赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼著作権保護期間延長に反対します

2007年05月28日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
著作権保護期間延長反対の主張は、リンク先の青空文庫を見ていただければ、わたしの方からは、改めて言うことはないのだが、当ブログでも、このたび動画を貼り付けることが可能となったと聞いたので、ものはためしと、以下、貼り付けてみただけのことである。

<embed pluginspage=http://www.macromedia.com/go/getflashplayer src=http://www.veoh.com/videodetails.swf?permalinkId=v213693PSM4bpBY&isVlog=true&id=1&player=videodetails width=540 height=405 type=application/x-shockwave-flash>

だが、ごらんのように、まだ動画になっていないのである。ま、そのうちに動き出すだろう。
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▼弟の小説

2007年05月24日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

半年も前に下の弟から、一束の小説原稿を送ってもらっておきながら、読まずにいたところ、先日弟からメールが来て、さっさと読めとせっつかれ、重い腰を上げ読んでみたのである。原稿枚数にして400枚ほどの、なかなかの大作である。実に面白かった。だが、それは、面白そうなところだけを選んで読んだからである。おおよそ3分の1ほどは未読のままだ。それにしても文中、明らかに兄の私がモデルとなっていると思われる描写もあって、冷や汗をかく思いがした。その他の部分でも、大笑いさせられたり、ドキリとしたり興奮さめやらずで、寝につくまでが大変だった。私がドキリとした部分とは下記である。

照子と信夫が出会ったのは、町の工場の勤めから帰宅するために使っている村のバス停から姉の満子が戦前から後家に入っている広治の家に帰る途中だった。姉の満子を頼って、照子は広治の家に終戦直後からやっかいになっていたのである。信夫は町の小さな工場に旋盤工として勤めていた。信夫の家と照子が世話になっている姉の満子の家は遠縁にあたり、歩いても数分の距離である。信夫は町まで自転車で通勤していた。昭和23年が明けてまもなくのことである。照子は30、信夫は23になっていた。

ある日の帰り道。照子がバス停から降り、しばらく村道歩いていると、後ろから信夫が自転車で追いかけてきた。信夫は照子に、自転車の後ろに乗れと誘った。照子は恥ずかしかったが、乗せてもらうことにした。以後、急速に二人は親密になっていった。何度目かの自転車同乗の折、信夫は照子に、今度の日曜日、町に映画を見に行かないかと誘った。照子は同意した。日曜日になり、ふたりは町の駅前で待ち合わせ、すごそばの映画館に入った。東映の時代劇がかかっていた。映画がはねて食堂で飯を食った。この日も二人は自転車に同乗して村まで帰っていったのである。

道は真っ暗だった。村境に入る峠を上っている途中、信夫は情欲に負け、照子を山の中に引っ張り込んだ。照子としても、まんざらではなさそうだった。自分からさっさと服を脱ぐ照子を、草むらに腰を下ろしていた信夫は、照れくさそうに見上げていた。2月の夜である。いまにも雪がちらついてきそうな寒々とした暗雲の下で信夫は照子の子宮の中に射精した。照子は、その日の山の中の契りによって信夫の子どもを宿した。

まさに、わたしはそんな風にして、この世に生まれてきたと母から何度か聞いている。弟の小説描写は母の話よりなお微細にわたって書かれており、それが昨夜の私に冷や汗をもたらしたのだ。さきほど弟に次のような読後感をメールで送っておいた。

作品のところどころに、笑ったりドキリとさせられたりしたというのは、俺たちが子どものころ、すごした父の親類のいる村の事などをはじめ、おやじとおふくろの関係はもとより俺たちがよく知っている、子ども時代のことなどが描写された部分だった。他の読者は、どう思おうと理解するのか、そんなことは俺には分からない。俺は君の兄弟だからね。作品の背景などが心に当たり、いちいち痛感して、ドキリとさせられたり、涙が出てくるほど心底から笑えたのだよ。これは幸せなことさ。心が洗われたとは、こうした時のための言葉だと思ったほどだ。俺に自分の「弟」が書いた小説の巧拙なんて、評せる資格はこれっぽっちもないよ。読ませていただき感謝だ。その一言だ。

なお、当原稿は昨年、某新聞社の懸賞小説に応募してみたところ残念ながら落選したそうだ。

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▼「人生の鍛錬 小林秀雄の言葉」新潮社

2007年05月23日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
    

 

 

 


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上はごく最近出た本らしいのだが、めったに書店をのぞくことの無い私はまだ未見である。「小林秀雄の言葉」と副題にあるように、小林秀雄の本は、それこそいたるところ随所にアフォリズムと箴言が散りばめられていて、読者を酔わせてくれるのである。これほどまでに散文の、それも批評文をして修辞にこだわった文士はいなかっただろう。よく、彼の批評は詩であると言われてきた所以もここにあったし、また反面小林がいまだに誤解されている所以もここにある。彼の文体は偉そうで格好ばかりつけていると、いまだにそんな声をよく耳にする。小林に、自覚がなかったわけではない。戦前のことだが、中野重治に、曖昧にして非合理な文体だと噛み付かれ反論している文章がある。

君は僕の文章の曖昧さを責め、曖昧にしかものがいえない男だとさえ極言しているが、無論曖昧さは自分の不才によるところ多いことは自認している。以前、フランス象徴派詩人等の強い影響を受けたために、言葉の曖昧さに媚びていた時期もあった。「中野重治君へ」(昭和11年)

滅多に聞けない小林の弁解である。中野は、この戦時にイデオロギーをはっきりさせるのが文士の役目だろうと要求し小林を非難してきた。つまり小林の批評的立場、または文体そのものを到底理解できなかったらしい。理解しようとするにはあまりに、ピントのずれたいちゃもんだった。中野のほうがである。中野は政治的条件から外れたところに文学営為が成り立つはずもないと心得ていたマルクス主義者であった。プロレタリア文学運動の立場から、頭ごなしに小林を非難してきた。小林のほうが、よほど大人だった。この短文の、末尾は次のように閉じられている。

僕らは、専門語の普遍性も、方言の現実性も持たぬ批評的言語の混乱に傷ついてきた・・・その点は君も同様である。今はこの日本の近代文化の特殊性によって傷ついた僕らの傷を反省すべき時だ。負傷者がお互いに争うべき時ではないと思う。(〃)

中野からの非難によって直後から小林秀雄の文体が変わってきたとは、思えないが、少なからず自省するところはあっただろう。小林は敏感な人だった。両名は明治35年生まれの同年である。終生、よい意味からも悪い意味からもライバル同士の関係が続いた。小林は、戦後に書いた内輪話の中で、次のような愉快な話を披瀝している。

あるとき、娘が、国語の試験問題を見せて、何だかちっともわからない文章だといふ。読んでみると、なるほど悪文である。こんなもの、意味がどうもこうものある.もんか、わかりませんと書いておけばいいのだと、答えたら、娘が笑い出した。だって、この問題は、お父さんの本からとったんだって、先生がおっしゃったわ。へえ、さうかい、とあきれた・・・おやぢの面目まるつぶれである。(「国語といふ大河」)

おそらく小林秀雄の文体が決定的に変わったことを読者が明確に知らしめられるのは、晩年の労作「本居宣長」である。変わったわけではないのかもしれない。小林の中には、もともと内包されていた、いくつかの文体上の手法が、われわれに違った風に見えているだけのことかもしれない。おそらく、そう言っておいたほうが、正解ではないだろうか。そんなことは中野重治に指摘されるまでもなく小林には、よくわかっていたことなのである。

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▼命日に集う

2007年05月21日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
昨日は妹の命日なり。われら三兄弟が婿殿の家に集まって一日を過ごした。あれから3年がたつ。生きていればちょうど節目の数えで50。昔話に花が咲く。

新しき仏壇買いに行きしまま行方不明の弟と鳥・・・・寺山修司
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▼母を訪ねて地蔵様

2007年05月14日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
母を訪ねる。病院から夏物のシャツを持って来いと電話があった。できるだけ派手なものを選んで5枚ほど買っていったところ喜ぶは喜ぶは。ぜんぶ着せろと言ってきかない。5枚すべてを重ね着して満足したのか大笑いしていた。88歳になった。

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや・・・・寺山修司
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▼焼け跡から生まれた憲法草案

2007年05月07日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法
<1945.09.27 マッカーサーを訪問した昭和天皇>

昨日は、一日雨だった。夜になりNHK・TVで『焼け跡からうまれた憲法草案』という番組を見て感銘を深めた。

われわれは、現行の新憲法はGHQから一方的に押し付けられたものとして教えられてきたが、かならずしもそうではないようだ。

すでに終戦直後より、焼け跡に生き残った憲法学者の鈴木安蔵以下、自由主義的な学者やジャーナリストたちによって憲法制定委員会なるものが創設され新しい憲法を案出するための研究が進められていた。

マッカーサーのGHQとしても、できるだけ日本人自身の手によって新憲法が作られるように、影になり日向になりして、彼ら憲法制定委員会を支援していたことが判明した。

GHQが憲法案を出してきたのは、すでに議論も終盤にさしかかっていた頃である。いくつかの政党、団体、そして学者らによって憲法案が提出されてきた。新聞も連日、これらの案を紹介していたのである。国民的議論があったのである。終盤に至り政府案も出されてきたが政府案は天皇条項をはじめ、いくつかの点でGHQは承服できがたかったらしい。

そこでGHQとしては政府案に対抗するように、憲法制定委員会案などを下敷きにして、ほぼ現行に至る新憲法案を政府に持ち出してきた。政府は三日三晩の徹夜で日本語訳を作成し、これを議会に上程したのである。この翻訳作業に白洲次郎もかかわっていた。さらに、GHQ案をたたき台として、国会審議の過程で、いくつかの重要な条項が付け加えられたという。国民は文化的最低限の生活が保障されるとある生存権などは、GHQ案にはなかったと聞く。

言うまでもなく新憲法の制定が急がれたのは、旧憲法をただちに破棄する必要があったからである。議論が難航したのは、当然ながら旧憲法の柱であり国体の中心的概念であった天皇の存在をどうするか、またはどのように叙述するかにかかっていた。

天皇の存在論的規定の解決こそ新憲法制定の要諦だった。旧憲法では「神聖にしておかすべからず」と謳われていた宗教的存在を、である。

GHQ案に「シンボル」とあって、それをたんに「象徴」という言葉に訳しただけだったのか。それは知らない。いずれにしても天皇をして「象徴」という言葉で叙述した条文こそ、ある意味第9条の平和条項以上に日本という一国のその後の政治総体と歴史にとって、今日に至ってもなお大きな価値と、深い意味が存在しているように思われる。

象徴天皇の一語こそ、戦後日本の国民に安寧と幸福をもたらしてくれた根本基底だったと申しても過言ではないだろう。もうひとつ、断じて新憲法は日本人自身の手で作られたものであると強調しておきたい。昨日の番組から、そんなことを思った。

「終戦時の感想」(昭和20年)
爆撃に倒れゆく民の上をおもひ いくさとめけり身はいかならむとも

「新憲法施行」(昭和22年)
うれしくも国の掟のさだまりて あけゆく空のごとくもあるかな

「千鳥ケ渕戦没者墓苑」(昭和34年)
国のため命ささげし人々の ことを思へば胸せまりくる

「晴」(昭和64年)
空晴れてふりさけみれば那須岳は さやけくそびゆ高原のうへ

「昭和天皇の和歌」1997.12.15 創樹社


http://www.book-navi.com/book/syoseki/shouwa.html

<1510字>
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▼鎌倉 東慶寺

2007年05月05日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
先日、東慶寺の小林秀雄の墓を訪ねたことは、墓の写真とともに、下の記事に書いたとおりだが、当日撮った写真をもう一枚、上に掲げておく。門から奥に伸びている参道なのだが、突き当たりのところから墓地が広がっている。道の両側に植えられた低木はアジサイだったと思う。
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▼子どもの日

2007年05月05日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
今日は「子どもの日」ということらしい。毎日が日曜日風の私には、連休が大型であろうと小型であろうと関係ないのである。蒲田まで散歩する。例によって、写真を撮りながら、途中から電車に乗り、蒲田まで行く。そして帰りも同じように、途中から電車にのって帰宅する。
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▼02年12月1日 町田忘年会

2007年05月03日 | ■小沢一派とその仲間たち
小林さん 投稿者:今井政幸  投稿日:02年 12月 2日(月)23時01分30秒
昨日はよかったですね・・・・・・わたしは、かもめさんの勇姿を見れただけでも参加したかいはありました。


上記の今井さんの記事は、いまや昔の5年前。私が最初に顔を出した界隈の公認オフ会(忘年会)の次の日のものでしょう。私は、その年の夏に渡辺さん、千坂さんとは会っている。忘年会には、その二人を含めて、他には今井さん、アキンさん、小林さん、浜さんが参加されていて、彼らと私は初対面だったのです。アキンさんは、忘年会の主催者だったからでしょうか、参加者の中で、最も闊達にしておしゃべりでしたね。私は若々しく振舞って参加者を仕切っているアキンさんに好感を持ちました。

対して小林さんは思慮深く、その言動は終始、落ち着いた印象があった。千坂さんは、なにか言うに言えないことでも腹に抱えているように、遠慮がちでした。一次会の飲み屋さんで、ほとんど、なにも話さないうちに、中座して帰ってしまった。今井さんも、ほとんど喋らないで黙っていたので、ずいぶん大人しい人だと思った。お酒も飲まないようだ。一次会の解散時に、目の前に座っていた、今井さんに私のほうから声をかけた。

掲示板の書き込みでわかるのですが、映画を毎週末のように見に行かれるようで、今井さんは、たいしたものです・・・と。

その後、みんなでカラオケに行ったのだが、渡辺さんは帰られた。今井さんは、カラオケまで着いてきたのだったか、忘れた。カラオケに行ったとしても、今井さんは、決して歌わない。それは数年後の元祖日の丸軒でのオフ会のときもそうだった。ほとんど喋らない、歌わない。それに酒も飲まない。何事も主張しない。実に大人しい性格なのである。悪く言えば酒宴の席などでは実につまらない男とみなされる。多勢ではなく、二人三人で会合した折などは、結構、しゃべる。

ま、今井さんも悪い男ではない。覚悟の上で悪事を働く根性はない。02年12月の忘年会の次の日の、わたしに対する「かもめさんの勇姿をみただけで」などとの書き込みは、例によって例の如し。口先だけの「おべんちゃら」。

冒頭で申したように、いずれにしても参加者各位に比べて、私は新参者に過ぎなかった。当時、水面下に、どのような動きがあったのか。席上、鈍角氏やMOKUMOKU氏の話題などが、ちらりちらりと出てきたが、彼らのことは、わたしは、ほとんど興味がなく、頭に入ってこなかった。参加者の中で、上記二人のことについて浜氏が、最も事情に通じているような口ぶりだったのが印象に残っている。比べて、千坂さんは、二列に並んだ席の、最後の隅のほうに小さくなって座っていて、最後までほとんど何もしゃべらずにいたが、その後の経緯などを加味してみるに、そのときの彼の心中たるや戦々恐々たる思いで、他の参加者たちの言動に、耳を傾けていたに違いない。

カラオケを出て、最後に残ったのが、私とアキンさん、浜さん、それに小林さんがいた。4人でお茶を飲んだ。ここで、ひとしきり話し込んだ。夜もだいぶ更けてきて、アキンさんが自宅に寄っていけと、しきりに薦めるので浜氏と3人で、大きな公園を突っ切ってアキンさんの自宅におじゃました。この時はすでに午前様となっていた。泊まるつもりで、行ったのである。結局、朝まで三人で飲み明かしたが、酩酊状態であり、たいした話もできなかったように思う。

<1508字>
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▼才能は個人に宿る マルクスは才能を黙殺した または社会化した

