赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼手をつなぐごと畦赤し彼岸花・・・吉田静代

2016年09月28日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

 

2016.09.27 横浜市

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

▼きれいは弱い 汚いは強い

2016年09月24日 | ■歴史的なあまりに歴史的な弁証法

 

今月号の『文藝春秋』を読んだ。芥川賞の受賞作が掲載されていたので、さっそく買い求めたのだが、最近は毎度のことながら、やはり今回も失望を禁じえなかった。

本誌中、何より興味を引いたのは、『ローマ人の物語』を完結させて今や推しも推されもしない歴史小説の大家、塩野七生(しおのななえ)さんの連載物だった。タイトルは『日本人へ 百六十 ローマ帝国も絶望した「難問」』とある。塩野さんは書いている。

歴史に親しむ歳月が重なるにつれて確信するようになったのは、人間の文明度を計る規準は二つあり、それは人命の犠牲に対する敏感度と、衛生に対する敏感度、であるということだ。と同時にわかったのは、この敏感度が低い個人や民族や国民のほうが強く、負けるのは文明度の高い側で、勝つのは常に低い側、ということである。

これは驚きだった。一般にわれわれが学校などで教わり、また信じてきたいわゆる発達史観では文明国こそ世界を支配してきたのであって、野蛮な民族や国家に負けるはずはないと、一般にはそのように思われきたのではないか。現在でも、わたしなどは単純に、そのように信じている。

そこで、もう一度、塩野さんの上の文章を噛み砕くようにして読んでみた。

二つの問題があって、ひとつは「人命の犠牲に対する敏感度」と塩野さんは言う。たしかにそうだ。今昔では、死についてばかりは大きな考えかたの差があるようだ。70年前までは、お国のためとか親方様のためなら死んでもよいとおおぴらに高言でき、またそうした死を許容する思想上の環境があった。大東亜戦争だけのことではない。近代戦争以前となれば武士には切腹という美学もあったし、敵(あだ)討ちなどという公認殺人すら日常茶飯事だった。

ほんの七十年前からなのだ。「人の命は地球より重し」などというおかしな世迷言が流行したのは。つまり、昔は人命に対しては、現代ほど生きるか死ぬかについて、いちいち全国ニュースで取りざたされるほど、やかましくはなかったのである。たとえは良くないが、ようするに昔は、それも昔にさかのぼればのぼるほど、人というものは、子どもでも大人でも老人でも、男も女も、実に見事に、ばったばったと片っ端から死んでいったのである。よしあしは、別にしても現代を敏感というなら昔はたしかに鈍感だった。そして塩野さんは鈍感のほうが強く、敏感のほうが弱いとおっしゃる。そういわれてみれば、徐々にだが、だんだんと分かってきたような気がする。

もうひとつは「衛生に対する敏感度」があると言う。わたしは戦後まもなく、農村で育ったものだから、あの不衛生な便所の汚らしさたるや恐るべきものだった。やがて水洗便所というものが現れて、使用できるようになり、生きていてよかったと思ったほどだ。かように便所の進歩と変遷については身をもって経験してきた。便所についていえば、かなりのところまで進歩してきたことは間違いない。これも塩野さんは、衛生のほうが弱く、不衛生のほうが強いのだとおっしゃる。わたしも、もはや昔のボットン便所には便秘を我慢してでも入りたくない。入れないように生理が漂白されてしまっているのだ。

ようするに免疫力のようなことなのか。少々汚くても臭くても、目的さえ達せれば、細かいことは、こだわらないとなれば、言うまでもなく、不衛生でも、かまわないというほうが生き物としては強いに決まっている。どうやら塩野さんは、このようなことに警鐘を鳴らしているのである。

地球温暖化とは、よく耳にする話だが人間それ自体が、昔に比べれば生き物として、むしろ退化しているとなれば、こちらのほうがよほどヒト科にとっては根源的な存亡の危機たる問題なのである。

塩野さんは、さらに言う。ようするに古代ローマ帝国が滅亡したのも、ローマに比べれば、よほど非文明であったゲルマンの蛮族に侵入を許すがままだった。

子どもがドナウ河の波に呑まれようと、女が何人死のうと、いさいかまわずに河を渡って押し寄せてくる蛮族の数の前に圧倒されてしまった。

カエサルが作った国境線を、次々と越えてくる蛮族の力を目の当たりにしてドナウ河のこちら側で砦を守っていたローマ兵たちは、もはやなすすべもなく、ここに帝国の滅亡を予感し「絶望」していただけではなかったのかと。

 

 

 

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

▼わたすの自作の野菜たっぷり坦々麺

2016年09月19日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

 

2016.09.19 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

▼小林秀雄と中野重治

2016年09月17日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

 

 

昭和58年3月に小林が逝って、直後に刊行された「新潮」小林秀雄追悼記念号に寄せられた山本健吉氏の文を見て目からうろこが落ちる思いがした。

タイトルは「中野重治と小林秀雄」とあって副題に「あるいは、一つの運命」とある。近代文学派の評論家として活躍されてきた平野謙氏の告別式のときのことである。平野謙が亡くなったのは1978年である。

この告別式で弔辞を読むのが中野と山本氏の役割だった。二人は式場の最前列に座っていた。山本氏も中野も、式が終わるまで気がつかなったらしいのだが、彼ら二人の後ろ二列目に小林秀雄が参列していたのである。

式が終わり、中野と山本氏が席をたった。すると後ろの席にいた小林が中野に対して「いかにも久潤を叙するかのように、にこやかな笑みを浮かべて挨拶をした」という。小林の表情は懐かしさにあふれ「今にもやさしい言葉をかけたそう」だった。

中野は突然のことに驚いたのか、「ぎこちな」かった。中野は「何かぼんやりとした表情で、むしろ相手の誘いを拒むような感じを見せて、ゆっくりと顔をそむけてしまった」のである。

山本氏は、突然の二人の出会いを「固唾を呑む思いで見ていた。あたりの空気が一瞬凝固し、異常な気配をはらんだような感じにうたれた。写真家がよく口にする決定的瞬間という言葉を思い浮かべた」と書いている。

中野は、戦後すぐの1947年の参議院選挙に共産党から出馬して当選し、50年までの3年間国会議員を務めた。47年のある日、小林と中野が偶然に神田のバーで出会ってしまったときのエピソードが求龍堂社長の石原龍一氏によって記録されている(「レクイエム 小林秀雄」)。

石原氏が小林や青山二郎などに同行して飲んでいるとき、店に中野重治が入ってきた。偶然のことだった。中野の姿をみると小林は、「例の調子で、なぜおまえさんは参議議員なんてバカなものに立候補したんだ」とかみついた。

石原氏の言う「例の調子」とは飲むとからなず誰彼となく絡み始める小林の酒癖の悪さのことである。二言三言の応酬があったと思ったら、いきなり中野が小林の横っ面を「思いきりぶん殴った」。石原氏は、「天下の小林秀雄に何をするか!」と怒鳴って中野を殴ろうとしたら、青山二郎がニヤニヤしながら制止してきた。小林の顔は、もう赤くはれあがっていた。頬をなでながら中野にむかって言った。

「バカ、お前はそそっかしくていけない。人の話は最後まで聞くもんだ。見ろ、おれの顔がこんなになっちゃったじゃないか。君のように、詩人としてこれほどすぐれた才能を持った人間が、どうして政治家になろうとするのか。詩人中野重治を失うことが日本の文学にとってどれほど痛手になるか」とじゅんじゅんと話はじめた。しばらくすると中野は「小林、おれが悪かった」と、小林の手を握って泣いていた、とのことである。

おそらく、このとき以来、平野謙の告別式までの30年あまり二人は会う機会に恵まれなかった。そして、小林が予言したとおり、以後の中野は静かに詩作を練るという生活からは、ほど遠くなるばかりだった。文学にとって善いか悪いかは別にしても、政治と文学を一体のものとしてみる主義を自認したのは、なにより中野本人の終生かわらぬ主題であった。実際、死ぬまで党内闘争や政治的現場から足を洗うことができなかった。中野重治が没したのは、この平野謙の告別式の次の年だった。小林も中野も明治35年生まれの同年なのである。 

<2008.09.08 記>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

▼飛べ飛べヒゲコガネ

2016年09月12日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

 

2016.09.12 自室にて

 

路上にヒゲコガネが仰向けにひっくり返っていた

死んでいるのかいないのかそこが問題だ

一般に死んでいる生き物は無視するより方便はない

指でつまむと足をもがいた 生きているらしい

そこで自宅に持ち帰り逃げ出せないようにガラス瓶に入れ写真を撮った

後は野となれ山となれとばかりに小さな体躯を空に向かって放り投げてやると

大げさに羽音を鳴らして中空に消えていった

飛べ飛べヒゲコガネ

飛んでいけ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

▼紫陽花の古道具屋の古雑誌

2016年09月07日 | ■歴史的なあまりに歴史的な弁証法

 

2011.06.11 川崎市


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


散歩道上の骨董屋で古雑誌を広げてみる。昭和33年七月号「文学界」である、当時、わたし
は小学生であり、目次に明記されている作家各氏の年齢はそれぞれ、昭和元年生まれの
三島由紀夫は33歳。高見順や正宗白鳥は50代、臼井吉美や中村光夫、山本健吉、福田
恒存などは40代。城山三郎も石原慎太郎も有吉佐和子も、まだ20代ではなかったかと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<2011.06.11 記>

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

▼良書紹介 『エンゲルス』 

2016年09月02日 | ■歴史的なあまりに歴史的な弁証法

 

2016.08.31 自室にて

 

だいぶ夜も更けてきて朝から読んできた『エンゲルス』をたった今読み終えたところだった。本を閉じながら感極まり、ため息まじりに目を上げた。すると窓ガラスの向こう側にいつの間にか珍客が訪れていた。

 

 『エンゲルス』 トリストラム・ハント著 東郷えりか訳  筑摩書房 2016.03.25刊

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする