赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼美しき東アジアの島国ニッポン

2023年02月01日 | ■軍事を知らずに平和を語る資格なし

以下、またぞろ昔の記事で申し訳ない。

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2013.12.02 読売新聞オンライン(yahooニュースより)

 

中国が藪から棒に「防空識別圏」なるものを拡大して、わが日本のそれに重複させてきたことが世を騒がせている。だが、その問題はひとまず置くとして、上のような略図のイラストを一瞥しただけで日本という国が否応なく帯びている地勢または地政というものが一目瞭然によくわかる。

国民はこうした公平にして明瞭な地図をこそ、よくよく目に焼き付けておくべきだろう。従来から日本の領土は狭いと、よく言われるが、こうしてみると意外にそうでもないことがわかってくる。いずれにしても政治的支配下にある空域海域が近隣諸国に比して大きく広がっているように見えるのは列島からさらに大海に向かって点々と伸びて存在している小さな諸島のおかげなのである。

ものの本によれば日本国に含まれる島々の数は大小七千を数えるという。多くは無人島だが今現在でも450を数える島々にまぎれもなき日本国民たる人々が暮らしていると書かれてあった。

 


新星出版社「原色日本島図鑑」

 

そう言えば昔、日本を指して、その思想的特長をして「島国根性」という言葉が流行った。早い話が明治以来、漱石以来の大陸コンプレックスまたは西洋コンプレックスが時に応じて、ぶりかえす。

この劣等意識を、それとなく言い換えて鬱憤晴らしの左翼の活動家のあいだに蔓延する反体制思想を弁明するに、いまや毒にも薬にもなりようもない「戦争責任」「自虐史観」「原発反対」等々の、日本国とその歴史を侮辱してよしとする始末におえない国家否定、文明否定のイデオロギーが生まれてきたらしい。 

「戦争反対」がそうであるように、彼らのスローガンはきわめて原理的であり、それだけに分かりやすいのは確かだが、だからといって国民のすべてから支持してもらえるはずだと踏んでいるところに、彼らの政治意識が、いかに未熟で幼稚なものであるかが逆に示されている。

ようするにイデオロギーとは徒党根性のことであり、この集団心理が個々人にロマンチックな所属の証明を求めてくる反面、言辞主張が違えば厳しく排斥する段に打って出る。おっつけ「戦争反対」を叫ばない人間は軍国主義者に間違いないという断定が始まり、「原発反対」を叫ばない人間は堕落して右傾化した馬鹿でなければなんなのだという人をしてレッテル貼りとセクト宗派の腑分け話にいい年をしたおっさん風情のイデオロギーの半期違い連中が、ここはお家の一大事とばかりに毀誉褒貶相半ばして血相を変え口角泡を飛ばしている。

 

2014.02.01 川崎市

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

霜の夜や横丁曲がる迷子鉦・・・・一茶

 

 

 

 

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▼忘れえぬ人<小野田少尉>

2023年01月26日 | ■軍事を知らずに平和を語る資格なし

以下、再三再四に及ぶ昔の記事の再掲載ばかりで申し訳ないのだが。

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2014.01.20 朝日新聞オンライン

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%94%B0%E5%AF%9B%E9%83%8E

 先日亡くなられた小野田さんについては上のアドレスでウキペッペの項目を見てほしい。目にするたびに感銘を受けるのはジャングルの穴から出てきたときの上の写真だ。着の身着のままの汚れたシャツではあるけれど、何度となく補修した跡がある。肩口のあたりの縫い目の正しさ。いっそモダンなポケットの色あわせ。きちんとしたボタンの整列。それにもまして直立不動で敬礼する凛とした姿である。これらの態度の中に間違いなく小野田さんの精神のすべてが現れていた。この写真の直後、小野田さんは山を下り米軍支配下にあったフィリピン軍の基地を訪ねた。そして基地の司令官に自らの軍刀を手渡し投降した。処刑されてもやむなしとの覚悟を決めていたらしい。1974年、今から40年前のことである。1945年のポツダム宣言も、天皇による終戦の詔勅も聞かされず、何も知らないままにフィリピンのジャングルの中で心折れることなく30年近く、たった一人で戦争を継続していた。さても現代の日本国民に問いたいのだが、この小野田さんの写真を前にして先の戦争は間違っていたとか、だれそれに戦争責任があるとかないとかいう間の抜けた問題を問うことが出きるか否か。今日にいたってもなお「戦争反対」に明け暮れるイデオロギーのすっぽんぽん連中は、まずは、そのことを自問自答してみればよい。

<2014.01.26 記>

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逢はざりし夫か  昭和の兵一人 手を振りて去る うたた寝の夢・・・富小路禎子

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▼戦争はいやだが不戦反戦にも正義ナシ

2022年10月02日 | ■軍事を知らずに平和を語る資格なし

下の記事は五年ほど前に書いたものなれや。

 

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●弁護士神原元・・・「戦争をしないために強い軍隊を」的なことを言ってる連中は、戦争というと自分が国に守ってもらうイメージしかないのであろう。

当たり前のことだと思いますよ。国のためと思えばこそ国民は多大なる税を払っているのです。警察、消防、自衛隊は国民を守るためそしてそのためにこそ国民総意のもとに、すなわちシビリアンコントロールのもとに組織されているのです。それが彼らが志願して励んでいる国家の前衛としての役目なのです。わたしは彼らこそ戦士だと思って尊崇の念を忘れないようにしていますよ。強い警察、強い消防、強い自衛隊。どこの国にも負けない、そうした組織が欲しいとは思いませんか。武蔵小杉のお弁護ちゃん。


●弁護士神原元・・・しかし、戦争で犠牲になるのは常に庶民なのだ。戦争を語る時は、常に、自分や自分の子供が、鉄砲を持たされ砂漠やジャングルで這い回るシーンをイメージすることが大切だ。

戦争という概念がやや旧弊だが、そうもいちいち犯罪者や強盗や軍国主義者を前にして最初から白旗あげて命乞いに励んでいては命がいくつあっても物足りまい。情けないお弁護ちゃんよ。君は国家にも庶民にも名誉と誇りがあることを知らないのか。日本国民としてのプライドの一片もないのか。わたしはまだまだ多くの日本人が家族と同胞を守るためなら最初から逃げ回ることばかり考えてお茶をにごしているばかりでなく、いざとなったらたとえ火の中水の中死を賭しての覚悟をもって強盗強奪者相手の戦いにのぞむ正当防衛の精神だけは忘れていないと確信している。

 

 

2017.11.14 カフェにて がんばれ自衛隊

 

 

 

 

(2017.11.14 記)

 

 

 

 

 

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▼軍事を知らずに平和を語る資格なし

2021年04月21日 | ■軍事を知らずに平和を語る資格なし

以下 2020.10.23 記

 

●弁護士神原元さんがリツイート・・・ラサール石井・・・<略>人間なら戦争に反対する。人間はけして戦争を美化してはいけない。

誰しも、そうも単純に「戦争」を美化しているわけではないと思うよ。ラサール君も、よく考えてごらん。原始の昔からヒト科は武器を持たずに丸腰のままで食い物を探しにいくことができただろうか。食ふこと、そのことじたいが戦争の始まりだったような気さえするのだ。生きること、そのことじたいが戦争の始まりだったのではないだろうか。

政治の延長が戦争だとは昔からヒト科の常識であったはずだ。さらに武装することは昆虫でさえ知っている生き物すべての心得ではないのかい。

何があっても、てめさえ良ければそれで良いと食っちゃ寝食っちゃ寝のわれ関せずで、のうのうとヘラヘラと笑って暮らすだけが平和の象徴だと強弁するなら、こりゃもうヒト科の滅亡がすぐ背後までせまって来ていることを、いまやすっかり平和ボケして飽食に明け暮れている僕らにはまったく見えていないだけの話かも知れないね。

●弁護士神原元・・・10月19日・・・どんなに格好つけても、軍隊というのは人殺しの職業だし、兵器というのは人殺しの道具だ。軍隊を称賛し、兵器を称賛し、つまり人殺しを称賛する社会は狂っている。そう言い切る勇気が必要だ。


安倍総理が辞任されて三ヵ月ほどがたったが、この数年というもの、「アベ憎し」だけを奉じて自己満足していたメディアおよび野党議員や活動家諸君らに顕著であったアベロス現象は上の神原君の三行半にも顕現されている。

安倍氏の突然の辞任に面食らってしまい右往左往しているのは政権与党ではなく、むしろ野党だったというところが今回の物珍しさではあった。

院の内外で安倍氏への個人攻撃に明け暮れていた彼らは当然のことながら当面の敵を喪失し、むなしくもSNS上では云うに事を欠き、てめぇが組する信仰や宗教上の教義を引用、棒読みして茶を濁しているだけでは、そりゃさんざんに馬鹿にされるのは当たり前の話ではないのかい。神原君よ。それにしても相変わらず貧弱だねぇ~君の議論は。
 

●弁護士神原元・・・2020年9月30日・・・次の意見がある。「護憲派であっても自衛隊を認めた上で、『軍隊は必要だが集団的自衛権には反対だ』と考える層を味方につけるべきだ」言わんとするところはわかるものの、この説は誠実でないと思う。素直に考えれば自衛隊は憲法違反だし、これを認めるかどうかは護憲派の核心部分だからだ。

●弁護士神原元・・・2020年10月1日・・・憲法9条はお花畑だという奴がいる。しかし、音速で飛んでくる核ミサイルを空中で撃ち落とせると考える方が、よっぽどお花畑だ。B29を竹槍で撃ち落とせると考えて失敗した、苦い教訓を忘れたのだろうか。憲法9条を護るのは、リアリズムに立った判断である。

●弁護士神原元・・・2020年11月3日・・・正しい者が勝つ社会、はやく来ないかな。


君の平和論や正義論は、もはや50年前から60年前の話だよ。いい年こいて革命青年ぶってもはじまるまい。お弁護稼業における客層を狭くしているだけだよ。

 

●弁護士神原元さんがリツイート(2017)・・・志葉玲・・・何度でも言うぜ。持てる全ての力を使って戦争を避けるのが政治家の責務。最初からその気がないなら、政治に関わるべきじゃない。安易に戦争を語り、戦争をやろうとする政治家こそ、人々にとっての最大の敵だ。戦争で傷つくのは、結局普通の人々、最も罪がなく、弱い立場の人々なのだから。

 

 何度も言いますが、現代の世で、それもわが国において、闇雲に戦争をやろうとする政治家なんて、見たことも聞いたこともありませんよ。おっと、歴史をみれば、無いとはいえませんね。

レーニン、スターリン、毛沢東、北朝鮮の金一家などなどの主義者ばかりは国家というものを、戦争と軍事一色に塗りつぶした張本人でしたね。共産主義者ほど戦争大好き人間はないでしょう。歴史を勉強すればこうしたことも、よく分かるのです。もちろん、だからといって、ただちに日本の共産党が戦争大好き政党だとは、一概には言えませんがね。なにしろ二枚舌ですから。この政党に限っては。

現に自民党政権でも、日々周辺国との戦争を避けるために、どれほど腐心しているかは周知の事実ではありませんか。あまり突拍子もないことは言わないほうが、よろしいかと脳タリンだと思われますよ。

この際、わたしから申しておきたいことは。戦争や軍事という概念を、悪しきものだと決め付けて、一顧だにしないという姿勢では何の政治も始まらないということです。それは教育にも及びますね。国のため、という感情が国民にほとんど宿っていないなら、そんな国は、そうそうに撲滅解体してしまうことは目に見えているのです。

世界のどの国にいっても、わが国こそ幸いなりと言うでしょう。事が起これば国民は国家を守るために、戦いに、はせ参じるのです。それが戦争ではありませんか。されば、戦争とは、実に道徳的にして健全なる精神の現れの問題だと思いますよ。

いざというときになっても、戦争は悪いことだから、わたしにはいっさい関係がありません、などという国民がいたとするなら、やはりそれは非国民呼ばわりされても仕方の無いことでしょう。

戦争なんて、したくはないというのは、誰にとっても当たり前の話なのです。しかしながら攻められたときには、やはり闘うほかはないでしょう。相手をやっつけるいがいの術がありますか。

戦争と名づけるのは人様の勝手です。名だけなら 戦争はなくなるかもしれない。ただしヒト科も動物も戦うことは止めないでしょう。

なぜだか分かりますか。食わねば死ぬからです。食うためにヒト科も動物も戦っているのです。されば、戦うことこそ、生きている証明とは、言えないでしょうか。極言すれば、戦えない、または戦おうとしない生き物は死に絶えるのです。

 

 

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▼がんばれ自衛隊

2020年01月20日 | ■軍事を知らずに平和を語る資格なし

海自P3C部隊 中東で新任務開始

https://news.goo.ne.jp/article/mainichi/politics/mainichi-20200120k0000m010124000c.html

 


P3C哨戒機 (海上自衛隊ホームページより無断借用)

 

2月2日には、海自横須賀基地(神奈川県横須賀市)を拠点とする護衛艦「たかなみ」が出国。


護衛艦「たかなみ」 (   〃   )

 

 

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▼良書紹介 「自叙伝」 河上肇

2016年08月17日 | ■軍事を知らずに平和を語る資格なし

年末に地元の図書館から借りていた本と音楽CDを返却してきた。本が4冊、CDは3枚である。いつものことだが、一度に何冊借りてきても、一冊読めるかどうかで他の本は、ざっと頁をひっくり返しただけで、そのまま返してしまう場合が多いのである。わかっていながらいつも欲張って借りてきてしまう。今回も、まともに読んだのは「富永太郎詩集」(思潮社)の一冊だけだった。富永は24歳で夭折した詩人だから生前に残された作品もほんのわずかである。薄い詩集がそのまま彼の全集というべきもので日記や書簡なども残されたものは、ほとんどこの中に所収されているらしい。

返却日が近づいて、あわてて読み始めた一冊があった。河上肇の「自叙伝(上)」(岩波書店)である。これは面白そうで続けて読もうと思い期間延長を申し出て再度借りなおしてきた。河上肇は明治末期から昭和の始めにかけて活躍したマルクス主義経済学者だったが、ご多分にもれず治安維持法にひっかかり投獄された。獄中5年。いわゆる転向して出獄してきたときは齢60近かった。

転向とは権力に屈服したことであり、自他共に褒められた話ではない。以後、河上は故郷に帰り、戦争が終わるまでもっぱら当の自伝執筆に没頭していた。ふたたび共産党の活動に戻りたいと折々もらしていたこともあったらしいが、戦争が終わってまもなく亡くなった。河上肇の場合、転向する経緯がとても独特だった。思想を捨てろと迫る官憲との対決もムキになって抵抗する若い革命家の面影はない。たとえば小林多喜二などは最後の晩に「日本共産党万歳」と何度も叫んでいたというし宮本顕治の場合は何を聞かれても黙秘を通した。

河上肇の場合は、いささか様子が違っていたようだ。どんな場面にいたっても無益な意地を通したり「革命的」大言壮語をわめくような気配はまったくない。のらりくらりと言い逃れて官憲を煙にまき妥協するところは妥協して結局、牢から出てきてしまったように思われる。白か黒かと即断できないまま、ついつい年月を重ねてしまうというのも人生の実際だろう。紆余曲折に満ちた心理的経緯こそ自叙伝の核心である。河上は自分について、謙遜しぼやくことおびただしい。これが隠し味となって彼の思想と文章に深みをあたえ、ひょうひょうとして老成を遂げた人柄に隠された学問への情熱と、昔ながらの人情こそが偲ばれる。



・中学校でも高等学校でも大学でも、私は嘗て首席をしめたことのない人間である

・私はもちろん駿馬というには縁遠い人間である

・鈍根である私の身にとって、いかにも相応しいものに思われる

・なるほど私はむらの多い人間であろう

等々とうとう、人間的弱さを自覚した、その正直さから見えてくる彼の魅力は尽きることはない。

 

<2007.01.18 記>

 

 

 

 

 

 

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▼百姓漫画を読む

2016年02月21日 | ■軍事を知らずに平和を語る資格なし

 

図書館から借りてきた漫画を読んだ。なかなか面白かった。

「曽野綾子大批判」 kアンドkプレス 著者:佐高信・山崎行太郎 2014年刊

 

当漫画本に出てくるお二人が予想通りの漫画に出てくる馬鹿かアホかの典型的御仁であったので大笑いしながら読了した。読了感想を、かいつまんで申せば、著者たるご両人ともどもに、いかに自分が知識人の一員であるかと互いに吹聴しあい、承認しあっているだけのこと。互いが互いの小ざかしさを誇りつつ褒めあいながら、ああでもないこうでもないと不平不満をぶちまけている。

いかにも矮小な初老男が二人、テーブルを挟んで傷をなめあっている。二匹の老いたるブタが角突合せ口角泡を飛ばして戦後イデオロギーの残飯あさりをしている。これが笑わずにおられるだろうか。漫画なのであり、それ以上でも以下でもない。

ただし、巻末に20頁ほど載せられていた、江藤淳と佐高信の対談は、当漫画本の中で、唯一文学らしい趣きがあった。副題に「闘う批評とはなにか・・・文学と憲法のはざまで」(1993年)とある。この副題に含まれたのっぴきならない意味内容は、25年前はかけだしだった佐高とかいう薄っぺらの鼻ったれジャーナリストには何の関係もない。日本国憲法に内在されている大いなる矛盾と現代文学の錯誤を憂慮していたのは最後の文人たる江藤淳の根っからの主題だったのである。

江藤淳は侍だった。すくなくとも武士たらんと矜持した。そして彼は、ご多聞にもれず孤立した。比して佐高なにがしの思想と主張は今にいたってなお毀誉褒貶のポピュリズムに明け暮れているドン百姓のそれでしかない。

 

 

 

上の写真の二冊は昨年度拙者が読んだ数ある文学書の中でも忘れられない図書である。悪いことは言わないイデオロギーに脳がやられた百姓連中の君たちも、ここはだまされたと思って読んでみたまえ。現代政治に混濁させれられている諸君の小さな脳内喧騒も多少は整理がつくに違いない。

おい、今井。いい年をして、漫画ばっかり読んでいるんじゃあるまい。 たまには本を読め、本を。

 

左 「江藤淳の言い分」 斉藤禎著 書籍工房早川 2015.05.02刊
右 「沖縄戦「集団自決の真実」 曽野綾子著  (株)ワック 2014.08.14刊

 

 

 

 

 

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▼ドイツの勇敢な常識

2015年06月24日 | ■軍事を知らずに平和を語る資格なし

  

2015.06.24  産経新聞より

 

 

 

 

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▼廃館魔窟高齢化

2015年03月16日 | ■軍事を知らずに平和を語る資格なし

 

以下、教育年金掲示板より

 

泥つぁんは次のように書いている。「日本における最近の国民感情は世界の基本的価値から外れつつある」と。そこでお聞きするのだが「世界の基本的価値」とはなんぞや?最近の国民感情とは、なんぞや?

わたしが見るところ、泥つぁんの言い分をかいつまんで読み取ったところ・・・どすて人間は死ぬのでしょうか。どすて春になると桜が咲くのでしょうか。みなさん、この点についてご議論いたしましょうと、明けても暮れても、こればっかりだ。

どうやら泥炭氏におかれては「世界の基本的価値」とは、人間の寿命のことであるらしい。寿命のことなら、わからなくもない。日本の老人は世界の基本的寿命指数を大きく超えて、いつまでたっても、一向にくたばろうとしない。

中には寝たきりになってからも、わたすに残された市民としてのお役目は国民の平均寿命を伸ばせるだけ伸ばすのだと20年も30年もベッドの中でしぶとく生き続けているご老体も数しれず。

かようにも、見苦しい老人ばかりを褒め称える文化というものは世界広しといえど、いまや日本だけではないのか。こうして、日本の場合20年後には平均寿命が百歳にも到達すると予想されている。

短命の世界各国に比べて、長生きしすぎるきらいがあるのである。長生きも程度問題なのであり、これが国際間に摩擦を生み、政治問題化しかねない。やはり老人嫌いの若作りで日常をやりくりしている泥つぁんの場合も人間の寿命こそ世界の基本的価値とぞ思うけりなり。

安倍政権なにをやっている。のぉ、泥つぁん。せめて日本人の平均寿命を70ぐらいで頭打ちしておけば、こうも隣国やら各国過激派の反年金主義者どもから嫉妬されることもなかっただろうに。

50っ面60っ面なる安保反対憲法擁護をなによりの教義となす脳無し連中の代表格たる泥つぁんの言う通りだ。

戦争反対、原発反対ダツ脱腸で安倍政権憎しの女、子ども相手につごうのよいポピュリズムだけでやりくりしている泥つぁんらの気持ちも、よくわかるってものだ。
 

 

2015.03.15 世田谷区

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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▼ライスカレーとトロツキー

2014年05月07日 | ■軍事を知らずに平和を語る資格なし

 

2014.05.07 川崎市立某図書館

サラダ、みそ汁が付いて500円也

 

 


「トロツキー 上・下」 ロバート・サーヴィス著 2013.04.05刊 白水社

図書館に入るのは久しぶりのことなりき。期待はせずに入ってみたのだが、新しい「トロツキー」の伝記上下巻のうち「下」だけがあったので、さっそく借りてきた。半年ほどまえに新刊の書店で見かけ読みたいと思っていたのだが、なにしろ高すぎて手が出なかった。上下それぞれに4000円もする。

 

 

 

 

 

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▼がんばれ福島ゴジラ

2014年04月23日 | ■軍事を知らずに平和を語る資格なし

 

日曜の夜のNHKテレビで「原発廃炉への40年」という番組を見て、ほんのわずかの希望と光が見えたように感じることがあったので、そのことを書いておく。

確かに廃炉を完遂するまでは、これから何十年とかかることは耳にたこができるほど聞かされている。廃炉のための作業とは、ほとんど過去に前例がない中で、関係者の苦しい暗中模索が続くであろうことは素人のわたしにも良くわかる。たまる一方の汚染水をどうするのかという問題もある。

福島第一原発が立地する自治体は大熊町である。画面では町長さんが町の復興計画を説明されていた。大熊町も、最近になってやっと避難勧告がとかれ戻りたい町民は故郷に戻ってくることができるようになった。さて、その計画案だが。原発から6キロほど離れた比較的平坦な土地を整地し、ここに3000人規模の町を作るとのこと。映像でも写されていたのだがすでに工事が始まっていた。だが、これだけの話なら面白くもおかしくもない。

すなからず驚いたのは3000人のうち2000人は廃炉事業に携わっている原発作業員に住んでもらい。残り1000名が3年にわたって避難していたそれぞれの場所から帰ってきた大熊町民だとのことだった。感情的な原発憎しのままでは、こうした計画は立てようが無い。苦渋の選択というには、また一味ちがった計画らしい。なにかと白い目で見られがちな作業員たちも町民とともに町で暮らせるとなれば心身ともに、どれほど助かることか。国や県の意向もあったとはおもうが大熊町の英断に拍手を送りたい。

もう一つの光は、実際の廃炉作業にあたって、次々と新しい道具が開発されていることである。原子炉の中の状況を調べるために直径10センチの管を伝って原子炉内にカメラを持って入り込めるような蛇型ロボットが開発されたのだという。映像からは、生き生きと働く大手メーカーの技術者たちが知恵を絞りあい原発という難敵に向かって格闘している姿に希望の光を見た。

現在、世界には何基ほどの発電用原子炉があるのだろうか。おそらく500基は下るまい。誰しもに死がおとづれるように原子炉も廃炉されるときがくる。自動車ならぺちゃんこにつぶして廃車となるが原発の場合はそうはいかない。だが希望はある。福島第一原発廃炉工程で培われたわが国の技術と、それをささえた技術者が、やがて世界中から三顧の礼をとって招請される日がくるだろう。日本のメーカーが作った原子炉は間違いなく優秀だが廃炉工程においても日本の技術が世界一だと、そう言われたいではないか。

 

 

 

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▼首都にふる如月のゆき白妙の

2014年03月26日 | ■軍事を知らずに平和を語る資格なし

 

2014.02.08 自室にて

 

 

 

 2014.02.09

 

昨日の東京は20年ぶりの大雪だった。明けて本日は都知事選の投票日である。なかなかの大物候補者なども出馬してきて有権者の関心も常になく高いらしい。

さても今日の東京新聞の朝刊によれば本日投票日を迎えるにあたっての争点は、原子力発電所の是非を示すこととあるが、わたしは全然そんな風には思わない。むしろ原発問題をして良いか悪いかの感情論的二者択一風に提示されてくることに都民の多くは辟易している。そのようなスローガンをありがたがっているのは一部のミーハーだけだ。

原発反対を一本調子にわめけばわめくほど、その空想的言辞ばかりをのたまわって自己満足しているイデオロギー臭に嫌気がさして都民の心は原発問題から離れていってしまうのである。さても東京新聞が期待しているほど一千万都民は単細胞のアホばかりではないと思うが、いかなりけりや脳が足りずのアンポンタンなる東京の田吾作新聞。

 

 

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▼中野重治詩集より

2013年12月29日 | ■軍事を知らずに平和を語る資格なし

 

 

2013.12.19 産経新聞投書欄より

 

 東大仏文における辰野教授と小林秀雄については、なにかの本で以下のような面白い話を耳にした。小林の卒業時のことである。なにしろ授業にはほとんど出てこないにかかわらず、小林は、すでにランボーの詩集「地獄の季節」を翻訳刊行しているという仏文きっての逸材である。辰野教授も一目おいていた。だが、小林には卒業するにかなう学業上の実績が何一つない。卒業まぎわとなったある日、辰野のもとに「自分を卒業させて欲しい」と小林が泣きこんできた。辰野教授は小林に、ただちに口頭試問をするから回答せよと、その場で初歩的な問題を提出した。だが小林は、これにもまともな回答をすることはできなかった。そこで、さらに泣きついた。「卒業できなければ自分の母親に対して面目がたたない。ここは、なんとしてもオレを卒業させろ」と迫ってきたという。もちろん辰野教授は小林をめでたく卒業させた。

  後年、小林秀雄が当時のことを語っているのだが、自分が学校(東大仏文)を出たのは、ひとえに母親を喜ばせてやりたいという一念からだったという。

 今風に言えば「親の期待に応える」というわけだが今も昔も、子どもにとって学校に通うという日常行為を説明するに、これ以上の誠意は、誰が探してもないだろう。東大であれどこそこの学校であれ、学校というものは、もとより、そういうものなのであり、そこに毎日通う意味たるもまた、とりあえずは親孝行のためだとでも言っておく以外に他の説明は必要ないのかも知れない。

 国家というものが、そうであるようにだ。国も学校も嫌なら所属しなければよい。それほど嫌いな国家や学校に与する必然性は毛頭ない。行為だけが己の正当性を弁証できる。いい年をしたおっさん風情が、一向に出て行くそぶりも見せずに、嫌だ嫌だ、もっと自由が欲しいなどと不平不満たらたらと、四六時中、わめいていたんでは、いっそ子どもたちから笑われる。 

 さて、小林秀雄に同年の中野重治という詩人がおった。彼もやはり小林同様に東大に在籍していた。小林は仏文だったが、中野は独文だった。双方ともに学校には、めったに面を出さないタイプだったから学内で合間見れた形跡はない。だが、双方ともに互いの名はすでに知っていた。

 小林が卒業できるかどうかと、すったもんだしている頃、中野のほうといえば早々と次なる詩を発表していた。

 

 東京帝国大学生

額の黄色いのがいる

眼鏡がいる

羽織

るばしか

ボタンの直径が一寸もある外套がいる

乞食のようなのもいる

そして銀座をあるく

酔うと卑しいお国言葉をわざとつかう

学問の奥底

人格の陶冶

そして

苦悶の象徴は、ちょっと読ませるね

へどだ

そして正門のあたりをぞろぞろと歩いている

ふっとぼーるばかり蹴っているのもいる

 (「中野重治詩集」より 初出 1926年 『騾馬』)

 

 当の詩人は、自分が確固たる帝国大学生であることは、もとより承知の上だ。その上で、こうした詩を詠む。自分の所属を侮辱してよしとした中野は、ようするに人々に当の詩を通じて何を訴えたかったのか。帝国大学生をして侮辱してみれば革命的だとも思っていたのだろうか。帝国大学をして見下げてみれば、よほど庶民の力になるとでも思ったのだろうか。

 昭和初期、若き小林秀雄が母親を喜ばせたい一心で、オレを卒業させろと教官に迫った世俗的根性と、若き中野重治が抱いた帝国大学生たる自らをも侮蔑してよしとする遠大なる革命的幻想にどれほどの文学的差異があったのか、なかったのかは、今となれば、おのおの方の感じ方次第だ。

 個人的な感想から言えば、わたしは小林の生活的実感の方が、よほど健全なる精神の出所一切を見る思いがして共感できる。

 中野について言えば、さらに、戦後に引き続く『甲乙丙丁』という長編に描かれた「地獄めぐり」に及ぶ、やれ共産党がわたすをいじめてくる、やれ日本国は駄目だ、やれ天皇がどうしたこうした等々の、ぐっちゃらぐっちゃらとのたまえる徒党根性およびセクト根性まるだしの自虐的自責的文法による長編小説なるものがあったが、これらはもはや愚の骨頂以外のなにものでもない。

 ただし、中野重治には、それこそ昭和文学の白眉ともいえる作品がいくつかあって忘れがたい。「村の家」「梨の花」等々。

 だが、これらの美品は、いずれも官憲にしょっぴかれ牢屋の中で、事前まで抱いていた法外な革命思想をコテンパンに否定させられた結果、ようするに転向した結果に書かれたものだった、というあたりが文芸たるもの作家個人の思想精神の自覚するところに、あにはからずや、よほど時代や歴史というものに思う存分に左右されていることをもまた見事に顕してくれている。

 

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▼「百合子めぐり」 中村智子

2013年07月17日 | ■軍事を知らずに平和を語る資格なし

一年ほど前にネットで知った某古書店から購入し届けていただいた「百合子めぐり」(1998年 未来社)という本の見返しに著者直筆の署名があって少々嬉しかった。古本屋などを巡っていると著者サイン入りの本も、まれに出くわすことがあるが、私はその方面のことは興味も無く、もちろんマニアでもないので一般にはまったく気にはしていない。サインがあろうとなかろうと、美本であろうと汚れていようと、また初版本であろうと重版本であろうと復刻版であろうと文章が同じなら同じ本だと思っている。

さて、「百合子めぐり」の百合子とはもちろん宮本百合子のことだが、中村智子さんは、ずっと以前、「宮本百合子」(1973年刊 筑摩書房)を書いており、これは百合子についての評論、評伝数ある中で抜きん出た一冊だと私は思っている。いまや中村氏の、この労作をぬきに宮本百合子は語れまい。上記の「百合子めぐり」は、「宮本百合子」出版以後に百合子について、改めて気がついたことなどを折に触れて書いてきたいくつかのエッセイをまとめたものである。

「宮本百合子」刊行後、中村氏は共産党の新聞「赤旗」紙上で例によって大々的に批判された。ささいなことを大げさに難癖をつけられてだいぶ閉口したらしい。因縁付けの一つが百合子の戦前入党説の真贋があった。百合子は戦前中から正規の共産党員だったのか否かという問題である。中村氏は、百合子の場合、いくら調べても入党していた形跡はまったく見られない。ようするに戦後になるまで共産党員ではなかったのではないかと疑問を呈していた。この部分に党の方から、あの百合子が共産党員でないはずがないではないかと、いちゃもんがついた。いずれにしても記録が無い以上、これは、なんとも言えない問題である。戦前における入党の実情とは、厳正な審査を経て入党するというにはほど遠く、実際には既党員とのいわゆる「口約束」のようなものだった。

本人でも、自分が党員であるのか、ないのかの確たるところは知らないのである。官憲につかまり、官憲から知らされて、初めて知るというような陳腐な逆さ現象が横行していた。もちろん特高、官憲以下、あらゆる主義者の組織解体を狙う権力機構から、組織を防衛する上で名簿などはいっさい残せなかったという事情があった。組織防衛上、秘密主義が徹底された。結局、誰が党員であるのかないのかは、「党」自身にも分からなかったのではないか。治安維持法によって非合法化された党組織は限りなく小さく分断されていた。誰が党員かそうでないかは皆目見当もつかなかっただろう。彼らにとって重要なのは、誰それの名をもった人間の存在ではない。

「共産党」とは科学的社会主義という理論の実在化であり、いわば概念である。主義者にとっては、共産党という名前といくつかの教義があれば、それで活動に邁進できる。具体的な人間の誰がいようといまいと、それは原則関係がない。党は抽象的であればあるほど現実の誤謬から免れるだろう。マルクス主義は誰がなんと言っても絶対に正しいのであればヒトの存在は問題外となる。活動家とは、絶対正義たる科学的概念としてのマルクス主義布教の弟子、または信者であれば、それ以上の肉体的具体性を持たないままでも、よいのである。限りなく抽象化された教義こそ美化されやすい。人民は党の姿(教義)にあこがれるだろう。人民各位の犠牲的精神の発露も促せるに違いない。よって活動家個々はむしろ「名無し」でよいのだ。地下活動とは名を隠し、身を隠し、仮面をかぶって活動することだ。自分たちを「名無し」にさせたのは非道な権力であるという言い訳も立つ。

実際、党活動に協力してくれる者が居さえすれば、彼が党員であろうとなかろうと関係ない。むしろ官憲に引っ張られた時など党員であることを威張ってみたり、ほのめかしたりしたのでは小林多喜二のように殺されるはめを見る。同じ党活動家ではあっても非党員のままのほうが、よほど安全だった。

小林多喜二にしても党員だったのか、単なる協力者だったのかは分かったものではない。彼はさんざんに官憲に拷問され殺される直前に「共産党、万歳」と何度か叫んでいたというが、これも非党員であるがゆえに入党への憧れが強く、そんなことを叫ばせたとも思えなくも無い。ゼロ戦に乗った特攻隊が敵艦隊につっこんでいく最後の最後の時に、「天皇陛下、万歳」と叫ばしめた心証に、なんの変わりがあるだろう。そんな調子なら最終的には牢にぶちこまれた時点で、自分が党員であるか否かを官憲に決めていただいたとも言えるのである。築地署の特高は、あきらかに多喜二を党員だと見なした。

だが記録が無い以上、本人の自白に頼る以外にはないわけで、多喜二が党員だったのかどうかの確かなことは、結局特高にも、分からなかったのではないのだろうか。自白させるための拷問である。暗殺するのが目的なら、やることは簡単だ。共産党員なのか、否かを白状させるための拷問だった。多喜二は、この質問には答えなかった。答えられなかった。敵前で自分が党員であるかなしかを明言したら最後、それは思想的転落を意味する。党に対する背信である。権力に屈服し党を捨て転向することを意味している。特高は、なんとしても自白させようと拷問を続けた。やがて致命的な暴行に及んだ。こうして多喜二は、逮捕されたその晩のうちに絶命した。

比べて百合子の場合、中村氏が言うに、二度三度と官憲に引っ張られ留置されたことはあるにしても、その扱いは多喜二の場合とは、だいぶ異なっていたようで、少なくても官憲側としては、百合子は党員ではなく一協力者に過ぎないと見ていた形跡もあり中村氏としても調べに調べた結果、そのように思うと推論しているのである。

2007-03-22 01:18:00記

 

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▼小林秀雄と宮本顕治

2013年07月01日 | ■軍事を知らずに平和を語る資格なし

小林秀雄が亡くなったのは昭和58年の三月だった。私が35歳のときだった。それまでも、それからも文士としての小林秀雄の大きさは、なんとなく耳にして無視できない存在で、彼の本なども何冊か本棚に置かれてはいたのだが、まじめに読んでみることはなかった。いや、何度か読もうとしてみたし、読んでみて感銘を受けた文章のいくつかもあって、「志賀直哉論」などは、そのひとつである。

その他のもの、とりわけ彼のデビュー作たる「様々なる意匠」などは、まったくちんぷんかんぷんで手に負えなかった。何度読もうとしても、最初の数行で本を閉じた。だが、やはり小林秀雄は気になる文士だったから、逝去された直後に刊行された「文学界」と「新潮」の追悼特集号だけは、買い求めておいた。四年ほど前か、急に小林秀雄に興味を持ち、本棚の奥の方に赤茶けて収まっていた、この二冊の雑誌を、引っ張り出して、隅から隅まで読み上げた。若い頃は、ほんんど理解不能だった、小林の文章が、少しずつ分かり始めてきた。

若い頃からずっと、わたしは小林より、むしろ宮本顕治の「敗北の文学」に心底から影響されていた。冒頭にも書いたが、小林の文章はほとんど理解できなかったのだ。比べて「敗北の文学」のなんと、分かりやすかったことか。宮本の文章は、若者の革命的ロマンチシズムが満載されていた。革命青年にとって、自殺した芥川龍之介とは、また格好のセンチメンタリズムを満たす材料たりえたということだ。

宮本の「敗北の文学」ばかりは、文学論を読んだというよりは、どうみても勇ましい革命歌でも聴かされていたという気がする。宮本の声は、蛮声ではなかった、知性すら感じさせてくる文体だった。今になって思えば、わたしの場合も、宮本の文体からかもし出される美声に酔わされていたと思うしかないのである。

民衆が新しい明日の芸術を創造する。これは、事実上芥川氏自身が自らに向けた否定の刃(やいば)ではないか。あらゆる天才も時代を超えることはできないとは、氏のたびたび繰り返したヒステリックな凱歌であった。こうした絶望そのものが、「自我」を社会に対立させるブルジョア的な苦悶でなければならない。

この作家の中をかけめぐった末期の嵐の中に、自分の古傷の呻きを聞く故に、それ故にこそ一層、氏を再批判する必要があるだろう。いつの間にか、日本のパルナッスの山頂で、世紀末的な偶像に化しつつある氏の文学に向かって、ツルハシを打ちおろさなければならない。

「敗北の文学」より


こうして「改造」が募集した懸賞論文は、宮本の「敗北の文学」のほうが第一席を得て、小林のものは二席となった。昭和4年のことである。考えてみるまでもなく、これは当時のプロレタリア文学全盛時代の風潮にすぎず、誰がみても小林の「様々なる意匠」の方に軍配を上げるのが当然だろうとは、今になって言えることなのである。

むしろ、端的にはなにを言っているのか分からないという風評だった小林の論文が次席とはいえ入選したことのほうが不思議なくらいだ。右か左か、革命か反動か、はたまた戦争か平和かの二項対立的思考が大手を振って文壇や論壇を席捲していたあの時代に、小林の文章を多少なりとも読み解く人間がいたという事実のほうに驚くのである。

優れた芸術は、常にある人の眼差しが心を貫くがごとき現実性を持っている。人間を現実への情熱に導かないあらゆる表象の建築は便覧(マニュアル)にすぎない。人は便覧をもって右に曲がれば街へ出ると教える事は出来る。しかし、座った人間を立たせることはできない。人は便覧によって動きはしない、事件によって動かされるのだ。強力な観念学は事件である。強力な芸術もまた事件である。

「様々なる意匠」より


小林は「様々なる意匠」を懸賞金ほしさに書いたらしい。原稿は、当時「改造」の社員だった友人の深田久弥(「日本百名山」の著者)に託した。本人は一席当選間違いなしと自信たっぷりで、懸賞金を担保に前借し、友達を呼び集め大盤振る舞いに及んだらしい。小林らしい。結果は、二席ということで、ずいぶん落胆したと聞く。

二年ほど前、とある古書店で「レクイエム 小林秀雄」(講談社 吉田熈生:編)という本を見つけた。この本の中に、小林の訃報に接した時の新聞社の取材に答えた宮本顕治の短い談話があった。

朝日新聞昭和58年3月1日(夕刊)「別々の道でも相交わる一点」 宮本顕治氏(75歳)の話

「改造」の懸賞論文に二人が入選したことなどから、何かにつけて並べて語られるが、小林氏と直接の面識はない。それというのも当時の入選者には、今日のような授賞式めいたものはなく、私は一人で出向き小さな応接室で懸賞金をもらったからだ。文学的デビューで私は社会主義の立場から、彼は近代個人主義の立場からの批評であって、文学的にも社会的にも別々の道を半世紀にわたって歩いたわけだ。戦後、鎌倉の今はなき正木千冬さんが革新市長に立候補したとき、共産党も推したが小林氏らも正木氏の後援会の一員として推していることが分かり、双方の人生に珍しく相交わる一点を感じて感慨があった。いずれにしても、因縁のある同時代人の訃報に接し、さびしい。


昭和58年といえば、宮本も共産党の最高指導者として磐石の地位を築いた頃である。上の談話も、若い頃の原理主義的戦闘的リゴリズムはすっかり影をひそめ、後々、取りざたされないように慎重に言葉が選ばれている。そらぞらしいほどだ。それはよいとしても、自分が書いた「敗北の文学」は社会主義的立場からのものであり、小林の「様々なる意匠」は近代個人主義の立場から書かれたものだとする相変わらずの短絡的決め付け風思想腑分け作業による概括は、これを聞きつけた小林が草葉の陰で笑らっているに違いない。ましてや選挙の話など、語るに落ちる。

僕が反対してきたのは、論理を装ったセンチメンタリズム、或いは進歩啓蒙の仮面をかぶったロマンチストだけである・・・「中野重治君へ」小林秀雄

<2007.08.25 記>

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