赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

ロッテ 31年ぶりにパ優勝を決める

2005年10月17日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
ロッテがソフトバンクを下しパリーグ優勝を果たした。31年ぶりの快挙だそうだ。いよいよ週末よりセの覇者・阪神との日本シリーズである。頂上決戦だ。野球ってもんはいいよ。実にいいよ。何が一番よいのかと聞かれれば、やはり選手がいいのだよ。どの選手も、ひたむきにゲームに没頭して全力を出し切っている。負けたときは泣くのだ。昨夜も、試合終了直後、ロッテ一同が、喜び飛び跳ねている光景を、負けたソフトバンクの選手はベンチの中で呆然と見ているだけだった。何人かの選手は泣いていた。骨折してゲームを離れていた主軸打者でもある城島が、奥のほうから松葉杖をつきながら、ベンチに顔を出してきて、泣きじゃくっている若い選手の肩をたたいて慰めていた。高校野球では、よく見る光景だったが、プロ野球だって同じだ。彼ら一人一人が、全身全霊をかけて試合に臨んでいることがよくわかる。野球選手ばかりではない。スポーツ選手は、みなよい。正直で、率直で、ウソがない。やましいところなど皆無である。引退間際の選手も、頭角を現しはじめた若い選手もみなひたむきさは同じだ。ひたむきに生きている姿に惚れるのだ。引かれるのだ。生きるということは、誰にとっても戦いだ。ときには負けるときもある。負けたからといって、なにも人間の価値が下がるわけではないだろう。勝者と敗者が、これほど明確になる現場もないのだろうが、スポーツこそ平等を高々と歌っているものはない。勝負といい、試合といいゲームはすべてそうだが、ようは「戦争と平和」が実にうまい具合に交互に現出してくる巧みな演出が隠されている。ゲームを経験することは、選手にとっても観衆にとってもひとつの教育である。
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記憶の中のオペラハウス

2005年10月10日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
    

 



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知人友人に貸した金と本は返ってこないというけれど。レコードもそうだね。わたしゃ、田舎の高校生のころから、イタリヤオペラが好きで好きでの。レコードを持っておっての。さらに高校を卒業して東京の町工場に住み込み可の東京の町工場で働くようになって、給料が出るたびに、またレコードを買っておった。電蓄も新しくこうて、工場の二階が寝室で、10畳ほどのところに3人で暮らしていた。

自分の枕元に新しい電蓄を備えて、毎夜毎夜、小さな音量でレコードを聞くのが楽しみだっただよ。同じレコードを、何度も何度も聞くものだから、意味はしらねど、イタリア語のアリアの何曲かを空で覚えてしもうたよ。なにもかもよい時代だった。ところが、その後、民青に勧誘されて、歌っ子がすきなら、一緒に歌うべと言われ、袖をつかまれ、強引に町の勤労青年諸君が行っているコーラスサークルに入れられてにゃんこ。

なんのことはない、共産党の手下だ。オペラなんぞ歌えたものじゃない。毎度毎度、拳を突き上げ「が~んば~ろ~」風の労働歌ばっかしだモナ。人間不思議なものだ。どのような環境にもたちまち順応してしまう。現在の自分の世界を美化しはじめる。誰がなんと言っても共産党が偉くみえてきた。オペラなんぞは、労働歌に比べれば、ブルジョアの退廃文化に見えてくるから不思議だ。ある日、新しい友達に、これを聞いてみろと、持っていたオペラのレコードを十枚ほど貸してやっただよ。いいものから順に10枚ほどだ。そいつは、二度とサークルに顔を見せなかっただよ。いったい、あいつは、どこの誰だったんだと、思っても後の祭りだ。

名前もちょうろくに知らなかっただよ。オラとしても、オペラ自慢がしたかったんだべ。聞いて見れ、聞いて見れと、こっちから進んでレコードを貸し出してやったんだもな。ああ、まいった、まいった。その後、数十年たって、世はすっかりCDの時代となった。昔、失ったレコードと同じ内容のもののいくつかは、CDに焼きなおされて市販されていた。それらを見つけるたびに、旧友に再会したような懐かしさを覚え 買い求めずにはいられなかった。だが、どこか音が違っているのだ。昔、住み込み可の町工場の二階で布団から首だけだして、隣で寝ている工場の仲間に遠慮しつつ小さな音量で聞いていた、あの時のオペラの感動は戻ってこな かった。

たんにレコードとCDの物理的差異のことではないのだろう。あの時の私の精神と感性は、あの時だけのものだったことに気付かなければならなかった。あの時、どれほど華やかな音楽が、 私の枕もとの小さな空間に広がっていたか。それは私だけが知っている。私の記憶の中だけに残されている幸福なのだ。

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言葉と音楽

2005年10月09日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
突飛なことを考えた。文学の源は詩であることは言うまでもない。では、詩の源は何かと言えば歌である。歌は音楽でもある。となると文学と音楽の源は同根であると言えないだろうか。もともと言葉とは書くためのものではなかった。一般に言葉が文字に移されて書きはじめられたのは、そう遠い昔のことではない。それ以前の、数万年という長い長い時間を人類はもっぱら、しゃべることと歌うことのためだけに喉を機能させてきた。歌うようにしゃべっていたともいえるだろう。しゃべることは、そのまま歌うことであった。

人がしゃべることも太鼓や笛が鳴るように、また小鳥がさえずっているように、すなわち音楽であった。これが今日のわれわれの記憶に残された「詩歌」という形式だろう。だが、近代社会の到来によって、言葉は書かれてなんぼという思想が啓蒙され教育され蔓延した。近代は効率(科学)と記録によって成り立っている。国民の一人一人が漏れなく、言葉に付与されている記録性を曲げて読むようなこともなく、記録された文意のもつ価値を信奉し共有することによって始めて成り立つ社会である。こうなると私語に等しい歌や詩は役立たずの汚名を張られ、ますます社会の隅に追いやられていく。

音楽もまた言葉から分離させられ、言葉とは別物として峻別された。意味や論理や物語性などを他人に伝達する利便ばかりが一面的に強調されれば、当然のことながら共同体は詩歌を捨てて「散文」を重んじる方向に向かっていく。

文字を知らない人たちの存在を知っている者は、もう私たち以下の世代には皆無となった感がありますが、私の父も母も、一応、尋常小学校は出ておりますから、新聞を読んだり、たまに手紙を書くぐらいのことは可能でした。でも、明治生まれで10数年前に長寿をまっとうして亡くなった私の祖母は、文字を知らなかったようです。

祖母はもとより顔立ちも美しく、私の主観では私の知った親類縁者中、人間的高潔さと彼女の持つ品位には誰もかなわなかったような気がしてなりません。

私は、この祖母が大好きだったのです。もちろん人間性などと言うものは文字を知っているか否かに関わりのないことですし、祖母の場合もむしろ普段は、寡黙を通して畑仕事や孫の世話に明け暮れるだけのおばあさんでした。大正の半ばに隣の村から、祖父のもとに嫁いできた祖母は17歳だったと聞きました。

以後、70年を越えて、男たちの横暴にも滅多に口答えすることもなく、万感の思いを忍従したまま一生を終えたように私には映ってくるのです。それが我が国の多くの女性たちの実相だったのではないかと。

ただ、私はたった一度だけでしたが、祖母の晩年にたまたま二人だけでよもやまの話をする機会に恵まれ、その時に、時間を忘れて話をしてくれた祖母の言葉の深さ広さに感銘を受け、驚嘆したことがありました。この時の思い出は私にとって「言葉と人」にまつわる価値観を逆転させるほどの、私にとってはある種教育的事件でした。

