赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼ようするに言葉とは何なのか

2023年10月01日 | ■文芸的なあまりに文芸的な弁証法

 今日もまたカラオケ屋に行ってきた。私が歌うカラオケ・メニューは昭和の歌が大部分である。「雨のブルース」、「下町の太陽」、「美しい十代」、「津軽のふるさと」などなど、その他いろいろあるのだが、それらすべてに、「あ~」または「あぁ~」の歌詞がある。そうして、その「あぁ~」の部分が、だいたい絶唱たる部分のようで歌っている本人からして、天にも昇る心地がしてならない。
 それにしても浮かれているばかりでは、なにほどの研究にもなりはせぬ。拙者なりに考えたのである。どうして、これほどまでに歌謡曲、詩歌に多用されているようにヒトは「あ」が大好きなのかと。
 そこで、この度、浅学非才のおいらなりに、その「あ」の意味たるやなんなのかと自問自答してみたのである。
 さても皆の衆、考えても見よ。われらヒト科の最初の発声をだ。なんの意味も分からずに母の胎内から産み出されて、この世の空気を吸ったとたんに、発声するのが赤ちゃんの産声というものが、やはり「あぁー」と喜びの時の声を上げたてるではないか。これこそ世界共通であり、世界の共通語であるとは思わんか。どこの赤ちゃんでも、「あ~」と泣き叫ぶ。悲しい時もうれしい時も、最大の表現は「あ」の発声からはじまり、「あ」につきる。
 近代のインテリ風情は、その「あ」には何の意味はないと言う。馬鹿を言うなよ。最初の発声に、そこにすべてのヒト科の「生」たる意味のすべてが込められていたとは思えんか。
 「あ」と聞こえる音声から始まっているのだよ。言葉のすべてが。記号のすべてが。貨幣、デジタルのすべてが・・・

 

▼「あ」は、言語学の根幹の原基だが「か」もまた引けを取らない。最初の「か」は交(まじ)わるの意味に召集されているようだが、それを言うなら、やはり「買う」だろう。物を買ったり売ったりすることこそ交わるの社会的原基の根幹がある。人は、物を売ったり買ったりして人と交わり、社会を構成するのである。いっそ家畜を「飼う」も同じことだ。「か」に込められた意味内容の、大きさたるや、なんと大儀なことよ。

交う、飼う、買う・・・それらの動詞は言語学的に言えば、みな同じことを指し示している。

 

▼「き」の語源は、ようするに「絹」につきる。衣を総称して「きぬ」と呼ばわっていたにしても、この場合、現物よりは言語が遅れているのである。絹の出現以前にもヒト科は麻やら綿やらから織りなす布をまとっていたことは周知の事実であろう。

 そこで話しは少し変わるが我々、昭和の人間は、布(ぬの)一般を称して「きれ」と呼ばわっていた時期があった。多分、大昔からそうだったのである。悲しいかな「布地」を称して「きれ」とは今や死語と化して久しい。

 言っておくが、「きれ」とは、「切る」の語源ではないのか。映画でもよくある場面だがキレ(布)を割いて、包帯をつくって、恋心を示したまえる・・・等々の。

 絹=布=きれ=着る=切る・・・これが「き」の発声に意味を持たせた源であることは間違いない。いずれにしても、発声に文字、とりわけ漢字を当てたとたんに、もとよりの意味内容が分断されしまうのが、悲しいとは思わんか。

 

 そこで、前もって言っておくのだが、この記事は、この後、なん百回となく、訂正加筆また書き換えが横行されることあたわず。許せよ。学校の宿題でもあるまいに、取って付けたような結論は何の意味もなさしめまい。言葉とは、その最初の泉がどこにあったのか・・・などとは、なにしろきわめて難儀な話なのである。

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▼読書の感想

2022年11月03日 | ■文芸的なあまりに文芸的な弁証法

(2021.11.10刊 NHK出版新書 浜崎洋介著) 

 

先日、上の本を読んだ。

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▼英霊と共に

2022年08月15日 | ■文芸的なあまりに文芸的な弁証法

今日は七十七年目の敗戦記念日である。靖国神社に参ってきたところなり。鳥居をくぐるたびごとに本殿に向かって何度も何度も頭を垂れて英霊に挨拶をしてきた。

 

 

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▼さようなら 慎太郎

2022年02月01日 | ■文芸的なあまりに文芸的な弁証法

訃報 令和四年二月一日 石原慎太郎 享年八十九

人に憎まれて死んでいく それが本望と よくぞ言ってくれた 

さようなら 昭和の花形 兄弟そろって千両役者

さようなら 太陽の季節 赤いハンカチ

さようなら 慎太郎 戦後日本の誇り




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▼事実は小説より奇なり

2022年01月20日 | ■文芸的なあまりに文芸的な弁証法

先日、「狂うひと」(梯 久美子著 新潮文庫)を三日がかりで一気に読んだ。副題に ー「死の棘」の妻・島尾ミホ ー とある。「死の棘」は刊行当時大評判になった小説家島尾敏雄の一大長編小説でありミホは彼の妻であった。

「狂うひと」は一言で申せば島尾ミホを主人公としたノンフィクションによる評伝だが読み終えて、ひとまず感じたことは、ミホの夫であるところの敏雄作なる小説の「死の棘」本体より、よほど面白く「事実は小説より奇なり」という俗諺をうべなって余りある感慨が、わたしの中でいよいよ本気で沸き起こってきた。とりもなおさず、そのことは「小説」とか「小説家」というものに対する大いなる失望と不信に他ならなかった。

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▼泰子と中也と小林秀雄

2021年10月29日 | ■文芸的なあまりに文芸的な弁証法

 

以下は、いまや20年近く前に書いた古い記事につき、恐縮至極。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『ゆきてかへらぬ -中原中也との愛-』(長谷川泰子/述 村上護/編 1974年 講談社)という本を図書館から借りてきて読んだ。本の最後に次のようにあった。

私はビルの管理人として、十二年半働きました。朝早く目覚めると屋上に出て、鳩に餌をやりました。一人ぼっちの生活でしたが、鳩を毎朝ながめながら、こしかた60年の思い出を反芻(はんすう)したり、中原の詩を読んで涙を流すこともありました・・・・ビルの管理人の後、ホテルの帳場に半年ほどすわり、その仕事も1年あまり前にやめて、いまは一人静かに暮らしています。気ままに過ごした人生も70年を越えました。

巻末で長谷川泰子さんの口述をまとめて、この一冊をなした経緯を村上護氏が以下のように解説している。

長谷川泰子さんが中原中也と同棲し、のち小林秀雄氏のところに去って行った(大正14年)ことは、よく知られた事実である。それは三角関係ということで、ゴシップ的に扱われやすいため、いろいろ取りざたされてきた。だが、その真相に触れたいきさつについては、当事者があまり語っていないため、やはり推測に頼る部分が多かった。ことがことだけに、それも無理からぬことかもしれないが、詩人中原中也の研究が細かいところまでいっている現在、ただゴシップ的風聞にとどめておくのも、やはり心残りと考えるのは私一人ではないと思う。


けだし良書であった。私は、この本を読みおえてページを閉じる前に、また本の最初にもどって、しばらく長谷川さんの写真を眺めていた。そして、いずれも二十歳そこそこだった彼らの早熟すぎて危うい心意気のようなものを想像して胸を熱くした。中原中也はほんの19歳。三つ年上の泰子は22歳、小林秀雄にしても23歳だった。中也が結核で逝ってしまったのは、それから十年後のことである。長谷川さんは、すでに小林とも別れ、別の男と結婚していた。幼い息子の手を引いて中也の弔いにやってきた長谷川さんは、そこに座り込んだまま長い時間泣いていたのだと云ふ。

 

 
中原中也

後日、某掲示板において、以下のような面白き議論があったので再掲載の儀に及ぶ。

 

●投稿者:モクモク
「あなたは中原とは思想が合い、僕とは気が合うのだ」。これは、17歳の不良少年中原中也と京都川原町今出川上るの下宿で同棲していた中原より3歳年上の女優志願の女長谷川泰子に中也の友人小林秀雄がささやいたクドキの言葉。泰子は小林のもとに走り、中也は『口惜しき人』になる。泰子は女優としては成功せず(それでも1度は主演したそうである)、晩年はビルの清掃人・管理人となり生涯を終えた。まだラジオの時代、わし長谷川泰子へのインタビューを聞いたことがある。泰子は中也のことを「田舎者だった」といっていた。わし、中也と泰子がその昔同棲していた、川原町今出川のスペイン風の下宿の前を歩いて、高校に通った。小林は日本一の知性と呼ばれる文芸評論家になった。昭和29年の東大の入試には小林の「無常といふ事」からの1節が出された。(東大の先生も賢くなかったんだね)。口惜しき人中也は30歳で病死、新古今も理解していない小林(秀才丸谷才一による)は西行についての書物を書いた。あれから80余年たった今、口惜しき人中原中也は本物、日本一の知性小林秀雄はニセ者。ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん


●投稿者:かもめ
80余年が経とうが経つまいが、時間と文学の核心は関係のない話だ。中也が本物なのは、彼が詩人そのものであったという事実を説明する以外のなにものでもない。中也の詩は、韻文というより、歌だからね。音楽だよ。そのことを小林秀雄は自分の生涯をかけて、説明してきたのだよ。自らは歌えなかった。歌わなかった・・・少なくても小林自身は、そう思っている。小林は中也を見て、詩を断念した。そう言っても過言とはいえまい。以後、評論に徹したわけだが、その散文に独特の「歌」を感じているのが、わたしだ。小林の散文は「歌」になって・・・しまっているのだよ。いつだって、文学の核心は「歌」にある。極端に言えば、音楽から離れて文学はないとさえ、思っている。それを教えてくれたのが小林の散文だ。この小林秀雄が生涯で一度だけ、詩を書いたことがある。以下の一編がそれだ。


