赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

戦争と感傷

2005年08月18日 | ■歴史的なあまりに歴史的な弁証法
Dさん、「戦争責任」のことですが、これもよくある例で言葉だけが独り歩きしているように感じるのです。たいした内実はなかったというあたりが実際のところではないでしょうか。戦後民主主義という輝かしくも希望に満ちた掛け声と申しましょうかスローガンと申しましょうか、この戦後民主主義という幻想的概念を補完し、その存在理由を立証するための反対概念として戦争責任は最適です。常にけん制しておきたい保守政治に対する有効な政治概念として、もてあそばれてきたようにさえ思うのです。
 
敗戦まもなく、小林秀雄は「近代文学」派(本多秋五、小田切秀雄、平野謙、埴谷雄高、佐々木基一、荒 正人)の座談会に招請されて、終わったばかりの戦争について次のように喝破しておりました。
 
僕は政治的には無智な一国民として事変(戦争)に処した。黙って処した。それについて今は何の後悔もしていない。大事変が終わった時には、必ずかくかくしかじかだったら起こらなかったとか、こんな風にはならなかっただろうという、議論が起こる・・・この大戦争は一部の人たちの無智と野心とから起こったか、それさえなければ起こらなかったのか。どうも僕にはそんなおめでたい歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然というものをもっと恐ろしいものと考えている。僕は無智だから反省なんぞしない。利巧なやつらは、たんと反省してみるがいいじゃないか
 
とくに最後の戦争について「自分は反省なんかしない。利巧な奴らは反省してみればよい」という文言は有名になり、なによりも小林秀雄の保守的思想を証明しているとして流布されました。だが、もう一度よく読んでみると、過去の歴史というものについて、もっと重要なことを言っている。それは「歴史の必然というものを、もっと恐ろしいものと考えている」という処です。悔やもうが反省しようが責任をとろうが、過去はやり直せるものでも、帰ってくるものではないという実に単純な真理のことです。誰だって、前を向いて生きていかなければ、生きることすらできようはずもない。生きるということはそういうことだ。後ろ向きに歩くことなど、できる相談ではないのです。

そうした絶対性というものが過去と歴史にはある。どれほど思念を膨らませても、死んだ子どもが生き返るわけではないのです。責任を問うのも、反省を深めるのも、まずは生きなければ、仕方がないではありませんか。いつまでもメソメソしているわけには行き候らわず。隣国に対しても、腰を低くし、ペコペコとおじぎばかりしているだけでは、一国が成り立ちません。一家の生活が成り立たないでしょう。小林が言うように、反省するヒマのあるヤツにでも反省させておけばいいのです。反省と生活は違う。生き残った敗者にも言い分はあるのです。反省ばかりさせたれていた日には、一向にこちとらの生活が成り立たないではありませんか。

尊大な態度と見られるかもしれない。だったら、そのように見られないように頑張ってみるしかないのです。なにからなにまで勝者の言うままに、ならなければならない理屈はないし、それと正義はまた別でしょう。戦勝国によっては、国土の全部をささげて賠償しろと言われたら、日本という国は、いまごろ沈没しておりますよ。敗者には敗者の最低限生きていく持分がなけれなりません。

国体の根幹(天皇制)や沖縄は限定的に犠牲になったが、かろうじて国土の大部分は守られた。そこから出発してきたのです。隣国や勝者には、感謝してもしきれません。その意味では、近代は世界によって承認された国しか、生きられないともいえましょう。隣国の承認があったこそ、今の日本があるのです。小林が言う、利巧な奴らとは、明確に不毛な感傷に明け暮れる知識人を指している。それは今日の論壇を見ても、よく分かります。彼らはいつまでたっても、歴史を回顧しては、泣き言ばかり垂れ流している。それが知識人というものでしょう。小林秀雄が最も嫌った人間種です。

それから、はたして一般的に戦争とは悲惨なものなのか、という疑問がある。敗戦国としては、確かにさんざんな目にあって、終わってしまった戦争をいまさら喜ぶわけにはいきますまい。確かに、悲惨な戦争だとも、戦争は悲惨だとも、そうした感想を持つのも分かる。

だが、例えば1970年代にはベトナム戦争というものがあった。彼らにとってあの戦争は悲惨だったでしょうか。あの戦争で、物量を誇る米軍に屈することなく戦い。結果、勝利したベトナムの人々は、あの戦争を、現在はどのように語っているでしょう。思い出すのも悲惨のあまり、避けられるものなら避けておきたかったとは言わないような気がするのです。ベトナムの学校では、あの戦争こそ民族の英雄性と不屈の精神をなにより証明している歴史上の事実として、子どもたちのよき教材になっているのではないでしょうか。彼らにとっては、アメリカと闘って勝利した、あの戦争は、決して悲惨なものではなく、英雄的な戦いだった。ベトナムの子どもたちは、こんごとも、必要があれば、いつだって祖先と同じように、銃を持って領土を守る勇敢な青少年として教育されているような気がいたすのでございます。
 