祖母のことは、いまだに「教育」や「言葉」という大きな概念を普遍的に考えてみるときの、最初の定義となっているような気がします。学校に行く機会がなく、読み書きを習わなかった。祖母は90年の生涯で、一冊の本も読まず手紙一本書くこともなかった。だが、彼女の内面に醸(かも)されていた言葉の世界は、どれほど豊かだったかということを、私はこの目でたしかめたのです。

ソクラテスは自分の言葉をいっさい記録しなかった。ひたすら人と話をすることに徹した。話をする前から、なにか正邪当否や善悪を導き出す前提を議論の中にもちだなかった。対話してみて始めて次から次へとロゴスが現れてくることに感動を覚えていた。最初から結論らしきものや決定済みのことを持ち出さなかった。とことん相手と自分が対等な立場で対話することを欲した。対等な対話から真新しいロゴスや真理が、きらめきだす喜びを誰よりも知っていたのだ。私は、ソクラテスは文字を知らなかったのではないかとすら思うのだ。

文字を知らない人間のほうが、記憶力もよい。一度耳にしたことは忘れない。記憶を文字に仮託しないからだ。文字を書かない人は、良いことのすべて美しい思い出のすべてを、ありのままに自分の頭の中に置いておかなければならない。常に常に考えていなければならない。そうした人たちの一人がソクラテスではなかったのか。ソクラテスが最も嫌ったことは「知ったかぶり」をして威張っている人間だった。世の中というものは昔から読み書きの出来る人間が、まずは真っ先に威張り始める。

こればかりは古今東西似たもの同士のようである。これに異をとなえた最初の人物、それがソクラテスではなかったのか。思うにイエスも自身で文字を書いたという形跡はない。孔子については、まさか無筆であったとは思えないが、彼の「論語」は弟子の手で書かれたものだ。こうした事から、言葉というものについて何か大きなものを感じるところはないだろうか。いずれにしても人間の倫理的な歴史は、文字によって自身の言葉を残さなかった彼らの言辞から始まっている。考えてみれば不思議なことであり、このことを考えるたびに私はある種の感動に打たれる。<2173字>
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「小林秀雄全作品」新潮社

2005年10月07日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
作家の全集といえば、ここにきて、新しい小林秀雄全集の廉価版である「小林秀雄全作品」(全25巻)の全巻が、ようやく手元に揃いつつある。小林秀雄の生誕100年を記念して刊行された正規の小林秀雄全集を書店で何度か手にしてみたが、一巻8千円もするものなので、これはもう逆立ちしても私の手には届かないものとあきらめていた。「全作品」はこの新全集の一巻を二分冊に編集しなおされたものである。「全作品」にしても、まとめて購入するほどの金がなかったことにもよるが、ぼちぼちと読みながら一冊二冊と買い求めているうちに、揃ってしまったのである。

こうしてみると個人全集というものは、やはり欠巻なく目の前に、そろっているところに意味があるとも言えるだろう。ある作品の書かれた背景や、当時の日常的生活などを知れば、作品の理解が深まるということがある。一般に全集には作家の日記や書簡が収録されていて、だれそれの全集でも、それまで日の目をみることもなかった日記書簡を読めることが目玉となっているようだ。私も、この間、少し調べたいことがあって町の図書館に日参して、宮本百合子全集の何冊かづつを借り出してきた。小林秀雄のものとは違って一巻当りのページ数もおおく大部の本なのである。三、五冊で持参したバッグが一杯になってしまうほどだった。全集の構成をざっと見ると、まざまざと当該作家なりの生涯にわたる個性が浮かび上がってくる。百合子全集の場合も百合子の全体像と物を書く姿勢、態度、その時代というようなものが望見できるのである。百合子全集は30巻に及ぶ。面白いのは百合子の場合は、作品と評論、それに日記書簡の分量が、3分の1づつにぴったり分かれていることだった。作品はともかく、日記書簡の膨大なことに驚かされるのである。百合子が没したのは52歳だったから、まだまだこれからと惜しまれた。終戦から6年目の1951年である。17歳で「貧しき人々の群」を発表して以来、ともかく書いて書いて書きまくった人だった。作品を書いていなければ、日記であれ誰かしかへの手紙であれ、ともかく書きまくってきた人だった。

