赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼ヴォーカル大好き<全世界民主青年の歌>

2019年06月02日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法

 

以下、十五年前の記事なり。描写されている内容は実に半世紀前のことであり、いまさらながら懐旧の念したたるも、いずれ幻想的なゴッコ遊びの世界であったことは間違いない。

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<2004.10.17 記>

ゴンマイ殿が70年の大学紛争決戦の秋を覚えてごじゃるとは驚き桃の木山椒の木。さてはゴンマイ殿も悪名高き団塊世代なのけ。そうよ、オラも指導部から、そう言われて現場に出向いたものだ。勤労青年諸君も、セクト存亡の雌雄をかけた決戦に臨んでいるわが党の輝かしき明日を担うインテリ舎弟たちを守ってこいという指令だった。そうさなぁ、オラが町工場の残業が終わるのが夕方も6時だからな、取るものもとりあえず旧第一高等学校、すなわち天下の最高学府東京大学の駒場キャンパスにかけつけたのは70年というよりは69年だったと覚えている。寒かったことを覚えているならば、さては冬も間近のことなれや。正門を入れば、噂にたがわず、そこは荒れに荒れたまさに戦場だったな。ガキの遊び場だったと言う人もいる。さても、暗闇のことで、なにがなんだか訳もわからず、オラたち町工場勤労青年にとっては、ようするにそこでなにが起こっているのか皆目見当もつかなかった次第にごわす。闇の中ではインテリ舎弟たちの表情もよく見えず、ときおり、各セクトを誇示するためと聞かされていた、さまざまな色に塗られたヘルメットをかぶり角棒を持った兵隊もどきの若き出稼ぎ学生の阿呆どもが、われらの目の前をこれ見よがしに、運動会の練習でもやっているのか、駆け足風示威行動に出ておったな。隊伍を組んでいるつもりなのだろうが、その有様は戊辰戦争に刈り出された、みじめな百姓がなれない槍でも持たされて隊伍を作っている姿以上でも以下でもなかった。インテリ学生というものは栄養不良でガニ股が多いというのが、オラが得たなによりの第一観だった。さてオラたち勤労青年は、もちろんヘルメットも角棒も支給されず、ぼけっとして指定された場所に突っ立っておっただけだ。すぐそばに古くされた建物があった。学生たちの「寮」だと聞かされた。中を除いてみれば、そこは荒れ放題で部屋と廊下の区別もつけられないほどだった。見ようによっては、若者たちの暮らしぶりがうかがわれて、一種の親近感と憧れの感情が脳裏をよぎったことを否定しても始まるまい。その建物こそ旧第一高等学校の名残をしのばす天下の駒場寮であることをオラが知ったのは、ずっと後になってからのことだった。指導部のお達しによればヘルメットの色はいろいろある中で、ようするに黄色いものをかぶっているガニ股部隊が現れたら、彼らこそ我らがお守りすべき、未来のお笑い前衛党の幹部候補生たる一味に間違いないとのことだった。だが、いくら待っても黄ヘル・ガニ股集団は一向に姿をみせず、その夜は他セクトの角棒におびえきってしまい駒場東大のどこの穴蔵に隠れてしまったのか一度も敵前に姿を見せることはなかった。それで、われら中小企業零細町工場代表の勤労青年応援部隊としては、後ろ髪を引かれる思いで、一向になにすることもなくしびれをきらしていた。ここで夜を明かすことはできない相談。当時はコンビにもなかった。そこで明日の労働のためとはいえ、泣く泣く解散の憂き目をみたのであった。勤労青年一行は駅に向かった。だが、正門から出たところでリーダーがわれらに声をかけた。「諸君、このまま電車に乗って帰るだけでは、わが輝かしい前衛党に申し訳もたたない。みんなで腹いせに大声で、歌のひとつふたつ歌って、せめて青白きガニ股部隊黄ヘルのインテリ舎弟たちにエールを送ろうではないか」。と言うので、それはよい考えだと勤労青年一同も大賛成だった。そこで正門の向こう、駒場寮の暗闇の方に向かって大声で歌った歌の一つが以下にごわすよ。すなわち、これぞ天下にその名も高い「民青の歌」なりし。


 
 
我ら青年 平和と幸もとめ
誓いは固く 我ら戦いぬく
山川ことなる 世界の青年
腕をとり 隊伍くみ 声たからかに

いざともに 歌え歌 平和のちかい
はばむ者には こたえん高き歌声
ああ 青年のこの熱情はけせない
平和を愛する熱情 ちかいはかたい

 

 

 

 

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▼とある外国人の不可解な言い訳

2018年12月13日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法

<以下、2016,06,27 記>

とあるサイトで以下のようなおバカな文章を見たので一言感想をば。

李信恵・・・・選挙にまつわる在日の思いをあちこちでずっと聞いてる。割り切れないこととか、複雑な気持ち。自分もやっぱりそういうものをすごく抱えてる。でも、選挙権のない自分が伝えられることは一票が、本当に大切っていうこと。一票すら持てない自分なりに、伝えられることや闘い方はいろいろあるはず。

李さんは、朝鮮の方で、「しばき隊」の一員として活動なさっている。選挙権がないことに、ご不満のようですが、これは当たり前のことではありませんか。どんな国でも、外国人に選挙権が与えられるなら。国の民主主義は滅びますよ。

わたしたち日本人が、韓国には選挙権がないように朝鮮の方である李さんは日本には選挙権がないのです。当たり前のことでしょうや。「一票すら持てない自分」と嘆いていますが、あなたの一票は、母国にあるのではないですか。探してごらんなさい(笑)。あるはずですよ。

母国にもないとなれば人権問題かつ国際問題ですが、それは母国の問題であり日本には関係の無い話です。そうした当たり前のことを、ご理解されていないようですね。外国人なら外国人らしく振舞まわなければならないのは、どこの国でもそうでしょう。李さんのサイトを見れば日本国内で激しく活動なさっているらしいのですが、日本のなにが不満なのでしょうね。実に不可解極まりないのです。


さて李さんのサイトの冒頭には次のようにある。

在日朝鮮人2.5世、フリーライターやってます。中途半端なマイノリティですがごく普通に生きてます。影書房から「#鶴橋安寧――アンチ・ヘイト・クロニクル」2015年1月17日発刊。 http://www.kageshobo.co.jp/main/books/tsuruhashiannei.html

大阪、ときどき東京、たまに韓国

在日朝鮮人2.5世とあって、その一行に、この方の自己認識のおおくが割かれている。知己でもないわたしは、李さんが自己をなんと自己認識しようと関心もわかないのだが、この人の文章などをみれば立派に生活もし自己主張もされているのに、なぜに在日朝鮮人であることに、それほど拘るのかということだ。李さんの全人格が、在日朝鮮人であることを世間に承認してほしいと請い願っている。

日本のそれも大都市で何不自由なく生活しているに違いないのに、日本のなにが不満で、そうも活動に身を入れているのか。これが、不可解の第一点なのである。選挙権が欲しいなら日本国籍を取得すればよい。

ながく日本で暮らしていながら、どうして、帰化しようとしないのか。日本国民になりたくない理由でもあるのか。日本に対するうらみつらみが凝り固まってでもいるのであろうか。

これがわたしにはさっぱりわからない。邪推の上で言うのだが、在日または在日朝鮮人という概念を、売り物にしているとしか思えないのである。在日朝鮮人は差別の対象になっているとのいかにもありそうな固定観念を、さらに拡大した上で信仰化し、さらに誇大に風評を拡散するに精を出す。これが李さんの活動と思想のすべてであるなら、わたしは笑うしかない。そして、なにより、これを飯のたねとして商売に精を出しているのであろうか。

そうとなれば、この人たちにとっては差別が完全になくなっては、むしろ困るのかもしれない。差別という認証言辞が、この世からなくなってしまっては、なにより飯のタネが消えてしまう。信仰が薄れる。敵がいなければ闘争の意味が薄れ活動目標が雲散霧消してしまう。生きる目標がなくなってしまう。