死んだ中原  小林秀雄

 君の詩は自分の死に
顔がわかってしまった男の詩のようであった
 ホラ、ホラ、これが僕の骨
と歌ったことさへあったっけ

僕の見た君の骨は
鉄板の上で赤くなり、ボウボウと音を立てていた
君が見たという君の骨は
立て札ほどの高さに白々と、とんがっていた

 ほのかながら確かに君の死臭を嗅いではみたが
言うに言われぬ君の額の冷たさに触ってみたが
 とうとう最後の灰の塊りを竹箸の先で積つてはみたが
 この僕に一体何が納得できただろう

夕空に赤茶けた雲が流れさり
 みすぼらしい谷間に夜気が迫り
 ポンポン蒸気が行くような
君の焼ける音が丘の方から降りてきて
僕はやむなく隠坊の娘やむく犬どもの
生きているのを確かめるような様子であった

 ああ 死んだ中原
 僕にどんなお別れの言葉がいえようか
君に取り返しのつかぬ事をしてしまった、あの日から
僕は君を慰める一切の言葉をうっちゃった

 ああ 死んだ中原
たとえばあの赤茶けた雲に乗っていけ
何の不思議な事があるものか
僕たちが見てきたあの悪夢に比べれば

(昭和12年12月「文学界」)

 


●投稿者:モクモク
大正も終わりに近い頃、小笠原に遊んだ小林秀雄は、帰って来ると友人たちにしきりにいうのだった。「海だろうと山だろうと、色彩なんてものは、小笠原へ行って来なけりゃ、わかるものか」(三浦一郎)。林の表現にはこういうたぐいのハッタリが多い。「モオツアルト」も「無常といふ事」もこのたぐいで、よく知りもせんくせに上記のような調子でもの書いて一生メシ食ってきたんだ。わし、日本を出る前、いろんな文化人の口演をじかにきいたが、一番感銘をうけたのは広津和郎、一番ゴミだったのが小林秀雄。長くなるので、くわしくは書かないが、広津は例によって松川事件の経過。口演が始まって10分くらい経ったところで、絶句して立ったままになった。どうかしたのかな(言うことを忘れちゃったのかな、八代目桂文楽の最後の高座みたいだ)と思ったら、数十秒後、背後から2人の係員が駆け寄り、広津を両脇から抱えた。過労のための貧血だった。広津はまだ意識があり、一言「失礼」とはっきりした声でいい、係員に抱えられて退場した。広津は大作家ではないだろうが、「神経病時代」は秀作だし、じぶんの少年期を書いた作品は、わし、大好きである。吉屋信子によると、若いころの広津は、女、女に明け暮れした異常な女たらしだったそうだが、晩年は老いの一徹で松川事件に全エネルギーをつぎ込んだ。わし、広津がほんとに大好きだった。わしはそのあと外国に出たが、広津が死んだというニュースを聞いたら泣くだろうと思っていた。しかし、わしは泣かなかった。小林の口演は、スポーツマンシップについての話題だった。昭和40年当時、小林はゴルフに凝っていた。ボールを打つとき、誰も見ていないとき空振りすると、誰も見ていないから振らなかったことにするのは年をとってからゴルフを始めた人間、若いころからスポーツをやってた人間は誰も見ていなくても空振りを一回振ったと勘定する。スポーツマンシップとはかくも重要なことである、というような愚にも付かぬ話を45分。係員がやってきて、時間を超過していますと告げると、われわれ聴衆に「失礼」ともいわず(一言のアイサツもなく)、さっさと引き上げた(偉いんだからね)。わしのまわりで話にアクビしていた連中は、あいつバカじゃないのかと口々につぶやいてた。いま、アイオワ大学で解剖学の教授をやってる友人(プリンストン時代からの日本人の友人)は、浅沼稲次郎が刺されたとき前から4列目にいて、事件を目撃したそうである。

 


小林秀雄

 

 

●投稿者:田吾
小林秀雄は読んだことないが、アメリカ帰りのモクモク先生が小林秀雄について書くたびに、読まなくていいんだなと安心すますた。あれ読むといいよ、などという情報も大事だが、読まなくていいよ、という情報も大事だすね。先生の言うとおりだす。

 

●投稿者:かもめ
これ田吾よ。小林秀雄の本など読もうが読むまいが何ひとつ大勢に影響はあるまい。そうならそれで結構なことじゃないか。そこで、読まないと法螺をふいている田吾には余計なお世話かもしれないが、この際ぜひとも紹介しておきたい小林秀雄の短い一文がある。ま、そうひねくれずに、せめてこれだけでも読んでおきたまえ。読むのは一分あればよい。だが、心から理解するには十年かかる。良い文章というものは、そういうものだ。そうした文章の歴史的民族的集積が「文学」と呼ばれている総現象だ。

 


長谷川泰子

 

 ----------
 中原中也   小林秀雄

 先日、中原中也が死んだ。夭折したが彼は一流の抒情詩人であった。字引き片手に横文字詩集の影響なんぞを受けて、詩人面した馬鹿野郎どもからいろいろな事を言われながら、日本人らしい立派な詩をたくさん書いた。事変の騒ぎの中で、世間からも文壇からも顧みられず、どこかでネズミでも死ぬ様に死んだ。時代病や政治病の患者たちが充満しているなかで、孤独病を患って死ぬのには、どのくらいの抒情の深さが必要であったか、その見本をひとつ掲げて置く。


 六月の雨

またひとしきり 午前の雨が
菖蒲のいろの みどりいろ
 まなこうるめる 面長き女(ひと)
たちあらわれて 消えてゆく

 たちあらわれて 消えゆけば
 うれいに沈み しとしとと
畠の上に 落ちている

 お太鼓たたいて 笛吹いて
 あどけない子が 日曜日
 畳の上で 遊びます

 お太鼓たたいて 笛吹いて
遊んでいれば 雨が降る
簾子(れんじ)の外に 雨が降る


<「手帖」昭和12年12月号>

 

 

朝から新橋に出て、いつもの茶店で時間をつぶす。小林秀雄の『作家の顔』(新潮文庫)などを読む。中に「中原中也の思い出」という短い文章がある。冒頭に触れたとたんに涙腺がゆるんできた。本を読んで泣くのは久しぶりだった。

中原と会ってまもなく、私は彼の情人に惚れ・・・・やがて彼女と私は同棲した。この忌まわしい出来事が、私と中原との間を目茶目茶にした・・・・彼を閉じこめた得体のしれぬ悲しみが。彼は、ひたすら告白によって汲(く)み尽くそうと悩んだが、告白するとは、新しい悲しみを作り出す事に他ならなかったのである。

 

 

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●左様ならばまた明日

2020年11月16日 | ■文芸的なあまりに文芸的な弁証法

 

<以下、昔の記事より 2008.07.23 記>

 

サヨナラダケガ人生ダ・・・井伏鱒二

わたしの知っている一般向きの挨拶の言葉は四つしかない。おはよう、こんにちは、こんばんは、そして「さようなら」である。四つのうちの前の三つは、毎日何度となく抵抗無しに使うことができているのだが、このうち「さようなら」と人に面と向かって言う機会が、ほとんどなくなっていることに気がついた。自分では、嫌いな言葉ではなく、むしろその音律も、またその言葉から湧き上がる情緒も大好きなはずなのに、なぜか「さようなら」とは、言いづらくて仕方ない。なぜ、そんなふうに思ってしまうのか。まさか公的に禁句になったというわけでもないだろうに、わたしも使わなくなって、久しい感じがするのである。どことなく少女趣味のようでもあり、いわゆる女言葉と言い切っては語弊があるだろうが、おセンチで、自分の柄にはそぐわない気もしないではない。綺麗すぎる言葉のような感じもする。それはともかく、私のまわりからは、すっかり消え去って、一向に耳にすることもなくなってきた。どのような風潮が、この美しい挨拶言葉を日本人から取り上げてしまったのか。不審なこともあるものだ。いまや、「さようなら」は死語となったのか。

 
  さよならと言ったら
  黙ってうつむいてたお下げ髪
 
  さよならと言ったら
  こだまがさようならと呼んでいた

  さよならと言ったら
  涙の瞳でじっと見つめてた

<ラジオ歌謡「白い花の咲く頃」より>




ありがとう・さようなら ともだち
ひとつずつの笑顔 はずむ声
夏の日ざしにも 冬の空の下でも
みんなまぶしく 輝いていた
ありがとう・さようなら ともだち

ありがとう・さようなら 教室
走るように過ぎた 楽しい日
思い出の傷(きず)が 残るあの机に
だれが今度は すわるんだろう
ありがとう・さようなら 教室

ありがとう・さようなら 先生
しかられたことさえ あたたかい
新しい風に 夢の翼(つばさ)ひろげて
ひとりひとりが 飛びたつ時
ありがとう・さようなら 先生

ありがとう・さようなら みんな みんな
ありがとう・さようなら みんな

「ありがとう・さようなら」 井出隆夫作詞

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▼寄る年波の小説作法

2020年11月16日 | ■文芸的なあまりに文芸的な弁証法

<以下昔の記事より 2008.07.14 記>

 

かもめさんの文章は思いいれと思い込みが強すぎるようです。ノンフィクションには向いていないようと思いますね。そんな調子でいくら書いても「いいかげん、誤認、無知・無理解」と言われたり、時には「うそつき」と呼ばれかねません。心当たりもあるのでは。かもめさんには、ぜったいフィクションが必要です。

こんにちは。おっしゃる通りで図星です。わたしの無学は、自他共に認めていることで、いまさらどうにもなりません。そうですね。確かに「うそつき」呼ばわりされることもしばしばありました。ただ「思い込み」ということについては、言語活動の原理的問題であり、人は思い込んでいることがあるから文章を書くのでしょう。思い込みは自熱をあげる。なんらかの主張があるから、ここ一番で筆をとるのです。熱がなければ、そんなことはできませんよ。逆に言えば、文章を書くということは、気持ちに多少なりとも熱が必要だろうと思っています。もちろん熱も程度問題でしょうがね。いくら熱っぽいのがよいとは言っても、興奮したままでは、筆は取れません。ここが問題なのです。フィクションについては、まったく同感です。自分でそう思ってはいるのですが、なかなかうまくいきません。石川淳が何かに書いていたのですが、誰にとっても文章というものは書いているうちに、おのずとフィクションに向かっていくそうです。ま、わたしの場合、不向きだということですよ。フィクションにしてもノンフィクションにしてもね。文章を書くという、そのことの意味が薄いのかもしれませんね。それに文章のジャンルについては、明確な区別を避けたい気持ちもある。たとえば理系だとか文系だとか、さらに右だとか左だとか。われわれが習い覚えて脳内に刷り込まれている、文芸思潮各種などに見られる既成の枠組みに与(くみ)したくないのです。よって、他人が読んでも、小説だか随筆だか、さっぱりわからない様なもののほうが、自分には合っているような感じもしています。最後の区別は他人に決めてもらえばよいと、そう思っている。最初から、これから小説を書きますと自信たっぷりに動機付けて、断言できる筋合いは、わたしにはまったくと言って皆無なのです。既成の枠組みと言いましたが、実際、かなり失望しているのです。わたしが見たところの範囲で、すなわちわたしが理解している現行のジャーナリズムとか「文学」とかにね。いまや、これといった作家もジャーナリストも、一人たりとていませんね。彼らは、総じて脳のない馬鹿ばかりだ。もちろん私だって似たもの同士ですよ。何にもわかってはいないのです。文章なんぞには、自分の現実的な幸福も不幸も、もとより存在しないのだから、しょうがない。よって自分の書いたものの、分野や形なんぞ、どうでもいいと思い始めている。形をつけることも才能のうちだとは、わかっているのですが、結局、私には、その能がないと断念した。仕方がない。そもそも文章を書かねばならない義務もなければ義理もないのです。さて、わたしもすでに還暦です。人様から恋愛詩や童話を書けといわれても、とうてい無理な話です。昨日また前歯が一本抜けてしまっただ。総入れ歯の算段だ。色恋沙汰は無理難題。涙は枯れた後の祭りよ。よる年波には勝てないものだす。

かもめさんには、最低限、調べる作業が欠けています。

これも、おっしゃる通りだと思います。仮に文章を書こうとする場合は、むしろ、そんな調子で行くしかないとすら思っているところです。作業を欠かす、調べない、構築しない、専門家の意見を無視し、知識を無視し、心理描写を無視する。なにもしないで、残ったものがあるとするなら、それが私の文章を書くという行為です。逆説どころか反逆していると思われるかも知れないが、こうした気持ちは、かなり確信に近くなっています。そうですね。歌物語のようなものでしょうか。俳句は、よく分からないのですが、和歌のひとつでもいいでしょう。最終的に、世間に提出できるものは。それがわたしの狙っている私の文学だと思っているところなり。極言にしか聞こえないかもしれないが、他からはなにも学ぶつもりもありません。学べないでしょうね。感じることだけです。それが自分の心にとどまるならば、少々は良きものに、影響されているということもあるでしょう。それが生活ですよ。作家や知識人や図書なんかには、金輪際影響されたくないですね。日々の報道なども、現在はほとんど気にならなくなりました。新聞も雑誌も見ていませんよ。ま、ネットの報道は見るけれどね。ネットで読むものと言えば、スポーツ記事ばかり。それと知り合い各位の意見、主張など。枕元には、相変わらず、小林秀雄関係の本が山積みされている。それだけですよ。歌物語とは言っても、これまた私の実力では、到底及ばないとは思っていますね。気持ちは、そうだというほどのことです。歌なら、いくらでも作ってみたいとは念じるが、比喩的に言うなら、今後自分の書く文章は、たとえ散文でも、歌にしたい。歌うように書きたいという願望です。歌心も文章にしなければ、どうにも伝わらないことは分かっている。文章を書くという行為で果たされる幸いは、歌うことですよ。文章の底には、詩があるのです。なければならないと、そんなことを思っている。書いたものが意外に、小説風になる場合もあるかもしれない。何々風だというのは、人が決めること。それでよいだろうと思っている。

パウロなど、ローマ語に通じている人材が出てきたからこそキリスト教はローマ国教、ひいては世界宗教になりえたのです。

これは、まったくその通りでしょうね。ですから、イエス後に書き記された聖書とされる弟子たちの記した福音や手紙なども、本当のところイエスが生きていれば、どう思うかは、わからないのですよね。イエスやソクラテスが著作を残さなかったということは、確かに時代の制約ということもあったでしょう。でもわかることは、さほど著作、すなわち文字や記録にこだわっていないということだけは、わかるのです。だが、歴史は、当人の思いとは、若干違った風に進む。卑近な例として、子どもの詩の場合を述べてみたわけです。子どもは別に詩作しているつもりはない。通常通りにおしゃべりしている。だが、それを聞きつけた大人が、詩であると認識したからこそ、公表されるのでしょう。善悪の問題ではぜんぜんない。実に不可逆的な、不可抗力のようなものが働いて歴史が進んでいる。有名なマルクスの話がありますね。晩年のことですが、「自分はマルクス主義者ではない」と断言している。マルクスが生きて発言できるとすれば、スターリンは言うに及ばずレーニンでさえも、自分の弟子だとは到底認めなかったかも知れませんね。こういうことがあるというよりも、こういうことだらけですよ。歴史ってもんは。あらゆる現象が偶然の賜物であり、誤解の産物ですよ。正論は隠されている。隠されたまま歴史はどんどん進んでいってしまう。むしろ必然性なんか、なにもないと言っても過言ではない。仮説のまっただなかで、われわれは生き死にしている。そう思えば、なんぼか気持ちも楽になる。偶然性こそ、自由の源ですよ。何ひとつ決まっちゃいませんよ。

歴史を見れば高度化した文字は特権階級の独占物だったという事実にぶち当たります。どこの国でも王族や僧侶階級が文字を独占し、自分たちの「歴史・真理」を管理していたわけです。そうすると、「著作する」ことは在野の聖人たちにとっては必ずしも有利ではなく、彼らの目的と合致しなくても不思議ではないかもしれません。ほかにもいろいろ「理由」が考えられます。

著作の有無は、政治的に有利不利の問題ではないでしょう。在野の聖人だから、というくくりつけも、論外ですよ。言葉とは、当初、どういうものだったのか、これをよくよく考えておかなかければならないのです。少なくてもわが国で、言葉が文字によって記されたのは、「古事記」が最初の事件だった。古事記以前に、筆記すべき日本語というものは、なかった。すべて口承によって交換されていたのです。話し言葉だけの世界だったのです。当時、世界は、そういうものだった。漢字という中国語の到来してきた。漢字を、あるルールを作りつつ、日本語に当てはめていったのです。万葉仮名と言われるものを見ればわかるが、最初は当て字だらけだった。意味を採用したり、音だけを採用したり、しつつ漢字を、日本語に置き換えて、書き言葉としての「日本語」が出来上がってきたのです。模倣ですよ。模倣が蔓延して、民族に特有の言語が生まれることもあるでしょう。

歴史は支配者の軌跡だと、よく言われるが、確かに歴史の前面に写されているのは、支配者による政治的経済的覇権争いと支配者たる地位と生活を謳歌している有様ばかりだが、それはテキストの表面上のことです。物語の底に人々の確たる歴史が垣間見えてくるのです。では人々の歴史とはなにか。一言のもとに言ってしまえば、衆愚の歴史といえないこともない。文字に書き付けられた意味に惑わされ、実に簡単に教祖の言辞を頭から信奉してしまう。そしてまた共同体の中に、異論者が出てくる。意見違いから四分五裂し、セクトが生まれる。セクト間で、喧嘩が始まる。戦争にも及ぶ。キリスト教にしても、仏教にしても、いまや何通りのセクトに分かれているか、数え切れないほどです。これが衆愚というものの有様で、まさにセクトの発生と、戦争こそ歴史の醍醐味という様相を呈している。セクトを、すこし今日風に平和的に換言するなら、いわゆる「業界」のことですよ。衆愚の集う「業界」は、どうしても「悪貨は良貨を駆逐して」いかざるを得ない。悪貨が制覇する過程、これが人の歴史の王道ですよ。

文学や芸術に歴史はない。もちろん過程もない。わたしはそう言いたいほどだ。進んでいるのか、退歩しているのか一向に判別できない。それが「私」の文学です。はっきりしているのは、年老いていくことだけだ。それが「私」の人生です。ではなぜ、衆愚はいさかいを起こすのか、なぜ論争したり議論したりするのか。おそらく心の底に、やみがたい不平不満があるからでしょう。自己を主張しなければならないからでしょう。食い扶持をめぐって、言い分をめぐって、どうしても主張しなければ生活が成り立たないという現場の問題がある。あっちの教祖の言っているように、生活したり物を考えていたんでは、自分の不利になるばかり。こうして「私」は集団をつくり徒党する。歴史とは集団の歴史となる。社会は、いつだって質よりは量をもって、良しとするのです。私より集団を重んじるからです。こうして、歴史は破竹の勢いで良貨をつぶしていく。価値が平等化される。均質化される。これも歴史だ。これはいずれも社会原理と言っても良い。社会とは集団のことですよ。「私」の原理ではない。集団化された私は衆愚となる。集団から文学が生まれるわけがないでしょう。集団が作る文章は、せいぜいスローガンか、まれに法律文ぐらいなものです。こんなものは、ただの記録にしか過ぎない。文学的には二束三文ですよ。

文学といえる言葉は、あくまでも「私」です。「私」以外のところから、文章が生まれるわけがない、その覚悟を決めることこそ困難なのです。ところで、心がゆすぶられる子どもの詩は、学校などで机に向かって、さあ「詩を書きましょう」といって書かれたものではない。そのときも指摘しておきましたが、多くの場合、お母さんなりと対話しているときのおしゃべりですよ。本人は、詩を作っているとは、毛頭考えていない。そういう場合が多い。では、そのときの子どもさんのおしゃべりが、詩であると認識したのは、誰でしょう。少なくても本人ではないのです。子どもの詩がステキなのは、まだ衆愚にはなりきっていないからでしょう。言葉と肉体が同一化されている。痛いときは、率直に全身で、痛いと伝えてくる。言葉を発するに、どのように受け止められるかという、他人に対する疑いを持っていないのです。だから、子どもの言葉は大文学なのです。これに比べれば、小説家でござい、ジャーナリストでございなんて威張っているのは、馬鹿もいいところではござんせんか、と申しているのです。

こうしてみると、かもめさんが力説する「ソクラテス、イエス、孔子、釈迦の4大聖人たちは文章を書かなかった」というテーゼもかなり一面的だと考えられるでしょう。

大昔は、今日のようには文字による記録、すなわち図書やジャーナリズムは重んじてはいなかったと思われるのです。イエスといい孔子といい、本人の気持ちとしては、自分が吐く言葉は、言いっぱなしのようなものだったのではないでしょうか。彼らにとっては、それでよかったのです。言葉とはそういう次元の問題だった。図書にする必要も記録する必要もなかったと思われるのです。これは、記録と文字優先の現代社会では、とうてい想像もできない、古代人の持っていた独特な感覚だっただろうと思うのです。驚くべきことですよ。キリスト教を世界宗教にしようなどとは、イエスは、これぽっちも思っていなかった。イエスの言葉を、世界に普遍的なものにしようと、たくらんだのは、弟子たちの悪徳にほかなりません。悪徳といっては語弊があるが、言葉というものも、また、最初の聖人の精神など、おかまいなしに良いも悪いも含有させて、有無をいわせずに広がっていく悪弊があるのです。

たとえばアメリカ先住民は部族ごとに言語は違いますが、かなり高度な手話を持っていました。手話が共通言語の役割を果たし、広いアメリカ大陸に多数の部族があったにもかかわらず、お互いに意思の疎通が計れていました。これは先住民同士で合議して共通手話を開発した、というのではなく、むしろ先に身体言語としての手話があって、それが共通しているので意思が通じ、あとからそれぞれの部族言語が成立したと考えるのが妥当でしょう。こうして見ると、「文字に対する言葉の優先性」というテーゼは、言語というツールを狭い範囲に置いてしまっていることが分かります。事実としては「文字も言葉も人間のコミュニケーション・ツールとして同時に、あるいは交互に発達した」のではないかと思います。

確かに文字は記号です。おそらくわれわれが知る以上に、古い時代から存在していたのでしょう。絵文字なり、その他もろもろの、多少なりとも部族内で共有化できていた記号があったはずです。しかし、それを言うなら、やはり世界の言語に共通しているものをはずしては話になりません。共通しているもの、それはなんでしょう。人の肉体の喉を通して発せられた音声ですよ。文字も記号なら、音声も記号ですよ。文字のない言語や言葉は多数ありました。近代以前の言語体系は、地球上に6000ほどあったと言われている。その多くが文字を持たない音声だけの言葉でした。アイヌをはじめ、むしろ文字を持たない言語のほうが、かつて日本語がそうであったように、多かった。そうした中にも、文学はあった。むしろ文字がないからこそ、人々の話は、文学に満ちていたとさえ想像できるのです。人々は声を交わして歌や詩を読んでいたのです。それも日常的に。誰しもが、普段に。万葉集や梁塵秘抄などから、そうしたことがうかがわれます。図書や知識にこだわるのは、われわれが囚われている近代の迷妄にすぎないのです。

かもめさんの文章から気がついたのですが受け売り・引用ならともかく、オリジナルな哲学論理を書く場合はやっぱり大変です。その点、かもめさんの場合も、小説なら思いついたらすぐ書けるので楽ですよ。

わたしは、「オリジナルな哲学理論」を書いているつもりも述べているつもりもないのです。オリジナルか、受け売りか、また哲学なのか文学なのか、邪道なのか、それらすべて他人が考えればよいと、以前にも言ったことがあるが、そんな風に思っています。それに、哲学論理は大変で小説は楽だという、あなたの主張も私には初耳ですね。初耳というより、それらしい言葉は何度か聴いたような気もするが、そうもはっきり聞こえたのは、初めてのような気がします。先日も、あなたから言われました。無学なものが、なにか文章を書こうとするなら、ノンフィクションよりフィクションを書けと。ま、どうせ調べもせずに書く「かもめ」の場合はと言いたいのが主旨のようで、それは、ひとえに好意的に受け止めておきますがね。しかし、そうでしょうかね。哲学論文であれ科学論文であれ、なんでもいいが、その種の論文などを書くことより小説は楽でしょうか。私はぜんぜん、そうは思わないですね。また、思いつきで哲学論文を書くのは不可能で、その点「小説」は思いつきでやっていけるような言い方ですが、それもどうかと思いますよ。文学にジャンルというものはないと、前にも書いておきましたが、あなたの俗論を拝見してますます自説を崩す必要はないと心得ました。科学論文も哲学論文も文学ですよ。話されたこと、書かれたこと、すべて文学の種ですよ。後世の人々が、決めるのです。パスカルの「パンセ」は十分に文学ですよ。プラトンの全著作は、むしろ哲学というよりは、劇作のようなものですよ。少なくてもプラトンは、そう思って文章を書いていた。内村鑑三の「余は如何にして基督教徒となりしか」は、文学ですよ。福澤諭吉の「学問のすすめ」も文学です。それぞれの出版社が「日本文学全集」なりを編集するときは、まず第一巻の筆頭に掲げておくべき、近代文学の重要な作品です。彼らは、小説なんて、これっぽっちも書こうとは思っていなかったはずです。成功しようとも、思っていなかった。後世の文学全集の巻頭を飾るべき作品を書こうなんて、これぽっちも思っていなかった。こうした事情は「源氏物語」にしても然りでしょう。結局、どういう書き物が文学として成立可能か、という大問題は、多くの場合、書いた当人には、あずかり知らないことなのです。今日でさえ書いたものではなく、話したことが、第三者によって伝えられたり、また筆記されたりすることはよくあることですが、これらが文学にはなり得ないとは、断言できません。かように何が文学かとは、歴史的なことなのです。われわれ主体者は、いずれにせよ書き、話をしながら、生活しているという、ただそれだけのことですよ。書いた物が哲学論文か、小説かなどという判断もまた最終的には本人にはできないような気がしますね。もちろん文章を書いた本人様が、自分の書いた文章こそ小説なりや、文学なりや、哲学なりやと、うぬぼれるのは勝手です。私は知ったこっちゃない。

ある人に言わせれば私たちは「草野球」だそうですが、かもめさんは、ふみの会の会員であるにもかかわらず、その草野球にも入らず、グランドの外で酒を飲みながらあらぬ方向へ野次っている存在にしか見えません。

私は「ふみの会」を「草野球」だとは思いませんよ。そもそも文学に「草」も「プロ」もないですよ。また、職業作家(売文稼業)などから見れば同人誌がごとき、草野球とみなされても、よくある話で、いちいち反発するほうがどうかしているのです。文学なんぞ、誰も理解してくれてはいませんよ。少数の人間が、たまたま面白がって読んでくれるという程度ですよ。理解よりは誤解のほうが、圧倒的に蔓延しているのです。これは悲観して言っているのではない。大昔から、事の真相や正論というものは、孤立していたのです。一般大衆の誰からも理解されるなんて現象は、決してほめられたことではないのです。草野球でいいじゃないですか。野球さえできるなら。

クレーマーでも社会評論家でもなく、俗流哲学者でもなく落書き魔でもなく、ブンガクするかもめさんが見たい。

ま、あなたが私に対して言いたいことは、せめて「ふみの会ニュース」に文章を投稿したらどうだ、というあたりだとは思っています。そうした善意からの助言については感謝にたえない。だが、どうも自分の気持ちを見透かしてみるに、ますます雑誌や活字媒体というものと自分の文章との距離が開いてきてしまったようです。いつかも言いましたが、活字や雑誌というものが胡散臭くてならないのです。出版物の言辞言説が、ネットなどに比べて、まどろっこしく感じられてならない。そうした態度は、ブンガクをやっていることにならないと、人様から非難されても反論する気持ちにもなれません。知人友人から、私が、そのようにしか見ていただけないなら、そりゃしょうがない。見てくれたままでよいですよ。私の方からは、どう見てほしいなどと望むべきもないことだ。どのように見られようと評価されようと、勝手です。私について、なんと言われようと、ちょっとやそっとじゃ、これまでの私のモードは変わらないと思いますね。自分で良いと思っているのだから詮方なし。これは確信です。なんと言われようと、あたしゃワンカップ片手に、目の黒いうちは、こんな調子でまずはネットに書いていきますよ。それぐらいの自由はある。飯が食えて、屋根の下に眠れ、あとはパソコン一台あればよい。他には何ひとつ、ほしくはないですね。たまに自分の内心に向かって、法螺をふいたりする。自分は、幸せ者だ。それが証拠に、四六時中、ブンガクをやっていると。


●やく 平原愛弓(東京都 小1年)

おかあさん
べつにげきを
しているわけじゃないんだから
あゆみがちらかしやくとか
おかあさんがかたづけやくだねとか
いわなくてもいいじゃん


「子どもの詩」(1995年 花神社)より

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▼新訳『カラマーゾフの兄弟』より

2020年11月14日 | ■文芸的なあまりに文芸的な弁証法

<以下、むかし書いた雑文につき恐縮だが・・・2008.09.08 記>

 

こんにちは。芸術とイデオロギーの摺り合わせに関する論理的倫理的問題にいたれば申し分なし。実に私好みの話題で興味津々という感じだったのです。さてあなた次のように書きました。

座談も小説も超一流に面白いという人はあまりいず、私の知る限りでは中里喜昭ぐらいです。芸術は本人のイデオロギー的な限界を超えるのです。

その際あなたのおっしゃる「芸術」とは何か、という問題です。芸術の概念と申してもよい。結局、芸術というものは、人それぞれに都合よく、勝手に解釈しているようにさえ、感じられる今日この頃です。思うに、芸術という言葉(概念)は近代にいたって急造された概念であることは間違いないでしょうね。概念とは観念的な世界に生息しているだけの、他愛ないものです。よって、「芸術」という概念もまた、案外に近代以降にとってつけられたような他愛ないイデオロギーの一種だと、いえないこともないのではないでしょうか。私はそんな風に思うのです。われわれが、芸術と呼ぶ、その実態の多くは、実は人びとの暮らし向きや生活そのものかも知れません。空理空論に陥りやすい願いや祈りや、はたまたよきにせよ悪しきにせよ周囲の現実を、あれこれと解釈しつつ、それらの狭間を縫うように生きている人生そのもだとさえ言えるでしょう。芸術は、決して良いものではない。少なくても良いものばかりではない。多分に悪も含まれているのです。善行ばかりではない。さらに「私」には、理解不能なものもあるでしょう。この世には「私」には、決して見えないもの、聞こえないもの、近づけないものもあるはずです。イデオロギーなんてもんは、豆腐の角に頭をぶつけて、出来たコブのようなものですよ。時間がたてばひっこんでしまうものですよ。そんなもんに、私の言動が左右されているなんてのは、これぽっちも誉められたことではないでしょう。さて芸術とは、何でしょう。たとえば私は、こんなふうに比較する。小林多喜二の小説と、多喜二でなくても、かまいませんが、たとえば、畳や納豆や味噌汁やご飯という古来から伝わってきて、わたしたちの生命を楽しませてくれている。それらの卑近な現実物のほうが、よほど芸術作品であるらしいと、思えてきてしかたがないのです。多喜二の小説など、あってもなくてもよい。読んでも読まなくても、思想に何のかかわりがある。そんな抽象物より、よほど、あったかいご飯の上に納豆を載せて食える食える、実感的幸福を断言するほうが、よほど私にとっては作品化された、わたしの言動であり、それをもって私の思想といわずに、なにがどうした・・・と。

ゲイジュツというのは日常の食品ではなく、栄養的には不必要な余計な嗜好品です。いわば、日常を離脱させてくれる酒・麻薬の類です。

ですから、芸術という概念が、日常を超越したものであると理解されているかぎり、イデオロギーの一種に過ぎないものだと、申しているのです。麻薬や酒には、それなりの魅力はあるでしょうが、それにしても納豆や味噌汁の日常的な、うまさにかなうわけがないのです。酒や麻薬は、隠れて嗜好するぐらいが関の山でしょう。ほったらものの、どこが誉められますか。あってもなくてもよいでしょう。われわれに、なくてはならないのは、やはりご飯に納豆ではありませんか。ご飯や納豆の美を感知する、そうした芸術観を養いたまえと主張しているのです。知識人の文学なんて、屁のごとし。中里喜昭氏にしても同人誌「葦牙」に集う諸君しても、あいかわらず二流どころに甘んじているのは、思想の問題として「知識人」論やイデオロギーにたぶらかされているからだと思いますね。

資本主義社会の中では商品化をまぬがれず、意図した方向にはいけないということです。時代を超越した超イデオロギーというものは存在しない、というのが歴史の教訓のようですよ。

わたしは「芸」の商品化なんぞは、まったくもって、意図したことはありませんよ・・・と断言してしまえばウソになるかも知れません。言えることは、わたしにとって良き物、好きな物が、必ずしも商品化とは反対の存在物であるという事実を、しっかと見極めているという、少々の覚悟はあるということですね。「貧すれば鈍する」というのは、よくある定型の精神の様ですが、これは衆愚、愚民の有様ですよ。どんな時代でもそうだったのです。死を覚悟できていないからです。貧することにおびえているのです。貧した途端に、精神も捨て去って、わずかな俸給を求めて、奴隷になる。奴隷根性とは、ここから発するのです。いわば商品化とは奴隷根性の発露のことではないですか。 書きさえすれば、なにか仕事を成し遂げたような気がする。あまつさえ事前からの論戦に勝ったような気がする御仁もいるほどです。作文以上に出ない文章も、まかり間違って本に仕立て上げでもされれば、作家の一員になり上がったかのような気がするだけだ。誉められると、たちまち天狗になって、自分の書いたものこそ「大文学」に違いないという傲慢な錯角に頭がやられる。そんな屁でもないことを繰り返して、死んでいくというのが二流文学の総現象なりけりや。 大文学は、もっと謙虚ですよ。当の作家が死んでからでなくては、それらの作品が文学かどうかさえ、わかったものではござりません。文学作品として充足しているかどうかは、常に後世の歴史と後代の人々が決めるのです。多くの文章は、そこまで残されてもいないでしょう。であるとすれば、現在、実存しているわれわれに、当否についての、何が言えるのでしょう。わたしは、こうした説のほうが、よほど文学だと思うばかりにござ候や。そして改めて文学は偉大だと思うのでござります。自分はちっぽけでいいと納得できるのです。さらに、わたしの幸不幸を埋め尽くして形象してくれている言語たる「日本語」はすばらしいと思うのでござります。

自分の持っているイデオロギーなんていうものは厳密には自分で自覚できないと思います。自分の思うままに書くしかないですね

心底そのように思います。ところで、わたしは「カラマーゾフの兄弟」をまた、読み始めたところです。昨年、久しぶりに翻訳が新しくなって刊行されたとのこと。それがなんと昨年一年で40万部も売れたとのことです。ドストエフスキーの小説がですよ。それも一般に難解であると周知されている大長編の「カラマーゾフの兄弟」がですよ。訳者は新進気鋭のロシア文学者である亀山郁夫という方。彼は1949年生まれです。わたしより一歳年下です。まだ読み始めたばかりですが、売れた理由が分かります。とてもこなれた日本語になっているのです。文意が、非常に分かりやすく、なによりも読みやすいのです。カラマーゾフの読書は三度目です。この調子なら最後まで読み通すことができそうです。数年前は、死ぬまでには、もう一度だけでも読みたいと心に決めてはいたのですが、本当に読めるかどうかは、われながら半信半疑だったのです。でも、亀山氏のおかげで、こうして、またドストエフスキーにまみれることが出来ました。わたしがごときが、こうした幸運に恵まれるのもまた「日本語」の広さ大きさだと思うのです。「読書の喜び」などという言葉では形容できない、もっと違うものを感じるのです。そこにもまた文学の奥義というものがあるに違いありません。それは、ドストエフスキーを読み解く、言語の伝統が私にまで伝わっていて、それが文学的幸いを私にもたらしてくれているという実感です。万葉集とドストエフスキーは見事に、私の中で繋がっているのです。 

以下「カラマーゾフの兄弟」亀山郁夫訳より

民衆には無言の、忍耐づよい悲しみがある。その悲しみは、心の中に入り込んだままひっそりと口をつぐんでしまう。しかし他方に、外に破れでてくる悲しみもある。その悲しみはひとたび涙となってほとばしでると、その時から「泣きくどき」に変わるのだ。これは、ことに女性に多く見られる。だが、その悲しみは、無言の悲しみより楽なわけではない。「泣きくどき」で癒されるには、まさに、さらなる苦しみを受け、胸が張り裂けることによるほかにはない。このような悲しみは、もはや慰めを望まず、癒されないという思いを糧にしている。「泣きくどき」はひとえに、おのれの傷をたえず刺激したいという欲求なのである。
「町人階級のお方ですか?」とさぐるような目で女の顔を見つめながらゾシマ長老がたずねた。
「町の者でございます。長老さま。町の者でございます。出は農民ですが、町の者でございます。町に暮らしております。長老さま。あなたにお目にかかるためにまいりました。あなたのお噂をうかがったのでございます。長老さま。小さかった息子の葬式を済ませ、巡礼にまいったのでございます。三つの修道院を回り、こう指図されました。ナスターシャよ、こちらにお寄りなさい、と。つまり、こちらの長老さま。あなたのところへ行きなさいと。昨晩はこちらの宿泊所にお世話になり、今日、こうしてまいりました」
「どうして泣いていらっしゃるのですか?」
「長老さま、死んだあの子がかわいそうでならないのです。三つでした。あと三ヶ月で三つになるところでした。あの子を思うとつらいのです。長老さま。あの子のことが。たった一人、生き残った子です。わたしとニキータとのあいだには子どもが四人おりましたが、みな立って歩けるまでには育ちませんでした。長老さま。育たなかったのでございます。最初の三人の葬式を済ませたとき、わたしはそれほどかわいそうだとは思わなかったのに、最後の子を葬ってからは、どうしても忘れることができないのです。まるであの子が目の前に立っているみたいで、消えていこうとしないのです。わたしの心はもう、すっかりひからびてしまいました。あの子の肌着は、シャツや、長靴を見ていると、ついつい泣けてくるのです。あの子の形見をひとつひとつ並べ、眺めてはまた泣き暮れるありさまです。夫のニキータにもいいました。ねえあんた、わたしを巡礼にだしとくれ、と。夫は辻馬車の御者をしておりますから、長老さま、けっして貧乏じゃありません。辻馬車は自営でやっておりますし、馬も馬車もぜんぶ自前です。でも、今となっては財産が何だというのでしょう。わたしがいなければ夫のニキータは酒を飲みだします。以前もそうでしたから、きっと飲むにちがいありません。わたしが目を離せば、あの人はすぐにでもがたがくるでしょう。でもあの人のことなんて、もうどうでもいいのです。家出して巡礼に出てから、もう三月目になるのです。わたしは忘れました。何もかも忘れてしまい、思い出したくもありません。それに今さら、あの人と暮らしてどうなるというのでしょう。あの人とは終わりました。何もかも終わりにしたいのです。今となっては、自分の家も財産も二度と見たくもありません、なにも見る気になれないのです!」
「ですから母さんや、わかってください。あなたのお子さんは、今ごろはおそらく神の前に立って、喜び、楽しみ、あなたのことを神に祈ってくれているということを。あなたは泣くがいい。でもそれは喜びなのですよ。」
女は、片方の頬に手をあて目を伏せたまま、長老の話を聞いていた。それから深くため息をついて言った。
「せめて一度でいいから、あの子を見たいのです。たった一度でいいから、もう一度あの子に会いたいのです。あの子のそばに近づきもしません。何かを言ったりもしません。物陰に身をひそめてでもいい。せめて一分でも、あの子が中庭で遊んでいる姿を見たい、声が聞きたい。あの子は、わたしのそばに寄ってきては、かわいい声でこう叫んだのです。お母ちゃんは、どこ?と。一度でいいから、あの子が子ども部屋をちっちゃな足でこつこつと歩きまわる音に、そっと耳をそばだてていたいのです。たった一度でいい。思い出すんです。あの子はしょっちゅう、わたしのところに駆け寄ってきて、大声で叫んだり笑ったりしたことを。ああ、せめて一度だけでも、あの子の足音が聞けたら、あの子の足音だとわかったら!でも長老さま、あの子はいません、いないんです。けっしてあの子の声は聞けないのです。ほら、これがあの子の帯です。でもあの子はもういないのです。わたしは、もう二度とあの子に会うことも、あの子の声を聞くこともできないのです!」
女は懐からモールのふち飾りを施した息子の小さな帯を抜き取ったが、それを一目見るなり、指で目をおおい、身を震わせて号泣しはじめた。指のあいだからは、涙が小川のようにあふれ出てきた。
「それはですね」と長老が言った。「慰めを得たいなどと思ってはいけません。慰めを得てはならないのです。慰めを得ようとせずに泣きなさい。ただし泣くときは、そのたびごとにたえず思い出すんです。おなたのお子さんは、神の天使の一人だということを。お子さんはあなたのほうを見て姿をみとめ、あなたの涙を喜び、それを神さまに指で教えているのです。これからまだしばらく、母としてのあなたの大きな嘆きは消えないでしょうが、最後にはしずかな歓びに変わり、苦い涙はしずかな感動と罪から心を救う浄化の涙となるでしょう。今からあなたのお子さんの安息をお祈りしてあげましょう。なんという名前でしたか」
「アレクセイといいます。長老さま」
「かわいらしいお名前ですね。神の人アレクセイにあやかったのですか?」
「はい、神の人アレクセイにあやかりました。長老さま」
「なんて賢い子だろう。お祈りをしてあげましょう。母さんや。お祈りでは、あなたのご主人の健康も祈ってさしあげましょう。ただ、ご主人をひとりぽっちにしておくのは、罪ですよ。ご主人のもとに帰り、彼を大事にしてあげなさい。あなたが父親を捨ててしまったことを、お子さんがあの世から見たら、あなたがたのことを思って泣き出すでしょう。どうしてお子さんがあの世の幸せを壊そうとなさるんです。お子さんは目には見えない姿で、あなたたちのそばにいるのです。あなたがたご両親が一緒でないことを知ったら、お子さんは誰のところに戻ればよいのですか。母さんや、ご主人のもとにお帰りなさい。今日にも帰っておあげなさい」
「帰ります。長老さま。あなたのお言葉にしたがって帰ります。わたしのニキータ、あんたはわたしを待っているんだね」

 

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▼『阿ℚ正伝』は前川喜平の胸中に有りや無しや

2020年09月15日 | ■文芸的なあまりに文芸的な弁証法

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●世に倦む日日・・・9月7日・・・JNNの世論調査はもっと強烈。自民党は前回より11.2ポイント上がって43.2%。第二次安倍政権発足以降最高。立憲民主党は1.0ポイント下がって3.5%。共産党も1.3ポイント下落。世論が一気に右バネ全開。選挙に持ち込まれたら厳しい。

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可哀そうにヨニウム君をはじめとする念仏主義者かつ左巻き徒弟衆らの断末魔を聞く思いでは・・・ある。

 

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●弁護士神原元・・・9月14日・・・各種世論調査は絶望的だが、この場合、より警戒すべきは政府に批判的だった層が日和ってしまうことだと思う。日本人の奴隷根性は今に始まったことではない。少数の批判的言論が雪崩れを抑えてきたのだ。腐らず日和らず諦めず、一貫した誠実な言動を繰り返すこと。時間はかかっても勝機はある

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魯迅が生きていたら前川のおっさんのことを何と云うであろうか。前川喜平こそ「阿Q」だというに違いない。

阿Qは徒党を求めていた。革命家になりたかった。革命政党の一員になりたくてキョロキョロと「革命だぁ革命だぁ」と叫びつつ、寄らば大樹の陰を求めて右往左往していた。ちなみに、これを弁護士神原元に置き換えてみれば「差別だぁ差別だぁ」とわめきつつ寄らば大樹の陰を求めてという案配になる。

それが大衆の中の大衆である衆愚ってもんだろうぜ。魯迅の描いた「阿Q正伝」中の阿ℚはまるで前川喜平さんの人生そのものではないか(笑)

 


角川文庫

 

●世に倦む日日・・・9月14日・・・安倍晋三が病気で退陣して、これで少しはいい時代になるかと思っていたら、とんでもないバックラッシュの政治が始まった。「改革」の復権。自民党内に微かに残っていた弱者擁護的契機とバランス感覚 - 古きよき自民党文化 - の破壊と一掃。まるで狙いすましたように怒濤の嵐でやってきた。反動の革命。

どうやらヨニウム君もだいぶ阿ℚ化されてしまったようですね、可哀そうに

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▼岩波文庫賛

2019年11月21日 | ■文芸的なあまりに文芸的な弁証法

世に倦む日日・・・今の岩波書店がどれほど吉野源三郎を裏切り、理念を失って出版社として堕落したことか。吉野源三郎の文章を読むと息が詰まる。読み進めなくなる。今の大月書店がどれほど思想的に落ちぶれ、堕落の極みにあることか。

岩波書店や大月書店が堕落したかどうかは別にしても落ちぶれたことは確かだね。たいした読書人でもない拙者でも若い頃は毎日のように書店にいりびたった。だが昨今ともなれば書店をのぞくことも少なくなったし、さらに新刊を買って読む気も滅多に起こらない。だがこれは拙者だけの現象ではないようだ。

朝に夕に都会で行きかう人々はそれこそ老若男女さまざまだが、みながみなスマホをいじくっている。とくに電車の中では八割九割がスマホの小さな画面を見ている。拙者のようにスマホを持っていないし使い方も知らない貧しい爺さん連中は、しかたなく新聞または本そのものを見ているわけだが、そうさなぁ、電車の中での拙者に同類といえば、ざっと見ても十人に一人いるかいないかだ。

こうして新聞も売れなくなったし本も売れなくなった。世相がこのように紙媒体から新しいデジタル媒体へと取って変わってきたことは絶対的な現象なのであり思想やイデオロギーがどうのこうのとは別問題であることを若い頃からの教養不足がたたって明けても暮れても右や左の旦那様よろしくレッテル張りに興じるしか能もないヨニウム君としても、まずは押さえておく必要があるだろう。

https://mobile.twitter.com/yoniumuhibi

さて令和元年もまもなく師走となりにけり。さてはて、本年中に拙者が購入した本といえば、二三をのぞいて、すべてこれ岩波書店刊行の岩波文庫だったのだった。その内訳は以下のごとし。

 

『若きウェルテルの悩み』 ゲーテ
『ゲーテとの対話』(上中下) エッカーマン
『危険な関係』(上下) ラクロ
『オネーギン』 プーシキン
『貧しき人々』 ドストエフスキー
『ソヴィエト旅行記』 ジイド
『いきの構造』 九鬼周造

