以下、フクスマ県人会掲示板より
さて、泥炭氏が問うてきた、魯迅以降の現代中国文学というものは、わたすのばあいも、さっぱり知らぬ存ぜぬです。中国にもジャーナリズム(雑誌、新聞、出版)が存在するかぎり、小説や詩歌の需要はあるわけで、まるでないわけではないのでしょうが、日本語に、翻訳する人がいないのでしょうね。翻訳されない限り、わたしには、他言語文学は、無知蒙昧のままですし、そればかりか、わが国の現代文学(とくに小説)もまた、わたしはほとんど読みませんから、さっぱりです。海外のものでは、先日、「人の子 イエス」という本をめずらしく読了しました。この本には大いに感銘を受けました。その他、最近読むだものといえば、塩野七生さんの「ローマ人の物語」の中の何冊か。あとは小林秀雄や志賀直哉やプーシキン、ドストエフスキーなどの古い本ばかりです。おっと、そうだ。先日、阿川弘之の「山本五十六」(新潮文庫)を読みました。阿川によれば、連合艦隊司令長官たる五十六は、日米開戦を忌避したがっていたとのこと。かねてより海軍は、英国米国よりだった。おかしくなったのは、それまでの日英同盟を無視して、日独伊三国同盟を締結したあたりからだったとのこと。陸軍の野蛮さ、比して海軍の品位等々とうとう。なるほどと、思った次第です。
さて、「暁に祈る」という戦中に流行した名歌の歌詞に、「ああ傷ついた、この馬と、飲まず喰わずの日も三日」などというくだりがある。
http://www.youtube.com/watch?v=gindpIWQ1f0
これは大陸に進展した兵隊たちにとっては実際のことだろうと思われる。陸軍の現実である。おそらく海軍には、地に這うような、こうした直面はなかったように思われるのである。
陸軍の兵隊といえば行軍行軍だけだった。ザックを背負って、行けども行けども、なんのために歩いているのかせ、分からなかった。行った先で、たまたま出合った敵軍と鉄砲を打ち合って、なんぼものという次第だったのではなかったか。これが陸軍の一兵卒らに与えられた現実だったと、思うのである。
比してどうだ。海軍とは文字通り、海で戦う戦士たちである。もとより選抜されている。機械工、情報工作員、泳ぎが得意、その他いろいろ。何かそれらしい取り柄がなければ、海軍には入れなかった。じっさい、国防費の大半が、大戦艦を作りさえすれば、この大戦に勝利するとばかりに、大威張りだったのが、海軍の先見の明の暗さである。昭和17年ぐらいの国家予算の割り当てを見ろ。海軍が七割がとっている。陸軍は、相変わらずの人海戦術に明け暮れる。トーホグの農家の次男坊以下は、徴兵で集められ、一堂、菊のご紋の鉄砲もたせて、輸送船で大陸に送られ、次の日からは、歩け歩けの戦争だ。砂漠地帯を、おにぎり一つ持たせたままで、行軍行軍に明け暮れさせる。行けども行けども、なにもなし。
予科練?あれも海軍だ。特攻隊?ゼロ戦?
これら、いずれも海軍のしわざではないのか。
この際、言うが、わたすはわたすは、陸軍の田舎じみた愚直さが好きなのである。