赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼団塊の梅雨の晴れ間のごま塩頭

2024年06月02日 | ■かもめ文庫

むかし撮った写真だが・・・

 

2012.06.15 横浜市

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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▼就学前後の話

2024年05月30日 | ■かもめ文庫

 以下、相変わらず大昔も大昔の話ばかりで申し訳がない。 

 

 先日、母に連れられて幼稚園に行った話しを書いたが、言い直しておく必要があった。私は幼稚園児ではなかった。幼稚園にも保育園にも通った形跡はない。あの日幼稚園に行ったのは、たまたまその日、入園説明会か見学会のような行事があったのだと思う。もちろん、そうした園の行事に私を連れ出したことは、私を幼稚園に入れることも、少しは考慮していたのだろうが当日のわたしの様子をみて、母も入園させることを断念せざるを得なかったのだろう。わたしなりに母の魂胆に察しがついて、これに激しく抵抗してみたのだろう。幼稚園の記憶は、その日だけのことで他には思いつかないし、誰に聞いても私が一時なり幼稚園に通っていたという話は出てこない。それより当時の父母の関係は非常にやっかいなものになっていて、のん気に長男である私を幼稚園に通わせるどころの話ではなかったようだ。

 だから、母も参考までに幼稚園に私を連れて行って見学してきたという程度のことかもしれない。私も就学前のこの時期は、記憶が錯綜している。しばしば北関東の父の実家で暮らしていたこともあった。都営住宅と父の実家とが入り組んで思い出され、この頃の時間の後先がかなり錯綜しているのである。今となっては、詳しい事情を母から聞き出すことも難しくなっている。弟と会って飲んだ折など、よく、この頃のことが話題に出るのだが、それでも、なかなか頭の中で上手に整理ができないのである。なにしろ長男のわたしの記憶が定かではないのだから、どうしようもない。いずれにしても、わたしは都下にあった都営住宅から小学校に入学したのだが、そこにいたのは二学期の終わりまでで、年が明けてすぐ都営住宅を引き払い、二度と、そこに帰ってくることはなかった。私たちの一家は父の実家の世話になることになったのである。父の実家は典型的な農家で父は、その家の次男坊だった。

 父の実家のある村の小学校に転入したのは一年生の三学期の途中からだった。母の手を引かれて戦前は父も通ったというその学校を訪れたのはもう一月半ばかあるいは二月に入ってからだったか。先生は黒板に私の名を大きく書きクラスのみんなに紹介してくれた。この時驚いたのは、辞めてきた学校の先生と今度の先生がそっくり似ていたのだ。女の先生である。もちろん名前は違っていた。私のためにわざわざ向こうの先生がこっちの学校に来てくれていたと自分勝手な妄想に走った。我ながらあまりにばかばかしくて、それは誰にも漏らさなかったが、しばらくの間、密かな愉悦となった。さて、先生は私を紹介するとそのまま教壇に立たせ、靴箱の使い方を説明するからと母だけを導いて教室から出ていってしまったのである。50名近い坊主頭と頬の赤い女の子たちに、一人向き合わされて、わたしはすっかり困ってしまった。先生と母がいなくなり、わずかな沈黙の時があって、突然誰かが私を指さし何事かはやし立て笑い出したのである。するとクラス全員が一斉に唱和してきた。歓迎とも排斥(はいせき)ともつかない実に奇妙な哄笑だった。
 
 私はいわゆる「坊ちゃん刈り」のままだった。それが異様に見えたらしい。たしかに男の子は全員が坊主頭だった。最初私は、彼らが何をおかしがっているのか分からずに困りはて恥じ入るばかりだったが、泣き出した風には覚えていない。むしろ豪快で明るすぎるほどの笑い声に同調させられ照れ笑いぐらいは浮かべていただろう。彼らの笑いに悪い気はしなかったのである。さっそく次の日には母に頼んで頭を丸めて登校した。

 以後、その学校を卒業し町の中学校に自転車で通うようになるまで、祖父やら叔父やらによくいじめられ、ひどい貧乏を強いられたまま矢面に立たされていた母の苦労は並大抵のものではなかったが、私にしてみれば山間の自然に恵まれ友達に恵まれ、おおむね幸せな子ども期を過ごせたと思っている。もし、あのまま東京都下の暮らしをしていたならば、おそらく私は尋常には育たなかったかも知れないと、最近はそんな感じがしているのである。父が病気になり実家に帰っていたのである。私の弟ふたりも父の実家の近くの縁者に預けられていたような状態だった。収入は閉ざされていた。母としては、このまま都下に住んでいても、にっちもさっちも行かない状態が続いていた。おびえたような戦々恐々たる日々が続いていたのである。父の家のものたちは、母を良くは思っていなかった。父が病気にいたった責任の半分ぐらいは妻にもあるだろうというのが彼らの言い分だった。八方塞りになっていた母の心理が、二人暮しをしていた私の性格にたぶんに影響していたように思われるのである。都営住宅での暮らしは、年を追うごとに私を内向的にさせていった。

 父は療養と称して一足先に実家に舞い戻っていてわたしが小学校に入った時には都営住宅には影も形も見えなかった。父は母と結婚前から自分の縁者ばかりに左右されていたようなところがある。それがいつも母をないがしろにする結果となった。病気と言えば仕方はないが、気持ちの上で妻子を見捨てていたようなところがあった。この時期のわずか2年ほどの間に父の失職とか発病とかいろんなことがあった。母としては、次から次へと父によって引き起こされてくる心痛に絶えながら自活の道を探っていた。離婚することも考えていたらしい。必死に職を探していたようだが、子どもたちのことが気になってまともな仕事は見つからなかった。それでもときどきはパートタイマーのようなことをしていたようだ。家計はいよいよ逼迫(ひっぱく)していた。母と二人きりの食事もおかずが一つもなく、ご飯に醤油(しょうゆ)をまぶしながら食べたこともあった。とりわけ昼下がりのわびしい食事を覚えているのは、私が登校していなかった時期で、家で母と二人きりだったからか。醤油ご飯も子どもにはさほどの苦ではなかったし、どんなものでもまずい感じはしなかった。大人の気持ちは子どもとは違う。同じ事でも大人には耐えられないということもある。だが、親の心理はそっくり子どもにも伝わってしまうだろう。母と私は、完全に孤立していたのである。

 当時4歳と2歳になる弟がいたはずだが、家の中にその姿が見えないのは、二人ともすでに父の実家に移されていたのだろう。ある日母が町に働きにでも出ていて留守にしていた昼下がり、弟たちと庭先で遊んでいると、母の姉がやってきて下の弟だけを連れていこうとするのである。もちろん母と叔母との示し合わせがあった上のことだったに違いない。弟があまりに激しく泣くので、隣の家の母親がパンを持ってきて弟に持たせた。パンをしゃぶっている弟を叔母が抱きあげ連れていった。別離にともなう寂しい実感はないのだが、衝撃は大きかった。泣きながら連れられていく2歳の弟よりもそれを見ているすでに物心つき始めている兄のほうがうける痛手は大きい。しばらくすると今度は母が上の弟をともなって父の田舎に行き、帰ってきたときには弟の姿が見えなかった。

 話は戻るが都下の小学校に上がった当時のことで鮮明に記憶している場面がある。それがずっと気になっていた。前後に関連のない独立した一こまの残像だが、幼稚園の時のように学校に行きたくないという強烈な感覚がはり付いている。その感覚がどこから来ているのか。長い間、我ながらさっぱり説明できないままだった。自分の傾向を振り返ってみれば、学校嫌いはいくらでも証明できるのだが、その場面と前後の生活的事実が必ずしもつながってこない。どうしてあの場面だけに学校が嫌だという強い感じが貼り付いているのだろうか。

 その日学校を休んだことは確かに覚えている。だが実際は、傘を捨てた日以前から私はほとんど登校しなくなっていたらしい。とすれば年を越えて3学期より田舎の学校に転入するまでの結構長い期間、私は学校を休み続けたということになる。四月に入学してからまともに登校したのは夏休みまでの三ヶ月だけならば、最初の学校のことが記憶にないのも当然だった。台風でも来ていたのか激しい風雨の朝だった。雨をついて私は学校に向かっている。林を抜けたところに小川があり橋が架かっている。そこをわたりながら下を見ると、いつもの優しい流れとはうって変わって、この日は橋もろとも足下がすくい取られるほどまでに増水していた。視点を固定して水面を見ていると吸い込まれそうだった。

 私はしばらくはそこに佇み、いつもに違う暴力的な流れを驚嘆して見ていた。そして何を思ったのか、さしている傘を閉じ川の中に放りこんだ。コウモリ傘は濁流に飲み込まれ、見る見る流れ去った。買ったばかりの傘なのに、という母の難詰が待っている。だがこの朝ばかりは登校するよりは母の小言の方がよほど心地よいように思えた。傘がない以上、この雨の中をこれ以上進むことはできない。今になって弁明するわけではないのだが、登校しない理屈を作るために傘を捨てたというよりは、傘を捨ててから理屈が思いついたように覚えている。真新しい傘を川に投げ捨てる。その犯罪的快挙を成し遂げる自分の力を確認したかったのか。正直なところ、行為にいたる最初の動機はこれ以外に考えられない。

 5年ほど前に母から聞いたところによると、先の都下の小学校では二学期の途中から、私はすでに登校しなくなっていたという。自分のことながら初耳だった。記憶の彼方にうっすらとそんな感触がないではなかった。そう言われてみれば、覚えているあの一こまに説明がついてきたのである。母親から引き離される不安に怯え、捨てられる夢にうなされた。私の場合は不安だけですんだのだが、この時期、弟たちは父の実家の祖母とか、叔母のもとで育てられていた。母が都会での生活を断念して田舎行きを決めざるを得なかった大きな理由がここにもあった。家計は最終的に破綻を迎えていた。こうして間もなく都営住宅を引き払い、田舎に身を寄せることに決めたらしい。夜逃げ同然だった。「父さんさえ、まともだったら」という嘆きは以後母が昔のことを話すさいの枕言葉になってしまった。

 その日、もちろん家に引き返してきた。登校できない理由を傘のせいにすることだけは分かっていたが、母には傘をなくした状況の説明が必要だった。あれこれ考えながら家の玄関にたどり着いたときには、もうすっかりずぶぬれだった。傘が途中で風に飛ばされてしまったので、登校できないと、言い訳したのだと思う。子どものウソはすぐ見抜けたはずだ。だが、この時母から叱責された覚えはない。彼女は「ああ、そんなんじゃ風邪を引くよ」と言いながら、あわただしく体中をタオルで拭いてくれた。やっとのことで学校に向かわせた息子が間もなくずぶぬれで引き返してきたのでは、母もさぞかしがっかりしたことだろう。だが帰ってきてしまった子どもにそれ以上何を言っても無駄だった。

 雨の中を再度子どもの手をつかんでまで強行には出なかった。それが登校しなくなる最初の日だったのか、それとも事前から休みがちだったのか。後者だったとすると、前日のうちに台風襲来(しゅうらい)を聞きつけて、新しい傘で私の機嫌をとり登校させようとしてみたのか。多分そんなところだろう。子どもは親の本意などだいたい察知してしまうものだ。学校に行きたくなかった私を無理矢理追い出した母の下心の形象が、玄関を出たとたんにコウモリ傘に乗り移った。だから私はその傘を川の中に投棄したのだ。しのつく雨に打たれながら仁王立ちしている。そんな傲慢な姿が浮かんでくるのだ。

<2007.01.30 記>

 

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▼平和憲法と女郎思想

2024年05月29日 | ■かもめ文庫

以下、十年ほど前に書いた記事で悪いが・・・

2012.11.30 朝日新聞投稿欄より

 

 今日の朝日新聞の投稿欄で上のような文章を読んだので、一言感想をば。投稿者は二十歳の大学生香取さんという方なりき。まずは、きちんとした立派な文章を読ませていただき感謝感激の念やみがたし。タイトルのように「集団的自衛権」は「参戦権」にほかならないとは、誠をもって、そのとおりだと思うのである。香取くんは続けていう。参戦権を放棄してしまっている日本は、誰が考えても「普通の国」とは言えないと。だが、その普通でないところが日本の誇りではないのかと。

 わたしは、それは違うと思う。端的に言って、日本もやはり「普通の国」として、必要とあれば武力を行使できえる「参戦権」を当然の権利として自覚的に所持し、いっそ憲法なりに明文化し、それだけにまた責任があるのだが、いわば独立国ならば一様に帯びなければならない責任を痛感し国際政治の中でも、とりわけ平和のために尽力していくべきだと思う。

 わたしは平和のための戦争も否定すべきではないと思っている。かの米国大統領オバマ氏でさえ明言せざるを得ないようにである。仮に、専守防衛だけに限っても、槍や鉄砲だけでは、なにほどの目的も達せられないのは、日を見るよりも明らかだ。軍事もまた大いに文明論に関わってくるのである。悲しいことだがモータリゼーションや原子力というものが、そうであるように議会制民主主義に代表される政治的手法もまた悪しき文明の一つにほかならない。だが問題は、ヒト科の誰に文明を否定できようぞ。

 文明を否定しても、個人としてなら生きていくことだけなら可能だろう。だがそれは乞食根性、奴隷根性を満載して、言いたいことも言えずに、口にチャックをしめたまま生涯を送っていくことではないのか。威張れた話では毛頭あるまい。あらゆる意味で自己に一定の文明に基づく政治的強度がなければ他者への優しさは実現不可能なのである。そのひとつが、軍事であることは言うまでもない。口先だけで、「平和、平和」と何万回連呼しても、真の平和がやってくるはずはない。

 力の発露は、自己中心的だとか、第三者は、いろいろと言うだろう。だが、平和のための戦争もありえるという逆説の要諦は、強いものが、弱いものを助けるという、実に単純な道徳の発露にすぎまい。ヒト科が、大昔から育て上げてきた、この普遍的な道徳を、せいぜい一国内の「平和」の美名のもとに、誰が貶めることができようか。文明を否定することは、社会を否定することだ。国家を否定することだ。

 いっさいの武力を否定する憲法9条が存在する限り、日本国は真の意味で文明的であるとも、ましてや独立国家だとは言えないのである。とある左翼政党(日本共産党)の綱領で正しく指摘されているとおり日本国は半植民地のままなのだ。いつまでたっても他国に守っていただいている従属国家または擬似国家のままなのだ。

 青年よ。日本という国は、まるで子どものようにイノセントで優しさに満ちた、それだけに弱々しい、いざとなったら何の力も出せない、隣国の温情だけにすがりついて、やりくりする以外にない、ひたすら衰退していくだけの、そんな国のままで、それで良いのかね。

 もっぱら「癒し」とか「優しさ」「弱さ」という心性を、メルヘンチックに飾り立て売文稼業を持って、喧伝させ自慢してきたのが大江健三郎氏に代表される戦後民主主義者らの「平和思想」と呼ばれている代物だが、私に言わせれば、彼らの考えは卑劣な亡国論であり愚劣な終末思想だ。単純な話だ。つまるところ彼らは、「政治の現場」から逃げたがっているだけなのである。同じことは同氏らが叫んでいる「原発反対」のスローガンについても言えるのだ。つまるところ、これらのスローガンも「文明の現場」から逃亡したがっている敗北主義者の戯言(たわごと)に過ぎないのである。

 まさに憲法9条はセンチメンタルにしてメルヘンチックな性根だけが取り柄といえば取り柄の彼らにとっては実に居心地のよい「子ども部屋」か、または隠れ家としてはもってこいの「癒し、かつ憩いの場」であり、なによりの「避難場所」となっている。当「子ども部屋」は、一般に行為することを気嫌い、体を使って働くことを蔑視する心根優しき近代に特徴的な知的おっさんおばさんらのために米国政府と日本政府が、割り勘して分担し、心根優しき彼らに無償で提供してくれているのである。

 なかには70、80にもなっても、いまだ「子ども部屋」の「ぬるま湯」から脱出できない半人前の小説家などがいて近隣諸国から失笑を買うばかりなのである。 

 さて、2014年7月8日付東京の田吾作新聞紙上に、次なる鎌田なにがし氏の、やはり憲法9条を問題にしているコラムがあったので一言感想をば。

 鎌田なにがしが言う「憲法が殺された七月一日」とは、いわゆる集団的自衛権なるものの行使容認が閣議決定されたことをさしているのだが、憲法が殺されたなどとは、いかにも大げさだ。己の歴史的政治的無知蒙昧をさらしているだけだ。何度、同じようなことを言ってきたのかね。1952年、米国との安保条約締結のさいに言わなかったか。憲法が殺されたと。戦争になると。

 つづいて1960年、安保改定においても、同じことを言わなかったか。憲法が殺されたと、戦争がはじまると。さらに続けて1970年、10年ごとに見直すとある安保がまた改定時を迎えていた、そのとき、鎌田なにがしは、憲法が殺されたと言わなかったか。で、どうだったのかね。戦争になったのかい。

 それにしても何度殺されたら気が済むのかね。あ~ん。鎌田のなにがしよ。口先男よ。オオカミが来る男よ。君は一顧だにしていないが憲法が殺されたと君が言う、その7月一日は、奇遇なことだが、われら自衛隊の創設60年にあたっていたそうだ。今から60年前、晴れて日本に自衛隊が組織された。当初の兵員は10万人ほどで、装備もきわめて貧弱なものであったらしい。だが、軍隊には違いなかった。武力を否定した憲法のもとで軍隊が創設されたのだ。

 君の言い方に倣うなら、このときこそ憲法が殺された日とよばずになんとする。この歴史的事実に比べれば自衛権がどうたらこうたらなどという話は、いかにも瑣末な話だ。60年前、すでに9条はすっかり骨が抜かれていた。憲法制定後10年もたっていなかったのである。骨の抜かれた憲法を後生大事に、ありがたがって念仏がわりに「憲法を守れ」とさわいでいる馬鹿な連中こそ、よほど偽善者ではないのか。繰り返す戦後政治史を額面とおりに読めば残念ながら日本国憲法の第九条にかぎっては、すでに空文と化して久しいのだ。

 問題はだ。突きつけられてくる現実を無視し、または現実におびえて、現実には目を配ることもせず、部屋に閉じこもっては念仏化したお題目を唱えていることに、なんの意味があるのかということだ。誰が考えてもわかりそうなものだ。なにかね、鎌田のなにがし君のばやいは、現実がどうあれ、念仏を唱えていたほうが幸福だとでもいうのかね。そりゃ、一種のカルトじゃないのかね。

「わたすたちのいのちである九条の輝き」?

 馬鹿を言うなよ、これカルトっ屁のなにがし君よ。もはや何一つ中身のない空文が、いかに輝いているというのかね。詐称詭弁もいい加減にしたまえ。それほどカルトがすきなら、この際だ、拙者が君たちに新しい教団名を授けてやろう。その名もオオエ真理教。どうかね気に入ってくれたかね。そうかい、そりゃよかった。世界のどこにだしても恥ずかしくない立派な教団名だ。教祖様も老いぼれたとはいえ、かつては一流の小説家だったと聞く。

「平和憲法がひっくり返された」?

 君たちが言う平和憲法とは、そもそもの始めは誰の創作だったのかね。何度もいうが、今から70年前の話だ。連合国司令官マッカーサー元帥に他なるまい。戦争放棄、交戦権放棄、武力放棄とうとうを詠っている第九条において日本国は手足をもぎとられ刀狩りされ、思想的に女郎化された。だが数年後、たちまちにして、この童話は崩れかけた。

 大陸では蒋介石は台湾に追い飛ばされ共産革命が成立した。目と鼻のさきの朝鮮半島で戦争が勃発した。現実の前には、理念なんぞは、なんの役にもたたずじまい。忸怩たる思いに浸ったマッカーサーは考えに考えた。日本政府に対して頼むから憲法をいじらずに適当な軍隊を作ってくれまいかと要請してきたのである。もちろん実際は命令だった。てめが作った平和憲法をひっくり返したのは他ならぬマッカーサーではなかったのかね。60年、70年前の話だ。なにがし君も、も一度よく戦後史なりを勉強してみたまえ。文句があるなら、今はなきマッカーサーの墓前にて雄たけびをあげながら積年の憂さ晴らしをしてくればよい。

 さりながら70年を費やしてきた戦後日本の来し方の全貌を端的にまとめてしまえば、これ以上は望めもしないほど平和であったことは間違いない。だからと言って、カルトっ屁の諸君が言うように平和憲法が存在していたからだなどとは、これぽっちも思わない。むしろ平和憲法が早々と内実のところ「ひっくり返って」いたからではなかったのか。上で記したように、憲法制定後、十年もしないうちに自衛隊が創設されたのだ。平和を言うなら、自衛隊の諸君こそ、わが国を守ってきたのではないのか。もちろん日米安保条約によっても、多々守られてきたのだ。アメリカさんによって日本は守られてきたのではなかったのか。

 左巻きのカルトっ屁の諸君らは、おそらく、これらの真実は口が屁曲がっても認めたがらないだろう。だが、大現実たる現状を認めねば近将来にわたる政治的実際の話には一向に戻ることはできやしない。書斎の穴蔵にふんぞりかえったままで自分の手だけは汚すまいと戦争はいやだ戦争は悪だと口先ばかりで架空の平和を求めるのが、なにがし君のような左巻きの連中がとりことなっている女郎思想の特徴である。

