赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

「新しい歴史教科書」と大田原市

2005年07月14日 | ■学校的なあまりに学校的な弁証法
大田原市は県北部にあって人口5万前後の、滅多に話題にもならない、小さな町です。近代交通網たる東北新幹線やら東北高速自動車道路などからは東に外れたところにあるためか、これが幸いして、昔ながらの城下町と広々とした田畑や牧場などによって自然の環境と人々の暮らしが守られてきたのです。とてもよいところです。日本のどこにでもある農村です。田舎です。那須与一を輩出したところです。毎年秋には、与一祭りが開催されます。大田原市には私の親類がおりまして、子どものころからよく訪ねた町なので、愛着が深いのです。

県立大田原高校の前身は栃木県下でも5番目ぐらいに設置された旧制中学校とのことで、県下有数の進学校で、大高(だいこう)と呼ばれ親しまれておるのです。南に宇高(うたか 県立宇都宮高校)があれば、北には大高がある。それが頭のよさでは天下に呼び名も高い、栃木県下の誉れたる受験体制のあらかた仕様にござります。大高は、先年創立百周年を祝ったところとのこと。私事ですが、今や昔のことなれば隣町の中学生だった、わたしも頭がよければ地元の農学校に甘んじることなく大高(だいこう)に進みたかったと思うのも後の祭りです。中学校の旧友からたった一人だけ、大高に合格し、やっとクラスの面目がたもてたような次第です。その彼は、大高を卒業し晴れて東工大に進んだと耳にしました。かように小さな町ですが、県下北部では文化、教育の拠点であり、線路やら道路にずたずたにされて、今や見る影もない私の育った町とは違って伝統と自然を守って今日にいたる見識にみちた市民によってささえられているのでござります。

このたびの教科書採択においても、教委をはじめ市民のみなさんには、それなりの考えがあってのことに違いありません。銀河殿が言うように、これをもって「つくろう会」教科書を国定教科書になさしめようとか、青少年を国粋主義者に仕立てる魂胆などは、あるはずもないのであり、ささなことを大げさに言い挙げて扇動するのはもってのほかでござ候や。銀河さまの言こそ、自由な教科書採択の権限を与えられた地方機関に対する強圧なのであり、それこそ民主主義に反する言動ではないでしょうか。教科書を選定する権限を持たされているひとつの機関が、その権限を施行して、ある一冊を採択したという過程に、なんの不当がござ候。本に記述された文言のイデオロギーにこだわるあなたの個人的な杞憂にすぎないと思いましたよ。

大田原市は人口5万前後とは前言しましたが、その教科書が使用される市立中学校は7校、生徒数は1700名余りです。数が少ないことは、どうでもよいが、1700名の教科書がいささか、あなたの考えに沿わない本を習っているからといって、それがどうしたと言うのですか。さらに、下の記事では、あなたご自身がその本からいかがわしいと思われた記述のいくつかを引用されておられるが、それを見た限りでも、別に反社会的、反歴史的および反民主主義のなにが弁証できるでしょうや。かなりまっとうなひとつの常識を述べているように思いましたよ。そうした記述のどこが反動的なりや。仮に少々、反動的記述があったとしても、それを読んだ青少年が国粋主義者になるかどうかは、また別の問題でしょう。本の一冊を読んだぐらいで心酔したり傾倒してしまうなら、教育問題など出てくる根拠もない。これまで騒々しかった教育問題は一挙に解決です。現実は、むしろ反対だからこそ問題にされてきたのではありませんか。教科書もまともに読まない子どもたちに四苦八苦しているのではないですか。誰がそうしたことを心痛してきたのですか。わたしは、そんなことも大人たちの一面的鑑賞に過ぎないと思ってきましたし、そもそも学校制度などに、どのような将来社会の希望が語れましょう か。 語ることは自由ですが、語れば語るほど、自らの嗜好やイデオロギーが丸裸になるばかりです。それと他人の子どもの行く末は別でしょう。自分の価値観や世界観を伝えられる手段をふるえる対象は、せいぜい我が子どもだけなのです。他人の子どもにあれを読むな、これを読めと指図する権限なり資格が、あなたにはあるのですか。

仮に、本を読まないという嘆かわしい現実的一面があるなら、教育は教科書の問題などに矮小化できる問題ではないでしょう。教科書は教材の一種に過ぎないのであり、いうなれば、ひたすら教師の資質の向上こそ求められてしかるべきではないのでしょうか。もちろん教師の資質など、実に、また保護者なりの個人的な主観の範囲なのですから、私にはどうでもよいことですがね。青少年が学ぶべき、本の性質など・・・それもたった一冊の・・・・社会的政治的には、なにひとつ重要な問題にはなり得ないということを見ておくのも市民たる見識ではないでしょうか。ほっときなされ、大田原市民も大田原の青少年もそこまで馬鹿ではないのです。