このように、戦争は悲惨なものだという感傷的発想も、その根は実に、一面的なものだと、言いたいのです。戦勝国と敗戦国では戦争に対いする見方も大違いになるのは当然ですが、戦争はこりごりだという感想は、敗戦国の一時の世論のように思います。だからと言って私は、もちろん戦争を待望しているわけでも平和主義が悪いとは申しておりません。言いたいのは、歴史を感傷的に回顧するばかりでは、誤認が出るだろうと申しているのです。<2420字>
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那須与一のふるさと

2005年08月16日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
文体は精神のリズムであると申していたのが、小説の神様としてあがめられた志賀直哉その人でしたが、この説は、とてもよく分かります。知識とかボキャブラリーの質量から推し量ってみる傾向が強い今日この頃の国語教育の現場模様ですが、知識と文体は別腹、概念違いの愚の骨頂と申せましょう。よって田舎者には田舎者なりのリズムがあり、その心の鼓動に身を打ち負かせておくなれば、それが文体として形成されてくるに違いありません。そのよき例文を下に記しておきました。私は、鎌倉後期あたりに、自分の文体の底流と奥義を求めて、この暑さの中、しきりにあえいでいるところなり。私の知る限りでは「平家物語」と「梁塵秘抄」をもって文体の手本となさしめようと心がけて以来久しいのですが、なんともはぁ、とてもじゃないが見果てぬ夢のまた夢。いまや文体どころの話ではなく、墓場行きが目の前となりました。トホホ・・・・。

平家物語 巻十一 第百二句

与一そのころ十八九なり。赤地、浅葱(あさぎ)の錦をもって、はた袖いろへたる直垂(ひたたれ)に、萌黄(もえぎ)にほひの鎧(よろい)着て、足白(あしじろ)の太刀(たち)を帯(は)き、中黒の矢の、その日のいくさに射(い)残したるに、薄切斑(うすぎりふ)に鷹の羽はぎまぜたる、ぬための鏑(かぶら)さし添えたり・・・兜(かぶと)をぬいで高紐(たかひだ)にかけ、御前(義経)にかしこまる。判官(義経)、「いかに与一、傾城(けいせい)のたてたる扇の真ん中射て、人にも見物させよ」とのたまへ・・・なぎさよりうちのぞんで見れば遠かりけり・・・をりふし風吹いて、船、ゆりすえ、ゆりあげ、扇、座敷にもさだまらずひらめきたり。沖には平家、一面に船を並べて見物す。与一・・・しばらく天に仰ぎ祈念申しけるは、「南無帰命頂礼(なむきみやうちょうらい)、御方(おかた)を守らせおはします正八幡大菩薩、別してわが国の神明、日光権現、宇都宮、那須の温泉大明神、願わくは、あの扇のまん中、射させて賜せたまえ・・・」と心のうちに祈念して、目をひらき見たりければ、風もすこし静まり、扇も射よげにぞなつたりける・・・十三束の鏑(かぶら)取ってつがひ、しばしたもちて放つ。弓はつよし、浦にひびくほど鳴りわたりて、扇のかなめより上一寸ばかりおいて、ひやうふつと射切つたれば、扇こらへず、三つに裂け、空へあがり、風にひともみもまれて、海へざつとぞ散りたりける・・・沖には平家船ばたをたたいて感じたり。陸には源氏箙(えびら)をたたいてどよめきたり。


与一の場合、平家の扇を射てんとて、義経から指名された後、馬はおろか装束一式を、源次郎党らから借り受け、あわてて、その場で身づくろいをしたに違いありません。沖はるかに小船にのって義経方を挑発してくる、平家の傾城の美女がささげる扇を前にして、それ相当の成り立ちをせねば、源氏の恥にござります。鎌倉殿に、申し訳がたちますまい。馬子にも衣装とは、そもそも那須与一の物語より発生したとかしないとか。浴衣に毛の生えた程度の貧しい装束は、その場に脱ぎ捨て、陣屋の裏のほうで、急いで着替えたのでござります。与一も数え19の春のこと。人生の晴れ舞台がまっておったのでござります。与一が、屋島くんだりまで、くっついてきたのも弓の腕だけは確かだったのです。なにしろ「ナスノガ原」は広大無比。関東中を探しても、当時、狩場としてこれ以上有名なところもござりません。イノシシ、鹿、熊、鷹、雉など、食ってうまい、すべての獣が、遊びほうけておったとは、昔より土地に伝わるパラダイス伝説にござ候。これら勇ましい獣を相手に、学校にも行かず、毎日弓の練習に明け暮れたわけですから、弓の腕は、めきめき上達する一方にござります。おそらく合戦に参加したのも、領主様のご寵愛。馬でも引けというわけでしょう。訳も分から屋島まで源氏の一党に、くっついてはきたももの、そろそろなすのが原におわせられます田舎のかあちゃんやばあちゃんが恋しくて恋しくて、泣いていたのではないでしょうか。それにしても、見事なかぶら矢でしたな。与一はこうして、今につたわる郷土の英雄として奉られたにちがいありません。

私は、平家物語の上の箇所についても往時の「知識人」が書いたとは思いません。一般に平家は、登場人物たちの装束を詳しく述べたて、雰囲気を作り出す。普通名詞が語呂並べ。おそらく鎧や装束に詳しい職人郎党などが、さらに物語の原型に、言葉をさしはさみ、さらに物語を膨らませているのです。同じことは与一が祈る、故郷に祭られた神々にも及びます。日光権現、宇都宮、那須の温泉大明神とある。これは下野の住人一党らの言葉のはしはし。田舎者であればこその証拠です。いわば知識人というよりは、いっそ落語家か、漫才師らの語り口と申せましょう。それもあちゃこちゃに住みまたは放浪して各地方の田舎の習俗とうとうをよく知っているものどもの口吻こそ、さらにさらにと、書き記されて物語を膨らませているように思われるしだいです。一見して判ぜられるのは、近代人の大特徴とされる、どう思った、こう感じたとうとうの「心理」というものが一切書かれていないことです。あくまでも見たとおりが、そのまま叙述されている。心理の代わりに、語呂並べが置き換えられている。そこに人間の雄渾な姿が、リアルに浮かんでくるのでございます。おそらく近代人の私の邪推からすれば、那須といえば、下野も田舎も田舎。足軽もどきで源平合戦に招集されて屋島まで、首に縄つけられほうほうのていで、くっついてきた舎弟格です。部下もいない最低の足軽もどきの与一が自前の馬に乗っていたとは思えないのです。鎧かぶともなかりせば、浴衣に毛のはえたほどの装束だったのではないでしょうか。たまたま、与一を引き連れてきた、領主なりが那須の原で弓矢での狩の名人として、それなりに名高かった与一に義経の御前に出ることを命じた。平家の挑発的扇打ちに名乗りを上げた将兵は数名いた。その中で義経が与一を指名したのは、あまりに貧しげな身なりに興味をもって、与一の意外性に賭けたとも思われるのでござります。
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戦後民主主義とイデオロギー

2005年08月05日 | ■歴史的なあまりに歴史的な弁証法
私が学校に入ったのは敗戦から10年目でした。都下の小学校に入ったのですが、一年生の終わりも近く、家の事情があって北関東の農村で暮らすことになったのです。田舎ではもう、戦争の傷跡のようなものは、ほとんど見られなかった。復員兵などもだいたいが帰ってきた後のことです。何年生かのとき、同級生の女の子が北朝鮮に帰っていったということがありました。時々、夏休みの小学校の校庭を利用して、出来たばかりの自衛隊の小部隊がテントを張って駐屯し、なにか野外活動のようなことをやっていました。休みであったにもかかわらず、怖いもの見たさで学校まで出かけていきテントの周りで遊んだり、ときには自衛隊員と話をしたりしたことがありました。
 
子どもは学校などよりも、地域の大人たちのなにげない口ぶりなどから、心底から教わることもおおい。大人たちの話の大部分が何を言っているのか分からないのですが、教師のマンネリに陥った話などよりは、あるときある場合には、よほど印象が深く残ります。結婚式や葬式の夜に酒盛りしている男たちが歌いだすのは軍歌に決まっていました。アメリカに敗れはしたものの必ずや日本を往時のような一等国にするのだといきまいておりました。ナショナリズムというものは度し難いものです。こうなると戦争に負けようと勝とうと、富国強兵こそナショナリズムの精神的糧のような気がするほどです。戦後もまた産めよ増やせよで、復興を願ったのでしょう。そうした中で、この国に生まれてきたのが、わたしであり泥炭さんです。ナショナリズムがなかったら、私など生まれてこなかったかもしれませんよ。

さらに、戦後10年たってもとあきれる思いだが庶民の歴史認識は、あいもかわらず徳川がどうした封建主義はだめだ等々の話題。また鎖国というものに対する糾弾式の否定的言説などが日常茶飯事に流布されていた。子どもの世界でも家康は悪者の代表格でした。つまり文明開花の時から、ナショナリズムを左右する大方針のようなものは、あれほど戦争で痛い目にあっても、そうは変わっていなかったのですから驚くのです。こうした面は今にいたるも右も左も同じでしょう。私には、近代主義や生産主義という点では自民党も共産党もまったく同じに見えてくる。
 