 ゆりかごから墓場まで、とにもかくにも守っていただかねば生きた心地もしないというのだから開いた口もふさがらない。戦後七十年、あきもせずに同じことを口走ってきた。妄想大国か、または信仰上の空想的教条の傘の下で、てめたちだけはちゃっかり安逸と平和が楽しめますよと、プロパガンダに励むがなんほだ。これが彼ら左巻きカルトっ屁連中の卑猥な本音と綱領に他なるまい。これぞ女郎思想と呼ばずになんという。

 

 

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▼ぜひ、皆さんに考えていただきたい・・・中学生の正論

2024年04月30日 | ■かもめ文庫

 これまたずいぶん昔の話になるが朝日新聞紙上で下のような投稿を見た。投稿氏が中学生であるという事もさりながら、その文意のなすところ、ずばり正論そのもので感心した。

 

2015.02.08 「朝日新聞」投稿欄より

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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▼天動説信者

2024年04月29日 | ■かもめ文庫

むかし書いた記事を読みて我ながら感心した次第にて再掲の儀に及ぶ

 

以下、2006,01,07 記

 そう言えば、私は子どもの頃、アメリカという国の存在を疑った。海の向こうにそんな大きな国があるはずがないと思っていた。大人たちが、なんらかの都合で口先だけで暗黙の了解のようなものをとっていたり、また教科書などにも確かに米国の存在は明確に記されてはいるけれど、実際のところは、むしろ架空の国ではないかと疑っていた。未だに、わたしはアメリカという国に行ったことがない。ふと、やはり架空の国かもしれないと思うことが、まれにあるのである。

 似たような話だが、やはり子どもの頃のこと。さんざんにチャンバラ映画を見ながらも「サムライ」というものは、映画の都合で作られた架空の話だと信じていた。大昔とは言え、へんてこりんなチョンマゲを結い、人きり包丁をぶらさげて歩いているような男が存在したはずはないと固く固く信じていた。義経も秀吉も信長も家康も、すべて映画とお芝居の世界だけの話だと思っていた。

 そのくせ、誰よりも誰よりもチャンバラ映画が大好きだった。現在は、サムライが存在していたことを誰がなんといっても固く固く信じている。これは、アメリカが存在するかいなかよりは、よほど強く確信できている。やはりアメリカの有無については行って見てきてから、在るや無しやを語ろうと思うが、いまのところできるだけ行かないですますつもりだし一生、あんな茫洋としたわけの分からない国には行くこともないだろうと見積もっている。

 ようするに私の利害にとって関係のない国などあろうとなかろうと、どうでもよいのである。それに、最近の話だが近頃のわが国の小学生の過半数が天動説を信じているという面白いニュースを耳にして、さもありなんと溜飲を下げた。私は地動説天動説を自分勝手に都合よく、あるときは地動説、またあるときは天動説を採用している。どちらか一つだけだと、かえって頭が混乱してしまい、困るからである。ようは自分の好みである。理科的な説など、自分勝手に都合よく使いまわしていけば、なによりの幸いである。

 説が三つあるなら、三つとも適当に案配よく使ってみると暮らしの幅が広がるというものだ。一つの学説に拘ることはない。なにより本人の実践である。自分の手をつかい、足を使う。そこで確かめられた感触こそ認識上の最大の利得である。ただし、その実感をして、これぞ真実なりなどと、他人に向かって法螺を吹き始めると、ここから経験主義という愚にもつかない信仰がはじまる。称して、口は災いのもとだ。ようするに私が言いたいことは、教科書もそうだが人の説などを頭から信用してはならないということに尽きる。

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▼ゆるやかな徴兵制のすゝめ

2024年03月27日 | ■かもめ文庫

以下、またぞろ昔書いた記事で悪いが・・・

●世に倦む日日・・・例えばね、「引きこもり」とか「ニート」とかレッテルを貼られて見捨てられている長期失業青年たちを、人手不足に悩む地方の農家で働いてもらうよう制度支援すればいいじゃないか。一人につき国が月10万補助するとか。それなら、農家戸別補償にもなって一石二鳥だと思うが、厚労省と農水省、どうだ。

 どうだも、こうだもねぇだろう。ヨニウム君もだいぶ行き詰まっているようで青息吐息だ。政治現象や政局ばかりを見て結果論を奉じてもそりゃ始まるまい。結局右も左もわけがわけがわからなくなってしまって理論的カスのクズ及び感情的ヒステリと指弾されている還暦おっさんよ。相変わらず誰それは左だぁ右たぁ~と腑分けして溜飲を下げていい気になっている口だ。そんなんじゃ、しばき隊元祖を自慢する例のイデオロギーのアンポンタン武蔵小杉のお弁護ちゃんに大差はあるまい。
 いいかい、ヨニウム君。丸山理論も司馬史観も今となっては漫画にすぎまい。口の減らないおっさんだ。カスみたいなことばっかり言ってんじゃあるまい。も少し歴史なりなんなり、きちんと勉強しろ勉強を。あ~ん。ニートの一人頭に十万円を与えるとな・・・そんなことをしたら日本のすべての青少年がニートになっちまう。十万円を使い果たした来月からは生活保護の申請手続きだ。
 逆なのだよ。君のような左巻きのアンポンタンには極論にしか聞こえんかもしれないが日本にも徴兵制のようなものがあれば彼らも救われるだろうぜ。半年間でよい。楽しい楽しい集団生活を経験させる。毛布のたたみかた。ゴミの出し方。野営の方法。包丁の使い方。ボタンのつけかた。雑巾を作らせ糸と針のつかい方を学ぶ。火のおこし方。ライスカレーの作り方。飯の炊き方、パンの焼き方。
 もっぱら教室では日本の地政と歴史を学ぶ。それに、彼らには日本語と文字を書く作業を復権させる。できればボールペンなどという貧弱な簡易式筆記用具は教室から一掃し常に万年筆を携帯させてせっせと日記を書かしめる。その他俳句を作らせ和歌を詠ませる。それらをすべて筆記させる。半年間の最後には卒業試験のかわりに手紙を書かせる。
 ん?誰宛に書くのかとお尋ねかい。そりゃ、おめ、まずは母上様または父上様あてに決まっているが、とてもじゃないが親などに手紙は出せないという変わり者には拝啓天皇陛下様でも前略総理大臣様でもよいだろう。なにごとも日本語の復権のためだ。よってこの半年間はスマホ、パソコンは厳禁となす。この間の彼らに課せられた必読文献は以下のごとしである。福沢諭吉『福翁自伝』、内村鑑三『代表的日本人』、新渡戸稲造『武士道』と、いずれも明治期の名著だが、この三冊だけはぜひとも彼らに読ませたい。
 ん?もう一冊なにか読ませろ、というのかい。ならばそれは決まっている。昭和の名著、会田雄次著『アーロン収容所』(中公新書)をおすすめする。
 ん?兵役はどうするのかとお尋ねかい。そりゃ、おめ、万年筆をもったからといって兵隊になれるわけがあるまい。かれらに兵役は期待しないほうがよい。どうしても兵隊に行きたいという一徹な頑固者のために、二年から三年間の養成期間をあたえる。ここで銃の扱いをはじめ徹底的にハイテクノロジーを学ぶ。国家の戦士とは、それは成績優秀者であることはもとより志願者の中からさらに選抜された、ごく少数者のみが勝ち得る栄冠だ。
 さてさて、この際「言葉狩り」と揚げ足取りに精を出すぐらいしかノウも足りない思想薄弱なる徒党連中の猿面冠者を相手に念のために言っておくのだが拙者の提案する「ゆるやかな徴兵制」に、まずは男女および出自貧富の差別はいっさいないことを明言しておく。いってみれば国家が国費でなさしめる義務教育の延伸とでも理解しておけばいいだろう。

●世に倦む日日・・・どんどんアイディアが浮かぶ。AI・ロボットの技術革新は、コンビニ・スーパー・外食の深夜労働をなくすために活用すればいい。深夜の店への立ち入りを、玄関でキャッシュレスカードでチェックするシステムにする。防犯OK。無人化OK。データ収集OK。一石三鳥。このアイディア、特許申請できないかな。

 そりゃ、おめ、早い話が自販機のことだろ。四角四面でのっぺりしているがAI概念はおおむね達成されている白物家電の完成型だ。雨の日も風の日も人の手は借りずに黙ってつったたまま文句ひとつ云わずに働いてくれている。こんなのが君の好みなのか。お世辞でも趣味がよいとはいえんぞ。だからよ、あんまし過信するなよ。AIとかロボット相手に。俺なんざ夜勤がなければ収入は三割減だ。夜勤とか残業があるから、こうしてなんとか、やりくりしていられんじゃねぇか。勤労をなんだと思っている。あ~ん。ものを知らない半端な文系インテリはこれだから困る。

●世に倦む日・・・最近、ずっとAIについて考えている。もう誰かが指摘済みかもしれないが、例えば、マクドナルド。あのファストフード業態って、ビジネスの形態そのものがAI・ロボット指向的ですよね。商品もサービスもきわめてシンプル。すぐに置き換えできそう。20年後は確実に無人化していると思う。 

 君の言うところの無人化とはヒト科があらゆる面で、それも限りなく無能化することに他なるまい。やればできることさえロボットに肩代わりさせて、てめぇは酒でも飲みながら、ふんぞり返ってなんぼのものだ。それでいいのかい。テメエの手だけは汚したくないとほざいて楽をすることばかり考えているヒトなんていう下等動物はいてもいなくても地球が平和であればそれでええということになるね。同感だ。

 

 

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▼春が来る古道具屋の帰り道

2024年03月16日 | ■かもめ文庫

例によって昔に撮った写真だが・・・

 

2017.03.18 横浜市

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

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▼8300年前の人骨発見

2024年03月06日 | ■かもめ文庫

昔の記事で悪いが・・・おいらの原点はここにあり。古ければ古いほど良きものが沢山あってヒト科の真実が偲ばれる。 「指折り数えて」という言葉があるが昔は、みながみな、実際にそうしてきたのだ。それが、どれほど幸福なことだったかを現代人は忘れてしまった。

 

2016.12.10 産経新聞

 

上のような報道を見て、なにより思うのは、いったいいつぐらいから列島の人びとは言葉らしきものを使っていたのかと云う問題だ。国内において文字の最初が『古事記』と『万葉集』であることは周知の事実だが、このふたつの文書が編纂されてから今日までの日本の歴史はたかだか1300年ほどしかたっていない。

文字をもたずに「しゃべる」ことだけで、やりくりしていた歴史は、その数百数千倍に及ぶと見られる。いずれにせよ歴史とは未来にむかってなど、なんの意味ももちようがない。過去にむかって思えばヒト科の悠久な時間の経過が夢のように感じられるのである。

以下、小林秀雄の『本居宣長』からの受け売りだが、文字を持たない時代の人々の暮らしぶりや心持のことが『古事記』から随所にしのばれるという。文字がなければ見たこと聞いたことのいっさいを頭に叩き込んでおかねばならない。

現代人(江戸期)に比べても古代人とは、どれほど頭がよかったかと本居宣長は感嘆したと云う。人の名、土地の名、自然のあらゆるものの名。さらに暦と人事、また所有や政治にかかわる事柄のすべて。

文字がなければ記録もテキストも、どこにもない。いちいちを克明に自分の脳に記憶しておく以外に術はなかったからだ。

 

 

 

 

  

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▼吾輩は野良である

2024年03月05日 | ■かもめ文庫

以下もまた、だいぶ昔の記事で申し訳ないが・・・

 

二歳下と四歳下の弟がいる。九歳下に妹が一人いたが三年前にガンを患って亡くした。写真左がやや肥り気味の我輩で先ほど野良専門のカメラマンに写してもらったばかりだ。右が生前の妹である。ごらんのように色白の美形であった。享年四六だった。すぐ下の弟は高卒後東京に出て働きながら夜間大学に通った。しっかり者でかつ働き者である。自慢の弟である。

その下の弟は高卒後アングラ系の演劇活動に入った。舞台をつくるなら彼にまかせておけば間違いない。役者が足りないときは舞台にも立つ。彼も我輩に似てずいぶん世間を狭くした変わり者である。親類縁者からは我輩同様の鼻つまみものだ。だが根性は人一倍でなみなみならない。現在はアパートの片隅の便所のとなりの格安四畳半にて一世一代の長編小説を書いていると人づてに聞く。しばらく音沙汰もないので、この正月を無事越すことができたかどうか。この寒空に餅の一つも食えないまま腹をすかせてコタツの中でくたばっているのではないかと案ぜられてならないのである。電話したくても電話がない。

さても、この間、妹のために何もできなかった我が身を深く悔い、ほとんど食うや食わずで部屋に閉じこもって喪に服していたのである。気がつけば、はや三年が過ぎていた。我輩もすでに老骨の身なれども、もう一度気合と鞭を入れなおすためにも外気を存分に吸ってみたくなり、こうして三年ぶりに界隈路地裏をへめぐっているところである。それにしても運動不足がたたって足がふらふらする。我輩も当年とって数え六十とあいなった。おお、今朝は朝日が全身にふりそそいでくる。お天道様も我輩の門出を祝ってくれているかのようだ。されば心も晴れ晴れ意気揚々たる気分なり。

<2007.01.04 記>

 

 

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▼咲いた咲いたスミレやスミレ

2024年02月21日 | ■かもめ文庫

例によって、むかし撮った写真だが・・・

 

2011.04.30 世田谷区

コメント (2)
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▼ところで志位殿 この先に「革命ごっこ」の展望は有りや無しや?