同じことは、先日、つくる会教科書を採択した杉並区役場の前に集った反対派のおかあちゃんたちが手にしていた横断幕に書かれていたスローガンにも言えるのだ。そこにも似たような成熟にいたらず、もがいている人々の不平不満が書き並べられていた。すなわち「つくる会」の教科書が採択されては、まるでこの世の最後だと言わんばかり。明日にでも戦争が始まると扇動している。テキストと政治における未成熟の現れにほかならない。地方ごとの教科書採択を許さず、教科書の文言に口出ししている彼らこそ、全国統一教科書を求めている張本人なのだ。これは新しい歴史観なりを教科書に書き記して、子どもたちを教化しようと計る「つくる会」諸君の馬鹿さ加減に、未成熟という点では、つりあっているのだ。

教科書自体が、教育における現場性のなにを証明できるであろう。教科書が、それ自体として教育のなにを実現できるのかという問題がある。教科書といっても一冊の図書にすぎない。一冊の図書に学術や史観のいかなる真性を表現することが可能なのかという根本的な疑問を看過したままでは、話がつまらなくなる一方なのだ。文部科学省の検定をクリアして後、現場に出回っている図書、それがわが国で採用されている教科書の現実的姿である。教科書と呼ばれる以上、一定の学術的言辞が並べられているのは、その通りだろうが、ようするに執筆者や版元の意向からすれば、検定された後、書き直され刷り上った本は、今や毒にも薬にもならない、当たり障りのない内容となってしまうのは自明のことだ。文部科学省に文句を言っても始まらない。これに文句をつけたのは、われわれが知るところ、いまは昔、例の家永教授ただ一人である。検定に対する彼の抵抗(裁判闘争)は学者魂がそうさせたに違いない。家永三郎教授こそ歴史学者の鑑である。
 
さて、私は、「つくる会」教科書の検定前の本と、検定を終え採択にかけられた実物の双方を、比べてみたわけではないので憶測の域を出ないのだが、かなりの部分で削除、書き直しの指図を受け、その後、ようやく認定された代物だと思っている。つくる会教科書を執筆した当人らの検定に対する文句は聞こえない。なぜ、それで満足してしまうのか。彼らの主張する独特の史観なりは、このたびの教科書に存分に表現されているのだろうか。さんざんに人の手によっていじくり回された結果、毒にも薬にもならないような文言を並べて甘んじている学者根性というものが、私には馬鹿の一種に見えてくるのだ。だいたい義務学校で使われる教科書ごときに学術研究のなにが書ける。私が馬鹿だと言うのは、すっかりお上の検定に満足している彼らの、実に志の低い歴史観のことである。<3147字>
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ツバメの巣

2005年07月11日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
玄関を出てすぐのところに今年もまたツバメが巣を作った。カメラをかまえていると親ツバメが威嚇(いかく)するように、私の頭の上を飛び交っていく。見れば子どもたちもすっかり大きくなり巣から身を乗り出している。巣立ちが近いようだ。
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▼「クワガタ虫考」 祝鶏翁

2005年07月10日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

クワガタムシ---掌編『鬼虫とりの日々』を読んで 祝鶏翁 投稿日:7月10日(日)

かもめさんの掌編「落葉の朝に」読ませて貰いました。

あなたもこれだけは愛着がお有りになると言っていました。私的には「落葉の朝に」より正しく掌編の「鬼虫とりの日々」のほうがどちらかと言うと印象に残りました。作者にしても書名にもしているのですから思いが無いわけでは無いのかと。その前にクワガタムシの方言について。

鬼虫というのはクワガタムシ総称の方言で、北海道・岩手・山形・宮城・福島・栃木・群馬・新潟・長野・三重・大阪・兵庫・岡山・広島・鳥取・香川・愛媛・大分に分布していると記録にはありますがどちらかと言うと東北・関東系の方言です。私らオニムシとクワガタムシを呼んだ記憶がありません。たぶん、この辺では、もっと古い世代か局地的に点々と隠れるように分布しているのかと。西日本系の主流方言は角虫(ツノムシ)ですね。しかしこれも若い世代では殆ど消えているのではないでしょうか。

クワガタムシの方言として面白いのは武士の名をつけたものが相当あることです。形状からして尤もなことではありますが。カジワラ;栃木・千葉・長野・山梨・兵庫。兵庫だけぴょんと飛んでますが、もちろん梶原景時は播磨と縁があるからでしょう。

ウエスギ:群馬県碓氷郡
カトウ:群馬・新潟・長野
タケダ:栃木・群馬・島根
クマガイ:栃木・群馬   クマガイがあるのなら一の谷の戦いのアツモリがあってもよさそう。あるのかも。植物では、クマガイソウとアツモリソウがありますね。次のそうなペアも。
ヨシツネ:栃木・長野・岐阜
ベンケイ:群馬・栃木 ここまで来ると次のようなのも。
ゲンジ:愛知・岐阜・三重・滋賀・京都・奈良・大阪・兵庫・岡山・広島・山口・徳島
ヘイケ:愛知・三重・滋賀・京都・大阪・兵庫・山口
ニッタ(ヒラタクワガタのみ):岐阜県不破郡

角のある動物から

スイギュウ:神奈川・長野・京都・福岡・宮崎
ウシ:愛知・島根
シカ:兵庫県姫路市
ベゴムシ:青森県南部地方

よく意味がわからないもの

ジョレン:長野県北佐久郡   農機具のこと?
ガンガリ:三重県度会郡
ハッソン:兵庫県明石市
ガンニョ:熊本県熊本市
ヤニヤ:山梨県甲府市
ガンジャ:埼玉県深谷市
ワングリ:群馬県吾妻郡
イタッペラ:群馬県富岡市

植物名から

サイカチ:千葉・埼玉・神奈川・大阪
セーカチ:千葉・埼玉・神奈川

その他

ダイコクサン:熊本県玉名郡
ハセングワ:沖縄県那覇市

また昔はクワガタムシのことをカブトムシと言ったり、カブトムシのことをクワガタムシと言ったりしていたところも。なお、クワガタムシ方言の唯一の纏った文献は加納康嗣の自刊本『鍬形虫考-げんじの方言をさぐる-』(1978)。

さて、「鬼虫とりの日々」。これも私小説の匂いがします。作者が小学校4年生ぐらいのときの体験に取材しているようですね。精神病の父、祖父と母の諍いと家庭は暗いが「禁じられた細い畦」を渡ると子供の世界が開ける。なにかと注文が多いガキ大将みたいな子もいるが、夏の太陽にキラキラ照らされた家とは別世界の思い出が広がります。昔の子どもなら誰でも体験したような思い出。この鬼虫とりがあるから家庭のごたごたは遠景に追いやられ爽やかささえ醸し出しているようです。逆に言えば家庭の問題を忘れさせる鬼虫とりの日々であったのかなと。

祝鶏翁さん、この暑さの中、私の小品をほめていただき、うれしくなって穴があったら入りたい気持ちです。ありがたき幸せです。それから車谷長吉氏のなんとかの匙という作品は読んだことがありまして、その作風には、大いに同感はしたのですが、気持ちの底から好きはなったかと言うと、そうでもないというのが本音です。いささか陰気だったような感じがしました。だが、こうした直観的な感想も、おそらく私の読みが浅いせいでしょう。昔のことです。私の読みが足りなかったのかも知れません。

 

https://blog.goo.ne.jp/kakattekonnkai_2006/c/1c0da26c62e3501fe9b71cba4f8c1469

 

 

 

 

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読書の功罪

2005年07月03日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
ようするに私は、読書とか本を読むという行為を結果論のように、またはある特権ででもあるかのように自慢することに反対しておるのでごじゃります。考えてもごらんなさい。読むということは、どういうことでしょう。よく言われるようにまえがき、あとがきを読んだだけで精読したかのようにホラをふいたり、著者の考え方、また人となりなどを、それだけで丸ごと理解したような気になってしまう。

それは他人のことではござりませんよ。私自身が、その種の馬鹿者ですけ。源氏物語について、たくさんの知見を得た。だが、本家本元の物語など一頁も眼にしたこともありゃしません。ある日、与謝野晶子氏による現代語訳を買ってきて、読み通そうと思いましたが、200頁ほどのところで断念しちまっただ。文体は冗長で、登場人物たちがなにをやらかそうとしているのか、皆目見当もつかなくなった。昼寝の時間が近づいていたせいもあるのでしょうが、頭がぼんやりしてきて、一行も頭に入らなくなっちまっただよ。ほして、ますます思っただ。これは、無学な田舎者には手におえないほどの、世界屈指たる相当に偉大な物語なんだと。そして二度と、手垢にまみれさせてはなるまいと、新聞紙にくるんで本棚の奥のほうにつっこんでおきました。いやはやたまげました。源氏物語とは偉大な小説です。

