赤いハンカチ

てぇへんだ てぇへんだ この秋はスズメがいねぇトンボもいねぇ・・・何か変だよ

▼ヴォーカル大好き<東京だヨ おっ母さん>

2021年12月15日 | ■学校的なあまりに学校的な弁証法

 

以下、昔の記事だが・・・

高校に入った最初の音楽の授業で、音楽教師が島倉千代子のレコードを聞かせてくれた。確か「東京だよ お母さん」だった。教師は、定年も間じかの女性だった。その後、耳にしたところによれば藝大の声楽科を出られたらしい。さて、レコードが終わって彼女が言うに、ただいまみなさんが聴いたように島倉千代子は喉だけで歌っているのです。早晩、喉を痛めて歌手生命は終わるでしょうと言うのである。

悪い歌い方の見本として生徒に聴かせたわけだ。島倉千代子が好きだったわたしは音楽教師の話に反感と疑問を抱いた。40年以上も昔の話である。当時は島倉さんも二十代の半ばで全盛期だった。さて、昨日も島倉さんがTVに元気な姿を見せられて「恋しちゃったのよ、ララランラン」と歌っていた。さすがに往年の輝く高音は影をひそめてしまったが、同じ歌でも、また別の魅力が加わっていた。来年は70歳になるのだと微笑まれた。70には70の歌い方で恋を歌うことが可能なのである。あの音楽教師もとうの昔に鬼籍に入ったことだろう。

かの音楽教師は歌い方というよりは大衆歌謡を嫌っていただけではないのかと今になればそう思う。ここまで喉をしぼって歌っている島倉千代子の歌手生命は短いだろうとあくまでもオペラを頂点とする欧州クラシックのベルカント唱法を奉る彼女はわれわれに、そのように予言したのだが、それは見事に外れたようだ。


以上は 2007/09/24 記

 

以下、ウキペッペより

島倉千代子・・・1938年(昭和13年)東京品川区に生まれる。敗戦時は7歳だった。1955年17歳にして「この世の花」でレコード界にデビュー。「東京だヨ おっ母さん」は1957年19歳の時・・・2013年没(75歳)

 



 

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▼ブックオフ左ヨコ入ル書道教室

2017年12月08日 | ■学校的なあまりに学校的な弁証法

 

2017.12.08 横浜市

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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▼「反科学論」 柴谷篤弘

2016年08月16日 | ■学校的なあまりに学校的な弁証法

 

『反科学論』を著した柴谷篤弘氏は健在だろうか。1920年生まれだから90歳に近い。柴谷氏は生物学者だが、現代に生物学ほど変容を遂げた学問もないだろう。限りなく細分化されてきた一方、化学や物理学と隣接し重なってきた。私は門外漢だから、いまやなにが生物学なのかさっぱりわからない。

柴谷氏の一冊の著書を読んだ程度で生物学のなんたるかも分かったと自慢するつもりは毛頭ないのである。 その一冊には「反科学論」という奇妙な題名がつけられていた。出版されたのは70年代のことで、科学者にあるまじき自己否定にもつながる、そのタイトルが物議を呼んだ。

当時、柴谷氏は東大の教官だった。周知のように大学紛争のまっただなかである。柴谷氏は、彼ら学生の言い分と付き合っているうちに、科学に対して根源的な疑問を抱いた。柴谷氏に、そうした原理的な問いかけをもたらしたのは、全共闘の諸君だったと、柴谷氏みずから同書に記している。全共闘とは、左翼主流派すなわち共産党とは袂をわかつ急進派の集まりだった。

わたしは当時から下町で赤旗配りをやっていた若き党員だったから全共闘をはじめ各種セクトの言うことや彼らの主張には、否定的だったどころではない。連日、赤旗新聞では、彼らの横暴を糾弾していた。まさに「反社会的分子」であり犯罪者に同然の暴力的なチンピラとみなして侮蔑し敵視していた。

