赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼「ガリーナ自伝」 ガリーナ・ヴィシネフスカヤ

2007年04月29日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

チェロの巨匠に市民らが別れ ロストロポービッチ氏を葬送(共同通信) - goo ニュース

ロスト氏のチェロで、連日のようにバッハの無伴奏チェロ組曲を聞くのが慰めだった時期がある。同時期、ロスト氏の夫人であるガリーナさんの上の本を読んでひどく感銘を受けた。私に社会主義イデオロギーから離れる契機を与えてくれた貴重な一冊であった。 1974年のこと。夫妻は政治的に迫害されていた作家のソルジェニーツィン氏を権力に抵抗して自宅にかくまった。このことを理由に確かイギリスだったと思うが海外への演奏旅行中に市民権を剥奪され、以後10年来、帰りたくてもロシアに帰れなかった。 ガリーナさんは70年代にはロシア随一のソプラノ歌手で、わたしはロスト氏のチェロを知る以前から、録音で彼女のアリア集をよく聞いていた。彼女の声は独特なものでトスカを歌っているときも、ロシアの大地の匂いというようなものが、伝わってくるのである。

ガリーナ自伝―ロシア物語 みすず書房

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▼「日本文学の光と影」 バルバラ吉田

2007年04月26日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
   日本文学の光と影―荷風・花袋・谷崎・川端

藤原書店

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昔、「新潮」の小林秀雄追悼号で読んだバルバラ吉田さんの短い感想文が印象に残っている。発行されたのは、昭和58年のこと。小林秀雄が没した年でもある。 バルバラさんは、ドイツに生まれた方である。戦後日本に留学してきた。吉田秀和としりあい、1964年に結婚し、以来小林秀雄宅の近くに住んでいる。吉田氏は、音楽評論家である。鎌倉の雪ノ下で小林宅とは道を挟んではす向かいだった。夫妻して、行ったり来たりの交流があった。

「セ・ラ・ヴィ」と題された小林追悼文では、そうした中で思い出される小林秀雄像のいくつかを活写している。あるときの小林は、刀の鍔(つば)をポケットから出して、もてあそんでいた。小林が骨董に凝っていた時期のことだろう。おそらく自慢げに鍔の値を明かしてみたのだろう。値段の高さにバルバラさんは驚いたとある。また買い物から帰ってくると、道の向こうから小林もまた、帰宅するところだったらしい。いよっと手を上げて、「今日は締め切りだ」といって家に入っていった。そんな気さくな付き合いが続いていたことがしのばれる。

そのバルバラさんが、5年ほど前になくなっていたことを、昨日になって知った。彼女が、何か他に書いたものがあるなら、読んでみたいと図書館を検索してみたら、上の本が出てきたのである。さっそく予約したところである。

夫君の吉田秀和氏は、小林の「モォツアルト」に心酔して音楽評論という道に進んだことはよく知られている。若いころは、演奏も作曲もしない、吉田氏のような、そういう音楽家の存在というものが、とても不思議だった。 だが、考えてみれば、この単純にして深刻な問題こそ、ほかならぬ小林秀雄自身が生涯悩み続けた問題でもあったように思うのである。

http://www.fujiwara-shoten.co.jp/book/book645.htm

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▼日記ブログランキング、年寄りの部で第一位

2007年04月22日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法

当サイトは、「日記ブログランキング」という番付サイトに登録してある。各年代別に分かれていて、わたしは60才以上のページで張り合っているのだが、さきほど覗いてみたら、なんと閲覧ランキング第一位を獲得しているではないか。いつのまにか番付筆頭の横綱になっていた。

これまで「日記ランキング」を見てきた感想では、順位の変動が激しく、各位のブログが、しのぎを削って競争しているのである。明日になれば降格するのは、間違いなのだが、つかの間のことであれ、第一位というのは、他に、これといってなんの楽しみもない年寄りには、滅多にない朗報にござ候。これも読者のおかげでござる。

今後とも、当ページの袖においてあるブックマークの欄にある「日記@ブログランキング」を、暇をもてあまし気味の物好きな諸賢がピコピコと押してくれるたびに上位にランクされること間違いなし。

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▼区議選が始まった

2007年04月20日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法

4年前の区議選は、投票が終わってから、さらにふさわしい候補者がいたことを新聞で知った。さきほど候補者のポスター掲示板を見てきたら今回もその方は出馬しているようで安心したところである。