誰も子どもを産むなと掛け声をかけてきたわけではない。ところがいつの間にか子どもを産まなくなった。産んでも二人がせいぜいとは、情けない話です。だから、なんとか威勢のよいところを見せるために、すなわちナショナリズムという観点からは、相変わらず埋めよ増やせよというスローガンが重用されているわけですよ。何も変わっていないではないですか。脱亜入欧、文明開化、富国強兵等々、われわれが天下国家を考えるとき、それらの志向から一歩も外れることはできないのです。国家を縮小させて、よろしいのですか。

国民という存在または国民の中に培われた政治的文化的良識は、決してイデオロギー的存在でも、歴史的に規定された存在ではないということですよ。悪く行けば目先のことから明日のことを判断している。よく言えば歴史認識から自分や自分の国の有るべき姿を観念的に規定したり、方向付けたりは、決してしないということを説明しているのです。過去の歴史とは、観念の中のことですよ。一種の科学ですよ。言説にしか過ぎませんよ。今や昔、大戦争があって、日本は負けたというのは、外から聞いて始めて知ることですよ。

今や感覚上のことではない。戦争の実際を、知らないと罪になるのですか。戦争を知らなければ、平和に暮らす権利は剥奪されてしまうのですか。きちんと子どもたちに戦争の実際を教育しておかないと、子どもたちはみな長じて軍国主義者や国粋主義者になってしまうのですか。それらすべてが空想ですよ。幻想ですよ。不毛なアジテーションですよ。

国際的立場なんてものは、もちろんマスメディアを通じてしか、われわれ市井には伝わってこないはずです。「イラク戦争」しかり「ブッシュの政策」しかり。私は基本的に、よほどでなければ、マスメディアから日々大量に持ち込まれてくる報道を、受け付けないようにしています。新聞は取っておりません。TVのニュースは見ますが、アナウンサーの声は、できるだけ頭に残らないように、自動的に右から左に抜けていくように心を構えているのです。「日本の国際的立場」ですか。人のうわさなんぞ、安かろうと悪かろうと、気にしていたら、安眠もできなくなりますよ。そうした仕事をしたいという人が選挙で選ばれているのでしょう。その人たちの仕事です。イラクの現実を知っている人とは、見てきた人だけにして欲しい。それほど心配なら自分で見てくればよい。見てきもしないで、メディアを利用してアジッってくるような言説を、私は自分の中に入れないようにしているのです。このような二次的三次的にコピーにコピーされた言説は、聞き飽きたのです。その手のコピーこそ教育現場から排除しておきたいと思っております。正直な言説こそ、子どもたちに与えてほしいと、願わずにおられません。教育の質が問われるのは、教師の言説の質なのです。言葉の量ではありません。言葉は、ほんの少しでよいのです。

それは、昨今よく言われる「小泉劇場」などは違う話です。小泉政策については、あなたのようにきちんと嫌だと言っている人も、たくさんいますし、私が付き合っている人の多くは左翼系ですから、小泉に一票入れたなどと自慢げに公言してはばからないのは私ぐらいなものですよ。みなさん、きちんと、それも大きな声でいろいろと反対意見を表明できているではありませんか。それと民主主義とどう関係があるのかは知りませんが、少なくてもあなたのいうような「民主政治」のことなら、こうして立派に生きていることの証拠でしょうや。そうも、ないものねだりをしたり、高望みをしても始まりますまい。中には、先般の総選挙で小泉氏の一方的勝利をもたらしたのは、国民の民度が低いからだと申していた左翼系の方もいましたが、それはぎ改正民主主義の否定で、後は、テロや過激派に走る以外になくなりますよね。

「エースに命運を任せ」ては、何か不都合でしょうか。それも選挙で選ばれたエースですよ。私ら国民は生活に忙しい。国民を代表して、あちこちの外国様と交渉したり、法律を作ったりしておられるのでしょうや。それが彼らの仕事でしょう。彼らに不信があるなら、ひとつ、どうですか。泥炭さんも出馬されては。それ以外にあなたの不満を解消する道はない。あなたがやってみればよいのです。自分でやろうとしないで、一方的に人を責められますか。一面、命運を任せているということは事実でしょう。だが、昔とは違いますよ。国民のコントロールのもとにあることは、エースも庶民もよく知っておりますよ。戦地からの情報など、その多くが操作されていると、あなたはいつか申していたが、それも、それほど報道に不信で、心配でならないというなら、戦地の様子なりをあなた自身で見てくるより、あなたの確信は誰にも伝わらない。それをしないまま、言葉を発しているのは、聞くに堪えない、ないものねだりの不平不満ですよ。大人らしくないではありませんか。<2980字>
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