赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼秋風の辞

2008年09月18日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

      漢 武帝(紀元前156-87)

  秋風起こりて 白雲飛び
  草木黄落して雁 南へ帰る
  蘭に秀有り 菊に芳有り
  佳人をおもひて 忘るる能はず
  樓船をうかべて 汾河をわたり
  中流をぎりて しろき波を揚げ
  簫鼓鳴りて 櫂歌がおこる
  歓楽極まりて 哀情多し
  少壮幾時ぞ 老いをいかんせん
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▼残暑<20>

2008年09月13日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法
今日は日曜日で、さすが仕事熱心の拙者も休みである。カメラをぶら下げて、朝の散歩としゃれこんだ。商店街のなかほどで、今季、はじめてシジミ蝶を写すことができた。体長1センチの小さな蝶で、目立つこともないのだが、こうして大写しにしてみると、やはり蝶である。羽の文様が美しく見栄えがしてくる。
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▼新橋古本市

2008年09月12日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
先日、新橋駅に降りたら駅前で古本市が行われていた。私の場合、いつものことだが古本市ともなれば読みもしない本をあれもこれもと衝動買いに走りがちなので、前もって気持ちと財布の紐を締めておかねばならない。それが幸いしたのか、おかげでこの日、購入した本は「現代短歌手帖」と題された一冊だけだった。

新書版を少し大きくした程度のかわいらしい造本である。奥付を見ると「木俣 修 (著), 安田 章生 (著) 昭和43年発行 創元社」とある。古い本だ。昭和43年といえば、わたしが二十歳のときである。あしかけ40年が経っている。大切に読まれまた保存されていたらしく、それほど古さを感じさせなかった。

見返しに野村○○子と署名してあった。本を所有されていた方のお名前だろう。さらに中ほどに、しおりか何かが、はさまっていた。

はさまっていたものは、しおりではなく、新聞の切り抜きが四つに折りたたまれたものだった。その紙片の間に写真が一枚、挿入されていた。60歳は超えていると思われる女性の笑顔が写されていた。名前を思い出せないのだが、昔よくTVで拝見した女優さんにとてもよく似ている、きれいな人である。

その人が署名されていた野村さんかどうかは知らない。野村さんのお友達ということも考えられる。新聞の切り抜きを開いてみると、日付があって、昭和43年11月とあった。よく見れば新聞というより、なにか団体の会報のようであった。記事を読んでみると、同じクラスの何々さんが、なくなられたことを知り、安らかならんと追悼の念を投稿されている、そうした記事だった。投稿されている方と、または亡くなられた方と野村さんがお知り合いだったということかもしれない。

記事には、亡くなられた方の略歴が書かれてあって、そこから類推するに、とある師範学校(女子)をともに卒業され、戦後ずっと教職についてきた方であるらしい。切り抜きは、その学校の同窓会の会報なのである。

野村さんが、ご健在ならば、齢いくつになられるだろうか。その後、野村さんは亡くなられ、家の人なりが、野村さんのご本を処分なされたのだろうか。写真の笑顔は、何も語ってくれてはいない。

その本は、タイトルにあるように、明治以降の歌人による秀歌が、たくさん収録されていて和歌入門書の趣がある。私は少し前から寺山修司の短歌が好きになって、よく読んでいる。その他の短歌なども知りたくなって古本市でたまたま同書を見かけ入手した。いくつかの歌の冒頭に鉛筆で○印が記されていた。

○うすべにに葉はいちはやく萌えいでて咲かむとすなり山桜花・・・若山牧水
○沈黙のわれに見よとぞ百房(ひゃくふさ)の黒き葡萄に雨ふりそそぐ・・・斉藤茂吉
○梅のこずえに夕月が見え歩み来て松のこずえに夕月が見ゆ・・・柴生田稔


<2007.05.31>
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▼「無知の涙」 永山則夫

2008年09月12日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

永山則夫が刑死して10年がたった。私には永山という男が、いかなる人物だったのか仔細に調べたこともなく、おおくの部分がいまだに謎だが、この年にいたるまでなにか、のっぴきならない存在として、常に身近にあって、ずっと気になっていた。かと言って彼の書き残した本などもまともに手に取ったこともなかった。彼の真実に触れることをためらっていた。

永山の実情にふれることは、なにか空恐ろしい事実が当方にまで、突きつけられるようで怖かったのだ。それで彼の本なども、見て見ぬふりをするように遠ざけていたのだろう。永山は私に半年遅れて、この世に生まれてきた。彼が、列島を縦断するように次々と4人を銃で殺してしまった事件が起きたのは、私が田舎の高校を卒業し、東京にきて働きだしてまもなくのことだった。

学園紛争すさまじき頃だった。しばらく犯人は捕まらなかった。永山が逮捕されのは、次の年だった。東京の繁華街に潜伏しているところをつかまった。そのとき彼は19歳だったか。私は二十歳になっていた。4人も殺したのだから死刑にされることは疑いもないことだったが、しばらく世間は彼のことを忘れていた。

再び彼がメディアの脚光をあびたのは、獄中で勤勉に励み「無知の涙」という本を書き上げたことである。このタイトルには、永山の一世一代の根性が発露していた。副題に「全国の中卒集団就職者へ」とか、あって、上昇志向にあった私は、彼の本と、予想される彼の主張を、ますます遠ざけた。獄中で資本論の全巻を読了したと自慢している言葉が、まことしやかに流されてきた。

わたしなどは冒頭部分だけを読んで、後は手に負えず放り投げてしまった、その資本論をである。永山は資本論の読了から勇を得たのか、自分の犯した罪は、すべて「貧乏」がさせたものだと言い放ったのである。当然のこと、世間は賛否両論に分断された。そうであるような、そうとも言えないような。永山の主張は、非常にわかりやすい理屈だったし、共感も呼んだが、それでもなお、わたしにはよく分からなかった。

貧乏が人を殺すなら、貧乏では人後におちない私もまた、一人二人殺していたかもしれない。永山の資本論学習は、永山に自己弁護の論理を与えただけではなかったのか。それが永山則夫死刑囚に対する私の結論である。永山に死刑の判決が下ったのは1990年だった。執行されたのが97年。享年48だった。

<2007.03.12>
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▼ヴォーカル大好き<マタイ受難曲>