だが、私の一票をその人に投ずるかどうかの決断はまだ下せないのである。 投票の寸前に決めればよいと思っている。こんな調子では、なにか思想的にまずいのけ?神奈川県の教条左翼さん。

 http://tcup7019.at.infoseek.co.jp/sakurazaka10/bbs

都知事選の敗北がそうとうに痛かったらしい。泣いてら↑

ま、いつものことだが、君たちはご当地神奈川の知事なんぞ、誰がなろうと関係ないのか。この間、自分の選挙区の話なんぞ、一言たりともない。

地元の選挙など痛痒にも感じずに、ひたすら東京都知事の去就だけが気になってならなかったらしい。ようするに梅坂氏以下、彼らの言葉は終始、偽善なのである。政治とは実践行為の闘いだろう。比して彼らは、口先だけの信仰告白であり、仲間内だけで、羽根を見せ合って褒めあっている自己満足のためのパフォーマンスにすぎない。年がら年中、この調子だ。

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▼親こそ最良の教師たれ

2007年04月17日 | ■風評加害の露店犯

だらしないジャージー姿の教員が跳梁跋扈する地元の学校へ誰が我が子や孫を行かせる物か!
 
言うは易し、行なうは難しってわけでもあるまい。だが、考えてみれば、意外なことに、わが子の学校選択という面だけのことなら方法はいろいろとあるものだ。それを知らないで声高に全国一律の基準を求めて、わめいている衆愚があまりに多すぎる。運動で教育は解決せん。教育問題は、わが子の問題だ。全国一律の制度が、わが子の教育となんの関係がある。戦後民主主義だかなんだかは、知らないが、問題のすり替えがなされた。日教組運動や市民運動が悪かったとは言わないが、公私の見境がつかなかったとは、言えるだろう。四半世紀前は、今になれば、いかに見苦しい要求運動であったがわかるのだが、悪名高き高校全入運動なるものが、全国に公然と立ち上がったのだ。これが日本の悪いところだ。

考えてみろ、金があるのか知恵があるのかは、知らないが、さっさと私学に入れてご満悦しているご立派な親御さんたちもいる。さすれば、周囲からなんと言われようと全国にある名のある良き学校を求め、ツテをたどって隠密にわが子を越境させるのも悪いことではあるまい。中にはどうしてもわが子が心配だからと、周囲からの非難の声にもめげず、わが子の通学に、わが身を賭して毎日送り迎えを欠かさない熱心な親もいる。そればかりではないぞ。学校の中まで親が入って、わが子の学校生活、勉学に付き添っている親もいた。やむなくそうしたのか、望んでそうしているのか、それは他人には関係のないことだ。話題の乙武洋匡さんの場合も、親はそのようにして彼を地元の区立学校に通わせたと彼の著である「五体不満足」に書かれていた。彼も立派だが、彼の親御さんの見識こそ見事と言うべきものなりや。体を張って、彼を教育したのだ。それができるのは親の特権にござ候。
 
さらに、学校なんぞ面倒だと、いっさい通わさないで、家でホームスクールに励む、独特な親もいる。自慢じゃないが、わたしは最後の手法を選んだ。願ってそうしたわけではないが、なんとなく、そうなってしまった。学校なんぞ、行こうと行くまいと、教師が立派であろうとなかろうと、親さえしっかりしていれば、子どもは立派に育つという自説を持つにいたった。だが、人にはなかなか、わたしの自説は伝わらない。そりゃそうだ。なにも理屈にしたがって実践してみたわけのことではない。たまたま、私の子どもの15歳あたりまでの、暮らしぶりが、そうであったというに過ぎない。親はわが子の感性に、したがっていたというだけだ。私の息子の場合は、少なくても15歳までは、学校はこれっぽっちも必要がなかった。それだけのことにござ候。

> 私の息子の場合は、少なくても15歳までは、学校はこれっぽっちも必要がなかった。
 
などと豪語したが、明らかにこれは言いすぎどころか誤っている。学校に、行こうと行くまいと、学籍はある、というのが義務教育制度の良いところだ。原則6才になれば、誰でも学校に通いたければ通う権利を有しているというのが、義務教育である。子どもにとっては市民権、または国籍のようなものである。
 
これが保全されていることを知って、親たるわたしも安心して、子どもを無理に通学させる必要はないと心得たのである。つまり、ほとんど学校を休んでしまっても、卒業できるという免罪符のようなものである。原理的に議論するなら、ここにはさまざまな問題が浮き彫りになる。学校に来ない、明らかに学んでいない、教育を受けていない子どもを、なにゆえに卒業させることができるのか、という問題がある。
 
だが原理的には、この問題は永遠に解決しないだろう。曖昧模糊のままのほうが、当事者は助かるということがある。なにもかも数値のもとに基準を立てて、厳密に検証すれば、なにか良いことが出てくるというものではない。まじめに学校に通ったからといって、相応の学力がついたとも限らないのだし、ほとんど学校には通ってこないからといって、まったく学んでいないと、誰が決め付けられる。
 
そもそも学校に通わなかったら欠陥人間にでもなってしまうのか。そんなことはまったくないのである。特別の場合を除けば、読み書きソロバンの基礎程度は家庭生活や遊びの中で、多くの子どもは習得してしまっているのが通常だ。
 