よって適当なる差別は、むしろ、あってもらわなければ困るのは、この人たちの方ではないのか。

されば、あるかなきかのかすかな差別さえも、いちいち誇大に吹聴して世間を挑発し集会を開いたりデモってみせたり、ときには標的となった集団と血で血を洗う喧嘩騒ぎを起こしたり、ネットという文明の機器を手に入れるや、見苦しい罵倒合戦に明け暮れたりとうとうと実につまらない日常を送って憂さを晴らしているところである。甘えるのもいい加減にせいと言いたい。もちろん上のような不埒な御仁は在日朝鮮人およびその関係者の中でも、ほんの一部だとは思っているのだが・・・。

 

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▼紅しじみのうた

2018年06月14日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法

2018.06.14 横浜市



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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▼野合する脳タリンと脳科学

2017年08月03日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法

 

2016.08.09 自室にて

 

 

 

 以下、赤っ恥掲示板より

 

高世 仁さんがリツイート
菊池雅志 ?@MasashiKikuchi  ・ 7月31日
いったい、民進党と共産党、その支持者たちは、「政策の整合性なんて二の次だ!〝反自民〟で結集して数合わせで勝とう」という人を馬鹿にした選挙戦略で何度敗北したら、自分たちの愚かさに気付くのだろう。多く有権者は、自公の圧倒的な支配よりも〝真っ当な野党の存在〟を求めているはずだ…。

 

まったくもって理の当然です。ただし「真っ当な野党の存在」と言いますが、野党とは、何ぞやということも議論の対象にせねばなりません。「野党」の性質にもよりまずが将来の日本にとって相変わらず反対のための反対に象徴される共産党臭さのようなものが残る野党ならば、そんなものは政治学上の論理から、あってもなくても良いという話しになります。

繰り返しますが二大政党論とは保守党Aと保守党Bによる選挙闘争と政策論争及び内閣獲得論に他なりません。演説する、どちらの党首の後ろにも、高々とわが国の旗が掲げられていなければなりません。公党を標榜する以上、最低限のナショナリズムの宣誓が必定となるのです。

それができるでしょうか。屋号共闘の諸君に。共産党の諸君に。そこが民意の総括点として問われているのではありませんか?それよりもなによりも、なにが面白くて、君たちは民意に反して、そうまでも情熱的に政党活動をなさっているのですか?

 

中野晃一 Koichi Nakano ?@knakano1970  ? 8月8日
8月15日に解散するSEALDsに向けて、安全保障関連法に反対する学者の会が、声明「私たちが受け継ぐSEALDsの7つの成果」を発表。


シールズとは、共産党の学生組織に他ならなかったという事実が世に明白になりはじめると都合が悪くなり共産党中央の意向または、命により消したり解散させたりする。

そして、また、時に応じて同じ人間たちを使って名だけを次々と変えては、いかにも市民の代表だとばかりに面を出てくる。

国民連合政府?
革新統一戦線?
市民連合?
反原発首都連合?
九条の会?
しばき隊?

これらすべてが共産党の仕業だ。名だけの金太郎飴だ。
いくつかの教条さえあれば、なんぼでも組織はつくれる。


昨日のこと。「原発ゼロ」だとのプラカードをかかえて何事か年寄りたちが駅前に集っていたので、リーダー格らしきおじさんに聞いてみた。「ゼロ」とは、なんのことですかと。すると、おじさんは答えた。それは現行のすべての原発を稼動させないことですという。

稼動させないことと、ゼロ要求は、ちょっと違うのではありませんかと問えば。
原発はすべて廃炉にしなければなりませんと。

廃炉は、大変な作業と年月とコストがかかりますよ。あなた、責任が持てるのですかと問えば。すべて東電にやらせますと、こいてきた。東電は儲かっているのですから、ええのだすとこいてきた。

それが証拠に福島原発の事故を見なさいと偉そうに申してきた。あのような大惨事を原発は必ず起こす。だから、原発は許すことのできない悪の権化なのであり、その存在をゼロにするしかないのですと。

この共産党のおっさんが言っているのは、ようするに、てめの手だけは決して汚さないというそれだけなのである。都合の悪い現象、存在に名う手のレッテルを貼り付けて、満足している、きわめて脳タリンの過去的概念活動に満足している、カルトの一派なのである。

そこで拙者としても言い負かされるばかりでは少々悔しくなって、捨て台詞をなげつけた。

いっそガンをゼロにしようという運動を、あなたがたはなぜしないのですかと茶化してみた。

ガンよりも、もっと原発は危険なのだすとこいてきた。もしや、あなたは福島原発のことを何も知らないのですねと、かさにかかって、小バカにしてきた。

では、いっそ交通戦争反対のプラカードでも持ち歩いたらどうですかと笑いながらふたたび茶化してみると、おおまじめに共産党のおっさんは正論をこいてきた。自動車が無くては、世の中は回りません。将来の原発の危険に比べれば、年間何千人が車にひき殺されるようと、そんな数は屁のごとしだとこきやがった。

拙者は、グーの音も出ずに、共産党のおっさん連中に、それ以上の議論は吹っかけずに、その場を去った。

  

茂木健一郎 ?@kenichiromogi  ・ 8月9日

先の東京都知事選で、「主要三候補」以外の候補者たちは「泡沫候補」として、ほとんど報道されなかった問題を思い起こさせる。リオ五輪において、日本人アスリート以外のアスリートは、「泡沫アスリート」なのだろうか。



いずれ報道頼みばかりではだめなのですよ、茂木さん。あなたの言は、たんなる不平不満にしか聴こえませんよ、健一郎さん。人も口は一つしかありません。報道も機関です。一つの口しかないから機関なのですよ、脳科学者さん。国家もそうです。国家に政府は一つしかないように発言できる口は一つしかない。現に存在している国益、国民を守るという一つの方向しかないはずです。他国の挙動ばかりを賞賛していたんでは国益に反するでしょう。価値が相対化されてしまい報道は支離滅裂となるでしょう。口は一つしかないとは、そのことを言うのです。

都知事選においては21人が立候補した。NHKでは、わけ隔てなく政見放送をやっていましたよ。あなたは、こういう正規正当な報道はみることもしないで終始、面白おかしく扱っている番組ばっかり見ている脳科学しかないから、上のような不平不満が出てくるのではないですか。

真の報道が欲しいなら、自身で選ぶほかにはありません。五輪の詳しい報道が欲しいなら、現地に行って逐一競技を自分の目でみてくる以外の方法がありますか。

中国や朝鮮の詳しい報道がほしいなら中国語やハングルを勉強なさってみたらどうですか。

それほど泡沫候補者らの有様が知りたいなら、当の候補者の選挙カーにくっついて歩いてみれば良い。それもしないで昼日中から冷房の利いた自室にてビールでも飲みながらテレビばっかりを目を皿のようにして、見ているだけでは、なんのましな報道に触れたことにはなりませんよ。あなたの脳のほうがよほど泡沫じみているのです。

 

 

 <2016.08.09 記>

 

 

 

 

 

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▼がんばれ原発 がんばれ沖縄 がんばれ自衛隊

2017年07月31日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法

 

2017.05.18 読売新聞

 

 

 

 

 

 

 

 午後からお天気雨が降って虹がでた

 

 

 

 2017.05.22 産経新聞

 

 

「八重山日報」ホームページ
https://www.yaeyama-nippo.com/

 

 

 

 

 

 

2017.05.22 横浜市

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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▼仮説王 カール・マルクス

2016年12月05日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法

 

 

科学は無誤謬である、などとたわけたことを言う人が多いが科学とは仮説のことだ。すべての科学が仮説だ。数も仮説だ、仮説を寄せ集めた数式も仮説だ。数学は仮説の化け物だ。もちろん「真理」などというものも仮説にひとつに過ぎない。正義も真理も仮説の範囲の中で、青息吐息で生息している概念だ。いっそ「真理」は無いと断言しておいたほうが哲学的には正しいのである。誤謬はあるが、無誤謬はない。生は「有」だが、死は「無」と言うに同義だ。誤謬=生であり、無誤謬=死を意味する。

