし寿司のばやい、具も多いからいいんだよ納豆。がははははは、満腹満腹。

ふんで、問題はだ。日本の国債の格付けが下がったのに、思ったほどの円安にならんなぁ。円安になれば、わたすの投資信託ももうけが出るから、円安になってくれにゃいのかにゃ。フルつぁんも、あんまし賢そうじゃなかったし、もっ、フルつぁんには、芋も米も送ってやらねぇよ。

フルつぁんは、レベルが低い。若い頃からのの唯一のおともだちとして、世話を焼いてきたわたすにとっては、じっつに、情けない。ったく。

だっから、何度も言うのだすよ。あのねフルつぁん。株価の落ち込みが華々しいなだろっつーの。ギリシャが、どうもユーロ圏を離脱しそうだからこんなものか納豆。わたす的には、世界恐慌になっても、いっきに膿を出し切るため、ギリシャはユーロ圏を離脱すべきと思うけどね。ドイツ、フランスの銀行は倒産するやもしれんがにゃ。国債が格下げになったし、貿易収支も赤字なのに、円はちっとも安くならない。この先もうしばらくは海外資産を押さえておく必要があるということだろうか。

ふんでも、いずれ円安が見えているから、わたすも、有り金すべて外国預金をしておきたい気分。がははははは。すかす、民主党に景気回復策がまったくない。これで増税したら、やはり、日本はダメかもかも納豆。あ~ん。フルつぁんは、どすて、わたすが経済のことをまじめに「ご議論」している処に、茶々をいれてくるのであったのだった。あ~ん。少しは経済のことを心配すれっつーの。ったく。

ふんで、つい、こないだのことですた。わたすの会社が引っ越しするというので、今日は朝から、引っ越し準備にみんなてんやわんやなのさ。で、いらないものは捨てようってことになって、空いた段ボール箱に、よするに、わたすの会社の派遣さんたちが、いらないものをわんさか詰めてたりする。そんなさなか、足元を見ると、古いビデオカメラがあったのだった。ナショナル製のの。でかい録画テープを差し込んで、録画するタイプののの。ったく。二十年ほど前ののの。松下幸之助とかののの発案ののの。

こんなもん、誰も使わないから、お前がもらって使ってみたらどうだと、最初に、わたすに言ってくれた優しい上司がいたのだった。すかす、やっぱ、録画テープを使ってのののだから、わたすは別に欲しくは無い。最初はお断りをしたのだが、その後色気が出てきて、もらって帰ろうか、どうしようか、ずいぶん悩んだが、もらってしまうことに決心したのだった。その旨を上司に報告したところ、上司が言うのであったのだった。

自分ではつかいもしないのに、どうして、もらって帰る気になったのだと問い詰めてきたのであった。わたすは、大汗かきかき、弁明にあい努める羽目におちいった。どうやら上司は、わたすの心変わりを疑っているらすい。わたすのことを、しげしげと、あきれたように、眺めながら、ようは分からんが、よするに、そのビデオカメラを一種のジャンク品として研究材料にしたいと、こういうことかと、納得してくれたのであったのだった。

ふんで、会社の引ける夕刻近くになって、黙ってわたすのデスクの上に置いておいてくれた。なんと心優しい上司であることかと、わたすは思った。よするに納豆。あのねフルつぁん。だっから、わたすは、ほしかったのではなく、しかたなく受け取ってきたのさ。上司が捨て場に、困っていると思うと、なにかと手助けしたくなるのが、わたすの心の優しさである。結局、ゴミ同然のジャンク品でも、自分でなんとかしようと引き受けてしまうのが、若い頃からの、わたすの習性なのであったのだった。

ま、十年前に、わたすが犯した、いまや迷宮入りとなっている神奈川県警保土ヶ谷署管轄下になる、高級蓄音機詐欺窃盗事件のことを、思い出してみても、やっぱ、にたような経緯をたどった次第であったのだった。ふんで、わたすは、このビデオカメラを誰ぞにやって、それから返せなどといわれない良識人を、きちんと見極めてから、あげようと思ったのだった。