本を読む習慣?
馬鹿なことを言うんじゃない。そんなスローガンは本屋と学校が結託した販促用の謀略だ。
 
高等数学?
勘のいい職人の技に数学が勝てるか。数学なんぞ、何ひとつ腹の足しにもなるまい。

そこで、貴公の根底にある物の考え方というものを考えてみた。結論は、なぁんだということだ。君も制度ほしがり、またはお上頼みという点では、日教組と同じじゃないか。どっちが表か裏かは白根山。ちょうどよい、メダルの表裏をなしている。
 
日教組の主張にしても君の主張にしても、根は同じじゃないか。箱物政策以上には出ないのだよ。建物さえご立派に見てくれよければ、それで人々は、幸福だろうという近代の迷信だ。教師のありようも、建物を評する以上には出まい。学校や教育を、政治的に語って、なにが出てくるのかね。制度をもって人個人の幸不幸は測れない、ということを知らねばならない。
 
第一、カリキュラムからして、幻想の産物ではないか。なぜに日本の子どもは英語を学んでいるのかね。二十億の人々が使っている隣国言語の存在を、よくも忘れていられるものだ。おそらく英語を学ばせるなんてのも、多数決の原理以上のものではないのだ。さもなければ明治以来の、行きがかりか。かように、学校で採用されているカリキュラムからして、夢物語の如しなり。ほったらカリキュラムに従おうと、そうでなかろうと、人生になんの関係があると申すのだ。

人の親たるもの、そうした原理的なことを、少しは歴史的に考えてみる習慣をつけたまえ。いつまでも目先の現象にたぶらかされたまま二項対立の黒白漫才に明け暮れているから、ピーピーピーピーと不平不満がやまないのだよ。口から出てくる言葉といったら、朝から晩まで、お上頼みの人頼みだ。子どもの教育がごとき、自分でなんとかしようとは、決して思わない。すべて社会の責任だと、言う。それは人生の価値を社会に転化することだ。幸不幸の実感を無にすることだ。
 
苦労を毛嫌う。苦労は社会のせいだという。なんという、だらしない人間ばかりを作ってきたのだろう。いっそ子どもなんぞ産むな。現代のわれわれは、もはや子どもを産んだり育てる生物学的な才覚がないのかも知れないね。

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▼科学と平和と左翼のカルト

2007年04月17日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法
民族主義は、カルト集団の典型だ。科学的社会主義は、実現可能であればカルトではない。

カルトうんぬんは別にしても、たしかに民族主義とか民族意識では、科学時代の今日、飯は食っていけない。比して「科学的社会主義」は多少は希望が持てるってかい。よく考えてみるべきだ。社会主義を言うなら多かれ少なかれ国民を実験にさらさなければなるまい。ロシアがやったようにだ。やれるものならやってみればよい・・・とは言えるのだよ。

政治指導者によっては、案外にやりかねないから恐ろしいのだよ。科学とは実験の賜物だ。ロシアは約70年間、実験を続けていた。だが、見事に、それも心底から失敗したことは周知の事実なり。

実際のところ彼らは何を目指して実験をしていたのか。社会主義というものが成り立つか、なり立たないのか、またはマルクス主義の当否を計っていたといえるだろう。マルクス主義という観念上の理屈が先にあって、人々を、この理屈に合わせる。これがロシア革命という実験だった。本末転倒だ。たまったもんじゃないだろう。私有地に生きる農民はかたっぱしからぶち殺された。理屈に反抗する者は酷寒の収容所に送られて空想的スローガンを洗脳されるまで許されなかった。

密告政治がはびこった。人々は主義者の監視下にあり疑心暗鬼のどん底の中で暮らしていたのだ。靴に合わせて、いやおうなく子どもたちの足をナイフで削った。それが理想の実現だ。主義者のゲームに過ぎなかったのではないのか。レーニンの遊びだったのかカルトだったのか。多少の脳があるなら、君自身が問いたまえ。

空想的希望的スローガンを現実のものにしようとしてみたのさ。念仏の現実化だ。言葉の遊びじゃないか。これしきの「科学」に二億近い国民を70年もの間、観念の実験場の坩堝に閉じ込めたのだ。それだけのことだ。だが、これをカルトといわずして何という。壮大なる狂信といわずして何という。

すべての科学は仮説である。それほど科学が好きなら、人間は永遠に、それこそ滅亡するまで実験を続けていなければならないだろう。それが科学の総体であり内実だ。だが、どこまで実験を積み重ねても真理の一点たりとて、人間の目に見えることはないだろう。

何か確かそうなものが見えて、存在するような気がしているだけさ。さすれば科学もまたカルトと呼べないか。科学も狂信から始まっている。スポーツだって選手やサポーターの狂信がなければ、実につまらないものだぞ。多少はカルト性があって、はじめて世の中が華やいでくるのだ。