その彼らの言っていることの一つに、「大学解体」というものがあった。大学は特権階級の温床となっており、その存在からして人民に敵対している権力装置のひとつであると言っていた。 こうした急進的かつ原理的な理屈に、共産党は反感をいだいき、彼らの存在と主張を封殺するために「学問の砦」たる「大学」を守るために、彼らと似たような「部隊」をつくった。その現場指揮官の一人が数年前から話題を呼んでいる宮崎学氏である。

話を柴谷氏に戻そう。私が彼の「反科学論」に触れたのは、だいぶ後年になってからである。共産党もやめていた。今になって思うに、全共闘の「大学解体」という主張は、間違っていないと思う。だがこれを実行に移すことは社会をめちゃめちゃにすることでもある。 大学解体どころではなく、まずは社会が解体されなければならない。

方法論上の理屈としては正しくても代替案が、なければ人々のコンセンサスは得られまい。彼らは決して代替案は、出せなかった。ここに人々が生きている事実と観念に直結している重大な問題がある。社会的に生きるということは、いやおうなく政治を行っている。人付き合いは政治の始まりだろう。また社会には、多かれ少なかれ歴史というものがある。それは闇雲に否定できないものなのである。よって彼らの主張も、代替案がなければ、もとより政策的には一歩たりとも、その実現は不可能だったのである。

結局全共闘運動は内ゲバ闘争に埋没し体制内社会からは完全に孤立し、そして収束していった。だが、理論的には彼らの主張はある真理を示していた。彼らの言い分に、当時から柴谷氏は思想的に共感していたらしい。だが、それは同時に自らの生業ともいえる「科学」を自己否定しなければならない、つらい作業だった。柴谷氏は、科学の社会的な原理を疑ってみたのである。自然科学を哲学の遡上にのせたといっても過言ではない。それが「反科学論」である。科学書というよりは思想書である。柴谷氏は主張する。

学問は科学に税金をつぎ込むべきだという話は、学問や科学の進歩、発展が絶対的に善であるという特定のイデオロギーの下でしか成立しない幻想である。

また次のようにも。

科学・技術による人類福祉の増大というのは、あからさまな、まやかしである。それは科学・技術の系統的な創出の時期から、その発展の頂上をきわめるまで、つねに地球上の一部の人々による他の人々の支配によって成立し、またそのために奉仕するようになっている。そして実は民主主義といった、今日一応最高の価値として考えられている概念すらが、このような支配機構のゆえになんとか存在できるものというように見えてくるのである。

科学・技術と民主主義によってより多くの自由を享受する人々のある反面、相対的に以前より自由を失っている人々がたえず存在し、しかもこのような不平等を消失させたうえで、なおかつ科学・技術文明を維持していくことができるかどうかは、まだ人類にとっては未知の課題なのである。とすれば、科学というものは、はなはだ信用のおけない危険な存在ということになる。

1969年、機動隊と学生による「島原の乱」もどきの東大時計台の攻防戦の直後のことである。この攻防戦を、すぐそばで直視していなければならなかった柴谷氏にある啓示が訪れた。

わたしは粛然として机に向かい、それまでの私の学問に対する態度が何であったのかを考えた。それを紙に書き記した。私の信じた科学とはなんであったのか。そうして、とうとう科学は悪であると認めざるを得ないような気持ちになった。そこで、そのように紙に書いた。激情がわたしを貫き、涙があふれた。わたしが、もしいささかでも変わり得たとするば、そのときに変わったのである。

・・・・齢50近く、ようやくにして眼からおおいが剥がれ落ち、急に今まで分からなかったことがわかるようになった。 そのときの体験は、ある種の宗教的体験に近いのかもしれない。わたしは科学にこだわっていたのであった。なにも、その瞬間から、わたしは科学をやめたわけではない。依然として科学は好きだった。しかし、机の前でひとりで泣いていたそのときから、必要とあらば、科学をやめてもいいという覚悟はできたと思っている。

 


 

<2007.01.19 記>

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▼習うより慣れろ

2016年07月24日 | ■学校的なあまりに学校的な弁証法

 

昔、自分が書いた以下の記事を読み直し、はずかしながら自画自賛の憂き目にあった。読者諸賢にも、どうか、もう一度読んでみてほしいと願う自己愛の湧出を大目にみてほしい。

\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\

10年ほど前のこと。小学校の先生の話を聞く機会があった。その方は、九九の教え方についての実践例のようなものを得々と話されていた。わたしは、疑問にも思わなかった。たいしたものだと、そのときは、そう思った。われわれが昔習ったように九九なども「ににんがし」以下、まるで歌のように暗誦していれば、それでよいものだったが、その先生がおっしゃるに、それでは意味が理解したことにはならず、意味こそ大事で、2×2=4ということにしても、さまざまな教材をつかって、この式に含まれている意味を、論理的に教えるのが肝要であり、ここに今日の教育全般を読み解く鍵もふくまれているという理念的な話にもおよび、保護者としての立場から、その会合に列席していた私たちも心底から、それはその通りだと重々と納得したのである。

それからだいぶたって、私の心には疑念が芽生えてきた。そういうものだろうかと。わたしは算数はともかく、数学たるや、子どもの頃から、まったく毛嫌いしており、つり銭を数えるのも面倒な口なのである。かろうじて自分の年齢が数えられる程度なのである。だが、幸いに九九は、いまでもちゃんと覚えている。どういうわけだろうか。10歳の頃、教室で大声を出しながら九九を暗誦した光景を思いだす。

あの頃は、教師も九九について難しい話など、なにもしなかった。ともかく大声を出して、全員一致、算数の授業の前に「ににんがし」から始まって「はっぱろくじゅうし」にいたり、「くくはちじゅういち」まで、ながながとした歌を暗誦させられたものである。ところどころつっかかる箇所もないとは言えないが、ほぼ完全に覚えている。論理も理屈も関係ない。覚えていればいつでも引っ張り出して、援用できるのである。桁数の多い数字の計算は苦手だが、四則なら、できないことはない。これも、50年も前の算数のおかげだと思っているのだ。

実際が、こうだとするなら、冒頭の先生のありがたくも小難しい教育法というものは、どうなのだろうかと疑うのである。これは九九ばかりではないだろう。総じて理屈っぽくなってしまっているような気がするのだ。不毛なとこに情熱をかけている。退屈きわまりない。

いくら論理や理論が大事だとはいっても、それは学校教育とどういう関係があるのだろう。物事の奥義ともいえる。そうした重大な認識の奥深い問題を、学校で教育できるものなのか。論理や理屈は、そもそも、人の言語体験に含まれる、個別にして私的なものなのではないだろうか。思想的な認識までに直結している重大な問題とは、云えないだろうか。

こんな風に思うと、先の先生の実践と考え方も、逆のことを行っているようにも思えてくるのである。徒労にして不毛な感じもする。子どもたちが、それで喜んでいるというなら、関係のない私が文句を言う資格はないが、なにか考え違いがあるような気がしてならないのである。

さらに子どもに「考えさせえる教育」などという言辞を耳にしたことがある。これも同じことだ。子どもに十分に考えさせるというのだが、眉唾物なのである。そんなことが字義通りにできるのだろうか。考えるということは、非常に個人的な内心の問題である。目をつぶって黙想していれば、それが考えることであるとでも、思っているわけではないだろうが、かりに、子どもたちに向かって、5分間の時間を与えるから、さっそく考えろと言ったところで、なにがどうなるものでもないだろう。

考えろといわれて、やおら考え始めるようでは、考えていることにはならない。考えるということは、集団的な動作でまかなえるようなことは、なにもない。ならば、どうするかということだが、無理は禁物だ。もちろん子どもも考えるということは、必要だとは思う。

だが、考えるということは集団的な行為にはなりにくいということを、わきまえておくべきだろう。誰でもそうだが考えるということは、自問自答の一環なのだ。難問を前にして、さらにその難問を解こうと身構えて、始めて考え出すものではないのだろうか。教師が質問が、考えるに値するほど甚大な意味を持つものか信用できないのである。

教師であろうとなかろうと多くの場合、人から自分に対して発せられた問いは、必ずしも問いにはなっていない。考えるに値する問いは、むしろ自分の内面から、あるひ突然生まれてくる。子どもは、それについて悩みに悩み考えているのである。