 

エッカーマンを除いてはすべてこれ若い頃に読んだものの再読または再々読だったのだが、なにしろ今となってはこれら歴史的古典たるや岩波文庫でしか読みたいと思っても読めないのだから仕方があるまい。

 

 

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▼ヴォーカル大好き<君が代>

2019年11月20日 | ■文芸的なあまりに文芸的な弁証法

そう言えば、わたしはずっと「君が代」のスローな曲想が退屈で嫌いだったのだが、最近、そうでもなくなってきた。そのことに気がついたのは、つい一昨日のことである。現在、ベトナムのハノイで開催されているサッカーのアジアカップの試合がTVに写され、例によって国際試合の場合は、試合前に双方の国歌演奏がある。そのとき蹴球場に君が代が流れた。そして君が代は世界の中でも独特な音楽であり、なかなかの名曲なのだと改めて感動を深めた。

その日、わがジャパンの試合相手はカタールという国でありカタールの国歌も流れていた。他国の事情を悪く言うつもりはないが、カタール国歌の曲想は、あわただしく忙しかった。カタール選手がスタジアムに流れる楽曲にあわせて口を動かしていた。もちろん私には歌詞の意味はわからないが口の動きから見ると、やはりその歌詞も、せわしなくあわただしいようだった。

世界の国歌というものは行進曲のように勇ましいリズムを持つ曲が圧倒的に多い。仏国国歌の「ラマルセィエーズ」しかり英米国歌しかりロシア・中国国歌しかり。そうした中にあって「君が代」はなんとも独特なのである。かつては鈍重で退屈に思えた「君が代」も、今は聴くたび歌うたび晴れがましく思えるばかりで時には自然に涙が出てくる。


 

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▼ 『転居のいきさつ』 感想

2019年06月19日 | ■文芸的なあまりに文芸的な弁証法

  

 

 

新潮社
http://www.shinchosha.co.jp/book/910048/

  

 

 

●第一感

その本は昨年刊行された小説集で、出入りしているネット掲示板の中で聞き知って興味を持ちさっそく最寄の書店に取り寄せてもらい今朝ほど入荷したむねの連絡があり受け取りに行き近くのカフェに入って読み続けつい先ほど読み終えた。上等な小説に出会った時には決まって湧き上がってくる幸福な満足感が胸中に広がった。久しぶりに小説らしい小説、作品らしい作品を読ませていただいた。この本にはまえがきもなければあとがきもない。そうした余計なおしゃべりの類よりは主人公の青年の言動が文体にじかにつながっていて何か途轍もなく弾力に富んだスプリングが表表紙と裏表紙の間にはさまっていた。

 

 

2016.12.28 横浜市

 

 
●第二感

当のご本はただいま同居している次男に強引に貸し出し中です。読んでごらんと云ったらめんどうくさそうに「いいよ」と断ってきたので、著者の経歴などをひとしきり説明したら顔がほころびはじめてきてニヤニヤしながら本を持って自室に戻っていきました。さても、ずいぶんと古い話で著者には不満かもしれませんが白樺派の、それも志賀直哉を読んでいるような感じでした。1967年、米国はP大学に集っていた日本人留学生の一団もまた白樺派だったような気がします。主人公の西河原は彼らの中でわずかに抜きん出ていた。その自由度において一筋縄では行かないものを持っていた。明治末年当時白樺派の中では、それが志賀直哉でしたから。さて、わたしにとってもこの本は事件でした。そこで、おれ様もこのままうずもれてしまっては半年前に九十五歳にして往生を遂げた母ちゃんに申し訳ないとわが身に活をいれたところです。わたしもまもなく七十になりますから。

 

 

2017.01.04 足立区


葉が散らずに年を越したはなみずき

 

 

 ●第三感

作品の最後に次のような一節があった。

わたしも夏にはプリンストンを去ることにした。こうしてボルスキーの研究所は消滅した。荷物いっさいを六十一年型のフォードに積み込んでプリンストンを出たとき国道一号線からGC寮の塔の背後に真っ赤な夕日が沈んでいくのがみえた。わたしはくるまをハイウェーのわきにとめて塔の写真をとった。それはわたしがプリンストンにきてはじめてとった写真だった。

主人公西河原には三度笠がよく似合うなどと不埒なことを考えた。股旅物とは言わないまでも西河原は旅人だったのだ。

 

  

 2017.01.06 横浜市

 

  

 

 2017.01.08 足立区

 

 

 

 2017.01.21 横浜市 

 

 

 

 

●第四感

私が有田さんにお知らせする前の時期にPGMさんは別ルートで(自分で調べてか?)
MOKUMOKUさんの個人情報(私のとは別口の個人情報・住所氏名など)を知っていましたね。

上の記事を載せてきたのは、どこのあんちゃんなのか。十数年前のたかだか掲示板上の矮小政治を、あれこれと持ち出してかかわってきた御連中どもを再び興奮させようとの目論見と、その発想が矮小だ。使い物にならないしょぼくれた老人の金玉模様だ。

有田芳生氏(現民進党参議院議員)は日本共産党の二軍なのだよ。どこまでいってもだ。有田氏の場合は、姿を変え、所属の組織を変えても根っからの現代共産主義者ですよ。小沢一派であろうと民進党であろうと彼にとっては自身の売名活動のために、組織も有名人も、いかに自身の売名のために利用できるかの価値しかない。その意味では世渡り上手だ。だが、彼の場合なんと言ってもポピュリズムに奉ずるしか手法はないのであり、その思想の薄っぺらさといったら全国民に周知されている事実だ。

ある人が世間から褒められるのは「一芸に秀でる」という現象を自ら世に示すしかないのです。MOKUMOKUさんの小説集『転居のいきさつ』(新潮社)を読ませていただいて、つくづくとそのようなことを考えましたね。

政治家ならば政治という泥にまみれなくてはならない。今井君のように金儲けだけが人生だというなら実際に金持ちにならなければならない。年収600万円で金持ちだと自慢できますか。こうしてネットでは中身のない口ばっかりが達者になった空っぽ人間の能無しが安直手法に乗せられて、やれラインだツイッターだフェイスブックだと雨後の竹の子のように面を出してきては、この世にたった一つの「わたし」の心の一節さえも歌うことなく傷つきつぶされていく。


本当に惨い実害が出ているのです。MOKUMOKUさんの実名、
自宅の住所、電話番号勤務先などがあちこちに貼り付けられているのです。渡邊さんも、 ご存知ですよね。


仮にも、そのようなことがあったとしてもだ。最初の最初にネットや電子メールに、自分の個人情報を偉そうに記した当人の責任である。MOKU氏は渡邊さんあてに長文のメールを送付した。後にモクモク文書と呼ばれたものである。このメールの末尾にご自分の個人情報を書き付けた。ニューヨーク在にして米国の某大学の教授職とうとう・・・。

なんのために、そのような余計な言辞を記したのか。おそらく、それらの個人情報が多少は権威となり渡邊さんを説得させるに役だつだろうとの思いからである。だが、これは誰が見ても不純なやり口だ。

MOKU氏が、もし東京の下町在にして、当時のわたしがそうであったような無職の初老男だったなら実名も住所もメールに書き記す必要性は毛頭なくなる。もとより、この話題は同時的にいくつかの掲示板で喧騒を極めていた。なぜ掲示板で議論せずに渡邊さんこそ渦中の中心人物と見なされていたとはいえ特定者あてのメールにしたのか。末尾のいかにも高級な個人情報を、これ見よがしに知らしめて後、渡邊さんをして説き伏せんとしたことは明白ではないか。これがMOKU氏によるメールにこめられた真の狙いだった。権威を盾にして有田氏擁護の立場をとっていた渡邊さんに圧力を加えんとした。

当メールによって有田芳生氏が一方的に誹謗中傷されていると判断した渡邊さんによって当の有田芳生氏に末尾の個人情報を含めてそのまま転送された。ただちに有田氏によってMOKU氏の個人情報だけが取り出されネット上に拡散されてしまったのである。何度も言うが十数年前のことである。誰が悪い彼が悪いという問いは二束三文の瑣末な話に落ちる。畢竟、MOKU氏の個人情報をばらしてしまった最初の張本人はなんといってもMOKU氏自身なのであるからして。

また、もうひとつの考えがある。ご自身の個人情報が世間にさらされてしまうことはMOKU氏にとっては、もとより想定内のことであり折り込み済みだったとしたらどうだろう。まさにMOKU氏の「いたずら」だったのかも知れやせぬ。

MOKU氏の小説『転居のいきさつ』の主題のひとつが、この「いたずら」の出来不出来にある。それもだいぶ高級な「いたずら」だ。下司はひたすら当の「いたずら」に反応発奮して犯人探しに右往左往する。

ところが実際にはそうではなく通り一遍の月並みな対応に追われた。MOKU氏は自分の個人情報がさらし者になったと怒り心頭に発した・・・ように少なくとも傍目にはそう見えた。渡邊さんはMOKU氏からのメールを有田氏あてにそのまま転送してしまったことを認め以後の断交宣言とともにMOKU氏に謝罪した。わたしは渡邊さんが謝罪する必要はまったくないと論陣をはった。

十三年前もしくは十四年前の話である。当時、有田芳生氏は参議院議員になる前で、まだ一介のジャーナリストではあったが日テレの何とかと言う番組にコメンテーターとして連日出演されていた。これが彼の人気をささえていた。共産党くずれは事実であったとしてもリベラルの旗手として視聴者に映っていたことは間違いない。またどこの誰よりもネットの使い手を自認していたようだ。こうして彼のホームページ及び掲示板は盛況を呈し一家言をぶらさげた一癖も二癖もある諸氏が集いあっていた。