カルトといい狂信といい、一概に否定はできないものさ。ニーチェは気ちがいのようになって常識をといていただけだと言うが、誰しもそんなものさ。

都知事選に負けた左翼の愁嘆ぶりを見ろ。現職知事が再選され今となっては、明日から戦争がおっぱじまる勢いだ。彼らの叫んでいることは、終始、デマなのだよ。稚気な思い込みと決め付け。これだけだ。実にカルトっぽいではないか。教条主義という言葉があるが、彼らが口にする言葉は、罪なものよのぉ。憲法改正の件では、ささいな一項をめぐって、生きるか死ぬかの騒ぎだ。

常々、平和、平和と口やかましいのが左翼だが、どうして、こうも口ぎたなく喧嘩っ早い短気な性格なのかね。彼らが政権についたら、さっそく戦端が開かれそうだ。口吻がそれを示している。ネットに乗じて毎日、ささいな意見違いで、口喧嘩をしている。やつらに角棒でも持たせてみろ、喜んで内ゲバ闘争に参じていくだろう。候補者選定をめぐって総括がはじまる。責任の押し付け合いだ。鉄砲を持たせてみろ、さっそく明日から帝国主義を相手に戦争だ。彼らの妄想にかかったら民主主義なんざぁハナっから信じてはおらんよ。
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▼古参ボリシェビキの迷妄

2007年04月13日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法
「九条の会」が全国で急増、国民投票法案で危機感高まり(朝日新聞) - goo ニュース

どうやら上の記事は、看板に偽りありということらしい。タイトルと記事の中身が正反対だ。9条の会というものが急造されたことは何度も耳にしていたが、急増しているとは聞いていなかった。記事を読んでみれば、なんのことはない。思ったように「会」が増えなくて困っているという話ではないか。ようするに、9条の会も、国民には受け入れられていないのだろう。よく言えば理解されていないということだが、これは仕方がない。いくら発起者などが、政党色を脱した草の根運動だと主張しても、だからといって、へいへいとイデオロギー無色に慣らされた人々が安易に参加できるものではない。戦後、こうした市民運動っぽい会というものが、いくつ作られたか。枚挙に暇もないほどだ。それらすべての「会」もどきが数年もしないうちに雲散霧消していったのは周知の事実である。

さて、知り合いの百姓上がりが自慢の田吾作どんが、さきほど今猫政猫さんが運営する掲示板において「9条の会」について下のような文句をたれている。

「九条の会」は開店休業なのだろうか。私は「九条の会」を日本共産党が真に大衆が立ち上がることを恐れたガス抜き装置と言ったことは今的中している。何故だ。日本共産党全党を挙げて立ち上がらないのか。何故、全党員に今こそ国会に総動員をかけないのか。昨日国会周辺に5千人の人々が抗議に集まったそうである。5万人ではない。

よく耳にする意見である。ようするに左翼運動らしきものが、うまくいかないと、そのすべてを共産党のせいにする。右か左かの問題ではない。田吾作の政治的思想が根っからの依存体質であることを示している。それにしてもいい年をした大人が、困ったものである。田吾作は児童映画が大好きなのだそうだ。毎週末に児童映画をよりすぐっては、ヨダレを流して通いつめている。先週もまたハリボテを見てきて感銘を受けたそうだ。来週もハリボテを見に行くのだそうだ。すでに計10回ほど見たと申していた。「風の谷のナウシカ」は計20回。「トトロ」は計23回ほど見たことが記録されている。数年前のことだが、50歳台児童映画アニメ部門映画鑑賞者としては、首都圏で快挙の一位を獲得したことがあった。この時の褒美として最新号の週刊文春をアニメ映画館の館長さんから、いただき、ことのほか喜んでおった。無知低脳のミーハーオタク状態も、ここまでくればもはや救いがたし。下っ腹をつっぱらかえして終日、映画館街をほっつき歩いている、おかしなおっさんである。

いずれにしても9条の会のいきさつ一般に、共産党は関係ない。田吾作自身が立ち上がるのかどうかが、問われているのである。自分の地域に「9条の会」を自分の責任で作ってみようとしたのか。作ってみようとしたことはおろか、立ち上がろうともしない当の田吾作本人のことは、誰が評すればよいのだろう。人のことは何とでも言えるのだ。

それに田吾作は共産党について事実を誤認している。わたしは共産党の肩を持つつもりなど毛頭ない。共産主義といい共産党といい、政治団体というよりは、よほど信仰団体だと思っている。共産党が全党を挙げて立ち上がるとは、どういうことを意味しているのか。わたしが属していた70年代は30万とほらを吹いていた党員数も、いまや10万人にも満たないのではないか。共産党がごときを、買いかぶったり持ち上げてみても、なんの役にも立ちはしないだろう。さらに「9条の会」が発起されたいきさつを見れば、組織的に共産党とは無関係であることは自明のことである。9条の会がへたれようと減退しようと、共産党は原則、責任のとりようがない話である。仮に、昔の場合がそうであったように、党員は全員「9条の会」に参加するべしという、上部からのお達しがあったとして、そうなったとして、なにがどうなるものでもないだろう。