このときばかりは、教師も親も不要となる。解答が見つからず、悩めば悩むほど、思考する力が深くなるに違いない。これは学校の授業とは別の問題だと思う。よって、学校における手法として「考えさせる」うんぬんかんぬんとは、私にはウソっぱちに見えてくるのだ。こうしたことは、こればかりではないだろう。

実質がともなわず、それに出来るわけもないのに言葉だけが先走っている。「詰め込み教育」とか「ゆとり教育」なんて言辞も流行ったが、これも何ひとつ確たる内実はなかったようだ。それほど詰め込むのが嫌で「ゆとり」が欲しいなら、最初から子どもには勉強などさせなければよい。

 

<2008.04.11 記>

当記事の下のほうに「教育を語ろう21掲示板」の管理人泥炭氏がいくつかのコメントを書き込まれている。コメント欄は、当記事のタイトルである「▼習うより慣れろ」の文字をクリックすると全文が閲覧できる。しかしながら、今のところ私には泥炭氏の主張の先が、さっぱり分からないままなのである。不徳のいたすところなり。

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▼うれし涙をかみしめて

2016年01月10日 | ■学校的なあまりに学校的な弁証法

 

 

 

第37回よみうり写真大賞

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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▼ヴォーカル大好き<仰げば尊し>

2014年03月21日 | ■学校的なあまりに学校的な弁証法

 卒業式シーズンである。この時期になるといつも、この歌を口ずさむ。年をとるごとに、その歌詞が心にしみてくる。でも最近は学校の卒業式でもめったに歌われることはないのだと聞き寂しくなった。
 原曲は米国の名も無きフォークソングであったという。単純明快なメロディに重厚な歌詞をつけた日本人は誰だったのか。それは未だにわからないのであるらしい。
 わが国に学校制度が出来立ての明治17年。子どもたちに、少しは、ましな音楽をの、掛け声のもと急造された歌曲のの一つだった。これが文部省唱歌として制定された後、全国津々浦々に広まり、人々の心を打って忘れがたい日本の歌となったのだった。

  

 

仰げば尊し <文部省唱歌>


あおげば尊し わが師の恩

教えの庭にも はや幾年

思えばいと疾(と)し この年月

今こそ別れめ いざさらば

 

互いにむつみし 日ごろの恩

別るる後にも やよ忘るな

身をたて名をあげ やよ励めよ

今こそ別れめ いざさらば

 

あさ夕 馴(なれ)にし まなびの窓

螢のともし火 積む白雪

忘るる間ぞなき ゆく年月

今こそ別れめ いざさらば

 

 

 

 

 

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▼がんばれ不登校

2012年12月28日 | ■学校的なあまりに学校的な弁証法

わたしもそうだったし、わたしの息子二人も、いわゆる不登校だった。だからといって、不登校とは何かとか、そもそも学校に行かないことは、善いことなのか、悪いことなのか等々などと根源的に問いかえしてみても、何一つそれらしく納得いくような言葉は出てこない。しいて言うなら、やはりこれまた人生の一部であったとか、せいぜいあまたある幼少期のエピソードの一つに過ぎなかったような気がするだけだ。

ようするに学校に行こうと行くまいと、わが身に降りかかってくる苦労は等分なのである。貧乏人と金持ちの人間的差異に、たいした違いはないように。男と女の幸福度を比べてみても、たいした違いはないようにである。いずれにせよ、わたしが彼らに言いたいことは、次の一言だ。

がんばれ不登校。ふれっふれっ不登校。

2012.12.28 朝日新聞夕刊

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▼「科学の無力さ」について

2011年07月28日 | ■学校的なあまりに学校的な弁証法

今朝の新聞で以下のような記事を読み科学嫌いで通してきた、
わたしなりに溜飲を下げた気がしたので、ここにその記事のコピ
ーを再掲しておく。

2011.07.28 産経新聞

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▼芸は身を助ける<21>

2010年05月05日 | ■学校的なあまりに学校的な弁証法
<2010.05.01 毎日新聞>
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▼「数の論理」の大笑い<6>

