県立大田原高校の前身は栃木県下でも5番目ぐらいに設置された旧制中学校とのことで、県下有数の進学校で、大高(だいこう)と呼ばれ親しまれておるのです。南に宇高(うたか 県立宇都宮高校)があれば、北には大高がある。それが頭のよさでは天下に呼び名も高い、栃木県下の誉れたる受験体制のあらかた仕様にござります。大高は、先年創立百周年を祝ったところとのこと。私事ですが、今や昔のことなれば隣町の中学生だった、わたしも頭がよければ地元の農学校に甘んじることなく大高(だいこう)に進みたかったと思うのも後の祭りです。中学校の旧友からたった一人だけ、大高に合格し、やっとクラスの面目がたもてたような次第です。その彼は、大高を卒業し晴れて東工大に進んだと耳にしました。かように小さな町ですが、県下北部では文化、教育の拠点であり、線路やら道路にずたずたにされて、今や見る影もない私の育った町とは違って伝統と自然を守って今日にいたる見識にみちた市民によってささえられているのでござります。
このたびの教科書採択においても、教委をはじめ市民のみなさんには、それなりの考えがあってのことに違いありません。銀河殿が言うように、これをもって「つくろう会」教科書を国定教科書になさしめようとか、青少年を国粋主義者に仕立てる魂胆などは、あるはずもないのであり、ささなことを大げさに言い挙げて扇動するのはもってのほかでござ候や。銀河さまの言こそ、自由な教科書採択の権限を与えられた地方機関に対する強圧なのであり、それこそ民主主義に反する言動ではないでしょうか。教科書を選定する権限を持たされているひとつの機関が、その権限を施行して、ある一冊を採択したという過程に、なんの不当がござ候。本に記述された文言のイデオロギーにこだわるあなたの個人的な杞憂にすぎないと思いましたよ。
大田原市は人口5万前後とは前言しましたが、その教科書が使用される市立中学校は7校、生徒数は1700名余りです。数が少ないことは、どうでもよいが、1700名の教科書がいささか、あなたの考えに沿わない本を習っているからといって、それがどうしたと言うのですか。さらに、下の記事では、あなたご自身がその本からいかがわしいと思われた記述のいくつかを引用されておられるが、それを見た限りでも、別に反社会的、反歴史的および反民主主義のなにが弁証できるでしょうや。かなりまっとうなひとつの常識を述べているように思いましたよ。そうした記述のどこが反動的なりや。仮に少々、反動的記述があったとしても、それを読んだ青少年が国粋主義者になるかどうかは、また別の問題でしょう。本の一冊を読んだぐらいで心酔したり傾倒してしまうなら、教育問題など出てくる根拠もない。これまで騒々しかった教育問題は一挙に解決です。現実は、むしろ反対だからこそ問題にされてきたのではありませんか。教科書もまともに読まない子どもたちに四苦八苦しているのではないですか。誰がそうしたことを心痛してきたのですか。わたしは、そんなことも大人たちの一面的鑑賞に過ぎないと思ってきましたし、そもそも学校制度などに、どのような将来社会の希望が語れましょう か。 語ることは自由ですが、語れば語るほど、自らの嗜好やイデオロギーが丸裸になるばかりです。それと他人の子どもの行く末は別でしょう。自分の価値観や世界観を伝えられる手段をふるえる対象は、せいぜい我が子どもだけなのです。他人の子どもにあれを読むな、これを読めと指図する権限なり資格が、あなたにはあるのですか。
仮に、本を読まないという嘆かわしい現実的一面があるなら、教育は教科書の問題などに矮小化できる問題ではないでしょう。教科書は教材の一種に過ぎないのであり、いうなれば、ひたすら教師の資質の向上こそ求められてしかるべきではないのでしょうか。もちろん教師の資質など、実に、また保護者なりの個人的な主観の範囲なのですから、私にはどうでもよいことですがね。青少年が学ぶべき、本の性質など・・・それもたった一冊の・・・・社会的政治的には、なにひとつ重要な問題にはなり得ないということを見ておくのも市民たる見識ではないでしょうか。ほっときなされ、大田原市民も大田原の青少年もそこまで馬鹿ではないのです。
同じことは、先日、つくる会教科書を採択した杉並区役場の前に集った反対派のおかあちゃんたちが手にしていた横断幕に書かれていたスローガンにも言えるのだ。そこにも似たような成熟にいたらず、もがいている人々の不平不満が書き並べられていた。すなわち「つくる会」の教科書が採択されては、まるでこの世の最後だと言わんばかり。明日にでも戦争が始まると扇動している。テキストと政治における未成熟の現れにほかならない。地方ごとの教科書採択を許さず、教科書の文言に口出ししている彼らこそ、全国統一教科書を求めている張本人なのだ。これは新しい歴史観なりを教科書に書き記して、子どもたちを教化しようと計る「つくる会」諸君の馬鹿さ加減に、未成熟という点では、つりあっているのだ。
教科書自体が、教育における現場性のなにを証明できるであろう。教科書が、それ自体として教育のなにを実現できるのかという問題がある。教科書といっても一冊の図書にすぎない。一冊の図書に学術や史観のいかなる真性を表現することが可能なのかという根本的な疑問を看過したままでは、話がつまらなくなる一方なのだ。文部科学省の検定をクリアして後、現場に出回っている図書、それがわが国で採用されている教科書の現実的姿である。教科書と呼ばれる以上、一定の学術的言辞が並べられているのは、その通りだろうが、ようするに執筆者や版元の意向からすれば、検定された後、書き直され刷り上った本は、今や毒にも薬にもならない、当たり障りのない内容となってしまうのは自明のことだ。文部科学省に文句を言っても始まらない。これに文句をつけたのは、われわれが知るところ、いまは昔、例の家永教授ただ一人である。検定に対する彼の抵抗(裁判闘争)は学者魂がそうさせたに違いない。家永三郎教授こそ歴史学者の鑑である。
さて、私は、「つくる会」教科書の検定前の本と、検定を終え採択にかけられた実物の双方を、比べてみたわけではないので憶測の域を出ないのだが、かなりの部分で削除、書き直しの指図を受け、その後、ようやく認定された代物だと思っている。つくる会教科書を執筆した当人らの検定に対する文句は聞こえない。なぜ、それで満足してしまうのか。彼らの主張する独特の史観なりは、このたびの教科書に存分に表現されているのだろうか。さんざんに人の手によっていじくり回された結果、毒にも薬にもならないような文言を並べて甘んじている学者根性というものが、私には馬鹿の一種に見えてくるのだ。だいたい義務学校で使われる教科書ごときに学術研究のなにが書ける。私が馬鹿だと言うのは、すっかりお上の検定に満足している彼らの、実に志の低い歴史観のことである。<3147字>