ともあれ、おそらく、このときの「いきさつ」こそMOKU氏をして『転居のいきさつ』を書かせしめたもっとも重要な動機となったのではないかと、わたしなりに楽しい憶測にふけっている。

 

 

2017.02.01 横浜市

 

 

 

●第五感

先日、「モクモク文書」すなわちMOKU氏が渡邊さんにあてた長文メールについて、その末尾に自分の個人情報を記したのは、権威をちらつかせることによって、渡邊さんに圧力をかけたのだと書いてしまいましたがもう少しよく考えてみますと、それだけではないようですね。

メールの中身は、有田氏に対する一方的な誹謗中傷だと受け取ったのは当時いささか神経が過敏になっていた渡邊さん固有の受け止め方だったという見方もありそうです。

たしかにメール本文は、知られざる有田氏のプライベートを暴露するなどという部分もたしかにあった。有田氏のばあいは講演先などに取り巻きがいて仲良くしているとうとう。だが、そうした振る舞いは一般的に、わざわざ取りざたされたり非難されるような問題ではありません。

改めてわたしが着目したのは、その文体です。有田氏批判はそれとしても、またもう一面から読んでみれば、それこそ、どこかのいたづら坊主が面白しおかしく遊び友達の生態を、まるで漫談のように楽しそうに書かれています。梅雨時に大きな芋の葉の上を転がって遊んでいる水玉のような文章でした。決してだれそれをしておおげさに糾弾しようなどという考えはいささかもなかったようにも思えてきます。

ささいな誤解を解きたい一心だったのかも知れません。当時MOKU氏は70にして大学教授を退官する直前のことでした。ネット「界隈」では最高齢者であることは暗に周知されていた。それらのことを踏まえて、もしかしたらモクモク文書とは、この人に特有の「いたづら」心から発した文章だったのかも知れないとは、すでに申しあげました。

 「いたづら」としての一面もまた内在していたことを渡邊さんに読み取る余裕があったならMOKU氏からのメールをそのまま有田芳生氏あてに転送してしまう愚はさけられたはずです。

しかしながら当メールに差し出し人としての「私」の正直さを表明しておこうとするあまり個人情報を記してしまったのは、なんといってもMOKU氏の誤りであることにかわりはありません。

 

 


自室にて 

 

 

 ●第六感

ノンポリとは現在では死語と化してきたようで幸いなことだと思っている。ノンポリとは1960年の安保闘争以後に流行した思想腑分けの弁方だった。左派のいずれかの党派に属していることに優位性を得ていた諸君が、一向に旗色鮮明にしようとしない優柔不断にして中間的な、それでも時々デモなどには顔を見せてくる青年諸君をある意味見下して呼ばわった蔑称である。

ノンポリは語義通りのノン・ポリシーでは決してなかったことが『転居のいきさつ』(新潮社)にまざまざと描かれている。ノンポリこそ世紀を超えてしたたかに生き抜いてきた。ノンポリこそ健全な政治的生態だったのだ。この小説の主題はまさにここにあると確信した。

口を開けば「信仰告白」かスローガンをがなっているばかり。人を見れば色眼鏡を架してイデオロギー上の腑分けにかける。このような不全な徒党根性は敗北するのである。いやすでに敗北している。

彼らこそ「転居」しなければならない。そして新しく生まれ変わらなければならない。

 

 

 

●第七感

>神山幹夫先生の『転居のいきさつ』には文学の香りがする。

http://ameblo.jp/tta33cc/entry-12279816486.html

君だったのか。昨年末の某掲示板の書き込みにおいてわたしにMOKUMOKUさんの『転居のいきさつ』(新潮社)の刊行を教えてくれたのは。君によってMOKUMOKUさんの近況と思想の一端を知ることができたのだ。なにはともあれ君には感謝する次第。さっそく『転居のいきさつ』を最寄に書店から取り寄せ息つく暇もなく一気に読み終えてこれは近年にない事件となった。もちろん、ごくごくわたしにとってと云う意味に過ぎないが。『転居のいきさつ』の著者は「畔井遠」氏と記されていたのが、これはペンネームということだったのだね。いずれヒトの名とは難儀なものですね。上の「神山幹夫」も、私は今日はじめて耳にした。わたしの頭にあるのはMOKUMOKUさんというネットで使用されていた匿名だけしかいざ知らず、これまでこれだけで済ませてきたので。畔井遠さんといい神山幹夫さんといいなんだか縁遠い話になってくる。もちろん、これは作品そのものの文芸的な価値と巧拙には関係のない話としておかねばならないのだが。

 

 

●第八感

> 畔井遠  クロイ・ウェン

> 1936(昭和11)年京都市生まれ。1967年(昭和42)年東京大学大学院医学系研究科博士課程修了。医学博士(専門:免疫化学・血液学)。同年よりプリンストン大学、パリ大学分子病理学研究所、コロンビア大学を経てシートンホール大学大学院教授。2005(平成17)年退官。1974(昭和49)年よりニューヨーク市に在住。

どうやら畔井遠の名はペンネームということならば、その下に記された略歴は何の意味を成さしめるのか。誰の略歴なのか。ペンネーム者のそれか。または、ペンネームの裏にいる本物の世俗のそれも今生きている最中の著者の略歴なのか。そこが不審だ。その彼が、これ見よがしの金銀ぎらぎらの略歴を公に発表したがるその魂胆の底の底にあるものは、いかなるものにござ候ぞ。

 

 

 



 

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▼「ゴリオ爺さん」を読む

2018年07月22日 | ■文芸的なあまりに文芸的な弁証法

 

バルザック(仏:1799~1850)の小説「ゴリオ爺さん」(1835年)を読了。「谷間のゆり」を読んだのが4月だったか。無理にでも甲乙をつけるならわたしは「谷間」より「ゴリオ」のほうを推す。冒頭から自信満々で、この物語は一から十まで真実のかたまりであり虚偽も虚構も一切ないのだから読者もそのつもりで読みたまえとのご託宣があって、まずは読者の前頭葉がどつかれる。なにしろ発表当時の題名は「パリ物語」だったというのだから読み終えて、さもありなんと思った次第だ。

 

 

比して現代の小説は最初の一行から弁明釈明に終始する。わたすの書いた小説はフクションであり、虚構上のことであり、そもそもが小説なんぞというものは、ウソ八百のかたまりなのですから、あまり細かい事は気にしないでお読みください。わたくしこと作者を詮索したりせずに、とりあえず読んでくださいね。まずは本を買ってくださいね。このたび、じつに面白いストーリーが出来上がりましたさかいに、とかなんとかいっちゃって、ようするに文芸の真性をひたすらごまかしているだけではないか。 

 

 

 

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▼良書紹介<谷間のゆり>

2018年04月21日 | ■文芸的なあまりに文芸的な弁証法

 


新潮文庫

 

バルザックの長編小説「谷間の百合」を読み終えた。読み終えるまでに一週間を要した。この本は、なりは文庫本だが分厚い一冊で巻末の原作者バルザックの略歴および訳者の解説さらにあとがきなどを含めれば560ページをようしていたのであったのだった。最初わたしは、岩波文庫でよもうとおもい。近隣の図書館で当文庫を借り出してきたのだが、なにしろ文字が小さくて難儀したのであったのだった。そこでその本はカバンにしまいこみ、電車に乗ってとある大型新書店にもうでて、新潮文庫のほうを購入してきたのであったのだった。読了したことは確かなのだが少々の違和感を覚えた。どうしたことか。なにが自分の心理が動かされたのか。それはよくわからないのだが拙者のバルザックの当小説に対する直接的な感想はまた後日に折を見て述べることとしつつも、ああ~難儀だ難儀だ。年寄りに読書は禁物だ。本を持つ手がつかれてふるえる。なによりも目がつかれる。子供のしんぱいなどなど、やりきれない思いで胸がふさがれる思いがこうじてくる一方だ小説とはいえ、色恋沙汰に甘んじている場合かという声が、脳の片隅から聞こえてくるのである。だから言わないことはないという自己批判がはじまる。いっそ読書なんぞより散歩に出かけよう。無教養な老人には読書などよりよほどカラオケを薦めたい。生来黒か白かの価値観だけで育ってきた団塊世代の御仁には一般に本を読むなぞ異次元の世界だ。彼jらわれらは本の表紙をみただけで頭がつかれる。読書なんぞ無駄な体力と能力が失われる一方なのだ。だからといって別にバルザックについてどうのこうのというつもりもなく、また「谷間の百合」が駄作にすぎないと言っているのではない。そのことは後日に述べてみようと心したしだいなり。だが、そうはいってもいつになるかはわからない。そこで一言二言だけは、ここで申しておかずにおくものかという気持ちだ。そうはもうしても、その先が続かない。そこに拙者の脳も芸もない限界をつくづくと感じてしまった今日のよき日のワンカップ。ちなみに岩波文庫の背文字には「谷間のゆり」とあって、個人的には新潮文庫「谷間の百合」よりは岩波の「谷間のゆり」を採用したい。日本語には漢字とひらがなそれにカタカナがあることを知らなかった華咲ける十九世紀とは言うもののナポレオン退陣後の帝政復活とうとうの反動期を迎えいろいろとの艱難を乗り切ったおフランスの物書き屋バルザックも草葉の陰から、この場合に限っては「百合」よりは「ゆり」だとの拙者の好みに賛同してくれていると確信しているところなり。

 

 

 

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