赤いハンカチ

夏草やつわものどもが夢のあと

▼ニコタマ散歩

2012年09月28日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

秋めきて、今日は二子玉川あたりを散歩した。

いわば、ここは都県境で、多摩川をはさんで、東京と神奈川が接している。

考えてみれば、拙者のばあい、ここいら付近で生息しつつ早、うん十年がたつ。

そろそろ、多摩川にも、あきあきしてきた。

どっか、もっとええ安くて住みやすい処はないものか、などと愚考する。

ちなみに、昔っから変わり者として世間で呼ばわれてきた拙者のばやい、とりわけ例の3.11以来、放射線量が多少高くても、家賃の安いほうが老後の安泰のためには、そりゃ、いいに決まっているという人生的方針をとっている。

それにしても、引越し代も馬鹿にならない世相となった。

そうは問屋も卸すまい、あせ あせ・・・・

2012.09.28 世田谷区二子玉川

 

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▼トンボのめがねは水色めがね

2012年09月24日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

2012.09.24 横浜市

トンボのめがねという童謡がある。いまや30年ほど前、保育園に通っていた長男が、なにより大好きな歌で、連日連夜、親子ともども大声で歌っていたことを懐かしく思いだす。

http://www.youtube.com/watch?v=4xI7fD1_US4

さて、歌詞に「トンボのめがねは水色」というくだりがある。ふと混濁してしまった。水色とは、何色のことだったのか、と。恥ずかしながら、水色という言葉を忘れていたのである。では、その水色を、別の言葉でなんと言ってすごしてきたのかさえも、確たるところは思い出せない始末なのである。もちろん、よくよく考えてみれば、水色はやはり水色なのであって、不審はぬぐえた次第だが・・・・・。

昔は、色を表す日本語そのものの言葉が、何十通りとなくあった。それで、色を知り、色の区別をつけてきた。現代はどうだろう。いまや、おそらく、すべてがカタカナ語に置き換えられてしまった。わたしは、日本語で教育されたと、思っている。それが血肉となっているから、カタカナ語で言われても、何色のことなのか、とっさには分からないことが多い。いっそ腹がたってくるときもある。

私が知っている、色の数々は以下のごときものなりけりや。

トンボのめがねは水色をはじめ肌色桃色桜色 だいだい色にみかん色 ねずみ色なるみどりの黒髪 血色がいいか悪いか黄金色 赤銅色に日焼けして、うすみどり きみどり 深緑 とうとうの色々なれど これみな麗しい日本語だ。

そして、これらの言葉を世に復権させたいと、強く思っている。

それよりなによりカタカナ語による色いろなれば、使いたくても使えないというのが、わたしの頭の構造だ。やれスカイブルーだとか、ピンクだとか、なんだとか。こんなうすっぺらい言葉は、拙者にとっては、色でもなんでもないと断言しておく。

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▼センチメンタルな風評加害者

2012年09月19日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法

以下、教育年金掲示板より

  さて、福島第一原子力発電所の事故から1年半がたった。そこで、以下は多少の皮肉まじりに言うのだが、世界はますます、日本と日本の原子力技術に賞賛の雨あられだと聞く。

 あれほどの事故なのに、人っ子一人被曝したもの無し。家畜、ペットはピンピンしている。恐れ多くもメルトダウンしたはずなのに、その後、大爆発したという噂もきかない。日本の原子力行政は、たいしたものだ。アジア各国から、日本の原発技術を導入したいと、われもわれもと引く手あまたの状態らしい。

 問題は、ここでもやはり明けてもくれても、西洋風な理知的なるこそ、めでたけれ方式の一本やりでやってきた戦後世代の教条主義者らによる、オカルトじみて、かつセンチメンタルな終末思想だ。

 朝から晩まで、戦争反対、原発反対を叫んでは、憂さを晴らしている・・・つもりになっている、すっかり洗脳されきって、自分の頭では、何一つものを考えられない、愚民衆愚の群れである。

 結局、彼ら戦後衆愚が、脱亜入欧じみた、理知的に装うわれたる、それらのスローガンを、わめけばわめくほど故郷を後にして避難しているフクスマ県人のの、とりわけ農作業を生業とする民人は、いつまでたっても成り立ちいかず、右往左往するばかりで、懐かしい故郷に帰るに帰れないのである。

 風評こそ、怖いものはない。

 フクスマ県人をいじめているのは誰なのか。

 きゃつら戦後民主主義の洗礼に及び、なんぼ年をとっても憲法9条の戦争放棄こそ世界常識だなどという、メルヘンチックな刷り込み状態から目を覚まさない小児的イデオロギーに頭がやられたアンポンタンの愚民衆愚の群れ。

 こいつらが垂れ流す念仏風の題目各種を見てみるに、ことさらに福島事故を大げさに、いいつのる。歴史的な大惨事だとか、史上かつてない大事故だと。二度と戻らない福島の土地暮らし。フクスマの空には、今でも大量の放射能が降っている。泣いても笑っても、もっフクスマは取り返しがつきません。放射能ほど恐ろしいものはあるません・・・等々とうとうの、デマを流すに見境もない。

 海の向こうでは、動員費と弁当と投擲用に使うウーロン茶のペットボトル、さらに毛沢東の写真、その他デモ用の七つ道具を手渡され、共産党農民支部によって必要なる員数を、急遽かき集められ公安当局が用意した団体バスに押し込められて、「日の丸」憎しの暴力的デモに参加する上海北京近郊の中国青年団にとっても、閉経後のなにすることもなく、やるせない「わたしの恋人はテレビとコンビニ」などと豪語して、長寿系の閉じこもり生活を送る、わが町の日の丸おばさんにとっても、ネットとは至極便利なものである(笑)。

 ようするにだ。東京の田吾作新聞をはじめ、君たちこそ胸に手を当てて、自らの来し方なりその言動を、よくよく考えてみたまえ。

 自分たちの言動が、いかに、ある特定者らの幸福を阻害し差別しているのかを。

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▼屋根の向こうで夏が終わった

2012年09月19日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

2012.09.19 川崎市

 

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▼花壇の向こうの残暑の中で Ⅵ

2012年09月19日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

2012.09.19 川崎市

 

 

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▼中国青年団のデモに見る民度の低さ

2012年09月18日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法

以下、教育年金掲示板より

 

泥炭氏は次のように書いている。

------------------
>日本には過去に於いて中国領土を侵略し、台湾や満州を略奪した歴史があります。 中国人の中には、尖閣諸島の問題もまたその繰り返しと感じる人が居ても不思議はありません。
------------------

なんとかの一つ覚えのように、あなたはいつも繰り返すが、端的に言って、日本国とその政府は、中国に対して、具体的にどうせよと、言うのですか。わたしは、中国に対する「戦争責任」は、十分に果たされていると思いますよ。

いろいろあったが、両国折り合って、これからは仲良くやりましょうと、すでに田中角栄首相時に、日中の国交回復が宣言されているのは、いくら馬鹿でも、覚えているでしょう。その他、なにをどうすれば中国側は満足するのですか。

彼らの中には琉球まで、中国のものだと叫んでいるような者まで現れてくる始末。琉球の場合も、黙って、中国に差し出さなければならないのですか。

そのうち、九州も中国のものだと、いい出しかねない。第三次元寇が、長崎あたりに、さび付いた漁船数千隻を用いて、押し寄せてきかねまい。

大戦時の中国が、日本にやられた屈辱を思えば、仕方ないと、黙って指をくわえてまっているのが、平和国家のあるべき姿でしょうかね。

それにしても、この間の中国各都市における反日デモというものには、おどろきました。ま、かれらの民度というものが、遅れているのでしょう。

安保闘争時の、すなわち半世紀も前の、わが国の青年団活動にそっくりです。中国の民度と民主主義というものは、だいぶ遅れているようですね。

議会闘争や政党間の言論闘争というものが、皆無だからでしょうね。政治的民主主義の経験が薄いまま、ネット社会に突入してしまった。それが中国の現状のようですね。

相変わらず人海戦術、それだけ。日本企業の事務所や工場を打ち壊したり。この国の実情たりや、聞きし勝る、ずいぶんと野蛮な国のようですねぇ。

彼らの民度は、わが国などからは、半世紀以上は遅れていますね。

テレビで見るに、デモ隊の中には大きな毛沢東の写真などを持ち歩いている輩もいるが、まるで紅衛兵の再来ですよ。

それにしても、なぜに、あの国は、ああもオカルトっぽいのか。単純なナショナリズムでは説明もつきません。

脳の足りない有象無象が集いあったといっては中国の青年男女に失礼かもしれないが、わたしには、そうとしか見えない。

不平不満のやるせない若者たちが寄り集まって、民族的劣等感を発散しているだけじゃないか。安保闘争が、そうであったようにだ。

実に、くだらない青年団の練り歩き風情。あれはそのまま失業者のデモと言っても、なんら語弊もあるまい。

まっ馬鹿にしたものでもないだろう。デモでもやれるのは、そこそこ元気な証拠だと、多少は中国青年団を誉めておく。

日本の青年団も少しは、中国青年団の元気なところをみならってほしい(笑)。

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▼「めかけ根性」の日の丸君が代青年団

2012年09月18日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法

以下、教育年金掲示板より

>【小国日本】の繁栄に日米安保条約は必須だったのか?