仮説ごときをありがたがっている君のような意識が大手を振って歩いているのが現代である。結局人類はうぬぼれたまま、自滅していくしか道はない。

いわしの頭もなんとやらと言うが仮説も同じだ。どんな対象であれ信奉しはじめたところから、それらは「迷信」となる。迷信はいわしの頭だけじゃないぞ。さんまでも腐ったさばでもなんでもよい。もちろん宗教だけはない。憲法も教育基本法もすべてが迷信のなせるわざだ。迷信にだまされるのも、だまされたふりをするのも、結構けだらけ猫はいだらけってなものさ。

それもまた世間のいいところだ。いちいち迷信だからと取りざたしていると、世間を狭くする。人生がつまらなくなる。だが、かようなことを田吾作に話しても甲斐もないことか。田舎っ屁には理解の遠い話だろう。われわれが遭遇するあらゆる世界に誤謬はあっても「無誤謬」などということは、あり得ない。

ヘーゲルとマルクスの関係を知らないのはご愛敬としても、マルクスが唯物論で、ヘーゲルが唯心論つーくらいは知っとけよ。

偉そうに君は言うが、そのような図式を与えたのが、そもそもマルクス、エンゲルスであった。マルクスはもっと端的に言っている。「ヘーゲルは逆さだ」と。つまりヘーゲルは君の言う「唯心論」に陥っていると。だが「心」を「物」に、ひっくり返して説明してみれば、論理も理屈も使い物にはなることに気がついたのだ。ヘーゲルの「逆さ」とはマルクスの自説に近似していることの発見だった。全体を壊す必要はないということだ。いわばヘーゲルは逆さだと述べたマルクスの心境たるや、ヘーゲルに対する共感であり、絶賛していたとも言えるだろう。そこで、マルクス、エンゲルスはヘーゲル「唯心論」の中核的概念として、彼の著書にあふれかえっている「神」や「宗教」をはじめ、いくつかの重要な概念を別の言葉に、ちょっくら入れ替えてみたというわけさ。いかにも旧体制の社会意識を説明している「神」や「宗教」を、別の言葉に置き換えた。

その際、「数理」を使って説明する近代「科学」の手法、その結実としての「経済学」だ。後の世になってマルクスの後継主義者らが、どいつもこいつも偉そうに、マルクス以後の左派理論の正統性を「科学的社会主義」と自称し自慢しているではないか。いうまでもなく「唯心論」の「心」とは神と宗教を意味し、「唯物論」の「物」とは現実社会の人間的諸相の分析をもって説明するということである。

すなわち社会は科学をもって説明できるとしたのである。唯心論と唯物論に分別することは、マルクス主義の最初の出来事である。あらゆる過去の哲学を唯物論か唯心論に二分することだった。早い話レッテル張りだ。そして「心の叙述」を旨とする宗教を初めあらゆる「唯心論」を糾弾し廃棄した。哲学といい社会学といい、その叙述においては「心」に向かう方面は捨て去る。「心」や「神」をいくら説明しても社会の進展はみられない。よって「物」を基軸とする。新しい哲学は人間と社会がおりなす現実的諸相を対象とする。これが「唯物論」である。いわば唯物論とは、そのまま科学の総称ともいえるだろう。

 茫洋とした人類の歴史も「現在こそ最高である」と明言しているヘーゲルにならえば、歴史科学は、もう一歩のところまできていた。あとは数値を当てて実証してみればよい。より「物」的な論証を重ね、さらに数字を当ててみれば誰から文句のこない説得力が備わってくる。歴史は時間であり、経済や政治は空間上の出来事である。いずれも区切れるだけ区切ってみる。既成概念をさらに分断分析するのである。区切った部分に定義を与え名称を与え分類し、新しい概念をあたえ、価値に応じて数値を与える。これらをさらに結論に向かって思い通りにきったはったと統合し抽象化してみればよい。これらいっさいが科学というものだ。

 人類の歴史と政治経済を対象に、この科学的手法が投入されマルクスは「資本論」に結実させたのである。だが、「心」から「物」への視点変更もまたマルクスかエンゲルスかは忘れたが、どこかで書いていたように、やはりヘーゲル自身が残した文章の中にあったという。うろおぼえだが、最高の到達点(現代のわれわれ)から見れば、過去の未到達地点というものが、まざまざとよく見えるのだが、その反対はあり得ないというようなマルクスのセリフを思い出した。これぞ、ヘーゲルが「現在こそ最高である」と言ってのけた素朴な観念論の焼き直しではないのか。

マルクスは、現在という時間的基準をヘーゲルの「現在」に比べれば、わずかに先延ばししているようにも見える。先延ばしするための担保はなにか。芸術家の場合は想像力だ。マルクスの場合は経済学である。科学の力こそ、未来の現実を十分に予測させてくる。よって人類の最高地点は、現代の、さらに先にあると保証したのである。やがて搾取された労働者が革命を起こし天下を取り、商品が大手を振ってあるいている資本主義は終わるだろうと。これまでの歴史は前史にすぎない。人類の輝かしい「正史」は階級のない社会が訪れた暁(革命)から始まるのだと。

ヘーゲルこそマルクス主義の母である。そしてこれまで言われている以上に、この母子の相貌は酷似しているようだ。

こんにちは。日共の欺瞞性とは同感にて、その通りですが、そのような言いかたをするなら、なんとでも言えるのではないでしょうか。揚げ足取りにござるよ。
政治とは、ようするに「勝てば官軍」なのですから。負けてしまえば、当時の説も理もゴミ同然ですよ。ましてやキレイ事を積み重ねていれば、勝てるという道理はどこにもない、それが政治でしょう。共産党の誕生からして、考えてみれば、なんの深い道理もなかった。ロシア革命の影響でしょう。

扇動されていただけですよ。ロシアのような社会主義を憧れていただけでしょう。マルクス主義とはいえ、たいした理屈を最初から分かっていたわけではない。平等社会すなわち社会主義や革命に対する行動的憧憬があった。それが各国に共産党を誕生させた。欧州の党以外はすべて、単純な憧れから発生している。

で、二十年前にその網元共産党が解体しちまった。で、世界の共産党はつぶれた。これも当然至極のことなりや。現在、日本にあって青息吐息でやりくりしている党は、もはやマルクス主義でもなんでもないでしょう。残りかすか、死骸の尻尾みたいなものざんしょ。はっきり申して、ロシア共産党が解体された時点で、社会主義は終わったと見なければ話は先には進みません。わたしはそう思います。

日本共産党は往生際が悪い。その点、社会党はいさぎよかった。ミヤケンは俗物以上には出ないでしょう。舎弟の不破、上田兄弟は、なんとか穴埋めしようと腐心していたようだが、世の流れには逆らえない。社会党を壊した、土井たか子氏はいさぎよかった。ミヤケンなんぞにくらべれば、なんぼか立派だったと思う。

近年の政治闘争を振り返ってみて注目するのは、政治スローガンに見る「反対」表現を好み、粉砕表現を嫌う裏意図である。

それは院内闘争と院外闘争の腑分けの問題ですよ。議場内でデモっては、票がのびない。かりにも議会制民主主義を奉じる公党が、国会の議場でデモってみたり、いちいち粉砕をさけでいたんでは、国民からそっぽを向かれるでしょう。テロは通用させない、これがマルクス主義のもう一つの主張だったことは、あなたもよくご存知のはず。よって共産党は革命を捨て、いまや欺瞞に満ちた体制内政党だと非難され続けた。当然のことなりや。これも政治ですよ。わたしはなんにも言わない。
テロは、金輪際許されないとも思わない。
それほど革命がすきならテロしかないでしょう。
選挙なんぞ行く必要ない。勝手にやってみればよい。
飛行機をぶん取って東京タワーにでもつっこんで見ればよい。
後世に賞賛されるだろう。
政治とは、そういうものさ。ちなみに、おおっぴらにはいえないが、数年前のNY貿易センタービル事故の映像を見た瞬間、私の内心には快挙を叫ぶ声があったね。他の人間がどう言おうと私はかまわない。命を賭した彼らの民族主義的志を、わたしは褒めておきたい。あれは形を変えた特攻隊精神だと思ったね。一種の武士道だと思ったね。わたしはできないが。できると思っている人はゴタゴタ言っていないで、やってみればよい。それが革命というものだ。人にやらせようとしたり、革命もせず、革命的言辞をもてあそんで、人をして下働きさせておき、自分は椅子にふんぞりかえっているような奴は愚劣だ。それがミヤケンのすべてだったと見ている。言及するにも値しない男だ。