2008年09月12日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

図書館から電話があったのは先週の金曜だった。「○○図書館です」の第一声で、ピンときた。やはり借りっぱなしになっていた音楽CDの返却催促だった。返却期日を二週間も過ぎていた。ところが催促されたにもかかわらず、まだ返そうとしない私がいけない。金曜日も土曜日も行きそびれて日曜日になってしまった。ちょうど長男がバイトにでかける身支度中だったので、ついでに返してきてくれるよう声をかけたら引き受けてくれたのだ。

図書館までは長い坂を上(のぼ)っていかねばならず、考えただけでため息がでる。催促の電話がかかってきてしまうのは、なによりこの坂が邪魔している。借りてくるときはそりゃ気分がよい、坂を下ってくるだけだから。用済みの図書やCDをぶら下げてだらだらと坂を上っていく苦労を考えると、ついつい借りっぱなしになっちまう。

さて今回借りていたものは一番に愛好しているクラシック曲であるバッハの『マタイ受難曲』。それも名演奏の誉れ高いカールリヒター指揮のものである。すでに何度も何度も同じものを借り出している。なにか新しい音楽はないかと図書館に入って物色してもめぼしいものがないときには、やはり『マタイ受難曲』に手が伸びる。この曲ばかりは何度聴いても同じように心にしみてくる。通して聴くと4時間近くかかる大曲で、CDも3枚組。これを妻子のいなくなったスキを狙うようにステレオのボリュームを目一杯に上げて半日聞き惚れる、至福の時間。

カミさんが意外に早く職場から戻ってきたときなどは、あわててボリュームを下げる。小さな音で聴くから許してねと、私としては哀願しているつもりなのだがクラシックを毛嫌いしている彼女にこの気持ちは伝わらないようだ。もうしばらく我が身を「受難」まみれにしておきたいと思っているのに、彼女はTVのリモコンを取り上げスイッチを入れバッハなど腹の足しにもならないわ、とばかりにTV音量をどんどん上げてせっかくの「受難」の快感を台なしにしてしまう。残る方法はヘッドフォーンでも耳に当てて聞くしかないのだが、ここまであからさまに好みを否定されにかかっては、とても観賞するどころでもなくなり、しかたなくステレオアンプのスイッチを切る。そしてカミさんの顔色をうかがいながら、いそいそと夕飯の準備にかかる。まずは皿でも洗うかという次第、または逃げるように買い物に出る。

さて、冒頭で述べたように長男に図書館に行ってもらったのは昨日のこと。今日になって別の音楽を聴こうとCDプレイヤーのトレイを開けてみると、なんと返したはずのマタイ受難曲の1枚が中に入ったままだったのである。CDの場合、よくこれがある。図書館に行ってから中味が入っていないことが発見される。よくあることで係りの人も心得ている。にやりとしながらケースを押し返してくる。そこで、長男に「返す際になにも言われなかったかい」と聞いてみた。チェックされたがOKだったとのこと。さすれば係員は2枚組だと思いこんでいたらしい。これで問題なしとして棚に並べられ、誰かが疑問なく借りていっては音楽的に困った話になる。

2枚組の「マタイ受難曲」がこの地域に限って流通してしまっては、誰よりセバスチャン・バッハに申し訳がない。急いで返して来なければとは思うのだが、またあの坂のことが頭に浮かぶ。とりあえず伝えておこうと思って図書館に電話を入れると、今日は月曜日の定休日。留守電が明日こいと言う。地域におけるバッハの復権という大義名分を果たすためにも、少々面倒なのだが明日こそ自分で坂を上っていくつもりである。

<2002.05.20記>

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▼詩人の誕生<中野重治>

2008年09月12日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
高等学校(旧制)へ来てみるとまわりはことごとく文学少年たちであった・・・私は若山牧水を読み、伊藤左千夫を読み、尾山篤二郎を読み、斉藤茂吉を読み、長塚節を読み、正岡子規を読み、木下利玄を読み、北原白秋を読んだ。また茂吉の「短歌私抄」などから発して源実朝を読み、平賀元義を読み、僧良寛を読んだ。同時にはじめて室生犀星の詩を読んだ。それは出水のようなものであった。ある日、私は「カラマーゾフの兄弟」を買ってきて読みはじめた。そして飯を食って読み、寝床へはいって読み、あくる日起きて読み、朝飯を食って読み、昼飯を食って読み、こうして新潮社の三冊本を読み終えるとその足で「罪と罰」を買ってきて同じ手順で読み、それがすむとまたその足で「賭博者」を買ってきて読んだ。そういうなかで室生犀星の「抒情小曲集」を読んだのであった。それは実に不思議な本であった。

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても
帰るところにあるまじや・・・


上は、中野重治の「日本詩歌の思い出」という題を持つ自分が若いころに影響を受けた日本の詩歌のことを書いている文章の一節である。もちろん詩としての作品ではなく、エッセイとしての文章なのだが、上の文章など、まるで詩になっている。わたしは、中野のこうした文章が好きなのである。都会的ではないのだが、古風な勢いがあって、言葉が、十分に歌われている。読んだ読んだと畳み掛けるような語呂並べは、韻が踏まれている。

同様の手法は、中野の書いた別の文章でも見たことがある。そこでは木の名前がずらずらと並べられていた。自分は田舎で育ったが、さほど木の名前を知らないと断りがあったと思ったら、次の行から、いきなり、杉、松、桜にひのきにかえでやえのきに始まって二十も三十もの木の名前が勢いよく並べられていた。そこだけ取れば、それだけでも詩になっていた。

ただし、この文章には、中野特有のいくつかの思想的な問題がありそうなのである。文学というものは、読者として自分が好きなら、問題はなにもない、というわけにもいかない。私の感動も時とともに流動している。歴史とともに時間とともに感動はもろもろの条件が介入されてきて、感動も単純には諒解できずらくなる。だが、中野の文章に問題があると、わたしがそう言っても、それは、かならずしも作品の欠点をあげつらうということではないだろう。たしかに問題がありそうだと気がついたが、私にはまだ何も明確にはなっていないのだ。

うっすらと感じることは、上記の文章には感傷があるということだ。センチメンタルなのである。中野重治に特有の、詩歌や文学や知識というものに対する、ある種の感傷的なこだわりが、しのばれてくるのである。それ以上のことは、今のわたしには言えない。

繰り返すが、そうした疑念があるにもかかわらず、私は中野重治の上のような文章が好きでならないのである。このエッセイは次のような、これまた感傷的言辞をもって閉じられている。

