漢 武帝(紀元前156-87)
秋風起こりて 白雲飛び
草木黄落して雁 南へ帰る
蘭に秀有り 菊に芳有り
佳人をおもひて 忘るる能はず
樓船をうかべて 汾河をわたり
中流をぎりて しろき波を揚げ
簫鼓鳴りて 櫂歌がおこる
歓楽極まりて 哀情多し
少壮幾時ぞ 老いをいかんせん
図書館から電話があったのは先週の金曜だった。「○○図書館です」の第一声で、ピンときた。やはり借りっぱなしになっていた音楽CDの返却催促だった。返却期日を二週間も過ぎていた。ところが催促されたにもかかわらず、まだ返そうとしない私がいけない。金曜日も土曜日も行きそびれて日曜日になってしまった。ちょうど長男がバイトにでかける身支度中だったので、ついでに返してきてくれるよう声をかけたら引き受けてくれたのだ。
図書館までは長い坂を上(のぼ)っていかねばならず、考えただけでため息がでる。催促の電話がかかってきてしまうのは、なによりこの坂が邪魔している。借りてくるときはそりゃ気分がよい、坂を下ってくるだけだから。用済みの図書やCDをぶら下げてだらだらと坂を上っていく苦労を考えると、ついつい借りっぱなしになっちまう。
さて今回借りていたものは一番に愛好しているクラシック曲であるバッハの『マタイ受難曲』。それも名演奏の誉れ高いカールリヒター指揮のものである。すでに何度も何度も同じものを借り出している。なにか新しい音楽はないかと図書館に入って物色してもめぼしいものがないときには、やはり『マタイ受難曲』に手が伸びる。この曲ばかりは何度聴いても同じように心にしみてくる。通して聴くと4時間近くかかる大曲で、CDも3枚組。これを妻子のいなくなったスキを狙うようにステレオのボリュームを目一杯に上げて半日聞き惚れる、至福の時間。
カミさんが意外に早く職場から戻ってきたときなどは、あわててボリュームを下げる。小さな音で聴くから許してねと、私としては哀願しているつもりなのだがクラシックを毛嫌いしている彼女にこの気持ちは伝わらないようだ。もうしばらく我が身を「受難」まみれにしておきたいと思っているのに、彼女はTVのリモコンを取り上げスイッチを入れバッハなど腹の足しにもならないわ、とばかりにTV音量をどんどん上げてせっかくの「受難」の快感を台なしにしてしまう。残る方法はヘッドフォーンでも耳に当てて聞くしかないのだが、ここまであからさまに好みを否定されにかかっては、とても観賞するどころでもなくなり、しかたなくステレオアンプのスイッチを切る。そしてカミさんの顔色をうかがいながら、いそいそと夕飯の準備にかかる。まずは皿でも洗うかという次第、または逃げるように買い物に出る。
さて、冒頭で述べたように長男に図書館に行ってもらったのは昨日のこと。今日になって別の音楽を聴こうとCDプレイヤーのトレイを開けてみると、なんと返したはずのマタイ受難曲の1枚が中に入ったままだったのである。CDの場合、よくこれがある。図書館に行ってから中味が入っていないことが発見される。よくあることで係りの人も心得ている。にやりとしながらケースを押し返してくる。そこで、長男に「返す際になにも言われなかったかい」と聞いてみた。チェックされたがOKだったとのこと。さすれば係員は2枚組だと思いこんでいたらしい。これで問題なしとして棚に並べられ、誰かが疑問なく借りていっては音楽的に困った話になる。
2枚組の「マタイ受難曲」がこの地域に限って流通してしまっては、誰よりセバスチャン・バッハに申し訳がない。急いで返して来なければとは思うのだが、またあの坂のことが頭に浮かぶ。とりあえず伝えておこうと思って図書館に電話を入れると、今日は月曜日の定休日。留守電が明日こいと言う。地域におけるバッハの復権という大義名分を果たすためにも、少々面倒なのだが明日こそ自分で坂を上っていくつもりである。
<2002.05.20記>
一昨日は、鎌倉に遊んだ。さんざんに歩き回った。下の弟に誘われた芝居を観るためなのだが、それは夜からで鎌倉は久しぶりのことでもあるし、せっかくだからあちこち見物してこようと、昼を少し回ったところで電車に乗って向かったのである。二時間もかからない。