2024年02月19日 | ■かもめ文庫
以下は過日なる、JOCP(ジャパン・オールド・コミュニスト・パーティー)の公式ツイッターより
 
 
2023年2月8日 
 
大きな被害が出ているトルコとシリアにまたがる大地震で、緊急支援募金を受け付けます。国際機関などに届けます。
郵便振替 ▼口座番号 00170-9-140321  ▼加入者名 日本共産党災害募金係

*通信欄に「トルコ・シリア地震募金」と明記してください。手数料はご負担願います

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
 
 

 集まった金は国際機関に届けますと言うが、国際機関とは真逆(まさか)かつてはモスクワに所在したとされる今や亡きコミンテルン本部のことではないだろうな、などと今や冗談をたたかれている始末。それにしても随分とまどろっこしい話だ。すでに在日トルコ大使館では、義援金の類は直接自分のところに送ってくれと口座を公開している。なぜに日本共産党を経由する必要があるのか。疑念が深まる。
 さらに、共産党は約20年前に党本部ビルを建築するにあたり多大の寄付を募ったが、その時の口座と上の番号が同じだと指摘する人あり。
 
以下は、(現行)日本共産党中央委員会ホームページより

日本共産党中央委員会は、党本部を21世紀に躍進する党にふさわしく全面的に建て替えることを決めました・・・全国の党員と後援会員、支持者のみなさんの心のこもったご支援、ご協力をえて、この計画を立派に実現させたいと思います。計画実現の最大の保障となる建設資金は、中央委員会の建設積立金とともに、全国からの寄付、建設協力借入金によって確保する計画です。日本共産党へのご支援を心からお願いします。

 完成予想図(地上11階 地下2階)

1999年9月 日本共産党中央委員会

郵便振替の場合は、党本部建設募金用の郵便振替用紙を使い、その通信欄に必要事項を記入し、下記の口座に送ってください。
郵便振替口座 00170-9-140321
日本共産党中央委員会

*********************

 大きな災害のたびに共産党は、ここぞとばかりに被災者が被災者がと全国の駅頭にて大声たてて被災者救済は、わが共産党にお任せくださいと、ちゃっかりと被災者の代行ばかりか、そのうち被災者自身に成り済ます。たとえば2016年の熊本地震のさいにも募金を集めたが、その時の口座番号も上に同じであった。集まった金は無事、選挙のために使わせていただきましたと深謝公言する正直者の、とある共産党国会議員の当時のツイートが暴露され大笑いされている。
 おい、おい、どうなっているのかね、共産党のがま口は。昨今、公金チューチューという流行語が飛び交っているが共産党の場合は、さしずめ寄付金チューチューと言った次第かね、あ~ん。

 

さて以下は、むかし書いた記事の再掲だが・・・

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2015.05.02 東京都足立区

 

●世に倦む日日・・・JCP大会。注目は人事だが、90歳になる不破哲三が常任幹部会から引退するという情報がある。高齢の浜野忠夫と市田忠義も勇退。で、志位和夫が議長に、小池晃が委員長に昇格。となると、書記局長は誰がやるんだろう。田村智子かな。54歳。順当な線だ。35歳の山添拓ならプリンス大抜擢。

 本日(2020.01.14)から始まっているようですね。日本共産党第28回党大会が。わたしは、彼らには何一つ期待はしていない。人事についても同様で、まったくもって興味なし。どこの馬の骨が引退しようと誰が党首になろうと書記局長になろうが、党勢の衰亡は止められないと思いますね。世相政情のリアリズムより理論と概念、すなわち教条や教義をよほど重んじてきた一党一派ですから。換言すれば足の爪先から頭のてっぺんまで覆われている独善的体質は目をおおわんばかり。偽善と二枚舌だけは天下一品。百戦錬磨のダブルスタンダード使い。それでも本人たちは、おれたちが一番正しいと信じているのですから開いた口もふさがりません。一種のカルト政党であることは間違いないでしょう。あまつさえ都合の悪いことは徹底的に隠蔽する。

●志位和夫・・・2月19日・・・党首会談では、志位から「野党連合政権に向けて歩みを進めるためにも、政策的一致点を広げるとともに、不一致点にどう対応するか、4点(日米安保条約、自衛隊、天皇の制度、社会主義・共産主義)について公式に各党に説明に伺いたい」と提案。枝野代表からお受けいただけるとのご返事がありました。

 おいおいおいおい、またまた、ごまかすつもりかい、志位殿。枝野殿から問われた、それら4点こそ、日本共産党が、共産党たる大綱領では、ござらんか。それがなくては、共産党は共産党ではござらんばい。で、野党共闘を実現成立させるためには、どのように、立憲代表の枝野様宛てに、ご回答申し上げるのですか。国民は知っておりますよ。二枚舌のあなた方の決まりきった言い草による逃げ口上の屁理屈は、以下、例によって例の如し。

 日米安保条約についてはですね。ですからですね、ですから何度も申した通り、国民のみなさまにもご安心たまわりたく存じ候。ですからね、ですから十年後二十年後、国民の総意が、まかり間違って安保条約は反対だっつうことになっちまったあかつきにはですね。もつろん共産党といたしましても、ほん時はほん時で本腰入れて全面的かつ徹底的に安保条約に反対する予定だす。

 自衛隊についてはですね。憲法第九条違反は違反なのですが、とりあえず災害対策上なくてはならないものであり、いますぐなくせなどとは決して申してはおりません。徐々に徐々に、なくしていければ、それでよいのでありまするからして、どうか、ここは一つ、わたすどもの気持ちもちったぁ汲んでやってみて頂戴納豆。

 さて天皇の件ですが、この件についてはですね。ようするにですね。ですから。それはその、あの~ その~ もし出来たならばですね、仮にですね、仮にでも百年後の日本国民が、天皇は必要ないとでも言い出すのであればですね。そのときは、やっぱ天皇の存在について、なんらかの結論が必要とされるのではないでしょうか。いずれ百年後のことです。わたすども共産党としてもいまのところは、天皇陛下万歳で行けるものなら、そりゃ行ってみても、よろしゅうござんすよ。何事も野党連合のためならば。

 それから、あの~、よっつ目の課題として、何でしたっけ。ああ~、思い出しました。社会主義・共産主義の件ですね。それはですね。あの~我々の理念としてのですね。ですから、そりゃやっぱ、それだけは、その~、ですからですから、念仏代わりにでも、一応のところ名前だけでも残しておかにゃ~我々の存在価値が、それこそ無となってしまいますからね。決して、皆様に共産主義をして心の底から認めて欲しいなどとはこれっぽっちも思ってはござりません。社会主義・共産主義とは、カルトっぽく聞こえるかもしれませんが、腐っても鯛は鯛だす。腐ってもマルクスはマルクスでありゃしゃんせぇってな調子だす。賞味期限(ロシア革命 1917年)が切れて以来100年を超えた。それこそ腐り果てて腐臭芬々たるマルクス主義の奥義の中にこそ、われわれ共産党員およびアカハタ読者の、そこはかとない心の問題があるのですからして、決して決して今後一切、公の場で「万国の労働者は団結せよ!」などというテロリズムめいた革命的大法螺を吹いたりしないことを約束しますので、どうか、ここは、われわれをして野合連合に加えさせてはもらえませんでしょうか。平身低頭、よろしくお願いたてまつり候。

 ハイ、野合連合から言われたことは何でもいたしますよ。かりに明日、緊急集会をば挙行するとなれば、そりゃもつろん、それ相応の動員はかけられますよ。必要な員数をそろえて無事送り出します。こうした下働きの動員数だけは、どこの政治団体にも負けません。例によってじいさんばあさんが中心ですが小沢一郎先生が云うとおりカネカズこそ民主主義ですから納豆。カネの方は小沢先生の才覚におまかせするとしても、動員の方だけは我々共産党に全面的にお任せくだしゃんせ。定年退職教員あがりと自治労あがりの彼らは今のところ年はとっても足腰だけは丈夫だす。

 

●志位和夫・・・一部メディアは「野党はいつまで『桜』をやってんだ」という。お答えしよう。疑惑と責任を明らかにし、首相を辞めさせるまで徹底的にやると。首相の延命術は、次々起こる疑惑に一切答えず、逃げ回り、「慣れてもらう」「忘れてもらう」。ここに尽きる。今度こそこの延命術を決して許してはならない。

こりゃ、だめだ。共産党委員長の志位さんは国会を一日開催するにあたって国費(税金)がいくらかかっているかご存知か。一説によれば三億円だとのこと。毎日毎日、桜が咲いたか散ったかと春でもないのに、くだらない黒白漫才のために国民の目の前で三億円がドブに捨てられている。ますます疑惑が深まりましたって、何ヶ月やっているのだ。モリカケ以来、数年間、ますます疑惑が深まりましたってか。連日連夜、こればっかしだ。あんまし国民を馬鹿にするなよ。

国民は知っていますよ。あなた方が、なぜにそこまで「安倍辞めろ」のワン・スローガンに固執しているかを。憲法改正の話、およびシナ、朝鮮方面の話、さらに原発再稼動が日本にとっては、どうしても必要なこと、などなどの喫緊の課題について、いっさいこれらの議論を封殺しておきたいがためであることを。国会を私物化しているのは、よほどあなた方のほうでしょう。

●世に倦む日日・・・共産党が山口二郎を党大会に呼んだということは、正式に小選挙区制の軍門に降ったということだ。ずっと戦い続けてきた「政治改革」に対して降参して白旗。党名変更が視野に入っている。近々、政党助成金の受け取りに出るだろう。共産党も財政が逼迫して困っている。背に腹は。孤塁を放棄。落城。

政党助成金の受け取りは有るかもしれぬにゃ。恥を忍んでってところだろう。いずれ微妙なところだ。比して党名変更は即、解党を意味する。日本におけるマルクス主義および共産主義の最終的敗北であり消滅を意味する。今日明日中にできる決断ではないだろう。こればっかしは強力な老人力を発揮して院政を敷く不破哲三(当年90歳)配下のイエスマンに過ぎない志位和夫にも番頭職の小池晃にも到底無理な話だ。さてはて、それにしても小選挙区制の権化、政党助成金の生みの親、小沢一郎氏はどうしたのかね。前回の党大会では全国から集ってきた共産党のじいさんばあさんから割れんばかりの拍手喝采をもって迎えられた。金の亡者の民主主義の偏平体の、その実、自衛隊賛美者、憲法改正論者たる小沢一郎先生は今回の党大会には呼ばれていないのかね。あ~ん。

●世に倦む日日・・・共産党というのは理論家じゃないと党を引っ張って行くことができない。党を指導できない。不破哲三の跡継ぎがいないから、100歳になっても110歳になっても、永久に不破哲三に引っ張ってもらわないといけないということだ。無理ですよね。結局、党名変更(綱領放棄)しかないことになる。 

ま、そんなところでしょう。現在90歳の不破哲三が100歳まで党を引っ張っていくとは申せ、十年なんてあっという間ですからね。十年後、党員の平均年齢は80歳となる。いくらなんでも、やっていけるわけがない。

以下は、その後記したる同事案なり

●有田芳生・・・9月26日・・・厳しい小沢一郎批判をしていた共産党も変わりました。僕の小沢一郎観は「宮本顕治さんのような大局観がある」というものです。「報道1930」(24日)。小沢発言のポイント。「野党は次の総選挙で政権を取り、われわれの主張を実現する。それが『次の次の選挙でもいい』では国民は受け入れない」。

上は、ついさきほど見た(立憲)参議員有田芳生氏のツイッター上の記事とそこに引かれてた新聞記事なのだが、もうずいぶん昔に共産党から除籍されてしまった後も、相変わらず90%はコミュニストに違いない有田芳生さんの喜悦している様子がよくわかる。

 

2017.01.16 産経新聞.

 

何の因果か
元はと言えば右と左で
天敵同士の芋大根が
この期に及んで
屁っつきやがった
金の亡者の小沢の一派と
数の亡者の代々木の一派は
ミソもクソも一緒に数える
二重基準の二枚舌
紅いべべ着た合作合金不純物
その場その時の色使い
ペンキを上塗り
ごまかしてきた
仮面かぶりの集大成
政治泡沫のガス抜き機構
笑わば笑えじいさんばあさん
古物半値の五割引
むくれっ面の万歳三唱
党利党略安保ンタン
末は墓場か絶滅危惧種



 

  

 

 

 

 

 

 

 

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▼言問橋でちょいと一杯

2024年02月18日 | ■かもめ文庫

以下は例によって、むかし撮った写真で悪いが

 

2015.02.24 台東区

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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▼街道にキアゲハ見たり猫の汗

2024年02月10日 | ■かもめ文庫

 

 

昔とった写真だが・・・・

 

 

2015.08.16 横浜市  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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▼雨の日の落葉のお寺参りの帰り道

2024年02月04日 | ■かもめ文庫

以下は、例によって昔とった写真だが

 

2014.11.29 川崎市

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

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▼分かりやすいということの罪 二題

2023年12月20日 | ■かもめ文庫

下はずいぶん昔に書いた記事なのだが現在でもなお一読の価値はあるだろうと持ち出してみたまでのこと。「盛者必衰」とか「奢れる人も久しからず」というが、せめて流行を疑うぐらいの常識を持とうではないか。それを「知性」と言うのではないのかね。皆の衆。かくいう拙者も若い頃は、その時々の流行思想に騙されっぱなしだった・・・。

 


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宮本百合子がソビエト留学から帰国(1930.11月)した直後に書いた短いエッセイがある。このエッセイに挿入されていた「未来都市」のイラストは、星型の城壁の中に息づく未来都市である。学校あり工場あり、宿舎あり、スポーツ施設ありというものだ。図を書いたのはソ連邦共産党が組織した少年団「ピオニール」に所属するユージェ君というモスクワ在の少年である。百合子は次のようにユージェ君の星型都市計画を、社会主義的であるとして大真面目に絶賛している。

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子供・子供・子供のモスクワ

ちょっと、この小地図を見る気はないか。

A  労働者住宅
B  ソビエト農場「ピオニール」
C  運動グランド
D  労働者クラブ
1  天文学校
2  小学校
3  中学校
4  職業学校
5  託児所
6  子供の遊び場
7  ピオニールのクラブ
8  レーニン記念像
9  発電所
10 紡績工場
11 染工場
12 皮皮工場
13 織物工場
14 ピオニール野営所

もちろん、モスクワでもミンスクでもない。

雑誌「ピオニール」が子供たちから「私たちはどう暮らそう」という題で募集した社会主義的計画のひとつである。

社会主義的都市建設はCCCPにおいて計画から実現の時代に移っている。

ウラル・ドンパスその他、新興生産中心地だけはすでにいくつかの新都市が生まれた。

そこにもモスクワより合理的な生活の新様式があるのだが、このユージェ君のプランは、面白い。ソビエトの少年が、かの集団的生活、家庭における生活の実際経験から、社会主義的生活の理想のためにどんな都会を要求したか。

この「赤い星」形の樹木でかこまれた工業的都会は農村とどう連絡しあっているかを、市民の生産的社会労働の核をなすさまざまな工場が、その性質にしたがって或るものは川岸に、あるものは住宅近く配置されている点を注意してほしい。