(こうして)私は針で刺されるような思いで「詩を書きたい!」と思うのであった。

<2007.07.08>
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▼文章を書くという日常

2008年09月08日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
当サイトを発足させておおよそ半年がたった。始めたのは新年が明けて10日ほどたってからだった。以来、どのくらい真面目に記事を掲載しているかを数えてみたら、今年だけで110件ほど書き込んでいるのである。二日に一件強は書き込んでいるということだ。こんな調子で行けば、今年の終わりには200件ほどにはなるだろう。さらに何事もなく後5年がたてば記事は1000件を数える。

記事一件あたりの文字数を平均すればどのくらいになるだろうか。仮に原稿用紙3枚ならば5年後は約3000枚ということだ。5枚なら約5000枚。さらに10年となれば、記事総数は2000件、原稿用紙で約1万枚ということになる。

わたしの文章など自慢できることはなにもないのは分かっているが、自分が原稿用紙で何枚書いたかと換算してみるのは、いつでもうれしいものだ。ま、こうした都合のよい計算を「取らぬ狸の皮算用」と言うのかもしれない。

いつまで健康を保持していけるかどうかが肝心なところだが、10年たてば70歳になっている。それ以降のことは、そうそうに期待はできないだろう。いよいよ目も悪くなり、頭も鈍ってくるに違いない。近年中に、なにか大病がやってくるような予感もないではない。いずれにしても方法論よりは、コツコツと続けることが大切だ。この年になって、やっとそんな簡単なことが骨身に沁みて分かってくる。

ただし、何をどのように書くかということについては、先日友人からも指摘された通り、文学についてわたしには、なに一つはっきりと、これだと言えるものはないのだ。実にあっけらかんたるものである。計画もない。何事も無計画なのは、いつものことで自分でもあきれるほどだ。わたしは計算が出来ないのである。さきざきのことは何も読もうとしない。読めない。読みたくないのだ。自慢にはなるまいが、自負はある。いつだって出たとこ勝負でやってきた。

かろうじてぼんやりと見えているのは、これまでも何度か試みたとおり、田舎で過ごした自分の子ども時代の回想である。すでに半世紀もたった昔のことだ。よく老人たちが口をそろえて言うことでもあるが、年をとればとるほど子どもの頃のあれこれが懐かしく、ますます、鮮やかに思い出されるのは、どうしてだろう。その不思議さを、ぼちぼちと書いてみたいと思っている。

昔の記憶は断片的に思い出される場合が多い。実際、断片として記憶されているのだろう。よく思い出されるシーンも前後の文脈が矛盾していたり、整合していない場合が多い。

これをつなげるのが文章を書く意味でもある。書いて見なければ、断片はつながらないし、書いて見なければ記憶も広がらない。書いてみなければ何も分からないのだ。書くために、よくよく思い出してみれば、また新しい記憶がよみがえるということもある。結局、断片以上には、分からなくても、断片は断片として書いておくだけでも、気持ちはおさまる。自分を納得させるためにも、人は文章を書くのである。

人の故郷買ひそこねたる男来て古着屋の前通りすぎたり・・・寺山修司

<2007.06.16記>
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▼2ちゃんねる賛歌

2008年09月08日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
一週間ほど前の夕刊を見た。今年4月から9月までのたった半年の間に全国で、現場から追い出された教師がなんと200名近くにのぼっているという。端的に言えば学校で大規模なリストラが始まっているということである。対象者が教育労働者としての教師だけなら、教育問題の本質には届かない。こうしたことが子どもたちに、どのような環境的影響を与えてしまうかが問題なのである。当然、事は教師の選別だけではおさまらないし、おさまるはずもない。この問題も最近騒がれている子ども達のいわゆる「学力低下」とセットにして考えてみると、学校教育がどこに向かおうとしているのがよく分かる。

さて、本日で2002年も終わりとなった。夕方近くになり一駅向こうに開店したお酒のディスカウントショップにリュックを担いで正月用の飲料買い出しに出かけのである。リュックの中には清酒一升瓶が2本、焼酎4リッター入りペットボトル、缶ビール半ダース、炭酸飲料水1リッター2本。その他洗剤各種等々が詰まっていてゆうに20キロはあった。20キロを担いでも写真は撮れるだろうと思ってカメラを構えてみたところである。来年も様々な負荷は予想されるものの、抵抗心を養いさらに、こんな調子で撮りまくってみたいものだという心意気である。

さて、今日は今年最後の日でもあり、ネットで知り合えた、たくさんの舎弟連中に対していろいろとお説教をしておきたいあれこれが山積している。その他、感慨も尽きない。思えば不登校関連の掲示板などを中心にネットで発言し始めてはや6年が経つ。中でも今年ほどネットの醍醐味を満喫させていただいた年はなかった。それはなにより春より天下の「2ちゃんねる」に参入してみた結果、どこの馬の骨とも知れぬ「名無し」諸君らと、ああでもないこうでもないと言葉による手練手管の駆け引きに満ちた応酬ができたことに尽きている。大したノウもない私ごときの相手になってくれた「2ちゃんねら」諸君に、まずは感謝の気持ちを伝えたい。してまた明日からもよろしく頼む。

<2002.12.31記>
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▼宿命について

2008年09月08日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
子どもは親を選んで生まれてくるわけではないと云う殺し文句がある。私など還暦を迎える、この年になっても、この言葉に含まれる否定しがたい真理は実際その通りだと痛感するばかりだ。

宿命という言葉がある。親が決まっていることも宿命のひとつといえる。この世に生まれてきたという事実に宿命のすべてがありそうだ。親が決まっているということは、国が決まっているということだ。自分が今後、生きながらえるために享受されるべき、おおよその土地や自然環境が決まってくる。なにより言葉が決まってくる。これが母国語となり、自己に及ぶ人生と社会生活のいっさいを左右する。人は言葉を得て人になる。

言葉にこそ、命と心が宿る。言葉を獲得するということこそ「私が社会化」される過程に他ならない。私にとって社会など、別に難しい話ではないのである。わたしに言葉がある以上、すでに十分に私は社会化されている。こうして自分という生き物が、一個の固有の人間として生涯を一貫させていくことができるのである。

私の場合、親も土地も言葉も、日本という地勢と歴史に、収斂されている。この国の中にいて、親からいただいた日本語を使っていて、いまさらわが身が幸福か不幸か、などという批評はおこがましいのである。幸福でなくて、どうして、この年まで息災に生きてこれたのか。

わたしを生かさせてくれているすべての因子が間違いなく日本という概念にこめられている。この概念は歴史と伝統から成っている。理解しようとするまいと、「私」を生かさせてくれているものは伝統であることに間違いないだろう。伝統こそ、今に至って「私」の命を補佐してくれているのだ。言語を主とする伝統がなかったら歴史を感じることは不能となる。教育などという制度向きの話は別にしても、伝統がなかったら、わたしたちは言葉を得ることすら出来なかった。

何語でもない「言語」というものはあるかも知れないが何語でもない言葉は、ありえない。さらに、この世には、あらゆる言語で説明できるような普遍的な「命」も「心」もないのである。もちろん何語でもない歴史もない。わたしの歴史はかならず、日本語で開陳されなければならない。それはわたしの特権かもしれないが、宿命でもあるのだ。

だからといって誤解しないでほしい。わたしは民族などというものはハナから信用していない。大和民族などという概念は眼中にもない。それを云うなら、やはり「大和心」というべきだろう。上でも云ったが、わたしの心は日本語によってかなでられる歴史と伝統のことに他ならない。

宿命に左右されている心など、全く自由ではないという疑心がわく。宿命とは自由の反語ではないか。だが、よく考えてみたまえ。私の心から、宿命らしき烙印を、あくまでも削り取っていくとするなら、もうそこには、自由どころか、心らしきものの一片たりとも残されていないだろう。

自由もまた宿命の範疇にある。自由とは何か。どこに行けば、わが自由の位相が見えてくるのか。自由もまた心の問題ならば、心の外にあるわけはない。私の場合など、せいぜい日本語を駆使して探しにいかなければならないのである。自分の心の内奥に向かって。

わが息もて花粉どこまでとばすとも青森県を越ゆる由なし・・・寺山修司

<2007.06.27記>
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▼同級生MとMの父

2008年09月08日 | ■学校的なあまりに学校的な弁証法
古い一枚の写真がある。中学一年の遠足だった。バスに乗って筑波山に行ったと覚えている。

写真は、小さな兵隊のようにクラスのみなが真新しい学生服(当時は遠足の時に新調した)にリュックを背負い水筒のヒモをタスキがけにしている。行列の中ほどで、私が同じクラスのMと手をつないでいた。わたしはカメラを前に緊張してしまったのか、どうも仏頂面で写っていた。逆にMは、いつものようにこぼれんばかりの笑顔だった。

Mと私は仲良しだったのだろうか。それほどでもなかったように思うのだ。Mはクラスでも際だって小柄だった。彼の次にチビだったのが私だ。だから教室での席順も行列するときもだいたい隣にMがいた。さて、この写真でなぜMが「こぼれんばかりの笑顔」で写っているのか。写真を撮ったのが彼の父親だった。Mは町の写真屋さんの息子だった。

私の手元にある写真は、プライベートに息子を撮ったもので、たまたまMと手を繋いでいた私にも一枚くれたというわけだった。Mの父親は学校の専属だった。式のある時にはかならず学校に来たし遠足や修学旅行にも機材を抱えて同伴してきた。ちょび髭なんか付けて、大柄でカッコよかった。いつもちょこまかしているMとの落差が大きすぎて、親子とはとても思えなかった。集合写真を撮った後で三脚を折りたたむ時の、パシッという音が今でも耳について離れない。いずれにしてもMの自慢が父親だった。

卒業を間近にしたある日、昼休みでもあっただろう。進路の事を級友どうしで雑談していた。当時すでに7割が高校進学するような状態だった。私が記憶している限りでも進学しない子はクラスに2,3しか数えられない。私は迷っていた。進学するともしないとも自分ではっきりできない気持ちだった。親やら教師が行けというから、それに級友のほとんどがそうするようなので、そうする以外にないという状態だった。小さい頃から、就職していくことは「丁稚奉公」に行くというイメージが植え付けられていて働に出ることは恐かった。

この時の雑談は、卒業も間近に迫ってきているのだし、この際それぞれの進路をはっきり述べ合うというような雰囲気だった。昼休みの教室で4,5人が輪になってなんとなく、そんな話に移ってきてしまったのだ。話はそこにいた全員が地元の高校の入試を受けるという事だった。「おめえもか、おれもだ」という具合に承認しあい、せめてわけの分からない不安を和らげていたのだろう。私も適当に相づちを打っていた。

今から思えば、むしろこの時の雑談によって「みんな○○高校に行くなら、おれもそうする以外にない」と心を決めたように覚えている。その時、教室にMが入ってきて輪に加わった。誰かがMに聞いた「おまえは、どうするんだ」。Mは答えた。「おれは、とうちゃんが写真を教えてくれるって言うから、高校には行かねんだ」。Mはいつもの「こぼれんばかりの笑顔」でそう答えた。私は不思議だった。どうしてそれほど自信たっぷりに進学しないと断言できたのか。

あの大きくて立派な父ちゃんが、何故息子を高校 へ入れてやらないのだろう。これがずっと分からなかった。今になって分かる。Mは幸せだったのだ。私は地元の高校を終えて都会に出てきた。十年ほどたって中学校のクラス会があった。Mは来ていなかったが消息は聞けた。数年前に父親が亡くなり、その後Mが写真館を継いでいるとのことだった。

<記:1999/11/21> 
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▼美とは発見である

2008年09月08日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
青山二郎は次のように言った。

優れた画家が、美を描いたことはない。
優れた詩人が、美を歌ったことはない。
それは描くものではなく、歌い得るものでもない。
美とは、それを観た者の「発見」である。


青山の言葉は、文学的価値や芸術的価値は作家や芸術家によって生み出されるものだという通念に反しているが最近、わたしはつくづく青山の言うとおりだと思うのである。美というものは芸術家の個性と手腕から生み出される作品に、おのずと内臓されていると考えられがちだが、青山は違うことを言っている。そこに美はないと断言している。

どのような偉大な芸術家であろうと、彼らから生み出される美などほとんど何もない。少なくても作品そのものの中には無い。仮に、ここに一冊の芸術作品と呼ばれる大小説がある。寡聞にして、わたしは読んだことはない。とするなら、この一冊の文芸作品に、一片たりとも美は有り得ない。

青山の言う「観た者」とは文芸に置き換えれば読者のことに相違ない。美醜の発見は、あくまでも読者個々の内心の問題である。であるなら、読者が吟味を尽くして、まずは読んでみない限り、美は、どこにも生まれてき来ようがない。青山は、それを言っているのだろう。

創作者は美を作っているのではない。小説も絵画もたしかに製作者というものがいて、彼らによって作品は生まれるだろうが、彼らは形を作っているのだ。形と美は概念の異なるものである。まれに、ほんのまれに一致する。それが発見の妙味であろう。発見するのは読者である。雲の上にいる小説家様ではなく、生活に追われている「私」である。

私はいつか文学もまた歴史的なものだと法螺を吹いたが、これも同じことだ。作家は自分の書き記した文章や物語が世間に対して、どういう価値がどれぐらい存在し、それがどのように受け止めらているのか、などということは計れるものではない。

見えていないのは作家ばかりではない。同時代の読者などには、何も見えないのである。目の前にある作品が傑作であるか愚作であるかなど計れるわけがない。われわれには、はかりが無いのである。美や芸術的価値には基準がないからである。数値を持っては測りがたいものなのだ。

これはまた文学とか作家の問題には限らない。人間の命とか人生というものが元来、数値に置き換えられるものではないからだろう。人生といい、生活といい、それこそ熟慮に熟慮を重ね吟味した上で万全に送っているなどという人がいたら、それは一種の病気である。人生や生活というものは、出たとこ勝負だ。生というものは、それが終わるまで、あらゆる偶然が織り交ざった交接点の上のたまたま輝いている偶然のなせる業である。神のみぞ知るとは、すべてに通じる本質的な達観である。

自分の一挙手一投足のいちいちの正邪当否を立ち止まって考えている人がいるだろうか。これでは人生は台無しである。だれも人生の結果を見て、生活しているわけではない。生活とは現在進行形の、観念なしの哲学である。実践である。自分という人間が、はたしてどういう人間だったのかは、墓場にはいって、十分に時を経なければ、誰にも分からないのである。

美もまた、ぶどう酒のように、せめて一定期間は寝かせておくに限るのだ。美や価値は、人間が日々、生み出していると思うのは傲慢である。われわれは、何一つ生み出していやしない。既知のものを再発見しているだけなのである。

古着屋の古着のなかに失踪しさよなら三角また来て四角・・・・寺山修司

<2007.09.03記>
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▼言語工学論

2008年09月08日 | ■教育年金管理人泥炭氏との対話
モールス信号の話で気がついたのですが、コンピュータもようするに二進法ですよね。0と1の数限りない組み合わせであると聞きました。すなわち、モールス信号のトン・ツーがそうであるように、電流が流すか、または流さないかの区別と、その組み合わせに他なりません。この組み合わせ計算による交信が、瞬時にして行われる。0の場合は電気が流れていない。1の場合は電気が流れたという結果のことです。この二つの記号だけで、膨大な桁数を一挙に計算してしまう。もちろん、桁数が巨大であれば、コンピュータとは言え、それだけ時間がかかります。原理は、実に単純な話なのです。ただし電子計算機が使える機械として、日の目を見させるためには、ここからが大変なのでしょうがね。

以上のことからわかるのは、記号というものの最初は、二つのものの区別ぐらいの意味を持たせれば、一応記号として使い物になるという簡単な事実です。0,1の場合もそうですが、「有」か「無」かということでしょう。0の場合は「無」を意味させ、「1」の場合は「有」を意味させる。数学というものの原理も、この簡単な記号化から発生してきたものだと思ったのですが、素人考えでしょうか。それから、私は英語と日本語の言語学上の、さらに本質的な差異というものは、言われているほどのものはなにもないと思っています。そのように見えているだけではないのでしょうか。ましてや音声を通して、いわゆる「しゃべり」に現れて、計れるようなことは、なにもないと思っています。比べられるのは、それぞれの言語で使われている、文字そのものの違いでしょう。周知のように英語は実に簡単なアルファベットという表音文字が26種。これに比べて日本語は漢字を使うますから、数知れない文字があります。漢字は数万とも言われていますね。アルファベットに比肩することができるものといえば、カタカナでしょうかね。パーソナルコンピュータの生産初期には、カタカナをモニターに表記するのがやっとでした。アルファベットもカタカナもいわゆる「半角」で表示できる。コンピュータ用語でいえば1バイトの容量で一文字が表せると聞きました。ところが漢字を表記するためには、半角では間に合わない。どうしても2バイトの容量が必要だったと聞きます。

1980年代になるとIBM社がパソコンを生産し始めた。ですが、これで日本語は操れない。せいぜいカタカナしか表記できません。そこで同時期、富士通や東芝の技術者たちが漢字変換と漢字表記に特化した、いわゆる日本語ワードプロセッサーの開発に血のにじむような努力をしていたと聞きます。私が最初に購入したコンピュータは、キャノン製の日本語ワープロです。87年のことだったと覚えています。OSは米国製のMSDOSというものだと聞きました。実際、米国と最初にコンピュータ上から回線をつなげて、交信を始めた慶応の村井純氏の著書「インターネット」(岩波新書)によれば、村井氏自身、コンピュータ上で漢字まじりの日本語表記が実現できるとは夢にも考えていなかったと回想しています。つまり、IT化またはコンピュータの普及は、日本を英語化させてしまう心配が、かなり現実的にあったということです。それは私たちにも覚えがあることです。英語の必要性が以前にまして騒がれはじめました。コンピュータやインターネットを実現するためには、どうしても英語しか使えず英語化が必要になるという、一種のデマのようなものです。もちろんOSやソフトの開発には一定の英語というものは、かかせないことは言うまでもありませんが、案外に、漢字変換やそのための辞書をソフト化する技術者たちの作業が遅れていたら、いまごろすっかり英語化されてしまったかもしれません。

こうしたことは、いがいにちょっとしたことなのです。ただ、それにしても、長い歴史を誇る言語というものの根幹は、やはりしゃべり言葉です。文字の上ではすっかりアルファベットが大手をふって、本や図書などのだいたいが英語のものが流通するようになっても、まだまだ話し言葉は、従来通りの日本語であったりするわけです。比べて書き言葉や文字というものは、政策的に変更されやすい。国が、「当用漢字」を決めたり、言葉使いや、名前として使える文字を制限したりすることがありますが、こうしたことも文字だからこそ、言えるわけで。話し言葉をこうせいああせいとは、言われもなかなかできるものではありません。ですから、明治の頃から節目節目で、日本語を英語に変えたほうがよいという俗論が提起されましたが、実施されたとしても、これが、うまくいくかいかないかは分かりませんよね。戦後すぐには、志賀直哉がいっそフランス語にしろ、などといったぐらいですから。明治以来ずっと、あの小難しい漢字をどうするかについては、誰しもが悩んでいたのだと思います。中国も朝鮮も、漢字をどうするかが、教育上の大問題だったのです。略字やハングルを通用させるようになって、多少文字を書くという苦労から人々は解放されたと聞きました。

それがここにきて、コンピュータとかインターネット、電子メールときたわけです。思うに、暗に反して今や完全に漢字は受け入れられたばかりでなく、漢字のもつ、底知れない言語的力量というものが見直されてきたようです。若い人たちも、漢字大好きになってしまった。それは書き順がどうしたこうしたもそうですが、非常に込み入った難しい一文字をいちいち完全に記憶しておく必要がなくなったということでしょう。それが良いことかどうかは知りませんが、だいたいの形と読みを覚えていれば、コンピュータ上のワードプロセッサーを起動させれば誰でも何不自由なく使いこなせるようになったからだと思います。インターネット開発者、村井純氏の心配も、杞憂であったといえますし。またその裏では日本語というものを新しく見直して、誰にでも使えるように電子化した技術者たちの努力に対しても頭が下がる思いです。

私は、いずれ最初は文字があったのではなく、声や音を認知するのが先で、文字のない歴史が数万年のあいだ続いていたのではないかと思っています。この間にも別に何不自由なく、言葉を交わしていたはずです。わが国の漢字輸入以前の状態が、そうであったようにです。列島のアイヌ、ネイティブアメリカン、オーストラリアのアプリジニ、アフリカ大陸の数知れない種族。彼らは文字を持ちませんでした。そして世界が近代に突入すると同時に、種族としての文化は滅亡する一途をたどりました。文字というものが、どれほど政治的に同族を守ってくれていたか。文字を持った民族だけが生き残っているというのが世界地図の実際です。これは何を意味するのか。こうした言語的な歴史というものを思うとき、文字といい、書き言葉といい、いわゆる記録というもの一般が非常に工学的な意味を持たされており、すなわち数学的な力というものを、そこに感じるのです。石器しか使えない部族は、鉄の武器を振り回す部族に敗北していかざるを得ないでしょう。その反対はありえないのです。まったく同じことが、文字や言語の歴史にあったと思うのです。

話し言葉しかなかった、わが国に最初にもたらされた文字は中国の漢字です。すでに数千年の歴史の波にたたかれ鍛えられ、成熟の域に達していた文字です。仏典や歴史書などの形を取って、当時の日本人にはほとんど読むことのできない文書が一挙に大量に入ってきた。中国を模倣して国づくりが始まった。こうしてわが国の歴史も記録されるようになり、神話から有史として認識されてきます。当然、文字は、お上が使っていた。役所用の記録がさきだったでしょう。最近もあちこちから木簡が出土する。そこに書かれた文字は、すべて漢字です。人の名とか、戸籍とか税のやりとりが記されているとか。文意は実に、簡単なものです。わたしはここに注目するのです。これはすくなくても私語ではないのです。むしろ限りなく数学に近い記録物といえるのではないでしょうか。事実、税とは数量を決め、その取引があったことを記されたものです。いわば金額ともいえる。庶民的な、また国家的な数学とは、なんといっても税の額を決め、税の取立てを完遂することです。

国づくりとは、都をつくるばかりではない。貨幣を決めることは、まず最初の数学的作業です。このように記録が公性をもつのは、誰も文句の言えない決められた法や、数であるからです。これを記する。それだけなら、輸入漢字だけで十分にやりくりがついたと思います。したがって一般人は、そのしゃべっている言葉を記することの可能な文字は、まだ手中にしていなかったのです。漢字と、国語はまったく素性の違ったものでした。漢字は役所などが、数学的に用いられていただけなのです。ここで、「古事記」の万葉仮名という問題が登場してきたようです。困難を極めた。われわれのしゃべり言葉をアラビア文字で記するようなものです。漢字の読み方は知っているとしても、それをそのまま日本語たる音声に振り当てる文法がなかったのです。ですから、まるであてずっぽうのように、適当な漢字をしゃべりの音に置き換えて記していった。

古事記、万葉集などから約百年を経て仮名というものが作られてきた。仮名は漢字を崩して単純化し一音に一文字を当てる、いわゆる表音文字でした。表音文字さえあれば、話し言葉をそのまま記録可能にします。仮名は当初、女文字とも言われました。ここにも漢字と仮名の社会的扱いというものがよく表れている。仮名のない当時、政治も行政も男が漢字のみを使って行う業務でした。したがって、それら役所仕事に従事する意識と、もっぱら漢文を重用する男どもの意識をして漢意(からごころ)とか漢才(からざい)と呼ばれ宮廷の女官たちから陰口がたたいていたといいます。これはいつの世も同じですね。掟や法をふりかざし自己を正当化する。また記録や数字をもてあそび、人をあごで使おうとする。こうした存在は、昔からまずは男であり役人であったようです。仮名は宮廷の女官たちが発明したと言われています。そこはかとない女心や私情のこまかな感情のひだを表現するには、どうしても話しが込み入ってきて、中国舶来の漢文では無理なのです。女たちは、日記をしたためたり物語を作ったり等々、話し言葉をそのまま筆記するための表音文字が必要だった。こうして日本語は女たちによって始めて現在につながる国語のていをなす文章というものが確立されたといいます。それは表意文字としての漢字と表音文字の仮名が混在させた世界にも類例のない自由自在の文章でした。この文体をつかって、宮廷の女たちが「源氏物語」をはじめ、たくさんの文学作品が書き記し、現在に残されているのです。

ま、日本語について私は以上のように理解しています。さて、数学的な意味と、その記録、さらに数の価値とは、それだけで非常に公的な意味が持たされます。数が記録されたものが、たとえ現在の算用数字ではなくても、数式という文字列の概念は、誰一人文句の付けられない確固とした価値であり概念です。これが言語に隠された公用語となっている。その意味は今日の英語以上でしょう。いわば数学こそ近代社会における言語的な王者です。数学こそ国際語なのです。数学の最初の実現物、それが貨幣でしょう。近代以前から文字を使わなかった種族には貨幣という概念はなかったのではないでしょうか。アイヌもネイティブアメリカンも貨幣を使わなかった。貨幣が流通しているということは文字、および書き言葉の普及が前提となるような社会です。ここに国家という独立した社会が生まれてきたとも思うわけです。最初に国家があったのではない。最初にあったのは、しゃべり言葉だが、後、文字が言葉を制覇し、すなわち数学が武器となり、民族が一人立ちしてきたと思うわけです。

ただ、私のような原始的な人間には、このような人類の文化的歴史が幸福だったのか不幸だったのかの判断はつきません。ただ、そのように進んできてしまったことだけは確かだということです。言葉から私語的なものを排斥し、公的なもの、すなわち記号的な、したがって数学的な価値ばかりを大きくしてしまえば、人間自身はどういうことになるのか。人間自身とは人間の心理や感情のことです。数学的論理の中になにがあるのか。そこから生まれてくる冷たい功利ばかりを感じて不安になるのです。

端的に言えば、人類はまさに数学的感性によって自ら滅びていかざるをえないのではないかとさえ思っているほどです。科学すればするほど、物質的真実は遠のいていくという側面もあるそうです。現在の物理学はそこまで来ているという。物質を突き詰めていくと、そこには何の物質的なものも見当たらず、エネルギーの波のようなものしか現認できないというようなことさえ起こるという。天文学にしてもそうだ。先般の冥王星を惑星規定からはずすという言明をせざるを得なくなり、学会は恥をかいた。まるで中世のようではないか。国家といい、社会といい、そのあらゆる現象に数学を多用して、ねずみ一匹通さないように、すみずみに至るまで科学的に合理的に作ってしまったとするなら、なにがどうなるのだろう。人間個々の私情から発する心理現象などは、何の価値もなくなるでしょう。ここに至って人間は完全に数値化されてしまう、ようするにコンピュータ化されてしまう。

こうなると人間それ自体より、コンピュータ上の数値データのほうがよほど人間の実体であり、人間はこうしてますます抽象的な存在となる。人口を構成する、数のひとつにすぎない。肉体という存在は意味がなくなる。肉体という生きている具体物は、数学という有能な抽象物のまえではゴミ同然にみなされてしまうのではないでしょうか。幸福も不幸も、感情の生まれるもとである肉体で感じるのではなく、公的な数値に置き換えてしか感じることができなくなる、ように思うのです。つまり人間の感覚さえも、ついにはデジタル化されてしまう。誰にでもよく分かるように。言い方はいろいろあるでしょうが、個別感情がアナログ的に表れてこない「私」というものは生き物としての存在論的矛盾です。「私」の感情についても、私では直感できずに、なにか別所で数値化されたものを鵜呑みにして、数字を聞かされて幸福になったり不幸になったりするというのでは、これはもう「ロボット」そのものではありませんか。

<2007.04.15記>
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▼「古事記」より

2008年09月08日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
以下、上田三四二(うえだみよじ)著『短歌一生』(講談社学術文庫)より

数ある記紀歌謡のなかでもとくに美しいもののひとつに、次の歌謡がある。

日下江(くさかえ)の入江のはちす 花蓮 身の盛りびと 羨(うろ)しきろかも(「古事記」)

花咲く蓮によそえて、盛りの人はうらやましいと歌っている。花によそえるのだから「身の盛りびと」は女人であろう。

日下江の入江のはちす 花蓮

この一行の匂いやかな詩句は、たとえその後に「身の盛りびと」の詩句をともなわなくても、すなわち意味として完結していなくても、ほとんど一個の詩的世界として成立している。


<2008.06.28記>
コメント (14)
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▼文学と言語

2008年09月08日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法
JR目黒駅から日比谷まで歩く。

以下、某掲示板より

●投稿者:MOKUMOKU
文学が「人間はいかに生きるべきか」という問題に深くかかわっており、文学書を読むことによって生き方についての指針が得られるというのは、大昔からあった「芸術の効用性」というカビのはえた議論です。小説を何百冊も読むと、そういう「効用性」レベルを卒業し、そういうカテゴリーに属さない文学を好んで読むようになる。ひとによって言い方は違うでしょうが、わしは「文学の純度」といっています。純度が高くなると、文学が人間生活から独立してしまって、効用性なんかなくなってしまう。20世紀を代表する小説は、たぶんジェイムス・ジョイスの「ユリシーズ」とプルーストの「失われた時を求めて」だろうけど、それらには効用性はもうありません。プルーストは「失われた時」1冊しか書いてないけど、ジョイスは沢山あり、最後の長編Finnegann's Wake「フィネガンの通夜」は難解なんてもんじゃなく、ジョイスにどっぷり(伊藤整など)のひと以外には理解不能でしょう。英語でなく、ジョイス語で書かれているからです。トーマス・マンの「詐欺師フェリクス・クルルの告白」なんかも20世紀の最難解な小説でしょう。ひとは、人生や生き方とまったくかかわりを持たないプルーストのような小説を読むのです。文学としての純度が大切だからでしょう。(こういう純度の高い文学に比べると、ドストエフスキーやトルストイは幼稚園児の読む童話くらい)。

例として,ジョイス語で書かれた、フィネガンの通夜の冒頭を書いておきましょう。

riverrun, past Eve and Adam's, from swerve of shore to bend of hay, brings us by a commodius vicus of recirculation back to Howth Castle and Environs.

わし、便所でウンコしながら、カミュの「異邦人」を読む習慣があった。(かなりの人が知ってる)。パリ時代から、何十年もやってた。じぶんの体内の文学の純度を保つためのオマジナイのようなものだった。フランス語でも英語版でも日本語でもええのやが、何百回も読んでると、ほとんど全部憶えてるので、どのページでもいいのです。クリスチャンが就寝前に熟知している聖書の一部を読むようなもんでしょう。ある日、NYにいる音楽家から、「文学の純度を保つためなら、なぜカミュでなくジョイスを読まないんだ」といわれた。いわれてみれば、その通り。異論はない。そこで、Finnegan's Wakeを毎朝(毎晩)トイレに持ち込んだ。しかし、ジョイスのは大長編で、ウンコしながら読むには適さない。それでもって、また以前の異邦人にもどってしまった。

●投稿者:かもめ
ネット掲示板などに、知ったかぶりして闇雲に横文字(おフランス)を、そのまま持ち出してくるなんざ、おのぼりさんの常套手段だよ。端的にいえばMOKU氏もまた進歩主義者に特有の自虐史観に陥っているのだろう。初代文部大臣森有礼がそうであったようにだ。ときには大江健三郎でさえ、悪しき欧化思想に頭がやられていたのである。MOKU氏が、どうしても日本語では文学の純度を目指せないとするなら、それはMOKU氏の勝手だが、なんとまぁ不幸なことよのぉ。せいぜい、落語のレコードでも聴いて己の来し方なり故郷なりをしのぶがよい。知的おのぼりさんというものは、だいたいおフランスが大好きだ。MOKU氏の言動などを見ていると、明治以降、なにひとつかわっておらんよ。明治初期、学制のはじめのはじめに森有礼は、いっそ学校教育では英語一本でやってみようじゃないか、などと大真面目に論じていたのである。わたしは「戦後民主主義」とういう概念も、「現代」という概念も大嫌いな口だが、唯一、文学だけは、誉められこそすれけなされるいわれはないと思っている。作家たちは苦労してきた。急激なジャーナリズム(出版業界)の質的量的進展ということもあっただろうが、文章家たち各自に起こった精神的革命と、その苦労は並大抵のものではなかったはずだ。鴎外しかり、一葉しかり、啄木しかり、漱石しかりだ。与謝野晶子の苦闘も忘れられまい。さらに強調しておきたいのは、戦後日本文学だ。今は、どうなっちまったのは知らぬ存ぜぬが、太宰にはじまって大江健三郎までの一群の小説作品は、世界に冠たる文学的結晶だと思っているね。他の言語のことは知らぬ存ぜぬ。拙者は日本人だ。

大和は国の真秀(まほ)ろば 畳(たた)なずく青垣(あおがき) 山籠(やまごも)れる大和しうるわし・・・倭建命(「古事記」より)

<2008.05.18記>
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▼トンビがクルリと輪を描いた

2008年09月08日 | ■芸能的なあまりに芸能的な弁証法

一昨日は、鎌倉に遊んだ。さんざんに歩き回った。下の弟に誘われた芝居を観るためなのだが、それは夜からで鎌倉は久しぶりのことでもあるし、せっかくだからあちこち見物してこようと、昼を少し回ったところで電車に乗って向かったのである。二時間もかからない。

まず北鎌倉駅で電車を降り東慶寺にあると聞く小林秀雄の墓を訪ねた。東慶寺は「かけこみ寺」という異名が示すように明治になるまでは尼寺だったそうだ。たたずまいがよい。こけ脅かしのような大きな山門もなければ、参道のわきの木立に隠れるようにこじんまりお堂がいくつか並んでいるだけである。

その参道の突き当たりから山肌に向かって墓地が広がっているのだが、これが結構広いのである。この中から小林秀雄の墓を見つけることができるだろうか不安だったが、ざっと一通り見て回って、それでも分からなければ、寺の人に聞いてみようと思い墓地に入っていったのである。

だが、それは杞憂だった。最初の角を入ったところに、それはあった。あったといっても「小林家」と彫られた小さな石塔が建っているだけで、墓石の横を見ても、後ろに回っても、文字というものは一切なかったのである。何かの本で、写真を見たことがあったのだ。

墓石代わりに丈1mにも満たない五輪塔がおかれている。それだけだ。その五輪塔のことは小林自身が、どこかに書いていた。生前、京都の骨董屋で見つけ気に入って買い求め自宅の庭先においてあったものだと言う。古めかしい石細工は、かわいらしく、ひときわ趣があった。それで、これが間違いなく小林秀雄の墓であることを、確信したのである。

帰りがけに社務所の受付の人に聞いてみると、まさしく私が見てきた、それが小林秀雄の墓であると言ってくれた。その方は、いかにも小林さんらしいでしょうと、付け加えられた。

亀が谷切通しを通って山を超え、鎌倉市中に入って、若宮大路や小町通りを行ったりきたり。路地という路地を歩き回った。そのうち腹がすいてきたので、由比ガ浜に出て海を見ながら弁当を食べようと考えた。コンビニで「いなり寿司」が3個だけ入っている小さな詰め合わせと缶ビールを買って浜にむかった。

北鎌倉に降りたときから気がついていたのだが、空を回遊しているトンビがやたらに多い。緑濃き山肌のあちこちでカラスとトンビが空中で喧嘩していた。ところが体はトンビのほうが大きいのだが、カラスのほうが気が強いようで、トンビが追い回されていた。

由比ガ浜に着くと、さっそく弁当を開けたのである。浜に出るときから、いやにトンビが多いことは気がついていた。たくさんの人が砂浜で遊んでいたが、その頭上を数十羽のトンビが空遊しているのはなかなかの壮観である。カラスの多くは浜に下りて地面をあさっていた。

手ごろな浜に腰を下ろして体の左側で弁当を開いた、そのときだった。あっという間もなかった。私の弁当が盗まれたのである。バサっという音がしたように思う。だが瞬間だった。鳥の羽のようなものが弁当のはしをつかんでいた左手に触っていった。黒いものが弁当と私の手に押しかぶさったと思ったら、もういなり寿司が消えていた。

三個のうちの一個がなくなったいた。これ以上とられてはたまらないと思い、あわててトレイを膝を立てた、その下に隠した。そうして股の間から手を入れて、大急ぎで残った二個のいなり寿司を口に突っ込んだのである。

いなり寿司を口にほうばったまま、背後を振り返ってみればカラスが山となして、とびかからんばかりに私に視線を集めていた。それこそ鎌倉中のカラスが集まってきたのかと思うほど、黒山をなしていた。頭上をみれば、頭のすぐ上を、トンビの群れが回遊していたのである。恐怖だった。食べ終わるやいなや、いなり寿司が収まっていたトレイとビニール袋をすばやくリュックに収めた。

それでやっと彼らもあきらめがついたようで、一連の恐喝行動を解散したのである。それにしても鳥がごときに、せっかくの昼飯を分捕られては男の面子が廃るというもの。返す返すも口惜しい鎌倉弁当事件の顛末ではあった。

帰宅してインターネットで検索してみると、由比ガ浜でトンビに弁当をさらわれた話がぎょうさん書かれてあった。だが人が怪我をした話はひとつもなかった。それにしても見事なトンビの早業である。他に危害を加えずに狙った獲物だけは確実にものにする、その技たるや感心するほどだ。

トンビは鎌倉名物であり、トンビが油揚げをさらうのは、由比ガ浜名物であるらしい。私が知らなかっただけのことなりや。

大海の 磯もとどろに 寄する波 破(わ)れて砕けて 裂けて散るかも・・・源実朝

<2007.05.04記>

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