赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼妹が永眠する

2004年05月20日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
本日、私に9歳年下の妹が永眠した。死亡時刻19時49分。昭和32年7月30日生。享年46。台風が来ていて一晩中、雨と風が止まなかった。
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婿殿が泣いた

2004年05月19日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
母を見舞う。母のいる病院は隣県の山里にある。元気そうで安心したが、ついに妹のことは話せなかった。夜、妹を見舞う。医者が今夜から二三日が山だと言った。婿殿が泣いていた。
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妹を見舞う<2>

2004年05月10日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
夕方、妹の病室を訪ねる。まるで、臨月の妊婦のように腹がふくれていた。ベッドの横で妹と話しているときに、主治医がやってきて、近いうちに管で直接肝臓に薬を投与するようにいたしましょうと言った。
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▼挑発するロシア

2004年05月01日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法

ロシアは挑発する。ロシアの文学と革命は我を一生涯とりこにしひき離すことはないだろう。

◇トロツキー

十年程前僕は、ヘルメットをかぶり鉄パイプで武装した若者の集団を指して″トロツキスト″と侮蔑する叫び声を毎日のように耳にしていた。彼らの殺気だった異様な雰囲気と、″トロ″という語の音調から″トロツキスト″とはテロリストの別名であることを、不勉強な僕は信じて疑わなかった。このテロリスト集団が公然と街なかを横行していた当時、僕はといえば、今日ではすでに悪名高い「スターリン小伝」(大月書店)や「ソ連邦共産党史」(大月書店)などの本を買い求めては、自慢げに本棚に並べておいたりするような、まじめな″マルクス主義者″をもって自認していたように思う。

実際、トロツキーの「わが生涯」(現代思潮社)の日本語版訳者の一人である栗田勇氏が訳者あとがきで書いているように、僕にとっても、「トロツキーという名前は、ごく最近まで、いやいまでも一部ではキリストの十三人目の弟子ユダか魔女狩りの魔女のように人非人としての汚辱にまみれた呪詛の言葉だったのである」。栗田氏がこのあとがきをしるしてからすでに二十年近くがたっている。だが一九五六年のフルシチョフのスターリン批判の当初から、スターリンの他の悪業は暴露しつつも、トロツキーへの迫害と″トロツキスト″として弾圧された数知れない人々への犯罪的行為だけは正当化され賛美されさえしているのである。フルシチョフは、その衝撃的なスターリン批判報告を次のような言葉で閉じている。

「われわれは、この問題が党外に洩れたり、とくに新聞に載ったりしないようにしなければなりません。だからこそ、党大会のこのような非公開の会議でこの問題を検討しているのであります。われわれは限度を心得ていなければならず、敵の手に武器を渡してはならず、そして自分の汚れた下着を敵の目の前で洗ってはならないのです」(「フルシチョフ秘密報告・スターリン批判」(講談社))。ここで言う敵とは必ずしもアメリカをはじめとする西側諸国のことばかりではない。

当時、指導部内で激しい権力闘争があり、スターリンに最も近い存在と見られていたフルシチョフをしてさえも、そこでスターリン批判をしておかなければ自分の地位すら危うくなるという事情と、スターリン個人崇拝の絶頂期にはあったものの、すでに国民の間からは、小さくはあるが不気味なスターリン批判のささやきが広がりつつあったのである。徹底したスターリン批判の持続は、当然、トロツキーの再評価、反対はの復権へとつながることを懸念して、フルシチョフはスターリン問題を″汚れた下着″と比喩して代議員に釘をさしておいた。こうして、この報告はソ連邦内では公認も公表もされず、国民は、まったくのつんぼさじきにされたまま今日に至っているのである。

一教師としての仕事のかたわら、スターリン問題の研究を続け、国外で、その著作を出版したことが党に対する心証を悪くし、ついには除名されたロイ・メドヴェージェフによれば、一九四六年のフルシチョフの更迭以来、スターリンの名誉回復問題が公然と提起されるようになってきているという(「ソ連における少数意見」(岩波書店))。その著書(「共産主義とはなにか」(三一書房))でスターリン主義への厳しい批判を追求しつつも、トロツキーの理論もまた否定的に論じているメドヴェージェフすら除名されてしまう現実をみるならば、今日のソ連指導部の意図はもはや明白であろう。フルシチョフによって水につけられた″汚れた下着″を、水から引き出そうとしているのであり、すでにどのようなスターリン批判も許さない、という危機的な思想的状況にあるのである。