2010年04月09日 | ■学校的なあまりに学校的な弁証法
某新聞で次のような記事を見た。

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都立高定時制、2次の不合格者2.7倍 不況で出願増か ・・・<2010.04.08朝日新聞>

東京都立の定時制高校で29日、2次募集の合格発表があり、出願者が増えた影響で昨年の2.7倍に当たる313人の不合格者が出た。定時制の2次募集は全日制に不合格になって受験するケースが少なくないが、不況が深刻化するなか、従来は私立に行っていた層が授業料の高さから断念し、定時制に流れたケースも多いとみられる。現場の教員からは「定員を増やすべきだ」という声が出ている。都教育委員会によると、今回の2次募集は、2月の1次募集で定員に満たなかった定時制40校が実施した。定員1230人に対して1483人が受験し、平均倍率は1.21倍。1倍を超えたのは過去15年間で今年だけだという。島しょ部などで出願者が定員にはるかに満たない学校がある一方、競争率が高い学校もある。今後は定員に満たなかった学校だけが追加募集をする。公立の定時制高校をめぐっては、出願者増の影響で全国的に不合格者が増えており、都教委は26日、2次募集で合格者数の増加を検討するよう通知。今回の合格発表では、20校が募集定員よりも多い合格者を出した。都立の定時制高校の学費は年間約3万3千円で、全日制の約12万円に比べて安い。 東京都の定時制の定員は削減が続いており、今年度の全学年の合計は10年前より約3100人少ない1万9千人。都高校教職員組合は「困難を抱えながら高校に通おうとする若者を見捨てないために、閉校した定時制高校を復活させ、予算を増やして募集枠を広げなければいけない」と話す。(岡雄一郎、上野創)
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定時制高校については、10年近く前のことだが、わたしの次男が都立の某定時制高校を卒業したということもあって、ずっと関心がある。定時制高校の場合は、都ばかりではなく全国的に、当時からそうだったのだが、生徒数が衰退する一方で、次から次へと廃校の憂き目をみていた。次男の卒業した学校も、数年前に廃校にされてしまった。それがここにきて、格段に学費の安い定時制高校が脚光を浴び、にわかに希望者が殺到しているというのだから世の中なにが起こるかわからない。ちなみに今でもそうだとは思うのだが、定時制高校では給食が出る。この給食は、自治体が援助しているらしく無料なのである。それに気を良くしてかどうかは知らないけれど、どこの学校でも、給食のおばさんたちが生徒たちの大人気。給食のおばさんに会うのが楽しみで、学校に通っていると喝破する生徒もおおぜいいる。
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▼町田骨董市

2009年03月01日 | ■学校的なあまりに学校的な弁証法
今日は電車に乗って町田に行った。町田駅前あたりを「彷徨」するのは、これで5度目である。5、6年前になるか、ネット掲示板に集う投稿者のオフ会兼忘年会に参加したのが町田訪問の最初であった。以後、誰に会うともなく、また確たる目的もなく、早い話が暇つぶしのためだけに、ふと思い立っては町田の駅前周囲を歩いてみたりした。来るたびに写真もたくさん撮った。撮ったは撮ったのだが、一年ほど前にハードディスクが壊れたときに、以前のものは、すべて消去されてしまったのである。今日もまた、さしたる目的もなかった。行き先は家を出てから決めるというのが私の散歩の流儀となって久しい。電車が町田駅に近づく直前に車窓から見たのだが、線路脇の神社に人ごみがあった。よく見ると、フリーマーケットが開催されていたのである。そのとき、始めて本日の私の町田訪問の意味目的が見つかったようなものだった。フリーマーケットと見えたのは、わたしの先入見で、実際には、この神社で月一度開催されている「骨董市」とのことだった。ある露店で壊れかけた古いソロバンを見つけた。それを、この春某大学院の数学科に進学することが決まった息子へのプレンゼントとして300円で買って帰った。

わが子は二十に成りぬらん、博打してこそ歩くなれ、国々の博党に、さすが子なれば憎かなし、負(まか)いたまふな、王子の住吉西の宮・・・「梁塵秘抄」
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▼個人情報公開

2008年12月04日 | ■学校的なあまりに学校的な弁証法
生きている限り、傷つくものさ。誰しも政治的関係から、逃れられない。傷をつけたり傷をつけられたり、それが世間というものさ。面倒をかけたり面倒をかけられたり、それが嫌なら、部屋から出なければよい。そのうち、衰弱して息絶える。

それが、君の、何も言わなければよかった、という感傷だ。それは、最初から生きていなければよかったに同義だ。わたしが生きているのは、わたしのせいではない。よくは、知らないが、多くは、自然の力とでも言うべきものだろう。わたしが感じるのは、わたしではないのかも知れない。わたしが、これぞ、自分だと言えるのは、こうして文章を書いているときのみだ。わたしが書いた文章は、たしかに、わたしだと確信している。君のように言葉に、傷つくことばかり心配している軟弱な青少年のくるくるパーには、文章というものは難儀なものよ。自分の存在が「社会的」であると自負する限り、傷つかずにはおられない。

さて、とある職場に勤め始めてちょうど一年がたった。先日、健康診断を挙行するというので、本社の会議室に出かけていった。身長、体重、視力、胸部レントゲン、血液、それに尿などを提出した。それらに含有されている異分子の数値から有資格医師による判断可能な懸案事項、および、その他詳しい健康状態は、おってお知らせするというので、楽しみに待っていた。何度も言うが、わたしは還暦を迎える。当年とって60歳である。なにか怪しい不健康が顕にされるのではないかと、戦々恐々たる思いで、その通知封書を、待っていたのである。健康診断から、一月がたった先日、封筒に入ったまぎれない「私」の詳しい健康状態の個人情報が記入された封書が上司から手渡されたところである。総評の欄に「異常なし」とあって安心したのだが。項目別の数値がいったいぜんたい、私のなにを意味するのかは、知るよしもない。そこで、この際、ネットに暗躍する数値好きのアンポンタンたる舎弟連中に、これれらの数値、すなわち私の個人情報を公開し、ああでもない、こうでもないというニセ医者もどきの、くるくるぱーの言動を、誘ってみたいと思った次第である。われこそはニセ医者もどきだと、自負する現代バカの真骨頂たる舎弟連中は下の数値一覧を読んで、なんなりと所見を述べよ。


年齢 60歳
性別 男
身長 167cm
体重 70.4
BMI 25.2
体重率 14.7
腹囲 88
視力条件 裸眼
視力右 1.5
視力左 1.5
血圧 126/78
尿比重 1.016
尿pH 6.0
尿糖 (-)
尿タンパク(-)
尿潜血 (-)
白血球数 8.6
赤血球数 447
ヘモグロビン 14.7
ヘマトクリット 42
MCV 94
MC 32.9
MCHC 35
血小板数 36.8
アルビミン 4.6
尿素窒素 13.4
クレアニチン 0.9
尿酸 5.7
アミラーゼ 66
総コレステロール 225
中性脂肪 121
HDLC 49
LDLC 148
HbA1 4.9

胸部レントゲン 異常なし
尿ビリルビン(-)
尿ケトン体(-)
尿ウロビリノーゲン(-)
5.0抗TP抗体(梅毒)1.02
血糖値(食後二時間)90

以上である。
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▼同級生MとMの父

2008年09月08日 | ■学校的なあまりに学校的な弁証法
古い一枚の写真がある。中学一年の遠足だった。バスに乗って筑波山に行ったと覚えている。

写真は、小さな兵隊のようにクラスのみなが真新しい学生服(当時は遠足の時に新調した)にリュックを背負い水筒のヒモをタスキがけにしている。行列の中ほどで、私が同じクラスのMと手をつないでいた。わたしはカメラを前に緊張してしまったのか、どうも仏頂面で写っていた。逆にMは、いつものようにこぼれんばかりの笑顔だった。

Mと私は仲良しだったのだろうか。それほどでもなかったように思うのだ。Mはクラスでも際だって小柄だった。彼の次にチビだったのが私だ。だから教室での席順も行列するときもだいたい隣にMがいた。さて、この写真でなぜMが「こぼれんばかりの笑顔」で写っているのか。写真を撮ったのが彼の父親だった。Mは町の写真屋さんの息子だった。

私の手元にある写真は、プライベートに息子を撮ったもので、たまたまMと手を繋いでいた私にも一枚くれたというわけだった。Mの父親は学校の専属だった。式のある時にはかならず学校に来たし遠足や修学旅行にも機材を抱えて同伴してきた。ちょび髭なんか付けて、大柄でカッコよかった。いつもちょこまかしているMとの落差が大きすぎて、親子とはとても思えなかった。集合写真を撮った後で三脚を折りたたむ時の、パシッという音が今でも耳について離れない。いずれにしてもMの自慢が父親だった。

卒業を間近にしたある日、昼休みでもあっただろう。進路の事を級友どうしで雑談していた。当時すでに7割が高校進学するような状態だった。私が記憶している限りでも進学しない子はクラスに2,3しか数えられない。私は迷っていた。進学するともしないとも自分ではっきりできない気持ちだった。親やら教師が行けというから、それに級友のほとんどがそうするようなので、そうする以外にないという状態だった。小さい頃から、就職していくことは「丁稚奉公」に行くというイメージが植え付けられていて働に出ることは恐かった。

この時の雑談は、卒業も間近に迫ってきているのだし、この際それぞれの進路をはっきり述べ合うというような雰囲気だった。昼休みの教室で4,5人が輪になってなんとなく、そんな話に移ってきてしまったのだ。話はそこにいた全員が地元の高校の入試を受けるという事だった。「おめえもか、おれもだ」という具合に承認しあい、せめてわけの分からない不安を和らげていたのだろう。私も適当に相づちを打っていた。

今から思えば、むしろこの時の雑談によって「みんな○○高校に行くなら、おれもそうする以外にない」と心を決めたように覚えている。その時、教室にMが入ってきて輪に加わった。誰かがMに聞いた「おまえは、どうするんだ」。Mは答えた。「おれは、とうちゃんが写真を教えてくれるって言うから、高校には行かねんだ」。Mはいつもの「こぼれんばかりの笑顔」でそう答えた。私は不思議だった。どうしてそれほど自信たっぷりに進学しないと断言できたのか。

あの大きくて立派な父ちゃんが、何故息子を高校 へ入れてやらないのだろう。これがずっと分からなかった。今になって分かる。Mは幸せだったのだ。私は地元の高校を終えて都会に出てきた。十年ほどたって中学校のクラス会があった。Mは来ていなかったが消息は聞けた。数年前に父親が亡くなり、その後Mが写真館を継いでいるとのことだった。

<記:1999/11/21> 
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▼イチローが7年連続200安打達成

2007年09月05日 | ■学校的なあまりに学校的な弁証法
>サッカーは下層階級のスポーツ

以前からの君の自説のようだね。他愛もない話だ。人間の祖先はサルである・・・という科学風な作り話に同じく、実にくだらない話だ。実もフタもない。確かにどのようなスポーツでも発祥の元をたどれば、そうした事情は判別可能だが、そこに何の意味があるのかね。どのようなスポーツでも民族の色、階級の色、生活の色は、意味をたどれば、残されているというのは事実だ。最初の最初から世界市民的に普遍的なスポーツなんて、あるわけがない。相撲、柔道にして、しかり。乗馬、鉄砲打ちにして、しかり。ヨットにしてしかり。競泳などを見れば、まだまだ人種的な歴史的偏見から免れているとは思えない。相撲は世界のスポーツだといえるかい。だが、私は立派なスポーツだと思っているぞ。

最近は、TVの放送が拙者の生活パターンにマッチしているからに過ぎないが日本のプロ野球はすっかりごぶさたで、米国の野球風景ばかり応援している。大リーグの場合も、試合によって観客の多い少ないは日本の場合に同じだが、改めてスタンド風景を観るに今や、観衆に上層も下層もないようだ。日本とはいささか違うのは、芸能界、政治経済界の名だたる大物名士たちが一般観客に混じって、しげしげと、スタジアムに足を運んでゲームを楽しんでいる。話の途中だが、次なる喜ばしいニュースが入ってきた。早いもので7年がたった。おめでとうイチロー。

イチローが7年連続200本安打を達成=米大リーグ(時事通信) - goo ニュース

さて話は冒頭に戻る。それに逆説的で申し訳ないが、君に対する次のような発問がわいてきた。映画の「ベンハー」は君も観たことがあるだろう。たしか「ベンハー」だったと思うが、うろ覚えなれば許されよ。「ベンハー」はハリウッド全盛時代に作られたスペクタル映画の傑作だ。物語は、イエスが活躍した、古代ローマ時代のことなれば、コロシアムで奴隷が猛獣と戦わされている光景があった。これを高貴の方々が、手のひらに汗をかきかき見物している。まぎれもなくスポーツだ。

そこでサッカー好きの君に改めて聞きたい。古代ローマ時代の、コロシアムにおける猛獣と闘士の戦いは、下層階級のスポーツか、または上流階級のスポーツか。はてさてどちらで、ござ候や。

<1105字>
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▼才能は個人に宿る マルクスは才能を黙殺した または社会化した

2007年05月03日 | ■学校的なあまりに学校的な弁証法
<07.04.10 日本橋三越前>

才能という問題を考えてみた。その際、才能とはなんぞやという前提は抜きだ。その前提は人間とはなんぞや、または言葉とはなんぞや、という問いに同じくわたしの手に余る。

一昨日、ひさしぶりの旧友に出っくわし、しばしビールを飲みながら話に及んだのだが、そのとき彼が「マルクスは天才だった」と言った文句が忘れられない。もちろん若いころよりマルクスファンを自認してはばからなかったわたしも同意した。間違いなく「資本論」をなして科学的社会主義の創始者であったカール・マルクスは天才だった。そしてわたしは付け加えた。だが、天才マルクスが苦労に苦労して書き上げた「資本論」も真理というよりは、よほど一つの仮説に過ぎなかったと。

ここから問題をはじめても良い。だが、もっと一般的に、また今日的に、それはつらい話だが、たとえば私に属する才能のありようという、語り方もあるに違いない。

わたしが心から誰でもよいから教えてもらいたいのは、現代社会を構成している感のある労働と才能の関係だ。または職業と才能ということでもよい。人生と才能と言い換えてもよい。天才マルクスも、人間の個人に宿る「才能」という問題だけはほとんど語っていないのである。ここにマルクス主義の大きな陥穽が潜んでいるような気がしている。黙殺したまま、社会的労働とやらに、還元し語りつくした気になっている。それは、あまりにも、個人にとって、つらい話ではないか。資本主義下における労働はクズ同然の行為であり、同じ行為でも社会主義下であれば、労働こそ最大最高の善行として美化される。

そういうわけに行くだろうか。大昔でも役所はあったし、企業らしきものもあっただろう。集団労働というものはあったはずだ。だが、マルクスをはじめ現代人の言うような「労働」は皆無だったと、わたしは、そう思っている。

マルクスは疎外という概念をつかっていたが、疎外どころの話ではない。労働は人間から才能を奪ってしまう、とわたしはそう思っている。武士も農民も、個人の才覚を持って世に出、人生を透徹するのが道だった。もちろん苦労は大変なものだった。現代は苦労することはない。どこかの集団に就職してしまえさえすれば角のたつ才能など開花させる必要がない。それがいやならアルバイトにフリーター、あなたのことを派遣させていただきます、という調子である。ま、こうしたことも、才能うんぬんの話ではない。まずは食うための仕儀一般である。食うことと才能は、ぜんぜん別のものになってきた。それでよいのかという話をしているのだ。

不思議なことである。現代ではスポーツ選手ぐらいしか、ただしく当人の才能を問われることはない。これいかに。その代わりといってはなんだが、知りもしない人間が、特定者にあてはめるべき評価の方法と基準についてばかり口やかましい。無責任きわまりなしだ。なんということだろう。

2007-04-11 19:30:43 記

<1258字>
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