かような百合子全集の特徴に比べて、ほぼ同時期を生きてきて、それに百合子よりも30年も長生きした小林秀雄の全集には、日記書簡の類は一巻もないのである。これはこれで実に小林秀雄らしいと、溜飲を下げる思いであった。実際、小林は日記もつけなかったし、手紙もほとんど書かなかったようだ。もちろん手紙も、まったくないわけではないのだろうが、おそらく事務的な文面に終始していたのだろうと思われる。戦後の小林は、原稿用紙にむかって書くということより、むしろ対話を好み、相手と直接話すほうが、自分にあっていると思っていたような節がある。全集のあちこちに、収録されている対談は、どれもこれもとても読みやすい。話の中身も当時の文学現象や作家の傾向などを誤りなく真髄をつかんだうえで対話者と迫真の議論をしているのである。それに小林の場合、対談するときは、必ず好きな酒を飲みながら話をするのが習慣のようで、相手が飲もうと飲むまいとたちまち小林一人で一升瓶を開けてしまうのだそうだ。それは全集を読んでいても、実によくうかがわれる。こうしたところにも、彼の「らしさ」が出ていて一興である。どのような対談でも小林こそ主人公で議論は進んでいるように読めるのである。戦後、湯川秀樹や数学者の岡潔などとの対談でさえも、一歩もひけをとっていないのである。湯川や岡を相手の科学向きの話でも、主題はつねに小林のほうにあり、小林のリードのもとに対談が進んでいっているようなのである。ほろ酔い気分で話がいよいよ調子づいてくる様子が手に取るように分かるのである。
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▼婿殿と飲む

2005年10月06日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
一年前に亡くなった妹の婿殿のところに、酒を飲みに行く。婿殿は一人暮らしなのである。私より4つか5つ年上で、当年62か3になる。妹とは15歳離れていた。電話で、酒は婿殿が用意しておくというので、では私が、肴とつまみを買っていくと言って電話を切り、さて電車に乗ろうとしたときに、財布を忘れたことに気がついたのである。家にとってかえすのも、億劫だった。ズボンのポケットには小銭がじゃらじゃらしていて、数えてみると往復の電車賃ぐらいは、それで間に合いそうだったのである。夕食の出前を取ってくれたり等々と、今日は婿殿に散財させてしまった。ま、今日のところは許してもらおう。こうして午後5時から夜の10時まで飲みつつ語り、それでも話はつきなかった。

うつむけば胸に着けたるすみれ匂ふ静けき幸を待ちて旅立つ・・・・阿部静枝
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国勢調査に対する某教師の態度

2005年10月05日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法
私も国勢調査に記入するとき、「これって全員?」と家族にきいた。なにか今回は国勢調査に記入することに違和感をおぼえた。それだけ個人情報の確保が叫ばれすぎるわりには、みえみえで情報管理されている巨大なコントロールがみえてしまっていることによるせめてもの防衛本能だと想う。私はそれくらい政府や自治体が一元的支配下においていることに怒りさえ感じている。

まず、梅坂さんは、その趣旨を全員が記入するのかと「家族にきいた」とあって、驚いた。私が聞き及ぶところによれば、梅坂さんは、公務員である。学校の先生である。今や成人となられた立派な子どもさんもおられると聞く。奥様も元気であらせられるようだ。つまり梅坂さんは、家長という立場だろう。公務員にして家長が、国勢調査の趣旨を理解できずに、家族に聞いてみたとするのが、なんとも不信なのである。なにを考えているのかと、思ってしまう。これでは、彼の職場である学校で子どもたちから「国勢調査」のことを尋ねられても、何一つ答えることはできないのではないか。無知にも、いろいろあって、学校の先生たるもの、なにもかも知っていなければならないとは思わないが、国家政府が国民各位に対して問うてきている、まさに当該事件(国勢調査)について、自分の場合は、一向に不明な、あいまいな態度のままで、それで良しと、まるで自慢しているようなのである。国勢調査記入について、個人情報が脅かされるのが心配で、怒りを感じるほどならば、書き込まなければよいだけの話だろう。記入は強制ではなかったはずだ。