2007年05月03日 | ■学校的なあまりに学校的な弁証法
<07.04.10 日本橋三越前>

才能という問題を考えてみた。その際、才能とはなんぞやという前提は抜きだ。その前提は人間とはなんぞや、または言葉とはなんぞや、という問いに同じくわたしの手に余る。

一昨日、ひさしぶりの旧友に出っくわし、しばしビールを飲みながら話に及んだのだが、そのとき彼が「マルクスは天才だった」と言った文句が忘れられない。もちろん若いころよりマルクスファンを自認してはばからなかったわたしも同意した。間違いなく「資本論」をなして科学的社会主義の創始者であったカール・マルクスは天才だった。そしてわたしは付け加えた。だが、天才マルクスが苦労に苦労して書き上げた「資本論」も真理というよりは、よほど一つの仮説に過ぎなかったと。

ここから問題をはじめても良い。だが、もっと一般的に、また今日的に、それはつらい話だが、たとえば私に属する才能のありようという、語り方もあるに違いない。

わたしが心から誰でもよいから教えてもらいたいのは、現代社会を構成している感のある労働と才能の関係だ。または職業と才能ということでもよい。人生と才能と言い換えてもよい。天才マルクスも、人間の個人に宿る「才能」という問題だけはほとんど語っていないのである。ここにマルクス主義の大きな陥穽が潜んでいるような気がしている。黙殺したまま、社会的労働とやらに、還元し語りつくした気になっている。それは、あまりにも、個人にとって、つらい話ではないか。資本主義下における労働はクズ同然の行為であり、同じ行為でも社会主義下であれば、労働こそ最大最高の善行として美化される。

そういうわけに行くだろうか。大昔でも役所はあったし、企業らしきものもあっただろう。集団労働というものはあったはずだ。だが、マルクスをはじめ現代人の言うような「労働」は皆無だったと、わたしは、そう思っている。

マルクスは疎外という概念をつかっていたが、疎外どころの話ではない。労働は人間から才能を奪ってしまう、とわたしはそう思っている。武士も農民も、個人の才覚を持って世に出、人生を透徹するのが道だった。もちろん苦労は大変なものだった。現代は苦労することはない。どこかの集団に就職してしまえさえすれば角のたつ才能など開花させる必要がない。それがいやならアルバイトにフリーター、あなたのことを派遣させていただきます、という調子である。ま、こうしたことも、才能うんぬんの話ではない。まずは食うための仕儀一般である。食うことと才能は、ぜんぜん別のものになってきた。それでよいのかという話をしているのだ。

不思議なことである。現代ではスポーツ選手ぐらいしか、ただしく当人の才能を問われることはない。これいかに。その代わりといってはなんだが、知りもしない人間が、特定者にあてはめるべき評価の方法と基準についてばかり口やかましい。無責任きわまりなしだ。なんということだろう。

2007-04-11 19:30:43 記

<1258字>
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▼今日は一日浪曲三昧

2007年05月01日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
NHK・FM放送では、「今日は一日“浪曲”三昧(ざんまい)」ということで、朝の9時から夜の7時まで生放送の浪曲だらけ。朝から、ずっと聞いていた。もちろん浪曲というものは音楽である。音楽として聞くのである。内容は以下のごとし。

▽第1部・浪曲世につれ世は浪曲につれ「南部坂雪の別れ」桃中軒雲右衛門「佐渡情話」ほか寿々木米若ほか

▽第2部・浪曲と流行歌謡「清水次郎長伝・森の石松三十石舟」広沢虎造ほか

▽第3部・ライブ!「大浦兼武」国本武春「樽屋おせん」春野百合子「天保水滸伝・鹿島の棒祭り」玉川福太郎「刃傷松の廊下」真山一郎

▽第4部・昭和の浪曲界…京山幸枝若、東家浦太郎、広沢瓢右衛門、三波春夫ほか

実は先日、長く押入れにいれたままだったチューナーを引っ張り出してステレオにつないでみた。古い機種のことであり壊れているかと思ったが通電してみたら大丈夫だった。以来、好んでFM放送を聴いている。FMはCDなどとはまた違った、やわらかい音がする。

それに浪曲はいまや完全に廃れてしまった感があるが、こうして静かに聴いていると、なかなかいいものである。
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