赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼逆説コミコミネーション

2006年01月30日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
コミュニケーションというものの中には互いに傷つけあわずにはおかないメカニズム、またはある種の暴力性というものがそもそも内在しているような気がしてなりません。コミュニケーションという言葉は上っ面に聞こえるが、ようするに人間関係に表れるあらゆる現象と心理のことでしょう。一見、仲良くしているようでも双方の内面は分かったものではありません。また無理に双方の心理を同調させておく必要も、これを記録しておく必要もないはずです。コミュニケーションの中から完全に暴力性を追放してしまえば、われわれはセックスもできなくなる。おそらく子どもを育てることも不能になり「教育」を手放すことになるでしょう。さらに進めて原理的に極端に言ってみれば、知らない人に声をかけることすらできなくなる。言葉をかけるということは、かなり一方的な行為です。だが、そこから始めなければコミュニケーションもへったくれもない。対話にも会話にもなりません。その意味を敷衍するに、コミュニケーションの現場における言葉の持つ価値とは、実に暴力的な価値が許容されていると見なければなりません。人を傷つける類の言葉とは、なにも誹謗中傷ばかりではないはずです。相手から、それまで自分では知らなかった自分についての真実を指摘されれば、誰しも傷つくものです。相手に指摘されて始めて自分を知るということもあるのです。そのときは確かに傷ついて途方にくれたり、涙を流して抗弁してみたりもするでしょう。いずれにしても他人とのこうした心の往還こそ、広義の意味で教育の醍醐味とも言えるのではないでしょうか。心の中で激しくぶつかることがたびたびある。さらに必ずしも相手が人間だとは限らない。事物や自然物でもよい。激しく出会う。こうしたときは、心も激しく傷つくものです。たくさんの傷を負いながら、一方では、なんとかその傷を癒しながら治癒することを待ちつつ、さらに日常的に傷つけられている。こうした経験を経て子どもも情理をわきまえた大人になっていくのだと思います。これこそコミュニケーションというものではないでしょうか。仮に、決して傷つけあってはならないというような約束やルールのもとに成立する関係性があったとしても、それはコミュニケーションとは似て非なるものであり、なに一つ教育的価値はないと思いますね。空想上の産物ですよ。

<2006.4.7記>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする