以下は、だいぶ昔の記事につき、ご了承のほどを・・・
<2007-03-22 記>
一年ほど前にネットで知った某古書店から購入し届けていただいた「百合子めぐり」(1998年 未来社)という本の見返しに著者直筆の署名があって少々嬉しかった。古本屋などを巡っていると著者サイン入りの本も、まれに出くわすことがあるが、私はその方面のことは興味も無く、もちろんマニアでもないので一般にはまったく気にはしていない。サインがあろうとなかろうと、美本であろうと汚れていようと、また初版本であろうと重版本であろうと復刻版であろうと文章が同じなら同じ本だと思っている。
さて、「百合子めぐり」の百合子とはもちろん宮本百合子のことだが、中村智子さんは、ずっと以前、「宮本百合子」(1973年刊 筑摩書房)を書いており、これは百合子についての評論、評伝数ある中で抜きん出た一冊だと私は思っている。いまや中村氏の、この労作をぬきに宮本百合子は語れまい。上記の「百合子めぐり」は、「宮本百合子」出版以後に百合子について、改めて気がついたことなどを折に触れて書いてきたいくつかのエッセイをまとめたものである。
「宮本百合子」刊行後、中村氏は共産党の新聞「赤旗」紙上で例によって大々的に批判された。ささいなことを大げさに難癖をつけられてだいぶ閉口したらしい。因縁付けの一つが百合子の戦前入党説の真贋があった。百合子は戦前中から正規の共産党員だったのか否かという問題である。中村氏は、百合子の場合、いくら調べても入党していた形跡はまったく見られない。ようするに戦後になるまで共産党員ではなかったのではないかと疑問を呈していた。この部分に党の方から、あの百合子が共産党員でないはずがないではないかと、いちゃもんがついた。いずれにしても記録が無い以上、これは、なんとも言えない問題である。戦前における入党の実情とは、厳正な審査を経て入党するというにはほど遠く、実際には既党員とのいわゆる「口約束」のようなものだった。
本人でも、自分が党員であるのか、ないのかの確たるところは知らないのである。官憲につかまり、官憲から知らされて、初めて知るというような陳腐な逆さ現象が横行していた。もちろん特高、官憲以下、あらゆる主義者の組織解体を狙う権力機構から、組織を防衛する上で名簿などはいっさい残せなかったという事情があった。組織防衛上、秘密主義が徹底された。結局、誰が党員であるのかないのかは、「党」自身にも分からなかったのではないか。治安維持法によって非合法化された党組織は限りなく小さく分断されていた。誰が党員かそうでないかは皆目見当もつかなかっただろう。彼らにとって重要なのは、誰それの名をもった人間の存在ではない。
「共産党」とは科学的社会主義という理論の実在化であり、いわば概念である。主義者にとっては、共産党という名前といくつかの教義があれば、それで活動に邁進できる。具体的な人間の誰がいようといまいと、それは原則関係がない。党は抽象的であればあるほど現実の誤謬から免れるだろう。マルクス主義は誰がなんと言っても絶対に正しいのであればヒトの存在は問題外となる。活動家とは、絶対正義たる科学的概念としてのマルクス主義布教の弟子、または信者であれば、それ以上の肉体的具体性を持たないままでも、よいのである。限りなく抽象化された教義こそ美化されやすい。人民は党の姿(教義)にあこがれるだろう。人民各位の犠牲的精神の発露も促せるに違いない。よって活動家個々はむしろ「名無し」でよいのだ。地下活動とは名を隠し、身を隠し、仮面をかぶって活動することだ。自分たちを「名無し」にさせたのは非道な権力であるという言い訳も立つ。
実際、党活動に協力してくれる者が居さえすれば、彼が党員であろうとなかろうと関係ない。むしろ官憲に引っ張られた時など党員であることを威張ってみたり、ほのめかしたりしたのでは小林多喜二のように殺されるはめを見る。同じ党活動家ではあっても非党員のままのほうが、よほど安全だった。
小林多喜二にしても党員だったのか、単なる協力者だったのかは分かったものではない。彼はさんざんに官憲に拷問され殺される直前に「共産党、万歳」と何度か叫んでいたというが、これも非党員であるがゆえに入党への憧れが強く、そんなことを叫ばせたとも思えなくも無い。ゼロ戦に乗った特攻隊が敵艦隊につっこんでいく最後の最後の時に、「天皇陛下、万歳」と叫ばしめた心証に、なんの変わりがあるだろう。そんな調子なら最終的には牢にぶちこまれた時点で、自分が党員であるか否かを官憲に決めていただいたとも言えるのである。築地署の特高は、あきらかに多喜二を党員だと見なした。
だが記録が無い以上、本人の自白に頼る以外にはないわけで、多喜二が党員だったのかどうかの確かなことは、結局特高にも、分からなかったのではないのだろうか。自白させるための拷問である。暗殺するのが目的なら、やることは簡単だ。共産党員なのか、否かを白状させるための拷問だった。多喜二は、この質問には答えなかった。答えられなかった。敵前で自分が党員であるかなしかを明言したら最後、それは思想的転落を意味する。党に対する背信である。権力に屈服し党を捨て転向することを意味している。特高は、なんとしても自白させようと拷問を続けた。やがて致命的な暴行に及んだ。こうして多喜二は、逮捕されたその晩のうちに絶命した。
比べて百合子の場合、中村氏が言うに、二度三度と官憲に引っ張られ留置されたことはあるにしても、その扱いは多喜二の場合とは、だいぶ異なっていたようで、少なくても官憲側としては、百合子は党員ではなく一協力者に過ぎないと見ていた形跡もあり中村氏としても調べに調べた結果、そのように思うと推論しているのである。
2007-03-22 記