実際、私は今回の場合は、ゆえあって記入しなかった。私の家族は妻子を含めて4人である。調査員の方が調査票を回収にこられた時に私を除く3名はみな記入済みだったのだが、私だけが未記入だった。そして、調査員が回収にこられた、そのとき私は昼寝の最中で、書き込む間もなかったのだ。回収にこられた方とは、息子が対応したのだが、調査員の方は3枚の記入済みと1枚に未記入の調査票のはいった封筒を息子から受け取り、満足気に頭を下げて帰っていったと聞いたのである。結果オーライと言うべきか、記入されていなくても、それでよろしいのであるらしい。私は、昼寝から起きたら記入しようと思っていたし、どうしても記入してくれと、調査員の方が玄関口で待っているというなら、起きて記入しないでもなかった。調査に不満があるわけでもなく、さらによこしまな考えがあって、記入しなかったわけではないのである。記入したくなければ、記入しないでよいのである。

梅坂さんの場合は、きちんと記入したのだろう。記入したうえで、後から記入したことを、まるで強制的に記入させられたとばかりに言い募る。これは、彼の場合、例によって例の如しなのである。君が代日の丸問題のときがそうだった。今でもときどき口を滑らす。国歌国旗問題に対する彼の言動の性質とまったく同じなのである。現在の彼は、実際には勤め先である学校で君が代をしっかり歌い、日の丸に頭を下げているのだろう。国旗国歌として法制化された当初の反対運動の善悪や、君が代日の丸に対する内心の趣味の問題はともかく、いまは自分の働いている現場で、これに不平不満をもらすこともないのだと想像するのだ。だがネットでは一変して、相変わらず、口角泡を飛ばす勢いで批判するにせいているのである。それほど嫌なら、さっさとそんな職場はやめたほうが精神衛生のためだろうと、思うのだ。ところが、そんなことを進言するやいなや目をむいて当方を逆恨みして、反動分子と決め付けにかかる。私ばかりでなく、そんなことを人から言われた夜は決まって、一人寂しく泣きの涙でセンチメンタルフォークソングに逃げ隠れ、閉じこもってしまう。いっこうに対話が成り立たない。

それはともかく、こうした自分の言動の矛盾というものを、内面においては、どのようにやりくりしているのかが実に不信なところである。彼のネットでの言動というものは、子どもたちや学校の同僚の前には恥ずかしくて、見せることもできないだろう。教育者としては失格である。学習塾の講師のほうが、よほど常識的な人格者だろう。勤まるものも勤まらない。こうした無責任な放言を自分に許しているのも公務員という隠れ蓑があるからなのか。教育をほったらかし、この手の口先男を飼っているぐらいしか役にも立たない学校なんぞも、あってもなくてもよいのだ。さっさと民営化すればよい。梅坂さんとは考えれば考えるほど不思議な男にござ候。早い話、口先だけの男だと今はすっかり見下しているところだ。彼がネットに書き付けてくる言葉は、一行たりとも信用するに足らないのである。例えば次の文章を見よ。

それにしても、アメリカを覆う空前の社会的政治的経済的道徳的退廃。

大言壮語の極致。デマゴギーの一歩手前。おそらく彼の言葉というものは、恋に恋する乙女のように、自分で酔うため以外のなにものでもないようだ。それにしても罪作りなことである。
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▼M主将の話

2005年10月02日 | ■学校的なあまりに学校的な弁証法
中学生の時、部活に柔道を選んだ。部室に入っていくたびに、柔道着から発するツーンと鼻の奥が刺激されてくる強烈な臭いが脳裏をよぎる。最終授業が終わると同時に上級生が教室にやってくる。下級生が部活をさぼらないように見回りしているのである。廊下のあたりから鋭い視線を投げかけて「さぼったら許さないぞ」とにらみをきかせてくる。これはなかなか恐かった。

