以下は、二十年ほど前の記事である。それも、話の内容は七十年まえにさかのぼる次第にて、ご容赦ねがう・・・
昨日見た本(「聴くことの力」鷲田清一著 TBSブリタニカ)で次のような話を読んだ。とある父親から聞いた話として鷲田氏が同書のあとがきに記していたものである。父親には小学生高学年の息子がいた。息子が、ある日の学校の授業で経験したことを語っているのである。授業で教師がある図を示し、どちらの卵から食べるのが正しいでしょうと生徒に質問したのだという。図は、殻が割られた生卵がそれぞれの小皿に載せられている。事前に生徒は、教師から卵は黄身が盛り上がっているほうが新鮮で、古いものは黄身の張力が失われていると教わっていた。気をつけてほしいのは、どちらの卵が古いか新しいかという質問ではなかったのである。どちらから先に食べるのが正しいかというものだった。新旧の差は歴然としていたのである。その息子さんは、ためらわず古くなったほうの卵を指したのである。ところが、その子の答えは間違っていると教師は言うのであった。息子さんは軽いショックを受けて帰宅し、そのむねを父親の報告したのであった。父親は言う、我が家では卵ばかりでなく、食物は、古いほうから食べるものだと教えてきた。その通りに息子は学校でも答えたのであり、教師の質問に含まれた生活感覚のない無神経さが子どもに大きな誤解を与えてしまうことを訴えているのである。
そういえば、私にも似たような話がある。小学四年生のときだった。教科書に「いわしの缶詰」の図があったのだろうと思う。教師は生徒全員にいわしの缶詰を食べた人は手を挙げろと、言ってきた。驚いたことに、私を除く全員が手を挙げたのである。わたしは、どんなに思い返しても「いわしの缶詰」らしきものを食べたことがなかった。周知のように「いわしの缶詰」だけは、どうしてそのようになっているのかは知らないが、決まって楕円の平べったい独特の形をしている。母親が買ってきたこともない。食べたことはなかった。で、手を挙げなかったのである。私を除く全員が手を挙げたことが、まず不思議だった。教師はニヤニヤしながら、改めて嘲笑するように私に聞いてきた。おまえの家では「いわしの缶詰」を食べたことがないのかと。そこで、わたしは答えた。せめても言い逃れだった。「さんまの缶詰」なら食べたことがあります、と。 さんまの缶詰なら、以前食ったことがあった。はっきり覚えている。それは間違いなかったが、さんまの缶詰と言ったとたんに、さらに教師と生徒たちに、笑われたのである。5年生になったが担任は代わらなかった。よく考えてみれば、この教師からは何度かいじめられた。貧しさをターゲットにされたようなことが何度かあった。缶詰の話ばかりでないのである。私だけが授業中にもかかわらず、ささいなことを疑われ、この教師に問い詰められたようなことが何度かあった。
私は今でも、この時の担任教師ニシノという男を憎く思っている。今でも不思議なのは、生徒たちは、本当に全員がいわしの缶詰を食べたことがあったのだろうか。それとも、教室の中で浮き上がるのが嫌で適当に手を挙げたのだろうか。そういう者も何人かいたのだろうか。確かに私の家は極貧状態で、缶詰なんぞ滅多に食ったこともないが、生徒全員が、いわしの缶詰を食べているとも、信じられなかったのである。缶詰などは、4、5キロ離れた町にでも行かない限り、どこにも売っていなかった。いっそ私も深く考えることもなく、みんなに同調して手を挙げてしまえばよかったと悔やまれてならなかった。それにしても生徒たち全員が手を挙げたという実際が、いまだに納得できかねるところなのである。だがもう一度思い返してみて担任のニシノの気持になってみれば、そのときの質問は生徒たちが手を挙げようと、挙げまいと、さほど気にしていなかったのだと思う。用意はなかった。教師が「知っているか」と問えば、それについて知っている生徒は「はい はい」と声を立てて手を挙げる、というのが授業風景である。答えさせるために、特定生徒を指差し、答えてみろということは、あるときもあるが、ないときもあるのである。生徒の反応をみているのだろう。 そのときも全員一致の中、私だけが手を挙げなかったということに、ニシノとしては注目せざるを得なかったのではないだろうか。
で、私に声をかけざるを得なかったというようにも解釈できる。手を挙げない生徒がたった一人だけいたという、よく分からない苛立ちがあった。非常事態が起こった。ニシノにしてみれば、せっかく調子よくいっていた授業が、一人の生徒の挙手拒否によって、邪魔されたという感触を持ったのかもしれない。他愛もない缶詰の質問など適当に手を挙げて、やり過ごしてくれれば、ニシノとしては、都合がよかったのではなかったか。ニシノの意図をつかめず、私はぼんやりしていたのかもしれない。質問を深刻に考えてしまったのだ。私は家が貧しいことを常々学校では、ひがんでいたようなところがあるから。この種の教師の質問には、異常に敏感に処せざるを得なかった。だが、子どもとは、そういうものだろう。ニシノが私の、家庭事情を知らないということはなかったはずだ。ニシノは、分かっていて、私に嫌がらせをしてきたのである。時には私のぼろい服装を授業中に冷やかしたり、からかったりした。ニシノは学校が所在する、すぐとなり村の出で自宅から通勤していた。私の育ったところは北関東で、あそこらへんは「え」と「い」の発音が区別できない。江戸っ子が「し」と「ひ」を混同するようにである。国語の時間だった。彼は堂々と黒板に「蝿」を「はい」と書きしるして、気づくこともなかった。わたしは、よくある間違いであることを知っていたが、もちろん指摘したりすれば何を言われるか分からないと思い黙っていた。
<2006.08.31 記>