ユージェ君は託児所について特別の関心をはらっている。大人のための労働者クラブは住宅区域の内に、ピオニールのクラブ、学校、子供の遊び場その他は東側の二隅に、すっかり分類されている。

大人の生活と子供の生活との間にある間隔の欲望、これは現在ソビエトの意識からある若い時代共通の望みだ。

ソビエトである程度以上年齢の差のある大人と子供は大人子供というより、根本的に世界観の違った旧人間と新人間の差である場合が多い。

彼らは社会主義国家の働き手として健康な集団生活の中で必要な訓練を安らかにうけることを望んでいる。


<新日本出版社刊「宮本百合子選集 第8巻」より>


そこで、百合子の文章に対してわたしが言いたいところは、冒頭のタイトルに尽きているのだが、ようするにユージェ少年の書いた未来都市の構想図は、百合子にとっても人々にとっても、実に、分かりやすいという、その一事だけのことなのである。言ってみれば社会主義というものが、その一語に尽きているのであろう。分かりやすい社会のことである。己にとって分かりやすければ、それでよいのである。当然、文化に表象される風土と歴史などは捨象されてしまう。考えても見たまえ、ロシアにはロシアの、モスクワにはモスクワの歴史に裏打ちされた文化や風土、人々の意識というものがあるはずだ。

これを少年の他愛ない願望は、一顧だにしない。できないのである。総じて子供というものは、歴史というものを痛切に感じることは、できないものである。土地土地の風土と文化には、社会主義や革命思想なのでは、とうていおっつかない重々たるものが流れている。これを知らないかぎり未来について、何を語れる資格があろう。歴史を考慮しなければ、社会というものは限りなく単純化することが可能だろう。だが、見てくれだけのことだ。目に見えるだけのことではないか。分かりやすく見えるというだけのことではないか。分かりやすいということと、人生はまったく別問題である。

分かりやすいということと幸福の到来は別問題である。昨今、世界の革命運動が、ぽしゃってしまったのは、こうした見えない歴史的力量に逆襲された結果だと私はそんなことを考えている。社会は社会科学者にさえ、実のところ、何も見えていないのである。自分の人生が一向によく見えないように世界や社会というものも、よくは見えないものなのだと、思っておくべきだろう。

見えているはずだというのは、傲慢が過ぎるというものだ。そのように思い込んでいるだけのことである。世間とは何かが、よく、分からないのは、どのように歴史が流れてきたかが、分かっていないからである。社会とは現象ではない。少なくても現象に集約することはできない存在である。他者という人間もそうだが、一目見れば分かるという、そういうものではないのである。

学問的に、どれほど深く研究しても結論は、すべて指の隙間から落ちこぼれていく。なぜなら社会というものは、生きているからである。それも水面下で、とうとうと流れている。また、日々、息づいている生き物だからである。水面下を、見ようとしなければ、歴史など、何一つ見えるはずもない。

わずか3年の滞在で、百合子にロシアのなにが分かったというのか。脳に描いた都市を、紙に写すだけなら、どんな構想図でも描けるだろう。百合子が好んで使っている「分類」という手法を用いれば、それこそ地図はいくらでも簡略化でき子供でも老人でも描けるのである。ユージェ君の描いた地図に、私がなによりも不満に思うのは、酒場、映画館などの娯楽施設が描かれていないことだ。笑い事ではあるまい。これではまるでヒトラーが作ったゲットーに紙一重ではないか。<2006.05.02 記>

 

だがしかし、分かりやすいという罪は現代にも多々起こる。

2005年のことである。世田谷区民会館にて一大集会がもたれた。壇上には江川紹子さん、滝本太郎弁護士などが顔をそろえていた。2002年のNHKテレビドキュメンタリ番組「奇跡の詩人」以来、当の番組をめぐって、アオスジ立てて、当の番組はウソだと、根底的に批判し否定する滝本太郎氏も面を出すということで、彼が何を言い出すのかと遠路はるばる、わたしも集会に参加してみたのである。彼は話をしたのか、しなかったのか、今となってはよく覚えていない。わたしが面白かったのは、茶番もどきの手品師の手品のことなり。

シンポジウムの前半は立命館大学教授の安斉育郎氏の基調講演。安斉は手品が趣味だとしきりに自慢していた。講演中なんどかスプーン曲げを実演なさっていたが、70年代旧ソ連(ロシア)の出身で「超能力」によるスプーン曲げの妙技を一挙に世界に広めたユリゲラーも顔負けの見事な出来映えだった。安斉氏のお話をもとに私も集会から帰宅してさっそくスプーン曲げをやってみたら、できた!タネを明かせばテコの原理に尽きる。すると、スプーンの一番細く弱い首の部分がいとも簡単に曲がってしまう。

誰でもスプーンは曲がるのですと、安斉は強調する・・・よって、だから・・・昔、TVに出て儲けたロシア出身のユリゲラーは罪深い者であるかのごときに決めつけ、さんざんに詐欺師だぁ、食わせ者のだましやの手品師だぁと。どうやら演台登場のさいの持参したスプーンは10本以上であったようで、何度も何度も見事な「手品」を実演してくれるのです。1本曲げては、ユリゲラーを攻撃するわけです。ねっ、簡単でしょう。誰もできるでしょうと言いながら、またいとも簡単に手品を実演してくれるわけです。

これが科学者?おそらく安斉さんは、全国行脚の講演の旅。3日に明けずスプーンを曲げているのでしょう。ユリゲラーの詐欺を糾弾するという「名」のもとに。だけど、どうも変だ。あなたこそ、ユリゲラーのお陰で、こうして手品をしたり講演したりして飯を食っているんじゃないのかい?と。騙されてはいけませんと言いながら、月に数十本のスプーンを問屋から買ってきて、それでスプーン曲げ手品の二番煎じを演じて・・・・それで飯を食っているのが・・・あれまっちゃ・・・科学者たるあんたじゃなのかね。師匠たるユリゲラーを攻撃して、自分で手品やってる。もしかしたら、世の教師なんたるものの本質もここにあるのかにゃ?彼らこそ衆愚の心を撹乱して危機感をあおり、「正しいこと」はオレだけが知っている顔して、講演したり手品を演じたりして、売名し、本を出したりよ。これで商売しているのかにゃ。

こうした疑問が大きくなってきたわけです。「正しい」と言われている、彼らこそ不正な存在なのではないかという根本的疑問です。彼らこそ「抑圧する側」に立っているのではないのか!実は抑圧している側でありながら、抑圧された側に立っているという思いこみがある。ここから差し出がましい独善的な「正義」の言辞が出てくる。科学も理屈も、傲慢と独善に偏っていては、たちどころに似非科学となる。

安斉氏はユリゲラーの手品をパクっているに過ぎないのである。それ以上でも以下でもない。昔の名前で出てきた、二番煎じの手品師だ。集会に参加した私は安斉氏の手品(似非科学)にまんまとだまされるところであった。

安斉なにがしより最初のスプーン曲げの技術を開発した正真正銘の手品師ユリゲラーのほうがなんぼか偉いか。これ安斉なにがしよ。科学に名を借りて二番煎じの手品に興じてなんぼのお前さんは、どう思う。人の技をパクッてばかりいないで、たまには独自の新しい物事と法則を考察してみるのが科学ってもんじゃないのか。

<2006.01.10 記>

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