極端な言い方ですが、マルクスを生かすなら共産党を捨てる。共産党を生かすならマルクスを捨てる。旧ソ連崩壊後の社会主義は、このいずれの選択が迫られていた。自慢するわけではないが、わたしは前者を採ったと振り返ってみてそう思います。ただし、マルクスも仮説に過ぎないということが最近分かってきました。そればかりではない。理屈や学説さらに科学と称されているあらゆる言辞言説が、仮説なのです。その意味ではマルクスに責任はありません。レーニン以下、マルクスを神聖視して人々に押し付けた有象無象の能無しが馬鹿すぎたという単純な話です。神聖視するとは信仰の対象にするということです。われわれが語っているマルクス主義とは宗教としてのイデオロギーのことですよ。仮に歴史や社会の一現象を説明するにマルクス主義が優位だという面があるなら、それはいよいよ仮説であることを証明しているのです。

分かりやすい説は、みな仮説です。人間というものは安易だ。真理や真実というものは、人の手の届かない深い部分に隠されているということを知らない。真理や真実に到達するためには、どれほどの労苦をかけなければならないのか。それを知らない。偉そうな専門家の話などを耳にすると、たちまち自分の頭がよくなったような気がして、彼に傾倒し心酔がはじまる。仮説もよいところの、仮説の一片を手にしただけで、人々はさも真実を知ったかのように大喜びだ。人間とは馬鹿なものよのぉ。

ソ連崩壊以前のん十年前から、ソ連の在り方が本来の社会主義のものになっていない、むしろ社会主義運動の敵対物になっているとは早くから指摘されていた訳で・・・

問題はここにある。つまり本来の社会主義とは何かという認識、あるいは学説でもよい。社会主義というものが、そもそも仮説でしょうと言うのです。本来もへったくれもない。ロシア革命も仮説です。一揆というならまだ分かる。大昔から反乱、謀反、一揆はあった。それらはマルクス主義なんぞとは、なんの関係もない。ロシアの場合は一揆にいたる庶民の熱情を、レーニン一派が社会主義の路線に盗用したのです。つまり一揆以後のロシア社会は、マルクス主義の実験場になってしまった。

人々は実験されていたのですよ。たかが仮説の証明のために、ロシア人民は実験にさらされていた。それだけのことなりや。社会主義建設、すなわち科学的社会主義の実現という美名のもとに、何百万という人びとが共産党に殺され収容所に送られたでしょう。単なる仮説ごときを奉じたからですよ。ことごとく強引だった。半世紀以上にわたって思想信条におよぶ人々への無理やりの押し付けが続いたのです。それでも結局は仮説の体制に過ぎなかったわけで、最後はボロボロになって破綻したのです。

1917年の一揆(ロシア革命)に参加した人々にしてみれば、それはいつでもそうだが、ロシアの場合も、王の首さえ取れば、それで人々の熱は冷めたはずです。それ以後のことは知らぬ存ぜぬ。しばらくは内乱状態でしょう。それは仕方がない。しばしすれば新しい支配者が決定して、世の中はそれ相応に落ち着くのです。

マルクス主義であろうとなかろうと統治者がいなければ社会は収まりませんよ。誰かが政治をしなければ社会とは呼べません。誰かが王にならなければね。その点、ごらんのように社会主義こそ王らしい王が生まれてきたではござらんか。くだんのミヤケンも天皇と呼ばれて恐れられていた。北はどうですか。へちゃむくれたような王がいるでしょう。あれでも立派な王様だ。社会主義こそ王権を欲するのです。王様でなければ酋長でもよい。

 

<2007-01-06 記>

 

 

 

 

 

 

 

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▼ポピュリズムの台頭

2016年11月02日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法

 

<以下 2009.07.28 記>

 

ポピュリズムなる単語がジャーナリズムに飛び交っているが、いずれにしても語源はピープル(人間)であり、ポピュラー音楽という場合のポピュラーもそうだし、おもしろいのは日本語の「人口」を英訳すると「ポピュレーション」である。これはいささか強引な感じがする。人口とは、文字通り「人」の「口」の数のことであろう。口は口でも、この場合は、くっちゃべるための「口」ではなく、ものを食うための「口」である。確かに、一人にひとつづつ食べるための「口」がある。食い扶持(ぶち)に相当する「口」のことだ。だが英語のそれは、「口」というよりは、頭のことではないか。文化の違いとは、かくものなりや。西洋では、人を頭数で数えたのである。わが国の場合、人の数を数える場合、その「食い扶持=口」をもって数えたのである。いまや悪しき「人頭税」とは西洋に発するのは周知のことだ。このように、西洋では人を「頭」で数えてきた。さて、ピープルから派生した類語はたくさんある。ポピュラー音楽が、大衆音楽と訳されているように、ポピュリズムも、もとはと言えば人の頭数に依拠された類語である。よって「大衆思想」とでも言っておけば、より正確だろう。ところで、大衆とは「国民」という概念とはやや違う。されば、いったいぜんたい大衆とは何なのか。それは誰にも分からない。人の数のことなのか。さもなければ人々が主張する欲望の発露の出口ちかくにあるものか。または、それらの言説を寄せ集めたものなのか。だが、これでは、まるで「お化け」ではないか。それで、この際「ポピュリズム」を、いまや辞典馬鹿になりきったネット上の某サイトで見てみると、次のように書かれてあった。

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ポピュリズム (Populism) は、政治学概念の1つであり、政治過程において有権者の政治的選好が直接的に反映されるべきだとする志向を指す。エリート主義(elitism)に対する対概念である。代表的事象としては、19世紀末~20世紀初頭のアメリカにおける革新主義運動が挙げられる。なお、この学術用語が転じて、マスコミにおいては「衆愚政治」という意味で用いられることもあるが、その場合の「ポピュリズム」の定義は曖昧であり、単に支持率の高い政権を「ポピュリズム」と表現することもある。ポピュリストは、既存の政治エリート外から現れることが多い。選挙戦においては、大衆迎合的なスローガンを掲げ、政党、労組等の既存の組織を利用せず大衆運動の形を採る。ここでは、しばしばマスコミを通じた大がかりな選挙キャンペーンが打たれる。ひとたび政権に就くと、ポピュリストはいわゆる既得権益への攻撃(民営化、大企業の解体、規制緩和、減税、外国資本の排除、資産家に対する所得税率の上昇、反エリート・官僚キャンペーンなど)を行う。経済政策に関しては、近年は南米の諸政権の様に財政肥大化を伴う労働者層への政治的・経済的厚遇(平均賃金の上昇、年金政策の強化、医療・福祉の充実など)を行うなど、左派的な側面の強い政策を行うものが代表的なものとして知られる。逆に、ポピュリズム的な既得権益を攻撃するスローガンを掲げつつ新自由主義的な改革を推進することもある。
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ポピュリズムについての上記サイトが解説している意は、一応踏まえておくとして、わたしの懸念は、多大に残されている。上の写真記事もそうなのだが、一言のもとにいうなら馬鹿馬鹿しい限りではないか。数の成果さえ上がってくれば、それでよしとするのが、この手のアンポンタンの処世術である。ネット上ばかりではない。ジャーナリズムをはじめ、マスメディアは言うに及ばず、話を始めるやいなや、最初からポピュリズムを前提した上で、とっかかってくる。実際、ネット上などには、ポピュリズムとデモクラシーを混同して偉そうにくっちゃべっているアンポンタンが相当数いることに、昨今のわたしは大いなる危惧を抱いている。ポピュリズムとは、早い話、安かろう悪かろうという大昔からの真理を、まずはもって隠すことから、話を始める手法のことで、あるらしい。結果も真理もどうでもよい。目標数(政治家=選挙得票数、経営者=純利益)さえ達成できればそれでよい。早い話が、人気取り政策のことである。だが、これでは、まるで「子供だまし」だ。こんな安易な「机上の空論」に載せられて、すでに成り立ったかのような幸福を感じてしまう、大衆というものの馬鹿面を見てみたい。

大衆とか人の数を根拠とする「ポピュリズム」というものが近代思想の支柱となっている感がある。逆に言えば、思想などという腹の足しにもならない観念物が、大衆化されてきた結果だとも言えるだろう。高じれば無知な大衆が、無知な大衆を相手に「よいか悪いかただすーか」と喧々囂々と議論している見苦しい様相を呈してくる。フランスはクーベルタン男爵が、古代ギリシャのスポーツ大会に擬して国際的大会(近代オリンピック)を再開させたおりに述べた「オリンピックは(勝敗よりは)参加することに意義がある」とする名言はアマチュアリズム(大衆参加)に対する賛辞というよりは、やはりポピュリズムに根をもっていたように思われる。もちろん「多数決の原理」などは、ポピュリズムの典型例だ。さらに、いまやあらゆる現場でまかり通っている「数の論理」こそ「ポピュリズム」の根源であり、かつ濫用なのである。だが考えてもみたまえ。数の多寡と人の幸福は関係がないではないか。一人の人間は、一つの口をもって、人生が足りているように、いつだって必要なものが、一つだけあれば足りるのである。青少年にとって授業料が安かろうと高かろうと自分の通う学校は、ひとつだけだ。授業料の多寡をはじめ「数の論理」に基づくあらゆる俗論と、教育の実践的価値は何の関係もないということを知らないのはポピュリズムに頭がやられた政治屋と一見小ざかしげにくっちゃべって憂さを晴らしている矮小な大人たちのほうである。

27日になって、以下のような報道文を読んだのだが、これは図星だと思う。

--------------
麻生太郎首相は27日夜、民主党のマニフェスト(政権公約)に盛り込まれた子ども手当の支給や公立高校の無償化などについて「財源(の裏付け)が無責任で、極めてあいまいだ」と批判した。また、インド洋で給油活動を続ける海上自衛隊の撤収を同党が主張していたにもかかわらず、マニフェストに明記しなかったことに関しても「『ぶれた』と言われることになる」と指摘した。首相官邸で記者団の質問に答えた。(時事通信)
--------------

ただし、麻生現首相にしても、先般「定額給付金」などという前代未聞の愚策を講じて国民から笑いものにされたばかりであり、ようするにどっちもどっちなのである。ま、わたしは個人的には麻生氏のことは嫌いではない。迫りきた総選挙においても、どちらかに決めろといわれれば民主党よりは自民党を選ぶだろう。麻生氏については首相になる以前から親近感を覚えたほどだった。それに現在わが国の政治的性格からして、首相をはじめ政治家にカリスマ性は不要であり、むしろ麻生氏のような少々ぬけたところのある凡庸な人間のほうがリーダーとしてはふさわしいと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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▼合成写真による名残りの夏の都知事選

2016年08月03日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法

以下、赤っ恥掲示板より

鳥越俊太郎氏を推しているのが日本共産党、民進党、社民党、生太たちでしたっけ?ドロドロと液状化を起こしているのですがー。


「生太たち」とは何んのことか分からなかった。どこぞ田舎の与太助けぇ~(尻あがり)とか。何度か思考してみて、やっと分かって大笑い。素敵な略語です。これからは拙者もまた、その略語をお借りして、彼らをして、そのように呼ぶことにいたしましょう。

それにしても実に気風がいいですね。

おい 生太!

じつに小気味良い響きです。それに粋ですね。

おい 生太!

 

そこで以下感極まりて、はやり歌の一句二句をば

 

生太たちは夏休み

町内会はポケモン中

共産党は野合中

民進党は党首の首のすげ替え中

社民党は解体中

公明党は朝の勤行で念仏中

自民党はドブ板作戦ゴルフ中

しばき隊はパチンコ中

お百合さんは演説中

 

 

 

 

ところで元はといえば生太一派の茶坊主の一員であったところの、おい ヨシフ!が、昨日次のようにつぶやいていた。 

有田芳生・・・共産党の宮本徹衆院議員から連絡をいただいた。野党共闘で鳥越俊太郎候補を勝利させるため、一緒の街宣車で訴えようという。快諾。すでに行われていることだけれど、それぞれの党派と市民の力を集めて、網の目のように、あちこちで行動することだと思う。組織動員も必要だが、もっと「外」に向かおう。


いまさら間に合わんよ。いっそ生太たちを鳥越宣伝カーの屋根に上らせてしゃべらせてみたらどうだ。そうさなぁ、生太たちが参列した街宣ならば、これはもう一回あたり十万票が逃げていくこと請合ってあまりある。さて次なるは共産党の弁護士さんのつぶやき。

弁護士神原元 ?@kambara7・・・・10年以上も前だけと、「共産党は栄光ある孤立路線を貫け」と言う人と激論になったことがある。国民の願いと違うだろうと、俺は、今の日本共産党の「野党共闘路線」を心から支持するよ。間違いない。

社民党との共食い合戦を制したのが今日の共産党だぜ。70年代にもさかのぼる。30年~40年を費やして、ついに共産党に骨の髄まで食われてしまった社民党は今日、絶滅危惧種になりはてた。パイの原理だ。つぎなる共食い合戦の食卓を民進党と見定めた。どこまで民進党を食い荒らして党勢拡大をもくろめるかの勝負だ。この共闘自体は共産党の魂胆に有利に働くことは間違いない。

共食いならばせめても片方だけは生き残るわけだが、まま今般都知事選のように共倒れする心配も大なるところだ。ただし共食いしようと共倒れしようと、少しの反省もしない強い強い独善性が、この党の持ち味だったし、生き延びる伝手だった。

問題は、そのためには、同党のもつ根っからの二枚舌とダブルスタンダードが赤裸々になる過程を経ねばならない。さらにまた生きるためには、とどまるところを知らない右傾化への道だ。さあさあさあ、どうするい党のお弁護ちゃんよ。

 

> ウツケンさんの出馬断念は残念でした。

そうですね。立候補できるのは大きな基本的人権ですよ。いくら野党共闘が大事だからといって、まるで引きずり降ろすというのは口封じであり人権侵害なのです。候補者と政党は別物です。本人が納得したからよかったようなものの、ご本人および党内の双方にしこりは残るでしょう。実際党内意見は割れているようですね。一枚岩が自慢であった共産党などは未曾有の出来事と申しても過言ではござりませんよ今般のことは。

 >トリシュンは当選しても任期体力が持たないでしょう

そうですね。ま、名をとったのでしょう。勝馬に乗りたかったのでしょうね。が、いざ馬小屋から連れ出して選挙カーに乗せてみると使い物にならない年寄りの駄馬だったということですね。

 
そこで思案だが、先日、森進一さんが駄馬の選挙カーにひっついて歩き、話をすることが苦手な候補者からたって請われて持ち歌である「襟裳岬」を、それもほんのさわりだけ歌ってみせたそうだ。いっそ、どうだい。大々的にだ。選挙カーの上で小沢一郎先生に「お富さん」でも歌ってもらうのさ。

さあ、行くぞ。ちゃちゃんがちゃんちゃん、ちゃちゃんがちゃんっと。


粋な黒塀見越しの松の

あだな姿の洗い髪

死んだはずだよ お富さん

生きていたとはお釈迦さまでも知らぬ仏のお富さん

エエッサオー 源冶店(げんやだな)