さらにまた田吾作はしきりにデモを懐かしがっておられるが、デモはデモにしか過ぎない。デモの三つ四つを繰り出したからといって、世論を動かすほどのことはないのは常識である。動員主義は古臭い。こうしてみれば田吾作の主張など古参ボリシェビキの迷妄と申せよう。ロシア革命の夢でも見ているらしい。ああ、年はとりたくないものだ。そして例によって例のごとしでいつものことだが、最後は決まって次のような感傷に浸って、本日の革命的興奮状態を冷ましてみれば自己満足もほんのりと春爛漫である。

国民投票法案衆議院可決されますた。ああ、他国の人達を殺すための改憲が行われようとしています。わたすは日本に絶望すますた。ふろしきに荷物をまとめて亡命いたしやす。中米のコスタリカという国は平和憲法があると小耳にしますた。では、これからわたすは、コスタリカに行ってしまうつもりだが、それでよいのか。憎きっくき自民党よ。負け犬根性の共産党よ。さって寝よ。

お田吾さん。どうぞ、コスタリカに行きなさい。止めませんよ。それにあなたの場合、旅費にも乏しいようですので、特別に国費で航空券を買ってあげてもよいのですよ。さらに荷造りのためのふろしきも国で用意しましょう。礼には及びません。餞別がわりです。そこまで平和憲法が好きだというならコスタリカに行くより他に生きる道はないでしょう。あっちで、元気にお暮らしなさい。たまにはお便りくださいね・・・自民党総裁安部なにがし、共産党委員長志位なにがし(連名)。
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▼都内の学区制度

2007年04月13日 | ■学校的なあまりに学校的な弁証法
<07.04.10 ハナミズキが開花した>

東京23区内の公立小中学校の学区は廃止し、23区在住者であるならば区内にあるどこの学校でも通学可能にすべきです。

おはようございます。私もあなたの意見に大賛成です。いっそ学区などとっぱらって全国区にしたらどうでしょうね。全国どこの学校を選択してもよいというように。ま、それがよいことかどうかが、問題でしょう。学校を保守している行政側の経済的政治的効率という問題も見逃せません。義務教育も税金で成り立っているわけですから。それに子どもの気持ちということもあるでしょう。保護者が、あっちのガッコが良いガッコだと思っても、子どもの率直な気持ちと親の願いは違います。通わせたいのだが、通いきれなくなるということも、よくあることです。距離の問題ではないでしょうね。学校は、適当に遠いほうが、通いやすいという子どもの意見を耳にしたことがあります。かと言って幼いわが子を、サラリーマン諸君などと張り合って電車で片道一時間というのは、いささか酷な感じもいたします。近場にましな学校があるなら、勿怪の幸い。だが、こうなると、当学校には、応募者が引く手あまたで、わんさわんさと押しかける。それをさせないための選抜試験。切もないことですな。朝も早よから、ちゃんちゃんこを着た親が、汗水ながして、行列つくって入試応募用紙を頂戴しに行かねばなりません。季節は酷寒なりき。寒さ対策が欠かせません。
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▼都知事選の結果と衆愚の物言い

2007年04月12日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法
<07.04.10 日本橋>

都知事選の敗北から学ぶことがあるとすれば、今後ともわれら市民運動の量と質を、グレードアップすることだと思います。

大昔から一揆、謀反、反逆というものはあった。奴隷の反乱もあっただろう。米騒動などを見れば、彼らとて立派に徒党して事をなしていたしことを知らねばなりません。市民運動各種などに目新しい革命的観念などは、何一つないのです。生きているその事実が、多少はわかるということに過ぎません。革命といい、謀反といい、ようするに食い扶持をめぐる分捕り合戦に他ならないでしょうや。現代の選挙もそうなのですよ。ボスの椅子をめぐって舎弟連中がいさかっているゲームの一つだ。

ゲームの結果は勝ち負けだ。結果論を前提としてあれこれ言うのは見苦しいばかりなり。民主主義というゲーム(選挙)に負けて、口先だけでいまさらのように、あだこだと不平不満を念じているのは衆愚愚民に他ならない。選挙というのも下克上のゲームの書式だ。負けても勝っても立候補者はそれなりにいさぎよい。選挙の結果に文句があるなら、どうして君は出馬しなかったのだ?