つい先日、日本の鈴木首相が中国を訪問した折、ある新聞に次のような象徴的な漫画が載っていた。それは、教科書問題では多大な迷惑をかけ、申し訳ないと、深々と頭を下げている鈴木氏に、中国指導部の一人が、もうよろしいから頭を上げなさいと、手をさしのべている、という漫画であった。数ヶ月前、中国より日本の歴史教科書の記述が遺憾であると指摘され、あわてふためいた政府を、さらに国内からも追求していこうと、この指摘によって活性化された国民運動がここへ来ていよいよ本格的に取り組まれようとしていた矢先のことである。

国の内外から日本政府の危険な戦争認識を追求し明らかにさせていこうと起ち上った関係者は、この鈴木首相の訪中によって、日本政府の弁明を許容してしまった中国指導部の姿勢に、少なからぬ落胆を覚えたにちがいない。外交問題の結着とは、中国指導部にとっては相手国の支配者との利害関係の結着と理解され、その結着の仕方によっては、相手国内の労働運動がたとえどのように打撃を受けたとしても、あえてそれは無視する。あるいは、すでに最初から労働運動を通じて表現される他国の国民的意志など視野に入ってこないようである。それは、かつてスターリンがファシスト・ヒトラーと独ソ不可侵条約を結んだ思想と同質のものであるといえるであろう。独ソ不可侵条約については、この問題をくわしく論究している日本共産党幹部会委員長不破哲三氏の最近の著書「スターリンと大国主義」(新日本出版社)から引用させていただく。

一九三九年十月「ソ連最高会議で″大戦勃発後のソ連外交″について演説したモロトフ(首相・外相)は『われわれがごく最近まで採用してきた公式』――ドイツを侵略者としイギリス、フランスなどをその対抗者とする『公式』は時代おくれになった、と宣言しました。『周知のように、過去数ヶ月の間に″侵略″とか″新釈者″とかいう害婦負は新しい具体的内容をえ、新しい意味を持つにいたった。今日、ヨーロッパの諸列強についていえば、ドイツは戦争の早期終結と平和のために努力する国家の地位にあり、一方昨日まで侵略にたいし抗戦してきたイギリス、フランスは戦争継続賛成、平和締結反対の陣営にある』」とモロトフは、たんにスターリンを代弁して演説しているにすぎない。

さらに同党幹部、西沢富夫氏の文章をこの本から引用すれば「こうしてソ連とヒトラー・ドイツとの間に不可侵条約が締結されてのち、ノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギーなどは、あっという間に、英仏帝国主義者によってではなくヒトラー・ドイツ軍によって踏みにじられたのです。何千人という共産党と進歩人士は、反ファッショ闘争の延長としての人民の先頭にたってドイツ侵略軍とたたかい戦死したのです」。他民族の独立解放運動、他国の労働運動、さらにはら他国の共産党員の生命すら犠牲にしてもソ連邦の利益を守ることが第一義的任務であるとした、いわゆるスターリンの一国社会主義論の、これが現実であった。今日、この条約の締結によってヨーロッパの破壊へと手をかしたスターリンの思想の不当性を指摘することは簡単である。

当時、デミトロフを中心とするコミンテルン(第三インターナショナル)でさえスターリンの方針を採用していたことを考えるなら、独ソ不可侵条約をマルクス主義の立場から批判した人間は、世界に、メキシコ亡命中にあったトロツキーをおいて一人もいなかった。アイザック・ドイッチャーは書いている、「一九三九年八月の独ソ協定を、トロツキーが霹靂のような弾劾をもってむかえたことは、十分想像ができるだろう。大粛清の首魁が、いまやヒットラーの共犯者としての自分を、みずからさらけだしたのである。一九三三年以来、トロツキーは、ヒットラーとの和解ほどスターリンにとって満足なことはなにひとつないと、くりかえし断言してきた」(「追放された予言者」(新潮社)」。

不破氏の「スターリンと大国主義」は、新しい資料なども駆使して、鋭いスターリン批判となっている。またソ連指導部の他国の民族自決権をふみにじる点に対しては、「スターリン以上にスターリン的である」と正しく批判しているなど、今日的意義にみちた本ではあるけれど、次のようなトロツキーに関する記述などは、どうみても受け入れがたい。「のちにトロツキーは、スターリンを中心にした党指導部にたいし、反対派として闘争をいどみましたが、その闘争は、レーニンが計画した″最後の闘争″とはまったく別の主題、ソ連邦に社会主義の建設が可能かどうかという問題をめぐってでした。そしてこの闘争では、レーニンの路線をまもる側にたったのは、党指導部とスターリンで、トロツキーは、レーニンに批判された彼の『非ボリシェビズム』の復活者としてあらわれたのでした」とあるが、不破氏の断定的なこの文体は、スターリン時代に作られたトロツキー攻撃の公式文章を踏襲しているにすぎない。

「スターリン問題研究序説」(大月書店)で佐々木洋氏は「ここで強調すべきことは、しばしば誤解されているように、トロツキーは一国社会主義革命に反対することで、ソヴェトの社会主義建設に対抗したり、反革命を企てたのではないという事実である」。と書き、不破氏とはちがって、トロツキー問題をトロツキー自信の著作から論証しようとしている。

さらに佐々木氏は一九二三年、第十二回党大会でトロツキーが報告した、いわゆる「工業化テーゼ」の内容をこまかく分析する中で、当時トロツキーがロシアにおける社会主義建設の発展という問題に、、いかに真剣に取り組んでいたかを明らかにしているのである。こうして「かれは、諸階級の存在そのものの言葉の真の意味の止揚を提起こそすれ、スターリン的な諸階級の肉体的絶滅を考案することはなかった。彼の社会主義論は、社会主義をめざし、達成された社会主義のもとで生活する協同的な人間の喜びと躍動によって動機づけられている点で、それなりに魅力あふれるところがあるし、それゆえ早期からソヴェト官僚主義的傾向に危険を感じとって警鐘を鳴らすことができた」と結論している。

ドイッチャーが「スターリニズムはマルクス主義と、ロシアの原始的な、野蛮な後進性とのアマルガム(合金)であると、いえるかもしれない」(ロシア革命五十年」(岩波書店))とスターリン主義を規定しようとした文章と、さらにレーニンが「スターリンは粗暴すぎる。そして、この欠点は、われわれ共産主義者のあいだやわれわれ相互の交際では十分がまんできるものであるが、書記長の職務にあってはがまんできないものとなる。」(「レーニン全集」36巻)と書きしるした遺書の中の文章とを、先の佐々木氏の結論に比べてみるなら、常に空想することの大切さ、夢見ることの大切さを強調し、過酷な革命闘争の中にあってさえ、理想を忘却するな、と説いたレーニンと、不破氏のいう″「非ボリシェビズム」の復活者″トロツキーとが、いかに思想の面で共通しているか、そしてスターリンが、いかにかけ離れているかがわかるであろう。

スターリン主義をマルクス主義とは異質の思想として規定することは、レーニン死語のマルクス主義的革命運動の空白時代を認めることであり、共産主義運動の歴史を、はるか遡って訂正しなければならないということである。この空白時代を、ドイッチャーのようにトロツキーをして充足させることができないか、とする方法には、もちろん不破氏は立っていない。スターリンと今日のソ連指導部の大国主義に対しては徹底して批判を行うが、レーニンの後継者としてはスターリンを認めていこう、とするのが不破氏の「スターリンと大国主義」に書かれているところの当面の立場であるようだ。スターリン英雄劇という神話的世界にかかせない悪魔として、退治されたトロツキーを刺激的に描き出している山口昌男氏の「歴史・祝祭・神話」(中央公論社)を手がかりに推測するなら″トロツキスト″という悪罵のレッテルにこめられた、反対派に対する神話的破壊力が、僕が十年程前、毎日耳にし
たように、いまもって不破氏にとっては魅力なのであろうか。

一九四〇年、六一歳のトロツキーはメキシコにあって、独ソ協定などに現われたスターリンのマルクス主義からの逸脱と、ソ連邦内における犯罪的大量弾圧に対し、ペンを唯一の武器として闘っていた。この年の五月、スターリンのさしがねによるゲー・ペー・ウーはトロツキー一家がまだ就寝中の明け方をねらって家の中へ入りこみ、めくらめっぽうの十字砲火をあびせた。「射撃がやむと、隣りの部屋で私たちの孫が『おじいちゃん!』と叫ぶのが聞こえた。銃声にさらされながら暗闇の中で聞いたあの子の声は、あの夜もっとも悲劇的な思い出としていまなお心に残っている」(「トロツキー著作集」(柘植書房))。孫の叫び声がトロツキーの心に残っていたのは、わずか三ヶ月の間であった。五月の失敗をゲー・ペー・ウーは八月にはくり返さなかった。悪魔退治劇の幕切れにふさわしく、いっそう完成された演出として、トロツキーは友人を装ったテロリストによって、ピッケルで頭蓋骨を打ち砕かれた。

◇メイエルホリド

「ドストエフスキーの小説は演劇的である」。この刺激的なテーゼを、ぼくはどこから手に入れてきたのであったろう。たぶん今では大江健三郎氏の本の中のどこからか見つけだしたにちがいないとは思っているのだが、あるいは、ぼくらの文学サークルの集りの中で参加者のだれかが言ったことばであったのかも知れない。いずれにしても、このところぼくの頭の中では、この魅力的な一節をめぐって果てしない、そしてこの上なく楽しい逡巡をくり返している。ぼくは考える、何故、ドストエフスキーの作品が演劇的であるのか。そもそも演劇的とはどのような事なのか、と。今年の夏、富山県の利賀村で行われた世界演劇祭からテレビ放映されたいくつかの芝居を見て、あらためてぼくは演劇の可能性の大きさに打たれた。

たとえば、タデウシュ・カントール演出の「死の教室」では登場する十数名の喪服に身を包んだ老若男女が顔面を蒼白に塗られて、それぞれが異った固有の小刻みな身ぶりをあくことなくくり返しながら芝居の進行に参加するのだが、狭い教室(舞台)にひしめく登場者間のやりとりもなく、執拗に機械的なこの身ぶりは痙攣のようでもあり、死者というよりは筋肉が膠着してしまった死体のそれであった。突然、はげしい大太鼓のリズムにのってモップをふりかざした体格のいい掃除女(男優)が現れる。大太鼓のリズムはもちろん軍靴の音を連想させる。この掃除女もまた機械的な身ぶりでモップをふりかぶりふりかぶり教室の中を幾度となくめぐりながら皆を追い回す。死体者(、、、)たちは、それぞれに意味深い小道具をたずさえて突然おそってきた恐怖にたえながら教室をめぐるのである。ある老人は壊れかけた自転車をひきずって、ある老婆は死んだ少年のむくろをかかえ、ある若い男はガラスの入っていない窓枠をという風に。

こうして何回かめぐっているうちに掃除女が消え平和な安らぎが戻ってきて象徴的な授業が始まる。すると、どこからともなく懐かしいワルツの音楽が教室を満たし、死体者たちは目を輝かせて立ち上り、幸福そうに手をさしのべ音楽に合せて体をゆする。だがやがて音楽は遠くなり、遠くなるにしたがって死体者たちの動きも小さくなってゆく。そしてふたたび大太鼓の音とともに掃除女が登場して来るのである。時々、進行中の芝居の中へそれとなく入りこんでは俳優たちに小道具をわたしてやったり、指示を与えたりしていたのが、この芝居の演出家タデウシュ・カントールであった。

