赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

梅雨明けのスケートボード

2002年07月20日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
梅雨が明けたらしい。炎天下の中、今日もカメラを持って町に出た。今年度の最高気温を記録した昼過ぎの港区芝公園入り口。汗まみれになって、一人もくもくとスケボーで遊ぶ若者がいた。何度となくシャッターを切っていたのだが、見事に「板のひっくり返し」が決まった瞬間がやっと撮れた。
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あいつぐ定時制高校の閉鎖

2002年07月16日 | ■学校的なあまりに学校的な弁証法
次男の学校から手紙が来ていた。正確にはPTAの会長さんより保護者各位に出された手紙で、来る何日に臨時総会を予定したので参加されたしと書いてある。議題は一つ。次男の通う定時制高校は都立である。都知事・石原慎太郎どんの学校再編計画によって、この学校は数年後「お取りつぶし」になるらしい。ここは保護者一丸となって、知事室に乗り込むなり抵抗運動に打って出ようというわけか・・・。

でもないらしい。手紙を開封して失望を禁じ得なかった。みんなで集まって、ちょこっと意見をとりまとめ、ゆくゆく都あてに要望書を提出したいと、随分のんきなことを言っている。して、その話し合いのための臨時総会を開くむね・・・かくかくしかじか。株主総会でもあるまいに。まるで、他人事である。リーダーシップというものがあまりに欠けている。総会を開いたからといって、意見がまとまるものなのか。いままでのPTAのやり方を見れば、問題提起も結論もすべて学校教師が作っているという内情がある。教師の作った文案を保護者を集めて事後承認するだけなのだ。だから株主総会のようだと言う。教育の現場にしては、保護者の存在はまるで「教育的」ではない。対話もなければ討論もない。総じて話をしようとしないのである。それにしても、この手紙だが、この先学校がどうなるかというかつてない重大問題にしてはあまりに危機感がなさすぎる。招請状はよいのだが、まるで「自分たち」の意見が一行も見あたらない。やーめた。いつものように、しゃんしゃんしゃんで終わるのが目に見える。

学校がなくなるを逆説で語ってみれば、意外に、その時こそ子どもたちの自律の契機となるかもしれない。定時制高校というだけあって生徒の中には、すでに社会人であり成人である方たちが幾人もいる。なによりも彼らの意見をよく聞くことだ。まずは生徒、教師のせっぱつまった立場を尊重せよ。彼らが、別にせっぱつまっているわけではない、というなら、これ以上なにを詮索しても始まらないではないか。こうして頭の巡りの悪い私も、主役を演じるべき彼らに比べれば保護者の出る幕はずっと先の話で、当分やって来そうにもない、という結論にいたったわけである。

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ライスカレーを食する

2002年07月08日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
今日の夕飯はカレーライスならぬライスカレーを作ってみることにした。我が家でもカレーは定番で二週間に一度のわりで作るのだが、最近どうも美味しくない。後味がよくないのである。市販の固形ルウがいけないようだ。店頭には何種類かの固形ルウが並んでいるが、どれを使っても決まり切った味にしかならない。それに、なんとも了解できないのは、食後に食器を洗うときのあのぎとぎとの油である。これでは後味がよくなるわけがない。そこで今日は、ルウから作ってみることにした。レシピは、あの○○食品の昔ながらの赤い缶の横に書かれている。カレー粉といえば昔からこれだった。そう言えば、固形ルウが出回りはじめた頃ではないのだろうか。「ライスカレー」が逆になってカレーライスと呼ばれはじめたのは。

子どもの頃もカレーは好きだったが、私の母親はめんどくさがりだから、小麦粉を炒めてきつね色にする過程だけは省いていたことを思い出す。いつも糊みたいなカレーを食わされていた。今日も、あれぞ失敗の見本だと母親に反面教師になっていただき、これを重々念頭において、事をはじめたわけだった。さて、豚肉、タマネギ、ジャガイモを一口大にしたものを一緒に油で炒める。ついで別の鍋なりでタマネギをみじん切りにしたものをオイルできつね色になるまで丹念にいためる。焦げ付かないように気をつける。

みじん切りを炒めたものを先ほどの野菜と肉を炒めた鍋にくわえ水を適当に張る。具が見えなくなる程度か。これを煮込む。固形ブイヨンをいくつか。お好みの数で。これが唯一の味付けとなる。煮込む時間の目安はジャガイモに火が通るまで。同時進行でルウを作る。フライパンに大さじ2から3のサラダオイルを熱し、ここで適量の小麦粉を炒める。この量については難問だった。今夜は最初の挑戦ということでもあるし、いずれも目分量でやってのけた。さきほどのタマネギのみじん切りと同じように、焦げ付かないように丹念にかき回しながら、炒めていくとキレイなきつね色になってくる。ここでフライパンを火から上げ、カレー粉をまぜる。これもやはり目分量の適当主義。

ここにに先ほどから煮込んでいる鍋から適量のスープを移してきて、溶かす。粉が固まりダンゴ状になりがちだから、スープは大目がよい。小さなダンゴ状のものは気にする必要なし。これを鍋に一挙に入れる。すべての材料が一つにまとまった瞬間である。ルウがなめらかに全体に行き渡るまで一時、煮込む。ここで最後の味を調える。辛みが少なければカレー粉を追加する。ブイヨンがたりなければ追加する。少量の塩を入れてもよいかもしれない。久しぶりのライスカレーの美味だった。色はあの黄色いカレーである。めずらしいことで滅多にないことだが、今夜のライスカレーは家族一同から絶賛を博したのである。予想通り後味さわやか。鍋も食器も油のつきが少ないようで、全然ぎとぎとしていなかった。

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アカプルコが咲いた

2002年07月05日 | ■学校的なあまりに学校的な弁証法
アカプルコと言うのだそうな。どこから見ても色が違うだけで私には「百合」一般としか見えないのだが。これでも、昨夜はまだ蕾(つぼみ)だった。開きはじめたのは早朝5時ごろだったか。撮影したのは9時。少々加工して、ここにアップしたのは午後3時。植木類は先日養護学校からいただいてきたナスにしてもそうなのだが、我が家のベランダ育ちでは、咲いたり実をつけたりするまでに至らないで枯れていく場合のほうが多い。次男が大きな球根をバイト先から持ち帰ってきたのは、5月の連休後のことだった。店主からいただいたと言ったきり、幾日か食卓の端に転がっていたものを仕方なく私が植え付けておいたのだ。球根の大きさに比べて、鉢が小さすぎると、何も手を出さなかった妻から非難を浴びた。もちろん、再び植え替えることはしなかった。次男のバイトは週4日、地元の新聞販売店で明日の朝刊に差し込む幾枚もの広告チラシを一つにまとめる作業だと聞いていた。日によって労働時間が違う。やはり広告は週末に殺到するらしく、金曜日はなかなか帰ってこなかった。家にいる専業主夫としては、登校時間が気になって仕方なかった。昼夜逆転したままバイトに行って帰ってくる日などもあり、学校を休んだことも幾度かあった。それでもバイトだけは無遅刻無欠勤。頭が下がった。彼は、夏も最中に個人的な計画を持っていた。だから最初から2ヶ月だけの短期バイトにしたという。6月も半ばにさしかかって、いよいよ明日でおしまいというところで、店主から、せめて月末までいてくれないかと懇願されたという。それを振り切って、自分の公約を守った。夏に予定されている某検定試験を受験するのだという。そのためにベンキョしたいのだと聞かされては、ますます頭が下がるのみ。昨夜も遅くまでベンキョに励んでいたようだ。今日も昼頃起きてきてベランダに目をやりながら、「おう、咲いたか」となかなか男っぽい口振りなのである。

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▼小学校を訪ねる

2002年07月04日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
今日は梅雨の晴れ間がのぞいて、朝からそれはそれは暑い一日だった。わざわざこの暑さの中を50年近くも前に自分が入学した小学校を見てこようと思い立ったのは正直なところ感傷以外のなにものでもない。しいて他に説明できることと言えば、デジカメを手に入れたので、私が幼少時をすごした場所の写真を撮って来ようと思ったのだ。その小学校にはせっかく入学したにかかわらず1年生の夏休みごろまでしか通わなかった。以後、高校を卒業するまで、父の田舎で家族とともに暮らした。

学校から北に向かって5百メートルほど行くと私鉄の駅がある。踏切を越えて、1キロほど行ったところに都営のアパートが今でも、それは今でも、あるはずである。私は敗戦後3年目にして生まれた。父母の間の、複雑ないきさつがあったようだが、幸運にも新しい都営住宅の抽選にあたり、そこに入居できることになった。私が2歳になってからだ。これが事実上、夫婦の出発だった。父も大手の機械メーカーに工員として勤めはじめることが出来た。都営住宅だけは、今から10年ほどまえに見に来たことがある。その時は小学校まで足を延ばさなかったのである。

まず、この日は学校を先に見てこようと駅から歩きだした。学校は商店街のはずれにあって校名も昔と同じだった。駅からは5分ほどで着いてしまった。着いたときは、ちょうど昼まえの休み時間のようで、校庭のあちこちで子どもたちが、めいめいに好きなことをして楽しそうに遊んでいた。写真は正門の鉄扉の間からカメラを構えて撮ったものである。写真では切れてしまっているが向かって右側にも校舎がある。

私がこの学校に入ったのは戦後も10年目である。当時の校舎は木造だった。入学式の写真がどこかにあるはずだ。戦後のベビーブームで急遽(きゅうきょ)建造された学校の一つであったらしい。ごらんのように今は、鉄筋コンクリートの校舎に変わっていて、どこを見渡しても記憶にござりませんで懐かしい気持ちも、さらさらわいてこなかったけれど一つだけ、かすかに覚えていることがあった。それは校庭を二分するようにそびえているケヤキの並木である。帰宅して、改めてこの小学校のホームページを開いてみると、学校創設以来の校庭のケヤキ並木が自慢らしく書かれてあった。

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