昨日はネットに流されているフランコ・コレルリの動画を探し出してはモニターに映し出し、久しぶりの再会に狂喜しつつ彼の姿とその歌声に聞きほれていた。だが、わたしの「いい男」探しのひと時は、フランコ・コレルリにとどまらなかった。コレルリ以上に、いい男を発見して、むしろ夢中になったのは、こちらの方だった。1962年生まれの正真正銘のロシアの男で、いまや押しも押されもしない第一級のオペラ歌手で、チャイコフスキーの「オネーギン」が、はまり役なのだそうだ。数年前のNYタイムズにはドミトリー・ホロストフスキーは、まさに「エウゲニ・オネーギン」を歌うために生まれきたと絶賛する批評が載った。いまやロシアの国民的英雄であり、メトロポリタンやスカラ座をはじめ世界有数のオペラハウスから引く手あまたの状態だと聞く。若くして頂点に駆け上ってきたバス・バリトンの逸材だった。寡聞にして昨日までのわたしが知らなかっただけなのだ。出会いは突然やってくる。朝を迎えて、眠い目をこすりながら、さっそく都心に出向き、彼のCDを何枚か入手してきたところである。ホロストフスキーは現在、46歳になる。いよいよ油の載り切った時期に入ってきた。オペラ歌手は誰でも40歳代も後半からが勝負である。一方、フランコ・コレルリは数年前に長寿をまっとうしナポリ近くの生地で没した。コレルリがもっとも活躍したのは、1950年代から60年代である。マリアカラスと共演した「カルメン」の録音は出色だった。これは、たしかカラヤン指揮だった。わたしは出来の悪い田舎の高校生に過ぎなかった。当時はネットも動画も、CDさえも、まだない時代でレコードのジャケット写真から、美男の彼を、その声とともに、ひそかに愛していたのである。彼の歌うトスカのアリアは、月並みな言い方だがレコードの溝が擦り切れるほどまで繰り返し聞きほれた。まだ音楽のことも、世間のことも、ようするに右も左もわからないだらけの、わたしの脳天の中枢を直撃し挑発してきた。一声聞けば、感極まってイタリア語の歌詞は知らなくても自然に涙があふれてきたのである。さて、オペラ界では大昔から定説となっていることがある。テノールはもちろんイタリア男が最適で、バリトンは欧州の北東方面から輩出されるのである。なかでも最も低い音域を受け持つバスにいたっては、有名なシャリアピン以来、ロシア産になる髭面の大男と相場がきまっていた。だが、ロシアの低音男というものは、どういうわけか、その声があまりに暗すぎるのである。ロシア民謡の「トロイカ」とか「仕事の歌」などを、歌わせるにあたっては、彼らをおいて他にはいないのだが、その声は、どこまでも低く、鈍く、まるで酔いどれの、うめき声とも見まがうほどだ。影が濃すぎて聞いているこちらのほうが地獄に引きずりこまれてしまいそうだ。その点、ホロストフスキーにあっては、影の濃さは適度に抑制されている。元来が美声の持ち主なのだ。みずみずしい輝きがある。それに、なんといっても、いい男である。ロシアも捨てたものじゃない。天は二分を与えずという諺があるけれど、まれに二分を与えられて、わたしの前に突然と出現してくる男がいる。数は少ないが、ホロストフスキーは、たしかにそうした男の一人のようだ。もちろん、これは私の基準で左右される問題であり批評しているつもりは毛頭ない。ファン心理に過ぎないと言われれば二言はない。わたしはそれでよいと思っている。40年前の当時、イタリヤのテノール歌手フランコ・コレルリ以上に、いい男は探しても探してもいなかった。
仕事が引けて、帰宅して一眠りする。目覚めると昼過ぎだった。なにか面白い本でも見つけてこようと駅前の商店街に向かった。いつもの書店に入った。例によって悪書を買わされては恥を見るとばかりに、目を皿にして書棚を物色した結果、今日は、「大正時代の身の上相談」(ちくま文庫)という文庫本を一冊だけ買ってきた。書店を出ると、路上が濡れていた。にわか雨が通りすぎっていったようだった。視線を西の空に向けると虹が立っていた。
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