 

ああぁ 粋だね~。

選挙はこうでなくっちゃいけねぇ。

 

世に倦む日日・・・しばき隊が、鳥越さんはこんなこと言ってる、あんなこと言ってる、保育はこうで、介護はこうで、防災はこうで、とても具体的で完璧だと、本人の代わりに鳥越俊太郎の「政策論」を宣伝、絶賛している。それって、共産党の政策論だろう。それじゃ有権者の心に響かないんだよ。自分の言葉で挑戦しろって。


無理を言うなって。なんぼケツにムチを当てても走ろうとしない。年寄りの駄馬を、そうもいじめるなって。自分の言葉?そんなものがどこにある。野合共闘だ。野合どもそれぞれのご意向を図っていたんでは一向に自分の言葉なんぞは出てくる隙間がありゃしない。それにしても、あんな使い物にならない駄馬なんぞ引っ張り出してくるより、よほど、ヨニウムつぁんのほうが政策通に見えるぞ。どして、おめさんが、立候補しなかったんだぁ~。あ~ん あ~ん。代行大便は臭いばかりだぞ。それもヨニウムつぁんの選挙っ屁は、いつものことだがヒステリじみている。

 

共産党支持者3割が小池百合子支持の衝撃<ニュースソクラ 7月22日(金)12時20分配信

 東京都知事選挙、宇都宮降ろしに反発も。小池百合子、鳥越俊太郎、増田氏の三つ巴となっている31日投開票の都知事選。今週に入って報道各社の序盤情勢分析によると、小池氏が優勢、あるいは小池、鳥越の競り合いとなっている。

なぜ、組織の支援が得られなかった小池氏がリードできたのか。保守層をうまく取り込んでいることに加え、野党支持者が、野党統一候補の鳥越氏ではなく、小池氏支持に回っているからだ。たとえば、産経新聞の7月18日の序盤情勢調査では、民進党支持者の2割、共産党支持者の3割もが小池氏支持と回答している。

 各陣営の分析によると、最大の要因は、宇都宮健二氏に立候補取り下げさせたこと。前回の都知事選では共産党は宇都宮氏を支持していただけに、告示直前での野党内で候補一本化への反発がでているという。「小池さんの思い切りがいいし、宇都宮さんを強引
におろしたのが頂けない」という声が小池氏を支持する革新系支持者から聞こえてくる。


しめしめ おもしろくなってきたぞ これは。これで共産党は戦後70年、かつてなかった未曾有の内部地震を経験することになる。さてはて、どこまで党内議論が深まるか。ま、内外を通して口封じを常套手段として、ここまでやってきた主義者どもの集まりが同党だ。その証拠が、同党には選挙がないということだ。委員長も中央委員も地区委員も、すべての幹部が、選挙なしで格上げされる。または格下げされたり除名されたりしてきた。この党ばかりは安易なそれも民主主義的観念に基づく希望はめったに通用しない。常識では測れないのが同党の世界なのである。ようするに彼らが、なにかと言えば口をそろえて叫びたててくるイデオロギー上の「民主主義」とか「民主化」というものは、われら衆人らがガッコで教わった民主主義とは、似て非なるものであるらしい。到底、理解不能だ。

一言のもとに断ずるなら同党の綱領も規約もすべてこれ二枚舌の打算によって成り立っている。一枚目の舌さきでは政治的な言辞をのたまい。舌の根も乾かないうちに二枚目の舌さきを使い。できもしないし、ありもしない理念をのたまうて人々をだまくらかしている。すなわち共産党とは政治的に粉飾された宗教団体に他ならず、彼らのすべてが「カルト」の論理と道徳観によって成り立っている集団なのである。議論なんぞは、内部では何一つない。あるのは教条という念仏だけだ。党員らが、集い合っては日がな一日、念仏を唱えて恍惚感を抱き合う。その様は、たとえば「南無妙法蓮華経」やら「南無阿弥陀仏」と別になんら変わるところはない。

 

世に倦む日日・・・鳥越俊太郎。終盤の情勢報道がマスコミから出る前に、主導権を握り返す逆転の一弾を放たないといけない。ということは、今日か明日かだ。週明け(7/25)には終盤情勢が出る。本人も選対もよく分かっていると思うけれど、何か準備はしているのかな。このままだと醜聞騒ぎだけで終わる選挙戦になる。


それでいいのだ。おめさんも使い物にならない駄馬なんぞには、いい加減に見切りをつけてお百合さんに一票を投じたまえ。そこで、都知事選から降りた宇都宮健児さんに一言。どうか、最後の最後まで、決して駄馬の応援に出てくるような愚挙はなさらないでくださいね。一度でも野合共闘の駄馬の応援をなさったりしたら、あなたも終わりです。次回都知事選でもいい。次の総選挙でもよいのです。出馬してきてください。そんときは宇都宮健児さん、あなたを出来る限り応援いたしまするよ。おそらく、あなたなら当選間違いないでしょう。あなたの誠実さこそ今般の都知事選の中では馬やらなにやらの怪物どもが喧騒にわめきたてている中でひときわ静かに心地よく目を引きました。繰り返します、決して共産党から頼まれても民進党から打診があっても駄馬の応援だけはしないでいただきたい。文字通り共倒れしてしますよ。あなたの名前に傷がつきます。そこで一つだけ注文があります。次回、出馬する際は無所属でお願いしますね。なにしろ共産党公認とか野合共闘とかの一行をみただけで嫌気がさしてしまうのです。

 

東京都知事選 鳥越俊太郎氏支援、野党4党幹部そろいぶみ 「何とか勝って」

 産経新聞 7月22日(金)21時32分配信

民進党の枝野幸男幹事長ら野党4党幹部は22日、東京都知事選(31日投開票)に出馬したジャーナリストの鳥越俊太郎氏(76)の応援演説にそろって参加した。鳥越氏の街頭演説に党首を含めた野党幹部がそろうのは初めて。民進党はこれまで無党派層への浸透を狙い、4党が前面に出ることに慎重な姿勢を示していたが、野党丸抱えの実相が浮き彫りになった形だ。東京・有楽町で行われた応援演説には、枝野氏のほかに共産党の志位和夫委員長、生活の党と山本太郎となかまたちの小沢一郎代表、社民党の又市征治幹事長らが参加した。


いよいよ生太たちが面を出してきましたね。都民有権者は応援者や、飾り物に囲まれているだけの駄馬には愛想をつかして、この日だけで十万票が逃げていったに違いありません。

 


 

恐るべきプラカードの大量生産は共産党某地区委員会または共産党東京都委員会のパソコンプリンターが昨夜一晩中稼動していた成果であろう。すべて同一のA4サイズだ。これを日中、集まってきた信者らに無料で配る。それにしてもなんと言うことであろうか。党組織から動員されてきた群集のノロマ面から想像されてくる教祖と党の淫行と二枚舌。このような光景だけは目にしたくない。拒否したい。民主主義に名を借りたヒトラーの再来か。悪い夢でも見ているようだ。この見事なる同一性、均一性、平等性の体現を見ていると何かおぞましい悪寒が走って背筋を凍らせる。

 

 

有田芳生・・・たまたま桜井誠候補の演説を聴いていたら「反対側で聴いているアリタ先生ー」と叫んでいます。

そこで一句

 

先生と呼ばれて喜ぶアホもいる

 

ところで、今般都知事選に出馬した各氏の街頭演説の動画を見比べてみたところ、桜井誠さんの絵が、一番いいですね。絵というよりは、やはり演説に訴求力があるのです。先般終了した参院選挙における青山繁晴さんの絵がよかったのは街宣車の回りに、あつまってきた聴衆に心から、じかに話しかけていたからです。青山繁晴さんの街頭演説は選挙カーの屋根には、ご本人が、たったお一人マイクを持って最後まで自己主張を貫き通した。政治演説とは、こうでなくっちゃいけませんよ。 

比して野党共闘で出馬した例の駄馬の有様を見て御覧なさい。やれ応援演説に大物の誰それが来てくれました、やれ野合した野党すべての党首が一同に介しました、やれ共産党都委員会が昨夜急造してきたスローガンとプラカードが駄馬の回りに、林立していている有様。一人佇立して訴える自信がない証拠です。なにか、へらへらしていますね。この候補者は。 

鳥越 俊太郎(東京都知事候補)・・・・私が都知事になったら東京から250km圏内の原発の停止、廃炉を申し入れます。

と、昨日、共産党が用意した個人演説会で上のようにしゃべっている写真を見ますと、鳥越氏のすぐ後ろに共産党書記局長小池晃さんが座って拍手を送っております。原発問題に触れるのは公示後、はじめてのことだと思われますが明らかに共産党から授かった「入れ知恵=公約」のようですね。こうして老人は、ますます共産党の操り人形となってまいりました。

反原発の本性を顕わしたことにより、これではい、十万票が逃げていきましたね。投票日も間近となるこの週末には、おそらく支援者らのプラカードは「憲法を守れ」の一色になるはずです。または「ヘイトスピーチ反対」か。これで最終的に、はい十万票が逃げていくという按配です。 

さて、念を推しておくのですが民進・共産の野合は共産党だけに利があるのであり、民進党としては党勢力が、一方的に食われるばかりなのです。ただいま選挙中の、鳥越候補者の公約、政策、スローガンは上の写真のように、すべてこれ共産党からの入れ知恵であり、街宣等における物心両面における動員活動も、ほとんど共産党だけでやりくりしていることは周知の事実。結局、こうして共産党の共闘相手は役立たずと指弾されることになり心身ともに最終的にはボロボロになってしまいます。それでよろしいのですか。民進党の諸君。まごまごしていると絶滅危惧種と成り果てた社民党の二の舞を踏むことになるのですよ。君たちは(笑)。

 

まるで共産党独自候補者だ!・・・・産経新聞(2016.07.28)

なにしろカールマルクス以来、レーニン、毛沢東、宮本顕治等々自己正当化と二枚舌の権化ですからね。言い逃れの天才と申しても過言ではござりません。これが怖いのです。共産党という名の念仏好みのオカルト集団は。

 

香山リカ・・・今朝、共産党の宣伝カー(候補者なし)が「都知事は鳥越俊太郎に」と言いながら走り去ったのを見て、ファッショナブルな女性ふたりが「共産党が鳥越俊太郎、だって!」と驚いてた。

どうやら、共産党は、都知事選において自分たちから発した野合共闘が壊れたら共産党の世界観が壊れること必定だ。それで候補者たる鳥越老人をして残り数日、投票日まで党が用意した宣伝カーに閉じ込め、それこそ拉致し首に縄つけて、都内各地を引っ張りまわしているところなり(笑)。残り数日、党の老人の健康が心配だ。さても、数日と相成り大勢は決した観がある。

 

産経新聞より・・・小池氏「見返してやりましょう」石原氏発言に不快感。東京都知事選(31日投開票)に立候補している小池百合子氏(64)に対し、石原慎太郎元都知事(83)が26日の党会合で、「厚化粧で大年増の女に任せるわけにはいかない」などと発言したことについて、小池氏は同日夜、JR十条駅前での街頭演説で、「むちゃくちゃな、ひどいことを言われるのは、しょっちゅうだ。慣れている」と主張しながらも、不快感を示した。「私をぶっちぎりで勝たせてほしい。ぜひ見返してやりましょう」と、呼び掛けた。

慎太郎も老いましたね。それにしても黒か白かが万民にも即座にわかるような子どもじみた誹謗はすぐさま逆効果となって表現されてしまうのが健全なる社会の証拠です。一連の
慎太郎発言で返って小池候補に十万票が上積みされることでしょう。上積みできるなら同情票でもなんでもいいのです。お百合さんのぶっちぎりの金メダル獲得と、初の女性都知事誕生を喜びましょう。

 

 

2016.07.30 中央区

本日は暑い中、恒例によって半年に一度の社を上げてのアルバイト講習会であった。八丁堀の親分の館にて、清掃アルバイトの大勢が参堂せり。拙者としても、いろいろと、ためになるお話各種、及び新しい清掃器具と新種溶剤の導入に当たって現場での使い方などをいろいろと身につけてきたところなり。

 

 

 

 

 

研修が終わって、ただちに山の手線を半周して池袋駅にもうでたり。都知事選に出馬している小池百合子さんの最終演説が午後七時半より池袋駅西口にて挙行されると耳にした。これをもって選挙戦は終了となり、明日の投票日をまつだけとなる。

 

早く来過ぎて時間があまったので飲み屋に入れり。小腹が空いたのでメニューから焼きソバを所望。見たところなんの変哲もないソース焼きそばが出てきたのだが、これが絶品だった。

 

 

 

 

 さあ、おユリさんの登場。自然に、ゆ り こ ゆ り こ の大合唱が湧き上がる。わたしは、ちょっと恥ずかしく、唱和することはしなかった。

 

 

以下 2016.08.01 各紙

 

 

 

 

開票結果(上位三名)

小池百合子 291万票
増田ひろや 179万票
鳥越俊太郎 134万票

 

 

 ↓ 大本営発表(笑)

 

世に倦む日日・・・参院選1人区。11勝21敗という結果はダブルスコアじゃないか。ダブルスコアで完敗しながら、善戦だの、一定の成果だの、自画自賛ばかり。1人区でダブルスコアで負けたから改憲3分の2も取られたわけだ。中野晃一と山口二郎はどう責任をとるのか。敗北責任について言葉が欲しいね。

まったくです。まさに典型的二枚舌ですよね。負けても勝ったと宣伝する。さんざんに負けても、いや善戦したから、これでええんだと開き直る。大本営と共産党の情宣は、以外にその手法は似ているのです。いずれ理屈も屁ったくれもありませんよ。オカルト政党の彼らには。

 

ウキペッペより「大本営発表」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9C%AC%E5%96%B6%E7%99%BA%E8%A1%A8

 

かくして熱い熱い首都の七月が終わった。 

 

 


2016.08.11 自室にて

 

 

 

 

 

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▼カフェにて

2016年07月14日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法

 

2016.07.14 横浜市

 

 

 

 

 

 

 

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▼新しい憲法は新しい人たちの手で

2016年07月10日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法

青山繁晴さんの演説動画を見ましたが、青山さんは次期の日本国憲法は、子どもでもわかるような憲法にしてほしい、ぜひとも、そうするべきだと訴えていましたが大賛成です。

古代日本には、聖徳太子が作ったと言われる十七カ条の憲法というものがありました。もっとも人口に膾炙されている文言は「和をもって尊しとする」ですね。

国家に武力が必要か不要かを国民に問うて、どうしますか。戦争が好きか、嫌いかを国民に問うて、どうしますか。そんな問いかけは、憲法でもなんでもないのです。それこそ最悪のポピュリズム現象でしょう。すでに日本は世界に冠たる国家なのです。この、まれに見る平和国家を衰退させてはいけません。

極言に聴こえるかも知れませんが、わたしは子どもたちに新しい次なる日本国憲法を提案してほしいと思っています。このたびの参院選から、18歳以上に投票権が与えられました。ならば彼らの感覚に依拠したい。日本のこれからを、どう規定するのか。どのように日本人は生きるべきなのか。高校生たちに、とことん考えてもらい彼らにこそ、新しい憲法を作ってもらいたいと思っています。

 

 

 

 



 

 

 

 

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▼がんばれ慎太郎

2014年12月17日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法

 

2014.12.15 川崎市

 