ようするに、本を読むということも人や社会を読むということに読むの意味は同義です。感じるということですよ。感じるということならば、実に千差万別にござ候。そして、読んだ当人が、いかに感じたのか、ということは第三者には滅多に分からないものですよ。本でもなんでもよろしいが、対象を読んで、本当に感動させられたという場合、人はむしろ寡黙になるはずだと小林秀雄が何かに書いておりましたが、おうおうにしてそうしたものでござ候。いつだって、良識は社会の沈黙の中にあるような気がいたします。すくなくても、本を読むことが商売になっている、その種の人間に良識があると思い込むのは間違いでしょう。さらに、この論をすすめるなら、本の中にこそ、また本の中にだけ、良識があると思っている風潮も、昔の人から言わせれば、一つの狂信のように見えるのではないでしょうか。ああ、嘆かわしい。

大岡昇平の『レイテ戦記』などは小説とは似て非なるものなれば、それがよかったと思うほかにはござりません。考えてみれば本というに、いろいろあれど、小説ほど、くだならないものはないのではありませんか。高額納税上位者は、だいたい小説家と言われる商売人です。さもありなん。小説は読みやすい。詩歌をまとめても、なかなか本にするボリュームが出せない。まんず売れない、読まない。そこにいくと、小説というものは、あることないこと、くっちゃべって適当にツジツマをあわせて行けばいくほど、本らしくなる。おしゃばり上手の舎弟を二三匹かかえこんでおけば、本屋としては御の字だ。金さえ与えておけば、寝る間も惜しんで、くちゃべっては、なんぼのものだ。いざとなったら、ホテルに缶詰にして、金をちらつかせて、さあさあ、書け書けと脅しをかける。出来不出来は神のみぞ知る。本になりさえすれば、それでよし。こうして、あっちからもこっちからも本が運ばれてくる。小説とは近代資本主義における重要な戦略商品以外のなにものでもござりません。マクドナルドのハンバーガーみたいなものです。100円でおつりがきます。

「平安貴族の生活が現代人にはまどろっこしいところもある」とは、まさにおっしゃる通りで、平安朝の人たちが、なにを、どのように考えがちだったのかを当時の言葉=感性と拙者との間には遠く果てしない無理解の垣根が続いているようです。いくら現代語に訳しても、読もうと思っても読みきれない現実が、それを示しているのです。つまり、それこそ歴史というものでやす。ダテに年月が経っているわけではない。ダテに古くなっているわけではない。紫式部殿の心中やいかばかりかと、私がごときものが、理解にいたるには、どれほど遠い道のりがあるかと予想ができたのです。だが、そうしたことを心底から分かることも、つまり大きな理解のうちだろうと、拙者の片々たる源氏物語読書はそれなりに大満足だったのです。

与謝野晶子氏には感謝の言葉もない。後は瀬戸内寂聴殿の源氏物語講義のテープでも入手して、その気になれば、まんずまんず。拙者にできることは、これにて終了というわけです。話は少し変わりますが、私の場合、おそらくキリスト教の「聖書」なども、死ぬまで真面目に読むことはないでしょうね。内村鑑三については、なんとしても読まなくてはと思っておりまするが・・・。それにカント、ヘーゲルも無用の長物。ベルグソン、フロイドなどは、機会があれば読んでみたいと思っちょります。

話は変わりますが、青空文庫をひさしぶりに開いてみたところ、宮本百合子のエッセイなどが、ぎょうさん公開されておりました。私も、この二日ほどは、青空文庫の宮本百合子に没頭しているところです。htmlを開いては、いちいちプリントして、それを読むのです。死後50年の著作権が切れたようですね。彼女が没したのは1952年と覚えています。50歳になったかならずかでしたから、惜しまれます。そこにいくと、比較的長生きして、没後まだ二十年ほどの小林秀雄や中野重治の作品が青空文庫の登場するのは、まだずっと先の話です。

宮本百合子の話にもどりますが、読んで驚いたことがある。若い頃(70年代)は、彼女の書いたものは、底の底まで分かってしまったほど心酔していたのに、今、読んでみると、何を言っているのか、さっぱりなのです。おかしなこともあればあるものです。

なぜ、こうした読み方の変容が起こってきたのかを考えてみるに、ようするに宮本百合子の場合も、いわゆる当時の「党派根性」を前提としてモノを書いていたという事情があったと、そう解釈してみたところです。党派根性とは界隈のことであり、具体的に言えば共産党の本屋と読者だけが、彼女にとっての「界隈」だったということでしょう。界隈から外れてしまうと、彼女の本も、ほとんど理解不能になってしまいます。<3187字>
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