長かったロシアのツァーによる支配から、なおひきつづく今日のポーランドの不幸の象徴としてこの支配が見られたならば、ほぼカントールの意図した演出は成功したと言えるだろう。悲劇のくり返し、幾重にも不幸が積み重なるポーランドの重層的な歴史の演劇化は、ひとつにはカントールによって強引に、ポーランドの墓場から死体をひっぱり出して、ぼくらの前に立たせることによってのみ可能であったといえる。映画監督アンジェイ・ワイダもまた、重層的なポーランドの現代史を「大理石の男」から「鉄の男」と続く連作映画の中で、死者を生き返らすというカントールに通じる方法を使って感動的に表現している。

「大理石の男」では、一定時間中にいくつレンガを積み上げられるかという競争で新記録を達成し、一躍社会主義ポーランドの労働英雄として祭り上げられたものの、ちょっとした反政府的な事件に巻きこまれ、社会から見はなされ、つき落されていく不幸な労働者ビルクートが「鉄の男」では、その息子マチエックとして、ビルクートを演じた同じ俳優がまた演じることによってよみがえり、ぼくたちの記憶に新しいレフ・ワレサを委員長とする自主管理労組「連帯」のものてと新たな闘いを開始して行くのであった。話を戻そう。たとえばドストエフスキーの次のような文章、「私はどんづまりまで行く。生涯、私は限界を踏み越えつづけてきた」。彼がたびたび踏み越えた限界とは、いったい何であったのか。それは単に、ペトラシェフスキー事件のさいに処刑の一歩手前で助けられたその時に、かいま見たかもしれぬ生の向こう側の世界のことばかりではあるまい。あるいは彼の生活をたびたび襲った精神的、経済的な破綻のことばかりではあるまい。

カントールおよびワイダの作品に仕掛けられた方法によって示唆されたところから、もう一度、ドストエフスキーの長編に登場してくる印象深い人物を思い起してみるならば、たしかに「カラマーゾフの兄弟」のアリョーシャのような純粋無垢な美声年でさえもぼくには、こじんからその歴史を消去された、いわば過去的なものをいっさい捨てて自由自在になった肉体をもって、舞台に立つひとりの熟練した俳優が演じているとしか思えないのである。おそらく「罪と罰」以来、ドストエフスキーは小説のなかに、もう一つの舞台を仕込んできたのではないか、とぼくは今思っている。

アンネンコフの「同時代人の肖像」(現代思潮社)は、今世紀最大の演劇人メイエルホリドの面影を知る上で、日本語で読める数少ない書物の一冊である。メイエルホリドの演劇はどのようであったか。アンネンコフは一九二三年のある日のメイエルホリド劇場のもようを次のように伝えている。この部分は山口昌男氏の「歴史・祝祭・神話」の中にも引用されていて、十月革命がロシアの芸術家たちに、いかに大きな想像力上の活力を与えているかを示していて圧巻である。

観客席は超満員だった。わたしのところからほど遠からぬ桟敷の一つに、数人の赤軍司令官に交って、軍事人民委員にして共和国革命軍事ソヴェト議長L・D・トロツキーが軍服姿で腰を下し、非常な熱心さで舞台を注視していた。

いつもの通り、メイエルホリドの演出はさまざまの新機軸を披露した。戯曲のテーマは国内戦、ツァーリズムの崩壊、白軍の壊滅だった。L・ポポーリの構成主義的舞台装置にはスクリーンが導入され、それに政治的スローガンが映写された。そこに「この上演は軍事人民委員レフ・ダヴィードヴィッチ・トロツキーに捧げられる」の文字を読むや観客は起立し、拍手に続いて『インターナショナル』の歌声が起った。トロツキーもまたこれらすべてを起立して受けた。さらにその先では、ほんものの装甲車、オートバイ、トラックなどが観客席を横切って舞台へ乗り上げ、これまた拍手と歓呼を浴びた。「赤軍万歳!プロレタリア独裁めざして前進!」等々。