最初は、わたすの腹違いの伯母のところに問答無用で宅配便にして送りつけようかと、思った次第だす。だが、いまや株取引の思想的問題でじっつに剣呑な関係となってしまっている伯母に、ゴミ同然のジャンクもよいところの旧型ののビデオカメラを送りつけても、即座に送り返してくるに違いないのであったのだった。ったく。

だが、伯母の場合、フルつぁんほど物がわかっていないということはない。じっつに常識をわきまえた、わたすの可愛い親類縁者なのであったのだった。すかす、よするにゴミも同然の邪魔っ気なビデオカメラの処分を最終的にどうしようか思案しながら、ボストンバックに隠し立てして、神奈川県警保土ヶ谷署裏のアパートに戻ってきたところ、ちょうどゴミを出そうと家から出てきた町内会の会長さんに、ばったり逢って、会長さんから、おや、今日は遅い帰りですね、と声をかけられた。おお、そうだそうだ。このビデオカメラを町内会長に進呈しよう。

そうだ、そうだ、そういうことにしよう。向こうも、ほとんど必要ないと思うけど、なにか天変地異やもめ事があったときの証拠映像を撮るのに必要だといいくるめたら受け取ることじゃろ。そうしよう、そうしよう。町内会に、寄付しよう。寄付だ。寄付だ。今日のわたすは冴えてるのだった。まる。

次の朝ですた。町内会のゴミ収集場に、昨晩食ったほか弁の空き箱を捨てようと、扉を開けて入ってみると、案の定、昨日のビデオカメラが、ダンボール箱に丁寧に包まれて、捨ててあったのだった。めでたし めでたし、これにて一件落着。さって寝よ。

 

●古腹
おい今井。十年前のことながら、わたしが何度も何度も今井が持ち去っていった昔ながらの高級蓄音機を返してほしいというのは、なんの理由もない。ただ、返してほしいから、お願いしているだけだ。使っていないと今井が言うのを聞いたからである。私の家に取りにきたはよいが、使い物にならず、引き取りにきた三菱ライトバンの荷台に、そのまま一年余りのあいだ、放置しておいたらしい。あまつさえ、わたしと蓄音機を侮辱してきたのである。あんなゴミ同然のものと。そこまで言うなら、もう、わたしまで、返してくるいがいに、詐欺窃盗および泥棒罪を逃れる道はあるまい。さっさと返してきなさい。わかったね。わかってくれるよね。これこれ田子よ。これ田子よ

 

      

 

 

●今井幸政
わたすは田子ではあるません。だからネットよ。あのねのねフルつぁん、わたすは持ち去っていないっつーの。フルつぁんが「もってけ泥棒」と、わたすを小バカにするようなことを言ってきたのでわたすはわたすは、いっそフルつぁんがそう言うなら、その通りに、いかにも古風な手回し型のの高級蓄音機をフルつぁん宅から男らしく堂々と奪ってきたのであったのであっただった。「もってけ泥棒」と言ったのは、あれは冗談だったと、いまごろ言い換えても遅かった納豆。がははははは。ばかたれ。

なにが泥棒だ。さびしくも都会の片隅で世間からは隠れるように、日々ただすい童貞人生を送っている、わたすが一度や二度、魔がさして、たまたま泥棒に走ったとして何が悪い。あ~ん、貧乏人は黙ってっろっつーの。それほど言うなら、フルつぁんは泥棒とは、どゆことなのか3000字で定義しろ。のーたりん。

そもそも、フルつぁんのような素人には、泥棒の定義すら分かってない。あのね、フルつぁん。一度奪われた高級なすなものは、二度と返ってこないのよ。普通は。わたすの前で泣きまねしても、例のすなものは質流れ。それほど返してほしければ、yahooオークションを探してみろっつーの。わたすの親友tpkn君が、出品した後の祭りだ。

この際、泥棒とはなんなのか辞書でも引いてみろっつーの。人前で気安くわたすのことを大げさに泥棒泥棒と言うんじゃないっつーの。泥棒にも、いろいろあらぁーな。わたすにはわたすの流儀がある。あほたれ。食糧難に陥っていたアルバイトのフルつぁんには、これまでさんざんに芋を送ってやった恩を忘れたか。わたすが汗水ながすて奪ってきたすなものを返すも返さないもわたすの自由だ。わたすの泥棒のやり方に、不正規労働者のフルつぁんは口出しするな。泥棒の悲しい気持ちも知らないで何様のつもりだ。すっこんでろっつーの。この腐れ外道が。もっフルつぁんには金輪際、芋は送ってやらねぇよっと。

株価が面白いように下がっている。もっと下がらんかな。もっともっと下がれ。もっともっともっと下がったら、わたすはここぞとばかりに買うぞ。株は下がった時買えるかどうかが勝負だわさ。わたすには、もうわずかしか3株にまわせるカネがないのであった。ところで、わたすが三年前に倉庫会社よりもろおた退職金ののは、どこに消えてなくなってしまったというのであったのだった。わたすとしたことが、かえすがえすも面目ない。どうやら、わたすは株の泥沼にはまりこんでしもうたようだ。

だっから、あのねフルつぁん。今日は、わたすは松岡美術館に東京都庭園美術館、それに、そごう美術館と、歩き回って、あ~あ、ちかれたちかれた。わたすは美術館に行くと決まったように必ず図録を買うから3冊持つと重い重い。だっから、なんぼ教養のためとはいっても美術館巡りも1日3館が限度だわさ。日曜に美術館巡りするのは平日はむろん倉庫会社でのの仕事をやってるからで、もう社員じゃないが会社に行けばカネになるから仕事するのは仕方ない。わたすの楽しみはカネ儲けでもあるから納豆。

これから経済は、中国とアメリカの沈降で一気に恐慌に行くかもかも納豆。他人がなんぼ恐慌に陥っても、わたすはわたすは、のんびりと美術館巡りをしたいわさ。ふんで今年の美術館は見どころ満載。せめて今年1年経済がもってくんかな。来年、ヒラリーが大統領になっても、トランプがなっても共にアホだから政治経済はぐじゃぐじゃになる。日本は賢くスマートに不況を回避せねば。知恵を結集しないと納豆。ふんで、今日は、サントリーホールで東京交響楽団のコンサート。昨日ハードディスクを買わなかったので、夜22:00までやってるヨドバシカメラで買ってきた。2テラのの。3テラののを買おうとカウンターに3テラののを出したら、店員のお兄ちゃんが動作確認をしたのかと問うてきた。

わたすのテレビは東芝のだしハードディスクも東芝だから大丈夫だべと答えたら、2テラならどのテレビも動くが3テラのは最近のテレビでしか動かないという。何年前のテレビかと訊くから、6年前に買ったと言ったら、微妙だと。うーん。買っても動かないのならね。15000円の3テラのを止めて、12000円の2テラにしたわさ。コストパフォーマンスが悪いにゃこりゃ。ヨドバシカメラのカードを出して、現金を出したら、お兄ちゃんは、カード払いにすればポイントが多く付くと力説した。おお、そゆものか。知らなんだ。さらに、お兄ちゃんは、セブンでもファミマでも大概のコンビニでヨドバシカメラのカードを使えば1%ポイントが付くという。おお、そゆのは教えてもらえて嬉しいぞ。これからは、コンビニでヨドバシカメラのカード払いにせねば。こゆのは、ちりつもよ納豆。後で大きく戻ってくるんだよね。

不幸なフルつぁんには、すこしでも、わたすの幸福をわけてあげたいぐらいだす。ただす、わたすのことを、これまでさんざんに小ばかにしてきた高級蓄音機の件では悪うござんしたと、わたすに対して謝るべきことは謝る、いたって尋常な精神さえ見受けられれば、わたすも鬼ではないのだすから、ほんの少しだけならフルつぁんにも本当の幸福をわけてあげてもよいのであったのだった。わたすの部屋には大型液晶テレビが4台、その他白物家電が、ぎょうさん転がっている。いっとう古いテレビ(21インチ)でよいのなら、フルつぁんに、与えてあげてもよかったのであったのだったと、ふと考えた。

それにしても、3テラでも使えるように、そろっと最新のテレビを買い換えるかな。今度は、最低、65インチのが欲しい。たたみ一畳ほどの画面が欲しい。さすれば録画録画でテレビの前に釘付けだわさ。さすれば、わたすはもっともっと幸福になる。みんな、テレビを見て、ふんでいい番組を、かたっぱしから録画して幸せになろう。

ふんで、わたすはわたすはここんとこ録画ばっかしやってて昨日なんぞは、NHK教育の漫勉を録画した。ここんとこ、三井住友ののねぇちゃんからの連絡が、さっぱりない。待てど暮らせど一度もない。どうやら、わたすは市況から見捨てられてしもうたようだ。で、すっかり十年前の録画豚に戻ってしもうた。録画した漫勉は、帰ってから見なくっちゃ納豆。日曜には、WOWOWで、ZOOの一気見がある。夜中に。いまのハードディスクはそんなこんなでいっぱいになった。ハードディスクでの録画だから見たら消去して別のを録画するのを繰り返したら一台でまかなえるんだけど、現実、何度でも繰り返し見たいのもあるから結局積もり積もってハードディスクは満杯になるのだ。

横浜駅前のヨドバシカメラに行ったら、3テラで15,000円ほどで、東芝のハードディスクがあった。わたすが見てる42インチのテレビは東芝のレグザだから動作確認済みというかちゃんと録画されるべな。キャッスルの7シーズンをスカパーのFOXでやるからこれは録画せねばねば納豆。何台もハードディスクを抱えるカウチポテト生活だわさ。そんなこんなで、あぁ~あ、ちかれたちかれた。さって寝よ。

 


●スギ券

テルテルさん、テルテルさん。この際、上記の記事は、すべてこれ、わが半期違いの脳死臓器掲示板より削除すますたので、ご安心ください。テルテルさん以外の、わたくすことスギ券ファンのみなさまにおかれましても、どんぞ、心置きなく、わが半期違いの脳死臓器掲示板にて、人間とは、これいかにの主題に基づく、従来から引き続く、重要にしてかつ形而上学的なる、ご議論を、ご遠慮することなく継続願います。わたすはわたすは老いました。今や観るも無残というべきか。わたすはわたすは、どうやらだいぶ老いぼれて耄碌が進んできたもようだす。

よって、新年迎えるにあたり、昨日の書き込みとは違った方針、チェンジをもう一度ローに入れ替えて、静かに、かつ力強い進みを目指します。(弁解が多く、良く気が変わる単純な奴なのです)。65歳からの新しい仕事に取り組む意欲が沸々と沸いてきています。今年もよろしくお願いします。あせ あせ

それにすてもだす。仮面かぶって嫌がらせして意見が違うからといって、わたすののHP荒らしして、たのしいのかいな。あ~ん あ~ん。荒らしている匿名者の記事を消すことはいとわない。わたすが管理人様であらせられる限り、わたすの専権事項だ。それにネットで戦うことはいとわない。人生60年余、それだけで生きてきたので正々堂々と立場を明かして正面から意見をいえよ。PCの陰にかくれたりするなよ。

ふんで、これまで何度も宣言してきたように、わたすはわたすは、もっNHKののテレビは見ないことにしたのであったのだった。だからといって何もかも見ていないとは申せまず。やっぱ、スタップ細胞についての番組は見逃すわけには、いかないのであったのだった。

見ました見ました見ましたよっつーの。NHKのの小保方様とスタップ細胞ののテレビ番組を。こったらくだらない放送をして世の大衆をたぶらかそうとしているのがNHKだ。ふんで、わたすはわたすは、もっ決してNHKのの受信料は払わない決心を、再三再四宣言するものであったのだった。悔しかったら集金に来いっつーの。わたすのことを誰だと思っている。スギ券スギ券と気安く呼ぶなっつーの。馬券売り場じゃあるまいし先生と呼べ、先生と。若い頃は、英語で論文を書いたこともある。ったく。言っておきますが、年はとっても、わたすはわたすは国家公認の小児科医であらせられてたてまつるのであったのだった。あせ あせ さって寝よ。

 

●テルテル
スギ券さん。あなたがふらふらしてては奇跡の詩人をめぐる大騒動はどうします。わたすは慶応大学にいってまいりましたよ。以下はそのときのレポートだす。

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2002年7月×日  

行ってきましたよ、三田にある慶應大学へ。こちらで森岡正博さんが授業を行なうという情報をゲットしたテルテルは、東京大学に続いて慶應大学に出没。東大、慶應といえば日本有数の歴史ある大学です。奇妙に偏差値の高い学校が続きます。

この授業で、森岡さんは4月に放送されたNHKスペシャル『奇跡の詩人』に対して、重大な問題提起をしていました。『奇跡の詩人』とは、放送から2ヶ月以上経った今でも現在進行中で物議を醸している番組です。歩くこともしゃべることもできない12歳の脳障害の少年、日木流奈(ひきるな)くんが、ドーマン法というリハビリプログラムを続けた結果、言葉を紡ぎ本を出版するまでになったというもの。そして番組放送直後に出版された流奈くん著『人が否定されないルール』はベストセラーになっています。

この番組がここまで物議を醸している理由はいろいろあると思うのですが、まず、流奈くんの言葉が母親の手を借りたFCによって紡がれているところにありますケロ。FCというのは、ファシリテイテッド・コミュニケーションの略で、介助者が身体的な介助をすることで、患者が文字盤等を触ってメッセージを綴るのを助ける方法のことです。問題となっているのは、流奈くんの言葉が本当に流奈くん自身が発しているものなのかということです。介助者である母親が、FCを使って発している言葉なのではないかという疑問が持ち上がってきているのですテル。

森岡さんはこの授業で、ビデオの上映はしませんでした。が、森岡さんが番組内容を具体的に説明していました。『奇跡の詩人』はインチキだと決めつけずに、なるべく中立をこころがけながらしゃべっていたのが印象的でしたけろん。以下、テルテルによるレポートにつき文責もまたテルテルにあるのだと思っています。

 

みなさん、どれくらいの人が『奇跡の詩人』を知っているかな?(このとき、ざわつく教室。学生のみなさんは一斉に森岡さんの方に注目)実際に『奇跡の詩人』の放送を見たことがある人どれくらいいますか? (このとき100人中5人くらいの学生さんが挙手。ボクも実は見たことがあったので、どさくさに紛れて挙手したケロン)

ぽつぽついますね。私は、知人の方からビデオを送って頂いて、この番組を見ました。放送後、NHKには賛否両論の意見が届いたそうです。「感動した」という声と「信じられない」という声は半々だったと言います。確かに、この番組を見て癒やされたという声もありましたし、インチキではないかという声もありました。

 NHKスペシャル『奇跡の詩人』放送直後、『人が否定されないルール』(講談社)という本が出版されました。そして、『奇跡の詩人』放送から2ヶ月経って、それに疑問を突きつける内容の『異議あり!奇跡の詩人』(同時代社)という本が出版されました。この2冊を読み比べて見て下さい。(このとき教室前方の巨大スクリーンに、2冊の本の表紙がドーンと映し出される。すかさず書名をメモメモする学生さん)

流奈くんのご両親は、歩けるようになってほしい、よくなってほしいという一心で、朝から晩まで分刻みのドーマン法リハビリプログラムをしている。それはとても夫婦ふたりだけではできないので、ボランティアを募ってやっている。このドーマン法というのは、米国のドーマン氏という人が開発した脳障害児と健常児のための脳の発達をうながすプログラムのことで、時間も、人手も、お金もかかるんです。しかし、サイエンスの裏付けがあるものではない。いわば民間療法なわけです。それを講談社は書いていない。

お母さんの左手は、膝に乗せた流奈くんの左の手の甲の部分を、持つというより、上から覆って握っています。手はすごい早さで文字盤の上を動きます。(このとき森岡さんは実際に自分の左手に右手を乗せて、その状況を再現)

普段の流奈くんのゆっくりした動作からはまるで想像がつきません。お母さんが右手に持った文字盤が、素早く動いていることもあります。このとき、流奈くんの手を持つお母さんの左手より、この文字盤を持つ右手の方が激しく動いています。そして、文字盤を流奈くんの左手に叩きつけるかんじです。

