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赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼右や左の旦那様

2019年11月24日 | ■ヨニウム君との対話

世に倦む日日・・・消費税5%で共産党は山本太郎と合意し、蜜月の共闘関係なのに、どうしてしばき隊は山本太郎を叩くのだろうと、そういう疑問がわきますよね。答えは簡単。共産党の表の顔は、小選挙区での選挙の顔。共産党の裏の顔は、しばき隊の顔で、比例区での選挙の顔。二つの顔があるわけだ。それが政治。

 

だいいち山本太郎は左派なのかね。俺はそうは思わないぞ。山本太郎の師匠格たる小沢一郎が、その実、憲法改正論者であり自衛隊賛美者であり資本主義を謳歌する金の亡者の拝金主義者であるようにだ。山本太郎の本音は右派かもしれんぞな、それも確信的な。ヨニウム君は、どうも表面だけしか見てないようだ。いい年こいてテレビばっかりに夢中になっているミーハーのおっちょこちょいは、これだから困る。

それに、いいかい現在の日本共産党は存亡の危機に瀕しているのだ。幹部ら一同は藁をもすがる思いだろう。この期に及んでは自分たちのことを少しでも認めてくれるなら、それこそ見境なしに極右(小沢一郎)であれ極左(中核)であれチンピラ(しばき隊)であれ天下り分家のエロ親父(前川喜平)であれおかまいなしのなんでもござれで抱きつきたがる。

一説によれば、かつてはあれほど憎しみあっていた解同(解放同盟)とも朝鮮総連とも関係改善の兆し。こうとなっては理論も展望も、すなわち独自路線も方針も、なきに等しいのであって、彼らが口を開くたびに、すべてこれ嘘八百の二枚舌の魂胆がネット上にさらされて、にっちもさっちもいかなくなっている。

例のコミンテルン武蔵小杉のお弁護ちゃんも下のように、ここにきて負けがこんできたのか夢も希望も失って無残にも暴言じみた捨て台詞を吐くばかり。総じて思想の背景にある哲学が貧弱なのだよ。君たちは。


弁護士神原元・・・安倍政権の終焉が、「安倍的なるもの」の終焉につながり、「人の支配」から「法の支配」への転換につながることを期待する。

弁護士神原元・・・安倍と一緒に消えて欲しい極右ゴロツキのリスト作りたいなぁ

 

世に倦む日日・・・しばき隊の悪影響が大きいんだよ。共産党というのは、今ではネットを主たる政治活動の場にしている。ネットで支持を集める政党だ。他のどの政党よりもネットでの有権者との接面が大きい。ネットに依存している。ネットの中で共産党と一緒にいるのがしばき隊。共産党の選挙運動をしているのがしばき隊。

 

そりゃ、まるで逆の話だ。言葉狩り運動がせいぜいのやせ細ったチンピラ集団プータロのしばき隊なんぞはどうでもええのだ。いいかいヨニウム君よ。インターネットが予見している底知れぬ言論の自由及び表現の自由には結局ついてこれなかったのがコミンテルンをはじめとする全体主義者の顛末だ。彼らは何一つ議論しようとしないで逃げてばかりいる。彼らがインターネットをして恐れおののき、どれほど怖がっているかを想像してみたまえ。 総人民の総論各論が矢のように突き刺さってくる。問答無用を常套手段とする偽善の塊のコミンテルンが、これに太刀打ちできるはずはない。こうして共産主義も共産党もインターネットによって最終的に跡形もなく滅びるに違いないと拙者はそのように期待している。それも近年中にだ。すくなくとも拙者の目の黒いうちには納豆。

 

 

 

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▼岩波文庫賛

2019年11月21日 | ■文芸的なあまりに文芸的な弁証法

世に倦む日日・・・今の岩波書店がどれほど吉野源三郎を裏切り、理念を失って出版社として堕落したことか。吉野源三郎の文章を読むと息が詰まる。読み進めなくなる。今の大月書店がどれほど思想的に落ちぶれ、堕落の極みにあることか。

岩波書店や大月書店が堕落したかどうかは別にしても落ちぶれたことは確かだね。たいした読書人でもない拙者でも若い頃は毎日のように書店にいりびたった。だが昨今ともなれば書店をのぞくことも少なくなったし、さらに新刊を買って読む気も滅多に起こらない。だがこれは拙者だけの現象ではないようだ。

朝に夕に都会で行きかう人々はそれこそ老若男女さまざまだが、みながみなスマホをいじくっている。とくに電車の中では八割九割がスマホの小さな画面を見ている。拙者のようにスマホを持っていないし使い方も知らない貧しい爺さん連中は、しかたなく新聞または本そのものを見ているわけだが、そうさなぁ、電車の中での拙者に同類といえば、ざっと見ても十人に一人いるかいないかだ。

こうして新聞も売れなくなったし本も売れなくなった。世相がこのように紙媒体から新しいデジタル媒体へと取って変わってきたことは絶対的な現象なのであり思想やイデオロギーがどうのこうのとは別問題であることを若い頃からの教養不足がたたって明けても暮れても右や左の旦那様よろしくレッテル張りに興じるしか能もないヨニウム君としても、まずは押さえておく必要があるだろう。

https://mobile.twitter.com/yoniumuhibi

さて令和元年もまもなく師走となりにけり。さてはて、本年中に拙者が購入した本といえば、二三をのぞいて、すべてこれ岩波書店刊行の岩波文庫だったのだった。その内訳は以下のごとし。

 

『若きウェルテルの悩み』 ゲーテ
『ゲーテとの対話』(上中下) エッカーマン
『危険な関係』(上下) ラクロ
『オネーギン』 プーシキン
『貧しき人々』 ドストエフスキー
『ソヴィエト旅行記』 ジイド
『いきの構造』 九鬼周造

 

エッカーマンを除いてはすべてこれ若い頃に読んだものの再読または再々読だったのだが、なにしろ今となってはこれら歴史的古典たるや岩波文庫でしか読みたいと思っても読めないのだから仕方があるまい。

 

 

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▼ヴォーカル大好き<君が代>

2019年11月20日 | ■文芸的なあまりに文芸的な弁証法

そう言えば、わたしはずっと「君が代」のスローな曲想が退屈で嫌いだったのだが、最近、そうでもなくなってきた。そのことに気がついたのは、つい一昨日のことである。現在、ベトナムのハノイで開催されているサッカーのアジアカップの試合がTVに写され、例によって国際試合の場合は、試合前に双方の国歌演奏がある。そのとき蹴球場に君が代が流れた。そして君が代は世界の中でも独特な音楽であり、なかなかの名曲なのだと改めて感動を深めた。

その日、わがジャパンの試合相手はカタールという国でありカタールの国歌も流れていた。他国の事情を悪く言うつもりはないが、カタール国歌の曲想は、あわただしく忙しかった。カタール選手がスタジアムに流れる楽曲にあわせて口を動かしていた。もちろん私には歌詞の意味はわからないが口の動きから見ると、やはりその歌詞も、せわしなくあわただしいようだった。

世界の国歌というものは行進曲のように勇ましいリズムを持つ曲が圧倒的に多い。仏国国歌の「ラマルセィエーズ」しかり英米国歌しかりロシア・中国国歌しかり。そうした中にあって「君が代」はなんとも独特なのである。かつては鈍重で退屈に思えた「君が代」も、今は聴くたび歌うたび晴れがましく思えるばかりで時には自然に涙が出てくる。


 

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