ある幕の途中、たまたまわたしがトロツキーの桟敷を振り向いてみると、もはやそこに彼の姿はなかった。わたしはおそらく芝居が彼の好みに合わなかった、そっと立ち去ったのだろうと思った。ところが二・三分後、トロツキーは思いがけなくも舞台上に現われた。そして鮮かに道を開けた俳優たちの真中に進み出て、赤軍創立五周年を記念する短い、しかし進行中の場面にマッチした演説を行った。嵐のような喝采のあと、幕は何事もなかったように進行し、トロツキーは再び自分の桟敷に戻った。


「トロツキーがメイエルホリドの探求に真摯な共感を寄せ、精神的にたえず彼を支持していたとすれば、それは彼が高い教養の持ち主だったからである」(同書)と、一九二三年にトロツキーのばかでかい肖像(二・八四mx二・一三m)を描いて、後に「トロツキスト」と非難され亡命せざるを得なかった画家アンネンコフは書いているが、彼のトロツキーに対する共感はこの本に一貫している。それにしても、今日においてようやく一般化された演劇理論の柱、すなわち舞台と客席の距離を縮め、芝居を構成する上での観客の参加といった問題が、すでに半世紀以上前、メイエルホリドによって実践されていたのである。

一九二九年、党内闘争でトロツキーが完全に敗北し、国外へ追放されたとき、演劇における永久革命論者メイエルホリドの胸中はけっしておだやかではなかったはずだて。おそらく不吉な予感を十二分に察していたにちがいない。世界永久革命の目標を設定し、革命的芸術家の想像力をかきたて続けてきたトロツキーの敗北は、とりも直さず革命によって昂揚する芸術家の空想を押しとどめ、以後、マルクス主義全体を包みこむ壮大な想像力の涸渇へと歴史は進んである。トロツキー追放後十年の間はまだメイエルホリド劇場における彼の実験的な演劇活動は、モスクワ芸術座を拠点として古典的な演出に固執するスタニスラフスキーとともに首都の人気を二分しつつ安泰であった。メイエルホリドの悲劇は、一九三七年、まさにスターリン個人崇拝が絶頂期にさしかかる途上に始まった。

革命二十周年記念日にメイエルホリドの長い間の友人であり、よきライバルであるスタニスラフスキーの次のような文章が発表された。「同志スターリンは生活上の諸問題をかくも卒直、かくも誠実にとり上げ、かくも的確、かくも直截に解決します。同志スターリンはすべての生けるもの、進歩しつつあるものの真の思いやりある友であり、常にすべてを予見し、予知しうるのであります。なんと多くのものを彼はわれわれ俳優たちにもたらしたことでしょう!こうしたすべてに対し、感謝の意を表したい」。

これは明らかにメイエルホリド攻撃の伏線であり、内容のない最大級形容詞の羅列は、ほとんどスタニスラフスキー自らの意に反した発言であったことがうかがえる。四日後、『プラウダ』に「異質なる演劇」というメイエルホリド全面批判の論文が掲載され、まもなく芸術事業委員会によって、約二十年間にわたって演劇におけるあらゆる可能性を実験しつづけたメイエルホリド劇場は閉鎖されたのであった。一九三九年六月一四日、劇場演出家前ソ連邦大会の席上、自己批判を求められたメイエルホリドの演説をアンネンコフは書きとめている。

「遠からぬ昔、創造的思惟に沸き立っていたところ、芸術に携わる人々が探究と誤りの中で、しばしば躓き、脇道へ外れつつ仕事し、時として悪いものを、また時としてすばらしいものを想像していたところ、ほかならぬ世界最良の演劇が存在していたところに、今日では諸君のおかげで沈滞とお行儀よい算術平均的な恐るべき凡庸が支配している。これが諸君がめざしていたものなのか。もしそうならば、諸君は赤ん坊も一緒に流してしまったのだ。形式主義を狩り出しつつ諸君は芸術を殺してしまったのだ」。最後の演劇活動とも言うべき格調高いこの演説を、おそらく目と鼻の近さで聞いていたであろうスタニスラフスキーはどのように受けとめたであろうか。翌日、メイエルホリドは逮捕され、年が明けた一九四〇年、奇しくもトロツキーが暗殺されたこの年に銃殺された。

(記:1983.08.01)

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