まず北鎌倉駅で電車を降り東慶寺にあると聞く小林秀雄の墓を訪ねた。東慶寺は「かけこみ寺」という異名が示すように明治になるまでは尼寺だったそうだ。たたずまいがよい。こけ脅かしのような大きな山門もなければ、参道のわきの木立に隠れるようにこじんまりお堂がいくつか並んでいるだけである。
その参道の突き当たりから山肌に向かって墓地が広がっているのだが、これが結構広いのである。この中から小林秀雄の墓を見つけることができるだろうか不安だったが、ざっと一通り見て回って、それでも分からなければ、寺の人に聞いてみようと思い墓地に入っていったのである。
だが、それは杞憂だった。最初の角を入ったところに、それはあった。あったといっても「小林家」と彫られた小さな石塔が建っているだけで、墓石の横を見ても、後ろに回っても、文字というものは一切なかったのである。何かの本で、写真を見たことがあったのだ。
墓石代わりに丈1mにも満たない五輪塔がおかれている。それだけだ。その五輪塔のことは小林自身が、どこかに書いていた。生前、京都の骨董屋で見つけ気に入って買い求め自宅の庭先においてあったものだと言う。古めかしい石細工は、かわいらしく、ひときわ趣があった。それで、これが間違いなく小林秀雄の墓であることを、確信したのである。
帰りがけに社務所の受付の人に聞いてみると、まさしく私が見てきた、それが小林秀雄の墓であると言ってくれた。その方は、いかにも小林さんらしいでしょうと、付け加えられた。
亀が谷切通しを通って山を超え、鎌倉市中に入って、若宮大路や小町通りを行ったりきたり。路地という路地を歩き回った。そのうち腹がすいてきたので、由比ガ浜に出て海を見ながら弁当を食べようと考えた。コンビニで「いなり寿司」が3個だけ入っている小さな詰め合わせと缶ビールを買って浜にむかった。
北鎌倉に降りたときから気がついていたのだが、空を回遊しているトンビがやたらに多い。緑濃き山肌のあちこちでカラスとトンビが空中で喧嘩していた。ところが体はトンビのほうが大きいのだが、カラスのほうが気が強いようで、トンビが追い回されていた。
由比ガ浜に着くと、さっそく弁当を開けたのである。浜に出るときから、いやにトンビが多いことは気がついていた。たくさんの人が砂浜で遊んでいたが、その頭上を数十羽のトンビが空遊しているのはなかなかの壮観である。カラスの多くは浜に下りて地面をあさっていた。
手ごろな浜に腰を下ろして体の左側で弁当を開いた、そのときだった。あっという間もなかった。私の弁当が盗まれたのである。バサっという音がしたように思う。だが瞬間だった。鳥の羽のようなものが弁当のはしをつかんでいた左手に触っていった。黒いものが弁当と私の手に押しかぶさったと思ったら、もういなり寿司が消えていた。
三個のうちの一個がなくなったいた。これ以上とられてはたまらないと思い、あわててトレイを膝を立てた、その下に隠した。そうして股の間から手を入れて、大急ぎで残った二個のいなり寿司を口に突っ込んだのである。
いなり寿司を口にほうばったまま、背後を振り返ってみればカラスが山となして、とびかからんばかりに私に視線を集めていた。それこそ鎌倉中のカラスが集まってきたのかと思うほど、黒山をなしていた。頭上をみれば、頭のすぐ上を、トンビの群れが回遊していたのである。恐怖だった。食べ終わるやいなや、いなり寿司が収まっていたトレイとビニール袋をすばやくリュックに収めた。
それでやっと彼らもあきらめがついたようで、一連の恐喝行動を解散したのである。それにしても鳥がごときに、せっかくの昼飯を分捕られては男の面子が廃るというもの。返す返すも口惜しい鎌倉弁当事件の顛末ではあった。
帰宅してインターネットで検索してみると、由比ガ浜でトンビに弁当をさらわれた話がぎょうさん書かれてあった。だが人が怪我をした話はひとつもなかった。それにしても見事なトンビの早業である。他に危害を加えずに狙った獲物だけは確実にものにする、その技たるや感心するほどだ。
トンビは鎌倉名物であり、トンビが油揚げをさらうのは、由比ガ浜名物であるらしい。私が知らなかっただけのことなりや。
大海の 磯もとどろに 寄する波 破(わ)れて砕けて 裂けて散るかも・・・源実朝
<2007.05.04記>