むかし書いた記事を読みて我ながら感心した次第にて再掲の儀に及ぶ
以下、2006,01,07 記
そう言えば、私は子どもの頃、アメリカという国の存在を疑った。海の向こうにそんな大きな国があるはずがないと思っていた。大人たちが、なんらかの都合で口先だけで暗黙の了解のようなものをとっていたり、また教科書などにも確かに米国の存在は明確に記されてはいるけれど、実際のところは、むしろ架空の国ではないかと疑っていた。未だに、わたしはアメリカという国に行ったことがない。ふと、やはり架空の国かもしれないと思うことが、まれにあるのである。
似たような話だが、やはり子どもの頃のこと。さんざんにチャンバラ映画を見ながらも「サムライ」というものは、映画の都合で作られた架空の話だと信じていた。大昔とは言え、へんてこりんなチョンマゲを結い、人きり包丁をぶらさげて歩いているような男が存在したはずはないと固く固く信じていた。義経も秀吉も信長も家康も、すべて映画とお芝居の世界だけの話だと思っていた。
そのくせ、誰よりも誰よりもチャンバラ映画が大好きだった。現在は、サムライが存在していたことを誰がなんといっても固く固く信じている。これは、アメリカが存在するかいなかよりは、よほど強く確信できている。やはりアメリカの有無については行って見てきてから、在るや無しやを語ろうと思うが、いまのところできるだけ行かないですますつもりだし一生、あんな茫洋としたわけの分からない国には行くこともないだろうと見積もっている。
ようするに私の利害にとって関係のない国などあろうとなかろうと、どうでもよいのである。それに、最近の話だが近頃のわが国の小学生の過半数が天動説を信じているという面白いニュースを耳にして、さもありなんと溜飲を下げた。私は地動説天動説を自分勝手に都合よく、あるときは地動説、またあるときは天動説を採用している。どちらか一つだけだと、かえって頭が混乱してしまい、困るからである。ようは自分の好みである。理科的な説など、自分勝手に都合よく使いまわしていけば、なによりの幸いである。
説が三つあるなら、三つとも適当に案配よく使ってみると暮らしの幅が広がるというものだ。一つの学説に拘ることはない。なにより本人の実践である。自分の手をつかい、足を使う。そこで確かめられた感触こそ認識上の最大の利得である。ただし、その実感をして、これぞ真実なりなどと、他人に向かって法螺を吹き始めると、ここから経験主義という愚にもつかない信仰がはじまる。称して、口は災いのもとだ。ようするに私が言いたいことは、教科書もそうだが人の説などを頭から信用してはならないということに尽きる。