入部当初はもっぱら上級生の練習台にされていた。ひたすら投げ飛ばされるだけ。体格にもずいぶん差があり「高背負い」などを連続してかけられ幾度となく畳にたたきつけられていると、やはり練習も時にはさぼりたくもなるし、部を辞めたくもなってくる。今は禁止されていると聞くけど体育館を一周する「ウサギ飛び」がきつかった。2年生になると少しはワザなども覚えてきたのか、柔道が面白くなってきた。

ある日、3つほどあった中学校を合同した大会が警察署の道場で開かれた。その時のルールが「勝ち抜き戦」でポイント制などまだ普及していない当時だったから一本、あるいは「あわせて一本」のどちらかがとるまで試合は続く。もちろん子どものことだから、長くても5分とかからず決着がつく。身長の低い順に並ばされて1,2番目が最初に対戦する。勝った者が3、4番目と対戦していく。私はかなり小柄だったから参加選手20人ぐらいのうち3番目だった。体格が同じ位の者なら少しは自信があって、時には投げ飛ばすことができた。この日は続けて4者を勝ち上がっていった。5人目に登場してきたのが主将Mである。

Mは身長は高くないのだが肥満体で体重は私の比ではない。それにわが柔道部中、もっともワザの切れ味のよい3年生だった。なんのことはなかった。彼の得意技「体落とし」で投げ飛ばされたのは組み合ってすぐのこと。こうしてMは次々と5人に勝ち上がり6人目に当たった他校の3年生の寝技に破れた。勝ち上がった人数による表彰で、5人に勝ったMが優勝し、望外のことだったが4人に勝った私が準優勝したのでる。どう考えても公平なルールとは思えず釈然としないまま警察署長から賞状を渡された。人様から表彰された経験は後にも先もこれ一度。たった一枚の表彰状だし捨てたはずもないのだが、どこにもぐっているのか見たこともない。

Mについては意外な後日談がある。Mが卒業まぎわ私の2年生も終わろうかという時期に開かれた「学芸会」のおりのこと。音楽が専科の美しい女性教師に伴われて舞台の袖からMが現れてきたのである。そこでMは臆することなく堂々と彼女のピアノ伴奏によって二曲ほど独唱したのだ。中田喜直の「雪の降る街を」。それからもう一曲。体格から連想されるように「低音の魅力」がすばらしかった。いつもは荒々しいM主将にこんな才能があったのかと、不可解な緊張感におそわれその感情をまったく自分で納得も説明もできないもどかしさに私は面食らった。そしてMの甘い歌声に、なぜか自分が舞台に立たされているような羞恥にとらわれ思わず下を向いて赤面した。

思春期だった。Mの歌唱力をねたんで陰口をたたくようなことはしなかったが、しばらく私はすっかりMと音楽教師との特殊な関係を邪推して、これが頭から離れずに一人懊悩していた。二人っきりでいつ練習していたのか。Mは素振りにも見せなかった。それにしても、Mの歌声は今でも耳について離れない。

ゆぅきのふぅるまぁちを~ ゆぅきのふぅるまぁちを~ あぁしおぉとだぁけぇが おいかぁけてくぅる

Mが卒業してしまうと、部活動もつまらなくなり足が向かなくなった。3年になってからは学校にいくのも嫌になり、一週間続けて休むようなこともたびたびあった。同じ中学校に通っていた2歳下の弟が学校から帰ってくるとまっさきに私に苦言を呈した。

「アニキの先生から毎日どうしたどうしたってオレが聞かれるんだから。やだよ。明日は学校に行ってくれよ」

「生返事ばかりしていて、きっと次の日も休んじゃうんだから」と、弟が情けなさそうに言う。
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