結果について、文句を言うなら、まずは、出馬する勇を持ち得なかった己に問いかけたまえ。自問自答をどこまで深く行ったのか。それが問われているのだ。徒党するしか能のない奴隷根性者よ。有象無象の二束三文よ。ゲームから学ぶなどと、それらしいことを言うもんじゃないのだ。次のゲームに勝つために必要なのは自分を鍛えることだけだ。ゲームの結果を他人や運動のせいにするんじゃない。このプロパンダの馬鹿。己を知れ。

多数決が絶対で何でも決まってしまう日本の民主主義は・・・

異なことをおっしゃる。多数決以外のなにを持って、何を「決める」ことができるでしょうや。考えられるのは暴力革命だ。戦争だ。戦争も暴力革命も、相手側のボスの首をはねて政治的決着とする。ボスの首をはねられたほうが、負けだ。だが、これでは、あまりに悲惨かつ野蛮だというので選挙や多数決、すなわち民主主義が採用され今日に至ると小学校で習った覚えがある。多数決こそ民主主義だ。多数決とは、いうなれば戦う前に、双方打ちそろった兵員の数を数えて、勝敗を決めてしまおうという手法のことじゃよ。負けは負けでも不満が残るのじゃろう。なんだか戦ったのか、戦わず負けを認めたのか、実感が伴わないのでござるよ。お主の気持ちはよく分かる。

これぞ、西洋がお得意の数理的決着だよ。柔道で言えば一本勝負ではなく、時間制限のポイント制だ。戦う前に頭数をかぞえて勝負を決する。さすれば怪我をすることもないだろう。それ以上でも以下でもあるまい。数学が社会に転用されたのじゃ。いかにも西洋ではござらんばい。

それにしても、多数決を採用しているわが国は後進国なりや。西洋先進国は、多数決以外の、なにをもって何を決めているのでござるかな。知っているなら教えてちょうだい。なんぼ選挙でまけても、命にはさしさわりのないことを幸いと思わずして、なにが渡る世間はアホばかりだと言うのかね。

むやみに世迷言を言うのものじゃない。人類は民主主義以上の手法は、金輪際、もてないのじゃよ。ご承知のように、すでに2500年前のことにござる。古代アテナイでは、民主主義の正当な施行によって、すなわち市民の多数決によって、聖人ソクラテスは死に至らしめられたではないか。ヘーゲルは言う。ソクラテスの死は、まっとうな社会的歴史的事実だったと。アテナイ市民の民主主義の勝利だと納得した。おそらくヘーゲルの弟子マルクスも、ソクラテスの生死の事実など痛痒さえも感じることはなかっただろう。

民主主義以上の政治的手法を持てない人類は、民主主義によって自滅するとも言えなくもないのだ。人間とはアホな生き物じゃよのぉ。食い扶持をめぐって、四六時中口ゲンカをしちょるわい。腹いっぱい食っても食っても、何か物足りないというのが人間だ。食っても食っても、何か不満が残って仕方ないとほざく。インテリは特にそうだ。人間の特性じゃよ。欲望は限りないとマルクスが言っているが、人間の欲望は、結局民主主義なんぞではおっつかないのだよ。隣の芝生はよく見えるってやつだ。人間の欲望は切がないのだよ。かといってだ。欲望がなくなったら死するも同然だ。矛盾もよいところだが、その矛盾の中にさらされているのが「生」というものさ。欲望の解決は、死する以外にないのだ。

以上のことは哲学でも宗教でも、なんでもない。死者なら誰でも知っている。死して始めて、人間とは、相当に馬鹿な生き物であったことを、はじめて察するのでござ候や。

国民が憲法の書き換えを望んでいるのですか?憲法改定の意思は支配者の横暴でしょう

これまた異な事をおっしゃる。日本国憲法自身が書き直しを許容しているではないか。次のように。

------------
第九十六条【憲法改正の手続】

1 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを>発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の>国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を>必要とする。
------------

以上の条項を無視するのかや。手続き上問題がなければ民主主義でないと、誰が文句を放てるのか。よほど反対派のほうが、非民主主義にござ候。ドイツを見たまえ。戦後すでに数十回は書き換えてきたと聞く。日本の左翼は教条主義なのだよ。ひとたび記録されたが最後、くその役にも立たない条文がごときを、金科玉条がごときに崇め奉る。仮に将来、憲法の天皇条項を書き換えたいとする世論や勢力が政治的に多数を占めた場合、君たちのなにがなんでも改定を許さずとする、その主張はどうなるのかね。

その場合は、許すのかね。そりゃ、ずいぶんと勝手な話でござるにゃ。お主の主張など、反民主主義というものだ。お主の意見こそ憲法96条を無視する憲法違反にござ候や。かようにわが国の現行左翼の運動をして民主的だとは口が腐っても言えたものではないのでござる。成り立ち行かない雑魚の不平不満に、どっこいどっこい。かたっぱしから選挙で負けるのは当然至極のことなりや。口のうまいインテリが流すデマに乗じるほど人々は馬鹿ではないのだ。教養が邪魔をしているのか、わが国のインテリは、なんぼ言って聞かせても自分がよほどの馬鹿であることを知らない。言っていることが稚拙だ。
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▼同年の○原に出会う

2007年04月10日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
<07.04.10 日本橋>

たいした用事ではなかったが秋葉原に行くつもりで電車に乗った。乗り換えの大井町駅のホームに○原がいたので驚いた。彼とわたしは同年だ。知り合って30年が経つ。10年ぶりだなと彼が言うのだが、そんなに経つだろうか。

日本橋の丸善に用事があるというので彼に付き合い、その後、東京駅の地下で飲みかつ語る。頭が真っ白になってしまったと彼が言うので、私はハゲるよりはいいさと言って帽子をとって自分の頭を見せた。
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▼都知事選投票日

2007年04月08日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法
都知事選、推定投票率は37.25%(午後5時現在)(朝日新聞) - goo ニュース

夕方になって息子と連れ立って都知事選、都議補欠選挙の投票に行ってきた。投票会場は息子が十数年前に卒業した小学校の体育館。校庭は、散り終わりつつある桜の花びらにおおわれていた。懐かしや。開票の結果が楽しみではある。
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▼洗足池にて婿殿と花見をいたす

2007年04月07日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
今日はお日柄もよく、婿殿と二人で洗足池に花見に行った。名の由来は、日蓮上人がこの池で足を洗ったとのことなりや。日蓮終焉の地、池上本門寺から3キロほどのところにある風光明媚な桜の名所である。二人でワンカップ片手に池を一周した。ボートに乗るつもりだったが、待ち時間が相当にありそうで今日のところは、やめたのである。花はすでに半分ほどが散った後の祭り。それでも、天気にめぐまれ水面をわたってくる風が心地よかった。
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▼日本語 世界を席巻する?

2007年04月07日 | ■学校的なあまりに学校的な弁証法
ブログで使われている言語、日本語が英語を抜いて最多に(INTERNET Watch) - goo ニュース

上のニュースは、エイプリルフールかと思ったが、実際のことらしい。実に喜ばしいことである。もちろん、統計の取り方しだいで、誤差も見逃せないし、これをもって、言語における本質的なものの何を証明できるのかとなれば甲斐もない数字上のことである。

日本語を使っている人間だからと言って安直にうれしがっているだけにもいかないだろう。

一昔前の作家などは自作が英語をはじめ、いかに他言語に翻訳されて、世界に読者を獲得するかに腐心していた形跡もある。私たちも日本語は世界の中ではマイナーな言語にすぎないと、さんざんに吹き込まれてきた。世界に出て行くためにはどうしても英語が欠かせないと脅迫されてきた感がある。

こうした思いは作家なども同じだったらしく、彼ら自身、肩身のせまい思いをしながら日本語で小説を書いていると耳にして、わけが分からなかった。それほど英語がよいなら英語で書けばよいだけのことではないか。日本人だからといって日本語の小説を書かなければならない義理はないはずだ。

かの大江健三郎氏にしてからに、そのような思いがあることを何かで読んだことがある。日本語で作品を書いているだけでは、なかなか世界に認められないという現状に不満をもらしていた。

だが、これは日本語という言語性質の問題だけではあるまい。わが国の文化に対する、黒船来航以来、もたらされた根の深い西洋コンプレックスに由来するのではないだろうか。さすがに大江氏もノーベル賞を得てからは、この種の発言は見られなくなったように思う。

さて、話をニュースに戻すが、日本語ブログが世界7000万以上といわれる、その種のネットサイトでの書き込み言語の、3分の1強を占めているというのだから驚く。わたしはこれを単純に喜ぶ。

考えてみれば、これは、おそらく、わが国を席巻しているケータイ文化というものも、大きく反映している結果だろう。ネットは今やコンピュータとは言ってもパソコンよりは携帯電話を使って、読み書きしている人のほうが多いらしい。

それにブログの場合は、かつてのホームページの更新などに比べれば格段にケータイから参加しやすくなっている。さすれば、ブログに書き込まれる「文体」も、ますますケータイ化してくるとは言えないだろうか。

わたしはべつにケータイを敵視しているわけではないが、無抽出にあちこちのブログを見て回った印象では、いかにもケータイから書き込んでいるという文章ばかりが目立つ。だが、これは私の長文好みという、ようするに好悪の感からくる偏見だと思っている。中には飛び切り上手な短文の書き手もたくさんいるし、短文だからといってケータイだとは限らない。

ま、ネットのことについては数値が高いということは、一般に善いことであると・・・今日のところは、そうしておこう。ネットに書き込む人が多いということは、ほめられこそすれけなされるいわれのないことだ。それに日本語は俳句、和歌をもって文体とする伝統が内包されている。短い文章が好まれる。こうしたことも反映しているのかもしれない。

それにケータイは別にしても、ネットといいブログといい、その参加者の数たるや、あと数年すれば確実に中国(中国語)に追い越されることは自明のことだと思っている。
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▼松坂大輔 メジャーデビュー 勝利で飾る

2007年04月07日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法
NHK、大リーグ情報に時間割きすぎ…尾身財務相(読売新聞) - goo ニュース

好みの問題であり、もちろん極論であることは分かっているが、わたしは現在の民放TVなど、すべてつぶしてやりたいほどだ。朝から晩まで、何が面白いのかゲタゲタゲタゲタと意味もなく仲間内だけで笑い転げている。これを一日中垂れ流しているだけだ。

比べて公共放送たるNHKが、すべて健全にして高尚かつ教育的な国民のためになる番組ばかりを流しているかと問えば、もちろんそうだとは思わない。仮にそうだったとしても、無意味なことである。だいたい、放送から何を得るかなどという人の好みに準ずる価値観は送信者にしても受信者も主観の範囲であり、個人的信念の範囲に与させておくべき話である。

放送も見たくないものは見なければよいだけの話だ。新聞も読みたくないものは読まなければよい。自分が読みたくない本だからといって、公的立場にある者が、いちいち糾弾発言をしていては、世の中は息苦しくなるばかりだ。

今般、大リーグばかり放送しているとNHKにいちゃもんをつけた尾身財務相の真意は、記事を読んだだけでは測りがたいが、大リーグどころか「大相撲」の場合はどうなのだ。大相撲は、民放ではいっさい中継していない。大相撲の放送は場所中は毎日二時間、三時間、BS2などは、それこそ昼飯すぎから、ずっと夕刻まで放送しているのである。相撲の嫌いな人にとっては、たまったものではないだろう。いちゃもんをつけようと思えば、なんとでも言えるのだ。

尾身氏は、ゲームの中継というよりはニュースにおける取り上げ方の軽重の程度を指摘しているようだ。ゲームは日本時間では早朝のことであり、朝一番のニュースから始まって一日中、松坂の勝利と見事な好投が報じられたが、こうしたことも放送局としては、出たとこ勝負のようなものであり、他には、たいしたニュースもなければ、この日の松坂が大リーグにデビューすることは、周知のことであったのであり、国民だれしもが試合の結果を待ち望んでいたのである。スポーツニュースに過ぎないといわれればそれまでだが、松坂に関する報道を、まっさきに伝えて、変だということはないはずだ。もちろんその他、天災、人災、また政治向きの重大ニュースなどが他にあれば、当然、松坂のことよりも、そちらが重視されるはずである。

だいぶ昔のことだが江川卓氏が電撃的に巨人に入団したというニュースが流れた。次の日の朝、職場に行って新聞を見た。スポーツ紙ではなく朝日新聞だったと思うが、第一面に写真入の記事があった。その記事が話題になった。同僚が言った。たかがスポーツ記事を第一面に載せてしまう新聞の見識を疑うと。たしかに前例のないことだった。そのときは、わたしも同僚に同意したことを覚えている。

最近ではどうだろう。4年前だったか、大リーグに移籍したばかりのイチローが年間安打数の記録を塗り替えた。そのニュースがやはりイチローがヘルメットを掲げて観衆の声援に応えている写真とともに、産経新聞のトップに載っていたのを覚えている(上の写真)。わたしは、その記事が読みたくて、わざわざ近くのコンビニまで買いに行ったのだ。他の記事も読みたくて、スポーツ紙ではなく産経新聞を買ってきた。

このように、わたしもそうだが民心は変化している。政治的、社会的ないかにも固い記事が、国民にとって重大な報道だとは、必ずしも言い切れないのではないだろうか。いずれにしてもスポーツニュースが紙面のトップに載ったり、TVのニュースの冒頭で取り上げられるという現象は、なによりも世が平和な証拠であり、喜ばしきことなりや。

松坂の場合も、試合の中継は、NHKTV4局中、BS1だけのことである。目くじらをたてるほうが、どうかしているのだ。大臣諸氏もNHKに文句をたれている暇があるなら、街に出て、松坂投手の背番号がプリントされたTシャツに身を固め彼が所属するレッドソックスの旗でも振り回して見るのも一興だ。

おそらく松坂投手の次の登板日には球団の地元であるボストン市長も、球場にかけつけるに違いない。日本の政治家も権謀術数に明け暮れていないで、たまにはカミシモを脱ぎ捨ててスタジアムに出向き市民に混じって、スポーツを楽しむ心意気を見せてほしい。

打ち揚ぐる ボールは高く 雲に入りて又落ち来る人の 手の中に・・・・正岡子規

<2054字>
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