(このとき森岡さんは持っていたルーズリーフを文字盤に見立てて、忠実に再現。両手を使って熱心に再現するあまり、マイクが持てなくなった森岡さん。司会の先生が見かねて、壇上に駆け上がってマイクをもってあげるという状態に。)

 「お母さんが書いている」のではないかと非常に強く疑われるシーンです。あくまで間接証拠からですが。なお、介助者が文字盤等を使って患者の発語を助けるFCという方法に対しては、いくつかの国際的な学会から、人権侵害の危険性があるという声明が出されています。

検証本『異議あり!奇跡の詩人』はNHKの報道姿勢も批判しています。多面的な検証を行なっていなかったからです。報道の倫理の問題だから、これは当然考えてゆくべきことです。また、検証本では、日木家の家庭の問題には踏み込まないようにしようという意識が働いています。ドーマン法は、ご両親が流奈くんがよくなってほしいと思ってやってきたこと。お金をさき、時間をさき、この子を歩けるようにさせてあげたいと思ってやってきたこと。そんなご両親の気持ちがわかれば、大人の見識としては、外部からこの家庭のことを糾弾できない。

だけれども、このケースにおいては、ある種の児童虐待がないとは言い切れない。可能性は2つある。ひとつ目は、奇跡は本当に起きた。この子は本当に天才だった。ふたつ目は、流奈くん本人ではなく母親が言葉を指さしていた。もしこの後者の場合だったら、これは流奈くんの人権侵害なのではないか。

NHKと講談社によって、私たちは一家庭の問題を知ってしまった。この子の人権はどうなるのだろう。親による流奈くんへの大きな人権侵害が進行中である可能性はないか。日木流奈の著者名で、すでに数冊の本が出版されている。私はいま、この子のために、何らかのテストを受けてもらいたいという考えに傾いています。本当に流奈くんが書いているのか確かめるテストを。ただし、公表する必要はまったくないと思う。この家庭とその周りのみでやるべきことです。これは私個人の思いですが。ちょっと前までの先進国では、ドメスティックバイオレンスや家庭内暴力には、警察や法等の公権力は介入しなかった。公共の問題ではないからというのがその理由です。しかし、今は、それがひっくり返っていて、家庭の中であれ、暴力は暴力、犯罪は犯罪だという価値の転換が起きました。「家庭の中の出来事に我々は介入してはいけない」という社会に、我々は今いないのかもしれません。

しかし、お金をさき、時間をさき、この子を歩けるようにさせてあげたいと心から願う親たちに「お前がやっているのは暴力かもしれない。テストしろ」と外部から言えるのでしょうか?重い障がいを持った子どもに、奇跡が起きてほしいと思う親の心は、よくわかるからです。これは本当にデリケートな問題です。だが、いま私はやはりテストが必要ではないかという考えに傾いています。

 

以上 ああちかれたちかれたワンカップ。文字起こしで徹夜してしもうたわい。こうして衆愚どもがなんだかんだと騒ぐたびに、わたすことテルテルさんも、衆愚らが食え食えとすすめてくるので、ついつい浮かれておいしいキャベツを生のまま、むしゃむしゃと食ってしまうのであったのだった。さって寝よ。

 

●スギ券
テルテルさんテルテルさん。おひさしぶるだす。ふんで、ふんであぁ~んあぁ~ん。慶應大学における森岡正博教授の講演を文字起こししてくれてありがとう、とは言うものの、なにがどうしたのか、またどこが差別なのか分別なのかは一向にわかりません。それ以外のことがらについては、わたすはわたすは極左ヘイトの活動家の方から刑事訴追の恐れがあるので、いっさいがっさい証言を拒否します。ああ滅入った滅入った。あせ あせ さって寝よ。 あ~あぁ~ 若い頃は世界の小児医学会をまたにかけて華々しく活躍してきたものだったのだが、ここにきて急に年を取ってしまい、クズと化しカスと化してしもうたわい。わたすの人生もこれで終わりだ。

 

 

 <2005.12.10  記>

 

 

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