こたびの総選挙では石原慎太郎氏が結局、落選したとの報に接し、それなりに感慨深いものがある。石原氏は82歳になられたと聞く。政治的政局の表舞台に立って、それも半世紀近きにわたって、くだらない連中を相手に、よくぞしんぼう強くここまでやってきたと思う。政治の一線からは退くのであろう今や、これを好機と見なしてこれからは腰を据えて執筆活動なりに余力を費やしてほしいと願うばかりだ。かといって詩歌や小説を作るばかりが能ではない。エッセイでも回顧録でも、いっそブログでも雑文でもなんでもよいのだ。なんであれ書いておきさえすれば後世と次世代に彼が思念してきた思想と正論のいくばくかなりが残っていくにちがいない。がんばれ慎太郎。

 

以下、教育年金掲示板より

●投稿者:馬亀

こんにちは。新聞で読んだのですが、昨日の記者会見における石原氏の「中国は嫌いだ」の発言に続いて、「チベットをなくしてしまったではないか」と続いています。記者会見場で中国のメディアの方が「中国は好きですか」との問いに即答したものでした。さらに石原氏の発言は、共産党独裁を壊滅させなければダメだと続きます。これまた中国のメディアに対して直接そう言ったのですから。これぞ慎太郎節です。

慎太郎嫌いで長年過ごされてきた泥炭さんのおっしゃることもわからぬではないが。彼が「太陽の季節」という短編小説で芥川賞を受賞したのは、昭和三十年代でした。戦後も戦後、まだ敗戦から十年もたっていなかったのです。彼の実弟が石原裕次郎でしたね。二人が二人して、若い頃から何者にも縛られず戦後高度成長の自由な青天井の下で、なにもかも自分の好き勝手放題に、存分に行動し主張してきたのが、この兄弟でした。わたしには慎太郎のいちいちがよくわかりますよ。思うに、昭和平成を通して彼ほど自由を押し通してきた日本人はいないのではないでしょうか。

中国の現状については、おおむね彼の言う通りだと思いますし正解でしょう。共産党であれ何党であれ、現代の世界に独裁政治は断じて許されません。もちろん、隣国のわれわれにはなんともできませんが。中国国内の若者たちに期待するのばかりですが選挙ひとつ挙行することの出来ない独裁政権とは撲滅すべき対象となるはずです。だが誤解しないでほしいのですが。誰も中国そのものを壊滅させろなどとは申していないのです。国家というもの私物化して共産党の名のもとに、政治の裏で私腹を膨らませるだけ膨らませている、なにがしキンペエを始めとする拝金根性に侵された幹部の物欲豚野郎どもの独裁政権なり独裁政党を壊滅させれば、それなりに中国も国際社会から容認され豊かに栄えるはずなのです。

香港の雨傘革命は残念でしたね。独裁政権に、わずかでも風穴が開くかと見えましたが。捲土重来です。これからに期待しましょう。ねばりづよく戦ってほしいものです。香港の学生たちのデモに感心したのは、自らを暴徒化することだけは許さなかったことですね。最後まで非暴力を貫いたことが、なによりで、これが世界の人々に共感を与えているのでしょう。彼らは屈服していない。中国の夜明けは香港から・・・です。

さて、同じ共産党でも日本の共産党は、こたびの総選挙で大躍進し21議席を獲得しました。投票率が低ければ低いほど躍進間違いなしと言われているのがガチガチの組織政党である共産党と公明党の特色ですね。社民党が消滅寸前となっている今や、戦争反対ダツ脱腸スローガンの唯一の受け皿的存在である共産党の議席が21とは、いかにも少なすぎるのではないでしょうか。せめて衆参合わせて50議席ほどは欲しいものです。一億国民のガス抜き装置としては、それぐらいはどうしても必要でしょう。

戦後の宰相吉田茂は、社会党を育てなければならないと豪語したそうです。なぜ保守党の総裁が、そのようなおためごかしを言ったのか。それなりの強固にして立派なガス抜き装置があって、はじめて政策が民主主義の装いをまとって完遂できるということを彼はよく知っていたからでしょう。

 

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▼あんかけラーメン食いながら『父吉田茂』読了

2014年09月05日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法

 

2014.09.05 横浜市

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

以下 『父 吉田茂』(新潮文庫 麻生和子著)より

サンフランシスコ講和条約会議

父ははじめ演説を英語でするつもりでいました。演説の原稿も英文で用意されていたました。ところが直前になって・・・アメリカ側から「よろしかったら日本語で話したらどうですか」と話がありました。日本語でいいのなら、それはそのほうが楽ですから急遽、日本語で演説をすることになりました。ところが日本語の原稿を用意するにじゅうぶんな時間がありません。七、八人が手分けして大急ぎで原稿を書き、あとでスコッチ・テープで貼り合わせてようやく間に合うような状態でした。そんな作業でしたから出来上がった原稿はきれいとはいえない代物で巻紙というよりは、どうみてもトイレットペーパーに近かった・・・このときの父の演説は歴史的なといってもいいぐらいの舞台だったにかかわらず、あきれしまうくらい淡々としたものでした・・・あとで聞いたら、どうせ会場の誰も日本語がわからないのだから、さっさとすませるにかぎると思ったというのです・・・じつはこのときの父の演説は日本に放送されていたのです。そんな調子でしたが、父の演説がすむまえに舞台に立てられたポールのなかの一本に日の丸の旗がするするとあがっていくのを見たときにはさすがに私も胸に迫るものがありました。日の丸というものは海外で見るとわけもなく胸が熱くなる旗です。理屈は抜きで外国の空にはためく日の丸を見ると「よく頑張っているな」と涙ぐましいような気がしてしまうのです。

 

以上、麻生和子さんのご本は吉田茂についての資料としても第一級のものであり、拙者としても感動的な読後感を得た次第だが、不満が残ったのは終始白洲次郎のしの字も出てこなかったのは意外なことであった。和子さんは当の吉田演説の原稿について結果日本語で演説が成されたのは、直前にアメリカ側の助言があったからだと言うが、和子さんの言説に反して次のような資料もある。ご覧ぜよ。

https://www.youtube.com/watch?v=xZ_2o-zh3Ko

上に引用した動画に撮された当の巻物が1951年サンフランシスコ講和条約会議における日本国代表者の宣言文書なのである。これほど貴重な文物はないだろう。いずれ国宝に指定されるべき代物だと思っている。その前に、どこか30メートルあまりのガラス張りの展示室を設けて、いつも国民が見られるように常設してほしいと思う。

問題は、仮に1951年サンフランシスコ講和会議会場において、その二日前までは吉田茂自身が、そう思っていたように英語で演説されていたとするなら、その後のわが国の歴史はどうだっただろうと邪推してみた。

まずは、トイレットペーパーもどきの草稿は残っていない。吉田演説は日本でも同時にラジオ放送されたと言うが英語の演説だったならば、いくら耳をそばだてても日本人の多くには、その意味は読み取れまい。この二つの事実だけはよく分かる。吉田も白洲も英語は達者だったのである。

だが、本当にそれだけのことだったのだろうか。わたしは、それだけのことではなかったと思う。もっと本質的な日本という国家における社会的文化的な問題が、ここから始まっているような気がしてならないのだ。同時期、小説の神様と崇められていた志賀直哉などは、いっそ日本語はやめて、これからはフランス語に変えてみたらよい、などと短いエッセイの中に書き記したりGHQの一部からは漢字を廃止して日本の学校ではローマ字でやっていこう、などとの暴論が出ていたことも事実なのである。

紙一重の差で吉田演説が日本語によって成された。そのことを慶賀と思はずにはおられない。わたしが日本が大好きだと思う根幹にあるのは半世紀以上も前になるアメリカ国の某所で日本国のためだけに開催された世界的会議において、時の首相吉田茂が日本語をもって演説した、という歴史的事実にも少なからず負っているような気がしている。

 

 

 戦争には負けたが外交では勝った・・・吉田茂

 

 

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▼がんばれ福島ゴジラ

2014年01月25日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法

 

 

2014.01.20付 東京新聞 産経新聞の第一面より

 

 


 

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▼がんばれ福島ゴジラ

2013年10月13日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法

2013.10.13 産経新聞

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▼東アジアの野蛮性

2013年09月17日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法

2013.09.11 産経新聞

 

2013.09.15 産経新聞

 

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