当時、すなわち敗戦直後の世界地図を開いてみるに、日本の選択は、これしか、なかったと思います。確信を持って、そう言います。

米国と単独講和する以外に、日本国を独立させる道はなかったのです。

以後、日本は、アメリカの半植民地だとか、アメリカに従属しているとか、いろいろ言われましたが、どう考えてみても、アメリカの言うとおりに、する以外に、日本は国体を守って、それなりに独立し、戦後の復興に向かっていく道は完全に閉ざされていたのです。

憲法第九条は戦争放棄の宣言であり、みずから武力を持たないことを誓っています。これは日米安保条約が、見事に担保してくれているではありませんか。日米同盟がなければ、憲法の第九条は、その意味が成り立たないのです。米国に守られている軍事的担保があって始めて第九条が内容が納得できるのです。

戦争反対を叫ぶ、青年団諸君に聞きたい。

武力を持たずに、どうして領土を守れますか。自らは非力なばら、強大な同盟国に助けを求めるのは、倫理に反するとでもいうのかや?

それも約束上(日米同盟)、そうなっていると言うなら。何をかいわんや。

日本に武力を持たせず、日本を守るとは米国の発案だったのではないのか。

その上での憲法と安保条約だ。見事なる表と裏のワンセットだ。

もちろん、今となっては、それは「めかけ根性」もよいところだろう。明けてもくれても、おねだり精神の奴隷根性にまい進する日本青年団。

これ日本の青年団諸君よ。日米同盟が嫌だと言うなら、いっそ憲法こそが、おかしいと、どうして、そこに気がつかないのかね。自立心のない日本の青年団だ。

そこで泥つぁんに聞くのだが、力を用いてくる相手に、どのように対峙できますか。一所懸命に説得している間に、うるせいじじいだぁ、なんぞと、弾丸一発、ぶちこまれかねない。

暴力は反対だという正論が、暴力の前に、何の役にたちますか。

いずれにしても、敗戦後から日本を守るという、この確信が、日本人の精神の中で、どうでもよいのなら、もはや地球上に日本は存在しないのである。

いつからでも、そうなっていた。

敗戦後、米国との単独講和にいたらなかったら、どうなっていたか。天皇は退座するのは、もちろん、列島はずたずたに分断されていたに違いない。北海道はロシアのものだ。これはかなりの信憑性がある。九州はもちろん、沖縄あたりは、すべてこれ中国の領土と、なっていたかもしれない。イギリスやフランスがしゃしゃり出てきて、香港の例を見るまでもなく、やれ東洋のナポリたる熱海は百年借款だ。やれ京都はフランスのものだぁ・・・とうとう言われかねない。こうしたことも、かなり現実味を帯びていたのである。

中国の青年団が中国という国を守りたいようにだ。国土国益を守りたい気持ちに、なんの変わりが、あるものか。

わたしは日本人だ。日本人として生き、死んでいくつもりだ。拡大したいとは思わないが、今ある国益を守りたいと思っている。そのために、中国の青年団と、少々争うことがあったとしたら、進んで争いたい。もちろん言論を通じてのみだ。足腰が弱ってきたので、鉄砲もって、行軍しろなんぞと命令された日には、ハワイにでも亡命しかねない。体を張るのは、若い人たちお願いしたい。

諍い、争い、小競り合いが、それほど嫌なら、部屋に閉じこもって、黙りこくったまま、余命いくばくもない、余生を庭いじりでもやって、過ごせばよいだけの話だ。足腰の立たないような老人に対しては、国民は誰も、文句はいわないだろう。

 

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▼花壇の向こうの残暑の中で Ⅴ

2012年09月16日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

2012.09.16 川崎市

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▼東京の田吾作新聞より

2012年09月16日 | ■政治的なあまりに政治的な弁証法

9月15日の東京新聞の田吾作君は次のように言う。

「私たちは福島の事故で思い知らされた。汚された国土、国家のうそ、生命の軽視・・・」

わたしは、それは違うと思う。

たしかに事故は事故だが、その後の人間の有り様、地域の有り様、国家の有り様こそが問題だ。

「汚された国土」?

だが、それを言うなら日常茶飯事のことではないのか。

放射能だけが、悪いのか。

温暖化はどうした。交通事故はどうした。

いじめ問題は、どうしてくれる。

誰が福島事故後、うそをついたのだね。

誰が、その後、生命を軽視していたというのだね。

デマカセじみたバカなことばかり言うものではあるまい、これ、東京の田吾作新聞よ。

美辞麗句のセンチメンタルな文言で衆愚愚民をだまくらかせると思ったら、大間違いだ。

これ東京の田吾作新聞よ。

再度言うが、東京の田吾作のばやい、福島は「汚された国土」であり、二度と元には戻らないという主張なのかね。

わたしは、そうは思わないぜ。

福島は、多少の放射線量にやられても、君の言うようなたわ言ごときで、福島の自然的本質は、事故前から何一つ変わっていないと思う。

福島は、海あり山あり泉あり。

福島ほど美しい日本の国土を象徴している土地柄もあるまい。

不肖なる、わたすにとっては、事故前事故後もありゃしない。

寝ても覚めても会津は磐梯山の相馬盆歌。

ああー

思い出すなら、こりゃ 飯盛山の白虎隊

ああ~

踊り踊るなら、相馬の盆歌

と、きたものだ。

以下は、わたしの直覚だが、「原発ゼロ」というスローガンも、やがては、憲法9条と、同じ道をたどるような気がしてならない。

あまりに空疎な文言だと思う。

東京の田吾作君は原発ゼロは倫理の問題だと主張するが、国民生活の現実も、国家の現実も無視されている。

ごたいそうな概念に結び付けて、いよいよ原発を悪者にして満足しているようだが、倫理なんぞをいくら高く掲げても、実際的世情の前には、ひとたまりもあるまい。

「原発ゼロ」という掛け声は、わたしには偏狭な、ある種のイデオロギーのようにしか見えてこない。

憲法9条の「戦争反対」条項も、実際には口先だけのことであり、その内実たるやクソの役にもたたない、反古化された美文にしか過ぎないようにだ。

 

2012.09.15付 東京新聞より

それが証拠に、見よ。次の日の田吾作新聞を。

舌の根もかわかぬうちとは、このことだが、政府に文句を言っても始まるまい。

美辞麗句と見れば崇め奉ってやまない田吾作君の幼稚な教条主義的習性が、現実政治の前では、なんとも太刀打ち行かないということを示しているのである。

 

2012.09.16付け 東京新聞

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▼花壇の向こうの残暑の中で Ⅳ

2012年09月15日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

2012.09.15 川崎市

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▼昨夜は本屋の書棚の前で

2012年09月14日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

2012.09.13 横浜市

 

 

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▼花壇の向こうの残暑の中で Ⅲ

2012年09月14日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

2012.09.14 川崎市

 

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▼花壇の向こうの残暑の中で Ⅱ

2012年09月12日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

2012.09.12 横浜市

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▼花壇の向こうの残暑の中で

2012年09月10日 | ■日常的なあまりに日常的な弁証法

2012.09.10 川崎市

 

 

 

 

 

 

 

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▼小沢田吾作動向

2012年09月07日 | ■小沢一派とその仲間たち

毎度毎度のコピッペで、申し訳ないが、ついさきほど見た以下の記事には大笑いだ。これ田子よ、お前の墓場行きもいよいよだ。この金の亡者の焼き鳥好み。金で雇った子分を引き連れどぶ板作戦。トーホグ岩手の選挙っ屁。出来損ないの世襲豚。ポピュリズムの大判振る舞い。右も左も見境なし。数の論理の豚野郎。逃げた女房にゃ未練はないが、票をほしがる子分が可愛い。金はたんまり朝から晩まで金庫番。めかけに産ませた隠し子騒動。何一つ取り柄もない、この豚野郎の本質は戦後自民党の悪いところばかりうけついできた旧自民党の中の旧自民党。

民主岩手県連、生活を提訴へ 移動した資金の返還求める

2012年9月7日(金)21:23  <朝日新聞オンライン>

 民主党岩手県連管理の資金4500万円が、国民の生活が第一(生活)の所属議員の資金管理団体に移されていた問題で、民主党県連は生活側を相手取り、全額返還を求めて訴訟を起こす方針を固めた。民主党分裂騒動は、ついに訴訟に発展することになった。

 民主党県連によると、7月3日、所属議員だった菊池長右エ門衆院議員(比例東北)側に2500万円、佐々木順一県議側に2千万円送金された。8月、民主党県連の県議らは、生活入りした菊池氏の国会事務所を訪ねて、全額返還を要請。しかし、後日、「4500万円は生活県連の口座に振り込む予定」などと返還を拒否する文書が届いたという。

 その後も進展がなかったため、提訴することを決めた。党本部からも了承を得た。県連内部には、警察への被害届提出を求める声もあるという。

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